【ハーレムメイカー】
2011年4月~6月期のアニメ『俺たちに翼はない』について、僕はすごく気に入ったので記事を書いておこうと思います。ちょっと観直していたのですが…やっぱいいですね、『面白い』。ちょっとザッピング的な、混乱を意図した話運びや、茶化したような演出が、人を選ぶ所はあると思いますが、じっくり観ても『面白い』。
第1話の冒頭のシーンと最終話のラストシーンを重ねていて、最初から観直す示唆をとっています。ラストシーン観て「ああ、このシーンはこういう事なのか…」と。(アニメ『SchoolDays』なんかもそうですね)…しかし、第1話のシーンは学校の制服が全員同じなんですよね?1年生の子たちは違う学校のはずなんですが…パラレル?いや、むしろ、そこでの細かい所作、言動の違いが…(ぶつぶつぶつ)…いや、ホント観直してみるといいですよ?(´・ω・`)けっこう細かく色々やっているのが観えてきます。観直し前提のアニメと言ってもいいですね。
『俺たちに翼はない』は……えっと、もうネタバレ全開で語りますが、自分の殻に閉じこもって様々なキャラを生み出してしまうとある多重人格症の少年がいて。その変わったキャラごとにヒロインがついてしまう『物語』。その人、本来の人格はずっと“奈落”から出てこないのですが、彼がずっと戻ってくるのを待っている妹の子(ホントは妹じゃないらしい)もいます。
■ハーレムメーカーへの道
まず、この物語の構造と文脈の話をしようと思います。はっきり言って、僕が、このブログでずっと話している【ハーレムメーカー】の文脈そのもの話になります。「ハーレムメーカーってなに?」って所から話していくと長く長く長くなってしまうのですが、かいつまんで説明すると「主人公一人を多数の女の子(ヒロイン)が好きになってしまう」という形態の物語が、どう受容されて変化して行くか?を追っています……程度に考えてもらうとして(↓)直近の記事として『アマガミSS』と『ヨスガノソラ』の記事を引っ張ってきます。
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【ハーレムメーカー】『アマガミSS』×『ヨスガノソラ』のヒロイン並列構造の解法
ちょっと昔に遡ると、複数のヒロインが居ます~そして、それぞれのヒロインに一定のファンがついています~そういう作品をアニメ化(あるいはマンガ化)するとしたら、どうヒロインたちを描くか?最初に考えられたのは並列構造は並列のままにオムニバスで描く事でした。
それに対してそう離れてない時期のはずですが、敢えて一本の物語に絞り込む。複数ヒロインといってもタイトルとして“本命”に据えているヒロイン、一番人気のヒロインがいるワケで、この子一本に物語を絞る。他の子は登場させつつもメインストーリーの脇として置くという手法も取られました。……しかし、どちらもあまりパッとはしなかった。
オムニバスに描かれた物語は、拡散的で一本に絞られた物語の盛り上がりが得られなかった。…この当時だとまだ「ヒロインを選ぶなら一人」という力場の縛りは強く、ヒロインたちが恋の成就まで辿りつくのに抑圧的だった事も原因だとは思います。(オムニバスでも複数の女の子に手を出しているように錯覚させるという感じかな?だからあまりハッキリした所まで踏み込まなかったりする)
また、一本軸で描かれた物語は、それメインにヒロインに置かれた娘の盛り上がりは相応にあるワケですが、他の序列下位のヒロインたちの物語はスポイルされてしまうんですね。必然的に。そうすると、先ほど言った、それぞれのヒロインについたファンたちの不満足が顕在化する「俺の好きなあの子の話は?」となると言うか。
まあ、他にも色々原因っぽい話はありますが、まだゲームとマンガ的『物語』の親和性はよくなかった時期だったって事も大きいでしょうね。
ここで語られている並列構造についての議論と同じく、アニメ『俺たちに翼はない』も
「ヒロイン並列構造を如何に描くか?」という視点で観ることができます。
…どうして並列構造で描くか?という話を確認すると、それは「それぞれ(どれか)の女の子を好きになってね?というパッケージをした物語」だからです。そこにどういう問題が出るのか?というと「…にも関わらず、通常的な一本筋のストーリーだと「それぞれ(どれか)の女の子を好きになってね?」というサービスが真っ当できない。一本筋の中心に添えられなかったヒロインは、スポイルされるから」です。…じゃあ(サービスの真っ当として)全てのヒロインの“想い”を成就させてあげるか?しかし、それは主人公が一人の場合、倫理的な圧力がかかってしまう。
…という具合にハーレム構造は、そこの構造を組んだ時点で様々なジレンマを抱えていて、そこをどう上手く逃がしてやるか?というその解法を僕は追っていたりするワケです。
たとえばこれを、記事に上げた『アマガミSS』(2010年放映)はどうしているか?というと、かつてとられた、ある意味古い手法であるオムニバス形式に立ち返っている。完全に世界を替える形で、それぞれのヒロインの満足をサービスしながら、その上で統合的なヒロイン(メタ・キャラクター?)をだして、物語全体の統合化も図っていると。
…しかし、ここで『俺たちに翼はない』というアイデアの形を明確化するために、敢えて指摘すると、主人公一人の形でオムニバス/パラレル・ワールドをとっている事によって「それぞれの展開があり得る」という範囲内に収まり、唯一性の物語が希薄になっているのですよね。
「この子じゃないとダメ」ではなく「どの子でもいい」という事になっている。いや、その上で一本一本のストーリーのクオリティを高めて行くという手法で『アマガミSS』は充分な成果を得ていると思います。でも必ずしもシナリオが唯一性に満ちている必要はないのですが『アマガミSS』は構造として他の世界もある事を見せてしまっている。
仮に劇中で主人公が「君じゃないとダメなんだ!」…とか言っても“そうでない世界”がある事を観客は知っているというかね。(それでも、そこに唯一性を見出す……とかそういう試験はここでは置いておきます)
……そんなモンしょうがないじゃん?というか、えらい我儘ですが(汗)まあ、とにかくサービスを高めようとするとそこが観えてくるという事です。それ故、そこに対する要求として、全部を統合して唯一性の物語へと収斂させる“上崎裡沙”というヒロインが出現すると考えられます。
さて、今、指摘した角度で『俺たちに翼はない』を見ると
「主人公が何故、多重人格なのか?」が分かってくると思います。…というか、話が進んで物語全体の構造が解ったとき「ああ、そうきたか」と思ったんですけどね。
ただ、漫然と一人の主人公が複数のヒロインとよろしくやる(=横ハーレム)のは倫理的な圧力がかかる。パラレルな処理で複数のヒロインとよろしくやる(=縦ハーレム)のは唯一性(この子じゃなきゃダメ)…じゃあ、どうするか?「主人公を(二人)割っちゃえ!!」という答えを出したのが『キミキス pure rouge』(2007年放映)だったりするワケですが…まあ、そっちの話は、またの機会にするとして、そこからさらに“尖った答え”として
「一人の主人公の身体に、複数の人格を入れて、それぞれにヒロインをつけちゃえ!!」とやったのが『俺たちに翼はない』という事になります。
この物語には基本として四人のヒロインがいると考えられますが(実は“人格”によってさらに複数のヒロインを抱えてたりするから複雑なんですが…)その四人のヒロインと、それぞれキャラクターの違う四人の男の子と、なんて事ないラブストーリーを演じると。しかし、その男の子の身体が一つだったら…それはハーレム構造じゃないか?というアプローチですね。
上崎さんのような“統合的な役目”を主人公の羽田鷹志くんが、同時に果たしてしまっているワケですね。これによって、並列的な構造をすんなりと取りながらも、統合の物語~これは文字通り人格統合も重なるのですが~も同時に行われているという、なかなか『面白い』形をとれています。
ほぼ、完全な並列化を果たしているので唯一性(この子じゃなきゃダメ)も実現されていますし、その上で一本軸のストーリーとしても仕上がっていて、倫理的な圧力もかなりの所まで“逃がして”いると……すごい!!(`・ω・´)
結果として物語自体は1クールに詰め詰めの形になっていて場面が、拙速な速さで切り替わる混乱気味な物語になっていますが…だから、こそ第1話から観直す事が示唆されているし『情報圧縮』で、かなりの難解でなくなる程度の精度を出しているのですよね。
■その構造から生まれる物語
さて、本題。というかこの物語の構造的な分析は上に書いた通りで、これはこれで興味深いのですが、話はそこで終わりではなく「そういう構造を取った物語が、どういうストーリーを編んで行くのか?という面での面白さがありました。単純に考えて1クールで4本分のラブストーリーに、その問題の提示と解法が入ってくるのですから、かなりボリュームのある物語である事は分かるかと思います。
多重人格もので、その人格一人一人にヒロインを用意したらどうなるか?…まず、多重人格というのはある種の心の病であり、心神喪失状態とも言えるこの“症状”は、精神の健全さを(おそらく)損なっており、最終的にはなんらかの形で後から作られた人格は消える~昇華される~ものである“べき”ものである。
…というのは多重人格ものにある倫理的圧力で、この物語も当然その影響を受けています。故に、この“主人公たち”はいずれ消えて行くものであり、それぞれの~妹の子以外の~ヒロインたちとの別れが想起されるように(情報圧縮的ですが)なっている。
何人かの“人格”はその事を知っており、それ故彼らは意識的に、人と深く関わる所を避けている……そういうキャラ性というか、雰囲気が加わっている。「それでも関わってしまう女の子」はいるワケで(というか彼らはあまり彼女たちが自分を好きになる事を想定していなかった感じですね)そのストーリーには相乗的に、そういうエッジが入っているワケです。物語の統合的な設定が、個々のストーリーを逆に支援していると。
あるいは統合的な設定に対して、謎めいた(?)男の子の秘密を突き止めて行くヒロインのストーリー。あるいは、10年前から自分の殻に閉じこもったきり、生活はずっと他の人格に任せて出てこなくなってしまった男の子を、ずっと、10年会えないままで待ち続けているヒロインのストーリー。用意された設定に対して精度の高いシナリオが組まれて行っているのが分かると思いますし、消え行く、翼なき主人公たちの心象も『読んで』行く愉しみがあります。
そうしてラスト、人格が統合されてからも“彼ら”が消える事はなかった…と一見、普通のハッピーエンドのように思えますが、これすごくいいです。
何で彼らが消えないかって言うと
「ヒロインたちが彼らを消させまいと繋ぎ止め続けるから」なんですよね。これルイさんと話していたんですが。正確に言うとヒロインたちに代表される“彼ら”の関わるセカイが…ですが、それをヒロインが象徴しているという事でいいと思います。それが1シーンに結晶するのが、最終話のラストシーンなんです。いや、あそこいいシーンですよ。なんかお気楽なBGMとか流れていますがw
彼女らが諦めると“彼ら”は消える…はずなんです。元々、必要に応じて生み出された“彼ら”は必要とされなくなれば、その時はじめて役目を終えて消えてゆく人格のはずなんです。それをヒロインたちが強引に引き止めている。あのラストシーンはその“意志”によって生み出されている。
なんでもいいんですが…まあ、たとえば『IS』を例にあげると(←なぜ『IS』か?←ラジオのこの話題で上げたから)シャルや、セシリアさんが諦めても、一夏は一夏のまま、消える事はないんですよね。勿論、箒さんや、ラウラや、リンでもそれは同じ事です。
でも『俺たちに翼はない』の彼らは消えるんです。鷹志や、鷲介や、隼人は本来、消えるべき存在なんです。
「そうはさせない!」と叫んで喰らいついている。それがあのラストシーン。その一事が、唯一性の物語において、ヒロインたちに強烈な『強さ』を与えていると言えます。
いや、改めて良い物語なんですよ。『ハーレムメーカー』の話の時には必ず引っ張り出すであろう程の解法を示してくれています。そんなに取り沙汰される事はなかった物語ですが、機会があったら一度観てみて下さい。