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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)

2010年05月24日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

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(※既読者向けです)

■「情報圧縮論」序

さて、予告しました前回の続きです。ここでは僕が「物語」を読んで行く遊びに使っている「情報圧縮論」をからめた話をして行きたいと思います。「情報圧縮論」って何だ?という事で先に以前書いた記事を提示しておきます。しかし文章構成から後でまた引っ張り出して説明します。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c

また、以前僕は「情報圧縮」を絡めた別の「先の物語」の話として「魔法先生ネギま!」(作・赤松健)を取り上げた事があります。

【今週の一番付記「魔法先生ネギま!」情報圧縮して描かれる先の物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a83c0e2d45de438ef5d547bc9c1e6b7d



ははははははは 私を倒すか人間それもよかろうッ
私を倒し英雄となれ 羊達の慰めともなろう だがゆめ忘れるな
全てを満たす解はない いずれ彼等にも絶望の帳が下りる

貴様も例外ではない


いや、このシーン好きなんで、もう一回張っちゃいましたがw(汗)主人公・ネギくんのお父さんで大英雄のナギが、悪の組織“完全なる世界”の首領“造物主”を倒した後のシーンですね。おそらく超絶壮絶であったであろう決戦部分をカットして、その断末魔にあたる部分の描写がこれ!というのがとても好きで、何度観ても「楽しく」なってしまうんですが、ある意味これまで描かれて来た“英雄譚”を象徴(情報圧縮)するシーンだと思っています。

他にもナギの冒険の物語は「ネギま!」の中で少しずつ描かれているのですが、このシーンを観るだけで、僕らは…少なくとも多くのおたくは、それまでにナギにどんな冒険があったのか想像できる。…つまり、このワード、画だけで、その情報は“圧縮”されている…という言い方が可能かと思います。
…というかね。多分、この決戦の前に、この“魔王”(造物主)はおそらく、何かこの“勇者”(ナギ)と交渉事をしたんじゃないかと思います。たとえば「この我のものとなれ」とか言っていたりねwそしてナギは間髪入れず「断る!」と答えたりねwこれはそんなピント外れなイメージではないと思います。

「魔王x勇者」も「魔王『この我のものとなれ勇者よ』、勇者『断る!』」にというやり取りに、そこに至るまでにどのような冒険があったのか?そのイメージが圧縮されているはずです。もともと、このタイトルとも単なるセリフともつかない、でも一応タイトル?のような“これ”ですが、この「物語」の発祥地である2ch・Vip板では、「タイトルだけ放り出して本来の作者(スレを立てた人)が逃亡」という“芸”があるそうで、この“逃亡芸”を引き継いだ次の作者である、橙乃ままれ先生が「魔王x勇者」の物語を紡いで行く…と言う形だったようです。

その作劇の有り方を評価して行くと、どんどん「情報圧縮」の話から逸れてしまうのですが、ともかく「魔王『この我のものとなれ勇者よ』、勇者『断る!』」には、短い文言の中に手堅く強いドラマと次の展開の溜めが詰まっていた。その可能性の一端にして、大多数の展開は、今、上記した「ネギま!」のナギが代表するような返答と決戦の歴史であり、それは実は「魔王x勇者」にもあり得た別の展開(厳密には違う形でしょうが)なんですね。しかし、正にそうではなかった物語が「魔王x勇者」のはじまりとなります。
※ちょっと付記すると魔王の“誘い”を断らない話は、お父さんなら定番なんですけどね。「スターウォーズ」のダース・ベイダーが超代表ですが。「ドラクエ」にかけるなら「ダイの大冒険」の竜騎将バランでもいい。…これはこれで興味深い話なんですが、“転身父さん”の話との違いを論じて行くのは、また別の機会とします。

つまり「魔王x勇者」はそういった定番を崩して“意外な”展開からはじまっているのですが、この段階で「情報圧縮」からの構造を見出す事ができると思う。それは、たとえば、何の“下地”もない状態、つまり「魔王『この我のものとなれ勇者よ』、勇者『断る!』」というセリフに、なんの背景も感じ取れない状態で、この物語ははじめられるか?という問いかけでもあります。それは(はじめる事自体は可能だが)非常に難しい事であると僕は考える。
しかし、同時に、この情報イメージがある程度一般的な理解と共感を得られる“時機”というものがあると思う。大雑把に言えば先程、背景などと言ったものが“内輪の暗号”に留まらない情報の共有性が得られる時期が来る、ある種の“有用”な情報にはそれが有るという話ですね。そこらへんが「情報圧縮論」の話になって来ます。


■「魔王x勇者」と「ネギま!」

ここで、ちょっと、ここまで「ネギま!」と「魔王x勇者」を対比して語っているわけですが、ちょっと両作品の違いについても言及しておきたいと思います。「ネギま!」のナギは、非常に分かりやすい“英雄譚”の形を提示してくれていたので、「魔王x勇者」の拠って立つベースとして引き合いに出させてもらいましたが、結局、ある重要な部分の違いから両作品の目指す方向性はかなり違ったものになってくると思うんですね。
勇者「(丘の向こうに行く事は)必要なのか?」
魔王「それは違う。このままワルツのように戦争を
 消耗を繰り返し、屍山血河の平和を享受することも
 この世界に許された選択肢の一つだ」

勇者「それはそれでおびただしい犠牲だろう」
魔王「でも勇者が直接的手を汚さないで済む」

勇者「なんだよ契約したくないのかよ」
魔王「騙して契約したくないんだ」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」1スレ目より)

ここですね。おそらく…じゃなくって現時点で確実に「ネギま!」は“放置すれば破滅する世界”を抱えて戦っています。ネギくんたちの敵も一概に悪とはいい切れない所があり、言わば互いに世界の救い方の解答を求め競っている状態とも言えます。しかし、「魔王x勇者」はそうではないんですね。このままでもいい事が明示され、その上で「(それでも)丘の向こうに行きたい」事が語られる。…なんで“滅びぬ世界”なのか?ってその物語的経緯を語る話はしたくはあるんだけど、ちょっと割愛w……それにしても凄い「物語」ですよねえ。

“破滅する”と、その設定を置きさえすれば相当な事まで正当化できるはずなのに…。

魔王は「それは違う」と言った。その気高さに軽く震えがきましたね。「騙して契約したくないんだ」と魔王は言う。すげえ…wそれでも僕はこの「物語」は世界を救う物語だと思っているんですが、それは僕自身が「丘の向こう」にそういう意味を見出しているって事なんですよね。
一方「ネギま!」ですが。いや、ここに到ると世界の救い方の手法そのものが違ってくるので、もう比べる対象ではないんですが。他に、今、僕は相当な事まで正当化できるなんて事を言いましたが、ど真ん中のマンガ少年誌だと正当化できる事項もそれ程多くはない、というか相当限られて行くわけで、方向も違うし、超えるべきハードルの形も違うんですよね。そこらへん「ネギま!」がどういう答えを出して行くか?も愉しみにしています。


■「やる夫が徳川家康」と「魔王x勇者」

さて、では本題で。まず「情報圧縮論」の紹介から改めて入って行きたいと思います。「情報圧縮論」をかいつまんで説明すると、世の中に「すごい物語」があるとして、本来その「すごい物語」というのは才能…おそらくは天賦の莫大な才能を必要としていたと思うんですよね。
それが「物語」界隈の文化の醸成というか、技術の向上というか、あるいは「受け手」の練度も含めて、本来手がとどかないはずの「すごい物語」が、比較的簡易に手を届かせる技術があるんじゃないかという仮説の話です。(※ちょっと気をつけて欲しいのは「情報圧縮論」を使ったから才能が低い人…という話ではないです。その技術が使われるかどうかは才能に関係ない)
もう少し細かく言えば、その「作り手」の主武器となる才能やあるいはワン・アイデアでもいいのですが、それらを「すごい物語」に昇華するために他に必要な才能の部分を借りてくる…。それが今、借りて来やすい形で転がっているかも?(「情報圧縮論」の中でモジュールとか呼んだりしますが)そういう言い方もできます。

たとえば(↓)下記の記事で「やる夫で学ぶシリーズ」の名作「やる夫が徳川家康になるようです」を引用して「情報圧縮論」を説明しているわけですが、この「やる夫が徳川家康になるようです」は僕は、すごい大河ドラマを完成させた大傑作だと思っているのですが、キャラクターたちは基本的に流用で、この作者の方からオリジナルのキャラクターを描く才能は示されていません。(別に示せとも思わないけど)…つまりオリジナル・キャラクターを描く才能を示していないにも関わらず、様々な群像が浮かんで消える大河ドラマを完成させたという事になります。本来は“莫大な才能”を持った者の特権とも言えた“大河ドラマ”に、何であれ、とにもかくにも手を届かせたって事なんですよね。



※それは昔からある事…と言えばそうなんですけどね。でも昔だと才能によって一から組み上げられる事が尊ばれて、ある種の「パターン」や「記号」というようなものは、安易だと。マイナス的に観られて来た経緯があると思う。それをちょっと別の「言葉」で加工して、その有効性を体系的に分析したいという話になって来ます。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c
多分「機動戦士ガンダム」を例に上げると分かりやすい気がします。「ガンダム」という物語を描くにあたって、ニュータイプという“先の世界”を思いついたとして、それは、泥まみれで、戦争に翻弄される“大きな群像”を描いたその上に、“先の世界”を載せるから、あの感動が生まれている事は間違いないと思います。群像劇を描く才能のない者が「人類って宇宙に出たとしたら、こんな風に変って行くかもね」というだけの物語を作ったとしたら、僕は間違いなく、あれほどの感動を得ることはなかった。だからこそ、これは群像劇(「大きな物語」)を描けた者だけに許された「先の物語」だったと言えます。

それは逆に言うと、「大きな物語」を描ける者が、「先の物語」を描こうと思わなかったら、それはそこで終わってしまうという事。(いや、終わっても全然良いのですけどね。安彦先生とかは、本当にニュータイプとかには興味がない人ですよね)逆に「先の物語」は見えている(思いついている)のに、「大きな物語」を描く力量がないために、「先」が描かれているだけの「小さな物語」で終わってしまう事もある。
こういったカナシに、これまで散々溜め込んできた、物語表現技術を複合的有機的に利用する事で、手を届かせる方法があるのではないか?いや、既に何人かの作家は、それに意識無意識を問わず気付いていて、すでに使っているんじゃないの?……というのが、僕の「情報圧縮論」のあらましという事になるかと思います。


まあ、それでこの話を、どうして「魔王x勇者」の話に絡めて来たかというと、普段、上記したような事を気に留めながら「物語」に接している僕としては、「魔王x勇者」の構成構造から「やる夫が徳川家康」以上に優れた「情報圧縮」の解を見出しているからなんです。(これは部分によってはVip板の文化が大いに関係していて、おそらくあそこは内輪という意味を勘案して「情報圧縮」の渦のような状態があるのではないかと予想しますが…その話は今の僕の手には余ります)…いや、両作品にそんな意識は全くなくって、僕が“勝手な”その角度から観ているだけですよ?(汗)傍迷惑ですみません(汗)
しかし、これはツールになるものを一つ一つ分解して行こうという事ですから、分解の仕方に間違いはあっても、考え方そのものはそんなおかしなものではないと思っています。言ってしまえば「すごい物語」、「大きな物語」あるいは「先の物語」を「読む」時、「作る」時に、いろいろ使う事ができるんじゃないかと思うんですね。それで、まず取っ掛かりとして「魔王x勇者」はタイトル出しの時点で既に「情報圧縮」載っているよねと。そういう話になります。

……さて。なんか序文だけ書いてて、ここまで来ちゃったんですが…orz 一端終わって次回、もう少し具体的な言及に及びたいと思います。……と言いつつ本論は序文よりも短く、スパッと終わってしまうかもしれません。

(↓)続く

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230


以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b


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