今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

2009年3Q 今期選考アニメ

2009年10月30日 | アニメ
毎週、週刊少年4誌の連載を読み比べて一番を決める「今週の一番」の他に、最近、四半期毎によかったアニメ(と言っても僕が録画していて観る事ができたものに限られるけど…)を決める「今期選考」と言うのを細々とやっています。…で、ちょっとこっちに今期、良かった作品をいくつか上げておこうと思います。

■青い花



“百合もの”なんですけどね。すごく、心が洗われた…というか爽やかな気持ちで観ることができましたね。なんでだろうな…?あんまり恋愛ものという感じもしなかったんですよね。登場人物たちが、すごくあっさり失恋して行くからかなあ…。「神は天にいまし、全て世は事もなし」って空気なんですよね。なんか、すっげえ好きですw
ふみちゃんは、子供の頃はあーちゃんの幼馴染みで、いつもあーちゃんを頼りにしていたんだけど、歳月が過ぎて背はふみちゃんの方が伸びて、恋愛経験もふみちゃんの方がずっと先に踏み出しているんだけど、再会した二人の関係が子供の頃と変っていないのが良いですね。…この部分いろいろな捉え方があると思いますが…さっき言った「世はすべて事もなし」の空気の中心になっていますね。

■東京マグニチュード8.0



【「東京マグニチュード8.0」…ああ、こんな話だったんだ…。】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/c1ca6ea7b1c8b51799ab3380cb458eab

こっちでも少し触れていますけどね。(ああ、結局「電視の部屋」に書いていない…orz)災害シミュレーションもの(?)と思わせておいて、最後にどんでん返しがあるという…。それこそ、前半とまるで違う話を観せられたような気にすらなる人がいると思うんですが(僕がそうだった)、実はそのテーマはしっかり一本軸で引かれていて、悲しくも美しい物語としてまとまっています。……主人公の小野沢未来ちゃんは、「千と千尋」の千尋よりも、ほんの少しだけ多く世界を知る事ができたんじゃないかなあ?w…などと、余計な事を言ってみるテスト(´・ω・`)

■化物語



すんげえ「面白い」。事件や解決の顛末も楽しいのだけど、やはりキャラクターの「回り」方が楽しいのだと思う。録画したやつは次へ次へと消化して行かなくっちゃならないのに、気がついたら繰り返し観ていたです。そんくらい「面白」かった。
…「さよなら絶望先生」くらいの当たりで、僕は新房監督のあの独特の絵コンテというかビジュアルの組み方…「新房メソッド(?)が一応の完成をみた」みたいな事を、ぬかしはじめて。でも次作次作と出る度に「ああ、これが完成形かな?あ、やっぱりこっちかな?」みたいないい加減なふらふら感想を持っていたんですが…。や、ここが(一旦の)完成形でしょう。僕は原作読んでいないのですが、おそらく原作とのはまり方も凄いんじゃないかと想像しています。…というのは、このビジュアルに対してシナリオの下支えを強く感じるからなんですけどね。今、なんか「けいおん!」を抜かす勢いで売れている見たいですが、前衛の際みたいな造りだけに意外でもあり、同時に納得でもあります。

■NEEDLESS



もう、めっっちゃめちゃ下らない作品なんですけどねw熱血あり、ギャグあり、お色気ありのてんこ盛り超能力バトル・ストーリーなんですが。いや、“下らない”って完全に誉め言葉でいいいいい具合にくだらなさが出ています。なんとなく「筋肉番長」とかを思い出してしまうのですが、ああいう読み捨て上等!感が気持ち良いです。
とは言え、そうただただハチャメチャな作品というわけでもなくって、超能力者同士が連携して、そのコンボで“無敵”に近付いていったり、まったくの無能力者にして基本主人公…のはず(?)のクルスくんが知恵を巡らして自らの“出番”を確保したりと、細かく熱いです。こーゆー時代に何も考えてないものを描くのはなかなか難しくって、それ故逆にいろいろ考えているのではないか?とか、どうでもいい裏の裏を思い馳せたりしてしまいますよ?(´・ω・`)ま…とにかく“勢い”は間違いなく今期一番だったんじゃないかと思います。

今週の一番付記「魔法先生ネギま!」情報圧縮して描かれる先の物語

2009年10月28日 | マンガ
【脱英雄譚の命題】

【10月第3週:幻仔譚じゃのめ 第46話 竹婆の夏】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10433.html#609

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



ははははははは 私を倒すか人間それもよかろうッ
私を倒し英雄となれ 羊達の慰めともなろう だがゆめ忘れるな
全てを満たす解はない いずれ彼等にも絶望の帳が下りる

貴様も例外ではない


「魔法先生ネギま!」で、今、主人公ネギくんの父親・ナギの物語が断片的に語られはじめ、次第に物語の全貌が明らかになって来ています。大筋において二つ明らかにしなければならないポイントがあって。“英雄ナギとアリカ姫(ネギくんの母)が何故、魔法世界から逃亡(駆け落ち)したのか?”と“ナギが倒した最強最大の敵とは何者だったのか?”、この二つでいずれも凄い物語が展開しています。…凄いと言ってもまだ内容の全てが開陳されたワケでもないんですけどね……でも分っちゃうw
ちょと、斜に構えた、擦れたおたくぶって悪い言い方をしてみると「どーせ、大した話じゃないんだろう?」とか、「どっかで聞いたような話なんだろ?」という言い方もできるんですけどね。それくらい断片情報だけでも何となくイメージレベルなら大体の所が分っちゃうwでも「魔法先生ネギま!」はそれを完全に逆手にとっている作品だと思います。

上に引用した画像/セリフですが、少年向けマンガ、少年向けアニメになが~い事接してきた僕としては、もう繰り返し繰り返し観てきたシーンですw(一つ言うと逆手にとっているからこそ「羊達の慰めともなろう」というセリフは“深い”です。ラスボスが「人々の望む結末になってやろうじゃないか」って言っているワケですけど、これはいくつか意味がありますね)ちょっと前にこのブログで「絶対悪とは何か?」って記事を書いたんですが、本質的には昔からある、サイボーグ009が黒い幽霊団の本体と対峙するシーンと同じ物と言っていいと思います。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

最近だと「天元突破グレンラガン」(2007年制作)の最終回に主人公のシモンと最強最後の敵・アンチスパイラルが対峙するシーンを思い起こします。しかし、重なるとか、繰り返しとか言っていますが、この話のミソはネギくんのお父さんの話であって、本編の主人公・ネギくんの物語ではないって事です。物語の初期から語られてはいましたが、どうもネギくんのお父さんは、魔法世界において正真正銘の、絵に描いたようなスーパーヒーローであったようです。しかし、絵に描いたようなスーパーヒーローだからこそ、これまでの多くのスーパーヒーローたちと似たような“宿題”を残してきたようなんですね。(全貌が明らかにならないと分らないけど)



これは「天元突破グレンラガン」と重ねて行くと分りやすいと思います。「グレンラガン」もまた目の前の敵を倒せばすぐに“もっと強い敵”が現われて際限なく“もっと強い敵”と戦って行くという、よくある少年マンガの構造を逆手に取って、ある種場当たり的なその展開を俯瞰して設計する事によって「大きな物語」としてまとめ上げた作品なんですが、その踏襲性ゆえか、ラストもいかにもな決着のつけ方をしている。

それは何かというと「いや、それって結局何も解決していないよね?」と言うかねw最強最後の敵・アンチスパイラルは、主人公たちのパワーとしている螺旋エネルギーこそが宇宙に破滅をもたらすものだと示し、自分のプランに従わなければその破滅は不可避であると説いた。それに対して主人公シモンは「破滅など来させない!人間はそんなに愚かじゃねえ!!」と絶叫して、アンスパをブッ倒すんですが……つまりノープランなんです!!(`・ω・´)
でも、この物語の時点ではそれでもいいというかその破滅を回避しなければならない時というのはおそらく何万年も先の事でシモンはその回避をただ信じているって話なんですよね。他にも人間滅ぶべしという神様に“ごく希な反証”を取上げて許してもらうタイプの話なんかも「次来た時は分りませんよ」と言われるのですが、それもずっと先の話として終わる。
……でも、じゃあ“その時”には具体的にどうするのよ?あるいは、他の物語では与えられていた長い長い猶予期間が無かったら一体どうするのよ?という疑問は残る。「ネギま!」の英雄ナギでみると最後の敵を考え無しに倒すぐらいは猶予があり、しかしすぐに“その時”はやってくる時間…つまり、ナギの子供が大きくなるくらいの時間で“その時”がやってくるとしたら、どうするのよ!?という歴代の多くのスーパーヒーローたちが放置、先送りにしてきた問題に正面から挑もうとしているように…観えます!つまり「先の物語」を描こうとしているように思うんですね。

僕は近年描かれている物語を「情報圧縮論」という考え方から眺め検証しているのですが、そもそも「悪者/怪物を退治する事ができました。めでたしめでたし」という旧来の元型的な物語から「戦いを続けるお前達こそ悪なのだ。それでもお前は戦いを続けるのか?」といった善悪逆転のシフトまで行くのは、相当に物語文化が成熟してこないと出てこないと思うんですが、その「先の物語」を描いて行こうとすると、それらの文脈を押えた「情報圧縮」は大抵必須になってくる…と考えています。
先に言った、どっかで聞いたような話を逆手にとっているとは、そういう事なんです。(↓)「情報圧縮論」概要の話は下記のエントリーで書いていますね。繰り返し繰り返し観てきた事で、繰り返し繰り返し疑問に感じてきた事だから、そこは(どこかで観たような)“画を重ねてあげるだけ”でいいと。そういう話になってきます。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c
多分「機動戦士ガンダム」を例に上げると分かりやすい気がします。「ガンダム」という物語を描くにあたって、ニュータイプという“先の世界”を思いついたとして、それは、泥まみれで、戦争に翻弄される“大きな群像”を描いたその上に、“先の世界”を載せるから、あの感動が生まれている事は間違いないと思います。群像劇を描く才能のない者が「人類って宇宙に出たとしたら、こんな風に変って行くかもね」というだけの物語を作ったとしたら、僕は間違いなく、あれほどの感動を得ることはなかった。だからこそ、これは群像劇(「大きな物語」)を描けた者だけに許された「先の物語」だったと言えます。

それは逆に言うと、「大きな物語」を描ける者が、「先の物語」を描こうと思わなかったら、それはそこで終わってしまうという事。(いや、終わっても全然良いのですけどね。安彦先生とかは、本当にニュータイプとかには興味がない人ですよね)逆に「先の物語」は見えている(思いついている)のに、「大きな物語」を描く力量がないために、「先」が描かれているだけの「小さな物語」で終わってしまう事もある。
こういったカナシに、これまで散々溜め込んできた、物語表現技術を複合的有機的に利用する事で、手を届かせる方法があるのではないか?いや、既に何人かの作家は、それに意識無意識を問わず気付いていて、すでに使っているんじゃないの?……というのが、僕の「情報圧縮論」のあらましという事になるかと思います。

「魔法先生ネギま!」は、ここらへんの話を取上げて検証して行く対象としても大いに注目している作品でもあります。「先の物語」を描く事の意義(繰り返し描かれたものを圧縮しないと到達してこなかったであろう事)は、上の文章でも感じてもらえるんじゃないかと思いますが「ネギま」の大元は、女性徒31人がヒロインというハーレム構造の極北のような構造を抱えていて、それらに対する需要を維持しつつ、今述べたような物語も並行して構築して行くという離れ技を「週刊連載」でやっていて、何かもう、ただごとじゃない連載なんですよねw
もう一つ、僕が近年の「情報圧縮論」のサンプルとしてあげる「マブラブ・オルタネイティブ」という作品がありますが、こちらもやはり「先の物語」を描きつつも、本来本義であるエロゲー部分が大幅に目減りした事(とは言ってもエロ画像が少ないってだけなので、萌え観点から言えばそう気にする事でもないのだけど)を考えると、驚異に値しますw
これはもう才能云々なんてレベルを超えていて、明確に裏打ちされたメソッドが必要な話だと、そう思いますね。故に「ネギま」が到達した道は、後から続く物語も来られるもの……という事のはずですが…。まあ、それはまた次に観るとして、今は「ネギま」の到達点を見守って行きたいですね。

「黄金の日日」忘れえぬ名作

2009年10月26日 | ドラマ


時代劇専門チャンネルで大河ドラマ「黄金の日日」(1978年制作)が始まったので観ています。これ子供の頃に観て「一番面白かった大河ドラマ」として記憶に残っているんですが、改めて観て…。メチャメチャ面白です!
戦国時代の自由都市堺で豪商・今井宗久の奉公人から身を起こし、ルソン=フィリピンへの航路を拓いて一代の豪商となった呂宋(るそん)助左衛門こと助左(市川海老蔵=現・松本幸四郎)の物語。織田信長が上洛から物語ははじまり、天下は統一へと向かう世の中で、英雄豪傑ではないボロ布のように生死の儘ならぬ身でありながら商人として、海に生きる者としての自らの生き様を貫く様は、もう何かそれだけでロマンで胸がいっぱいになりますね。
助左の仲間の二人、杉谷善住坊(川谷拓三)、石川五右衛門(根津陣八)もいずれも、ほとんど単身で権力者たちに弓引いた者というのも何か考えさせるというか、英雄と対決したが故にその名が残っていますがあくまで名も無き者たちなんですよねえ。

第5話で今井宗久は、越前・浅倉討伐に向かう織田信長から製造中の鉄砲500丁と兵糧の注文を受ける。それに助左は動向するのですが小荷駄隊の隊長となった宗久の息子・兼久は織田信長嫌いのため、難癖つけて任務を投げ出したくてしょうがないんですね。そうこうしている内に近江の浅井が信長との同盟を破棄して織田軍の背後を突く動きの情報が入ってくる。
元々、戦場に運ぶ任務とは言え、浅井軍に直接追われて身が危うく、しかも織田軍に荷物を届けても織田は滅びて全て無駄になってしまうかもしれないという状況。そうなると当然、荷を捨てて逃げだそうと言い出す者、荷をどこか別の大名の元へ運ぼうと言い出す者が出てくる。……いや、そりゃそういうものだと思うんですよね。戦国時代の商いなんて。荷がまともにつくかどうかなんて分らない、あらゆる不確定要素がひしめいている。



この時に助左は「この鉄砲は全て織田様のご注文を請けたものです。他のどこにも流用が許されるものではない。また織田が勝っていようと負けていようと、我らはこの鉄砲をお届けするのが務め。逃げる算段はそれから考えるのがものの順序というものです」と言って、助左を含む3人だけで残った荷物を届けようとする。ああ~いいなあ、と胸が熱くなるりました。約束一つ果たすのが正真正銘命懸けになるこの時代に、それでもその小さな約束の一つ一つに命を懸けるから助左の世界は拡がって行くんです。でも、やっぱり命懸けは命懸けで、この助左と意志を同じくして同行してくれた侍は、なかなかの好人物だったのだけど、この後の金ヶ崎の退き陣で浅井の追撃に巻き込まれて死んでしまう。同行した3人の内のもう一人は石川五右衛門なんだけど。筋を通した人間の二人の内、一人は死に、一人のは生き残った。その生き残った一人が助左だというのは、いいシーンでした。

その後、助左は木下藤吉郎(緒方拳)と再会(もともと知り合い)し、藤吉郎は「この木下藤吉郎、ここで死んでもなかなか悪くない人生だったよ」と助左と笑って語らい合うんですが、ここもいいシーンだった。その後を知っている人には、ここはまだまだ木下藤吉郎物語の序章に過ぎない事がわかるんですけどねw作品によっては“金ヶ崎”で殿(しんがり)を申し出た秀吉の脳裏に出世の博打の打ち所みたいな考えをかすめさせるものもあるんですが、まあ、それも多少はあったかもしれないけど、やっぱり僕が戦国時代に名を成した人たちのメンタルを考えると「ここが死に時だ」という感じだと思うんですよね。無論、死ぬつもりなワケではない。……だから、さっきの命を懸けて約束の荷物を届けるのか?という話と同じですね。織田の家臣として織田信長に命を預けた以上、そういう時は有る!この世で約束をした以上、そういう時は有る!…とただそれだけの事ですけど。

先ほど、英雄豪傑とそうでない者を分けましたが、あの時代に命がボロ布のように軽いのは誰であっても同じ事で。でも、己の生き様を軽くないものにするのは、己の意志そのものなんだよなあ。でも己の意志を通そうと思ったら皆ボロボロの泥っまみれになるwその泥っまみれっぷりの描写が好きです。や…大河ドラマで戦国時代を取上げると大抵、ご当地大名/武将みたいな感じになって行くんですけど、それとはちょっと違う戦国の実相を描いた名作だと思います。

今週の一番付記「バクマン」リアル(?)なサクセスストーリーと少年マンガ志向は両立しないのか?

2009年10月23日 | マンガ
【10月第2週:めだかボックス 第21箱「やり過ぎだ」】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10432.html#608

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



ローズ・トゥ・人気漫画家マンガ「バクマン」ですが。今、担当の港浦さんと新連載の方向性でもめていますね。普通に想像すると新連載が打ち切りで終わってしまったら、へこんでどうすればいいか分らなくなって、担当の方針に従ってしまいそうなんですが、ここらへんサイコーたちはさすがというか、簡単に折れない。先へ行ける心を持っていると思います。w
しかし、この港浦さんとの確執も「面白い」……というか興味深いです。「バクマン」は少年マンガ…それもジャンプマンガの規格に収まりきれない(収まりきってはいけない)所があって、1週毎の展開の難しさというか悪戦苦闘っぷりが感じられます。ノリノリとは言えない、手探り感がありますね。

たとえばこの港浦さん、基本的にはダメな担当編集として描かれていて、かつ主人公たちと対立関係にあるわけですから、港浦さんは少年マンガ的に言えば“倒すべき敵”(あるいは障害)とも言えるんですね。いや、いきなり“倒すべき敵”と行っても港浦さんはそんな風に描かれていない(はず)なのでピンとこないかもしれませんが、しかし、この回の港浦さんは、こうも言っている。

もし、この読切が本誌に載り連載になって人気マンガになったら僕は編集を辞めます!

しかし、すぐに周りの先輩編集たちが「馬鹿を言うな」、「辞めるなんて嫌味になるだけだ」と言ってその発言を取り下げさせている。でも、まだ少年であり、かつ既に港浦さんにケンカを売っている認識のあるサイコーたちは(心のどこかでは)港浦さんが、そう言い出してくれる事こそを望んでいたかもしれません。「人気マンガになったら僕は編集を辞めます!」←こういう“分りやすい展開”、“決着/結末のハッキリした展開”こそが、少年マンガ的展開って言えると思うんですよね。作者もそれが分っているからこそ、港浦のセリフにこういうものを入れて、それが観えている事は示しているはずです。

しかし、実際の一般社会はそういう風には“回っていない”。嫌な奴、分からず屋がいたとして、その人と“その場の勝負”をしてやり込め「そらみろ、やっぱりオレの方が正しかったんだ!」などとやっても、社会人的には評価されないし(むしろ減点)大局的に観れば全体の前進を阻んでいる事がほとんどです。「バクマン」で言えば、どんなに分からず屋でも港浦はやはり共に戦って行く味方であり、互いに上手くやって行く方法を考えて行かなくてはならないんですよね。まあ、それが有能な敵よりも無能な味方の方が恐ろしいという格言(?)の元にもなるんですがww…とにかく気に入らないからといって安易に相手(味方)を叩き潰せ!という具合に社会は“回って”いない。
※ 味方だから唯々諾々と従えって事ではないですけどね。ここらへんの匙加減は難しい話です。また、本当に全体の前進を阻害するくらいにダメな人もいたり、そういう人を排除する手管もないではないのですが、そこらへんはマンガの中では“汚い大人”として描かれている部類に入って行く気がしないでもない(汗)

いや、しかしそうは言っても少年マンガに限らず、青年誌のサラリーマンものなんかでも、こういう煮え切らないような対立をそのまま描かないですよね。もっと分りやすく相手を(叩きつぶしても心が痛まないような)嫌な奴に描いて、まあ大抵主人公は社長や会長に気に入られているなんてワイルド・カードをもっていて、彼らが“神の手”で“分りやすい勝負”に持っていってくれるとか、対立は先輩社員の愛のムチwwだったとか、そうやって分りやすく描いて行く。
しかし、「バクマン」でそういう事はできない。……と僕は観ています。いや、ここらへん最初に手探りと言ったように、最終的にどこに舵切るか分らないですけどねwしかし、現状、そういった“分りやすさ”のために、荒唐無稽な設定や展開に走って、それで“成功”を得る物語を「バクマン」は志向していないように観えます。だから港浦さんの“分りやすい展開”に乗ってこない。上手く言えませんが、何か成功するに到る“本当の苦労”(なんだ?本当の苦労って?)というか、そういうものを描きつつ、それをエンターテイメントとして成立させようとしている苦悩が「バクマン」では伺えるんですよね。

【今週の一番付記「バクマン」】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/da25ad1f12f4718a4a74ca325a190587

ん~~~、ちょっと脱線気味なんで、戻しますが…(汗)対戦相手がはっきりしていて、自分がどのように成長すべきかもハッキリ示される、バトル/スポーツ・マンガとはまた違った緊張感を感じています。またマンガ家稼業は、一度失敗してもまた挑戦できる…というモノでもあり、これもまた「打ち切りの展開も有り得る」という緊張感を出すものになっているんですよね。

ここらへんで先の展開の読め無さを語ったりしていますが、たとえば「擬探偵TRAP」が打ち切られる…つまり“負ける”所なんかは少年マンガ的にはかなり美味しいシーンのはずなんですよね。一敗地に塗れた主人公が、絶望に打ちひしがれながら、再び立ち上がるシーンを感動的に描いてきた作品は数多くあると思います。対して「バクマン」は…そりゃガックリうなだれてはいましたけど、すぐに気分を切り替えて、少年マンガ的には実に淡泊に“立ち上がって”次の連載の打合せをしている。そもそも「TRAP」が“負けた”理由がはっきりしていない。連載再開を望むファンの手紙がどっさり来ていると言いつつ、あれよあれよという魔に打ち切りが決まってしまっている。(誤入力だけどなんかOK)

そもそも新妻エイジをライバルと“分りやすく”設定して、新妻エイジに勝とうとしているけど、そもそもこの世界の“勝ち”って何だろう?何かわからないですよね?一週でも、新妻エイジを人気投票で追い越せば勝ちなの?一週でも?収入が新妻エイジより上になったら勝ち?結局、分りづらくない?いや、それ故にこの作品、そこには固執していないと思いますが、そうすると対立という分りやすい構図はぼやけるんですよね。

【今週の一番付記「バクマン」のボイコット運動は何をもたらすのか?】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ff1db03e6aa6f72ca4d3a106ba806e77

…やはりボイコットあたりの流れから分からない。こんな形で“編集権に介入”してもいい事ないと思うし、編集部の対応も何かおかしい。そういう普通のつっこみは既に「一番チャット」の中でも論われているのでくり返し書きませんが、その普通のツッコミが的を得ているのかどうかさえ判然としなくさせる展開なんですよね。

この話、結局よく分からなかったです。5作品が休載なんて前代未聞の事件を起しながら編集長は相変らず健在だし(汗)その後の影響も(今のところ)観てとれない。…まあ、ここらへんも手探りの産物というか、分りやすい緊張感とカタルシスを出そうとして、その過程で失敗があったかな?とそう観ています。

それで結局、こういう現実リアリティ(?)と少年マンガ的エンターテイメントの両立の話なんですが…。とりあえず…

「CROW」とか「ラッコ11号」とかの内容や展開をもっとバンバン連載の中で描いてしまえばいいようにも思うんですけどね~。

って言うか読みたいんですよねえ~w何というか断片情報で“何となく面白そう”な感じだけでいいんでwそうすれば本編はかなり地味でもアリになってくるんじゃないかって思ったりもします。…って言うか、そうしようとして最近、作品の人気投票したんですかね?きっとそうなんでしょうね。

ユング!ユング!ユング!(2)

2009年10月19日 | 思考の遊び(準備)
【アーキタイプ】

【ユング!ユング!ユング!(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8f0f0c7b206174e44174f52308377851

(↑)前回の続きです。

さて、ユング心理学の用語を「物語愉楽論」に合わせて行こうと思うんですが、仮に、物語に接して擬似的な体験をしたり思索にふけったりする行為を、心理療法の一つとして物語セラピーといった位置づけに考えると、上手く当て嵌めて行けそうな気がします。まあ実際に物語に接する事って、心の平安を得る(精神の安定を図る)事だとは思えますよね。

たとえば現在、おたく界隈で「萌え作品」や「ゆる作品」が流行していたとして、それを集団心理的に考えると、社会情勢の“暗さ”(厳しい現実)に対して“癒し”を求めている…と考えられますよね。(月並みな解釈ですが)、あるいはこのサイトでも何度か取上げてますが、1970年代を中心に、かなりエグイ話というか暗い話、バッドエンド的な話が多くの人に受入れられた時期があります。これも当時の社会情勢の“暗さ”を反映したものと僕は思っています。…さて、じゃあ、何でその顕れ方が、片や“癒し”を求め、片や“暗さ”を求めるといった180度違うものになるんだ?という疑問が出てくるはずです。

…これは背景となる社会情勢の暗さが顕在的なものと潜在的なものだった(のでは?)という解釈ができるんですね。要するに1970年代のあの時期は高度成長期からバブル期に以降して行く時期で、日本という国としてはある意味イケイケどんどんな状況でもあったワケで、国力的な情勢ではむしろ不安がなかった。しかし(公害や戦争といった)表に出ない潜在的な“不安”はじわじわと浸食しており、それらの“言葉にならない不安”が物語という形で具現化される事によって逆に、心の平穏(精神の安定)を得る事ができたと。形の無い物に形を与えることによって向き合う対象ができた……それが当時“暗い”話が多くの人に受入れられた理由ではないか?…と言えるワケです。逆に既に物語を介さずとも現実として“不安”が顕在化した社会では、物語にはより…気を休めるというか、不安を忘れさせてくれる物が求められて行く…と。

いや、ここらへん、その“不安”は本当に顕在的なものなの?潜在的なものなの?っていうツッコミは当然あるんですけどね(汗)まあ、とにかく「物語」というものをそういう「受け手」が心の平安を得る(精神の安定を図る)道具として使っている……という観方を基点に、ユング心理学の用語合わせをして行くのが正着そうかな?と考えています。


■四つの心理機能について

え~っとユング心理学によると、人間の心理機能には「思考」、「感情」、「感覚」、「直観」の四つに区別できるみたいです。どうも心理機能というのは、任意の事象に対する心のリアクション…みたいなもののようです。たとえば何かの絵画を観たとして、その時の「受け手」の心のリアクションは……

「思考」 → その絵の題名を思い出したり技巧などの分析をはじめる。

「感情」 → その絵から“印象”を得る。また“好き”か“嫌い”かを判断する。

「感覚」 → その絵の色彩や形状、さらには構図(骨子)を認識する。

「直観」 → その絵から全く別の着想を得たり、他の画家との隠れた共通性を見出したりする。

……の4つに大別されるとの事です。…で、思考と感情、直観と感覚は対関係にあり、対の片方の機能が発達している人は対になる機能は未発達であるそうです。すなわち、思考機能の発達しているひとは感情機能が未発達であり、逆に感情機能が発達しているひとは思考機能が発達していないという関係にある…とされています。この関係を図にしたものが、前回も掲載したこれ(↓)ですね。



この図は直観機能が意識上に強く上がっていて“発達状態”にある事を指し、対機能として無意識下に沈んでいる感覚機能は“未発達状態”である事を意味します。その上で、どちらかと言うと思考機能が発達状態にあって、その対機能である感情機能は未発達状態と言う事になります。この図、河合隼雄の「ユング心理学入門」に載っているのですが、なかなか分り易いと思います。こういう分類をする時に気をつけなければならないのは、4つの心理機能のより傾向が強いものを取上げて人間を4種類の傾向に分け、さらに外向的人間と内向的人間という2傾向を加えて8種類の傾向に分けて行くわけですが、仮に一度その人間の傾向を設定したとしても、人はその規定された心理機能一辺倒という事はないという点ですね。「思考」人間であっても他の「感情」も「感覚」も「直観」も全く働かさない人間はいないって、ただそれだけの事ですが……議論が進んで分類する事が先走ってくると、ここらへんの“曖昧さ”を嫌って規定的に語り勝ちになってくるので気をつけておきたい所です。

また、未発達な機能、無意識下の機能を指して、その機能が“弱い”という意味ではないです。むしろ心療的には未発達のまま無意識下に押し込まれていたが故に制御できない力で決壊を起し精神的な病を引き起こしていたりする…という事ですね。「思考」型の人は対機能である「感情」に乏しくなる……という話ではなくって、一度、感情のスイッチが入ると制御が利かなくなる(もともと制御する意識上に置かれていない機能だから)…といった感じのようです。

…しかし、どうもこの対機能の片方が発達すると片方が未分化となる(そういう印象を受ける)話はどうなのかな~?と思うんですよね。実際に“くだけた”ユングの本では、その人の分類をするチェックシートのようなものを用いた時に「感情機能が強い人が、必ずしも思考機能が下がるとは限らない。むしろ、他の機能が落ちていたりするのが普通」といった旨書いていますしね…。(※むしろ「思考」が無意識下に置かれた部分が「直観」、「感情」が無意識下に置かれた部分が「感覚」じゃないかと思うんだけど……まあ、今は置いておこう)まあ、とりあえずそういう傾向があるという形でその話には乗っておこうかと思います。ただし、これらの心理機能の中で劣等機能(無意識下に置かれた機能)があって、それがその人の心理において重要な意味を持つという事に関しては賛成というか、そうなんだろうなあ~っと思えます。

さて、これに人間の心的方向として「外向型」と「内向型」といった傾向が加わってくるんですが、こっちはちょっと置いておくとして(まだ、考えが固まっていないので)これをどう物語の分析に使って行くかというと、つまり人の心的傾向が4つの心理機能に大別されるなら、物語にも4つの分類があるのでは?って話ですね。これは作品によって「思考」機能を刺激するもの、「感情」機能を刺激するもの、「感覚」機能を刺激するもの、「直観機能」を刺激するもの、の4つの傾向を指すのですが、無論、上記で書いたように、人はそれぞれに感じる事は違うわけで、一つの作品(例では絵画)を観て、その人が何を感じるかって事はそれぞれに違っていて、そこを制御する事はできない。

しかし、この心理機能の話を単純に単純に「思考」型人間は「思考」を充足させてくれるものが好き、「感情」型人間は「感情を充足させてくれるものが好き……と考えて行くと、その「思考」型人間を充足させてくれやすい傾向がある作品を「思考」型作品……という事はできるかな?と。
あるいは分類する事に固執しなくっても「この作品はこの人にとって『感覚』を刺激させる作品だった」という確認をするだけでも、とりあえず全然かまいませんしね。

で、こっから難しいのですが、人間は単に自分の主機能を充足させてくれる以外に、無意識下に沈められた劣等機能を発達・分化させてくれる事も喜ぶ(精神が安定する)ようなんですね。これは逆に「思考」型人間は「感情」を発達させてくれるものが好き、「感情」型人間は「思考」を発達させてくれるものが好き……とも言えそうなわけです。(う~ん。なんて胡散臭いw)

この観点から考えて行くと、以下の8種類に分けられるかな?と。

・主機能「思考」を充足させてくれる作品/劣等機能「思考」を発達させてくれる作品

・主機能「感情」を充足させてくれる作品/劣等機能「感情」を発達させてくれる作品

・主機能「感覚」を充足させてくれる作品/劣等機能「感覚」を発達させてくれる作品

・主機能「直観」を充足させてくれる作品/劣等機能「直観」を発達させてくれる作品

同じ列に並べましたが、同じ作品が主機能「思考」と劣等機能「思考」も同様同等に刺激するのかどうかは分りません。また、これは作品に留まるものではなくって一場面の表現や演出にも当て嵌めて行けるものでしょうね。むしろ作品分析としてはその方が正しく、その総体的な評価として作品の分類に昇華させて行くのでしょう。
これに「外向」、「内向」を加えると単純には16種類…かな?まあ、ここらへんは面倒くさ…思う所があってちょっと寝かせておきます(´・ω・`)とまれ、この話はここまでです。それぞれに対応する作品サンプルなんかを上げて行けると話が分りやすくなってくると思うんですが………まあ、まだそこまで考えが詰っていません。


■元型について

「元型」というのは、元々は精神病者が語る妄想の話や、夢の中の話に出てくる現象や登場人物たちには、それぞれ何らかの(その人の精神を顕す)意味がある。あるに違いない!という考え方から発展して来たものですね。それまでは「キチ○イの妄想話なんか無秩序混沌の塊であって意味などあるはずがない」と考えられてきた事に対する、逆転の発想ですね。まず、そう信じる事でユングは多くの患者を救うという実績を上げてきている。
それで、その成果は、精神病で無い人の夢の話などの心理分析から、果ては世界各地にある神話による民族単位の精神分析(集団の無意識の話)に繋がってくる。世界各地にある神話やおとぎ話のある種の共通性は、人間の心の中にある一定の働きによって生まれているのではないか?その共通性を象徴的に顕しているのが、ある種のパターンをもって全人類的に登場してくるキャラクター=元型ではないか?という。…この話になってくると「物語」に対する流用性は俄然高まるんですね。実際に「元型」を調べて行くと、物語の登場人物のこのパターンは正に“これ”だろうという事が多々あります。

…ただ、同時に「面白さ」という観点からの話をすると、モロに「元型」そのものというよりは、ある程度、多少ズレていたり複合されたり変化したりする方が「面白さ」や新鮮さを感じたりするようなので、そこはちょっと気をつけないといけないかと思います。要するにモロにアニムスじゃない方が「面白い」のに、心理分析的にはアニムスに規定しようという力がはたらく、そこに目指す方向の背反があるという事です。同様に検証を進めて行く過程で、次第に何でも「元型」で説明したくなって強引な当て嵌めをしたり、あるいは無思慮に新たな元型を打ち出したくなってくるのですが、経験からいうとそういった志向になるのは慎重さが必要だと思っています。

ただまあ、そうは行っても様々な元型の中で、これは在るだろう!と思えるものをいくつか上げておきます。

・グレート・マザー … 母親・子供が保護を受けるイメージ(「物語」的には母・家庭・日常の場そのもの)

・老賢者 … 理性・知恵を授かるイメージ(「物語」的には○○仙人とか××師匠とか)

・アニマ … 男性の持つ女のイメージ(「物語」的にはヒロイン)

・アニムス … 女性の持つ男のイメージ(「物語」的にはヒーロー?)

・シャドウ … 自己の反存在・克服すべきもののイメージ(「物語」的にはライバル)

…この5つでしょうか。あと“英雄”の元型や“トリックスター”といった元型も“在り”っぽいように思うのですが、ちょっと置いておきます。また、アニマ(男性の持つ女のイメージ)についえちょっと補足すると、よりアニマに近いヒロインというのは、かなり純真無垢というか…無為に保護を受けるお姫様、あるいは聖女といった存在が当たるようです。しかし、近代の物語上の“ヒロイン”はこの範疇に収まりきるものではないでしょう。でも、同時に男性と絡む以上、なんらかの形でアニマに繋がるものを内包してもいると。

アニムスに到っては(「物語」的には)さらにややこしそうで、リストではヒーロー?とハテナマークを打って書きましたが、少年マンガの主人公や、神話にある怪物退治の英雄などが、アニムスか?というと“かなり”そうではないような気がします。(女の子の支持を受ける以上、それはアニムスじゃないかとも言えますが)あれは先に保留している“英雄”の元型(男側の心の投影)である面が大きいように感じます。ここらへんは、少女マンガに出てくるようなヒーロー…?…あれ何て言えばいいんでしょうね?ラバー(恋人)?……とか?(汗)まあ、そこを丹念に分析して行くしかないのでしょうね。
ただ、現状思う事は、よく少女マンガのラブコメの定型として語られる→「ちこく、ちこく~!」→男の子のぶつかってガサツな対応をされて頭に来る→男の子は転校生で当初反目し合う→男の子の優しい一面を見る→好きになる→ここらへんの“使い古された展開”(←重要!)は、そのまま“アニムスの役割”になっているんじゃないかと直観しています。心の変化をしていっているのは女の子の方なんですけどね。そこも重要。

また、アニマ、アニムス、シャドウといった存在は「物語」の主人公=自己に合わせて変化をして行き、最初、モロにアニマやシャドウに観えた存在が、物語が終わってみると一口にそうとは言えないような存在となっている事も多々あります。ここらへんは物語の「面白さ」でもあり、自己の心の成長(あるいは世界の在り様を捉える事)の物語の結果としてみても整合性はとれそうです。より、自己に近い存在だからそれらの元型も成長するという事ですね。同時に、自己から遠い存在と思われる、グレート・マザーや、老賢者は、あまり変化せず不変を保つ事が多いように思われます。…いや、「面白さ」としては変化するグレート・マザー、変化する老賢者はダイナミズムがあって「面白い」のですが、変化した所で「元型」とは違うものになってしまうのでしょう。

こっちの話もこんな所です。大体、方向的にはこんな感じで勉強を進めると同時に「物語」を読み解くのに使って行こうかと思います。いや、既に演出効果や表現の意味に“感じていた”部分が、すごく「言葉」に変換しやくすなっていっていて「愉しい」です。

連続人形活劇「新・三銃士」

2009年10月15日 | その他
【新・三銃士ホームページ】NHK教育 月~金18:00~18:20
http://www.nhk.or.jp/sanjushi/



10月の新番組(アニメ)の中でひっかかっていました。で、観た瞬間座り直してしまいました。制作はスーパー人形劇「ドラムカンナの冒険」(2002年制作)を作ったスタジオ・ノーヴァですね。
本格的な人形劇ドラマは「ドラムカンナ」以来になると思うんですが、相変らず凄い……!人形造形の陰影の出方があまりに美しく稲妻に撃たれました。(`・ω・´;) ところで脚本・脚色は三谷幸喜先生。

ここを訪れる人ってマンガやアニメが好きな人じゃないかと思うんで、是非こういうものも観てもらって何か感じるところがあればと思います。

ちなみに10/17(土)15:00から1~5話の再放送もやるそうです。


ユング!ユング!ユング!(1)

2009年10月14日 | 思考の遊び(準備)
【アーキタイプ】

ちょっと以前から(↓)この件とか、

【「惑星のさみだれ」についてあれこれ~ 】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/93e80e78030cd62d2657db933669e268

(↓)この件とかで思い立ちまして…

【「トラウマイスタ」ダヴィンチというトラウマ】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10415.html#590

…ユング関連の本をいくつかつまんで読んでいたのですが(簡易な本を読んでいたのですが、いずみのさんに言われて河合隼雄の本とか読んだりも)それについて一通り頭に溜まった事を書き出しておこうと思います。まあ、以前から言われている話なんですが、ここらへんのユングのタイプ分類や“元型”、あるいは集団の無意識についての考察は、いろいろと物語を「読んで」行ったり「面白さ」というものを識って行くのに使えそうなツールではあるんですよね~。まあこの場の事は、素人の読みかじりのおさらい程度の話ですが…。

しかし、今回読んでいて、やっぱり心理学って難しいなあ~というか、いきなり何ですがユングのここらへんの話は科学的(医学的?)にはちょっと胡散臭い気がしないでもない(汗)疑似科学的な批判はかなり避けづらそうだよなあ~とは思いました。反証可能性がないですしね。いや、無論だからこそ膨大な臨床データを元にその仮説の裏打ちを継続して行くんですが、それだって臨床医の知能や経験、人格に拠るところが大きく思えます。(※病Aがあって、対処Bを施し、病Aが治ったとして、本当に病Aと対処Bには因果関係があるのか?そもそも本当に病Aであったのか?そんなあたりから疑われる部分がある)
脳=心の仕組みってまだ充分に科学的な手を入れられてない領域の話なんで致し方ないのですが……たとえば、これから話す、“元型”の中に“グレートマザー”とか“老賢者”というキャラクターがいるんですが…自分は、そんな“老人”みたいなイメージ持ってるかな?とか思ったとして…それに対する答えが「老賢者は老人の姿とは限らない」とか言い出したら| ´_ゝ`)…そりゃ何とでも言えちゃうんじゃね?とは思っちゃうんですよね。(※老賢者とかは、ユングの持っているイメージを含む総体的なイメージと思えるモノをもって、対象に“名を与えただけ”で外観を規定するものではない……しかし、それにしても~それ故に~という事ですね)

…そういったところに、どこか“まじない師”っぽく思ってしまう所がある。というか古代の“まじない師”の本質的な目的が患者の心の平安を得るためにあるのだとしたら、まさに心の治療を目指すことにおいて精神医学と同じものと言えるかもしれません。いや、おそらくは根を同じくするであろうからこそ、ユングは宗教/神話を通ってオカルトにまで手を出して、本人の意図とは別に、さらに胡散臭さを補強していった面はあると思う。

しかし、それを圧してもユングの提示した基礎的な理論は「物語愉楽論」に利用できそうに思うんですよね。そもそも、まず、読んでいてすごく納得できるというか概ね合っているんじゃないかと思えるって事。それは直観…というか単純に自分の心に反復してみて充分に腑に落ちる話が展開されているって事ですが。あと、ぶっちゃけフロイトの話が後代で何らかの批判を受けて、ちょっとフルボッコ(…らしい)な事を考えると、ユングの方は少なくとも入門的に紹介されるような基礎的な部分は“大体合ってそうだよね?”って事でコンセンサスが得られているように思われます。細部はともかく大意において膨大な臨床に耐えてきた実績があると。

何よりユングの人の心に対する姿勢や哲学には非常に共感を受けた…って事もあります。(ここらへん、ほんとは自著を読まないと何とも言えないんだろうけど今回は読んでいない)ユングの言う“自己実現”というものは、おそらく「物語愉楽」の目的地を内包しているものだと思います。かなり近いものに思えました。

……いや、ここまで散々胡散臭い胡散臭い言ってきたのですが、はっきり言っておくと「物語愉楽論」の方がよっぽど胡散臭いですからねw?(`・ω・´)+…いや、何というか「愉楽する」って何だ?「面白い」って何だ?というような雲を掴むような話をしていると、胡散臭くならざるを得ないというかね(汗)以前に、この話をする“この場”が「言い張り可能な世界」であるという話はしたと思います。

【言い張り可能な世界】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

【ファクトの世界】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/f06f9d584f9cffd119b312a47c493ea0

まあ、心理学にしても、物語を愉楽する事にしても、“心の在り様の話”ってのは、どうしても「言い張り可能な世界」に足をつっこむ事になるように思います。まあ、そこらへんユングの話はもう少し、ある程度確定的に捕らえる事ができるかとも思ったんですが……どうもそこまではいかないように感じた(河合隼雄さんの文章からもある程度確信的に語りつつも慎重な姿勢が伺えたし、ここらへんはユング心理学を扱う人は分っているように思う)ので、ちょと取り扱う前に胡散臭いを連呼してしまった(すっごい失礼)ワケですが(汗)…しかし、同時に僕は(直観としては)非常に納得しているというか“大体合ってそうだな感”を持っているし、骨子の理論はそんな間違ったものではないと思えます。

精神医学の場合、患者を治すというはっきりした目的地があるし、患者がいる以上、慎重を期する必要があるんですが。「物語を愉楽する」という話は、そもそも「面白い」とは何か?という目的地もはっきりしない話ですし(汗)人命に関わるような事でもないので、使えそうな「言葉」は積極的に使って行こうとそういう話です。……つか、ここらへんもっと勉強を進めて行くつもりです。どう考えても「物語愉楽論」の目的に大きく関わっている気がします。



う~ん…なんか、前振りだけですっかり時間がかかってしまったんですが…(汗)次回でとりあえず(↑)この図のようなものを引いたりしまして「物語を愉楽する」角度からの意識~無意識と「心的機能」について感じ考えた事、あと「元型」について感じ考えた事を書き留めておこうかと思います。

今週の一番付記「マギ」があまりに面白いので「すもももももも」を全巻買ってしまった件

2009年10月11日 | マンガ
【10月第1週:マギ 第17夜「旅立ちの日」◆】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10431.html#607

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/

「マギ」(作・大高忍)が本当に「面白い」です。「マギ」はアラビアンナイトの時代を模した(?)世界で、ユーラシアの大陸の各地に出現したダンジョンの謎に挑む冒険活劇!…のように見せて単純にそれだけではない物語が展開しているようです。いや、実はあんまり「楽しい」ものだから、大高忍先生の前作「すもももももも」(ヤングガンガン連載)を全巻買ってきてしまいました。それで「マギ」は作者のテーマから観て「すももも」の“続き”という言い方もできそうですが、そう単純に言ってしまっていいのか迷う所もあります。

「すももも」ってどんな話かというと、自分を好きだ(結婚したい!)と言ってくれる女の子がいて、その子が信じて信じて…徹底的に信じ抜いて愛し抜かれて、ようやく腰を上げる少年の話…まあ、要するに徹頭徹尾ヘタレくんの話なんですよね。(小さな一歩を踏み出す…という話でよければ連載数話で結論が出ている)一方、「マギ」は偶然知り合った不思議な少年アラジンと冒険を共にしたアリババが、うだつが上がらず下向きの人生を歩んでいる自分に対して「君は勇気ある人だ。僕は君の事が大好きだ」と言ってもらった。その時の感動を胸に、別れ際にしたアラジンとの約束を果たすため、アリババは王の道を歩み始めるという物語になっている…と思います。(まだ全貌が分らない)



僕、あの時からね…
僕は、あの時からきみのことが大好きになったんだ!

きみがたとえどんな理由で、自分に自信をなくしていたとしても、
大丈夫だよ。
きみは卑怯者なんかじゃないよ。
勇気ある人だよ。

絶対に。


読んでみると分ると思いますが、アリババは素質のない人間ではないのですが“王を決める裁定”としてはアラジンのこの評価は多少…いや相当甘いと思いますwでも、おそらくその事を一番よく分っているのはアリババなんですよね。彼は「いつかダンジョンを攻略する!」なんて事を言いながら、アラジンに会わなければいつまでもダンジョンに入らなかったかもしれない自分を知っている。だから「君は絶対に勇気がある人だ」と言ってくれるアラジンに対して涙を溜める。…そして“アラジンの大好きなアリババ”を演じ抜くために、手に入れた財宝を全て他人のために使って、自分はもしかしたら二度と会えないかもしれないアラジンとの約束を果たすために旅立つんですよね。

それこそ10巻以上かけてようやく決意を固める「すももも」の主人公・孝士くんに対して、アリババは正に一会の邂逅で自分の人生の全てを決めている。それは決意するまでを描いた「すももも」に対して、決意したその先を描く「マギ」という図が観えてくる。これをそのまま当て嵌めれば“続き”だよね?という言い方はできそうなんですが…。しかし、一つの冒険、一つの約束という凝縮された時間の中でその決意をするという行為は、キャラクターたちにまるで違った情景を与えているんですよね。実際、もも子=アラジン、孝士=アリババとして構造を「読もう」としたんですけど、どうもしっくり来ない…というか合わない。……え?なら最初から、ジャンルの違う話を続編とか言うなって?いや、そうなんだけどね…でもねえ。やっぱり、ここらへん誰かに信じてもらった(愛してももらった)事に殉じる…ってのは大高先生の根の部分だと思うのよ。だから、やっぱり「すももも」は決意するまでの話で、「マギ」は決意してからの話だと思うんです。

しかし、こう書いて行くと「すももも」が微妙に劣った作品のように受け取る人もいるんじゃないかと思いますが……そんな事は全然ありません。むしろ後半の筆のノリ方は凄かったです。何かが“降りている”観さえありました。「すももも」自体は以前、アニメ化(この作品もかなりの良作だった!)された時に読んだんですが、その時はまだ終了していなくって、フツーというか……ヘボいというか……何だか“けっこう仮面”寸前みたいなのが出てくる、ええ加減なエロコメ(?)に観えたんですけどねえ…。(※ええ加減だからと言って「詰らない」作品というワケではない)
最初は「このキャラはエロ担当!」と言うか「このキャラはギャグ担当!」とか「こっちは嫌味なやられ役!」とか、かなり単純な取り決めだけでキャラを置いて、だからあまり「造り込み」が感じられないキャラが大半だったのですが、連載が続くにつれ、それらのキャラは一体何を思ってそこに存在るのか?という事を次第に掘り進めて行った(そうせざるを得なかった)ように思えます。それがそのまま筆の勢いに乗っていった感じですね。
結果として大高先生は、非常に分りやすいキャラを置きつつ、同時に必要なキャラには奥行きを感じさせるネームを引く人になっていて、その「すももも」で得た成果が「マギ」では最初から全開で出ている。しかも、まだ物語が詰って来ていない為もあって、筆のノリは十分すぎる程、伸びしろを残している状態なんですよね。ちょっとドキドキせずにはいられないです。





あのね~半蔵クン…ワタシね…
ホントは今もキミのこと……全然、信用してないの。

だって人ってニコニコしてても本当に考えている事なんか
他人には分らないものじゃない?

絶対に


「すももも」の中で僕が気に入ったキャラクターは、虎金井(こがねい)天々姐さんと猿藤(えんどう)優介くんというキャラです。いや、上述したようにほとんど全てのキャラが良いキャラに育った作品なんですけどね。でも、特に天々姐さんはよかったです。彼女は「悪役」で他人を騙すことによって喜びと希望を与えて、それで最後の最後に絶望に突き落とす事に悦びを感じている「悪役」なんですね。まあ「悪役」としてはよくいるキャラです。
しかし、同時にこの作品にはええ加減なマンガ独特の“優しい空気”が漂っているというか、(多少強引でも)実は皆いい人で収めるような力場を感じさせていて…実際、この天々姐さんにも半蔵くんという、自分の事を少しながらも分ってくれるキャラがいて、この人が救われて行くような線が観えてないワケではなかった。しかし、その半蔵くんに天々姐さんが言い放った言葉が上掲のセリフ(天々姐さんの画もいい。ここら辺の頃は筆のノリ方が凄かった)。この時点で「すももも」は天々姐さんが絶対に救われない人である事を描いてしまった。

さっきから言っている、ええ加減なマンガって、決して悪い意味で使ってないんですが。たとえば上手く行かないような所はギャグでまとめちゃってもいいから、こんな人でも救われるんだよって言ってあげてもよかったと思うんですけどね。それがええ加減な話の良さって所があって。(実際に、ラストはそう見えるような締め方をしている)…でも天々姐さんというキャラクターを突き詰めて考えて行くと、この人は自分の幸せを決して信じる事ができない人である…という結論に行き着いてしまう。何故なら、ずっとそうやって人を騙して幸せを踏みにじる“遊び”をやって来たから…。だから自分が幸せそうに見えても、それは幸せなフリをしているだけ、という問いかけから逃れられなくなってしまった。それを全部分っている事としたのが「他人は絶対に分らない」と言い放ったあの画とセリフなんですよね。キャラを完うさせる名シーンだと思っています。

いま、一人の猿藤くんも、二面性を抱えた動作自体は天々姐さんに近い、人を落とし入れるために現われたキャラなんですが、まあ、こっちは登場と同時に“改心”の可能性が既に観えていたキャラではあるんですけどねw気がつくとこちらは、主人公の孝士との対比が利いた、完全に「シャドウ」なキャラに育っていました。孝士は武術家になるのをずっと嫌がって逃げて来た(ヘタレヘタレ言うてましたが、彼の武術家ではなくって検事になるという努力がニセモノだったとは思わないんですけどね)。…じゃあ、嫌でも親の言いなりで武術家としての道を進んでいればそれで幸せだったか……という問いにおいてですね。逆に言うと「すももも」は猿藤の本格登場まで、ず~っと「シャドウ」(ライバル)が出てなくって、それ故ヘタレ期間を長く保った連載でもあるんですけどね。



何言ってんだよ
口先と陰謀しか能がないうちの一族が
政界から完全に干されたら失業しちゃうよ


そして、この猿藤くんが、その呪縛から逃れるために呪縛の元=親(一族)を捨てるという選択をしなかった所が好きですね。確かに自分は縛られていたんだけど…なぜ縛られていたかというと、やはり(悪い一族であっても)家族は大切なものであり、彼らの笑顔が見たいからこそ自分は頑張って来ていたんだという根に立返るからなんですね。欺瞞や陰謀まみれであまりに辛い世界ではあったんだけどwまあ、僕がフリーダム至上主義な考えはあんまし好かないみたいなせいもありますが(汗)そのキャラクターとしての結論の置き所にはすごく納得しています。

天々姐さんも猿藤くんも、当初はそんなキャラの練り込みを感じさせるわけでもない、ええ加減なキャラに思えたんですが、そのキャラを突き詰めて行った時に置いた「着地点」はええ加減なものになっていない(別にええ加減でもいいのに!)そこらへんが「すももも」を改めて読み返した時の収穫でした。
そして「マギ」は、まだ彼らに匹敵するようなキャラは持ち込まれていないんですよね!(猿藤くんの暗さと明るさは少しアリババを想起させない事もないですけどね)…いや、作品にフィットさせた珍奇な設定や、外装のキャラなら別の作品に持ち込めるとは限らないし、また再びそういったアイデアが出るかどうかも分らない。でも、天々姐さんや、猿藤くんで練り込まれていったのは内面であって、練り込まれたキャラの内面というのは作品を越えて持ち込めるもののはずなんです。それがまだ出ていない…なのにこんなに面白い。いや、何が言いたいかと言うと…

まだ「マギ」は、キャラも筆のノリも、その真価を見せていない。

…はずだ!って事です。でも、世界観や設定は「すももも」の頃からは比べるべくもない程の奥行きを既に感じさせてくれているwものすご~~っく、期待している連載です。期待が外れるのもまた一興ではあるんですが…wどこまで行ってくれるのか「楽しみ」です。

「東京マグニチュード8.0」…ああ、こんな話だったんだ…。

2009年10月07日 | アニメ


ちょっとさっきまで「東京マグニチュード8.0」を観ていたんですが…よかったです。僕が観た「ノイタミナ」(フジテレビの深夜アニメ枠)の中では一番よかったかもしれません。…と言いつつ、どうも僕はこの話の肝になる一話をどうも録り逃したらしいのですが…orz

「東京マグニチュード8.0」はタイトル通り東京に直下型の大地震が起こる話ですね。その時、姉弟だけでお台場に来ていた未来(姉)と悠貴(弟)の二人が、その場で知り合ったマリという女の人と行動を共にしてインフラの崩壊した東京を歩いて家に帰るという物語。
いや、最初の1~2話くらい観て、ふ~ん…って感じで、しばらくスルーしていて、偶然最終回が目に止まって観ていたら…「え?そんな話だったの?」と座り直して、それでさっき最初から通して観ていたワケなんですよね。少し意外な…あるいは突拍子もない展開にも思ったんですが、やっぱりこれは良かったと思います。テーマとしても美しい。

ちょっとネタバレは避けたく思ってしまった作品なんで、今は細かく書きませんが、あらためて「漫研」の「電視の部屋」などに感想を書きたいかな…と思ってもいます。まあ、とりあえず走り書きまで。

今週の一番付記「ギャンブルフィッシュ」とにかく1話1話のインパクトで押している連載

2009年10月05日 | マンガ
【9月第4週:ギャンブルフィッシュ Fight129:カイザー再び】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10430.html#606

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「ギャンブル・フィッシュ」がもの凄く調子いいです。今のこの最強ギャンブラートーナメントが物語の終章になると思うのですが、それに相応しい、これまで以上に盛り上がる戦いになっています。「ギャンブル・フィッシュ」は、獅子堂学園に転校してきた白鷺トムが、行方不明の父親の居場所を探すために様々なギャンブル・ゲームに勝ち上がって行く物語。今はラスベガスで世界中のギャンブラーを集めたトーナメント戦が行われていて、トムと、トムの宿敵である確率を超える悪魔・アビ谷もこれに参加しています。

【今週の一番付記:「ギャンブルフィッシュ」囚人のジレンマ~「王」の話?】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ad2385798c0c22b51f5cd69b80db3c23

ちょっと前にも、このトーナメントの楽しさを書き留めたのですが、これの前の戦いである美女ギャンブラー同士の対決“エクスタシー・フィッシュ戦”も、トムとミスターXの戦いである“ドラゴン・ルーレット戦”もかなり楽しいものでした。そして4戦目の今はトムの宿敵アビ谷と、現アメリカ大統領のキング・オマハ(勿論、オバマ氏の事だ!)の対戦となっています。この戦いも試合前から負けた方が命を落とすだの、アビ谷が勝ったらラッシュモア山にアビ谷の像も彫るという賭けを大統領が受けるとか、ほんとうにそんな事になってしまっていいのか?!とかなり緊張感を煽る展開になっています。

さらに、当初は主人公のトムにくっついてあたふたするだけの、オミソな“メガネくん”だったキノコ(水原)くんが、実はインターネット・脱衣ポーカーの帝王と言われた“カイザー水原”であり、このキノコくんが、この大一番の勝負で、裸のお嬢様に張付けられたトランプカードを1枚1枚はがして配るというディーラーの役目を負って舞台に上がるという…そして、嬉々としてカードをはがして配っているという…書いていてワケ分らなくなって来ますがw正にそういうワケの分らない、カツ丼とトンコツラーメンを一緒に食べるが如きの、脂っ濃~~い!!状況です。



父親の失踪の秘密に辿り着くまで、とにかく勝って勝って勝ちまくるだけの単純なストーリーなんですが、毎回趣向を凝らした勝負と濃いメンツのキャラクターたちが、このマンガの魅力ですね。特にラスボスにまで育ったであろうアビ谷の存在は大きい。多分、このキャラ当初は中ボスくらいで、それほど大きな存在ではなかったと思うんですよね。しかし、いきなり「アビィイイイ!!」という奇声を発してリングに舞い降りたり、何の脈絡もなく黒馬に乗って登場したり、このキャラを大きく扱い、画面狭しとやりたい放題暴れ回らせる事にしてから、元から低くなかったテンションがぐんぐんと天井知らずに上がって行きました。また、主人公のトムも、なかなかアビ谷に引けをとらない変人でw命に関わる勝負をいくつもこなしながら、かなり無為無策のギリギリくんでもあり、むしろその状況を「エクストリーム!」と言って楽しんでいる変態wあたかもアビ谷とどっちがより変態か勝負を競っているかのようです。

僕は元々、原作の青山広美先生のファンで、この人が近代麻雀で描いていた「トーキョーゲーム」や「ハード」といった作品は大傑作だと思っています。そしておそらくトムは、天才魔術師が不敗のイカサマ師に挑戦する「バード」の主人公を模したキャラで、それが良い意味で劣化したキャラ(←なにそれ)だと思うんですが……ここらへんは、またちょっと機会を改めましょう。
しかし、この「ギャンブルフィッシュ」は漫画の山根和俊先生の画を加える事によって、かなり違った味のあるマンガに育ってきたと思います。山根先生の描く…可愛いけど、どっか胡散臭い女性キャラとか、このカイザー水原なんかは、青山先生の元の画では、ちょっと出せなかった世界ですね。そこらへん良い感じにコラボレーションが出ていて、なかなかの傑作マンガとなってくれそうです。