今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【6月第3週:アイシールド21 touch down READY SET HUT】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10416.html#592

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



ローズ・トゥ・人気漫画家マンガ、「バクマン」の今のフェーズは……“新連載編”とでも言えばいのか…。かなり緊張感を持った連載になっていますね。…といいつつ、今週もう安定しちゃったのかもしれないんですけど(汗)この回、打ち切りを回避するために、連載を如何にすべきかという議論が、担当編集とサイコー+シュージンの間で交わされます。その議論は、どちらも正しい…というか、後付の結果論以外に正解なんて無いようなものなんですよね。

まあ、ちょっとシビアに言うと、今回、テコ入れするか否か?の議論がされていますが、実はテコ入れそのものには、正解も不正解もないんですよね。それがテコ入れだろうが、そうでなかろうが、「人気様」にとって「面白い」事をしたら上手く行くのであり、逆に「詰まらない」事をしたら上手く行かない……純粋にはそれだけですよねw
…さらにシビアな事を言うと、大抵、この世の在り様というのは“テコ入れしようがしなかろうが打ち切り”という未来しか神様が用意してくれていない事も多々あるワケでね(汗)…いや、人を腐らせようというのではなくって(汗)逆にそんな在り様だからこそ、正解の道があると強く信じて、ギリギリの判断をし、行動して行く人はとても熱い!という話がしたいんです。

ん~~~、ちょっと脱線気味なんで、戻しますが…(汗)対戦相手がはっきりしていて、自分がどのように成長すべきかもハッキリ示される、バトル/スポーツ・マンガとはまた違った緊張感を感じています。またマンガ家稼業は、一度失敗してもまた挑戦できる…というモノでもあり、これもまた「打ち切りの展開も有り得る」という緊張感を出すものになっているんですよね。……かつての連載メソッドは「絶対に勝たなくてはならない」理由を置いたりして緊張感を出すなんて事をよくしていたんですけど、今はそれをすると返って「んじゃ、勝っちゃうんだよね?」と「先読み」されてしまうというかww……まあ、ここらへん物語世相全体で「フラグ外し」の動きがあるように感じていますが、「バクマン」の方も、サイコーたちの目標はあくまで彼らの上昇志向の動力源に留めて、制限としては利用していないですよね。

そんな具合に「バクマン」はかなり展開幅がある構造になっているというか、あらゆる可能性を残しつつ、展開して行っているので、なかなか先を読ませてくれません。そのくせ福田新太や、中井さん、あるいは新妻エイジの次の成り行きの想像は掻き立てられ、彼らがどうなってしまうか凄く気になるんですw


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【物語三昧:絶対悪とは、時間軸のない(弱い)物語であり、目的はテンションの転換であって世界を再現することではないのでは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090616/p3

本日友人と、映画『ダークナイト』のジョーカーの話で盛り上がった。絶対悪を描く時に外部帰属(=悪になった理由)を描くと陳腐になるという話をしていて、レクター博士の二作目は最低につまらないし、『モンスター』のショボさったらなかった、という話になった。

ペトロニウスさんのこの話題、僕の周りのMixiのマイミクさんたちの間でも話がされていて、僕も「悪役」が大好きな人間なんで、何か書き留めておこうかなと。…とは言え、本当はMixiでの流れとかがあって、そこらへんの文脈が分からないと全体像が伝わらないかもしれないんですけど(汗)………僕の理解でかいつまむと、これって「究極の“悪役”ってどんな奴?」という話かな?と思っています。“悪”ではなく“悪役”~抽象的なそれを体現/顕現する者。“悪人”ではなく“悪役”~あくまでドラマツルギー(エンターテインメント)の中で成立する演者。…という理解です。

これは、元々“答え”が無い(唯一解が無い)ような話ではあるんですよね。さらに言えば、現代社会では「善と悪の物語」を単純に信じ切れない程…ある意味、成熟してきており、様々な要素が絡んで“答え”をさらに複雑なものにしている面がありますね。昔は「そもそも悪とは何か?」なんて話をする必要は(大勢において)なかったのが、現在だと、まずそこから考えないといけない状態というのは有りますよね。(※ここらへん、おそらく「相対と絶対の話」~「細分化と一本化への再構築の話」にも繋がってくるような気がします)ただ、色んな人と話をしていても、おそらくこれは共通項というか“究極を目指す悪役”の条件と言えそうなものが一つある事が分かってきました。それは何かっていうと……“悪役”は言い訳なんかしちゃダメだよね?w…という話でw
いや、言い訳しても“悪役”というカテゴリーから即外れるってワケでもないですが、少なくとも“究極の悪役”候補にエントリーする気はちょっと失せてしまうw「自分はこんなに不幸で可哀想なので他の連中も同じ目に合わせてやろうと思いました」でも「世界を救う為には自分が悪を引き受けるしかないと思いました」でも何でもいいんですが、言い訳をはじめたら、それは“悪”ではなく“ルサンチマン”だと言うのは、本当にそんな気がします。まあ、希に自説を滔々と垂れ流していても、異様な自信というか“交渉不能感”に満ちたキャラクターがいて「ちょwwwひえええ~ww通じねえこいつ…!w」って感じ入ってしまう事もあるんですが…まあ、希ですねw

…で、僕の方も「絶対悪」という言葉から思い浮かんだ“悪役”たちを挙げておこうと思います。いずれも、今は古典の部類に入る作品なんで、現代の“究極の悪役”とは?という問いには必ずしもフィットしないとは思うんですが…(汗)古典故に、シンプルに“悪”を突き詰めている所があって、思考の出発点になるかな?とは思っています。


■不滅の悪…黒い幽霊団(サイボーグ009)



黒い幽霊…「009ト言ッタナ、ワタシニソンナモノハ役ニ立タナイヨ。ドンナチカラモ、ワタシヲ滅ボスコトハデキナイノダ」

そもそもストーリー・マンガで戦いの果てに“根源的な悪”にまで到達したのは「サイボーグ009」がはじめてのような気がするんですけど…どうなんでしょうね?いや、今、思いつきで書いているし、そも“根源的な悪”の捉え方自体で変ってくる事なんで、拙速に詰めても詮無いですが(汗)…ただ、こういう“敵”に遭遇する可能性がある物語ってSFあたりになってくると思うんですが、たとえば「鉄腕アトム」は“根源的な悪”というモノと対決する事はなかったですね。(繰り返しますが、捉え方によるものではあります)それは「鉄人28号」も、よりハードな「エイトマン」もそうです。(…ああ、でもその後、あの「幻魔大戦」か…)
これは特撮ヒーローなんかでもそうで「月光仮面」や「七色仮面」は基本的に“悪”を討つと言っても相手はギャング団(犯罪者)なんですよね。それが宇宙からの来訪者に変っても本質的な部分は同質と言え……「ウルトラマン」をどう評するか?という所もありますが、何だか得体の知れない“根源的な悪”のようなもの…と対決する事になるのは、同じ石ノ森作品である「仮面ライダー」の登場を待ったはずです。多分、これは石ノ森先生のテーマなんだと思っています。

その黒い幽霊が009と対峙した時、彼(?)は自分を滅ぼす事が不可能である事を主張します。その理由は3つあるんですが以下の通り。

1.自分は電磁バリアーで守られており009の武器ではこれを破壊できない。
2.自分は黒い幽霊の“細胞”の一つに過ぎず、その一つを破壊しても“細胞”はまだ多数存在する。
3.自分は“人間の心”から生まれた存在であり、人間を皆殺しにしない限り、何度でも甦る。

この3つ目の理由が黒い幽霊をして“根源的な悪”と言われる由縁であり、ラスボスが断末魔代わりによく言う「私を倒しても第二、第三の(ry」…って言うのは出典なんですっけね?wそういう「終わりなき善と悪との戦い」を一つの作品内で説明つけてしまっているんですね。もっとも「サイボーグ009」における“悪”とは(大意においては)「戦争を起す者」の事であり、何故、戦争が無くならないのか?と言えば、人間の心の中に“悪”があるから…という、現代的に観れば「そんな単純なもんでもないんじゃ…?」という指摘がないワケではないでしょうけど、ただ、そういう“悪”という考え方が時代によって変化しようとも、それが人間の心から発生する限り滅する事のできない存在であるという指摘であり、たとえばそれは今も「正しい者と悪い者の対決の物語」(つまり第二、第三の黒い幽霊)が作られ続けている事によってメタ的に証明を受けている…とも言えるんですよね。


■純粋な悪…グルンワルド(太陽の王子ホルスの大冒険)



グルンワルド…「ゆけ、そしてホルスを倒すのだ。お前自身のために…」

「太陽の王子ホルスの大冒険」を知っている人で、グルンワルドを今の話題に入れる事には違和感を感じる人がいるかもしれません。グルンワルドって所謂“悪魔”なんですけど、キャラクターそのものは実はそんな悪人に観えない所があって……いい人では全然ないんですけどね…わりと熱心に仕事をする“悪魔”…?(´・ω・`)いや、余計な話は置いておいて(汗)戦闘力的に観てもグルンワルドはそんなに脅威的な存在ではないんですよね。“絶対勝てない感”はない…。むしろ、クライマックスはホルスと彼が従えた村人たちに、正直、なぶり殺されている。(正直、可哀想になってしまうくらい惨めに死にます)しかし、「ホルス」のテーマとは正に“善と悪の戦い”そのものであり、最期はなすすべも無く滅びてしまうからこそ、悪魔グルンワルドは、“純粋な悪”なんです。

「ホルス」における“悪”とは何かというと、それは「互いを信じられない心」なんですよね。「ホルス」の舞台は北海道(アイヌ)というか北欧というか…ともかく冬は極寒となる土地で人々は小さな村落で身を寄せ合って生きています。…そんな中で“互いを信じる事”を止めてしまったら、後は、人間は冬の凍てつく吹雪に呑込まれて滅びるだけなんですよね。グルンワルドは正にそこを突いてくる“悪魔”であり(グルンワルドの目的は分かりません、ただ人間のいない凍てついた土地を拡げる事だけが彼の望みに観えます)、妹のヒルダを使わして、村人たちの猜疑心を煽り、互いに助け合う気持ちを奪ったところで冬の軍団を差し向けて滅ぼす…そういう話です。
そのグルンワルドに主人公のホルスはどうやって勝利するのか…?実は、僕はこの話めちゃめちゃ好きで…wヒルダの手によって、一度入ったら永遠にさまよい続ける“迷いの森”とういう所にホルスは落とされるんですですけどね。ホルスはそこから理由なく抜け出るんですよね。そしてグルンワルドに対抗する太陽の剣を打ち直す方法を理解して村に帰り、その時から、ホルスの反撃が始まります。この展開に入った所で、先ほど述べたように戦いはホルスと村人側のほぼワンサイドゲームになる。…その転換点となった迷いの森からの脱出について、ホルスは突然「そうか!分かった!!」と叫んだかと思うと、迷いの森を抜け出してしまうんですよね。何と言うか、そこに説明らしい説明がほとんど無いんです。

これねえ…どういう事かと言うと…。悪魔を倒すのに最初から理由なんか要らなかったっていう話なんですよね。人間が正しい心を持ってさえいれば、悪魔はそれだけで滅びるしかないという物語なんですよね。「雪の女王」とかも、これに近い話ですね。(…というか、この作品、多分「雪の女王」は参考にしていると思うんだけど…)……何の力も持っていないゲルダがカイを救い出す事ができたのは、なぜか……?数は多くないんですが、(大抵の作品は説明を用意するのに対して)たま~にここのラインを狙ってくる作品はありますね。…単にご都合とか、説明不足で片付けられちゃったりもしますが…(汗)

というか「ダークナイト」のジョーカーにおける、客船の“あのシーン”が正にこれ!なんですよね。人間に正しく行動されるだけでジョーカーはただの道化に成り下がる。先の「だからこそ我々は滅びない」と断言する黒い幽霊の逆説なんですが、“悪”が人の心から発するものであるならば、その人の心が、正しさを失わなければ、純粋な悪であればあるほど、もう何も為す術はないのだという指摘もまた有るのですよね。


■邪悪…白イタチ・ノロイ(ガンバの冒険)



ノロイ…「お前たちは“この世で一番美しい白い花”を汚した!わかっているはずだな!白を汚したものはどうなるか!」

白イタチ・ノロイは“究極の悪役”の一つでじゃないかと思っています。上に掲げたセリフは、実は部下のイタチに向けられたものです。イタチの集団がガンバたちを追い詰めて爪を掛けた時、その血が白い花につき“汚した”……その事をノロイは許さず、部下を引き裂いて殺すんですね。この白に対する異様な執着から、ノロイの本性を垣間見る事ができます。
「ガンバの冒険」はネズミの天敵であるイタチに集団で追い立てられる…という絶望的な状況に陥った島ネズミたちを救うために出発した勇敢なネズミたちの物語なんですが、このイタチの集団を統率するノロイという白いイタチは、単に天敵という自然の摂理を越えて、過剰な残虐さでひたすらネズミたちを虐殺する、悪意の塊のような存在として描かれています。
そもそも、群れずに単独行動するイタチを数十匹率いている…という事からして異常事態なのですが、このノロイ、わざわざネズミの言葉を話してガンバたちに語りかけてくるんですよね。他のイタチはネズミたちとは全くコミュニケーションが取れません。つまり、恐るべき知能で、ネズミの言葉を覚えたのでしょうが、そうやって覚えた言葉で何を語るかと言うと、ただただ、ネズミたちを嬲るために使われます。歓迎の言葉を唱えながらネズミたちを引き裂き、時に「待ってやるから、私に殺される順番を決めろ」なんて事も言い出す。時に騙し、時にネズミたち同士を裏切らせる、という具合にひたすらネズミに悪意をぶつける事にのみ、その頭脳は使われている。これだけ悪意のみを見せ続けたキャラクターは、そうはいないと思います。

そしてこれだけの行為に及びながら、ノロイは何故、自分がそうであるのか?という説明(言い訳)を一切しないんですよね。でも「受け手」には、ノロイの所以を少し想像する事ができるんです。原作(の絵)ではノロイは単なる白い可愛いイタチだったんですけどw…アニメでは明らかに白子(アルビノ)…一種の奇形として描かれている。異端者だったノロイがどういう経緯でこうなったかは語られる事はないのですが、それゆえ逆に想像がかき立てられるものがあります。あの白いものに対する執着からも、それは感じ取る事ができる。…でも、ノロイはそれを黙して語る事はない。
まあ、この頃の“悪役”って、特に背景もなく単なる“悪人”として描かれているのが大抵でしたので(ランプをはじめとした、手塚先生の悪役なんかが代表的ですが、さしたる理由もなく悪人なので、同時にふっと、手のひら返すように改心したりするんですよね)あれほどの凶行に及ぶ“悪役”に対して背景の示唆がされている事が、むしろ「ガンバの冒険」のただ事じゃない所なんですけどねwまあ、ともかく僕は、ただただ己の残虐な悪意のみを外に振るう白イタチ・ノロイをこれ以上ないくらいに美しい“悪役”に思っていて、“悪役”と言えば一番最初に思い出すキャラクターです。



さて、心に残っている“悪役”たちを3つ程挙げさせてもらいましたが、この頃の“正義の味方”というのは自分たちの行動に迷いが無い分、“悪役”たちも、また安心して“悪”を演じる事ができている面がありますね。そのため「善と悪の戦いの物語」は…ちょっと変な言い方になりますが、何か清々しいものさえ感じるんですよね。しかし、サイボーグ009が、その戦いの果てに自身の心の中にある“悪”に問いかけをされたように、白イタチ・ノロイがただの悪魔ではない事が示唆されたように“悪”とは何か?という問いかけは小さいながらも、隠しようもなく、そこに置かれてもいるワケです。

…この“悪”と“悪役”にまつわるお話って、ちょっと「面白い」というか個人的に興味あるテーマなんで、また日をおいて何か書こうかと思います。



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67


コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )




【6月第2週:トラウマイスタ 最終話 和らぎへ…】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10415.html#591

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「神のみぞ知るセカイ」がストーリーにシフト・チェンジをかけてきていますね。悪魔の世界から逃げた6万匹の“駆魂”を回収するために、ゲームの達人にして“落とし神”様と呼ばれている桂木桂馬が選ばれる物語。心に隙間のある女の子にのみ取り憑く“駆魂”を桂馬は恋愛ゲーム理論を駆使して、自分に惚れさせる事で心の隙間を埋めて行きます。桂馬が“落とした”女の子はそれまでの記憶を失うんですが、どうもその時の気持ちまでは(心の隙間は埋まっているからか)失われないようです。

この作品、「漫研」で以前からチェックしている「視点」であるところの「(ヒロイン構造の)並列志向」、あるいは「ハーレムメーカ」の“解答”の一つと目しているんですけどね。

【今週の一番追記:ヒロインの憂鬱】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e363f24f8ccb53bdfc21bf86521451eb

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) マンガ編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b7e10022ba6d90a00817392c37221375

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) 考察編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ba6f91deca8d057ad42642651252343a

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/33a86bb2d819bc206b38f2a2bbfb73c7

あまり“答え”のある話ではないんですが…(汗)一昔前から、おたく界隈、萌え界隈では、作品内に複数(大量)のヒロインが林立する構造を持った作品が一大勢力を誇っていて、特に意図がなくても、とりあえず(その構造は)押えておけという感さえあります。…で、そういった、ある種飽和状態/供給過多な中で、より特徴を出し、よりウケるための試行錯誤が行われているのですが…そう言った作品群の中に「この構造」の完成形(?)あるいは“彼岸”が観えてしまう事があり、そこらへん僕は興味があって注目したりしているワケです。…まあ、これの“解答”の一つは既に出ていると思っていてwルイさんが言う「無菌室型」あるいは「愛でる型」とでも言うべきなのか?「らきすた」とか「けいおん!」のアレですね。……が、まあそっちはまた別の機会にするとして…。

え~っと、長々前振りしましたが、こういったハーレム構造の“不自然さ”を逆に逆手にとって「だって、そういう設定だから!」と言ったのが「神知る」なんですよね。設定と言っても一般によく聞く“お約束”とか、「受け手」の仮説とかそういうものじゃない。もっと顕在化されて、主人公の桂馬がそういう能力の持ち主である事が説明されています。
これは、何で主人公はこんなにモテしまうのか?(…ここを「そういうものだから!」と言ってアイデア無くスルーしてしまうと、一つ特徴出しを無くす事になる)という“作品群(ジャンル)の総体的臨界点”(?)を迎えている疑問に対して応えを用意している……と言う事と同時に、設定上「ヒロインを関連づけなしに登場させて良い」という利点を得ています。…関連づけというのは……たとえばメイン・ヒロインの妹とかね。友達でも良いですけどね。そういう縁というか、手続きなしにアイデア思いついたままのヒロインをそのまま、ばっと出せるって事です。実際、それってけっこう難しくって、今だともうハーレム構造を形成するにしてもヒロインの頭数を絞って長期化に伴うテコ入れとして一人新キャラ入れる…といった形に収まっているんですよね。これが「神知る」はもう串団子式にヒロインが増えて行けるというw

しかし、です!(んんんん…何でこんな長い文になっているんだ?ようやく本題…)「神知る」は、実はまだ、読者に真の姿を見せていない連載なんです!!(`+ω+´)「神知る」が連載を開始して数回続いたところで「今週の一番チャット」では、連載の「流れ」として以下の分水嶺を観ていました。

A:そのまま“読切的”にヒロインを消費してエルシィ(序列一位ヒロイン)一本軸の物語で幕を閉じきるか?

B:いずれヒロインたちを再登場(+活躍)させて桂馬の冒険に(ハーレム構造的な?)“幅”を持たせるか?

…というものですね。まあ、Aは人気が振るわず、短期に終わらない限りは無いだろうというか……人気がでようが何しようが、このフォームを守り続けたらカッコ良すぎなんですけどw…でもねえwそれってカッコ良いくらいしか意味がないからwおそらくBに行くのだろうな…と予想しているワケです。逆に言うと、最初に「ハーレムメーカー」の解答の一つなんて言っているんですけど、実は「神知る」はまだハーレム構造を形成していない連載と言えます。今、エルシィとは別の悪魔・ハクアが出てきて、一応、三角ができたかなあ~ってくらいで、僕が【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) 考察編】で提示した条件にははまっていませんね。でも、既に多くのヒロインが“待機”しているとして……まあ、潜在的なものと言えます。

それを「けいおん!」人気にひっかけた(?)今回のエピソードで顕在化する事を示唆して来ました。また、今、この“世界の謎”をじわじわと解くフェーズも見せてきています。「神知る」はこれからが本番なんですよね。週刊連載のマンガの中で、ああしたかった、こうしたかった、っていう遠望な物語を感じさせ……でも、最初の準備/前振りの部分が振るわずに消沈して行く……あるいは準備/前振りでは苦戦したけど、どうにか本番に入れて息を吹き返す…そういう連載は数多見てきましたが、準備/前振り段階で充分な人気を得て本番に入って行く連載は極めて希に思います。…本番に入った所でう~~ん?ってなっちゃう可能性が無いではないんですが…(汗)ま、今はそこはスルーして、楽しみな連載なのですよ!(`・ω・´)

追記:

【今週の一番:3月第4週:トラウマイスタ 第37話 覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ…】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fac255c8deebe52018d6eca14dd5f33c

ここでの「神知る」の話題で仮想ヒロイン・ゲーム子、現実子の話をしていますが、そういえば桂馬にはまだ幼馴染み子というのが登場していませんね。現実子に近い属性が想像されますが…もし、登場した場合、駆け魂の事とは関係なく、既に桂馬が“攻略”していた子として登場する可能性は高いように思います。仮想ヒロインの話ではありますが“王道中の王道ヒロイン”が出ていないというのは、ちょっと注目したいポイントではあります。




コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






このマンガ(原作・結城浩、作画・日坂水柯)、下巻がなかなか出ないな~と思っていたら、2009年7月23日に発売との事。うんうん。…数学の話題を中心にした三角関係を描いたラブコメなんですけど。数学(思考)とラブコメ(感情)の絡め方のバランスが良くって、読んでると何かとても(両方面で)満足感を得てしまう不思議なラブコメです。

不思議な…というか“数学”のからめ方が上手いのですかね?たとえばラブコメの中でけっこう悩み所だったりする“どうやって出会うか?”というポイントについて、この作品では“数列クイズ”を使っている。「1、1、2、3…(その次は?)」というものなんですけど、主人公はこれに答えるんですよね。次の問題は「1、4、27、256…(その次は?)」で、それも答えてしまう。……そりゃあ、気が合うだろう!wと思うんですよねwいや、気が合うなんてもんじゃなくって、それらさっと答えてしまう人間に出会うのは、沢山の人間の中から、そうである人を「見つけた!!」と言ってもいいモノになっているワケです。冒頭でここまで(「強く」思える繋がりを)持ってくるのはかなり有用で、その後の話をかなり「沸点」近く進められるんですよね。

そういった具合にこの作品で“数学”はキャラを組むのにも有効に使われていて、この2点に割って入る女の子でテトラちゃん(…なんてシンプルな名前なんだ…)は、主人公の後輩で数学を教えてもらっているんですが、多くの生徒が数学を学ぶ時にスルーしてしまうような所に疑問を持ってそれを投げかけて来たり、まあ後、単純に一生懸命学んでいる姿勢とかで“可愛い子”を出しています。…「なんで“1”が素数ではダメなのか?」とか、オイラ考えた事無かったよ?…うん。(´・ω・`)←文系
逆に主人公は、こういうテトラちゃんの疑問に優しく分かりやすく答えて行きます。…という事は主人公も同じ疑問を持った……とは限らないけど、ともかくテトラちゃんの“分からない世界”を分かっているんですよね。…そりゃあ惚れるわ、というか“良い人”だと思う。…でも、この“先生”と“生徒”の関係が、先に述べた「見つけた!」よりも「弱い」、距離が遠い関係なのも分かる……切ないねえ、と思う。
ヒロインのミルカさんは、主人公よりも先の世界を観ている。…この場合“憧れの人”と表現するのがいいのかな?一見すると、主人公>テトラちゃんの関係の反復に観えない事もないんですが、それはちょっと違っていて、この二人は既に数学の世界を旅しているのですよね。テトラちゃんは、とても熱心な子だけれども、まだ、この世界を旅する一線を越えていない……でも、二人は越えている。だから「見つけた!」のであり、その後一緒にいるのはとても自然だ。この差はとても大きくて、テトラちゃん可哀想だなあ…などと思いながら読むワケですが、同時に、主人公がミルカさんが好きなのはすっげええ分かる。そりゃあね、自分の行く世界の先にいる女の子なんて、好きにならないワケがないって感じでw



登場人物は、今言った主人公(良い人)、ミルカさん(憧れの人)、テトラちゃん(可愛い子)のほぼ3人でとてもシンプルな構造です。そして“数学”という素材をとても機能的に絡めてくるので、話の進め方もシンプルで、それこそ数学が最終的にシンプルな式を求めるが如き“美しさ”がありますね。…そしてこれは作画の日坂先生のセンスじゃないかと思っているんですけど、第2話でミルカさんは、主人公の隣に座っていたテトラちゃんを突然思いっきり蹴っ飛ばすんですよね。ミルカさんはあんまり表情を出さない子なんで、このシーンが最初の「見つけた!」の「強さ」を顕わしているシーンと言えるんですが…もう、このシーン、好きで好きでw「あ!分かった!wミナまで言うな!w」とwいや、もうホント、言葉要らないよ!w
そこらへん、初速でドン!と行くのがシンプルな物語をより加速させていますね。まあ孤を描いて落ちる所に落ち着く話なんだろうなあ…と思っていますが「それを見たいね!」という気にさせてくれる作品です。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






コンプリートした「ウルトラマンガイア」をしばらく通しで観ていました。いいですねえ…「ガイア」。世界中の天才少年天才少女が集まって作りあげた光量子コンピュータ“クリシス”が出した“根源的破滅”の予測を元に、世界中がその回避のために持てる力を結集する。一方、その中の天才少年の一人だった高山我夢(と言っても既に20歳だけど)は、地球の意思(?)に導かれてウルトラマン・ガイアとなる能力を身につけた…という物語。おそらく、真正面から「地球を守る」、「未来を守る」をテーマとした物語の中でも最高傑作の部類に入るのではないでしょうか。

僕はこの作品の3チームある戦闘機隊の“ファルコン”リーダー・米田さんがとても好きで、いずれ彼の紹介を書こうと思って、今回の録画を機会にじわじわ観直していたのですけどね。…ところが!…あれ?米田リーダーってこんなに出番少なかったっけ?(´・ω・`;)観直してみると米田リーダーの出番はおそろしく少ない…主役回といえる回は実質1話。その他、見せ場と言える回は2話。他の話でも登場するのですが…見せ場という程の事はなく、ほとんどこれだけの構成と言ってもいい感じです。……自分、いくらなんでも、米田さんのイメージ膨らませ過ぎじゃね?という事実をつきつけられて、ちょっと愕然となったワケですが(汗)う~ん、米田リーダーだけだと簡単に終わってしまうかなあ……。

…まあ、ちょっと他の事も継ぎ足しながら書くと。元々「ウルトラマンガイア」は、1999年に最終回を迎える事を予定で制作されたドラマで、その為(?)超コンピュータによって人類滅亡の“予言”が為される中、本当は人類は滅ぶべきではないか?という問い掛けがベースにある作品なんですが、地球防衛連合のメンバーはその問いかけに対して全話通して、その問いに“一瞥もくれない”という事で応えているんですね。(主人公の我夢は、その問いかけをもったウルトラマン・アグルなんかと対峙するんですけどね)…まあ防衛を職業とする人間なんですから当然といえば当然なんですが。人を救う事に一心不乱で、余計な事は考えるヒマもない!というその姿はけっこう泣けたりもしますw

しかし、それ故に彼らには別の“問いかけ”が向けられます。チーム・ライトニングの梶尾リーダー(この人も若僧っぽいけど滅茶苦茶カッコいい)は「多くの人々を救うためなら一人を殺す事は許されるのか?」という問いが向けられる。…梶尾リーダーは、この物語後におそらくは、その自分が殺そうとした人と結婚するんですけどね。それは一生、引き金を引こうとした自分と対峙し続ける事になるんですよね。梶尾リーダーはいろんなエピソードがある人だけど、その中の一面としてそんな物語も入っています。
ガードの柊准将は「多くの人々を救うためならまだ未敵の者を殺す事は許されるのか?」という問いかけを向けられます。まあ、要するに彼は、まだ破壊を行っていない地底に眠る怪獣に対して、地底貫通弾(…この世界って戦闘衛星を使った空間防衛はかなり確立されていて、おそらくICBMは無力化されてしまっています。代わりに登場したのが地底貫通弾と思われます)を打ち込み、彼を撃滅しようとするワケですけど…。数少ないガイア以外が怪獣と決着をつける話の中にこの一話があるのは「ウルトラマンガイア」の良いところですね。そして柊准将を決して悪人として描いていない事も良いところです。

そして米田リーダーなんですが、彼は「多くの人を救うためなら自分を殺す事は許されるのか?」という問いかけを受けます。チーム・ファルコンは元々、ベテラン・パイロットの集まりで命と引き替えのようなミッションを進んで引き受ける連中だったんですよね。無論、死ぬ事を前提としたような作戦を石室コマンダーが出す事はないんですけど、それでも戦いなのでギリギリの選択はある。女性隊員で構成されたファイター・チーム、クロウの多田野慧からは何故そんな命を投げ出すような真似をするのか?と問い詰められたりしています。
しかし、そいれには理由があって、かつてチーム・ファルコンは時空のゆがみに巻き込まれて未来の世界を垣間見て、ある怪獣との戦いで自分たちが戦死する事によって、エリアル・ベース(空中要塞)が救われる事を知っていた。…その諦観からか、あるいは未来視に対する確信からか、危険な任務を進んで引き受け、そして自分たちの死の瞬間を粛々と待っていたワケです。
この予言はウルトラマンガイアによって回避されるのですが、彼ら自身が持った、自分たちの命に代えても人類を救いたいという想いは消える事もなかった。そして米田リーダーは、慧に見守られて決戦の出撃をするんですけどね…このシーン、最終回以上に好きなんですよね。

「ウルトラマンガイア」の後半のエンディングテーマは「Beat on Dream on」というもので、必ずエピソードの終わりに流れ始めるんですが…

間違いじゃない君が信じてたこと♪

僕らはずっと同じものを探していたのさ♪

これら“ギリギリの選択”をするエピソードでもこの歌詞が流れてくるので、もうそれだけで僕は涙ぐんでしまうw彼らの行為を「ウルトラマンガイア」は正しいとも間違っているともしていない所がこの物語の懐の深い所というか、この物語に接する子供達に対してちょっと難しいメッセージを送っていますね。先ほど梶尾リーダーの話で、民間人を殺せと命じたのは石室コマンダーなんですが、本当に誰も反論しない。(石室コマンダーの人格から、それが苦渋の決断である事が分かるからという事でもあるんですけど)また柊准将の行為を我夢は間違っていると反駁するのですが、しかし本当の意味で否定しきる(止める)事もできなかったんですよね。
この問いかけに対する答えは「地球を守る」という物語の中で、彼ら自身、そしてそれを観た僕ら自身が考えて行くものとなっている。…(子供に観せるには)ちょっと難しいお話となっている部分はあるのですが、「ティガ」でウルトラマンの再誕を果たし、「ダイナ」の明るく楽しい物語で「世界は終わらない」事を高らかに歌い上げ、そして新世紀を迎える直前の「ガイア」で「未来を手に入れる」戦いの“意味”を描き上げた素晴らしいウルトラマンシリーズになっていると思います。


コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




【「トラウマイスタ」ダヴィンチというトラウマ】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10415.html#590

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「トラウマイスタ」(作・中山敦支)が最終回となったのですがそのラストシーンはとても感動しました。トラウマをかかえた人間が、そのトラウマを克服する事によってアートマンと呼ばれる特殊能力をもった怪物を手に入れるという設定の世界で、アートマン・ゲルニカを手に入れた少年・ピカソの冒険の物語ですね。
その登場キャラクターで主人公ピカソにとって最悪の敵。間違いなく後半の物語を牽引した男・ダヴィンチの謎というか、反則っぷりのキャラクターについて考えた事を書き留めてみました。…正直、こいつ、トラウマイスタ以外の超能力持ちだったんじゃないかとさえ思ってしまうんですけどね。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

【言い張り可能な世界(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

【言い張り可能な世界(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/27376fb92115e5ca89dcbdd7166e6a26



(↑)上で「物語愉楽論」の足場というか「遊ぶ」場所の話として「言い張り可能な世界」について述べたんですが、その前振りに使った「ファクトの世界」の方で、いずみのさんにいろいろツッコミを受けまして…(汗)確かに説明を省いているというか、「ファクトの世界」の方は主体のつもりがなかったので、ちょっとたとえ話を並べて「これで感じとしては分かるよね?」的に突き放してしまっている所があるなと思いました。…で、「ファクトの世界」に関する僕の見解や補足も書いておこうかと思います。

先に「言い張り可能な世界」について補足を。このエントリーを書いた時に、ちょっと誤解を受けるかな?と思った事があって。この文章は「言い張り可能な世界」を主体に書いて、結論として「言い張り可能な世界」に留まる話をしているのですが、それは「言い張り可能な世界」が“良い世界”、“理想の世界”だからではないんですよね。いや、勿論、「物語を愉楽する」ために必要な世界だとは判断しています。しかし、何の文句もない世界だとしたら「言い張り可能な世界」なんて呼び方はしないんですよねw……だって「言い張り」ですよ!?(`・ω・´)
ここはズブズブの「相対視思考」を使うのに最適な場所とも書きましたし、最後に「言い張り可能な世界だからこそ言い張ってはいけない」と結んでいます。…でも多くの「面白い」を見つけるには……というか自分の「主観の世界」を拡げるためには、このカオスの世界をどう偶するか?という話に思えるんですよね。ここらへんの思考を説明してある程度、正当に思ってもらえるような文章を組むと、なんとな~~く「言い張り可能な世界」が“良い世界”のような印象を持たれる事もあると思うんですけど……。ま、“悪い世界”でもないんですけどw要するに「言い張り君ばかりが幅を利かせる世界」をあなたががどう思うかって事でいいと思うんですけどね。僕はあんまし良い印象を持っていませんw故に「言い張っちゃダメ」と言っています。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

いずみのさんや、他の人とのやり取りはここに収めてあります。まあ、何度か交錯して繰り返しな部分もあるんですが「ファクトの世界」についての僕の感覚はここに述べています。
ちょっと気をつけて欲しいのは、現実世界=「ファクトの世界」ではないという所ですね。ここは、これから別に説明して行きますが、「ファクト(事実)」は確定要素という言い方をしてもいいかもしれません。人間は確定要素を増やす事によって文明社会を構成していった経緯があると言えると思います。たとえば気候が暑くなったり寒くなったりするのは、一定の周期がある事を発見して、その周期をより正確に割り出すための“暦”を作り出しますよね。これによって四季という“確定要素”を手に入れ一歩文明的な生活を手に入れる…といったような事案の繰り返しで文明/文化を進めてきているワケです。主に社会運用システム的には相当に「ファクト」の価値観で占められていると思います。しかし、今も完全に“確定要素”だけで社会は構成されていませんよね。また完全に“確定要素”のみにしてしまう事に人間は抵抗があるような気もします(気がするだけだけど)。…その分だけ「ファクトの世界」と現実世界はズレがある…という事になると思います。

■ファクトの世界の構成
「ファクトの世界」と「言い張り可能な世界」の境界をもっと対象的に扱う言葉を探すなら以下のような分け方になると思います。

・「ファクトの世界」 = 「証明された世界」

・「言い張り可能な世界」 = 「証明されない世界」

この段階では、かなりスッキリした分け方だと思います。ファクトが「証明されたもの」を尊び、「証明を求める」働きがあると考えると、その意味するところがイメージしやすいんじゃないでしょうか。この力場は人間社会をより進歩させる原動力のようなものだと思います。これは必ずしも原理の証明や説明である必要はありませんよね。たとえば先に例としてあげた“暦”の証明は、発見時はまず間違いなく経験からくる帰納的な仮説であり、その後、その“暦”が何十年、何百年と(多少の誤差を内包しながらも)通用しつづける事によって“暦”は「ファクト(事実)」になるワケです。ここらへんが、多分、コアの部分になってくる。

しかし「ファクト」は、そういった事象だけで構成されてはいません……居ないと僕は考えます。今のものをコアとして、人間はさらに、出自の怪しい(?)ものも「ファクト」として扱って行きます。その最たる物が「言葉」ではないかと僕は思っています。わんわんと鳴く、四足歩行のほ乳類……これを「いぬ」と呼ぶ事には、何の根拠もありません。何の証明もありません。実際に別の“地方”では「dog」と呼んだりするワケで、要するに何と呼んでも構わない代わりに、これが正しい!という呼び方も存在しないワケです。でも、これも「ファクト(事実)」なんですよね。(少なくとも、この記事で僕が扱う「ファクトの世界」に於いては)「昔からそう言っている」という事があれば、人間はこれも“確定事項”=“証明が済んだ”と判定している。そうやって、他にも色々怪しいものを取り入れてしまっているワケです。“生活習慣”や、“儀礼”、“宗教”など……まあ所謂“常識”と言えばいいと思うんでけど、これも人間社会を前進させる要素として取り込まれています。

さて、ここからが押し引きなんですが…!w「言い張り可能な世界」=「証明されない世界」は、証明を不要とする“無責任”な世界なのですが、代わりに(?)ここで構築されている“証明世界”を溶かす事ができます。…とは言っても「わんわんと鳴く四足歩行のほ乳類を『いぬ』と呼ぶことには何の正当性もない!!」…とか大指摘しても、皆、気の毒そうな顔をするだけで、誰も取り合ってくれないでしょうけどねw「少なくとも(ばうわう!)という鳴き声を真似る方が正当性があるのではないか?」とか主張しても…まあ、ちょっとそれを「ファクト」にまで持ち込むのは無理…だよねえw(´・ω・`)……でも、これは「言葉」の名詞という“大基盤”にケンカ売っているからって面もあって、たとえばドラマなんかで、“掟”あるいは“因習”と呼ばれるような“常識”を、これに近いノリ(?)で覆す物語を観たことがある人は多いでしょう。
何が言いたいのかというと「証明された世界」と「証明されない世界」の境界は非常に曖昧だっていう事です。人間は人間を前進させるために「証明された世界」を求めていて、それはキッチリカッチリやっていかないと行けないのに、前進は本性的に求めるけど、実は“人間ちゃん”はけっこうものぐさででもあるので、そんなにキッチリカッチリはできていないというw…まあ、そういう事ですよね。

加えて「証明されない世界」は言い張れば、本来、「証明された世界」の相当な領分までを、取り込んでしまう事ができるはずです。現代人は、常識、習慣といったものが原理の存在する絶対的産物ではない事を熟知しているので、ここらへんの大半はむしろあっさり明け渡すのではないでしょうか。先ほどの「いぬの名詞」にいちゃもんつける話も、誰も当り前すぎて取り合わないだけで、その指摘が不成立という意味ではない。……こういう“疑わしい”ものを全て排除して“確かなもの”だけを残す行為を突き詰めて行くと、その果てに何が残るか…?っていう遊びは、デカルトおじさんがしていて、有名な言葉を残していますよね?本当に言い張り続ければ、やろうと思えば“あそこ”まで行けるワケです。また物理世界の科学的な“証明”であっても、ユークリッド幾何学や、ニュートン力学が覆されたように“絶対”のものではないという“言い張り”は可能だと言えます。

人間は存在の“意味”や“原理”を求める志向を持っているのですが、宇宙の存在自体はただ在るだけで、それに何か(現在の人間の理知の範囲内においての)“意味”があるワケでは…………(我に返った)……………と言う具合に、何か「ファクトの世界」の弱い部分を論ってしまっているのですが(滝汗)知恵有る人なら、それでも“意味”を求め応える事の“意味”は既知に理解されている事かと思います。ただ、これから話す事として「ファクトの世界」も本質的には“弱い”事をカウンターとして置いておかないと、文意が有効に効かないというか、それくらい人間社会にとって「ファクトの世界」は強い意味と縛りを持っている…とは考えているんですよね。

■「楽しい」というファクト
さて、では「物語愉楽論」と「ファクトの世界」の関係の話なんですが。僕はずっと「“面白い”って何だろう?」と考えている人間なんですが、たとえば「テンポが良かった」から面白かった、「深いテーマに考えさせられた」から面白かったとして、じゃあ「テンポが悪い」と(※…というか「テンポが良い」なんて視点、速攻で「言い張り可能な世界」に取り込まれそうな価値観なんですが…wまあ、ここでは、それが「ファクト」だとしてw)必ず面白くないのか?というとそんな事はない。「深いテーマ」だってそうですよね。
「自分は『深いテーマ』があれば“面白い”し、無ければ“詰らない”、そうとしか考えない!」と自分の主観を閉じて“言い張って”しまえば、それは成立するかもしれませんけどね。「物語愉楽論」はそれを是としていません。…ん、まあ、ちょっとショートカットして話すと「面白さのパターンって無限にありそうだな…」って事になってきて、そうすると、これはもう一生つき合って行くしかないな?という結論に繋がってくるんですけど…。

【フィクションの構造】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763
※面白さのパターンって無限にありそうだな … 概念的にまとめ、体系化してしまおう、という試みについてはここを参照。

ただ、僕の目的の第一は「愉楽する事」~自分が楽しいと感じる事であって、「面白さ」を解き明かすのはそこに至る手法の一つに過ぎないんですよね。そうやって考えて行くと、面白さの条件と思える「ファクト」と、「楽しい」と感じる“実感”の関係が非常に希薄になってくる感覚を持つようになってきて…。でも、全く関係ないとも感じない…ここらへんの難しさが正に追求すべきテーマなんですが。
たとえば、ある作品の「面白さ」を懇切丁寧に説明して、その内容は極めて妥当なものだったとしましょう。…でも「…だから、何?」と言う人はいますよね?(僕もたまに使わない事はない)「説明は分かった。でも、自分は面白く思わない」と言う話ですが。まあ、僕は僕の価値観として、自分の主観を閉じる人、分からない事に意固地になる人は恥ずかしいなあ…と思っているんですけどwでも、それは有るんですよね。その人が“事実”を言っていないワケじゃない。正にそれが「言い張り可能な世界」の領域の話と言うもので。そう考えるとね……これはとても難しい問題だなあと………え?わざと話を難しくしているように観えますか?w(汗)

【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

ここの記事で「相対視」の話と「絶対視」の話をしていますが、物事を「相対視」するという手法そのものは「ファクトの世界」に属する手法だと考えていますが、その手法によって“分解”された“価値”や“意味”自体は「言い張り可能な世界」の領域というか、カオスの物になるんですよね。新たに意味付けがされるまでは。概念的に言うとそういう感じでしょうか。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

GiGi >> ハッカが入ってないと主張されたら、ハッカが入ってないと思った根拠を示せと言う話になる。で、話を聞くと実はハッカを食べたことがなかっただけだったりする<これはもう言い張りじゃなくて「嘘」ですよねw。まあ言葉はきついけど。
GiGi >> 後になって「実はハッカ食べたことないんですよ」なんていうなら「ハッカが入ってないなんて言うな」ということになる。これはファクトに基づいた正統な批判ですよね。
GiGi >> でも「ハッカのことはよくわからないけど、シソが入っているに違いない」という主張は尊重しなきゃいけない…もちろん、反論もあってしかるべきですが「事実じゃないから違う」という否定はありえない、と。
LD >> 「ハッカが入ってないなんて言うな」>いい所ついてますね。もどったらレス打ちます。…しかし、みんなファクトの方に興味ひきましたねえ…(汗)僕自身は「言い張り可能な世界」の話のつもりだったんだけど…(汗)
LD >> ハッカが入っているか?いないか?の判定は「ファクト」の判定であって「面白い」かどうか?とは、本来何の関係もないですよね?でも、僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」…と言うよりは「証明できなければ“面白さ”は無い」という話に取り込まれてしまうと言った方がいいのかも?…まあ、あの話、ファクトの話は主体にしていないから、そこらへんは整えていないかも…(汗)
LD >> 「悪魔の証明」って言葉があるようにファクトは証明できないものは無い事にされる…これは厳密には“無視する”だけ、なんだけど通常は「無い事にされる」という表現が流布しているよね。(※それくらいには積極的な無視)
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」って言うと何か良くない人みたいな言い回しになってしまうんだけど、僕は、僕みたいに変な「面白さ」優先という価値観でなければ、相応の正当性があると思っているんですよね。むしろ、そこがミソかなあ…。
GiGi >> ん。ファクトと面白さは関係ないけど、ファクトがないと共感は得られないかもね?って感じですかね。
GiGi >> 言い張りをする人は、それが自分の言い張りであることは自覚したほうがいい。ということは言えるとは思います。
GiGi >> そしてファクトを求める人もそれが自分の思い込みである可能性は自覚した方がいい。
ルイ >> 主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる、って話じゃないのかな?基本的に「その方が」は皆がそう思ったものをぶつけあえばいいだけで、論旨じゃないと思いますが。上司云々も完全に本主張とは切り分けで読んだ方がいいでしょうね。この辺含めると、本当に仮想敵のニュアンスが強まるから。

ここらへんのGiGiさんとのやり取りが「面白い/楽しい事」と「ファクト」の関係を、けっこうまとめていると思います。GiGiさんが、最後に述べている「自分の言い張りであることを自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねwまた「それが自分の思い込みである可能性を自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねw(※前者の「ファクト」は、それがウソでも言い張りでも否定され得ない主張という「ファクト」に寄っているのでしょうけど、いずれにせよ自覚がないと「世界を閉じ」ますね)
要するに人間は主観とファクトのけじめをつけるのが、意識しないと、なかなか難しい性質があるという事は言えると思います。「ファクト」なんて厳つい言い回しでは実感ないかもしれませんけど、「一般的には」、「普通では」、「常識では」、「みんは」…とこういったものを無検証で自分の主張の味方につけようとする事はよくある事でしょう。そしてそれを以て、あたかも「正しい」かのように振る舞う。(あるいは「学会では」とか「専門家は」なんて言葉を置く時は、主観が「ファクト」に振り回されている可能性がありますね)まあ必ずしも間違いではない(つか、“正しい”の定義次第)事なんですが「物語を愉楽する世界」では、ただ一人でも「楽しいという実感」は肯定され得るので、ここらへんの「ファクト」に対する誤認誤解は気をつけなくてはいけない。また、人間がこういう性質を持つ現実が厳然としてあるなら、この点に注意を促して言い過ぎはないだろうと思っています。

一方、ルイさんが身も蓋もなくこの話をまとめてくれていますがwまあ、何というか異様に長々と書いていますが、要するに「主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる」話をしているワケです、確かにw…しかし実は、その抽出方法が「言葉」という不完全なツール利用が主体になるので難しいというか……ちょっと表現歪むかもしれませんが「面白さを受け取れなかった自分」もまた肯定されるのが「言い張り可能な世界」の在り様というもので、また、相手の実感を無批判に受入れても、真の(?)理解と愉楽の実感には至らない事が、こういう、ややこしい話の展開になっているのですよね(汗)僕が人と意見交換をする時、しばしば「分かったフリは最悪」という「言葉」を使うのは正にこの為です。「うんうん、その面白さも分かるよ?w」…なんて話は何時でも誰でも言える事!(`・ω・´)しかし、何でもかんでも肯定され否定されない「言い張り可能な世界」で、一体、自分は何を選び取って行くか?という事を考えた時に、人は“確しかなもの”(あるいは暫定的な確かなもの)である「ファクト」に取られやすいよね。でも、今まで散々述べたように「面白い実感」と「ファクト」は(関わりが全く無いとは言わないものの)直接の繋がりは無いわけで…そういう、ハイソでフィロソフィな視shじゃsdがじぇfhsdふぁがfgvばざfsっだ…!!(←壊れた!)…ま、悩んでるんですよ?(´・ω・`)

「物語愉楽論」は、自分の主観の世界を拡げる有効な手段として、他者との意見交換を重要視します。そして、その意見交換につかう「言葉」を意識伝達のための重要な“ツール”であると位置づけ、その“ツール”の意味を考えて行くことを大テーマの一つとしています。でも、“僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。”のですよね。
「言葉に縛られる話」は、また別の機会にして行きたいと思いますが「言葉」が伝達手段としてあまりに有効で、また、多大な局面でそれに頼り切りになるため「言葉」という「ファクト」に非常に取り込まれ心的支配を受けやすい傾向にあると思うのですが「愉楽する事」への阻害があるなら、気をつけないと行けないと考えています。同時に「言葉」があるからこそ感じる事ができる情感や感動もあると思っていて、まあ、人間が“考える”生き物である以上、切り離して考える事はできないのでしょう。というか、そういった複雑さを解いて行くのが、まあ、今、長々と話をしている“ここらへん”のテーマなんでしょうね。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




【6月第1週:トラウイマイスタ 第46話 ありがとう】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10414.html#589

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「べるぜバブ」(作・田村隆平)の連載が良いです。怠惰な魔王の思いつきで、人間界を滅ぼす使命を受けた魔王の赤ん坊“ベル坊”が魔力の触媒となる男・男鹿辰巳に取り憑くお話。しかし、近隣に血も涙もない不良と恐れられるこの男鹿は、なかなか一筋縄ではいかない男で…という感じに話が展開して行きます。

設定やキャラクターは普通のマンガなんですが……何というか話運びとタイミング……つまり「連載設計」が上手いんですよね。エピソード毎の見せ場とヒキもしっかりしていて、ヒいて効果有る続き物はヒく、1話で終わらせる事が最適な場合は1話で終わらせる。そうやって、魔王の子と契約してしまった男が、次第に強力な魔力を帯び…強くなる事と並行して魔力に蝕まれていく…といった話もじわじわと進めて行っています。(まあ、これは連載が長期化すると停滞気味になるのではないかと、嫌な予想をしていますがw)

いきなり多くのキャラを出すのではなく、まず必要最小限のキャラで「回して」…設定を深める進行に合わせてキャラを増やして行っている。それを最初に敵…と言っても一蹴してしまう相手だったんですが、神崎とか姫川なんかをもうザブレギュ的に再利用で置き直すのも上手いです。神崎も姫川もかなりの人非人な“悪役”なんですが、男鹿にぶっ飛ばされて、入院した病院でいがみ合う二人を描いて、すっと憎めない感じにキャラを塗り替え直しているんですよね。また、お…ちょっと気になるキャラだな…と思わせていた夏目というキャラも、じわじわ「積んで」いて……多分、いずれ何らかの形で男鹿と接点を持つと思うんですが(ずっと接点を持たなかったら逆にすごいというか渋すぎ…w)そういうキャラごとの“歩調”も上手いです。

それで今回、第二の(?)ヒロインとして登場した邦枝葵の「積み方」も上手い。ヒロイン登場と、バトルステージが1ランク上がった事を告げる形で、紹介されて行くんですけどね…。「今週の一番」で、指摘されていますが、邦枝葵の「キャラ積み」がされるこの回の表紙に、もう一人のヒロイン(?)である侍女悪魔・ヒルダを出しているのも、細かく行き届いているというか、痒いところに手が届くというか…w葵とヒルダの関係はどうなるんだろう?ってすっごい次の展開の想像を刺激されるんですよねwまあ、ともかく僕が「こうして欲しい」というタイミングで、展開を打ってくるのでけっこう感じ入っちゃってます。不良高校のケンカ番長的に始まって世界を滅ぼす魔王のパワーゲージまで見えている世界設計もいい感じです。(ここの部分はこのマンガの特徴と言えるかも)…イメージ的には“天元突破”まで観えるわけでねw気がつくと次週をすごく楽しみにしている連載になっていました。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【作品チェック:「イナズマイレブン」エースストライカーは誰だ!?】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0092.html#539

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/

実は「イナズマイレブン」では、僕は染岡とか土門が秘かに好きだったりします。老け顔な二人なんですが……(汗)“必殺技もの”だけに、マンガ的なキャラ立ちをしたキャラが多くいるわけで…その中で普通の人の造形感を持った染岡、土門は返って目を引いてしまうし、なんか応援してしまう。(…半田とか一ノ瀬は、マンガ的な普通の人で、この話とちょっと違う…感覚分かると思いますが…)染岡のずぐ熱くなるちょっと荒いキャラも、分別くさい土門のキャラも両方好きです。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




【言い張り可能な世界(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

(↑)このエントリーの続きです。(1)から先に読んで下さい。


■言い張り可能な世界

さて、いよいよ「言い張り可能な世界」の話をするんですが、その例示として、ちょっと「ファクト(事実)」っぽい話(?)をつついてみたいと思います。

【批評について「カレーとショートケーキ」編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/73615fd946ea584e3587eaaea30ba727

まあ、それはそれとして簡単な事のようで意外にこれ(何を作ったかを汲み取る努力)ができていない。あるいは意識できずに批評をする人が多いようです。その原因は「ショートケーキの味わい方しか知らない」か「とにかくショートケーキ“だけ”が大好き!」という事があるのでしょうけどね。しかしだからと言ってカレーライスに対し…「何だこれは?全然、甘くないじゃないか!?液化してしかも茶色で汚らしい!第一、いちごが乗っていないじゃないかぁ!!!」……とショートケーキとしての批評をするのはかなり的外れである事は分かると思います(笑)こういう事って、よく見かけるし、自分の心当たりも無きにしも有らずじゃないでしょうか?(笑)

この項の話なんですが。作品を批評するには、まずその作品がどういう“料理”か分らないとはじめられないよね。それを怠るとカレーをショートケーキとして批評しちゃうような恥をかくよね…ってたとえ話ですね。個人的にけっこう気に入っていて、よく人にする話なんですが…ある作品(物語)に接する時、その作品が何を描こうとしているか?は、僕は間違いなく真っ先に始める事ですね。そうそう、この一連のエントリーの元になっているペトロニウスさんの発言でも…

【物語三昧:物語の主題と各エピソードによるガジェットの比率とは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090526/p2

「主題の本質の理解」を最も優先順位の高い価値を置くというのは、僕は、物事の正しさを考えるべき重要な選択基準だと思います。

…とありますが、僕もこれはそうです。少なくとも最初に取り掛かる「分析」ですし、仮説でもいいのでその作品の全体像を掴んで、そこから「読んで」行く事は、物語を理解する事ひいては「愉楽する事」に対して、かなり効率の良い吸収をしていける事は経験から言っても間違いありません。
…しかし、ですね。“何の料理”か見極める事はそうそう簡単な事じゃないんですよねwなんの料理か…?つまりテーマという物は「言い張り可能な世界」の領域に属していて、そう簡単に実相を掴ませないんですよね。…ちょっと、ここでハッキリ分けましょう。「何の料理を作ろうとしたか?」…これは「作り手」がその答えを持っている事でしょうね。しかし、出来上がった料理が「実際に何の料理になったか?」は「作り手」さえも預かり知れない事だと「物語愉楽論」では考えます。そして、どういう料理か考えるこの場は「言い張り可能な世界」なんですwう~わ~ww (`>ω<´)←嫌そう

「作り手」が「可愛い女の子を描きました」と言っても「受け手」が「可愛くない」と言い張れば“その人”にとって可愛くないのは(暫定ながらも)確定と言えるでしょう。たとえば「作り手」がこのカレーにはハッカを入れましたと言ったとして…「ハッカなんか入っていない。全然ハッカの風味が出てないもの」→「いや、でも作者は入れたと言っているよ?」→「それは、そいつがその気になっているだけ。シソとハッカを勘違いしているんだよ。シソなら分る」→「いや、でもスースーするけどな?」→「俺はしない!」これだ!これが“言い張り”だ!そして、ここが「言い張り可能な世界」なんだ!w……いや、なんかちょっと誤解されちゃいそうなんでアレですけど(汗)「作り手」が何を入れたか?なんてかなり「ファクト(事実)」っぽい所も、やり方次第で相当な所まで「言い張り可能な世界」に巻き込める事が言いたかったんです。【絶対視思考と相対視思考】で触れましたが、ここはズブズブの「相対視思考」を使うのに最適な場所なんですね。「ファクト(事実)の世界」はこうは行きません。あたなの思いや解釈がどうであろうと否応なく「ファクト(事実)」を突きつけるし、間違っていようがいなかろうが、ともかく結論を出し、それによって返ってくる結果「ファクト(事実)」を否応なく受け止めなければなりません。

じゃあ、むしろ「ファクト(事実)」の考え方を取り入れた方がいいんじゃないか?とか。たとえば「作り手」がハッカを入れたと言っているのだからその証言を持ってきて、それとそれに近い見解が“正解”で、それから遠ければ“不正解”という具合に割り切りましょうか。……ダメです。「物語愉楽論」はその考え方には組みしません。
「ファクト(事実)の世界」というのは“確かな事”、“説明がつく事”、“皆が納得できる事”などで構成されていて、そうでないものは削ぎ落として行く傾向があります。あなたが“そう感じているだけ”の話はファクト(事実)を示さない限り吹き飛ばされて行きます。(※とはいえ言葉や文章に顕せば、一つ小さな「ファクト(事実)」を手に入れますね)でも「物語を楽しむ」と言う事は、それを大事に扱う事なんだという話は前項でしました。

「物語」というものの基盤の所に「ファクト(事実)」がある事は確かだとしても、僕は“その方向”に「愉楽する事」を積み上げて行くつもりはありません。森羅万象の在り様、それを模した「物語を楽しむ事」が、たかだか“皆が納得できる事”なんて小さな考え方に収まるものだとは思っていないからです。

「言い張り可能な世界」は、相対視思考を低いレベルで使うドロドロの価値溶解者をのさばらせているような、智恵ある人には嫌な世界でしょうね。そいつらを「ファクト(事実)の世界」に引っ張り出して「お前は間違っている!」とやれたら、それは痛快でしょうね。でも「愉楽する事」を価値観に置く限り、「面白い」とは何か?僕が感じる「面白い」とは何か?それはそう簡単に白黒はっきりつけられる話じゃない。「言い張り可能」とは、常に可能性が残されているという事であり、すぐに結論が出るなんて考えで「楽しむ」範囲を狭める選択をしたくはない。……大丈夫です。この世界は(最終)結論を出さなくていいという事が、短所であり長所なんです。…つまり、時間だけは死ぬまで目一杯あります!!(`・ω・´)

え~っと。いろいろ回りくどく前振りしましたが、要するに僕はどんな楽しみ方でも、その人が真実楽しんでいる限り肯定されるという話をしています。他の人の作品批評や、作品分析は違うかもしれません。しかし「物語愉楽論」は「楽しい」、「面白い」が引き出せればそれでよく、基本的に間違った楽しみ方、間違った面白さという考え方をしません。

…これだけだと納得いかないというか、反論したくなる人がいるのではないかと思いますので、補足…というか話を続けると、(その人が真実「楽しんで」いる限り)間違った楽しみ方はありません。ただし「小さな楽しみ方」はありますね。ある作品の一部分だけを楽しむ…みたいな感じでしょうか。対して「大きな楽しみ方」、「深い愉しみ方」というものもあります。そしてより大きく、より深く、楽しむ事を目的としていますので「小さな楽しみ方」に留まる事は「是」としていません。故に…ちょっとどういう状態かイメージないですけど概念として「楽しむ世界を狭めてしまう楽しみ方」は、真実楽しんでいてもダメですね。まあ、あとね。一応言うと犯罪絡みとかもダメですねw文字通り“論外”でダメ出しですよね。「ファクト(事実)の世界」からの干渉として(汗)w(←でも、こういう極端な反論をしかける人がいる)
「楽しみ」を拡げて行くのは他者との意見交換が一番効率いいと僕は思っています。それ故、意見交換の「伝達効率」を上げるために、この論を書いたり「言葉」の整備をしたりしようとしているわけですね。

ものすご~~っく、作品からかけ離れた所で楽しんでいたとしたら、それは“おかしい”のではないか?みたいな意見の人もいると思うんですけどね…。それは「そこに留まる事」は肯定していないから、いずれあなたが納得できる「楽しみ方」にも来るでしょう…という返しになるかな?また、普通は、皆と大体同じような楽しみ方をした方が、楽に「楽しめ」ますし(←笑)連鎖や共鳴もあってより大きく、深く行き易いんですよね。それにも関わらず、何かちょっとずれた所で真実「楽しんで」いるのだとしたら、少なくともその人にとっては何かあるのでしょう。それを非常識とかそういう観点で云々言ってもしょうがない事だと思います。
ただし、くどいようだけど、そこだけに留まらない事。また、「言葉」を磨いて、そういった部分も「言葉」で伝達して行く努力をする事は必要ですね。

【観客として】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/099a5770473f38a2a6d6276784366ba1

「群盲象を撫でる」ということわざがある。これは「巨大なる者を測ろうとする愚かさ」を喩えたものだが、それでも“象”を知ろうと思ったら、他者の意見を聞き、自らも発言して、情報を構築していくしかない。そして自分一人でより多くの部分をカバーできる自分を目指し、いずれは“象”一匹全て己のみで理解できるようになりたい。
でも、今は駄目(←笑)今は全然そのレベルじゃない。だから『面白い』と感じたり、『つまらない』と感じたりすることに嘘をつかない。「うんうん、その『面白さ』も分かるよ」と分ってるフリをしない。そしていずれは、あらゆる『面白さ』を理解できるようになりたい。その為に今は『面白い』ことと『つまらない』ことを徹底的に考える。観客として。

むか~し、書いた決意文なんですけど、まあ「物語愉楽論」の出発点そのものが書かれています。「群盲象を撫でる」のたとえは、今、上で話していた事を、たとえ話にまとめたものという事になると思います。

そして最後に「『つまらない』と感じたりすることに嘘をつかない。」という話をしてこの項を終わります。僕は「物語愉楽論」の目的として、最終的に全ての「面白さ」を理解する事(「愉楽」する事/体感する事)と述べています。そして、それを実現させる、その場所が「言い張り可能な世界」である事を説明しました。……それはどういう事かというと、外面だけでいいなら、その目的は今すぐにでも達成できてしまう事なんですよね。「全てを楽しむ」なんて、大仰でご大層な事は、口だけで「うんうん、その『面白さ』も分かるよ」と言えば達成されてしまう。「ファクト(事実)」に晒され続けても、その言葉が言えるならそれはそれで“本物”と言えるかもしれない。…でも、ここは「言い張り可能な世界」で、口だけなら何とでも言える世界なんです。
口で上手く「伝達」できない事は、口で上手く「伝達」できない事以上のものではない。本人が「面白く」感じてはいない事の証明にはならない。…結局、本人が真実「楽しんで」いるか?「楽しみ」を分っているか?は、本人以外誰にも分るはずがない。だからこそ嘘をついてはいけない。もともと口では何とでも言える世界だから。「言い張り可能な世界」だからこそ、言い張ってはいけない。謙虚でなければ、こんな目的、最初っから無いも同然なのだ。

というのが僕の価値観の話ですね。ここ、すっごく足場悪い事分かってるけど僕がんばる…みたいな?………まあ、これを他者にどうこうというつもりは無いのですが、僕と意見交換する時とか、ああ、こういう事を考えている人なんだなあ…と思ってもらえると「伝達効率」がいいかなと。あと、断片的にでも、この話を何かの“足し”にしてもらえると幸いです。


※「言葉の位相」の話もほどなくしようと思います。



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ