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今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

『屍鬼』~疫病の怪物

2011年01月12日 | 思考の遊び(準備)
【元型】【疫病の怪物】



今期アニメで『屍鬼』(原作・小野不由美)を観ていました。ある隔絶された村に原因不明の死の病が襲いかかる。次々と死んで行く村人たち。しかし、その原因は一向に分からない。しかし、その災厄は村に不似合いな洋館が移築されて来た時期と……いや、ネタバレしないと本題に入れないので言っていまいますが(汗)屍鬼と呼ばれる“吸血鬼”たちが、隔絶された村を一族の根城~安住の地にしようと、浸蝕をはじめる『物語』です。

その物語の顛末や感想は、また別の機会とします。ちょっと、ここで書き留めておきたいのは、ここで登場する吸血鬼“屍鬼”たちの振る舞いは死霊(ゾンビ)的であり、かつ疫病的な存在として描かれていたんですね。僕がこのブログで何度か書き留めている、疫病という恐怖の元型(アーキタイプ)である所の“吸血鬼”の形にかなり近い形で描かれていたと言えます。
吸血鬼という一族を、突き詰めて考えて行くと、未知の領分に置かずに既知となり得るものとして捉えて行こうとすると、かなり必然的にこういう生態になってくるだろうなとは思うんです。
【『ホワイト・ゾンビ』最初のゾンビ映画~疫病の怪物】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/84c6a57a82bd47c4876b63a5a82fe6d7

それまで呪術によって使役される人形だったゾンビが、自律性と噛むことによって仲間を増やすという繁殖性……繁殖性というより“疫病性”なんだと思いますが、そういう吸血鬼の特性を持つことで、恐怖映画の一大ジャンルにまで成長しています。
つまりここで言う吸血鬼は疫病~黒死病を持ち込む妖怪としての吸血鬼であり、キャラクター化したドラキュラは、また別の存在という考え方をします。その意味で言えば本来のブードゥー・ゾンビも、魔術師のガジェットとしての存在であって、両者は、今述べている眷属性なるものからは遠い存在でしょう。



『屍鬼』の中で、屍鬼という存在は、人間の体組織そのものを造り替えてしまう奇病(?)として存在します。襲って血を吸い尽くした者の中で何人かが“起き上がり”、その起き上がった者は同じく吸血鬼として生きる事になる。やはり、この症状は疫病の恐怖と密接に関わっていますよね。
いや、この話自体は、ものの本とか読むと普通にその起源の有力な仮説として書いてある事ですけど、これがブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897年刊行)という“ダーク・ヒーロー”の登場で、一気に世間のそのイメージは書き換わってしまう。そして、本来的な疫病の恐怖という『元型』は、ゾンビが継承して行っている…とそういう物語を絡めた起源を追っています。(まあ、そのゾンビも本来の意味~おそらくは昏睡者の使役魔術のようなもの~から離れた存在のようですが)

もう一つ。この怪物が持っている最大の特徴の一つである吸血ですが。日本だとあまり聞かない怪物の“症状”と言えると思います。吸血をする怪物がまったくいないわけではないでしょうが、あまりポピュラーではないはずです。(吸血と非常に近しい行為と取れる、屍食する怪物はいますが、これは今回はちょっと置いておきます)

これは、やっぱり吸血鬼という怪物を生んでいる疫病は、もう、ずばり、かつてヨーロッパで猛威を振るったペストそのものと言う事だと思います。一方、日本には明治時代までペストは侵入して来ていない。しかし、長らく天然痘には苦しめられてきた歴史があって。即ち日本には“ペストを具現化”した怪物はいないけど、“天然痘を具現化”した怪物はいるはずじゃないかと思ったり。…ちょっとWikipediaから、ペストの症状と、天然痘の症状を引用します。
◆腺ペスト
リンパ腺が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も普通に見られる病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓や脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、多くは1週間くらいで死亡する。死亡率は50から70パーセントとされる。

◆ペスト敗血症
ペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、皮膚のあちこちに出血斑ができて、全身が黒いあざだらけになって死亡する。ペストのことを黒死病と呼ぶのはこのことに由来する。

◆天然痘
発熱後3~4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
7~9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。

…ふむ。吸血という行為にどういう意味があるのかと言えば、身体に直接的な損傷を与えず、しかし、内部からぼろぼろにされて行くという、その死に方の表現なんでしょうね。まあ、実際、ノミの吸血から感染しているようですし、その刺された箇所が腫れていると。うん、完全に吸血鬼だ。(`・ω・´)(←誘導注意)

一方、天然痘はああいう感じ………いや、ここで天然痘の怪物を探り当てようという行為は後回しにして置きたいですが、ぱっと思い立つ事としては、日本だとこういう「よく分からなくって、怖いもの」というのは何でも“鬼(おに)”のカテゴリとして処理している印象があります。返ってヨーロッパだと「よく分からなくって、怖いもの」は“ヴァンパイア(吸血鬼)”の眷族の扱いを受ける印象がある。…こういう混沌とした中から疫病の怪物という視点だけを抽出してその該当を抜き出してくるのはちょっと無理かも…という気もしないでもないですねえ…(汗)

……さて、長々書きましたが、LDが一体何をやっているのか?と言うと(汗)まあ、最近、僕の観える物語界隈でゾンビと吸血鬼が妙に流行っているな?って事があって、その意味を考えたい(想像して愉しみたい)ってだけなんですよね。
この現象を象徴的な何かと捉えるとして、その起源はやはり疫病(ペスト)の恐怖を具現化(元型化)した存在に思えるんだけど(元型の一つとして考えたいという目論見もあります)、現代人のように『物語』を楽しむ余裕があり、かつ、疫病の恐怖を相当に忘れる事ができる先進国の人間に、この元型が残っているとしたら、それはどういう意味があるのか?…てな事を考えたりしています。一定の答えに到達するかどうかは、全く分かりませんが(汗)時々、こうやって書き留めておきます。


屍鬼〈1〉 (新潮文庫)
小野 不由美
新潮社

屍鬼 4(完全生産限定版) [Blu-ray]
越智信次,小野不由美,杉原研二,童夢
アニプレックス

ヒーロー/ヒロインの呼称の整理~追記

2010年11月12日 | 思考の遊び(準備)
【ヒーロー/ヒロインの呼称の整理】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ecf949bab245a54996311a5fab0b7db0

 男性女性備考
物語主人公ヒーロー《主人公》ヒロイン《主人公》・この場合のは物語主人公のみを指す。
英雄的行動者ヒーロー《英雄》ヒロイン《英雄》※疑義あり・多くは物語主人公を兼ねるが必ずしも物語主人公である必要は無い。
恋愛的主体者ヒーロー《恋愛主体者》?※疑義ありヒロイン《恋愛主体者》・主体者は「受け手」の同調共感するキャラクターを指す。・多くは物語主人公を兼ねるが必ずしも物語主人公である必要は無い。
恋愛的客体者???ヒロイン《恋愛客体者》・客体者は主体者の“相手役”のキャラクターを指す。・主体者の従格キャラクターであり物語主人公とは成り得ない。

さて、いろいろ述べましたがとりあえず解決したい問題は一つ。「恋愛的客体者の男性はなんて呼ぶの?」と言う事です。「ガラスの仮面」の速水真澄とかを何て呼ぶの?とか、「ベルサイユのばら」のアンドレを何て呼ぶの?とかそういう事ですけどね。(↑)上の表の赤の部分が埋まればいんですけと、あと青の部分も検討の上、なにか差し替えたくもあります。僕自身もや~っと漠然としたイメージの中で使っていたので、そこを明確にしたい。…そこで、英雄的行動者の女性は「女ヒーロー」でいいんじゃないの?(ヒロインと呼ぶのは違和感があるから)、恋愛的主体者の男性は「男ヒロイン」でいいんじゃないの?(ヒーローと呼ぶのは違和感があるから)という話が出てくるワケです。

以前、書いた(↑)この記事ですが、ヒルネスキーさんから意見を頂きました。

>>「恋愛的客体者の男性はなんて呼ぶの?」

「コンソート」を提案。
英国女王の伴侶はThe Queen Consortと呼ばれるそうなので。
恋愛的客体者の女性は・・・・・・「コンパニオン」?(嫌だなこれは)
恋愛的主体者の女性は「レイディ」か「デイム」。
恋愛的主体者の男性は・・・・・・「ジェントルマン」?


ふむ……コンソートですか…。辞書を引くと~①(特に王族の)配偶者、②僚船,僚艦,同行船;同僚,仲間③(16-17世紀の音楽の)合奏団,合唱隊;同属楽器の編成~とありますね…。
んんん…どうでしょうね?悪くないかな?少なくとも上に挙げた、速水真澄や、アンドレの事を“コンソート”と呼ぶのは、かなりしっくり来る気がします。僕はあれから“プリンス”…というのはどうにも臭い(汗)ので“王子”と呼んで来たのですが…(←どっちも大差ない件)まあ、苦しくなかったとはちょっと言えない(´・ω・`)

ここでサンプルに『桜蘭高校ホスト部』(作・葉鳥ビスコ)とか、引っ張り出して(←なぜ?)検証してみましょう。



藤岡ハルヒが、物語的には主人公、恋愛的には主体者女性=ヒロインとして…



須王環が、物語的にはメインキャラクター、恋愛的には客体者男性=コンソート…となるのか?また僕の『序列構造』の考え方に従うなら“一位コンソート”と呼ぶのか?



二位コンソート、三位コンソート?(いや、この並びに異論がある人もいるでしょうけど、今回はこの作品の評価が主旨ではないので、その話は置いておきますが)そもそも、このワードに二位とか三位とかつけるのはどうなんだろう?それを言うなら二位ヒロインとか三位ヒロインとか、なんて言うのもそうなんだけど(汗)……(考)…ふむ。客体としてはアリな気もしてきました。そう、この話、気持ちが大事なのねん。

 男性女性備考
物語主人公主人公主人公・物語の主人公としてはこう呼べば総て事足りますよね。
英雄的行動者ヒーロー女ヒーロー・英雄的行動者であれば主人公属性を求めない。
恋愛的主体者(主格)プリンス(主格)ヒロイン・恋愛的行動者であれば主人公属性を求めない。
恋愛的客体者(従格)コンソート(従格)ヒロイン・客体者は主体者の“受け手”、“相手役”のキャラクターを指す。

※英雄的行動者女性を女ヒーローと書いていますけど状況に応じて“女”は外してもいい気がします。多分、通じる。

前回の表を修正すると、こう。あと、恋愛的主体者の男性の方ですね(ジェントルマンは……ちょっとダメかなw)。…とは言っても“主体者”って大抵主人公で、主人公視点がないのに(明確に)“恋愛的主体者”であると認識される状態って、プレイボーイ(?)とか何か別の言葉を用意できるはずなんで、それほど使う局面は無いかもしれませんね。(※ちなみに主体者には一位とか二位とかつきませんね。主体者なので。ついたらそれは客体化されている)
まあ、当面、こっちはプリンス/王子のまま行ってみましょうか。対の恋愛的主体者女性も、プリンセス/姫とか言う方が表的には座りがいいのかもしれないんですけど、こっちは無理にいじらなくてもいいかなと。

いや、僕の文章中の中だけの取り決めですけどね。(`・ω・´)

戯言シリーズ~西東天の物語

2010年10月24日 | 思考の遊び(準備)
【メタキャラクター】

【戯言シリーズ@漫研ラジオ】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636

・ハイライト【西東天の物語】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636/highlight/111140
・ハイライト【いーちゃんの物語】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636/highlight/111121

※ネタバレ全開で書きます。…といってもミステリーのタネに触れる必要はないかな?



【【メタキャラクター】戯言シリーズ~いーちゃんの物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ea4f6d21ad008b0fd9a095766dfaed56

(↑)前回の続きです。戯言シリーズのもう一人の雄とも言うべき“西東天”(さいとうたかし)について語って行きたいと思います。前回の話の冒頭で『戯言シリーズの不思議さ』と題して、僕は敢えて(というか素直な実感として)このシリーズを「何をやりたいのかよく分からない話」と評しました。繰り返しますが、これ、どうなんでしょうね?他の方々の感想は?(いや、批判を展開するつもりはないので、悪しからず読み進めて下さい)

僕としては、最初のブランクな感想としては、戯言シリーズは非常にカオスで、不明な設定が多く、曖昧で、テーマそのものを測りはねる、あるいはどこに行くか分からない展開そのものをテーマとしているような、そういう印象を持ちました。
…それを、メタ視点/『メタキャラクター』という“視点”で選り分ける事によって、ある程度、その形が観えるようになってくるという話を今からしようとしているワケですが、それが無いとあんまり解けないというか、かなり不思議なだけの物語に見えてしまう気がしてしまうんですが…どうなんでしょうね?

その戯言シリーズの展開の分からなさ、目標の分からなさを生み出している大半の原因は“西東天”というキャラクターが持ち込んでいると言えます。いや、そもそも、西東天が現われるまでは展開の分からなさみたいなものはないんですよね。設定の分からなさはある。それは物語の最後まで分からなかったりするんですが、それは“いーちゃんの物語”として隠されているもので、その物語の在り方は前回話しました。

繰り返しますと「何故か行く先々で殺人事件に巻き込まれてしまう」という“推理小説の主人公”の設定を背負った主人公・いーちゃんが~推理小説である以上、その潜在設定は読者にとって突っ込む必要も無い程、当たり前の事象としてスルーされているんですが、まともに考えると、この設定を背負わされたキャラクターは堪んないよなって話ですが~その設定を心的に克服して行く物語というのが観える…というのが前回の話なんですが、その“文脈”をほとんど顧みずに乱入し、“展開の分からなさ”を持ち込んだのが西東天というキャラクターと言えます。

■“物語の遊び人”西東天



ここで、西東天という物語のあらすじを追ってみます。

1.『ヒトクイマジカル』で初登場。匂宮理澄に零崎人識の足取りを調査させている人物としていーちゃんと邂逅する。
2.突然、いーちゃんを“俺の敵”と見定め、狂喜する。
3.十三階段(西東天の部下)を招集し、様々な手段でいーちゃんを挑発し、追い詰める。いーちゃんに敵対を余儀なくさせる。
4.対いーちゃん用の切り札であった、想影真心に逃げられる。
5.ここで突然、投了を宣言。いーちゃんとの戦いを集結させる。
6.哀川潤と想影真心を再戦させたらどっちが勝つか?といういーちゃんの賭けを受ける。
7.十三階段を解散
8.哀川潤vs想影真心を見とどける。そして終幕。

…ぱっと見、「お前、一体なにしに来たんだ?」と言いたくならないでしょうか?wいや、多分、西東天は“そう突っ込まれよう”として作られたキャラだと思うんですがwそれでも、いーちゃんを“俺の敵”と見定める時の、西東の喜び方といったら、そりゃなかったもので、宿敵が復讐相手を見つけた時のようだった。
それが、数手チョッカイを出してみた所で、すぐに、駄目だとばかりに「投了宣言」……そうですねえ、想影真心が逃げたあたりでそう思ったみたいですから、将棋とかにたとえると、数手進めて形勢が悪くなったら「あ~負け負け!」とばかりに駒を放り出してしまった感じでしょうかw
…じゃあ、あの時の仇敵に対峙した時のような狂いっぷりは何だったの?そんなあっさり、諦められる事で、あそこまでやったの?と不可解な気持ちはどうしても出てくると思います。これは何を指しているのか?

また、西東天にはもう一つ謎があって、彼の目的が「世界の終わりを見る」事である事は、様々な局面で語られているのですけど、それは一体何の話しをしているのか?何故、いーちゃんと戦う事が世界の終わりを見る事になるのか?これが、西東天の最大の謎で、これをどのように解釈するかによって、西東天というキャラクターの観え方が分かってくると思います。

ここで結論というか、この話をはじめた時から言葉に出している事なんですが、西東天が『メタキャラクター』だという捉え方をすると、彼の動作が(ある程度)観えてくるようになると思います。
先に断っておくと、戯言シリーズをはじめ西尾維新先生のキャラの中にはメタ的な視点や発言をするキャラクターは山ほどいます。そうじゃないキャラの方が珍しいくらいです。それらを総てメタキャラクターと言う事もできますけど、ここで言う『メタキャラクター』とは、その視点を行動に変えて、物語の展開を大きく変えたと解釈されるキャラクター…という言い方になります。
具体的には西東天はそのメタキャラクター性をもって戯言シリーズの主人公である“いーちゃんの物語”をある程度、ねじ曲げてしまっている。だから戯言シリーズは「よく分からない話」になっている…というのが僕の“解釈”で、その解釈に従って、今の話を進めています。

西東天のメタキャラクター性は作中の表現でも様々な局面で確保されています。
「……そんなこと、できるんですか?その仮説が正しいとするなら、物語、世界の外に出る事、自体が難しいという気がしますけど」

「難しい………が、不可能とはいえない。否、俺はもうほとんど、その外側にいると言ってもいい存在さ――


俺は既に、因果から追放を受けた身だからな。


――精々、お前みたいなお兄ちゃんとこうして会話する程度のことしか、物語には参加できねえんだよ。中途半端で、曖昧なのさ」

(文庫版『ヒトクイマジカル』P.209)

「あなたは昔、物語に逆らったんですか?だから、因果から追放を受けたって…そういうことですか?」

「まあね。ちょっとした手違いで。、あわや因果を、本来的に壊しようがないはずの因果を、ぶち壊してしまうところだったんだ。神殺しは楽園追放と相場が決まっているからな。…ふん。今から思えばありゃ考えの浅い行為で、それが今も尾を引いているわけだが――俺はそれを若気の至りとは思わない、あのときやってなけりゃ、今同じことをやるだけだろう……バックノズルだな」

(文庫版『ヒトクイマジカル』P.210)

…ここらへんが代表的でしょうが、他にも西東天は“この世界”を物語として捉えて説明するような場面が多々あります。(二年後に死ぬ事が絶対予言されていたキャラ姫菜真姫が西東に前倒しに殺されるのもメタキャラクター性の顕れじゃないかと思います)つまり物語上で承認された『メタキャラクター』という事ができます。…“メタ”という語義を考えると、物語上で承認されたメタ~なんて物は矛盾する言葉なんですが、まあ、ここでは流しておきます。
※…いや、やっぱ、少しだけ語りましょう(´・ω・`)西東天が「俺は因果から追放された身だ」と宣言する上の引用文ですが、よくよく読むと(それが)“不可能とは言えない”とか“ほとんど”とか、“中途半端”とか、この主張の断定を打ち消す言葉が添えられている事に気づくと思います。
これは『メタキャラクター』が持つ、ある種恒常的な問題で「描いた時点でメタじゃない問題」と言いましょうか。西東天がいくら「因果から追放された。物語の外へ出た」と宣言しても「いや、今、現にいーちゃんと話して因果を紡いでるじゃん?物語に登場しているじゃん?」というツッコミからは逃れられない。西東天が「物語の外側にいるキャラ」である事をデザインしても、それが宣言された瞬間、それは物語内のキャラという事になってしまう…という問題ですね。
まあ、この問題は難しいので、ここでは置いておきます。というか、何であれ、西東天がそうデザインされたキャラだと言う事はできると思います

そうして西東天が『メタキャラクター』であると、そういう視点を持って、かつ行動するキャラクターであるという視点を確保すれば、西東天の言う“世界の終わり”という意味が明確になってくると思います。
西東天の言う“世界の終わり”とは何か?そしてなんで、いーちゃんと敵対すると、その目的が達成されるのか?それは「この世界がいーちゃんの物語として成り立っていて、いーちゃんがこの世界の主人公」だから、彼と関わると“世界の終わり”が見れると…そう、西東天は考えたのではないでしょうか?

…なんかえらく引っ張った書き口になってしまいましたが「え?そんな、ことは分かってるけど?」みたいな感じですかね?(汗)いや、まあ、話を続けます。
読んでいると、最初どうも西東天はいろいろ情報を精査した所で「この世界の主人公は、零崎人識って奴かな?」というあたりをつけたように思えるんですよね。(その後、人間シリーズで主人公になりましたがw)だから十三階段の匂宮理澄に、人識の調査をさせて死んだと分かると「残念だ」と感想を漏らす。
その後、いーちゃんがこの物語の主人公だと分かると、突然、狂喜して次に“俺の敵”宣言を下すんですよね。この二つの場面の西東のセリフ、下に引用します。最初は人識へのセリフ、次はいーちゃんへのセリフ。ここ、西東が物語から追放されて、それでも物語(世界)の終りを見ようと、主人公を探し続けていた…と捉える事によって、そのセリフの意味する所がよく分かるようになると思うんです。
「『お友達か何かで』。ふん、全然知らない奴さ……全然知らない。会ったこともない。ただ、ちらっと話を聞いてみればちっと面白そうな《運命》を持っている奴だったんでな、かかわってみようかと思っただけ…死んでるならそれは不可能だからどうしようもない」

(文庫版『ヒトクイマジカル』P.196)

「お前が正解だったか!前に会った時もまさかとは考えていたが――だが、まさか以上だ!この上ない!実に比類ないぞ!どうしたことだ、これは!零崎人識じゃあなく、お前の側か!あんな《なんでもないところ》で《たまたま》会った平凡そうなこの男が――あははははははははははは!木賀峰、貴様は本当に本当に本当に見る眼があるじゃないか!曲がりなりにもこの俺の続きに続き続けてきただけのことはある!いいぞ、俺は最後に貴様を尊敬した!貴様の前に俺は跪く!」

「ちょ……あの?」

「お前か!あはは、お前、お前って奴は一体なんなんだろうな!お前自身はまるで何ともない平凡なガキでありながら――周囲に渦巻くその大黒き混沌は一体どうしたことだ!異端と異形の坩堝、お前こそが地獄か!あはははははははあははははあははははははははははは!はははははははは!愉快愉快!面白い面白い!こんなに面白いのは久し振りだ!なんでこの世の中はこんなに面白いんだ、摩訶不思議!どこまで殺人的にイカれてんだ、この宇宙は!」

(文庫版『ヒトクイマジカル』P.634)

そうして、西東は“主人公いーちゃん”に関わって、展開を産み出そうとするんですが……こっからが、このキャラの『面白さ』と言うべきなんですがwなああんか、この狐さん、主人公に(敵として)関わる事は決めているみたいなんですが、そこから先のプランは、相当いい加減、何も決めてないに等しい状態なんですよねw
自分の団体戦かあるいは勝ち抜き戦用の駒である十三階段を「誰が敵となっても対抗できるようなオールラウンドの布陣ではなく」(←重要!!)あくまで「いーちゃんの敵として苦戦する」ように組み直すのは『メタキャラクター』として、なかなか、何ですが。そっから先がないw「……戦っていれば何か展開してくるんじゃない?」なんて、お前は車田正美か、ゆでたまごか!!w(`・ω・´)

そのくせ、途中で展開が行き詰ってしまうと「あれ~?なんか上手く行かないから、や~めた!」みたいな適当な事を言い出すw(ここらへん、一連のセリフを読むと、他にも主人公はいると踏んで、別の主人公を探しに行こうとしているみたいですね)
「俺の手に、奴はあまりにも大き過ぎる。どうやら、やってはいけないことだったらしい」

「………」

「お前にあんなことを言ったがな――俺もまた、甘く見てたよ。過大評価が過小評価――さ。奴の無為式を甘く見ていた」

(文庫版『ネコソギラジカル(中)』P.469)

これ、狐さんが、いーちゃんの“主人公補正”を甘く観てやられたって事だと思いますが、いろいろ考えるとこの人の何も考え無さが敗因だと思うんですよね。主人公と関わると物語の展開に乗れて“世界の終わり”が見れると考えていた。だから“主人公いーちゃん”を見つけた時、彼は狂喜した。…でも、その主人公の物語がどんな物語かはほとんどまるで関知していなかった所があります。
そのくせ部下にして(世界を終わらせる)同志の時宮時刻の終幕プラン~これは想影真心の復讐による“全滅エンド”って事のようなんですが、それはちょっと違うとダメ出しをする。我侭w

なんかもう、バトルがしたいからバトルしたって言うか、言ってしまいますと西東天は推理小説シリーズの戯言シリーズの物語に勝手に伝奇バトルの展開を持ち込んで場を引っ掻き回して去っていったキャラなんですよね。いや、伝奇バトル展開になっている全てを彼の責任とするのは正しくないですけどねw
むしろ「え?この物語って伝奇バトルじゃないの?」と狐さんが勘違いする可能性が充分にある状態だったと言えますけどね(汗)
でも、彼が(想影真心を連れてきたりしたけど)本当の意味での空気を読まず、いーちゃんの物語の場をひっかきまわしたという見立てはできると思います。少なくとも最終章の『ネコソギラジカル』で推理のすの字も出てこないのは彼の責任でしょうw

そんな中で、物語を終わらせる“主人公として覚醒したいーちゃん”が、狐さんが放り出して何だかよく分からなくなった事態を、一通り収めてから、最後に自分自身と玖渚友に関する問題に決着をつけるという形で、この物語は終わって行きますよね。
玖渚の事はともかく、狐さんが放り出した事態の収拾は「とってつけたようなまとめ方」という言い方ができると思います。哀川潤vs想影真心のマッチメイクも安易といえば安易だし(想影については狐さんがいなくてもバックノズルが掛かった気がします)、その結果に、自分と狐さんの生命を賭けるというのは……まあ~ほとんど必然性がないでしょうwだけど“主人公として覚醒したいーちゃん”としては、今更、西東天という存在をスルーして未決着というワケには行かないんですよね。彼は『メタキャラクター』じゃないから「お前も登場人物の一人だろ」と対応するしかない。これは悪い意味じゃなくね。

また、狐さんも、事態を放り出すから『メタキャラクター』だとはっきり思えるんですよね。別に不利だと分かっても最後まで戦っていーちゃんに破れても良かったというか、それはそれで“世界の終わり”を見れたんじゃない?とも思うんですが、ちょっとテクニカルに指摘すると、それだと何だかとち狂った悪役との区別がつけづらくなる。『物語』を読んで、手を引くから、はっきり『メタキャラクター』だと分かる所があって、それはこの『物語』において意識されていると思うんです。

これは過ぎた想像の域に入っていきますけど、元々、メタじゃない登場人物としての西東天は、最初は本当に「世界の終わり」を見ようと科学的(?)な研究を行っていた人じゃないかと思うんですよね。
そして彼が“現実世界”の登場人物だったら、え~っと?宇宙とか、量子とか、対象はなんでもいいですが、現実の“終わり”を探求する学究の徒であり続けたと思うんですが、彼は“物語世界”の登場人物だったために、その研究を進めたけっか、自分が“物語”の“登場人物”である事を突き止めてしまった……もう少し曖昧に、直感的に理解してしまった…のではないかなあ?でも、それが分かっても特に動揺もなく「じゃあ、その終わりって何だ?」と探求を続けたんじゃないかなあ?などと妄想を暴走させています(汗)

…大体、こんな所でしょうか。『メタキャラクター』に関する話は今後も僕は続けて行くと思いますが、西東天は、僕が探していた結論の一つとも言えるキャラクターで、今後も何かと引っ張り出して来る事になると思います。


ヒトクイマジカル<殺戮奇術の匂宮兄妹> (講談社文庫)
西尾 維新
講談社

戯言シリーズ~いーちゃんの物語

2010年10月14日 | 思考の遊び(準備)
【メタキャラクター】

【戯言シリーズ@漫研ラジオ】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636

・ハイライト【いーちゃんの物語】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636/highlight/111121
・ハイライト【西東天の物語】
http://www.ustream.tv/recorded/9974636/highlight/111140

※ネタバレ全開で書きます。…といってもミステリーのタネに触れる必要はないかな?

2010年10月3日に行った【戯言シリーズ@漫研ラジオ】で話していた内容を僕なりに文字おこしをし直します。僕はこれまで西尾維新先生の小説はほとんど…いや(汗)まったく読んだ事がなくって、ちょっと前に『化物語』シリーズを読みはじめまして(こっちの記事も書く予定ですが)色々と興味を惹かれる内容で、それに合わせて、この戯言シリーズも読み始めました。
…とはいえ戯言シリーズはサイドストーリーの零崎人間シリーズは最近2010年の終了ではありますが、本編は2005年終了。かなり時期を逸している感があり、というか、僕の記事って大抵時機をはずしたものなんですが…でも、いいんです。(´・ω・`)しばらく経って振り返ってから観えてくるものもあるはずです。(´・ω・`)

また、最近ちょっと僕が追っているメタ視点/『メタキャラクター』という考え方があって、西尾維新先生の作品はその絡み、相性のようなものが非常にいいのですよね。今回、いーちゃんの話をするワケですが、彼は僕が認める『メタキャラクター』というワケではないのですが、メタ設定とでもいうべき設定が与えられたキャラクターに思っているので、その話をして行く事になると思います。

■戯言シリーズの不思議さ



まず最初に戯言シリーズについての自前の解説をして行くと…。なんでしょうね?『いーちゃんの奇妙な冒険』?みたいな?(´・ω・`)ミステリー・シリーズのようにはじまったものの、次第に伝奇色の強いストーリーに変遷して行き、最後はミステリーとはまるで関係ない所で着地したように感じられる作品です。
…まあ、付記すると、ラジオの中で哲学さんが述べているように、当初は2年ぐらいかけるミステリー・シリーズだったようで、それが「次で終わる」というインタビューでの“戯言”がそのまま編集長の前で通ってしまって、じゃあ終わろうという事で現行の構成になっているということであるようです。2年続けたその最終章が多分“ああいう感じ”をだったとしても、その比率はほとんどミステリーで占められていたはず(?)で、今とは大分、印象が違うシリーズになったとは思えます。

構造的に言うと、いーちゃんという主人公に対して、はずせない伴侶のような玖渚友というヒロインがいて、でも二人の関係はシリーズ一編一編ではそれほど大きな関わりをもっていないのですよね。いーちゃんの物語としてはこの玖渚との関係が総ての焦点のような所があるのですが。一編、一編のミステリーシリーズとしては、毎回事件の解決を“ある程度”謀るいーちゃんに対して、最後に名探偵役のスーパーウーマン・哀川潤さん(この人好き)が現れて、いーちゃんいダメ出しして帰って行く、この形がフィーマットとしてキレイに嵌っている。

しかし、それにしても読んでて不思議なシリーズだったんですよね。正直、何をやりたいのかよく分からない話という面がある。いや(汗)すみませんすみません(汗)でも、色んなキャラクターや色んな設定が、カオスに、おもちゃ箱のように、投げ込まれ、かつ多くは放置されていてよく分からなくなってしまう。「何をやりたいの?どれをやりたいの?」というか。ぶっちゃけ、ついて行けなくなる人も多い気がするんですが、どうなんでしょうね?(最近のミステリーってこんな感じだよ?って言われてしまうかもしれないんですが)別にそんな事ないんですかね?(´・ω・`)どうなん?

これが西尾先生の趣味なら、まあ、それでもいいんですけどねwでも『化物語』とか『刀語』とか『めだかボックス』も、もっとストレート感があって、こういうの、無いですからねえ…。ストーリーが変質する感覚もない(無いとも言えないかもしれないけど、戯言シリーズと比するとまあ無い)。
そこらへん、何か不思議なシリーズです。まあ、つまらなく考えると2年間シリーズを“保たせる”ために、めくら滅法に伏線を撃ちまくった…のかな?とか思わなくもないし。敢えて、直感的な話に口を滑らせると「何か隠してないかな?」なあ~んって事も考えたりしました。何かを見えづらく、見つけづらくするために、“場”をとっ散らかす。その木を見つけづらくするために森にするというか…。それが、これから話す所の事なのか、他の事なのかは分からないけど、何かそんな事を考えたりもしました。

まあ、他にも刊行当時、流行だったセカイ系の流れとしてどうか?とか、様々な角度の話ができるんですが、まあ、そこらへん余計な所はずっぱり切って。
自分としてはこの戯言シリーズ、セリフ回しやキャラクターは、かなり楽しくって…というか僕のフィーリングに合う所があって、先に書いたように、色々疑問符を出しながらも読み進めて行きました。それで「ああ、まあ、大体こういう事かな?」と思考を落ち着かせたのが、これから書こうとしている記事の「いーちゃんの物語」と「西東天の物語」なワケです。

■“探偵”いーちゃんの物語



そんなワケで、いーちゃんというキャラクターの『読み』に入ろうと思いますが…。これからする話って先に述べた「戯言シリーズってよく分からない話だね?」という事に対する共感がないと、あんまり意味がないかもしれません(汗)逆に「え?何のこと?」(´・ω・`)みたいになってしまう(汗)それと、今回僕はメタ視点/『メタキャラクター』という考え方(この話は僕の書いた別記事をあたって下さい)に沿って『読み』をしています。それはこのシリーズを読んだ時、メタ視点/『メタキャラクター』について何らかの“成果”を出そうと思いながら読んでいるわけで、その点は気をつけてもらった方がいい気がします。

で、いーちゃん。読んでいて最初に思ったのは「この人、なんでこんなに自虐的なんだろうか?」ですね。加えると、それを肯定(?)するように、様々な人がいーちゃんを苛めていたりする。励ます人もいるんですが…まあ、こっちは(ストーリー的に)普通ですよね。
素直に読むとどうも、いーちゃんは恋人の玖渚友(本人が強烈に否定しているけど有り得ない)に、昔何か“酷い事”をして、それで玖渚友を壊してしまったようで……その罪悪感のようなものから、自分を責める性向がついている……とも思えるんですが。まあ、それが要因の一つではありそうですけど、違和感がある。どうも、それだけじゃない。実際、玖渚友と離れている期間があって、そっちで想影真心と何かやらかしている…というか想影真心を死なせている。それだけでも、いーちゃんのあの人格が玖渚友との一件だけで形成されているとは言えなくなってくると思う。それはどういう事か?

また、『クビシメロマンチスト』を読むと、その終盤で彼はかなり“酷い事”を再び(?)行っている。ある意味、戯言遣いの本領のシーンですが~これ、玖渚友にいーちゃんがやらかした事って、これと非常に似たような事象じゃないかと僕は観ていますけどね~彼の内向きの性格が、玖渚友に対する加虐の罪悪感に根ざすなら、何故またそれをするのか?いや、玖渚に“これ”をしたかどうかは僕の想像であって確定的じゃないですけど(汗)

でもね。いーちゃんの自虐の中に「自分は人殺しだ」というのがあって。しかし、多分、彼は直接人を殺していないと思うんですよね。直接殺していたら、ここには居ない…まあ、玖渚機関がもみ消したとか考えられないわけじゃないけど、劇中でいーちゃんがそういう事から守られている様子からもそれは感じる。(※実際、直接人を殺した事があるかどうかは否定していなかったっけな?記憶曖昧ですが…)
じゃあ、間接はどうか?僕はいーちゃんは『クビシメロマンチスト』で間接的に人を殺したと思う。しかし、いーちゃんの説明されない“罪悪感”が、“ここ”にあるなら、彼が以前、間接的に人を殺してそれを悔いているなら、ここでその再現はしないのではないか?あるいは、彼の“人殺し”~罪悪感の根源~は直接でも間接でもないのか?故に間接の殺しという形には頓着していないのか?…という話になってくるのだけど、それはどういう状態か?
「いや、だから、いーちゃんは最初っから狂人(あるいはサイコパス)なんだって!単に壊れているだけの人!」……って事でも片付く所は片付きそうではあるんですが、色々考えまして……まあ、こっからの話は、メタ視点/『メタキャラクター』について何らかの“成果”を出そうとしている僕の『読み』という事になってくると思います…w

『クビキリサイクル』の時点で人が死んでいる所を見るのは慣れている…という描きがあった所から、感じていたんですが、ある一線を超えた所で「いーちゃんって、僕が推理小説に持っていた“疑問点”を顕現させたキャラなんじゃないか?」と思い立ったんですよね。

疑問点ってなにか?っていうと「推理小説の探偵役って、なんで行く先、行く先で、殺人事件に遭うの?」って話ですけどね。まあ、ここらへん上手く処理している作品は多いですけど(そこが腕の見せ所という面もある)、たとえば西尾先生が好きなマンガの『金田一少年の事件簿』とか『名探偵コナン』とかは、どうか?両作品とも、週刊連載というかなり早いペースで事件が起こることを余儀なくされて、かつ依頼が舞い込む設定が完備されていないので、相当、不自然に殺人事件に巻き込まれて行きますよね?w
これってなんで?(´・ω・`)というか、それについての説明をする作品もあるでしょうが、多くは“お約束”、“暗黙の了解”という事でスルーされている部分のはずです。これに対して戯言シリーズは、『クビツリハイスクール』において、いーちゃんにそういう“設定”がある(顕現されている)事を示しています。
(萩原子荻)「…あなたのその才能はとても危険です。自分では何もしないのに周囲が勝手に狂いだす……《なるようにならない最悪》とでもいうのでしょうか。心当たりはありませんか?あなたの周りはいつだって異常事態が起こり、あなたの周りはいつだって奇矯な人間ばかりが集まるでしょう?」
(いーちゃん)「……心当たり、ねえ」むしろ心にあたらない場所が、ないのだけど。いや、そもそもぼくに心なんてご立派なものあったっけか。

(文庫版『クビツリハイスクール』P.165)

(※心があったっけ?なんて自虐までしている事含めて重要)萩原子荻曰く『無為式』の設定との事で、あくまで子荻がいーちゃんを解するとこうなるという事ではあるんですが、子荻自身は大きく全般的な事象を捉えた指摘とは言え、この物語が“推理小説”であるなら、異常事態=殺人事件、奇矯な人間ばかり=真犯人でもないのに無駄に怪しい容疑者、という言葉に変換させても問題はないはずです。それが推理小説なら!
そうして、いーちゃんがこの設定に自覚的であるなら、直接的に人を殺した事はない、間接的に人を殺していない(正確にはその自覚を持っていない)、にも関わらず「自分は殺人者である」という自虐的な悩みを持つことができると思うんですよ。



「行く先、行く先で殺人事件に遭う」以上の疑問点が正にそこで。いや、百歩譲って、いや、譲らなくても積極的に認めますけど、それらの事件の遭遇がものすご~い偶然!!GUZEN!(`・ω・´)でも、いいんですよwでも、即時に「行く先々で殺人事件に遭う人間ってまともでいられるの?」という疑問を生むし残るんですよね。
僕は思うんですが、本当に大丈夫なのか?(´・ω・`)と。こう…したり顔で「じっちゃんの名にかけて!!」とか「真実はいつも一つ!!」とか言っている場合じゃないんじゃないの?と。もっと、精密検査とか、霊障とかお祓いとか……なにか異常だと、なんで自分はこうなんだろう?と悩んだりしないのかな?とか思ったりするワケです。
あるいは『クビシメロマンチスト』のいーちゃんの“あれ”は、探偵が推理で真実をしたり顔で暴いて真犯人を自殺に追い込むという“あれ”のパロディの面があると思うんですが、あれ?ってどうなん?何か精神状態、変じゃない?(´・ω・`)とか思ったりするワケですよ。まあ、冗談として。

いーちゃんって、正にこういうキャラクターじゃないかと思うんです。自分の行く先々で何かが起こる。人が死ぬ。それは玖渚から逃げようが何しようが変わりなかった。そういう“設定”をもった時、その人の心はどうなってしまうか?自分の心を守るために、人の死に対して無理矢理、無感動、無関心になって行くのではないか?
あるいは、自分に深く関われば関わるほど、その人が死ぬ確率が増えるなら「自分の本名を決して明かさなくなって行く」事はないか?

また、その“設定”を知ってしまった人はどう反応するか?『クビキリサイクル』で、いーちゃんは、千賀てる子さんにボロクソに貶されるんですが、(姫菜真姫さんに毛嫌いされている事にも意味はあると思う)多分、てる子さんは何か知っているのだろうと僕は観ています。
(てる子)「あなたは一人で生きていく方がいい。あなたがそばにいたらみんなが困るから」
(いーちゃん)「……」

(文庫版『クビキリサイクル』P.363)

(てる子)「分かっているんですか。そいでいてのうのうと生きているんですか。見上げた図太さ、大した精神力ですね。尊敬に値します。それともあなたは、自分の腹の内を全てさらけ出して、そいでいてあなたのことを好いてくれる存在があると思っているのですか?そいでいてあなたを選んでくれる存在を信仰しているのですか?それこそ正に常軌を逸している」

言葉もない。
響く。
その言葉はぼくには重過ぎる。
壊れてしまいそうだ。
もろく。
粉々に。

(てる子)「そんな恐るべき化物を身体の中に飼っていて他人と関わろうだなんて――虫がよ過ぎます。図々しいにもほどがある。世界はそこまであなたを許してなんてくれません。思い上がりも甚だしい……。だからこそあなたは――」

(同 P.372)

このシーンは、おそらくてる子さんの“地雷”である明神イリアさんの事に、いーちゃんが無遠慮に踏み込んだ事によって出てきていると思いますが、それにしても相当な言いようです。(昔何かしたとしても、今いーちゃんがそれをしていない状態なら、こうまで言われるものか?)また、いーちゃんがこれに抵抗しない。何か異様なものを感じた人は多いと思います。仮に、この話がいーちゃんの暗い心の在り様だったとして、果たして戯言シリーズで描かれたいーちゃんの心はここまで悪し様に言われるものだったか?という違和感ですね。いーちゃんの意志とは別のものを指しているんじゃないか?と思うと、観えてくるものもあるんじゃないかと思うんですよね。

そして何で、零崎人識はいーちゃんの鏡と言われるか?いーちゃんと、零崎人識のキャラの外装(性格)がまるで違う事は論を待たないと思います。にも関わらず、彼らは互いの事を同一だの鏡だのとものすごく重ね合わせている。
ぼくとあいつは証明するまでもないくらいに合同な図形だったのだろう。そしてぼくらはその事にひどく自覚的だった。

(文庫版『クビシメロマンチスト』P.8

ぼくと零崎との関係は単純な感覚としてはそれに近い。同じであることを認識しながらそれが全く違う存在であることも理解する。
「ぼくはひょっとしたらきみのようになっていたのかもしれないな。だから親近感が持てるんだろう」
「俺はお前のようには絶対なれなかったと思うぜ。だから好感が持てる」

(同 P.10)

なんでいーちゃんは、こんなにも殺人鬼と自分は一緒だと言いたいのか?さらに言えば、引用文にあるように、いーちゃんは人識になれるけど、人識はいーちゃんに“絶対”なれないんですよね。互いを同一視しているのに、片方がもう一方になれる者となれない者がいる?これはどういう事か?
いーちゃんは、これから殺人鬼になれるけど(逆に言えばやっぱり人は殺していない)、人識は、これから『無為式』を手に入れる事はできない。…こういう意味を差していないか?しかし、いずれにしろ大量殺人者には違いない。そういう意味ではないか?

いーちゃんは昔、意識的に酷い事をやらかして何人も死なせて(?)玖渚を壊して?その過去に囚われて暗くなっているようにも見えるんですが、それが“無意識”の事でかつ“現在進行形”だとしたらどうか…って話ですね。
……まあ、なんと言うか『無為式』とか、推理小説のなぜなに設定のパロディ的に語っているので違和感があったりするかもしれませんが。いーちゃんは、何でか知らないけど、本人の意識しない所で関わった人々をことごとく不幸にしてしまう。その事で、いーちゃん自身の心も壊れてしまっている。…と語ればそのまま素直な観え方になるんじゃないかと思います。
そのいーちゃんに降りかかっているワケのわからない“設定”を何で?と詰めれば「これが推理小説でいーちゃんは探偵役だから」となってくるのですけどねw西尾維新先生の作風を鑑みても、出自はこの流れでいいと思いますwそして、その意味で、戯言シリーズっていうのは推理小説ではないのでしょう。

推理小説の主役としてそのメタ設定(お約束)が降りかかったいーちゃんの物語

…であって厳密には推理小説ではない。『無為式』も『戯言』も、つまるところ物語の“主役”が持つ設定という所になってくると思います。いーちゃんが、それをどう克服して行くかが、この物語の本筋だと観れば、大体、一本筋が通った話になってくるでしょう。
こういう“設定”を自覚していても、それでもいーちゃんは、死ぬ事も、また人と関わる事も止める事ができなかったんでしょう。そうして心だけ閉ざして、誰か好意を持つ者が現れても「ああ、この娘も死んでしまうのかもなあ…」と思いながら、無感動、無関心を装っていたんじゃないかと。その“いーちゃんの物語”は『ヒトクイマジカル』でクライマックスを迎えます。
「お前は自分を欠陥製品だというが、私はそんなことは――」

「るっせえんだよっ!」

ぼくは――
わけもわからずに、怒鳴った。

「人の事を知ったように語ってんじゃねえよっ!見下してんじゃねえっ!何手前勝手な同情してんだ、ぼくがそんなに惨めかよっ!あんたぼくのことなんか、何も知らないじゃねえかっ!こんなはずじゃなかったんだよ、こんなのおかしいんだよっ!こんなはずじゃなかったんだ、ぼくだって意味不明だよっ!なんでこんなことになったんだ、わかんねえよ、でもこうなんだからしょうがねえだろうがっ!いーんだよ、どうでもいいんだよっ!どうでこれが初めてってわけじゃないんだ、ぼくは今まで、何人も何人も何人も、何十人も何百人も何千人も、ぼくの責任で死なせてきたんだっ!今更一人や二人や三人や四人、増えたところで何にも感じるもんかっ!」

(文庫版『ヒトクイマジカル』P.536)

このシーンで、いーちゃんは、自分の抱えている諸々の問題と向き合う決意をしたと思うんですよね。そうして“いーちゃんの物語”は一直線にエンディングに向かう……はずだったんですがw
ここで物語は謎の乱入を迎えてしまうんですよねw最初に言った「何をやりたいのかよく分からない話」になる元凶w真っ当に積まれていた“いーちゃんの物語”を丸ごとひっくり返しにかかるw『メタキャラクター』!!西東天の物語がはじまるワケですw

…つづく(´・ω・`)(↓)

【【メタキャラクター】戯言シリーズ~西東天の物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/5e88f04b96866544b1658279c5cfab4b


クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)
西尾 維新
講談社

今週の一番【メタキャラクター】メタ世界/メタキャラクターの考え方

2010年08月30日 | 思考の遊び(準備)
【メタキャラクター】

【8月第1週:バチバチ 第62話/無駄…!?】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10475.html#653

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/

最近、『メタキャラクター』についての思考を巡らせていて…微妙にルイさんに誂われている気がしないでもないですがw(´・ω・`)構わず行きます。…ただ、ちょっと思考の方針というか外郭は何となく見えてきたので、ちょっとここでまとめておこうと思います。

元々はオフ会やネットラジオなんかで話していた『うみねこのなく頃に』や『化物語』の話題(※ここらへんも文字起こしして記事にしないとなあ…ちょっと今細かく語ると長くなり過ぎるので省略します)で出てきた『メタキャラクター』という考え方に、直感的に、面白さを感じて色々思索していたんですが……どうもこれは『情報圧縮論』の次のステップの話になってくるのかな?と現状感じています。…『情報圧縮論』の話も語ると長くなりますね。今回は走り書きのつもりなので、やはり省略します。(興味のある方はブログ内を検索してみてください)いずれ、もっと明確にリンクさせて語ることができたらいいなと思います。

一応、twitterでの『メタキャラクター』に関するメモ書きをtogetterにまとめていて非公開にしていたんですが解除して置いておきます。メタキャラクター自体はずっと古来(?)から存在していて、ただ、大抵は作者のおふざけ止まりで描かれていたと思います。これをもっと物語構造の中核に組み込んで行くとどうなるか…?という方向でつぶやいています。

【メタキャラクター・メモ】
http://togetter.com/li/42956

たとえば僕はこっち(↓)で「死亡フラグ」は、「情報圧縮」の最も完成された形態の一つだと思っています。セリフ一つが凄く昇華されて「物語」にまで達しているんですよね。と言った話をしているワケですが…

【「情報圧縮論」と「死亡フラグ」の話
http://togetter.com/li/24899

同時に、その死亡フラグを外す、ひいてはあらゆるフラグを外す(躱す)『フラグ外し』の話もしています。(『フラグ外し』って情報圧縮の次のステップの話ですよね)それは言ってしまえば「明日結婚するとつぶやいた人は程なく死んでしまう…なんて法則は本来(物理的にも物語的にも)どこにもないよね?」という話に立ち返る事を意味しますが、死亡フラグが存在する事を知った上でそれをするのは“近メタ的な行動”になってくると思います。

「おれ、この戦いが終わったら結婚するんだ…」とつぶやいた兵士がそのまま戦って、そのまま生き残る。…え?じゃあ何でそんな話したの?と言うわけでもありませんがw「ああ、結婚するから何としてでも生き残ろうとして、そして生き残れたんだね、よかったね」と思えばいいのかもしれませんがw“フラグ”の存在を知っていて置かれた演出なら、それはかなりメタ的な演出と言えると思います。

それらの演出意図をキャラクターや事象に変換して『モジュール』レベルまで精製して行くと、そういう固まり、たとえばその一例として、メタ世界/メタキャラクターになって行くのではないか?…と今、考えています。


…で、ようやく本題ですけど。そんな事を考えながら読んでいたせいもありますが、この週の連載を読んでいくつかメタ的に気づいた所があります。


■メタ世界について



“あきらめると”は――!!!
それはまるで巨大なふるいにかけられているようなものではないだろうか――


『キングゴルフ』(作・佐々木健)の今週の冒頭シーンなんですが…。「ああ、ここって『メタ世界』だなあ…」って思ってwなんか言いがかりみたいな感じですがw
ユサユサ、篩いを振っているこの巨大な男は一体何を考えているのかなあ?(どんなキャラなのかなあ?)とか考えはじめると、メタキャラクター顕現の初期の欲求になるはずですw
『うみねこのなく頃に』(作・竜騎士07)にひっかけて話をすると、観劇の魔女フェザリーヌとかは、多分、この空間に存在ますよね。そしてこのユサ男(仮)くんは、何の名前もキャラクターも持たない下等な存在には違いないのですが、間違いなくあのメタ世界の魔女たちと同じモノだと思います。篩いの中のキャラ達が物語上の登場人物になれば分かると思いますが、やっている事は、魔女たちのゲームと大きな違いはありません。

ただし『キングゴルフ』のこれは、ある一状況を分かりやすく説明するワンポイントとして、“たとえ話”として、メタ世界が描かれたに過ぎません。しかし、より物語が(ある方向に)複雑化した時、むしろこの“たとえ話”の空間の方がメインフェーズになったりしないか?…『うみねこのなく頃に』の方はそこらへんを示唆している面があると思います。


■メタキャラクターについて



虚空「なるほど…
これは―…避けられぬな……!」


『任侠姫レイラ』(原作・梶研吾、漫画・米井さとし)のレイラの対戦相手である虚空僧侶が、レイラの攻撃を“わざと”受けるシーンですね。
武力というか……バトル能力的にはレイラよりも虚空僧侶の方がはるかに上だと思われます。しかし、レイラが虚空僧侶の攻撃を“わざと”受けきって~わざとじゃなくても、虚空僧侶の攻撃は鋭くてかわせないから“わざと”に切り替えたのがミソ~みせた事によって、互いの攻撃を受けるという勝負に持ち込んだ為に、虚空僧侶はその攻撃を受けざるを得なくなった。
二人は闘技者以前に観客に物語を魅せる“プロレスラー”であり、その為の“ブック”(試合のあらすじ)によって支配を受ける存在だからこそ、能力的にはその攻撃を充分に避けられても、避けてはいけないという縛りを受けるワケです。(厳密には避けてもいいのだけど、その場合、虚空僧侶はそれに足る“別の物語”を見せなくてはならなくなる。ここらへんは、メタ世界のバトルという観点に対しても重要な示唆があると思う)

今、厳密な意味でのメタ世界をメインフェーズとして見せているのは、僕の知る限り『うみねこのなく頃に』くらいで(これも、さらに突き詰めるとあやしくなる(汗))、そのため突き詰めて話をするとサンプルのない、上っ滑りな感じになってしまうのですが、擬似的だったり、設定的だったりの形で、メタ世界を垣間見せている作品は少なくなく、当面はここを参考に話を積んで行くことになると思います。
『任侠姫レイラ』の場合、メタ世界を見せる事はないですが“ブック”の存在によって、作品内に、物語現実の世界と、“ブック上の世界”の二つのラインが展開する事になる。これは物語現実の世界を“ブック”を観測するメタ世界、“ブック上の世界”を観測される物語上の世界というシフトに見立てる事ができます。

つまり、避ける選択肢を持ちつつも「これは避けない」という判断をするのはメタ上の虚空僧侶であり、ブック上(物語上)の虚空僧侶はそもそも避けるという選択肢を持ってはおらず、おそらくその可能性を考えすらしないであろうという、“二人の虚空僧侶”が現われるわけです。

そして“ブック”の支配下にない、少なくとも“ブック”を破る選択肢を持った虚空僧侶は、メタキャラクターとしての性質を備えていると言えます。ここは以前に『めだかボックス』の球磨川が垣間見せた選択肢でも語っていますね。

【『めだかボックス』球磨川禊のメタキャラクターとしてのメモ書き】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b35af27375c5407fac0aa336a91db104
球磨川「『老人なら攻撃されないと思った?』『黒幕ぶっていれば安全だと思った?』『僕が可愛らしい顔立ちだから』『おしゃべりの最中なら死なないと思った?』――『甘ぇよ。』」

不知火半袖「あたしもマイナス十三組に入れて頂戴。そろそろあたしもストーリーに参加したくなっちゃったよ☆」



『情報圧縮論』の現状の到達点として“『元型(アーキタイプ)』への接続”“『情報圧縮』の顕現”というのがあるのですが(繰り返しますが、詳しくは省略)、たとえば僕は以前『天元突破!雨宮ゆり子』という記事を書いて…(↓)

【天元突破!雨宮ゆり子!】
※いきなり音楽がかかるかもしれませんので気をつけて
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya1.html

かなり評判だったんですが、この話、ある程度「昔のラブコメは何があろうとメインヒロインと結ばれる結末になる事を優先した」という経験実感と、それに付随する多少の悔しい思い(?)みたいなものがないと分からない/盛り上がらない話でもあるんですよね。あるいはハーレム系とか、ゲームなどで別EDの選択肢が提示された以降のラブコメのみに接している人だと、その感動は半減するかもしれない。
当然、そこらへんを文章に直し説明して、僕の中にあった感動を『伝達』しようとしたのがこの記事なワケですけど。…それをこういう評論的な記事ではなく、純粋に物語上に再現しようとしたら、どういう方法があるでしょうね?

「従来のラブコメはこうだったけど、この物語はその慣習的な縛りを突破するのだ!」…とか、そのまんまで野暮ったく書きますかね?…ここらへんの表現で“『情報圧縮』の顕現体”として、メタ世界/メタキャラクターは有用なツールに成り得るのではないか?と考えています。

というか『送り手』が(↑)こういう事を考えていてたとしても、従来はそれは心の内に留めて作品上の表現としては、あまり持ち込まない。ある種、隠しテーマだったり、作者の心の満足的に留められていたものだったりもしたと思います。その心の満足を、なんとな~く、嗅ぎとって、当てずっぽう述べるのもおたくの醍醐味だったりしますけどw(汗)
それって別に隠さなくてもいいんじゃない?キレイな形で顕現させる方法があるなら『送り手』として、送り出せばいいよね?…そうすると多分、本来、物語上に載せられなかったモノ(載せられないと思ってしまったモノ)を載せようと思うと、メタな世界に載せて行く事になるかな?と。

ちなみに、ここらへんの話。『うみねこのなく頃に』がほとんど体現していて、さらに先に行った話をしていますね。…すごい作品だと思います(汗)w

『めだかボックス』球磨川禊のメタキャラクターとしてのメモ書き

2010年08月10日 | 思考の遊び(準備)
【メタキャラクター】



球磨川「『老人なら攻撃されないと思った?』『黒幕ぶっていれば安全だと思った?』『僕が可愛らしい顔立ちだから』『おしゃべりの最中なら死なないと思った?』――『甘ぇよ。』」

不知火半袖「あたしもマイナス十三組に入れて頂戴。そろそろあたしもストーリーに参加したくなっちゃったよ☆」


先日のラジオ(TVアニメ放談)の後に、しばらくルイさんと話をしまして――ちょっと出てきた話題のメモ書きをしておきます。いろいろ端折って書くのでいろいろ説明不足かもしれませんけどね。(いつもの事か?)
最近ちょっと、『メタキャラクター』という観方を思考していまして……『メタキャラクター』とは何か?というと『物語』内において、物語読みと同じ視点を獲得しているキャラクターというか…。まあ、まだちょっと考えまとめてないんですけどね。

(↓)方向的な話はさらに以前、ペトロニウスさん、哲学さんとやったラジオの方で『化物語』をネタに語っています。

【『化物語』@物語三昧ラジオ】
http://www.ustream.tv/recorded/8456799

…で、『めだかボックス』の球磨川禊(それと球磨川と一緒と言われる不知火半袖)が『メタキャラクター』じゃないか?という視点があります。そのポイントになる部分が冒頭に引用した画像とセリフなんですが…。
かなり直感的な話なんですが、ここで球磨川が「甘ぇよ。」と言って不知火理事長をぶっ殺す選択を見せてしまう所がメタっぽいと感じたんですよ。例が上手く出てこないんですが、ここらへんで、こういった悪(カオス)のスーパーマンを呼び込んだときに、その黒幕って泰然として悪のスーパーマンと交渉しているんですが、この時、わりとあっさり悪のスーパーマンはこの交渉に乗るんですが、後からその実力差を考えると、あれ?なんであの時、あいつはすごすご引き下がったの?とか思う事があるんですよね。ないですかね?(汗)(´・ω・`)?

そこらへんを何でか?と詰めて考えてゆくと、まあキャラの心象としては「とりあえず」とか「試しに~」みたいな感覚があったのかなあ?という読みで落ち着いてくるわけですけど。それとは別に『物語力学』的にとでも言うのか「この時点で劇的なる展開が求められていなかった…」というような視点もまた考えたりもします。
今述べた話全部を球磨川くんが持つ必要はないんだけど、なんとなく不知火理事長と話していて、この場では理事長は「物語の流れ上、どういう形であれ、すごすご、この球磨川は引き下がると考えている?」…と球磨川がそう思ったセリフが上の引用かなとも思ったんですよね。そんな『物語』のシナリオとしてある当然の流れも自分は断ち切れるんだよ?と自分がそれをしないと考えるのは甘ぇよ?と、そういう宣言に見えたりします。
まあ、ここらへんは僕が西尾維新作品にいくつか触れて感じている感覚でもあるので、もう少し『戯言シリーズ』とかこの方の作品に触れて詰めて行こうと思っています。

ただ、もう一歩進めて考えたのは「それでも。やっぱり球磨川も、このシナリオの流れを断ち切る事はできなかったんだな」という事ですね。
確かに球磨川は、理事長が組んだシナリオは分かる。かつ、自分の物語上の能力は理事長の思惑に収まるものではない。…では最初っから律儀に理事長のシナリオに乗っている必要はどこかにあるのだろうか?球磨川はやりたい事をやりたいように為せばいいだけのキャラなのではないか?…そういう物語上の均衡が見えるのが球磨川のメタキャラではないのか?だから、その場が当然のように、儀礼のように過ぎ去って行くのは「甘ぇえよ」と宣言したのではないか?

…でも!そこまで宣言しても、実際に『物語』の流れを断ち切る事はしなかったんだなあ。できなかったんだなあ、とも思うんです。
切れないんですよねえ…wそれをすると、これまで組んできた構成が本当に激変して、不可逆の劇的なる展開にシフトしてしまうから。それは“できなかった”。
メタ視点を持っている……としても、現にそこにある『物語』の流れを改変して行くのは強烈な抵抗が伴う。ギャグマンガのように、その行為をギャグとして処理され得るキャラならともかく、切ったら切ったで別のシナリオを構成しなくてはならない分けで…。

メタキャラクターって一見強力に見えるけど、それを行使してしまうと必然的に物語そのものとぶつかり合ってしまう事になるのかも?とか考えたり。……以後思考継続。(`・ω・´)


めだかボックス 5 (ジャンプコミックス)
西尾 維新
集英社


魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その5)

2010年07月12日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

まとめに入る前に、前回(その4)での方さんのコメントと僕のレスを(↓)再掲載しておきます。(多少、文章加工/修正しています)けっこうこの話の結論的な話になっていて、変に前振りの文章書くよりストレートに伝わる事もあるのではないか?と考えました。……まあ、あれですね。いや、『新英雄譚』っていう呼称はいいですねえw“群像劇”という言葉よりも伝わるものがあります。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)…レス】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/24075bf8fde30b7d9c94f77f0257c6c5


■世界への接続~終わりなき物語のはじまり



シャア「ちぃいい!!ならば私の同士となれ!アムロ!」

アムロ「断る!!」


(※画像「めぐりあい宇宙」、セリフ引用、ウソです(`・ω・´))


『英雄譚の引力』についての事例として『機動戦士ガンダム』の宇宙世紀シリーズ(最初のシリーズ)を上げておきたい。……というか、この『魔王x勇者』とこの宇宙世紀シリーズを引っ掛けて、何か記事を一本書く予定だったんですけどね。んんん…な~んか、この一連の記事だけでやたら時間がかかちゃってるからなあ…どうすっかなあ?orz(リアルロボット・ブームとは何だったのか?という話はいずれは、しなければならないと思っていますが…)

『魔王x勇者』の構造を分析している時に僕は『機動戦士ガンダム』(1979年制作)に近いものを感じたんですよね。…これはキャラ配置とか、ストーリーラインとか、演出法とか、そういうものではなく「ある『臨界』に対して出されて来た答え」としてです。
この一連の記事で散々書いていると思いますが、僕は『魔王x勇者』の物語を、物語外の物語作品を含めた“繰り返し戦いが行われて来た英雄譚”の一つの解答として観ています。それは『ガンダム』以前のスーパーロボット・ブームの中から『ガンダム』が出現してくる“流れ”と非常に似ている。

従来のスーパーロボットものと『ガンダム』がどう違ったか……というのは、なかなか一口に言えないものがあります。ドラマ、あるいは(善悪相対化などの)テーマか…というと、一概にはそうも言えない。長浜忠夫監督のロボットものは、既にロボットものの中に充分なドラマ性を盛り込んでいたし、冨野由悠季監督も善悪相対化/逆転的な物語を送り出してきた。(これらのものをより具体的に昇華したのが『ガンダム』だという言い方はある)
じゃあ、何が“違った”か?それは戦争の大義の存在(悪の理論の変化)と、そして一般兵士の描き(ザコ戦闘員の生命の変化)と、それから、弾薬/兵站の指摘~マチルダさんの補給隊ですね~だったのではないかと思う。それは従来のロボットものはキャラクターの深みは、ある一定以上のものに達していたのだけど『世界の在り様』が単純だった故に、動作もある程度、単純化されていた…という言い方もできるかもしれない。

これは勇者が魔王を倒す物語に、魔界の大義と人間界の経済均衡の考え方を持ち込んだ『魔王x勇者』の流れと非常に似ていると思う。…いや、踏み込んで言えば、それは(その4)で述べている『情報圧縮の顕現』によってそれを見せているという事じゃないかと考えますけどね。
こういう“世界の描き”って、パッとした思いつきというか、それだけで描けるように思っている人もいるかもしれませんが、そう簡単な話でもなくって。それ以前の作品を注意深く観ればわかるように、そこに行こうという動き自体はあるんですよね。それは大前提的に「難しい話をやめて面白い話をしないと観客は離れる」というものがあって、そこを踏み込むのは“冒険”で。…しかし、その“冒険”を超えて「難しい話を面白く語った」物語が、こういうエポック的な評価を得て行くんですよね。
とまれ、こういった『世界への接続』を『面白く』描く事を為した時点で、『ガンダム』、『魔王x勇者』は『世界への接続』を果たした作品という評価ができるのではないかと思います。



……という事を踏まえると『魔王x勇者』のあり得た物語の展開として『機動戦士Zガンダム』(1986年)を考えてもいいかな?とか思うワケですw

先に断っておくと、僕は『Zガンダム』に対しては元から、そこそこ(笑)批判的な論調を持っています。そこを勘案して読んでくださいね。…とは言っても『新訳』でちょっと変わりましたけどね。(同時に「あ、やっぱり富野も『Z』気に入らないんじゃん!」とも思った)これはいずれ、再検証や別の視点の持ち込みで変わって行くこともあるかと思いますが。まあ、そういった話は今は細かく語るのを避けます。
ただ、まず『魔王x勇者』との比較の流れで述べると、この作品は「世界への接続を果たしたはいいけど、それをそのまま放置する(言葉は悪いですけど漫然と描くと)どうなるか?」という事を顕していると思うんですよね。具体的に言うと『Zガンダム』は最終回(物語の結論)をどう描けばいいのか分からない作品だったから(物語全体の文脈を踏まえた上で)“ああいう”最終回を迎えたのだと思っています。
これはある意味、当然なんですね。「最終回なんか無いのが世界の在り様」なんですから。それをそのままリアリティあるドラマだとか善悪混然一体だとか悦に入って放置したら“物語の結末”は霧散するというものです。(歴史ものは結果が分かっているからそこから逆算して結末らしき所を選ぶ)

ツイッターなんかでは『魔王x勇者』の戦争が終わらない世界と、『Zガンダム』で漫然と戦う世界が似ている…なんて話もしましたが、『ガンダム』で世界への接続を果たした時「じゃあ、どうするんだ?」という問いかけに対して、『Zガンダム』は明確な答えを持ち得なかった。…持ち得なかったから、とりあえず戦闘母艦に乗ってなんとなく逃げ回っている『富野メソッド』が展開されたワケですが、世界と接続してしまった『物語』は、すでに逃げまわるだけでは“明確な敵”も、“目指すべき未来”も、そして行動せずには居られない“差し迫った地球の危機”も与えてはくれなかったんですよね。

『Zガンダム』は「どうすればいいか分からないけど、戦っていなければ『物語』は楽しくないはず」という『引力』に引っ張られながらカミーユたちは戦い続け「戦ってばかりだと何も得られない事は分かるけど、じゃあどうすればいいのか?…は分からない。でも、戦ってばかりの、戦いを楽しむ奴は許せない。(こいつが戦わなくていい戦いも拡散させる)だからとりあえずそいつを“戦って倒す”!!……シロッコ覚悟!!!(`・ω・´)…ああ!でも俺も同じ穴のムジナやん!?」…というのが、まあ『Zガンダム』の大雑把な結末になっている……はずw

※ そうして『ガンダム』という文脈を富野監督自身が無視して、半ば強引に『英雄譚』(スーパーロボットもの)に引き戻ろうとして…まあ、上手く行かずwなんとなく『Zガンダム』力場に戻った『ガンダムZZ』(1987年制作)と、そうではなく『ガンダム』という文脈を尊重して、かつ、『英雄譚』に戻ろう~その為に集約すべきは、やはりシャアとアムロの対決なんだろう~という『逆襲のシャア』(1988年制作)があると観ています。…が、だいぶ長くなってるので割愛。(´・ω・`)

これは『Zガンダム』が(生地『ガンダム』と接続するだけに)すごく如実なんだけど、やはり多くの近代の子供向き『英雄譚』たちが止まってしまった場所でもあるんですよね。
これに対して『魔王x勇者』はやはり“戦いに拠らず戦いを無くす方法”を明確に示した。…しつこいようですが“馬鈴薯”!!の事ですね。どうやってもカミーユたちはそんなダサくて地味な事ははじめそうにないので強調したいwまた、話し合う事、和平する事のダイナミズムというかエンターテイメントを描いた。それも『面白く』描いたからこそ!だと思うんですが。まあ、僕はその描きの部分を『先の物語』と言っているワケです。

ただ、そこを描いたとしても、世界と接続されてしまった『物語』は終わりが来ないままというか…。(まあ、キリの良い所で終われるっちゃあ終われるんですがw)拡散されたそれぞれの物語をもう一度、締め直す“一手”として、二度目の『祭壇』は現われると言えると思うんです。
つまり、最初の『祭壇』は物語を世界に接続させるために出現し、二度目の『祭壇』は物語を終わらせるために出現している…という事です。これは元型としての対話型『祭壇』が持っている役割を二つに分解した……という観方もできると思います。


■勇者の死すべき力場



#maoyu_heat 勇者退場のイメージは僕も持ちました。それも狙撃で。ヤン・ウェンリーのイメージだけど(汗)色々考えて行くと、少なくとも手っ取り早く託す退場はそれだったと思う。でも、そうはならなかった。それは凄く良かった事だと思う。
http://twitter.com/LDmanken/status/14681014478

(↑)上は僕が『魔王x勇者』の議論ついてつぶやいたコメントです。僕は『魔王x勇者』の物語を読み進めていく内に“勇者の退場”という展開が観えてきた所があって、それはどうなるかなあ?と注視していたりしました。
それは展開予想とはちょっと違うんですけど……物語を読んで行った時に“丘の向こう”という話は、魔王と勇者が平和な世界(?)のようなものに皆を導いて行くという話ではなくて、救世主の物語ではなくって、もっと、救世を望む者たち一人一人の意識を変えて行く、彼ら一人一人が自らの意志を確かに自らの物語を紡いで行く覚悟のようなものを促す物語である事を感じてきていたと。

…でも、物語の構造上、魔王と勇者が“その話”を始めて、魔王と勇者が“その話”の結末を目指して『物語』を紡ぐ以上、魔王と勇者が皆を救ったんだ(変えたんだ)という物語から逃れられないよね……とも思ったんですよね。
それは「光と闇の愚劣な物語」(←その4から)である事を止めて、もっと世界の在り様を受け入れた『物語』をはじめよう……と言っても光(勇者)と闇(魔王)が導く以上は「光と闇の物語」だよねというか。レスで書きましたよね。英雄譚(光と闇の物語)を脱しようとしても、“英雄”がそれを為す以上は、“英雄譚を脱しようとする英雄譚”である事は逃れられないんじゃないか?という話です。

これを回避する方法自体は比較的、楽に思いつきます。実際にそれをするかどうかは『引き返す引力』がはたらくでしょうけど。何かというと“英雄”を“英雄”でなくすればいいんですよね。そして“英雄”ではなくする一番てっとり早い方法は『物語』の結末とは関係なく、突然の死を与えて退場させる事です。(この場合、魔王もそうしなくていいの?と意地悪を言う人もいるかもしれませんが、そこらへんは『物語』の不思議というか、急所の人間一人外せばテーマは顕現されるはず)
キツい展開ではありますが、勇者がいなくなって何ができるか?は、テーマの追求として有り得べき事態なんですよね。そして『魔王x勇者』は、今僕が上げた選択とは別の選択で、見事にそれを為してくれている。その解法は、今さらネタバレは気にしてませんが、必要もないので細かくは書きませんw…が、僕は「ああ、そうきたか!」と手を打ちました。

まあ、ねえ……w罪なき人々も巻き込んで勝利を拾おうとする蒼魔の刻印王に対してね…「おおおっ!!“招嵐颶風呪”っ!」とか突然、唸りだして自前のマクー空間作ってそこに引きずり込んで、これで回りの被害は出ません!とか、言い出しちゃえる『スーパーヒーロー』がいる状態で、どうしても犠牲が出てしまう事に唇を噛み締めながらも、それでも“正しい事”を積み上げて行こうと懸命に生きる様を描くのはなかなか難しいですよw
全てを解決してしまえる『スーパーヒーロー』がいるなら(しかも、定期的に出現する事が保証されているなら)、その存在に全てを任せてしまう事の方が、合理的ですらあるんですよね。しかし、この『物語』は、そんな都合のいい答えはない、という観点から編まれているわけで、その世界の理解の階梯的な存在として元型『英雄』であるところの勇者は選ばれたんだけど、そこから先は“託して”去る事がもっとも正しい選択に思えます。

作者のままれ先生が、どういうイメージでプロットを選択していたかは分かりません。しかし少なくとも「受け手」の僕からは、上記の観点で、勇者を殺さないために『祭壇』は出現したと『読む』事ができます。そうして情報圧縮体である『祭壇』を出す事によって魔王と勇者の物語と、託された人間たちの物語を見事に分離を果たし、一度融合した『英雄譚』と『世界の在り様』の双方を満足させる結末が与えられています。

それは「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱っしたみんなの物語」(群像劇…というより、みんなの物語の方が自分のイメージは伝わるかと考えました)となった事を意味しています。二段発射というかディバイディング・ドライバーの後にゴルディオンハンマーというか(←また言ってる)…ともかく二度の『祭壇』の出現で「結局『英雄譚』である」という『引力』からも脱しているんですよね。


■祭壇~人間の精神の発達の圧縮

え~っとまあ、大体、言いたいことは書きましたね。まあ、元々『祭壇』というのは“難しい話”をかいつまんでするための装置の意味があると思うのですが、それが「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱っしたみんなの物語」などという入り組んだ物語を解いて説くには、二段階の『祭壇』が必要だったね…という話になりますね。
まあこれ、人によってはやはり『英雄譚の引力』を大きく捉え「“英雄譚から脱しようとする英雄譚”から脱しようとする英雄譚」…って捉え方になるかもしれないけど。(実際、ラストシーンは勇者たちが締めますしね)そこは、どちらでもいいかなという気がします。今まで述べている『英雄譚』を(光と闇の)“単純化”と捉えるなら、複雑である世界の認識と、単純化は常にスパイラルなものだと思うので。



実は、この世界の『英雄譚』から観た世界の在り様への接続モデルは(子供向け)『英雄譚』の歴史的経緯を凝縮している図であると同時に、人間の階梯的な世界認識(理解)を凝縮した図でもあります。
この話は、人によってはこの記事で取り上げた『ガンダム』の経緯、あるいはスーパーロボットものからリアルロボットものに移行して行く経緯で説明する方が理解しやすいかもしれません。…その方向での話もいずれしたいとは思っています。

でも『魔王x勇者』は、この角度で観たときこの図をそのままワン・ストーリーに収めた美しさを持っているんですよねえ。『ガンダム』でも数作を要したのに…。いや、それはやっぱり突然何の事由も無くできることじゃなくって、相応の時間を経ての『文脈』と『ツール』の整備、それから『臨界』(時機)の存在が不可欠な事だったとは思うんですけどね。

そんな所で、この記事終わりたいと思います。予想外に長い記事になってしまいまして、その割にあんましまとまってないんですが…(汗)書きたい事は大体書けたかと思いますので、自分としては満足だなあ~と。(´・ω・`)それでは。


以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)…のレス

2010年07月12日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036

(↑)この記事での方さんと僕のレスを(その5)の記事の引用用に再掲載しておきます。

■方さんのコメント

このエントリの論調で、まおゆうを敢えて言葉で表せば、

[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]

ということになるのでしょうか。こう書くと言葉遊びみたいですね。
古い英雄譚から抜けだしてより新しい、より世界の在り様に即した英雄譚に接続する過程を描いた物語、とか、そんな感じなのか。
英雄譚→相対化→現代劇
と発展させるのでなく、
英雄譚→相対化→新英雄譚
と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

「光と闇の愚劣な物語」という言い回しが嫌いだというのは、わかる気がします。結局まおゆうも英雄譚という形態に着地する以上は「愚劣」を内包することになってしまうわけですが、愚劣さとは力強さでもあるわけで。伝える強さのためにある程度の愚劣を許容するというか、妥協点を見つけて前よりは聡明にやる、みたいな落しどころが現実的なんじゃないかなと(割り切りすぎてるとそれはそれで酷いw)。

■LDのレス

>[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]

素晴らしい(感)これは僕がまとめの言葉にしようと用意していた言葉とほぼ同じです。一応、脱・英雄譚という説を用いているので“脱する”という言葉を基軸にしたんですが…

“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱っした群像劇

…という言葉を準備していました。…方さんの方がセンスがいいですね(汗)これに「あるいは“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱した英雄譚…と解する人もいるかもしれない」と添える予定でした。“群像劇”なんて言葉でしめるのは、言葉の遊びとしては面白味がないのですがw(汗)僕としては『魔王x勇者』は(旧来の?)英雄譚を脱したと思うので、脱した意味で、別の言葉を添えたかったんですよね。同時にあくまで、これも一つ位の英雄譚の形であると考える事もできるとは思っていて、それはスパイラルな『引力』というものなんでしょうけど…。

ただし、勇者=英雄、メイド姉たち=新英雄、とするならば“新英雄譚”と添えるのもアリに思えます。

…その場合、より正確に述べるならば「“英雄譚を脱しようとする英雄譚”の継承によって脱・英雄譚を果たした新英雄譚」…と、ややこしい!ですねw……なるかと思います。

話がさらにややこしくなるので伏せていましたが、僕は実は勇者は英雄(ヒーロー)ではなく『スーパーヒーロー』にカテゴライズしていて、それが本来の英雄(ヒーロー)の物語に落ち着く話なんですよね。これは勇者=神話英雄の時代が終りを告げ、メイド姉たち=歴史英雄の時代が到来した…という言い方ができるかもしれません。

> 英雄譚→相対化→新英雄譚
> と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

…“先”って目の前の先も、ず~っと先も、同じ“先”なんですよねw……ちょっと方さんの言葉を借りて、僕が群像劇ともとれる英雄譚とも取れると解したその結末を『新英雄譚』と言わせてもらいますと、この『新英雄譚』という結末のあり方は、僕の視界にある“先”をはみ出しているものでした。だから“先”は“先”かもしれないけど、もうこの物差しで測るのは適当でない……というのが率直な感想です。

いや、こういうと『先の物語』じゃないと言っているみたいですが、そんな事はなくって(汗)ただ、方さんの言うところの→現代劇の接続、その描き方の時点で『先の物語』は果たしているよ、と僕は考えているって事です。
その“先”(?)の『新英雄譚』あるいは『祭壇』が二度現われる事は…“先”なのか?というか……後から来た『物語たち』が「英雄譚を脱する英雄譚」である事に困る(?)なら…ああ、この『物語』は二回突破したんだ…“先の先”へ行ったんだ…というか?まあ、自分でも言っている事、よく分かりませないが?(´・ω・`;)そんな感覚を持っています。
とりあえずその部分は単にこの『物語』の『形』として捉えて「情報圧縮論からみた構造」の語りに置いた感じです。


……んんん、なんかこのレスで残りの言いたいことまとめちゃった気もしますが(汗)後日、まとめの記事書きます。


魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)

2010年07月05日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

自分で読み直したのですが、なんかも~。分かんないですね(汗)え~っとガイドすると、『英雄譚』の構造と『情報圧縮論』の話を並行して進めているので、今、どこの話をしているのか不明瞭になっている気がします。順番としては『情報圧縮論』の分解材料として今回、『英雄譚』の構造(そして脱・英雄譚に至るモノ)を選んでいる状態で、そもそも、その素材の『英雄譚』ってどういうもの?という話になっている感じです。

他の諸々の分かりづらさは……すんません、ほんと、もう、すんません。…とにかく続けます。

■『情報圧縮』の無い作品



まず『情報圧縮論』の補足として、『情報圧縮論』が適用されないタイプの作品、『風雲児たち』(作・みなとも太郎)を上げておきたいです。1979年から連載が開始されて、未だに未完のこの『物語』は、幕末~維新回天を主題にしながら、その時代をおよそ300年遡った関ヶ原の合戦から物語を始まりました。そのまま幕藩体制誕生の物語が進み会津藩が誕生した所で、ようやく本題の幕末に“跳ぶ”かと思いきや、今度は『解体新書』の杉田玄白、前野良沢から当時の幕府(日本)における、西洋との関わり方の経緯から切々と描き始めるという。そして現在(2010年)、ようやくハリスと日米修好通商条約を結んだところ!という、空前のスケールで描かれている歴史大河マンガです。

『物語』というのは『面白く』無いところは端折ったり、割愛したりして『面白さ』の結晶になるようにして作られて行くのが基本(?)の作劇というものだと思いますが、これはその歴史に『詰まらない』所なんて無い!総ての物語がつながって端折れるような所なんて、本当は無いんだ!と力説して、その圧倒的な『面白さ』でそれを納得させている。それは『圧縮』しない事の凄みが描かれているって事です。(厳密に言えば原初的な情報圧縮技法(省略法)は当然取り入れられていますが、大意において…という意味ですね)

ただ、これは『情報圧縮論』の当初のまとめから言っているように莫大な才能と経験を必要とする事です。一見正攻法に観えるこのやり方での到達をまざまざと魅せられてしまうと、何か微妙に『受け手』の文脈を読むリテラシーに依存しているような『情報圧縮論』の方法は、かなりあほらしいものに観えてしまのも無理からぬ事とも思うんですけどね。え~…まあ、こちらはこちらで別の価値があると思って話を進めています。

※あと『情報圧縮論』に入る時期の、ある種の臨界点の作品として士郎正宗先生の一連の作品を上げておきたいです。コマ外にメモ書きを相当詰め込んでいたあれですが…wいや、こっちの話はまた長くなるし、まとまって無いので別の機会としますが。まあメモ書き程度で。


■『英雄譚』の引力

【フランス】御旗のもとに【シャルル・ド・ゴール】

神話に彩られたレジスタンスと自由フランス、しかし当時のフランス本土はヴィシー対独傀儡政権とドイツ軍の支配下にあり、実際のところ、レジスタンスに加わった者はフランス国民全体からすれば少数派であった。
現在フランス史学会ではレジスタンス神話の克服が進められ、闇の部分であった対独協力の歴史に重点がおかれている。しかし、対独協力もまた、国民全体からすれば少数派であっただろう。

ヴィシー政府・ペタン元帥「一握りの『英雄』と、一握りの『悪党』で、全てを語りうると考えるとき、歴史は『光』と『闇』の愚劣な『物語』に堕してしまうだろう…」

(最初、コメント外し推奨)また、“英雄譚”が持つ引力(?)のようなものの一例として一本動画を上げます。この『御旗のもとに』という動画は、『サクラ大戦3』のテーマ曲と、第二次世界大戦時における自由フランスの指導者・ジャルル=ド=ゴールの戦いをまとめたもので、youtubeやニコニコ動画が発足する以前、個々人がフラッシュ動画を作って自分のサイトなどにアップロードしていた時のもので、2ch世界史板のコテハン・ナポレオンさんが作成したものです。

動画の間奏で、上記した引用文が添えられるんですが、歴史を学ぶ人らしい一文だと思います。世界の在り様に明確な善も悪もなく、その単純な理解のままにとどまる事は愚劣な物語に堕してしまうだろう……と、ここでは言われていますが、まあ『物語』を愉しむ事はまた別物ですけど、世界の認識としては非常に危ういものであるとは言えると思えます。

同時に製作者のナポレオンさんは、そうエクスキューズした上でド=ゴールを目一杯英雄として描いているのですよね。もう、ほんとに、リミッターが振りきれるくらいにw
それが『光』と『闇』の愚劣な『物語』だったとしても、僕はそれで得られる感動を僕は“本物”だと思っているし、これを在り様のままに、加工なしに、一握りのレジスタンスと、一握りの対独協力者と、そして大勢のそうでない人々を均一に描いたとしても、この感動まで持ってゆくのは、相当な困難がともなうと思うんです。現実の理性に基づく世界への接し方の学習は他の領域にお任せするとして、僕は“この感動を維持したまま”如何に、世界の在り様への接続性を高めてゆくか?という試みに興味があるんです。

そして『魔王x勇者』の『物語』を考えたとき「魔王と勇者が延々と争い合って行くこの物語の先を見よう。行こう」という示唆はいったい何を意味するのかと言えば、正にこの『光と闇の愚劣な物語』(この言い回し、好きじゃないんですけどねえ……まあ、ペタン元帥からしてみればそう言わざるを得ないよなあ)から脱しよう!そういう世界の“割り振り方”をやめて次の景色に行こう!という事なんだと思います。

…………………でも!それでも!『英雄譚』の引力は働くよね?というのが、今、僕がしている指摘なんですけどねw

また“子供じゃないんだから”止めようという行為は「や~めた!」の一言で終わるものではない。今まで『英雄譚』で世界を語ったなら幕引きにもその責任がともなう……という事でもあります。この『物語』で祭壇が二度現われるのは、それらの意味を内包した上で在るもののはずなんです。

■歴史の圧縮
勇者「そう考えれば……。さっきよりは無理じゃない気がしてきた」
魔王「であろう?」

勇者「そうだな。俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」
魔王「なにをいうか。見届けるまでは……」

メイド長「まおー様」
魔王「あっ……」

勇者「……」
魔王「……」

勇者「まぁ、うん。とにかく随分目の前が開けたぜっ!」
魔王「……」

勇者「なんてツラしてんだよ。忽鄰塔を乗り切らなきゃ
 どっちみち明日も明後日もないんだぞっ。
 そのみっつの氏族を切り崩す準備はあるんだろうな?」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」6スレ目より、フォント拡大部加工)

さてようやく『魔王x勇者』の話に戻ります。…このシーンすごく好きなんですよねえ。(=´ω`=)その覚悟に泣ける。…敢えて説明すると『丘の向こうを見る物語』は、本来は自分たちの代~少なくとも勇者(人間)の寿命では~辿り着けないその道の途中で終わる事があり得る物語である事を示しているんですよね。それは、真っ当に、捻りなく“歴史に接続”をすれば、たとえば上記した『風雲児たち』の世界へと入って行く事を意味しています。



それは、たとえば、外国の侵略に備える事を称えながら、彼の生きた時代では本格的な“来寇”は起こらず。単なる奇人、幕政批判の人として弾圧されて死んでいった林子平の物語のようになってくる。非常に乱暴は評価ですが、敢えて言えばエンターテイメントとして、彼の物語にはクライマックスは無いんですよね。彼が行った事の意味は、その死後数十年経ってはじめて発揮されて行きます。(←あれ?『魔王x勇者』の話に戻っていない)
こう言うクライマックスが来なかった人の物語というのは、たとえば“主人公の父の物語”とか“先祖の物語”とかで省略されたりするんですけどね。後から語るなんて手法を避けて、律儀に、この詰まらない報われない物語から(プロローグ的に終わらせず)しっかり始めようとすると、大抵、強い指示に変えられなくって、その物語は途中で終わっていったりします。

その一つの退避のかたち…というか『魔王x勇者』の特徴として、『物語』としての……分かりやすさというか、象徴性というか、一人の主人公の『物語』として成し遂げられるのカタルシスの選択として“外なる図書館”が登場しますね。この『物語』のチートwを集約したようなガジェットです。この物語の展開させる原動力となる、魔王の知識や先見性はこの図書館を立脚点としている面が大きい。
馬鈴薯の栽培、黒色火薬から銃器の発明、種痘による天然痘の予防など、総て完全に…とは言わないまでも“図書館”に拠る展開と言えます。そして、それらの展開の連続した投入によって『魔王x勇者』の物語は歴史的な圧縮が起こり「欧州の十字軍遠征の時代から第一次世界大戦あたりまでの歴史的経緯を1ストーリーで描き切っている」…という評価を得るに至っています。

この“図書館”というガジェットそのものを『情報圧縮体』というつもりはないです。しかし、『物語』を圧縮して語ろうとして出てきたアイデア……いや『物語』を『面白く』しようとして、出されたアイデアが、結果として『圧縮』を呼んでいるという順番が正確でしょうが、結果として1ストーリーにまとめる力を持った。
それがなければ、あるいは「風雲児たち」のような展開に突入して、そしてみなもと先生程の才能がなければ冗長極まりない大河『物語』になったかもしれない事態が回避されている事~歴史性を保ちつつ圧縮されている事~を指摘しておきたい。
実際に勇者自身から「俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」というセリフが引き出されている。その視点は確保されているんですよ。

これねえ……僕も、遂に説明される事がなかった“図書館”の話については、すご~く!いつまで~も!気になっちゃうんですよねw(いや!説明が欲しいわけじゃないですwそこは自分で想像するから!w)また、僕としては、まあ、大した指摘じゃないと思うんですけど、“図書館”というチートを利用する事によって「そういうチートがあるから(本当はそのチートがない)“世界の在り様”の接続が不十分だ」という~僕の英雄譚から世界の在り様への接続を果たしているという評価に反論する~指摘も生み得るんですよね。

しかし、そこはもう上に上げた『御旗のもとに』の説明通りで。「魔王x勇者」の『先の物語』としての到達点は『英雄譚』からの脱出であるという観点から、この話をしているのですが、物語構造のメタな部分として、やはり『英雄譚』の引力は受けて行くんですよね。その力場はかなり強い。また、そうでないと『面白さ』の維持は大変難しものだった…と言えると思います。

たとえば日本神話にあるヤマトタケルの『物語』なんかは、時代も違う複数の反大和王権勢力の討伐の経緯を一人の主人公に集約して描かれたものという説(解釈?)などがあるように、歴史という長大な人間の物語を描こうとして、一人の人間の物語を描く時間でそれが完結するようにまとめるのは、正に“英雄譚”の生成そのものなんですが『物語』がシンプルであろうとした時に、そこに回帰してゆく力場のような物は感じられると思います。……感じられますよね?(汗)

“外なる図書館”の導入はこれらのバランスをとって『物語』を紡いでゆく回答として白眉のものに思えます。…単純にオーバーテクノロジーを引っ張り込むというアイデア自体はいくらでも散見されるわけですが、この場合、それを“どういう意味で描くか?”という選択の話になるかと思います。

■『情報圧縮』の顕現

光の精霊「やっぱり。ダメでした……。
 竜王の時も死導の時も。憎魔の時さえも。
 結局は思い出してはくれなかった。
 それでも……良いです。
 彼を裏切ったわたしには、
 あなたに何かを要求する権利なんて
 最初から何一つ有りはしないのだから……」

勇者「そうかなー」
魔王「そんなことはない」

光の精霊「え?」

勇者「裏切ってなんかいないだろう」
魔王「まったくだ」

光の精霊「え? え?」

勇者「まぁ。光の精霊は少しとろいからなぁ」
魔王「そんな感じだ。それにしたって、長すぎる誤解だ」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」13スレ目より)

もう一つ、僕が『魔王x勇者』で注目している設定に、光の精霊によって救済された世界で、“勇者(光)”と“魔王(闇)”の物語は延々と繰り返されていた…というものがあります。直接的にはこの設定が“二度目の『祭壇』”を呼び込んでいるワケなんですけどね。

というより、僕は『魔王x勇者』に感動して、こうも長々と益体もない文章を書き続けているのは、(↓)下の『先の物語という意味』の記事にある事の方が先で。まず『魔王x勇者』の外にある……いわゆる近代の“子供向け”の英雄譚たちが繰り返し戦い、『祭壇』に至り、しかし悩み続けるに留めるような…そういう回答で多くの物語が終わってしまう事に対して『臨界突破』を仕掛けている作品である事に「おおっ」と思ったからなんですね。それは最初の『祭壇』である魔王と勇者の対話によって描かれ、はじめられている。
それの回答として……たとえば「馬鈴薯を栽培しよう!」というような答えの示す手順に「おおっ」と思い。それらを1ストーリーとしてまとめ上げる過程に、僕が以前から悶々と頭の中で考えていた『情報圧縮論』の具体例が様々な箇所で見出されたので、こっち『情報圧縮論から観える構造』を書いている…という順番です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

詳しくは(↑)の文を読んで欲しいのですが、僕はこの『魔王x勇者』外の近代の子供向け英雄譚…というものを、大体、『宇宙戦艦ヤマト』~『海のトリトン』~『ガンダム00』~『コードギアス反逆のルルーシュ』といったレンジで語っているのですが、僕はこれらの文脈を知らなければ『魔王x勇者』という物語を楽しめないと言うつもりはありません。こういう“流れ”のようなものを体感する『愉しさ』を知って欲しくはありますけどね。

しかし、何が言いたいのかというと、この「光と闇の戦いが繰り返される」という設定そのものが『情報圧縮体』なんですよね。(↑)上の記事で述べている文脈をしなくても『受け手』は擬似的にその文脈を体感できるという……文脈の存在有りきで語って、いささか逆順的ではあるんですが、正に!『情報圧縮論』から観れば!そういう役目を果たしていると言えるんです。この文、そういう話なので(汗)
これを『情報圧縮の顕現』と呼ぶ事にしています。その情報の解凍に予備的な知識は要らず~擬似的、あるいは直感的に~その情報を教授できる…まあ、多くは何らかのキャラ、ギミック、ガジェット、あるいは全体的な設定といった『情報顕現体』に固めるのに、相応のアイデアを必要とする事になりそうですが…。定番化できるものはガンガン流用するといいかもしれませんね。

■少しまとめます。

ちょっと、構成間違えたような気がしないでもないですが……(汗)ここでもう一度(その3)を読み直してもらえるとありがたいです(元々、ここまでをその3にするつもりだった)。
まとめると、繰り返しになりますが、「英雄譚からの世界(の在り様)への接続モデル」という“文脈”があって、『魔王x勇者』は『情報圧縮の顕現』などを利用して、このモデルの全体が『物語』内に収められていると。それは作者がそう意図している…という話ではなくって、『情報圧縮論』の角度からこの『物語』を観ると、そういう構造が観えて来ると。そういう話ですね。
そして、本当の意味で“世界の在り様”への接続を果たすには、英雄譚である事を止める必要がある。「光と闇の愚劣な物語」(繰り返しますが、この言い回しは好きじゃない)で世界を語る事を止めなければならない。しかし、それは「や~めた!」の一言で止められるものではない。
同時に『英雄譚』の引力、英雄譚である事の感動や“伝える力”というものがある。それは“伝える力”としてギリギリまで保持したいもの。それが脱・英雄譚の『物語』という事ですね。そのバランスの中で二度目の『祭壇』は現われる。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2





……え~っと(滝汗)。ちょっと時間が限界です。また終われなかった(汗)なんだろう?この読み違え?とまれ、次で本当の本当に終わります。



以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)

2010年06月15日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

え~っと。何か、書いても書いても終わらない感じで、なんだかな~って、テンション落ちていない事もないのですが……伝えたい事があるので書きます。人によっては「何でこの人「魔王x勇者」と関係ない話をだらだら~っと書いているの?」とか思われるかもしれませんが……(←ああ、やっぱテンション落ちている)
まあ、でも今まで断片的にしか語れなかった「情報圧縮論」をある程度に一纏めに語れそうに思えて、つらつら書いているわけですよ(汗)誰かが(多分、ペトロニウスさんですけど)「この作品はあらゆるキャラクター・ストーリーの大元(素体)になる。何か一人のキャラの物語を書きたいと思ったら、この作品の一部分を取り出して書けばいい。それ程の物語だ」といった、言い回しで誉めていましたけど、それに類する事ですね。それだけ素晴らしい「物語」だと。本稿は言ってみれば「何故、それが可能となったのか?」という角度の話をしていると思って下じゃい…orz


■魔王x勇者は二度祭壇に上がる

実は(その3)の記事を書く前に意図的に「風の谷のナウシカ」のラストの解釈の話と「祭壇」の話を書きました。

【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b

【「祭壇」という原型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648



※「海のトリトン」(左)、「無敵超人ザンボット3」(右)のそれぞれの「祭壇」(に当たる)シーン。この頃、富野監督は「祭壇」を多用したと言える。…何故そうなったか?

「祭壇」というのは、近代の英雄譚~ぶっちゃけ、おたく向けヒロイック・ストーリー~の最終局面でよく現れる”場所”の事で、まあある種の定番ですね。ラスボスとの対決前に現れてラスボスとの対話が行われるか、ラスボスとの対決後の超存在との対話で現れるか…といったいくつかのパターンがあります。
いや、難しく書いていますが、様々なバトル・ストーリーにおいて最終決戦の時にラスボスが「愚かな人類は滅ぶべきなのだ!」とか滔々と悪が悪を為すことの正当性を説いたり、あるいは「お前たちのやってきた事こそ悪なのだ!」と何らかの衝撃的事実ってヤツを述べて「善悪の逆転劇」を図ったりするあれの事です。まあ、総ての英雄譚に現れるワケでもないんですが、複雑化されたテーマを解きほぐす役割としてはかなり重宝に使われていると思います。



それに対してヒーローは…まあ、これも、いろいろ言い方変えたり、理屈をこねたりするのも居るんですけど、要するに「こまけぇこたぁいいんだよ!!」と言って悪をぶっとばして、めでたし、めでたし…となります。(`・ω・´)……うん。まあ、大体合ってるハズ。

詳しくは記事に書きましたが。「物語」の物理的には、自らの正当性を示す場所…これから暴力でこの敵を倒すけど、これは理論的にも正しい~少なくとも「受け手」が共感を持つ~行為なんだという事を宣誓してぶっとばす事に端を発しているはずです。
逆に言えば悪と悪の理論がそれほど手強くなって初めて対話型「祭壇」は出現しているのですね。これ、べつに町のギャングとかヤクザをやっつけるヒーローなら、まず「祭壇」は出現しないワケで、そこは善悪が明らかすぎて判定の場が必要ないですから。

また「物語」の心理的には、その場所が祭壇と名付けたくはる程、厳粛なイメージを持った場所である事に「原型」を見いだし、注目しているわけです。仮に明らかに「祭壇」の場面であるはずなのに、そのシーンが厳粛とはかけ離れたイメージで描かれている場合、おそらくはその作品の特徴…というかテーマが関連している事が考えられ、そこから作品を「読み」解けないか?と考える事ができる。「ドラゴンボール」に基本的に「祭壇」が登場しない。それは何故か?という考え方をしてもいい。

まあ、それでこの考え方を持って「魔王x勇者」の「物語」を眺めてみると…

「魔王x勇者」は「物語」として二度祭壇に上がっている。

…という事に気がつきます。第一の「祭壇」は魔王と勇者による対話です。第二の「祭壇」は……先に既読者向けと宣言しているのでかまわず述べますが、光の精霊と魔王x勇者による対話になります。本来は最終局面で現れるはずの「祭壇」が二度現れるという、これは、おそらく「魔王x勇者」という「物語」の最大の特徴であると思う。

二度「祭壇」が現れる…というその意味は、テーマが二つ語られるというか、二段発射というか…ディバイディング・ドライバーを決めた後に、ゴルディオン・ハンマーで仕止めるというか…(←何か言い出した!)そういう意味があって、これは後述して行きます。その現象があれほど一気呵成に描かれたストーリーの中において可能なのは「情報圧縮」がされているからではないか?というのが本稿の主旨になりますね。
しかし、その説明には「物語」が「英雄譚」に引き戻される引力というか、物語の持つ本質的な回帰から語る必要がありそうです。……あるような?ないような?別に根詰めなくてさらっと流せばいいような…気もしますが(汗)とにかく触れておきます。


■世界の「在り様」への接続



ちょっと、この説明をするにあたって図像でモデル化してみました。まず、竜(魔物)退治物譚や勧善懲悪譚を大元とした「英雄譚」があります。その「英雄譚」が次第に複雑化されて行き、やがて(単純に善悪では語れない)「世界の在り様」への接続に繋がるという…………いや、あんまりいい図じゃないんですけどね(汗)いつまで立ってもいい図にならないので、とりあえず、思いつくままに文言を並べて描いてみました。

このモデルは時系列性と(同時の)並列性の二つの状態を持っています。原初的な伝説が複雑化された近代の物語として接続されるまでの経緯=時系列性と、同時期であっても単純化された物語と複雑化された物語は同時に存在し得る範図=並列性の二つです。
基本的な「英雄譚」は、時系列にしろ並列にしろ、このゲージの“どこか一部分を占める”事で、作品のイメージを持つ事ができるのではないかと思います。

逆に言うと、本来の「英雄譚」はこのゲージを断片的にしか表現しないのですが、「魔王x勇者」の物語としての基本構造が、世界の在り様への接続モデルの全部を顕している事は分かるでしょうか?「魔王x勇者」が他の「物語」と比べて殊更に膨大な文字数を消費してる物語ではない。そうである以上、この広い範囲を内包しているのは、必ず何らかの「情報圧縮」が入っているよね?という考えているワケで、かつ、その圧縮のキーとなるのが“二度現れる「祭壇」”という話になって行きます。

本来の「英雄譚」が、英雄をどのように描くか?という~それは絶対正義のスーパーヒーローとして描く道と、世界の在り様に翻弄される一人の人間を主人公として描く道の二端のどこか?という選択になってくるのですが~テーマを持つ事に対して、「魔王x勇者」は「英雄譚」そのものが、世界の在り様へ接続する事それ自体を描く、そういったテーマの違いではあるんですけどね。その文脈は以前の記事「「先の物語」という意味」においても書かせてもらい、それを脱・英雄譚と表現させてもらっています。

ここで「魔王x勇者」を、単に“複雑な世界の在り様を描いた「物語」”として捉えてしまうと、やあ、それは普通の歴史物で充分描かれているものだよねって話になってくると思うんですよね。
今、僕は「英雄譚」という言葉に拘わって書いていますが、複雑化された世界と接続された「英雄譚」は既に「英雄譚」ではなく、歴史や群像の中から「主人公」として選ばれた誰か?であり、仮にその語り口が英雄譚的であったとしても英雄譚のように見える何か?という解釈にシフトされて行くはずです。

これを敢えて単純に「英雄譚」を“子供”の物語、「現実歴史群像」を“大人”の物語として語ると、単純な「英雄譚」は少なくとも世の中はそう簡単なものではないという認識においては、いずれ“卒業”するもの…という捉え方もできます。
…で、ここで“卒業”してしまうと“大人”はいきなり世界の在り様への接続からはじめてしまうワケです。歴史もの~あるいはノンフィクションとい所まで行ってしまう。それらはさらにそれ以上知りたければ歴史書を当たれ…とか「書を捨て街へでよう」なんて話にもなってくる。……最終的には「物語を介して世界を知ろうとなんかするな!実学実地で学べ!」という身も蓋もない正論が待っています。(´・ω・`)

これは「物語」における一面の事実(言葉は不完全なツールという領域をも含むものですが)を突いてはいます。…また「物語」は、ある事象(この場合はテーマも含む)をシンボライズ化して描かれる、あるいはある一面をピックアップ(ディフォルメ)して描かれる、側面があってその時、世界の「在り様」は否応なく欠損するのだ……という指摘はけっこう逃がれ難いものがあります。分かりやすく言えば「物語」が「面白さ」を求めるものであるなら、各事象に対して「面白い」か?「詰まらない」か?の判定が付きまとって、つまらない部分は切り捨てられる。この時、世界の「詰まらない部分」は切り捨てられているのだ…と。
(※「じゃあ、こちらで、あらゆる事を「面白い」と感じる事ができれば、その欠損は消えてゆくよね?」…というのが、このブログで時々、書き綴っている「物語愉楽論」の目的地ではあるんですが。まあ、それはちょっと自己修練じみていて、あまり総体的に持ち出す話ではない…と)

少なくとも勇者たちがいつまで経っても“戦いの物語”から抜け出せないのはこの力場が働いているからでしょ?

だからこそ「魔王x勇者」において、「丘の向こうへ行こう」と宣言され、その手始めに持ち出されたのが“馬鈴薯”であった事に痺れるんですよね。…「世界を描きたいなら、最初から世界の在り様から描けばいいじゃん。そしてそういう物語は昔っからあるよね」…と、そういう話じゃない。(敢えて言うと)“子供だまし”の「英雄譚」が“子供だまし”から始めて、「面白い」を保ったまま、世界の在り様に接続する。その事に意味がある。その人間の階梯的な理解(認識)を1ストーリーに凝縮している美しさがある。

僕は、どこまで行っても「物語」読みなので……「面白さ」を維持しつつ、世界の「在り様」への接続~「先の物語」~「大きな物語」~を目指す「物語」の流れそのものが好きなんですね。仮に実学実地を学ぶとしてもそこに回帰するために為すと言ってもいい。様々な在り様をボロボロこぼしながらも、逃すまいと拾い集め、それらを「面白い」ものへと昇華させて描きの俎上に返して行こうとする「物語」の「在り様」そのものを愛しているんです。
故に、それこそ原初の竜退治英雄譚クラスの勇者が、世界の「在り様」への接続を果たそうと苦闘する、この「物語」は大変に、そして純粋に「面白い」なと。そう思っています。




…………………(滝汗)。o(……なんか「情報圧縮」の話、全然しない内に一区切りきちゃったな……)ちょっと前提の話で終わってしまっているのですけど、ここで区切ります。まあ、この話、“二つの「祭壇」”の話でまとめて行きたいと思っているのですけど、その前提として「英雄譚」の持つ力場/回帰性を述べておく意図でした。…次で何とかまとめたいと思います。(´・ω・`)たぶん。

(↓)続く

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036


以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b