John Coltrane / Giant Steps ( 米 Atlantic 1311 )
1958年に最初のピークを迎えたコルトレーンをまるで待ち構えていたかのように、翌年になると重要な録音が2つ続くことになる。 1つは3~4月録音の
"Kind Of Blue" 、もう1つは5月録音の "Giant Steps" である。 前者はジャズの歴史の潮目を変え、後者はコルトレーンの音楽の方向を変えた。
おそらくは本人ですら想像もしていなかった方向へと。
時間の流れの中で見てみると、このアルバムはそれまでの作品とはまったく異質な内容で、これ以降もこの路線に続くものは見られない。 あまりに
突然現れたという印象だ。 そういう意味で、このアルバムは自身の音楽観の移り変わりの中で自然に出てきたというよりは、ある特定の意図をもって
作られたんじゃないかという気がする。
この演奏を聴いていて感じるのは、この背後に積み上げられたであろう膨大な練習量だ。 もはやその場のアドリブというよりは、事前に準備されて
練習し尽した既定ラインの披露という感じだ。 そう思わせるくらいかっちりとし過ぎているので、何だかジャズっぽくない雰囲気すら漂っている。
なぜここまで完成度の高さにこだわったのか。
私にはこのアルバムの背後にソニー・ロリンズの姿が透けて見える。 ロリンズのサキソフォン・コロッサスも恐ろしい程の完成度の高さを誇るけど、
このアルバムと同じようにあまりにかっちりとし過ぎていて、そこが面白くない。 ただ、ロリンズの方はその背後に周到に用意された準備の跡は
感じられない。 あくまでもその場で自然発露的に演奏されていて、そこにロリンズの怖ろしさがある。 一方、コルトレーンは自分がそうではない
ことがよくわかっていたから、あのアルバムに匹敵するものを作るには念入りな準備と気の遠くなるような練習が必要だと考えたのではないか。
サックスの吹き方もロリンズに似た箇所が幾度となく出てくる。
それまで散々演奏が下手だと叩かれて悔しい思いをしてきた彼には、思うように吹くことができる今こそ、過去の自分を清算する必要があった。
そのためには自分の永遠の憧れであるロリンズの、あのアルバムに匹敵するものを作る必要がある。 そこで演奏不可能と思われる曲を書き、
それを難なく吹けるようになるまでひたすら練習し、満を持してトミー・フラナガンを連れてきたのだ。 そういう戦略に沿って作られた非常に
特殊なアルバムだったのだと思う。
インパルスに移った後はもうここで演奏した曲は顧みることもなく、コルトレーンにとっても一過性の作品だったことは明らか。 インパルス期の
アドリブ全開のスタイルでこれらの楽曲をやらなかったのは、コルトレーンの意識の中には元々ここにはアドリブの要素が希薄だという感覚が
あったからではないか、と邪推してしまう。 それほどここには一分の隙も見られない。
このレコードは貧弱な音でしか鳴らないアトランティック盤の中では珍しく楽器の音がクリアで高い音圧で鳴る。 尤も空間表現は全くダメで、
立体感や奥行きを感じることはできないけれど、それでもこのレーベルとしてはまずまずの部類に入る。 CDもまずまずの音で聴くことができるから、
元の録音が良かったようだ。 アトランティックはカタログ内容は非常に立派だが、そういう面では面倒臭い。