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「答えはベタです!!ブラックのベタではなくよくあるのベタ。ベタと意外性は反対のようでイコールです」
「バクマン」第23回で、アシスタントたちに言われて連載の5話目を描き直す事にした新妻エイジのセリフですね。新妻エイジというのは、天才型のマンガ家で、何を意図してそういう事を言ったのか?というのはほとんど計り知れないところがあるんですけど…まあ、ちょっと面白い言葉なので、僕なりの解釈に基づいて解説してみようかなと思います。
【フィクションの構造(改訂版)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763
以前の記事で少し触れているのですが…。
(2)共感 観客が物語内の出来事を、別の場ですでに体験していたことを感じること、あるいは発見すること。そこで観客はその元の体験に基づいた同じ反応、可笑しければ笑い、悲しければ泣く、といった感情の昂ぶりが起こり、そこに「生命の実感」を感じることになる。これは感情移入の対象を観客に用意し、その対象に文字通り「共感」させることによって作者の意図した感情へ誘導させる、という手段がとられる。
(3)意外性 観客に予想外の出来事を与えてそれによって感情を昂ぶらせる。人間は知恵を発達させることを「選択」し繁栄した動物で、その知恵の発達のために常に新たな情報・知識を必要としている。新たな情報の中で最も貴重かつ重要な情報は「意外」な情報であり、それはそのまま人間が(知恵の発達のため)潜在的に「意外性」を好み求める性質を持っていることを意味する。つまり人間は(生命の安全が完全に確保された状態なら間違いなく)「意外性」を感じることに悦びを見出す生き物なのである。ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。
ここらへんの話になってくるんですが、先に“ベタ”って言葉を(物語的に)説明的な言葉に直すと「習慣的な物語情報」になるかな?と思います。その習慣がどの範囲にまで通用するか?という問題はあるのですが、それが対話者の間で“習慣的”である事が合意されれば、まあ、その情報が「ベタ」である事が(対話者の間で)確認された事になると思います。
…で、この「習慣的な物語情報」と言うものは、原則的に「共感」~この場合、安心感かな?~を引き出す事においてポジティブ、「意外性」を引き出す事においてネガティブなんですよね。
習慣的な情報であるが故に、観客をその習慣の文脈に基づいた「共感」の誘導をしやすい……その反面、知っている情報であるが故に「意外性」はほとんど感じる事ができない……「ベタ」という言葉が毀誉両方の意味を持っているのはこのためで……いや、すみません(汗)物語というのは多くの場合、基本要素として「意外性」を求められてきた経緯があるようで「ベタ」という言葉も、あまり誉め言葉としては通っていませんね(汗)その証拠にベタに対して「マンネリ」とか「ありきたり」とか批判的な評価の言葉はよく見かけるのですが、好意的な評価の言葉は…う~ん「十八番」?「定番」?「いいパターン」?何かありますかね?あんまり思い浮かばないですよね。実際には、もう随分昔から「ベタ」である事は充分に価値がある物として物語演出に採用されていながら、それを誉める言葉は整備されていないんですよね。ここらへんが「ベタ」と「意外性」が相容れない話になります。
…が、実際には、この「ベタ」な展開というものが、「習慣的情報」として昇華されるまでの経緯というものがあるはずなんですよね。これが「反対のようでイコール」という話にかかってくると見ています。まず、ある意外な展開A、意外な設定Aが、先ほど述べたように物語が基本要素としての「意外性」を満たすために呼び込まれた。そして、その“意外属性”を持つAが、やがて「習慣的情報」に“枯れて”再利用され続けて来た事にはどういう意味があるのか?って話で。逆に本当に一回きりで再利用されない「意外性」もあるわけで………おそらく「ベタ」に致るものには物語における本質的な価値か、汎用的な価値のどちらかがあるんだろうなと思っています。ここが一定水準を超えて汎用的に昇華(整備?)されたものは「ドラマツルギー」とか言われるんですけどね。逆に概念的に昇華せず“まんま”だとパクリとか言われたり…難しいですねえw
また、引用の記事の意外性の箇所…
ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。
ここに書いたように、人間は(その人にとって)本当に“意外”な物には対応できないんですよね。ここでいう“本当に”って難しい表現なんですが…まあ、今の話、想像の“斜め上”くらいまでは対応できるし「愉しめる」んですよね。でも、この時点で「本当に意外」とか「想像を絶する」とか言う人はいうんで、表現難しいwただ、どこかに(その人にとって)お上限はあって、そこからは対応できない世界に入って行く…不条理なものとか、シュールなものとかね。たとえば僕がピカソの絵をよく分らないのは、僕にとっての“意外性の上限”を逸脱されちゃっているからだと思っているんですよね。(※ただ、想像を絶する事を認めた時点で「想像を絶する」という想像内の分類が可能になって、その時点で「想像内のもの」として対応する事ができるようになるはずなんだけど、今はそこまで話さなくてもいいかな)結局ね。共感と意外性は表裏一体な面があるんですよね。「意外性」が提示された後に「共感」が伴わないと、その「意外性」は対処できないものとして看過や拒絶をされてしまう場合がある。また「意外性」を効果的に使って行かないと「共感」への誘導は難しい。
……なんか取り留めもなく長々書いてしまいましたね……orz(汗)ここらで、言いたいことをまとめますと、以前、別の記事で「キャラクター」と「ストーリー」は有機的に繋がっていてその領分を明確に分離できない事を書きましたけど、「演出」効果の分類、「テンポ」、「共感」、「意外性」もまた有機的なもので。この場では思考の整理のために意味分けしてあるんですけど、本来的には分離が難しいものなんですよね。(イコールの話に繋がる)ここらへんの認識を違えずに思考を進めて行きたいねって事と。
あと「ベタ」とか、ベタの分類の一つなんですけど、たとえば「○○フラグ」と言ったものは、上記したような複数の演出効果を瞬間的に完成させるような優れた素材である事が多いんですよね。そこらへん、ぼちぼちと話を進めている「情報圧縮論」にも繋がってくる話なんで、ぼちぼちと「ベタ」と言う物の価値を意識しつつ、物語を分析して行きたいなあと思っています。