今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

私の愛した悪役たち:聞仲

2008年06月26日 | マンガ
アップしました。今回は「封神演義」の聞仲です。…何か再開してから妙に長い文になっているなあ…(汗)ま、いっか。

http://www.websphinx.net/manken/labo/badd/bad09.html#BUNCHU


予定メモ

・書評 … 「ギャンブル!」の解説にとりかかる → 「伊賀の影丸」の話?

・「ユニット構造」の考察 → もうちょっと続けるしばらく遊ぶ

・「並列型」キャラ構造/ヒロイン構造 → 京アニ+Key作品の分析を、と思っていたけど、とりあえず「DC2」の評価を考えると良さそう。

・私が愛した悪役たち … 風見博士、メンデル博士…次は風見博士

・「とるてあ」チャット

・「ストレンヂア」チャット

井汲さんから言われている「とるてあ」チャットも早めに編集しないとなあ…って「ギャンブル」もちょっと早めにこなしておきたいところ。

ユニット考:WF分類

2008年06月25日 | 思考の遊び(準備)
キャラ配置/ユニットが回る

上のリンク「キャラ配置/ユニットが回る」の項で、キャラクターグループを一つのユニットに擬えて「ユニットが立つ」「ユニットが回る」という視点を持って、キャラ構造を分析して行く方針を一つ謳ったわけですが、さて実際にどうしたものだろう?と考えまして………とにかく非常に大雑把ながらユニットの分類を強引に割る方法~後で説明しますが「WF分類」と名付けました~を思いつきまして……ちょっとこの視点でキャラクター配置というものを眺めてみるかな?と考えています。
あらかじめ入っておくと、このブログで「思考の遊びと準備」とカテゴライズしましたように、まだ思考準備段階のものです。…まあ、ちょっと遊んでみて使えそうだったら使うし、使えなさそうだったら使わない…そんな感じでお願いします。

まずサンプルとして「コードギアス」の人間関係を利用しようと思います。この作品、それぞれの人間関係が一見複雑なように見えて、わりとシンプルな「ユニット」の集合体となっている面があると思っていて、時にその人間関係が「プリズム」のようだと比喩されたりする作品なねすね……少なくとも僕の近辺の人々の間ではw
そのプリズムが具体的に、どういう変化をしているプリズムなのか?を分析するのにとりあえず使ってみようかと思います。次第に応用を利かせて他の作品にも当てはめてみたいですが、けっこう「コードギアス」のように、ある程度人間関係が複雑な面がないと(人間関係が単純過ぎて)面白くないかもしれません。

さて、僕はキャラクターの構造分析をするさいに、キャラAとキャラBの繋がりを「主格」、「従格」、「対等格」、「つながり無し」、という言葉で表現しているんですが、まだ、このブログにはその内容をエントリーしていません(汗)そこはまた機会を改めて記載させてもらうとして、ちょっと「主格」という言葉だけを持ってきます。今回この言葉は「中心的人物」といった感じの意味に捉えて下さい。
そこから「ユニット」におけるキャラクターの属性を大雑把に、強引に分けます。……まあ、正直、B(ボケ)とT(ツッコミ)でもよかったんですが、もう少し漠然とW(賢者)とF(愚者)という表現にします。このW(ワイズ)とF(フール)の属性は「関係を表わすもの」で、任意のキャラに固定されません。AというキャラがBというキャラに対してF(フール)であったもCというキャラに対してはW(ワイズ)である可能性があります。……W(ワイズ)とF(フール)の意味は漠然と言葉の字義からイメージして欲しいのですが、敢えて言えば…

W(ワイズ)… 視野が広い?冷静?ツッコミ?
F(フール)… 視野が狭い?情熱?ボケ?

…とりあえずこんなイメージですかね?ただ、繰り返しますがあくまでキャラ同士の関係を表わしているので、クールなキャラは必ずW(ワイズ)というワケではないはずです。あとこれに合わせて、両方の属性を持つR(リバーシ)という属性も考えてますが、用意するだけで今回は使いません。必要になる場面があるかな?と思いつつ、なるべく使わない方向で考えたいです。

次に、これを「ユニット化」する基礎理論の説明から入ります。2点のユニットはそんなに面白みがないので、3点ユニット(テトラ)の分類からはじめます。まず「主格」のキャラを1人定めて3人組と考えられる組み合わせを抽出し、「主格」のキャラを先頭において、そのキャラ毎にWかFの属性を割り振って行きます。そうすると以下のパターンになります。

1)WWW、2)WWF、3)WFF、4)FFF、5)FFW、6)FWW

……え~…実はこの話はここまでなんですが(汗)これにまず「コードギアス」のユニットを当てはめて入ってみましょう。

■コーネリア+ギルフォード+ダールトン

→「WWW」ですね。「WWW」は大概「目的のハッキリしたユニット」になると予想されます。
ただ、これを変じて、ギルフォードはネリ様が好き過ぎて、このグループの中ではFなのではないか?という評価に変えてみましょう。そうすると「WWF」のユニットになります。「WWF」はWWの繋がりがよくってFが少しハブにされている面があると予想します。ギルフォード、カワイソス(´・ω・`)というわけです。

…今、予想と述べましたが、今述べている、この「WF分類」を使って当てはめた「ユニット」にどういう特徴があるか?を検証して行くのに数をこなすリサーチが必要なんですね。この考え方を準備と位置づけているのは、それが理由でして。…まあ検証の結果大して「楽しくない」ようだったら切り捨てようかな~?と思っているわけです。…続けます。

■ルルーシュ+CC+カレン

→「WWF」でしょうか。さっき述べたように「WWF」はWWが結託してFをハブにすると思われます。第一期の三人の関係がそれだったかと思います。しかし「R2」になってカレンの成長は著しく、FからWへ、つまり「WWF」から「WWW」に変化しつつあるという読み方ができるかと思います。
つまりコーネリア+ギルフォード+ダールトンと同じ「目的のハッキリしたユニット」になりつつある…となります。ここで同じ属性のユニットになりつつある、と言われてイメージが合うなら、けっこういい感じなんですが…。

■ルルーシュ+藤堂+ディートハルト

→これも「WWW」ですね。最近、ディートがFになっている気がしないでもないですが…。

■スザク+ロイド+セシル

→典型的な「FWW」と考えます。主格がFでWWが二人並ぶ場合、WWはFを強くサポートすると予想します。結果、突破力というか意外性において「WWW」の上を行く事になるかと思います。「WWW」よりヒーロー的な「ユニット」なんですね。

■ナナリー+ルルーシュ+スザク

→このユニットも「FWW」かと思うんですけどね。ヒーロー的か?っていうとそうでもないな?(汗)でもWWでFをサポートします。

■ユーフェミア+スザク+コーネリア

→「FFW」でしょうか?FFが二人並ぶと暴走気味(?)になってWは監視観察者になると予想しています。……コーネリアじゃしっくりこないかな?ユフィ+スザク+ダールトンの「ユニット」だと「FFW」に当てはまると思います。……ユフィ+スザク+コーネリアは「FWW」かもしれませんねえ…。WWの二人がFを助ける。(こういう時、スザクをR(リバーシ)って言うのかな…?)

■ミレイ+シャーリー+リヴァル

→「コードギアス」の中でFFFの「ユニット」を見つけるのは困難なんですが彼女らはそうなるかな~?とかwちなみに「FFF」は「WWW」の真逆で「迷走する」という予想を持っています。ミレイさんをWと位置づけるのもいいかもしれません。「WFF」はFFがWの足を引っ張るという予想を持っていますが…これはどうかなあ?

大体、こんな感じでしょうか?これをもうちょっと色々な作品に当てはめてみて、検証していこうかと。別の発見をするかもしれないし、むしろそれが目的。…え?どういう意味があるのか分らないって?……大丈夫!僕も分らないから!w………orz …え~っと(汗)ます「ユニットを回す」という考え方に対して、どこを足がかりにしていいか分らないので、とりあえず任意にグリッドを設置する思考方ですね。「WF分類」としましたが、他にもA(アクティブ)とP(パッシブ)とかL(ロウ)とC(カオス)とか、もっとしっくりくる分類があるかもしれませんねえ。
とりあえず「ハヤテのごとく!」とかに当てはめようかと思って入るんですけどね~。けっこうギャグマンガって大抵のユニットが「FFF」寄りだったりするから、判断が難しそうです。それと、この分類はキャラ構造が複雑な作品に適用するのが正しいらしく、あまりキャラ構造がシンプルな…昔の作品とかに当てはめてもそんなに楽しくなかったりします。

まあそんなワケで、時々、この分類の検証のメモ書きをこのブログに書くかもしれません。悪しからずお願いいたします。

2008-06-23:lain:天使のたまご

2008年06月23日 | アニメ
「ちっちゃな雪使いシュガー」コンプリート。観直してみたのですが、当時かなり感動して観ていたのに対して今だとそれ程でもないような…(汗)堅いし良い作品なのは間違いないですけどねw(汗)2001年制作。当時、こういう優しい作品がけっこう少なかった事があるかもしれません。「何で深夜なんだよぉ!!(子供にも観て欲しい)」とか言ってすっげぇ悔しがっていましたw
「鳥人戦隊ジェットマン」コンプリート。この作品の最終回、戦隊史上最強の最終回だと思っています。(←最強とか意味分らん)まあ、かなり好きな作品なのでまた機会があれば紹介します。
「大激突マッドポリス’80」「Kanon」「超光戦士シャンゼリオン」「エルフェンリート」がスタートしています。「エルフェンリート」はルイさんがオススメしていて、観てみようと思っていたので非常にタイムリーでした。



「lain」コンプリート。1998年制作で。人間(あるいは生物全て)が無意識下で繋がっている世界に“神”がいるとしたら……よりその意識が繋がっている世界(つまりネット世界)で“神”は顕現し得るのか?顕れたとしてその“神”は何を思うのか?…というオチの作品だと思っていますが、そのオチはあまり重要ではない…というかネットの恐さと面白さの延長にあるようなイメージですね。深夜1クールアニメが出始めた頃の作品で、けっこう他にも実験ぽい?というか妙にマニアックな作品が作られていましたが、この作品は印象深くって「ああ、深夜だとこういうの作れるんだ…」って思いましたね。まあ、当時僕は「…でも、実写でやれば?」とかけっこう冷たい事を言っていた記憶があります。実際、脚本の小中先生は特撮の脚本もしていて、実写感覚の部分が大きい人なんですよね。実際、次回予告は実写だしw
でも、そこらへんアニメのビジュアルでやるというのは、また別の良さがあって、レインの所作や表情は今観ても素晴らしかったりします。キャラデザの岸田隆宏さんもかなり実写志向っぽいところがある人ですが、でもアニメは「ありのまま」ってヤツは撮れない。必ずどの線を選んでどの線を削ぐか?って選択を迫られる。リアル志向のアニメータさんはずっとこのジレンマ(?)と対峙しているって事でしょうけど、そういうアプローチはとても芸術の匂いがしますw



あと押井守監督の「天使のたまご」がやっていたので録って久々に観ました。1985年制作。…こっちも天野先生の画………というより名倉靖博さんの描くビジュアルに感じ入ってしまいますね。これがないとちょっと見続けられないかもなあ……w今、観たら何か違った感想を持つかと思ってたんですが……相変わらず分りません!w
人間が救済されない様(方舟に乗ったままの人々)を描いていると思うんですけどねえ…それ自体も大した意味はないように感じます。押井監督にしては珍しく「胡蝶の夢」ネタを取り入れていない…のかな?深読みすればあるとは思うんですけどね(汗)
でも何かやっぱりこれは良いw押井監督の最高傑作は「御先祖様万々歳」だと僕は思っているですが、これはその双璧になるというか文字通り勝るとも劣らない作品ですね。……よく分かんないけど!!…ビジュアル込みで!

…ま、また、10年後くらいに観てみるとしましょうw

「アトムの時代」とか書かないと…

2008年06月18日 | 思考の遊び(準備)
http://www.websphinx.net/manken/labo/atom/atom.html

僕は以前「アトムの時代」と銘打って「鉄腕アトム」の様々なエピソードの解説を行い、手塚治虫先生にとっての「鉄腕アトム」を僕なりに解釈する作業を計画していたのだが、これが、ま~~~~~~~~ったく、進まないまま…orz 現在に至っています(汗)
しかし、最近、世間で「雷句誠先生の告発」に合わせて漫画家と編集者の問題が、マンガファンの間で取り沙汰/注目されており、ちょっと、この件を思い出してしまったので、メモと作業再開の準備運動代わりに、少し「アトムの時代」で書こうとしている事の一部を書き留めておきたいと思います。

扱うのは「鉄腕アトム」の「青騎士」編です。「青騎士」編は僕が「アトム」を読み解くにあったて重要な一編…というかクライマックスの部分に位置づけているエピソードです。…なので早く書かないといけないんですけどねえ~?なんで進まないのでしょう?(汗)
…まそれはさておき!今、僕の手元にはサンコミックス版の「アトム」があるのだけど、この単行本は(他のものも現行はそうなっているのかな?)収録に当って手塚先生の当時の思い出が語られる形式が取られ、そのコメントの一つ、一つは「アトム」を読み解くに当って、非常に興味深い示唆を与えてくれます。
それで「青騎士」編の項。ちょっと原文そのままで引用してみます。
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昭和四十一、二年ごろ学園紛争なんかの影響でマンガの題材もだんだんすさんできて、主人公は、反抗的な一匹狼がよろこばれるようになりました。
それで、ぼくのマンガの主人公たち、ことにアトムはあまりにも正義の味方で明るく楽天的すぎるという人たちがいました。
それはアメリカ風民主主義への反発でもあった!日本の政治や社会への失望でもありました。

学生運動「アトムは今や時代遅れである。正義の味方の時代は終わった!」(手に“劇画”を持ってたりするw)

そんな声を聞いて僕はさみしい気がしました。しかし、僕の行き方はまちがっていないと信じていました。
なぜなら、そのころ、アトムは全世界でテレビ放送されて評判をとっていたからです。

担当編集「手塚先生、もう今までのアトムじゃだめですよ!すこしアトムを悪い子にかえてみてください!!」

手塚「だ、だって」

担当編集「そうすると今までのムードとちがってきますよ」

担当編集「とにかくアトムに暴力をふるわせるんです。人間をブッ殺すんです!ビルをぶっこわさせるんです」

手塚「だってさァ、それじゃアトムが悪者になっちまうじゃないか」



担当編集「そこ、そこ、いっそアトムを悪魔にしちまいなさい。その方がおもしろい!ケケケケ」



そういうわけで編集者の意見を聞いて「青騎士」や「メラニン一族」では今までとちがったアトムを描く事になりました。

手塚「お、おれにゃできん。と、とても描けん!!アトムを悪人にするなんて…どうしてもできない!!(泣)」

―アトムの性格をかえてからアトムの人気は目にみえておちてしまいました。もう、手おくれでした。



担当編集「そらア、知ったこっちゃないですね。私の責任じゃないですよ。さようなら」

手塚「ひきょうものッ!!」

手塚「アトムはだんじで正義の味方なのだ!!」

アトム「先生、ぼくもとにもどりたいです。ぼく、やっぱり人間と仲よくしたいんです」

手塚「よし、よし、わかった。わかった。もう、うかうかと人の話にのらないよ」

こうしてアトムをまたむかしながらの人間の味方にもどしました。しかし、人気はなかなかもとにはもどりませんでした。
(※「青騎士」編終了後から2年後には漫画少年休刊が待っている)
そうこうしているうちに学園騒動もきえてしまいました。けっきょくアトムはなんとなく時代の流行にまきこまれていただけでした。

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…で、実は手塚先生は「アトム」という作品に対してこんなコメントを残しています。

「最大の愚作の一つとして見ているし、あれは名声欲と、金儲けの為に書いているのだ」

あるいは手塚先生に自分の代表作、気に入っている作品を上げてもらうと、まずトップには上げてもらえない(トップは「ジャングル大帝」だったりする)ベスト10とかいうと、ようやくその末席に名前を出して貰える程度の作品として扱われている。…なぜ、そうなのか?僕が「アトムの時代」を書きたいと思ったのはそこを切っ掛けにしているんですね。
…一応、言っておきますけど、上の手塚先生のコメント、真に受けちゃダメですよ?名声欲はともかく、金儲けでマンガ描く人が、生涯15万枚のマンガ原稿を残したり、アホなアニメ制作費で会社倒産させたりしないからね?w

上の「金儲け」のコメント、「話の特集」という本の1966年5月号に掲載されたもの(参考文献:桜井哲夫著「手塚治虫」)なんですね。それは正に「青騎士」編が終わった直後(「メラニン一族」のあたり?)のコメントなんです。僕は手塚先生の「アトム」に対する愛憎(…僕は愛憎としか解釈する気はないですけど)について、この符合は非常に大きな意味を持っていると思っています。
よく「アトム」のテーマは「差別闘争」とか言われて論じられたりするんですが…確かにそういうテーマも内包しているとは思うけど、僕は「アトム」のテーマとしてそれは小さいと思っていて、機会を得ればそういう話をしていました。…ちょっと昔(2000/12/31)の僕のコメントを引用しますが…

昔、有名マンガ作品の設定を掘り返したり再考察したりする、いわゆる“謎本”が流行ったときに、「鉄腕アトム系」のもの、とか、出版されてる「アトム」に関する論評で、よく“被差別階級の闘争”って言葉が出てきたりしてました。これが「アトム」のテーマだ!とか言いきっちゃったりして…。たしかに「アトム」の世界はロボットが慢性的に差別を受けていて、そういったとらえ方がないでもないのだけど…。他にもね、“人類の警鐘”とかね、“科学への警鐘”とかね…「メトロポリス」の冒頭にインパクトを受けていると「アトム」にも投射するんでしょうね。「アトム」の新作アニメを作ったときは手塚先生自身もそういった意識があったようですが…。
まあ、言いがかりに近いですが、僕はこれがかなり気に入らなかった。“階級闘争”とか“警鐘”とかね……もちろん、そういう面も内包しているとは思いますよ、うん。でも………なんだよ、その陰気なテーマ(^^;…なんで「鉄腕アトム」の主体がそうなっちゃうんだ!
「鉄腕アトム」のテーマは“明るい未来”に決まっている!!!
テーマ病が!もっと素直に読んでくれ!

…ふう、年忘れ(笑)まあ、文筆の表れ方の違いでしょうからホントに言いがかりなんですが(汗)


もし「鉄腕アトム」のテーマが「差別闘争」で収まるものなら、ロボットたちが人間に対して反乱を起こし自分たちだけの国を作ろうとする「青騎士」編は「アトム」の総決算のはずです。でも、僕はそれだけじゃないと思っている。だから手塚先生は「青騎士」編を憎んでいる(はず)…何故か?
たしかに、人間の世界は様々な愚かさ、汚さ、そして矛盾を孕んでいる。でも、その人間をアトムは信じるんですね。そして人間の味方でい続けるんです。その大原則を手塚先生は「青騎士」編で手折ってしまった。その後悔が「最大の愚作」という言葉に顕れているんじゃないか?僕はそう思っています。



………ん~(考え中)なんか。割りと「青騎士」編……っていうか「アトムの時代」で僕が言いたかった事あらかた書いちゃった?まとめて?(汗)……ま、いっか。(「青騎士」編はこの文、そのまま使っちゃお!ぐっ)
これと、あと「マンガ家と編集者」の問題ですけど(←話が飛んだ!)↑こんな引用を読んで編集者という者にいいイメージを持つ人は少ないかと思いますが(汗)それでも、僕は、こういう編集者とマンガ家の衝突ってのは、あって然るべきものだと思っています。よくネット上の意見なんかを聞いているとマンガ家が描きたい事に編集が口を出すだけで「即悪」とされてしまうような論調もあるけど、僕はそうではないと思っています(たしかに度を超えたものもあるでしょう。口出しが即善というつもりもないです)。…なんか支離滅裂な話の流れになっていますかね?w

「青騎士」編の路線変更にしても1966年というと、既に劇画のブームが起こっていて、白土三平先生も「忍者武芸帳」を終えて「カムイ伝」を執筆中の頃です。その頃に「アトム」のような“明るい”作品がどう下に見られたか?は、まあ……わりと想像できますw
手塚先生自身も悩んでいた。そこで編集が既に時代に合わなくなっていた作品を時代に合わせましょうという提案をするのは至極真っ当なものです。…この担当はアトムをよく分かっていなかったかもしれないとは思うけど……まあ、ちょっと皮肉を言わせてもらえば「アトム」を“差別闘争劇”だと読み取っていた人には反逆行為は我が意を得た展開なんじゃないっすかね?w(´=ω=`)
以前から時代とのずれを生じていて…さらに拍車をかけて人気が落ちてしまったから手塚先生が担当編集を悪魔的なイメージで記憶してるワケですが……そんな事わかんないしねえ?w

「面白く」なるかどうかなんて塞翁が馬ってもので、でも、だからこそ「面白くしよう」という行為には真摯でないといけないと思いますけど…。けっこう僕はそういう“成り行き”というものを愛しているところがありますw
このアトムのキャラを変える施策だって、その時代での人気は落ちたかもしれないけど、キャラを変えるにあたり“天馬博士による改造”という展開を生み、それは未完で終わってしまってはいるけど「アトム」という作品の中の「天馬博士の物語」に彩りを加え……ああああ…orz ここらへんまで話してしまうと、本当に書くことが無くなるので(汗)ここは、またの機会にしましょうw

天元突破!雨宮ゆり子!最終回

2008年06月16日 | マンガ
http://www.tsphinx.net/manken/room/clmn/j_amemiya5.html

ようやく最終回を書き上げました。もっと勢いよく行きたかったんですが、何故かなかなか終わらなくって…(汗)
まあ、ちょっと強引にまとめたようなところもあるんですが、とりあえず「予定メモ」は一つ消えたなと。

 

本当は本稿は一番最後に「エムゼロ」のルーシーを応援して終わる予定だったのですが、何しろ肝心の「エムゼロ」の方が先に終わってしまいまして…orz(汗)彼女、絶対「雨宮因子」を持っていたと思うんですけどねえ…それも序列三位以下で…しかし正直「序列のルール」も発動しないままに終わてしまたアルよ(´・ω・`)
怨念代わりに画像を張っておきます…くっそ~……やっぱ、何事もテキパキ行かないとダメですね。

予定メモ

・書評 … 「ギャンブル!」の解説にとりかかる → 「伊賀の影丸」の話?

・「ユニット構造」の考察 → やはり「コードギアス」でやると座りが良さそう。

・京アニ+Key作品の分析→「並列型」ヒロイン構造主体で…ゲームまでやんなきゃって事だと長丁場だな?とりあえず「Kanon」を観ないと。

・私が愛した悪役たち … 聞仲、風見博士、メンデル博士…あたりかなあ?まあ、とりあえず聞仲。←こっち「ギャンブル」より先にやろうかな?

今週の一番追記:ネギま黙示録編

2008年06月14日 | マンガ


http://www.websphinx.net/manken/come/wek1/wek10364.html(今週の一番)

LD >> 「ネギま」ですが、今回のセリフ情報は以前言っていた「フェイトの目的はエクソダス阻止」にかなり符合しますね。
ルイ >> あ、そうですよね>フェイトの目的
GiGi >> フェイトはフェイトなりに理があってやってるという話ですからね。そして5人の従者は明らかにネギパーティーメンバーに対応してる感じがしますねw。
GiGi >> 世界を終わらせる=新世界を終わらせる/世界を救う=旧世界を救う。と考えると矛盾がないわけですね。
いずみの >> プッチ神父の「天国」や、バイオメガの「不老不死こそが人口統制なのだ」のロジックですね。>世界を終わらせる=新世界を終わらせる/世界を救う=旧世界を救う
LD >> はい。>新世界を終わらせ旧世界を救う さらに言うと、フェイトなら「旧世界の方が人口が多いからこっちを救う(選択)事にした」って意の事をしらっと言いそうですね。
GiGi >> それはなんて衛宮切嗣w>人口が多いから
LD >> ふむ。やはりそういう人かw>衛宮切嗣 ちょっとペトロニウスさんに薦められた本を先に読んでいるんですが、それ終わったら「Zero」読みますね。
ルイ >> で、「どちらも救う」という選択肢は何故ないのかとネギが糾弾するわけですよw
LD >> フェイト「それを超鈴音がやろうとしていたんだろ?君が一時の感情で阻止してしまったが」
GiGi >> 鬼やね、LDさんw。でもあるかもなーそれは。
ルイ >> フヒヒ、ハードでいい展開ですねw

この話、内輪としてはけっこうシビれる会話をしていると思うんですけど、ちょっといろいろ端折りすぎて意味が分りづらいので(汗)順を追って説明します。
まず「ネギま」のこの件については「超編」のラストにおいて遂に明かされる事がなっかった(なかったよね?)超鈴音の目的の予想から端を発しています。

【超鈴音の野望】http://www.websphinx.net/manken/come/wek1/wek10292.html

いや~何か、答えが出てみると「何で分からなかったんだろう?」という感じがしますが、超鈴音の目的は「歴史上の突然にして急激な魔法文明の露見による、不理解と拒絶反応、そして最終衝突の回避」なんでしょうね。…っていうか何で思い至らなかったんだろう?(←また言ってる)「魔法を世界に認識させ、かつその後の混乱を管理して平和裏に事を納める」事を計画している以上「それ」くらいしか考えられないはずです。
いや、勿論、何かややこしい波乱に満ちたストーリー予想もできない事はないですが、現在出ている情報でシンプルに考えるとここかな?と思うわけです。…こんなん、もう他のサイトとかではビシバシ言い当てまくり?つか、世間一般読者には周知?…ま、いっか。

自分の脳みそがアンポンタンだと認めたくないLDは2つ程、言い訳を考えました(汗)
1.「超の目的は人類存亡に関わる究極的事態の回避か?」という夕映の質問を龍宮「今もこの世界にあるありふれた悲劇と変わりない」と述べた。
2.世界大戦クラスの悲劇の回避については、夕映に「じゃ他の不幸はどうなんだ?」式に散々否定されている。
1については、龍宮なら対象が「世界大戦」であっても「ありふれた悲劇」と断じるでしょうね。しかし、この時はひっかけというか、このセリフでかなり極少な超ローカルの問題に思ってしまい「考えるだけ無駄?(情報不足?)」という気になってしまった。これが大きい。また2ですが、これは夕映が頭っから否定している事象に超の野望がモロに該当するとは思わなかったという事がありますw…しかし、それより何より少年マンガに読みなれ過ぎていた僕は「私はこんなに不幸なんだ~~!!!!!!」という超の激白を想定しており、その“お約束”が揺るがない以上、夕映に言い当てられている不幸が超の目的として考えるのは慮外(逆に複雑に考えるハメ)になってしまったって事なんですよ~wwアンポンタン!!…しかし超は(とりあえず)何も言わずに去ってしまったと……何でしょうね?この異様なカッコよさww

さて問題の謎のセリフ「我が望みは達せられた」ですが、僕なりに色々考えてみました。ちょっと複雑に考える事もできるのですが、やはりシンプルに、単純化した話をします。要するに予想として超鈴音はネギと同じ迷いを持っていたのではないか?その答えが“望み”の一つだったのではないか?という事です。これは超の野望が「科学・魔法大戦の回避」だろうと仮定できたとき、焦点が定まった気がします。
ネギくんは夕映の言葉を遮り「自分は超を否定できない」としたのですが、実は夕映の主張を遮る事ができないのは超なんです。あれは第三者というか計画当事者じゃないネギくんだから遮る事ができるわけで「じゃ、二次大戦も回避しろよ?一次大戦も回避しろよ?回避する不幸と回避しない不幸はどこで線を引く?数?」と詰め寄られれば何も返す事はできません。計画当事者が「しかし、それでも何割かのありふれた悲劇を…!」などと言ってしまうのはカッコ悪い事この上ありません。
だから超鈴音のネギを誘うセリフは「悪を行い世界に対し僅かながらの正義を成そう」なんですね。

つまり、超は自分の計画が正しいのか?間違っているのか?それを知るのが「望み」だったのではないかと。

一見、愉快犯?とさえ思ってしまう、魔法の存在を世界に露見させてしまう「強制認識魔法」の計画、及びその後の世界管理体制は、順を追って考えて行けば「魔法世界vs科学世界(通常世界)」の大戦を回避するというものが一番妥当に思われます。同時に僕は「超がこの時代に来て時間改変を試みるのは、今回の計画の魔力の大元であった“世界樹”がこれ以降の世界では倒壊してしまうからでは?」という予想を打ったのですが……どうなるでしょうねえ?w

そして「フェイト編」に入って(敢えてこう呼びますが)フェイト・パーティがやった事は、魔法世界に移送して来たネギ・パーティを完膚なきまでに叩きのめす……事もそうですが、魔法世界と科学世界(通常世界)を結ぶゲートを破壊する事なんですね。フェイトはそれを以て「目的は達した」と言っている。これは何を意味するか?
「んじゃ、超の時みたいにフェイトの目的を分析してみる?」という感じにGiGiさんと話をしていたんですが、これは「超鈴音」の目的予想と繋げてみる事で、割とあっさりと解けました。

破壊したゲートの修復するまでの1~3年の間に魔法世界は崩壊する。
フェイトたちの目的はその時のエクソダス(脱出)完全阻止。

多分、魔法世界の崩壊は惑星衝突などの不可避的な天災じゃないかと思います。つまり、無為に時を過ごせば科学世界(通常世界)に突然、5億人という大量の避難民が押し寄せてきて、その混乱はやがて超のいる時代に「火星大戦(仮)」を引き起こす。フェイトの目的はゲートを閉じる事によってエクソダスを完全にシャットアウトする事じゃないかと思ったわけです。

【ネギま:フェイトの目的と火星大戦(仮)の考察】http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyenex.php?vi=hyen0216.html

そして今回(215時間目)のセリフ(上画像参照)はこの予想に対してかなり符合して見えるんですよね。「世界を救う事」と「世界を滅ぼす事」の両立。これは「魔法世界を滅ぼして」「科学世界(通常世界)を救う」事のように受け止められます。そして面白いのは、この予想によって超鈴音の「魔法に対する不理解と拒絶感を無くし、世界を管理してエクソダスを受け入れる体制を整える」という計画の圧倒的な正しさというか……“犠牲の少なさ”が浮き彫りになってくるんですね。しかし、それをネギくんは阻止してしまったというこの皮肉!!wそこをフェイトに指摘されちゃったらどうしようかと今からワクワクしていますw

…といいつつ、これは妄想が暴走した戯言に過ぎなんですけどね。妄想の結果による超の目的から、さらに妄想をかけていますからねw
しかし、同時にけっこういい線ついているんじゃないかなあ~?と思ったりもしています。ここらへん含めて「フェイト編」の展開に注目したいと思います。

雷句誠先生の告発

2008年06月07日 | マンガ
【雷句誠先生のブログ】http://88552772.at.webry.info/200806/article_2.html
【橋口たかし先生の緊急ブログ】http://ameblo.jp/hassy1967
 ※このブログは2008/6/8に閉鎖され(魚拓→http://s03.megalodon.jp/2008-0607-1740-05/ameblo.jp/hassy1967/
 同日にまた別のブログが立ち上がっています。→http://ameblo.jp/hassy19677
【雷句誠氏の陳述書を読んだ!(松永豊和先生)】http://8213.teacup.com/monene39/bbs/75

少年サンデーで「金色のガッシュ!」を連載し、大ヒットを飛ばしたマンガ家雷句誠先生が「原稿紛失による損害賠償」を求めて小学館を提訴し、その陳述書を自身のブログにて掲載しています。ただ、問題は原稿紛失という過失そのものよりも、そこに至るまでの少年サンデー編集部の対応の悪さ、失礼さ、仕事に対する姿勢などにあるようです。
公開された陳述書の内容も原稿紛失の経緯というよりは、そこに至る対応の悪さを糾弾する事に文章の多くを占有されていますし、世間(一般のマンガ・ファン)がある衝撃をもってこの事態を注視している、その主体もそこだと思われます。
また雷句先生が実名を持って糾弾した、担当者と多くの関わりを持つ、やはり少年サンデーの連載作家・橋口たかし先生が「緊急ブログ」なるものを立ち上げてこれに反論しています。(……偽物だという「噂」(←噂はあくまで噂なので注意して下さい)も飛び交っていますが、まあ、そうであれば橋口先生本人が何か言うとして…w)

まず、そのブログでの雷句先生の告発文(陳述書)に僕は凄くショックを受けました。ただし、これは後述もしますが、雷句先生の文章はかなり主観に拠る叙述が多く、視点を他に移した時、全く別の「見え方」が生まれそうな状況の話にも思えます。そして、橋口たかし先生からは、正にその「他に移した視点」の話が語られています。逆に松永先生からは雷句先生の主張を裏付けるかのような証言が上がっているわけです。既に「藪の中」っぽくなってきている。

しかし、それでも文章に書かれた情報からは、単なる雷句先生の過剰反応ではないのではないか?という疑いを消しきれないものがあります。そもそも作家が気持ち良く描く環境を与えてあげられない編集者とは一体何なのか?雷句先生が扱いにくい人だったとしても、何故、来る担当来る担当上手くやれないのか?引き継ぎはちゃんとしているのか?もし4代目担当者が舐められないようにとか考えて「自分は恐い編集者」などと嘯いたたとしたら“最悪”です。およそ仲良く仕事をしようという態度ではない事は明かです。(←このセリフは明記されていますが、雷句先生があまり関連の無い時に言った言葉を曲解して受け止めている可能性もあるので注意が必要です)厳しい話かもしれませんんが、こういう事件が起こったというだけでもサンデー編集部の機能としての拙さ、反省すべき点は多々あるように思います。

それと僕は事の本題とは思っていませんが、それでも今回の件のトリガーとなった原稿紛失。これも何故、大事を避けて治められないのでしょうか?雷句先生の稼ぎから考えれば、これが「金額」の問題ではなく「誠意」の問題である事は明かです。出版社にとって原稿紛失は「しばしば起こってしまう事が不可避」のものである事は分ります。しかし、自らの作品を大切に想う作家の気持ち(モチベーション)を鑑みれば「しばしば起こってしまう事が不可避」という出版側の価値観を持ち込まず、誠意ある対応を示す事が必要である事は自明に思えます。……しかし、もし、怒ってきた相手に、冷淡に、淡々と「賠償・補償フロー」に移る機械的な行動を見せれば、その相手はさらに怒って大事にしてやる決意をしてもおかしくないと思うんですけど、サンデー編集部はそういう対応をしたのでしょうか?(金額見られただけであもうも無く訴訟に踏み切られたって事もあるかもしれませんけどね)

そして、まさかとは思いますが、雷句先生が「サンデーで描かない」と宣言している事を慮内に「もはや自分らに利益をもたらさない者」という態度を表に出したんじゃないでしょうね?賠償についての席上にも関わらず。

僕は個人的には橋口先生の主張「考えてもみてください。来る編集者来る編集者、ガン飛ばしにきますか普通?」という言葉に共感しています。それはやっぱり、僕も(不出来ではありますが)社会人として、そんな行動は無駄などころか、仲良く仕事できない姿勢を示しても、結局自分に返ってきて、自分が苦労をしょい込むはめになる事が骨身に染みているからなんですね。
しかし、最近ネット上ではサンデー編集部に対する悪い「噂」は、しばしば出ていましたし、個人的に「??…何かあった?」と思える作家の移動や連載終了などが何度かありました。先ほど「自分に返ってくる」からそうはならないのでは?と言いましたが、それは「自分に返ってこない」状況があるなら、際限なく横柄になる事も想像に難くありません。
「噂は噂に過ぎない」かもしれませんが、サンデー編集部はこれを機会に、売上部数なんかも含めて、ちょっと自らを省みて改善すべき点があれば改善して欲しいです。「少年サンデー」という雑誌のファンとしてそう思います。

そして雷句先生についてですが、やはり陳述書の文章を読んでいると、申し訳ないんですが僕の感覚的には、感情面が大きく客観的事実を追う行為に乏しいように感じます。「どうせ紛失したって、原稿料払い直せば事は済むんだろ?」という言葉が何度か出てきますが、実際にはそれを発言した編集者はいないようです。あくまで雷句先生がそう感じたという話ですね。

申し訳ないけど「冷静に怒っている」ようにはちょっと思えない……それは「鬱憤晴らし」と「糺すべき事」の区別がないって事になってしまいます。そもそもそんな区別をつける気なんてなかったり、単に主観まみれの鬱憤晴らしだという話ならそれでもいいんですけどねw…それはまあ、僕としては「火事と喧嘩はどこぞの華」じゃないけど、観客として眺めさせてもらいますw

しかし、陳述書の文章からは、感情面が大きいとは言え「義憤」の意図を感じますし、何よりウェブ上に公開するのは他の作家とマンガ・ファンたちを巻き込もうとしているように思えます。多くのファンを持つ人がそういう行動に出る時は、背負うべき責任があるし、単なる復讐・鬱憤晴らしにファンを巻き込んではいけないと僕は考えます。そして雷句先生はそういう話を理解できる人だと思います。

何でこういう話を書いているのかというと、僕は雷句先生が投げたこの一石を機会に、できれば是非、他のマンガ家さんも発信してもらって「糺すべき事」があるならを糺し、「出すべき膿」があるなら出して欲しいなと考えるからです。
でもそれらが「鬱憤晴らし」と「糺すべき事」の区別がない状態で噴出するのはよくないと思う。「良い物」を創って行こうとする過程での衝突や軋轢は必ずあるものだしその中では「憎い」感情だって当然生まれると思う。そして自分の信じる正しい事…「こうあるべきだ!」という感情にだって常に落とし穴があるものです。それらの対象を総て「悪」として切り捨ててしまうのは、マンガの為にならないし「糾すべき事」を考えない、単なる「鬱憤晴らし」はそれら創造に必要な衝突さえも押し流してしまう可能性がある。……考え過ぎでしょうか?(汗)

外側からは内側の事なんて分からないし、常に見える必要もない事だってあると僕は考えるけど「糾すべき事」があるなら外に助けを求めるのも全然ありな事だと思います。…小学館についたブランドイメージの損失を考えると、できれば何もなかったとしても「…雷句先生はちょっと過敏反応じゃないかな?」という発信(まあ、これが一番やりづらいだろうけど)をして欲しいです。そして逆に本当に何かあるなら、なんとかその声を外に出して欲しいです。

マンガ家と出版社が衝突すれば、ファンはよっぽど奇特な者でない限りはマンガ家に着くし、現在、ネットで繋がった“ファン”という存在は非常に制御しづらい大きな力を持っていると思う。それだけにマンガ家の人は「マンガの為になる事」をよく考えないといけない、と思いますが、その上でなお、言うべき事があるなら、その行動を起こしてくれないか?と切に思っています。
僕はマンガの週刊連載などという基地外沙汰のシステムに物凄く感謝しているし(恐ろしいシステムには違いないが)マンガがここまで発展してきた大きな動力源だと思っている。それだから、ここにおいて、作家さんに余計な負担をかけさせる障害があるなんて考えたくないのです。

※上記の文は以下のチャットの追記のつもりで書いたのですが、追記の文を主体とした方がいいように思えましたので、チャットの記載を下に編集しなおします。…まあ、せっかく編集したので残してはおきます(汗)

2008年06月06日のチャット
ルイ >> 30分までには参加できると思います。http://88552772.at.webry.info/ 今日の予習課題。 そして、「こどものじかん」1話から録画してるけど1話も観た事ねぇ~orz
LD >> こんばんは。
LD >> 雷句先生のブログを読んでいました。
LD >> …ちょっと、社会人的に言わせてもらいますと、俄に信じられないような話ですね。>雷句先生のブログ
GiGi >> 雷句先生のブログを読んでいます。
LD >> …ただ、裏付けというわけではないですけど、久米田先生は講談社に移りましたし、田中ほさな先生も移っている。椎名先生がえらく不遇を受けた事も、ネット上で噂としてチラホラありました。
GiGi >> 冠茂氏の名前が出ていますね。元焼きたてジャぱんの担当で現金剛番長の担当編集者です。
GiGi >> 雷句先生は講談社に移るのがとりあえず一番幸せなのは間違いない。その上で、この提訴は大変勇気のある行動だと思います。
LD >> それから50周年の時の小山先生の読切りも確かに何か違和感があった。
ルイ >> こんばんは。この訴訟は大きな一歩なんでしょうね。次はアニメーターの原画だ!(そうか?
LD >> 「そんな事を言う編集はいない!」と、思う人もいるかも知れません。しかし、今のサンデー編集部ならば、あり得ない話でありません。→と雷句先生が先回りして言って居るんですけどね。いや、本当にそんな事を言う意味が分らない。
GiGi >> 大手の出版社でプロフェッショナルの漫画編集者が残っているのは講談社だけかもしれませんね。
ルイ >> でも、確かに小山ゆう先生の読み切りには違和感ありましたね。そこは「熱意」というものの中に包んではありましたし、実際メインはそちらである可能性もありますけど。
GiGi >> こうゆう話を聞くと、結界師の“変節”があった時も何があったか想像に難くないですね。
LD >> …ちょっと分らないですね。ちょっとサンデーを出た他の作家さんとかのコメントなどを待ちたいです。
いずみの >> 金剛番長の担当は有井氏でしょう?
GiGi >> あ、申し訳ありません。ネット情報を鵜呑みにしてただけなので、勘違いだったか>冠氏。
ルイ >> まあ、現状では「まだ一面」という意識は必ず残しておきたいものですね。
ルイ >> ttp://blog.goo.ne.jp/take_14/e/0b825aeed71117e460eacd43f3ebe3ad  参考ブログ。
いずみの >> しかし『ブラックジャックによろしく』が逆のケースなんですよね。<出版社//こっちはなんか漫画家の方の要求がタチ悪かったイメージですが
ルイ >> やっぱり、雑誌の巻末、あとがきの前のページでいいから、アシさんも含めた週ごとのスタッフリストを明記することからはじめて欲しい。単行本だけって、ドラマやアニメで言えば、商品化されるまで毎回のOPEDには何もクレジットされないって事だ。
GiGi >> んーともかくも。一編集者の問題ではなく編集部全体の問題なのかもしれないという予想が、図らずも当たってしまったのはとても残念だ。
ルイ >> あーそういえば僕も絵の権利問題とか言ってたのが当たったけど、やっぱり残念ですね。
LD >> ちょっと、雷句先生には申し訳ないんだけど、文章を読んで僕の直感的に言えば“脚色”を感じないでもないのです。概ね事実だったとしても。「冷静に怒っている人」って電話を乱暴に切られたとか書かないんですよね。そこらへんは主観の部分が大きく淀むから。(←嫌な奴)
ルイ >> いやぁ読んでて思うけど、かなり感情的な文面ではありますよ。
ルイ >> とりあえず漫画家バックステージにいったら雷句先生の欄が消えてるとか、ほかの先生が一斉に更新してて俺ビックリとかwそういう事はなかったですね(笑
いずみの >> まぁ「相手に熱血を押しつける人」なのは間違いないでしょうけどね。>らいく先生//それは職業病みたいなもんなんだからコントロールできなくなった時点で編集部として無能、早く編集者入れ替えて体制変えた方がいいですね。
LD >> …が、先ほども言ったように、いくつかの事実と、そして「噂」では現サンデー編集部に対してよくない情報も既に出ていました。
GiGi >> 雷句先生を扱える編集者がサンデーにいなかったと言う事なんでしょうね。
LD >> はい。>「相手に熱血を押しつける人」なのは間違いないでしょうけどね。 陳述書のいくつかの情報からかなり扱いに困りそうな人である事も伺えます。
ルイ >> こういうのもやっぱり、編集者というポジションが雑誌の中でともすれば隠れがちなのが問題だと思うんですよね。現状では本当に深く知っている人たちだけの者であって、そのポジションの大きさに比してあんまり良くないなぁと思います。出版社とか世代とかで傾向づけるしかないってのもなぁ。
GiGi >> 漫画家なんてのは変人で社会不適合者のほうが良いと言える人が減ってるんでしょうね。サラリーマン化した編集者が漫画家にもサラリーマン化を求める。まったく笑えない話です。
LD >> …なんで、これに合わせて久米田先生あたりが何か吹き出しはじめてくれると、かなり実態が観えて来そう。……というか本当に何かあるなら今は声を上げて欲しい。
いずみの >> で、逆に「黄金時代のド根性」を知ってる編集者も採算度外視したり若い作家を潰したり平気でする人が多いらしいので、イコールいい編集とは限らないってことも注意
ルイ >> 漫画より遥かに環境がアレなアニメ回では、まあ単純な保管問題ですけど ttp://yaplog.jp/aslog/archive/666 こういうのとか・・・
GiGi >> そうですね。根性主義の弊害もあるでしょうから。マガジン編集部はその点本当にバランス感覚に優れているのを改めて感じます。
LD >> 自宅のFAXを教えないくだりが何か世代を表わしている気がしますねw僕も古い人間なんで、自宅のFAXを教えるかどうかはともかく、きっちり雷句先生と付き合っていれば、FAX番号で愚痴られる事もないんじゃないかって思ってしまいますけどね。
ルイ >> 合わないなら合う担当編集を当てはめればいい、という対処策すらなかったのが「編集部」として語られやすいことになっちゃってますね。
GiGi >> 雷句先生なんかは、そうゆう編集者と漫画家のガチンコの関係を求めていたのに、サンデーにはそれを受け止められる人が居なかったと。巡り合わせの不幸ですね。
ルイ >> まー。とにかくこれで逆に潜ったりするのではなく、漫画の中で編集者なりの名前がもっと直ぐわかるようになっていけばいいなと思います。担当編集の実体験~みたいなコマ外書きはいらないからw
LD >> …まあ、ちょっと正直ショックを受けました。ちょっと経過を注視したいです。


キャラ配置/ユニットが回る

2008年06月06日 | 物語愉楽論
前回の「キャラが回る」の項で、キャラを「立てる」事と、キャラを「回す」事の違いを説いた。キャラを「立て」て「回す」というのは相応の技量と経験、そして才能を必要とするのは間違いないんだけど、実は比較的、楽な方法で「キャラを立てる」事に成功する方法があります……パクる以外の方法でwちょっと思いついた所を2パターンほど挙げてみようと思います。

例1.真面目生徒ばかりの超進学校にド派手な学生服に身を包んだ見るからに不良の男が転校してくる。
例2.学校崩壊を起している暴力問題児ばかりが集まる学校に見るからにひ弱な真面目生徒が転校してくる。

…え~~~っと…先に言っておきますが、たとえにつっこまないようにね!しなびたアイデアだとか!!木を見るんじゃない!森だ!森を観るんだ!!…えっと、賢明な方なら上の2例で僕が何を言いたいのかは察して貰えると思います。要するにこれは「立てる」は「立てる」でも、キャラを「引き立てる」という方法(メソッド)なんです!!回りとの対比によりキャラクター性を明確にするというものですね。先ほどの例とは逆にたとえば、不良ばかり登場する作品の中で不良がいても、キャラは「立ち」ません。何かもう一味、アイデアを必要とするでしょう。…しかし、不良が全くいない中で、不良が一人混じっているというのは、そのステータスだけで、キャラ「立ち」になるワケです。

ただ、このキャラ「立ち」は前回の「キャラが回る」で話したような作品自体を特徴付ける→オリジナリティを出す、ようなキャラ「立ち」とは違うものです。あくまで作品内においてキャラクターたちを特徴付けるものですね。(…ここらへんの用法を凡て一まとめで「キャラを立てる」と言っているのだから……それは、ある程度、言葉を分ける必要があるよなあって思ってしまう)同時にこれらの対比方法は使い古された方法論なので、何か思いついたとしても、長いフィクションの歴史において、結局、大概の面では既存のどれかの作品に該当してしまうので新味が出せるかどうかははなはだ疑問です。しかし、志向としては「素材」から思考を練り上げているので、パクリからは一応逃れているはずで、たまたま長い歴史の中で棒に当ってしまうだけで本質的にはオリジナルと考える事もできるかもしれません。まあ、本論は作劇論ではないのでここらへんの課題は流してwまた別の機会に回しますが…。

分析評価的な観点から見た時、上の例1、例2は「キャラクターの造形法」というよりは、かなり「ストーリーの造形法」の領域の話になっている事は留意して欲しいです。もう少し分解して言うと、対比を利用してキャラクターを錬成するやり方は一見、キャラクターを造形しているのですが、既にストーリーを「先に」決めて、然るべきキャラクターを当てはめて行く作業をする事との差は、もうほとんど無いわけです。ここらへんの境界の曖昧さが何を意味するかというと、「キャラを立てる」、「キャラを回す」と並行して「ストリーを立てる」、「ストリーを回す」って考え方も存在するって話になってきます(当たり前か?)。「キャラ」の話の時と同じように「ストリーの立ちに意識をとられ過ぎて、回らない設定にしてしまった」なんて話もあるはずwまあ、実動作するのは「キャラ」なんで、あんまりこっち側への言及は少ないですが。(キャラが回っているけど、ストリーが回っていないと明示できる状況はかなり希少のはず)

これについては「フィクションの構造」の項で、キャラクターとストーリーを分けて論じているますが「物語(作品)」が形成される過程において本来的には不可分のもので、境界線が引けるような代物ではないんですよね。ただ傾向としてキャラクターを主体に考えているフェーズとストーリーを主体に考えているフェーズはありますし、「物語」を分析評価するにあたって、より分析しやすいピース、咀嚼しやすいピースに分ける行為の基礎としてキャラクターとストーリーという考え方がある…って話になります(分析評価側からは)。
……なんかどうでもいい脱線をしているような気がしないでもないですが(汗)物語を分析するにあたってキャラクターとストーリーに大別する仕組みを認識しておくと、その後の思考を進めるにあたっても、良いことがある日もいつかは……あるかも知れる事はない?かもね?みたいな事を考えて筆の勢いに任せて書いておきます。

で、本題。今のように「物語」全体からキャラクターの在り方を決めて行くやり方を僕は「キャラ配置」と呼んで評価分析の対象としています。個々のキャラクターたちが個々で、どういった性格や特徴付けを与えられているか?を分析し、ボトムアップに「世界観」を仮組みして行くやり方とは、逆の方法になりますね。
例1、例2は物語と主人公キャラが直結的に対比されていますが、それはたとえ話を簡潔に述べるための方策で、実際に物語を編む段になれば登場キャラ同士の関係性の対比が複雑に絡む内容に必然的に移行して行きます。…「キャラ配置」の事を考え出すと「物語」を「愉しむ」行為が一段促進されますw何しろ「キャラ」と「ストリー」を分析して、制作者のテーマにアタリをつける。その上で、そのキャラクターのいる意味を考える。「なぜ、そのキャラがそこにいるのか分らないキャラ」なんて出てきた日にはちょっとそたミステリーですよ?w情報不足が前提の連載作品のライブを「愉しんでいる」時などは特に、恒常的にこういったネタが散りばめられて、脳ミソをフル回転させてくれるワケですw

「キャラ配置」の話は、そのまま「構造評価」の話に直結して行きますの。「キャラが回る」でチラっと述べた「シャフト」なんて考え方も「キャラ配置」的、「構造評価」的、キャラクター分析用語ですね。(「トルク」の方はスタンド・アローンなものかな?)そこらへんの要項はまた「構造評価」について話す時に回すとして、最近ちょっと考えているのは「キャラ配置」をもっと局所的に見る視点で「ユニット」という考え方を思考しています。
これは最近「漫研」のチャットで「情報圧縮論」に繋げる形で、取り沙汰され始めているんだけど、少し基本に立返る形で地味~に、認識を深めて行くところから行こうかと思っています。

この場合「ユニット」って「タイムボカンシリーズ」の三悪人や、「ゴレンジャー」の五人の事を指すわけですけど……明らかに提示された「ユニット」以外でも、ある関係性を「ユニット」と評価して分析してみる……こういう視点をとりあえず考えています。「ユニット」に関する簡素な分類や法則がみつかるのが理想なんですが……まあ、それはちょっと遠いでしょうね。
ただ、それとは別に…………三悪人とかゴレンジャーって個々のキャラもかなり立っていますよねwその上で「ユニット」としての回りも良く設計されているもんだから相乗効果でワケが分らないくらいの「立ち」を発揮しているワケですが、逆に、キャラは「立っている」けど、ユニットは「回らない」状況ってのはあるだろうなと。さらにキャラは「立っていない」けど、ユニットは「回る」状況とか。キャラが「回って」いて、ユニットが「回らない」って状況は……有りませんね、その逆も。「回る」というのはかなり総括的な評価と言えそうです。ただし、以前は回っていたキャラがユニットを形成した時から回らなくなる…という時系列的な「変化」は発生するんでしょうね。

キャラが「立ってない」けど、ユニットが「立っている」状況ってのはあるのでしょうか?……これは「ゴレンジャー」後に30年続いた「戦隊シリーズ」からなにか引用できるかもしれないと思っています。というのは「ゴレンジャー」のあの五人の構成は相当完成されていて、時に三人組という事があっても「ユニット」を組む事がこのシリーズの最大条件となりました。それゆえ多少無理くりな取り合わせも含めた「ユニット」が様々に考案されてきた経緯があります。……その中には個々のキャラとしてはありきたりだけど「ユニット」としては面白い、と言えるものもあったように思います。…まあ、そういうのも含めて「回ってる」と評してしまえばいいのかもしれませんけどね。ここらへんは思考を要しますね。

まあ以前からキャラを「ユニット(グループ)」でまとめて評価する事はしていましたし、実際の作業そのものは「構造評価」の時とそれほど変わらないでしょうけど「ユニットが立つ」、「ユニットが回る」という視点で(キャラとストリーの中間的に考える事もできるかも?)考える事で何か観えてくるものがあるかもしれません。
……このネタはここまで何で、また別の機会に…とか言えないんですが、まあ、言いたいことが溜まったら、またまとめて書くかもしれませんw


キャラが回る
フィクションの構造

キャラが回る

2008年06月04日 | 物語愉楽論
http://www.websphinx.net/manken/labo/otak/ot_mawaru.html

「今週の一番」なんかで、LDやGiGiはよく“キャラが回る”(あるいは“ストーリーが回る”)という会話をします。これは一体なんなんでしょう?ちょっと不親切?というのが今回のお話です。

「マジック・ザ・ギャザリング(以下、MTG)」というゲームがあります。これ今流行りのトレーディング・カード・ゲームの家元的存在のものなのですが、“回る”というのはこのゲームを僕に伝授(伝道?)した友人が使っていた言葉です。MTGで一般的に使われる用語かどうかは知らないです(汗)

ここでちょっとMTGというゲームについて簡単に説明すると、オリジナル・カード一枚一枚に書かれた“ルール”を駆使して対戦相手を“負け”と規定されているルールへと追い詰めるゲームです。基本的な構造以外は、そのカードに書かれたルールによってゲームは進められ、新カードの販売配布によってどんどんルールが追加されて行く事になります。当然カードの内容によっては基本的構造さえも脅かす場合があります。
たとえば「このカードを引き相手に見せた時点で相手は自動的に負けとなる」と書かれたカードがあれば、そのカードを引いた時点で自分の勝ちとなるワケです。実際は戦略もへったくれもなくなるのでメーカーはそんなカードを創る事はありませんが、たとえば「相手は手札を全部捨てる」と書かれたカードを使った後に「手札が7枚以下の場合、その差の分だけダメージを受ける」といったカードの組み合わせで相手を追い詰める。そんなゲームです。
このカードの組み合わせ(コンボ)に色々頭をひねり、時に相手がびっくりしたり、あきれかえったりするようなコンボを決めるのがこのゲームの醍醐味となるワケですが、これが中々難しい。誰もがあっと驚くコンボを発想してとしても、カードの枚数制限などで、思うようにコンボを発動させる条件がそろわなかったりして、あれよあれよという間に相手の猛攻の前に敗れ去ってしまいます。

こーゆー、手札が思うように動いてくれない時に、友人は
「このデッキ(山札)は“回らん”。組み直さなくては」
というような事を言っていたワケです(笑)
カードの中には恐ろしく“強力なカード”、“個性的なカード”がありますが、こういうカードはそのまま使おうと思ってもリスクも大きく中々上手く“使い切らせて”くれません。そこで逆にそのカードの持っているリスクをリスクで無くするカードを探してきて組み合わせ、コンボを完成させて行くわけですが、つまりカードとカードの連携を強くし、時に、その主軸となるカードが上手く引けない時でも2の策、3の策、がそのデッキ(山札)の中に潜んでいて、相手を追い詰めて行く。
そうやってカード同士が有機的に繋がって、始めて自分の開発したオリジナル・デッキ(山札)は“回る”ようになります。

ここらへんの感覚がマンガにも近いかな?と考えたワケです。
マンガ(特に少年マンガ)は“キャラ立ち”が第一と言われています。しかしたとえば「サルまん」の“キャラ立ち”の項目で長ランのカラーが1mある男!というアイデアが出てきますが、これはキャラは立っているかもしれないが、おそらく“回らない”であろうという予想が立ちます。カラーが1mある事によって起こり得る事件のバリエーション(つまり、連携のパターン)が少ない事は想像に難くないからです。もちろん、カラー1mで湯水のようにアイデアが湧く人が現れたら事態は逆転しますよ?(笑)
キャラを立てても周りのキャラとのかみ合わせが悪ければ“回らない”。あるいはストーリーとの融合が悪ければ“回らない”。逆に、いかに平凡なキャラであってもストーリー(やりたい事)をよく反映しているキャラならよく“回り”ますし、ときに観客について行けない程強烈なキャラに対し、没個性に見えても平凡なキャラを添える事によって、主格のキャラ自体がよく“回り”出す事もあります。

常に個性的であることを心がけて、出るキャラ全てオリジナルで有る事を強調するような作業は、モーターとモーターを直接噛み合せるようなもので、思ったほど馬力が出たり出なかったり(笑)
たとい、どっかでみたような当たり前のキャラであっても、押さえる所にちゃんと押さえておける。(あるいは、そのつまんない当たり前のキャラをちゃんと動かせるかという面含めて)それ観て「いいい、トコにいいノ(キャラ)置いているねえ」という話も出てきます。

ここらへん総括すると以下のような会話が生まれます。
A「『××××』の○○○様が気に入ってるよ」
B「そう?拙はあんまし好きくない」
A「何で?“立ってる”じゃん!」
B「“立ってる”けど“回ってない”じゃん!」

ほりゃ!(笑)省くとこ省いてワケのわかんない会話になっている!おたくは大体これに近い会話を取っているのですよ。うんうん(笑)一つ分かったところで今回はこの辺で。レッツビギン!(←え?)


んんんんんんんんんんんん……何だろう?文末の小芝居は……??orz

いや、こう……僕は内輪の「伝達効率」を上げるために時々、変な造語を使うんだけど、それはそれなりの意味を持って使われている事なんですよ?と、たとえばある評価に対する「回る」という言葉は、こういう意味で使っているんですよ?という……ああああああああ!!(恥)-orz だから、最後の小芝居は!最後の小芝居は読まないであげてえええええええ!!-orz(←…と、小芝居を打つ)

さて…(真顔)、この「デッキのたとえ」ですが、読み返してみるとキャラクター造形に対する解説のみではなく、キャラクターを介した物語の「構造設計」にまで及ぶ、なかなかいい感じのたとえ話になっているかも、とか思っちゃったりwここらへん「物語愉楽論」において「構造解析」や、それに伴うパターン分類などの項でも出てくるかもしれません。
が、今回はキャラクターの造形についての「回る」という話に留めておこうかと思います。…というか僕がキャラクターの評価で使う言葉で他に「シャフト」とか「トルク」ってのもあるんですが、やはりこの「回る」という言葉に端を発してますし、「速度」や「スタートダッシュ」なんて言葉も(こっちは直接「回る」から派生した言葉ではありませんが)イメージを同じくして連携がとりやすい、かなり基本的な分析の素子になると思っています。

それで、そもそも何でこんな言葉を用意しようと思ったかというと、マンガなんかで古典的に言われてきたキャラクター造形に対する「キャラが立つ」「キャラを立てる」という言葉に対して疑問が生じたからなんですよね。…こう書くと、それはLDが「キャラを立てるという言葉を正しく理解していないからだ」というツッコミが聞こえてきそうですw…そして実際にそうなんでしょうwでも僕は「キャラが立つ」という言葉と「キャラが回る」という言葉を分ける事はやっぱり必要だと思っているので後悔はしていないんですよ?(`・ω・´)話を続けます。

昔のマンガの描き方なんかが書かれた本には「キャラを立てる」事の重要性が再三にわたり書かれていて、そしてその後には次のような言葉が続くんですね→「誰も考えた事がない。きみだけのキャラクターを生みだそう!」って。え~っと今、僕の手元にある資料は「サルでも描けるまんが教室」なんですが、これのキャラクター創作の部分でも、こう書かれています。

P.78「いろいろ書きましたけど、やっぱり立っているキャラって、特徴が明快で、意外性があることね」

「サルまん」って基本的にギャグマンガで、いろいろな事を茶化して描いているマンガだとは思うんですが、ここはマジだと思っています。意外性という言葉は、オリジナリティという言葉に言い換えられると思うんですけど、つまりオリジナルな作品を作るように心がけよと言っているわけです。この訓示はけっこう正しくって、要するに作品を「商品」として売り出すにあたって、他にないものがそこになかったら、その商品はすごいハンデを負うし(建前上、他の作品はオリジナリティをクリアしている事になるから)きみ自身も作家としての商品価値は非常に低いものになってしまうよ?って話なんですね。
…で、実際、手塚先生やトキワ荘メンバーをはじめとしたマンガ黎明期の人たちのキャラの立たせ方って凄まじいし(オバケのQ太郎とか…何かもう立ちゃいい!って感じの造形ですよね)、キャラクターとは違いますが、小池一夫先生の作劇論「オープニングは銀座を裸の女が走っている」にも通じるものがあります。だから、この「キャラを立たせろ!」はキャラクター造形における鉄則中の鉄則だったわけです。(無論、今でも鉄則)

でも、他に類無く、意外性に満ちたキャラクターが必ずしも「面白い」ワケではないんだよなあ~。

多くのキャラクターたちを骨格ごと描き分け、素直で好奇心旺盛な少年、一本気な正義漢、卑屈な小悪党、悪事をはたらくが愛情深くもある男~など、様々な性格を当たり前のように描き分けてしまう手塚先生を信奉していた僕は、この「このキャラは特に立っているワケでもないのに、何で「面白い」のだろう?」という謎とず~~っと、にらめっこしていたのですが(汗)………つまり、この「キャラを立たせろ!」という訓示には、実は表に出ない隠された条件があると言えます。いや、別に隠してもないんでしょうけどw
それは「キャラを立たせる」以前に「自分がそのキャラをいくらでも動かせる事がイメージできる(把握された)キャラ」あるいは「そのキャラを用いれば自分からアイデアが湯水のように出てくる(想像を刺激する)キャラ」である事の方がより重要なんですね。先にこの条件を満たしていないと「面白く」なるはずもないし、逆に言えばこの条件が満たされているなら、こと「面白さ」に関して言えばキャラが立っている(オリジナリティがある)必要はないワケです。
しかし、ながら、その命題は表立って述べるのはマンガの発展性のためにも避けられて来たのだと思われます。…何でって、今言った事は(オリジナリティをクリアしなくていいなら)「自分が感化された既にある面白いキャラ」をイメージすればイメージが明確な分、いくらでも動かせるし、既に動かされた要素に合わせて「自分ならこうするのに」ってアイデアも出てくるからです。要するに(バレない程度に修正するとしても)パクっちまえ!ば「面白い」か?どうか?ってハードルまではクリアできるって話になります。………いや、まあ実際にフィクションの界隈はモロにそれで動いているのでしょうけど(滝汗)建前として、発展性の保持として、また作家自らの商品性を高める指標として、それをモロに言ってしまってはいかんよね…ってのがあるw

「キャラを立たせる」というのは本来的には「オリジナリティ」という第一のハードルと「いくらでも動かせるイメージ」という第二のハードルの二つのクリアを必要とする言葉なんでしょう。第一のハードルは「面白い」という観点からは絶対的な必要性を持たないものだけど、そうであるからこそ「ウソ」は強めにつかないといけない。(←おっと来た!本論の「ウソに乗る話」参照)……少なくとも二つのハードルをクリアしたキャラクターは大いに誉めるべきでしょうし。というか僕は実際に誉めずにはいられないw

…が!それとキャラクターの分析/評価はまた別の話でw「キャラが立つ」という言葉を狭義に捉えているかもしれいなけど、そこは狭義のままで。「キャラが回っている」という言葉を別に用意して、キャラクターの峻別を図るワケです。則ち「立っていない」けど「回っている」キャラとか、「立たせる」のに手一杯で上手く回せていないキャラとか、そういう風に評価を進めて行くワケです。
それは「デッキのたとえ」で述べたように「すごく立っているが単体では回りづらいキャラ」を、それ自体では立ったキャラとは言えないが「回す役目で置かれたキャラ」という評価にも(ま、別に立っていない必要はないんだけど)移って行くことになりますね。ここらへんは「キャラ配置」や「構造評価」の話に移って行く事になりますが、今回はここまでとしておきます。