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マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

答えはベタです!!

2009年02月25日 | 物語愉楽論


「答えはベタです!!ブラックのベタではなくよくあるのベタ。ベタと意外性は反対のようでイコールです」

「バクマン」第23回で、アシスタントたちに言われて連載の5話目を描き直す事にした新妻エイジのセリフですね。新妻エイジというのは、天才型のマンガ家で、何を意図してそういう事を言ったのか?というのはほとんど計り知れないところがあるんですけど…まあ、ちょっと面白い言葉なので、僕なりの解釈に基づいて解説してみようかなと思います。

【フィクションの構造(改訂版)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763

以前の記事で少し触れているのですが…。

(2)共感  観客が物語内の出来事を、別の場ですでに体験していたことを感じること、あるいは発見すること。そこで観客はその元の体験に基づいた同じ反応、可笑しければ笑い、悲しければ泣く、といった感情の昂ぶりが起こり、そこに「生命の実感」を感じることになる。これは感情移入の対象を観客に用意し、その対象に文字通り「共感」させることによって作者の意図した感情へ誘導させる、という手段がとられる。
(3)意外性  観客に予想外の出来事を与えてそれによって感情を昂ぶらせる。人間は知恵を発達させることを「選択」し繁栄した動物で、その知恵の発達のために常に新たな情報・知識を必要としている。新たな情報の中で最も貴重かつ重要な情報は「意外」な情報であり、それはそのまま人間が(知恵の発達のため)潜在的に「意外性」を好み求める性質を持っていることを意味する。つまり人間は(生命の安全が完全に確保された状態なら間違いなく)「意外性」を感じることに悦びを見出す生き物なのである。ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。


ここらへんの話になってくるんですが、先に“ベタ”って言葉を(物語的に)説明的な言葉に直すと「習慣的な物語情報」になるかな?と思います。その習慣がどの範囲にまで通用するか?という問題はあるのですが、それが対話者の間で“習慣的”である事が合意されれば、まあ、その情報が「ベタ」である事が(対話者の間で)確認された事になると思います。

…で、この「習慣的な物語情報」と言うものは、原則的に「共感」~この場合、安心感かな?~を引き出す事においてポジティブ、「意外性」を引き出す事においてネガティブなんですよね。

習慣的な情報であるが故に、観客をその習慣の文脈に基づいた「共感」の誘導をしやすい……その反面、知っている情報であるが故に「意外性」はほとんど感じる事ができない……「ベタ」という言葉が毀誉両方の意味を持っているのはこのためで……いや、すみません(汗)物語というのは多くの場合、基本要素として「意外性」を求められてきた経緯があるようで「ベタ」という言葉も、あまり誉め言葉としては通っていませんね(汗)その証拠にベタに対して「マンネリ」とか「ありきたり」とか批判的な評価の言葉はよく見かけるのですが、好意的な評価の言葉は…う~ん「十八番」?「定番」?「いいパターン」?何かありますかね?あんまり思い浮かばないですよね。実際には、もう随分昔から「ベタ」である事は充分に価値がある物として物語演出に採用されていながら、それを誉める言葉は整備されていないんですよね。ここらへんが「ベタ」と「意外性」が相容れない話になります。

…が、実際には、この「ベタ」な展開というものが、「習慣的情報」として昇華されるまでの経緯というものがあるはずなんですよね。これが「反対のようでイコール」という話にかかってくると見ています。まず、ある意外な展開A、意外な設定Aが、先ほど述べたように物語が基本要素としての「意外性」を満たすために呼び込まれた。そして、その“意外属性”を持つAが、やがて「習慣的情報」に“枯れて”再利用され続けて来た事にはどういう意味があるのか?って話で。逆に本当に一回きりで再利用されない「意外性」もあるわけで………おそらく「ベタ」に致るものには物語における本質的な価値か、汎用的な価値のどちらかがあるんだろうなと思っています。ここが一定水準を超えて汎用的に昇華(整備?)されたものは「ドラマツルギー」とか言われるんですけどね。逆に概念的に昇華せず“まんま”だとパクリとか言われたり…難しいですねえw

また、引用の記事の意外性の箇所…

ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。

ここに書いたように、人間は(その人にとって)本当に“意外”な物には対応できないんですよね。ここでいう“本当に”って難しい表現なんですが…まあ、今の話、想像の“斜め上”くらいまでは対応できるし「愉しめる」んですよね。でも、この時点で「本当に意外」とか「想像を絶する」とか言う人はいうんで、表現難しいwただ、どこかに(その人にとって)お上限はあって、そこからは対応できない世界に入って行く…不条理なものとか、シュールなものとかね。たとえば僕がピカソの絵をよく分らないのは、僕にとっての“意外性の上限”を逸脱されちゃっているからだと思っているんですよね。(※ただ、想像を絶する事を認めた時点で「想像を絶する」という想像内の分類が可能になって、その時点で「想像内のもの」として対応する事ができるようになるはずなんだけど、今はそこまで話さなくてもいいかな)結局ね。共感と意外性は表裏一体な面があるんですよね。「意外性」が提示された後に「共感」が伴わないと、その「意外性」は対処できないものとして看過や拒絶をされてしまう場合がある。また「意外性」を効果的に使って行かないと「共感」への誘導は難しい。

……なんか取り留めもなく長々書いてしまいましたね……orz(汗)ここらで、言いたいことをまとめますと、以前、別の記事で「キャラクター」と「ストーリー」は有機的に繋がっていてその領分を明確に分離できない事を書きましたけど、「演出」効果の分類、「テンポ」、「共感」、「意外性」もまた有機的なもので。この場では思考の整理のために意味分けしてあるんですけど、本来的には分離が難しいものなんですよね。(イコールの話に繋がる)ここらへんの認識を違えずに思考を進めて行きたいねって事と。
あと「ベタ」とか、ベタの分類の一つなんですけど、たとえば「○○フラグ」と言ったものは、上記したような複数の演出効果を瞬間的に完成させるような優れた素材である事が多いんですよね。そこらへん、ぼちぼちと話を進めている「情報圧縮論」にも繋がってくる話なんで、ぼちぼちと「ベタ」と言う物の価値を意識しつつ、物語を分析して行きたいなあと思っています。

今週の一番:2月第1週:幻仔譚じゃのめ 第12話 やさしい世界

2009年02月23日 | マンガ
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10397.html#572



西尾維新先生原作の新作読切「めだかボックス」がよかったです。…かなり明確に“連載構造”が示された作品なんで新連載来るんじゃないかと思っていますが、どうなんでしょうね?……ま、アニメ化するなら、めだかの声は遠藤綾さんでお願いします。(`・ω・´)(←アニメ・ビジョンかよ!!)

ちょうど、1年くらい前に(…ジャンプ2008年06+07号か……)、作画に小畑先生を入れて「うろおぼえウロボロス」という読切も発表しているんですよね…。ちょっとスクラップ整理していたら、出てきたんですが…………まあ、当時こっちの評判はどうだったのか?は分らないんですが、僕としては、ちょっと不充分かな?という印象の作品でしたね。どうにもならん程だめというワケでもなかったんですが。

そこらへん「めだかボックス」では、様々に改善点が観られて、それだけで好印象だった所があります。…それでいて利点~たとえば“解説役”にちっちゃい女の子を置く…なんてあたりは「継承」されて(何か、このキャラ、西尾先生の作品には必ずいるんじゃないか?って気もするんですが)かなりシステマチックに考える作家さんですね。
まあ「ウロボロス」の時と比べて女の子が格段に魅力的になりました。元々、これくらいのキャラは持っていたのでしょうけど、漫画読切のスペースに入りきれなかったのでしょうね。結果として「ウロボロス」に登場する姉妹の可愛さは、小畑先生の画力一遍になっている。



テーマとして1:「ウロボロスTUEEEEEE!!」って話をするなら、この姉ちゃんが、もっと実力出したけど叩きのめされちゃうぐらいの強い敵が欲しい…。2:「張本姉妹かわえええええ!!」って話をするなら、もっとこの姉妹が可愛く見える演出を組んで欲しい。まあ、多分、1は求めてないでしょうね。あのお姉ちゃんを「弱く」描写するなんて、絶対イヤ!って雰囲気があるしwじゃあ、2って事なんですが、基本的にこの姉妹って自己中でどっちも回りの迷惑完全に省みていなくって、それならそれを「思わず許したくなるような」演出を積むか、「自己中である事のしっぺ返し」を組まないと厳しいのですよね。で、どちらも意識していないワケではなかったんでしょうけど、ちょっと薄かったです。

……で、何を長々と「ウロボロス」の悪口書いているのかというと「めだかボックス」は、そこらへんが全てガラッと改善されていたので、少なからず感動しているんですwいや、この黒神めだかちゃんは可愛いよ、ホントwこの娘も自己中だけど“他人の為”にやっているという設定の時点で、もう許せる水位の圧縮が入っているしwまた、自己中っぷりを特化させてギャグにまで昇華しているので、そこもやはり可愛さに転化しているんですね。お付きの善吉視点でめだかを説明しつつ、焦点(クライマックス)は主観格を持つ善吉に取らせるという構成もスマートでしたね。(まあ、毎回こう行くかどうかっていうのはまた別問題ですが…)

…なんか連載の原作やるんですかねえ…。ラノベでそれなりの実績(今度アニメ化されるとか)を上げている人なんだから、わざわざこんな週刊連載の鉄火場に来なくっても…とも思うんですけどねえ。敢えて踏むなら、その心意気や善しという感じですがwまあ、ぼちぼち楽しみにしてみようかと思っています。…あと、暁月先生の絵は“合っている”と思いますね。これで行きましょうw

「医龍」19巻

2009年02月17日 | マンガ


ちょっと折りを見て「医龍」の話がしたくて、最近、全巻購入しました。
この物語……んんんっと、大雑把に言うと「ヒロイック白い巨塔」とでもいいましょうかwある大学病院で、医局の改革の野望を持った女性助教授・加藤晶が……って、ちょっと、今、粗筋ごちゃごちゃ言うのは止めておきますが。それよりも、この作品、けっこう人間ドラマが熱い物語で、もともと好きで読んでいたんですけど、そこからある一線を超えた時、さらに惹きつけられまして、もう目が離せない連載になってしまったんですよね。その一線って何かっていうと、この作品、天才の事を描きはじめていて…。「天才の物語」に弱い僕はその時点でコロリと舞ってしまっています。

もともと、この話、先ほどいった加藤助教授が、自分の論文を完成させ、教授選で教授になるために朝田龍太郎という外科手術の“天才”を連れてきた事から始まるんだけど、この朝田“しきたり”の厳しい医局の中で、好き勝手に振る舞いながら不思議な魅力と圧倒的な技術力で、回りの者達を問答無用に巻き込み、駆り立てて行くんですよね。それが今、その状態でさえ、朝田にしてみれば眠れる獅子の状態だった事が分ってきた展開なんですよね。いままで彼と手を組んで来た加藤を始めとする仲間たちを「うざったい!」とばかりに振り捨てて自らの道を突き進んで行く。朝田の本心がどこにあるかは分りませんが、今はそんな展開なんです。

それまでも、圧倒的な技術力で物事を解決して行く朝田が描かれていて「それは充分、天才の物語じゃないの?」っていう人もいるとは思うんですけどね……でも僕の分類では、それはスーパー・ヒーロー…「英雄の物語」であって、この誰もついて来れない!!感が足りないというか…天才の醍醐味の一つは間違いなくこれなんだ!って思っていますw
そして、加藤の仇敵とも言える男・権力の妄執者である野口教授に強烈なシンパシーを感じている。…朝田はそうは言いませんけどね。でも、本当は人を救うべき医局の中で、ただただ権力闘争に明け暮れた男の孤独に、もっとも自分と同じ臭いを感じ取っている。そう思えます。それは、野口も同じで……互いに腹の内を探り合いながらも、今、二人ともすごく楽しそうですw

そんな感じに、教授選の候補者三人を中心にして、医局全体を巻き込んで、天才達と、秀才達と、凡人達が、それぞれ己の矜持をかけて戦う(生き抜く)のが今の「医龍」の展開なんですよ!w

…で、今週(もう先週か)のスペリオール買ってきたんですが、この号でねえ……もう、僕が観たかったものの一つは描かれてしまったような気分ですよ?大動脈瘤を煩っている野口教授の手術を新しい術式で挑もうとする(それをしなければ野口を治せないと診ている)加藤に向かって、力を貸して欲しいと頼まれた麻酔医・荒瀬は、弱々しく言い放ちます。



荒瀬「野口のじいさんは、朝田や国立……バウマンみたいな超人に任せておけよ」

国立というのは加藤と同じ教授候補(天才+権力の男)で。この時、加藤も荒瀬も、朝田に振り落とされているんですね(少なくとも現時点では)。また、麻酔医・荒瀬は、飲んだくれだったりしますけど、技術は間違いなく一流で、明らかに“天才っぽい”男だったんですけどね……この荒瀬が、振り落とされてしまう、今の展開にシビれていますw……で、そうすると加藤が答えるんですね。
加藤「その朝田でも救えない患者はいる。伊集院くんが必死で血液を運んでも救えなかった患者がいる。(そういうエピソードがある)あの時の手術室にあなたもいたのなら、術式の進歩の意義がわからないはずがない」



加藤「どんな天才でも、おのれの技量以上に人は救えないけど、術式の進歩はそれを可能にする」

加藤を論文の天才、術式の天才っていう言い方をする事もできるとは思うんですけどね…。でも、この時の加藤は朝田に振り捨てられた加藤で、明らかに「秀才の矜持」として、このセリフを吐いている。天道天賦足らざるとも全力で前に進む者の意地が胸を張るのですよね。胸の透くシーンです。
これより先んじて「医龍」の中ではずっと「凡人の物語」を描いていて、これも熱いのですが、今回、割愛。…あ、今、分りやすく「天才」、「秀才」、「凡人」って言ってしまっていますけど、人間の色調ってもっと複雑で、それは「医龍」の中にも顕われていると思います……たとえば、ここの加藤や荒瀬は、朝田やバウマンに比べれば、秀才という事になってしまいますが、他に対しては“抜群”の者たちである事は間違いないんですよね。…で、今、「凡人の物語」に後れて(?)「秀才の物語」と「天才の物語」が描かれようとしています。これを描ききる事ができたなら「医龍」は「途轍もない物語」になるんじゃないかとw今からどきどきしています。(誉め過ぎかw)

電視の部屋:“未熟”の物語 「とらドラ!」

2009年02月15日 | アニメ
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0091.html#534

アニメ「とらドラ!」が面白いので、ちょっと記事書いてみました。
どうも単行本の最終10巻が近日出るようで、かつ、物語の単行本の消費の仕方からみて放送の方でも次期シーズンとかなく、終わるつもりみたいですね。やっぱり毎週放送につき合うんだから、2期狙いの中途半端な終わり方よりは「ああ、終わった!」って思える作品の方が好感が持てます。

文中で「未熟」とか「しょぼい」とか、やたらネガティブな言葉を使っていて、少し拙かったかな?とも思っているんですが(汗)
ポジティブな言葉に塗り替えちゃうと(青春だねえ…とか)どうも自分の感覚と合わないもんで(汗)決して、悪い意味というか「だからダメな作品」という意味では使っていないので、悪しからずお願いします。


ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) 考察編

2009年02月12日 | 思考の遊び(準備)
【ハーレムメイカー】

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`) マンガ編】http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b7e10022ba6d90a00817392c37221375

【ハーレムメーカーと恋愛原子核(ゲーム視点編)】http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0294.html

アニメ編に入る前に、マンガ編のところで、まだ叩き台レベルって事もあって、少し言葉の定義や、評価する対象の範囲が曖昧で分らないという意見を頂いたりしましたので、少しそこらへんの意図を整備にしてから話をはじめようかと思います。ただ、今のこの話って“史観”の話でもあって、あまり明確な線引きができる物でもないんですよね(汗)基本的には、僕の知識と体験に基づく歴史的な流れの大体のイメージを伝えようという意図なのでそんな感じに捉えては欲しいです。また、このエントリー自体は、ペトロニウスさん、ルイさんとの意識合わせの意味があるので、その話の流れ次第で色々説明が変わって行くと思います。

■ハーレム構造について
1.一人のキャラクターに対して、三人以上のキャラクター(主に異性)が積極的ないし消極的いずれかの好意を示している状況
2.1の状況が物語の日常(定型)として設置されている状況
3.80年代ラブコメの系譜上にある作品(ラブコメ構造⊃ハーレム構造)


ハーレム構造自体は上の2項で大体説明つくと思うんですけどね。ただ、今後含めて、おそらく「ハーレム」という言葉が作品評価の中で有効に機能する射程として、3項目が必要になってくるかな?と思っています。たとえば下の者が上の者を弑するのが“下克上”と言うとして、その事例は日本史全般から見出す事ができるが、一般に「下克上を語る」、「下克上の時代を語る」と言えばその事例や時期は限られてくるだろうというような…?余計分りづらいか?(汗)…まあ、何をもって80年代?何をもってラブコメ?って話があると思いますが、とりあえず高橋留美子、あだち充を中核としたラブコメ文脈で語られている作品と思ってもらえればいいです。まあ、文脈(論じたい事)に応じて3項目は外せばいいかな?とも思います。
実際には、高橋留美子の「らんま1/2」が“あかね”と“シャンプ”ーのみの間は、単なるラブコメ構造、“右京”が登場してハーレム構造(…あ、小太刀とかいるな)…と言えなくもないんですが、高橋先生やあだち先生は、ラブコメを描いても、ハーレムを描いたという評価をするのには難を感じる人も多いでしょう。ここらへんこの話の線引きを難しくしているんですが…(汗)まあ、最初に述べたように、その為に“史観”の話をしているって事はあります。ルイさんが既に「ゲーム編」を書かれていますが、TVアニメ→OVA→ゲームの流れで、このハーレム構造消費は醸成されて来たかな?と僕は観ているので、これはその後に書いて行きますし、この話自体はそのバックグラウンドの中での話という事になって行きます。

また、1の条件に達していなくても、女の子が多く出ていて消費のされ方が、非常にハーレム的だと認められるものは「ハーレム系」という言い回しで俎上に上げて行こうと思います。他にも、僕自身はこの史観において「あずまんが大王」や「らき☆すた」あたりも組み込んで行きたいんですけど、これらの作品もハーレム構造ではないですよね。ただ、構造はそうではなくても、消費のされ方はハーレム構造作品の消費の流れにあると「観て」いるので、今回書かなくても、どっかで組み入れた事を書くと思っています。

■恋愛原子核とハーレムメーカについて
ペトロニウスさんとの話の中で、当初、ハーレムメーカと恋愛原子核を対存在的に扱っていたのですが、これは一度、ハーレムメーカという「言葉」で統括して、その上で、恋愛原子核とその対になる何かの「言葉」を用意した方がいいのではないか?という意見が出ています。ちょっと考えてみたのですけど、それはそれでいいかな?という気がします。何であれハーレムを作った者が「ハーレムメーカ」というのは思考する際にイメージが通りやすいですよね。問題は、ちょっと今、語ろうとしているもう一方のキャラクター属性に対する言葉に妥当なものがないのんですよね~……まあ、これ、僕が語りたい事の論旨を考えると「アドヴァンスド・ハーレムメーカ」か「スーパー・ハーレムメーカ」あたりにが一番ストレートな表現でいいかな?という気もしています。

さて、まず「恋愛原子核」の方なんですけど、要するにこれって「無根拠に多数の女性に好かれる展開を持つ」って事なんですけど、これは別にハーレム構造内に納まる要素ではなくって、ラブコメ構造全般の主人公に付されている要素ではあるんですよね。ある種の偶然の出会いまでを勘案すれば、この原子核を持たないラブコメ主人公は存在しないとさえ言えます。
ただ、多くは、無根拠を無根拠なままにする事を良しとせず(通常は切っ掛け程度に留め)、先にいくつかの根拠設定を置いたり(助けられたとか、幼馴染みとか)、後の決断で補完したりして、その“空白を根拠で埋めて”行くのに対して、ダメな自己肯定というか慰撫というか、ともかく何も無かったり、何も決断しないままだったりする、そんな自分でいいんだという快楽を提供する作品も確かに存在します。この属性のキャラクターを基本「恋愛原子核」と呼んで、あとはキャラクターの無根拠性、あるいは行動した奉仕に対する対価の大きさを論じて(対価…返される愛情が大きければ大きいほど無根拠性が高いという話ができる)「恋愛原子核的か?どうか?」を評価して行けばいいように思います。そこから考えると「恋愛原子核」の要件は……

1.「何故か女の子に好かれてしまうという現象」が根拠が無いまま(極めて低いまま)物語肯定されているキャラクター
2.「女の子に好かれてしまう根拠」が極めて希薄なままのキャラクター


ここらへんかなあと?1は作品としてそう描かれている。2は批判的な意味がありますね。ラブコメという構造の底辺的にこういうキャラクターはいるのでしょう。ただ、こういったキャクターも純粋に無根拠が肯定されているキャラクターというのはおそらく極小で、出発はそうでも多くは終盤に向けて様々な決断や根拠が付加されているのが物語の必然的な流れだと思います。これはラブコメ、ハーレムを超えて、恋愛原子核主人公の基本的な力学ですね。ここらへんの根拠や決断のハードルが低いのは、やはり“肯定”や“慰撫”の意味になってくるとは思いますが。物語を進める(終わりに向う)にあたってほとんどが必ず何らかの根拠提示なり決断を示唆されると思います。その結果が“結論先延ばしエンド”だとしても。

さて、ここらへんから本題になって来ますが…。

こういった状況の中で「ハーレムメーカ」は、本来的には複数の女の子に好かれてしまう根拠を提示する事が求められて行くんですが、多くは大した根拠がない「恋愛原子核」のまま、放置されている状態にあったのですよね。なんでって、面倒くさいから………ってわけでもないんですが(汗)やはり複数の女の子に好かれる状況を無理なく説明するのは難しいという事と、あまり「強い」根拠の子がいると、物語がその子を中心に「回り」はじめてしまうんですよね。「どうしても一緒にいなくてはならない理由」あるいは「どうしても守らなくてはならない理由」、あるいはまったく逆に「どうしても結ばれてはならない理由」を付加して行くと、どうにもその設定のためにストーリーが回り始めて、上記のハーレム構造の条件にあった2項目…日常(定型)が維持できなくなってしまう。

そうやってストーリー値を上げれば上げる程、ハーレム構造の“無理さ”というか歪みは顕在化して行き、やがて終局(破綻)を迎える。……これを回避しようとした場合、一番簡単な方法の一つは「引き返す」パターンを定型化する事です。「あ~あ、結局、元の木阿弥かあ~!」というヤツですねw「うる星やつら」や「らんま」はガッツリこのカードが構造に組み込まれている事で日常性を維持しています。ただ「引き返す」ためには回りの設定や構造を慎重に調和させている必要があります。そう何でもかんでも「引き返せる」ワケではありません。そうすると、もう一つの方法、物語を終わらせる危惧のある設定を排除する…が重要になってきます。…と言うか、これと「引き返し」カードはワンセットですね。そして上手い作品の場合、「終わらせる設定」を用意した上で、その設定を“眠らせて”何時でも好きな時に引き出せるようにしています。
しかし、これらの施策は非常に制御的なもので、相応の調整力とアイデアが伴わないと、非常に大人しい物語になってしまうし、無根拠性もかなり剥き出しになってしまう傾向があります。

しかし、恋愛物というのは“劇的”である事が求められるものだし、制御された範囲内じゃ面白さは限られてくるし、三角関係なら三角関係で一旦破綻するぐらいじゃないと面白くないですよね。だから、1対1の時(あるいは三角関係レベル)なら、その暴走を思う存分展開させればいいんですよね。…でも、1対多の時は何?wユーザの「自分の好きなヒロインを愛でたい。その為にはそれぞれのヒロインに“劇的”なる物があって欲しい」という「並列志向」のその要求に全方位対応するその1…主人公って一体何者なの?って問いを説明しなくてはならなくなってくる。
…で、初めの段階ではその説明は基本、放置されていたんですよね。説明しなくてはならない何て大仰な言い方しましたけどw「…いや、なんか知らないけどそういう奴なんだよ」と言ってしまうのが、一番てっ取り早い方法ではあります。それは結果、「恋愛原子核」キャラとして納まって行くワケです。

しかし、何時までも説明から逃げているわけにも行かなかったというか「恋愛原子核」が乱立してくると、いい加減、この主人公がモテる事に納得のいく説明を欲するようになってくる。また、同時に、納得いく説明を用意するとドラマの劇性も上がるし、ヒロインのキャラ格も上がるというか……単純には「その主人公の良い所を見抜いているいい女」という格が出てきて、より“萌える”ヒロインになる事が分ってきたと思われます。

ここらへんから、本来、説明性と劇性を高めれば高める程、崩壊因子が強くなるハーレム構造に対して「面白くするために」説明性と劇性を高めつつ、崩壊因子の解決は全て主人公のキャラ格で説明してしまおうという、ハーレム構造を解決・維持するために特化した設計を施されたスーパーマンw、あるいはパーフェクト・ソルジャーwが登場してくるようになるwそれも元々の出発点はラブコメ構造の主人公だから基本値としては“普通のさえない少年”という属性傾向があって、そこからラブコメ処理能力だけやたら先鋭化した性格や才能・技術が与えられて、その方向にだけキャラクターがビルドして行くワケです。
この話のミソは、「ハーレム形成能力/ハーレム維持能力」だけ、やたら高いキャラクターが誕生する事にあって、たとえば普段は引きこもり気味でヘタれた性格なのに、女の子の物語に絡み出すと突然、決断と駆け引きとユーモアに富んだ行動者に変わるというような…。これ1対1の状態なら「やればできる俺幻想」の具現化というかオーソドクスなドラマなんですけど、これが複数で且つバラエティに富んだ対応を「全て正解してのける」主人公って一体何者なの?って話になってくる。(今、少年サンデーで連載している「神のみぞ知るセカイ」はここの「面白さ」から出発している連載ですよね)

1.ハーレム構造の形成能力がある一定のレベルを超えて具現化されているキャラクター
2.ハーレム構造の維持能力がある一定のレベルを超えて具現化されているキャラクター


このいずれかの条件を持った者を「スーパー・ハーレムメーカ」と呼ぼうかな?と。一定のレベルを超えて…一定のレベルって?というのはなかなか難しい話なんですけどね(汗)ここは本当に検証対象ですね。まあ、いくつかの作品から例証をとろうと画策していますが、あるいは“伝説のスーパーサイヤ人”みたいなものと言った方がイメージに近いかもしれませんwハーレム系ラブコメ(並列志向)というジャンルが醸成して行って、次第に説明性と劇性の要求がエスカレートして行く中で、それを高いレベルで実現する。そういう“超戦士”がいるんじゃないか?という予想の話と言ってもいいかもw



さて、一通り書いた所で、図にするとこんな感じでしょうか?まず主人公パターンの空間があって、ラブコメ構造を形成するラブコメメーカ領域がある。そのラブコメメーカ領域の中に「ヒロインの並列志向」を特化させたハーレムメーカ領域がある。今回、便宜上、上記の条件付けをしてハーレムメーカ領域の境界の明確化を図っているけれど、たとえば四角関係を形成していなくても、ヒロインを並列志向で消費しようという意図の作品は存在するワケで、本来、このラブコメ領域とハーレム領域の境界はミストなもの。だから、そのぼやっとしたところを今、分かりやすく形を与えている状態で、この図面がありますね。その上でラブコメメーカ空間全体に偏在している無根拠性・偶然性の密度が濃い部分を「恋愛原子核」、能動性、根拠性が先鋭化してきている部分を「スーパー・ハーレムメーカ」…と。

僕のイメージはこんな所でしょうか?今、説明した物語構造の変遷を、いくつかの作品を具体的に交えながら、その流れを検証して行き、現状の到達点を確認すれば大体「観えてくるもの」があるかな?というプランで、マンガ編、アニメ編を書こうとしていますね。…で、それをルイさんの「ゲーム編」に接続と。この話、僕の所感では恋愛ゲームの変遷は外すことができないパートだと思っています。上手いこと接続できるといいのですが…。

今週の一番:1月第3週:ストライプブルー 第86回「勝負師」の巻

2009年02月07日 | マンガ
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10395.html#570



「はじめてのあく」が好調です。連載第1回の時は、地味だの、インパクトが足り無いだの言っていたわけですが……いや、もうホント、すんませんm(_ _)m ヒロインのキャラをかなり手早く積み上げていて、それが「楽し」かったりしますね。このヒロインの渡キョーコちゃん、藤木先生の前の連載「こわしや我聞」のヒロインで、僕がことある毎に地味ヒロインの代名詞として使っている(汗)國生陽菜さんとは対象的な…というか真反対のエッジの利いたヒロインでそこらへん興味深かったりもします。

「こわしや我聞」(2004~2005年)というのは、依頼を受けて何かを“壊す”事を専門に請け負う会社・工具楽屋を失踪した父に代わって社長に就いた高校生・工具楽我聞の物語ですね。一見すると「トライダーG7」を想起させます。国生さんは同じく女子高生にして社長秘書という役の人で。最初、仕事はできるけど堅物という印象が段々と物腰が柔らかくなってくるという「展開」を与えられています。
……まあ、こう…あんまし、国生さんを地味地味言っていると、その内いろいろな人にBUN殴られそうなんですが…(汗)んでも、さらに爆弾発言ますと……「こわしや」の連載始まった当初、僕、国生さんがヒロインだと気が付かなかったんですよね(`・ω・´)なんか、しばらくして、ああ…ああ、この娘、学年同じだし、ヒロインって事なの?って…(汗)いや、こう…モブキャラみたいに特徴がないビジュアルだったしさ…?orz 最初、我聞と国生さんだけで仕事切り盛りしていたら、嫌でも分ったんだろうけど、他のキャラもけっこう多くて、社員をワリと平均的に描いていたしさ…?orz したら、そのうち……



國生陽菜兄嫁化計画!!

とか言い出して…ああ、うん。そうだよねえ…って。そっからも、微妙~にフットワークの悪い娘で…(汗)いや、なんかボロクソに書いているように思われるかもしれませんけど「こわしや我聞」決して悪い作品じゃなくって、藤木先生、全体的に各キャラの組み上げはすごく上手いです。だから国生さんもリアクション薄くって、多少ディスコミュニケーションがある娘として「キャラ」を失敗しているワケではないんですよね。スタンドアロンなら。でも、良くも悪くも割と等価にキャラが組まれているので、びすっと国生さんに焦点が定まらないというか……桃子の方が「強く」ね?っていや、桃子は桃子で明らかに「負けキャラ」なんですが…(汗)wまあ、あれですね。バラとかチューリップとか咲いている花壇で「たんぽぽってよくね?」って言い出したような……で、その肝心のたんぽぽは最終回に「お前、ヒロインなんだよ?」って指摘されるまで、その自覚がなかった……みたいな話……かな?w

いや、書いていて、なんだか自分で勝手に擁護し始めちゃったけど…(汗)やっぱり、キャラ格としては「弱い」んですよね。スタンドアロンとしては可愛い。でも、それは「添え置きヒロイン」の可愛さで自らはストーリーの「トルク」を生み出さない(国生さんを“綾波系”っていう言い方もできるとは思うんですけどね……綾波とか長門が主軸にいるのはギミック・トルクが相当高いからなんですよね)……そうすると持ち上げの為か、妹の果歩に「回転力」が与えられて「兄嫁化計画!」とか言い出して、卓球部も基本的に「国生さんの可愛さを描くためのグループ」になって、我聞(主人公)の物語マウントからそこ一帯をごっそり持って行っている。
実際、「ストーリー・シャフト」は兄の我聞でも、「キャラクター・シャフト」はキャラの横の繋がりからみても妹・果歩なんですよね。(キャラ格で下の妹、弟を従えてかなり「強い」)さらに言うと、我聞の「ストーリー・シャフト」は父・我也の支配力で成り立っているという…。(まあ、これはそういうモンだけど)…んんん、そうか。「キャラ格」の低い主人公とヒロインのカップルなんですね。それはそれで興味深いな!(`・ω・´)



「はじめてのあく」のキョーコちゃんは、そこらへんかなり真反対のキャラ設計になっていて「面白い」です。まず、読んだ瞬間、この娘がヒロインだ!と分ったしね(`・ω・´)(←それはお前が悪い)ビジュアルも“ぼさぼさ髪にメガネのチビっ子”という見分け易さ。そして何よりリアクションがデカイのがいい!根がお人好しで基本アホの子だから、どんどん泥沼にはまって行って、その場のリアクションで場をひっくり返そうとするんだけど、事態は全然好転していないというw(要するに蹴っても何も解決しないんだけど、とりあえず蹴る!みたいなw)ベタなんですけどねwでも新妻エイジも「ベタは意外性と反対のようでイコールです」って言ってますしねw(←!)後は主人公のジローの方なんですけど……まあ彼はギミックの塊で、かつ、どっからでもビルドできる設計なんで何とでもなるでしょう。

元々、藤木先生は全体に愛情を注ぐというか、端のキャラまで「キャラを積む」ところがあって、それは良い事なんですけど、反面、主軸の部分が目減りする所があったように思います。今回、ジローとキョーコの掛け合いをまず全力で「回し」ていて、その後に他の設定やキャラをビルドして行く形をとっていますよね。主軸がはっきりしていると、全体的なキャラへの「キャラ積み」は“目減り”ではなく“底上げ”になって物語に厚みを与えると思います。変に気を張らなければ、けっこう高い「面白さ」まで言ってくれそうな気がしていて「楽しみ」です。