今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。






「数学ガール」の下巻買ってきました。明けても暮れても数学の話ばかりしているミルカさんと“僕”、それからその“僕”に数学を教えてもらいに来る後輩のテトラちゃんの三角関係を描いたラブコメ…の後編。まあ何というかテトラちゃんTUEEEEEEEE!!!という感じでした。

【「数学ガール」上巻】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/3fd7368609762f17324e418ab22d3a4a

この二人は既に数学の世界を旅しているのですよね。テトラちゃんは、とても熱心な子だけれども、まだ、この世界を旅する一線を越えていない

僕は以前の記事でこんな事を書いていて、ここを超えるのは、まあ無理なんだろうという「読み」方をしていただけに、この強さはちょっと感動しました。一瞬、「…あれ?このマンガって実はラブコメじゃなかったんじゃ…?」と錯覚したぐらいなのです(`・ω・´)なんかね~もうね~「負け位置」にいる子が、ここまで来るだけすっげく、嬉しいのだよねえ~性分としてねえ…。



ところで以前、こんな本(「フェルマーの最終定理」著・サイモン・シン、訳・青木薫)を読んでいたのですが、とても面白かったです。おそらく世界最強の推理小説だとか思ったりします。「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」というドラマッチック過ぎるメッセージが添えられて、その“犯行現場”は示されており、その現場は誰もが隈無く検証可能で、書き漏らしなど有りようはずもなく、紙と鉛筆と頭脳があれば他には何の器械も設備も必要としない、誰にでも解くことができるはずのクイズ。
要するに、この本を読んでいる人も途中で本を読み進めるのを止めて閉じ、自分で犯人を当てるというか……犯行方法を明らかにするというか……とにかく証明する事は可能なはずなんです!……しかし、それが360年もの間、本当に誰にも解くことができなかったという不落の超絶難問!!後半、あんまし言っている意味分かんなくなるのですが、それが解かれてしまうという素晴らしさに、ただただ感動してしまいます。

「数学ガール」の原作の続編はこれをテーマにしているみたいですね。そっちも読んでみようかな?と思ったりもしています。


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「トラウマイスタ」4巻を買ってきました。トラウマをかかえた人間が、そのトラウマを克服する事によってアートマンと呼ばれる特殊能力をもった怪物を手に入れるという設定の世界で、アートマン・ゲルニカを手に入れた少年・ピカソの冒険の物語なんですが。…なんかちょっと本屋で探すのに手間取りました…あんまり出回っていない?どうなんでしょう?まあ、すぐに重版かかるんじゃないかと思っていますが…。でも平積みじゃなくって背表紙だと探す時読みにくくないですかね?梵字に似せたタイトルデザインが…(読んでいる)…………あ。



スジャータ「(ダヴィンチは)最強のアートマン7体を従えているから」

【「トラウマイスタ」ダヴィンチというトラウマ】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10415.html#590

(´・ω・`)“モナ・リザ”と“最後の晩餐”は元々一つのアートマンだったと考えた方が自然ではないでしょうか?

…………あ。









…………………いや、大丈夫だ!!(`・ω・´)外部の人間には、ダヴィンチが七色(←)のアートマンを操っている化物に見えただけなんだ!!スタンドと同じでそれぞれのアートマンの能力は基本秘密だろうし!!そーゆー噂がながれちゃたgsただけなんらる!!…よし!(←気を取り直したらしい)ま、それはそれとしてモナ・リザの可愛いらしさは異常(´・ω・`)




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【7月第3週:ぬらりひょんの孫 第六十六幕 今へと繋ぐ】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10420.html#596

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「黒子のバスケ」(作・藤巻忠俊)のライバルキャラ・緑間真太郎が良いキャラで、彼が本性を顕わす前回(28話)と今回(29話)がとても良かったです。「黒子のバスケ」は中学時代に無敵を誇り“キセキの世代”と呼ばれた5人の天才たちがそれぞれ別の高校へ進学した。そして彼らキセキの世代のチームメイトで“幻の6人目”と呼ばれたプレーヤー・黒子テツヤが誠凛高校に入り、そこから全国制覇を目指す…必然的に“キセキの世代”と対戦して行くことになるという物語ですね。
必殺技/魔球マンガと言う程ではないんだけど、リアル・スポーツマンガというワケでもない…丁度「アイシールド21」あたりの感覚のマンガだと思うんですが、僕から観ると正直、キャラも、ギミックも、インパクトが足りないというか……可・良・優の“可”ぐらいの連載に思っている状態だったんですが。(主人公の黒子は悪くないですね。伸びしろのあるキャラだとも思います)

…が、この緑間はいい…これだよ!って思う。…いや、何の事はないんですが(汗)緑間は「コートのどこからでも必中の3Pシュートを打てる」事が宣言されただけなんですけどねwでも、僕は「ギミック」ってこうだよね、分かりやすさってこうだよねって思うんですよね。だって聞いただけで勝てそうもない“能力”なんだもんwww分かりやすいからそれが皆に伝わる。28話で披露されたその「ワード」に対して、29話がその支配を受けるんですけど、緑間徹底マークという対抗手段に対して“何か知らんけど緑間の方が上手”という表現だけで絶望寸前の緊迫感を与えるネームになっています。皮肉な事に、他のキャラのインパクトが低かった分、緑間のギミックのエッジが強烈に利く形になっているんですよね。こうなると緑間の「~なのだ」口調や占い狂なキャラも、全部「キャラ勝ち」についてくる。

…以前に先輩キャラの紹介で“二重人格”とか“駄洒落を言う”とか出していて………そうじゃないと。そんな“小さなキャラ立て”に1コマ割くんじゃないって思ってしまう……逆に緑間を1話分使って描くのは全然ありなんですよね。実際に「活きたギミック」は、誠凛メンバー達の「心が…折られる…!!」までの流れを支配して「納得力」を引き出しています。
たとえば逆に以前、先輩キャラたちを“1グループ”としてまとめて扱って、誉めている回があると思うんですが、それでいいんですよね。チーム5人いたら5人とも“尖ったキャラ”じゃないといけない……なんて話は都市伝説で(←?)、むしろ火神と黒子をしっかり支えられるキャラが設計されるべきでしょう。(そこを駄洒落とかどうでもいい埋め方をするからイラッとくる)ハアハア三兄弟は、最初は“三兄弟”でいいんですwその上で“真打ち”がしっかり「キャラ立て」されれば、その差がエッジになってくると思う。

…まあ、この緑間、かなりジンクスを重んじるナーバスなキャラとして描かれているので、ちょっとした事でフィーリングが崩れて、そこが突破口になるかな?という展開イメージもあるんですけどね。今は、その辺の抜かりの無さよりも、まず「勝てそうもない技」を打ち出して来た事を取り上げたいです。収集がつけられるかとか、次の敵をどうするかとか、そんな事おかまいなしに、まずやる!そして明日のことは明日考える!!(`・ω・´)それがジャンプイズムってもんじゃないか?って思ったりもします。…いや、明日の事を考えちゃいけないってワケじゃないんですけどね(汗)


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月刊少年サンデーこと「ゲッサン」が創刊されてからこっち、何故か続きを買い続けています。…最初は「ん~『あずまんが』でも読んでみるか?」という感じだったのですが(汗)ちょっと気になる連載があって、その続きを読むために買ってしまっているんですね。(…いや、買っちゃ悪いってワケじゃないんですけど、僕も今は、少年四誌押えるので正直手一杯なんよ?(´・ω・`)それを圧して…という意味ですね)いろいろ面白い作品が載っているのですが、とりあえずお気に入りを2本上げます。
一つは「信長協奏曲」(作・石井あゆみ)現代の高校生が戦国時代にタイムスリップして、若年の織田信長とすり替わってしまう物語。…まあ、この主人公、えらく器の大きな奴で、なんとはなしに信長として暮らしてしまうという…w冒頭の日本史の授業で主人公が“本能寺の変”の首謀者を答えられない所がミソなんですが…。元々、織田信長って天才過ぎて……というか先見性と感覚が時代とずれ過ぎていて、僕は時々本当にタイムスリップしてきた人間じゃないかと思ってしまう事があるんですが(汗)…“うつけ”と陰口叩かれた時代からのそこらへんのゆるいハマり方が楽しくって読んでしまいます。あと濃姫が可愛いです(`・ω・´)



それと、もう一本。…というかこっちが本題なんですが、「マコトの王者」(作・福井あしび)ですね。僕はちょっとこれの続きが気になって思わず買ってしまうというw
“転校生もの”…って言うのかな?(あるいはF先生の「未来ドロボウ」?)二人のプロボクサーがいて、その心が入れ替わる事によって勝っていたはずの者が敗者となり、負けていたはずの者が勝者となって物語が始まるんですよね。一人は超エリートの家庭に生まれながらボクシングに打ち込みアマチュア時代から現役まで無敗を誇る王者・天童誠。もう一人は親と死別し極貧の生活からボクシングでKOの山を築き上げて這い上がって来た挑戦者・大地真。このタイトル戦の後に天童誠の身体は敗れて元王者となり、大地真の身体は勝って真王者となります。その時に分かるんですが、無敗を誇ったこの元王者は、既に身体がボロボロで満足にボクシングできる身体じゃなかったんですよね。おそらく天童誠の肉体はボクシングに向いておらず、彼はその精神力と頭脳で“無敗”を続けてきたんでしょう。

色分けして語ると、天童誠は精神力に天賦がある王者であり、逆に大地真は肉体に天賦がある王者として描かれています。この二人の人格が入れ替わるとどうなるかというと……片方は肉体も精神力も完全となった無敵の王者、片方は肉体は既にボロボロで精神力も未熟なままの元王者となるワケです。ボロボロの身体にも関わらず“無敗”の実績を続けてきた男が、天賦の肉体を手に入れて、おそらくさらに無敗記録を延ばす完全無欠の王者となったその男に、この満身創痍の挑戦者は果たして勝てるのか?というのが説明として“分かりやすいアングル”なんですが……何というか物語がはじまった時点で、既にそう単純に言い尽くせない所がある物語なんですよねえ。

今、大地真の方の心を分かりやすく説明するために“未熟”と言いましたが~実際に、試合の描写で震えていたりして精神がまだ未完成な所は見せているのですが~その“闘志”は本物で、ボロボロの肉体を押しつけられたにも関わらず、なお、王者となる事を諦めていない、胸を好くような気持ち良さがあって、それは“王者の資質”として充分だと思うんですよね。同時に貧乏な境遇の恨みからか金持ち/エリートの家系に生まれた天童誠を故無く貶めていた自分に打ちのめされて行きます。(本当に勝たなくてはならない相手だと心に刻まれて行くって事ですね)また、天童誠は、親が無い中で三人の姉妹を養って行かなくてはならないという境遇を与えられる事によって、今までやってきた自分の勝手な戦い、自分一人の戦いから、何かを背負って戦う道を歩み始めるんですよね。……これで最強の王者にならなかったらウソ!って感じで今からワクワクします!!



何より自分の肉体がもう一度、王者への道を目指してくれる嬉しさ…って言うんですかね?大地真が「オレはこのボロボロの身体でケガひとつないオマエを倒す!」って天童誠に挑戦して来た時、一瞬の間の後、天童誠は大笑いして「いいだろう。天童誠名義の資産は自由に使え」自分の環境の全てを大地真に渡して、自分は王者・真を演じるべく帰って行くんですが、このシーンとても好きでして…。たとえボロボロでも…いやボロボロだからこそ自分が“勝たせたかった”その肉体が再び立ち上がってくれる嬉しさと、そのボロボロの自分の肉体を押しつけられて尚、王者を目指してくる男がいる事の嬉しさの、ないまぜの感動って言うんでしょうか?ちょっと現実では味わえない感情ですよねw
上で、天童誠は精神力に天賦、大地真は肉体に天賦……という言い方をしましたが、両者とも天賦に留まらぬ努力の中で王者を目指す者として描かれている事は勿論で………その両者が一体どれ程の、どんな“強さ”を身につけて再戦するのか……ちょと目が離せなくなっています。


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【7月第1週:フープメン 最終話 成長】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10418.html#594

【7月第2週:冥王神話 第140話 貫く忠義】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10419.html#595

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



ちょっとここらへん(7月第2週の方)で話題に上げている「太陽を盗んだ男」について紹介したいと思います。「ヱヴァンゲリヲン劇場版:破」の朝の通学のシーンでBGMが流用されていたんですよね。(他にも使われている所あるのかな?ちょっと分からないですが…)その流用にどういう意味があるのか?というのは、なかなか解釈が難しそうです。「太陽を盗んだ男」という物語のテーマ自体は非常に破滅的なものなんですが、使われているBGMのタイトル「YAMASHITA」は菅原文太演じる刑事の役名で、その破滅的な主人公の“対”に当たる存在です。う~ん……単純に日常のディティール的に音楽が使われたようにも観えます…(考)

ま、とまれ「太陽を盗んだ男」(1979年制作)です。僕はこの映画メチャメチャ好きなんですよ!!以前、このブログで「敦煌」の話をした時、邦画の中で1、2を争って好きという話をしましたが……(↓)

【「シュトヘル」1巻】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8c8b615488710df22d6d139e41335768

…その1、2を争うのがこの映画ですね!(ぐっ)この作品と…あと「キタキツネ物語」が僕の邦画ベスト3なんですよ!…でも、そこらへんの話に脱線するのは置いておくとして…(汗)

沢田研二演じる中学の理科教師が、原子力発電所から、プルトニウムを強奪して自宅の台所で“原爆”を作る物語。原爆を手にした理科教師が、警視庁(国家)に連絡をとって強迫した最初の要求は「プロ野球中継を最後まで放送しろ(途中で終わるな)」だった。その次の要求は「ローリング・ストーンズの日本公演」…とてつもなく下らないというか…庶民的な願望を満たすレベルの要求が出されて行きます。これ劇中の冒頭で理科教師が巻き込まれる元日本兵(と思う)によるバスジャック犯の要求「天皇陛下に会わせてくれ」と対比されているんですけどね……国家を相手にできる無敵の力を手に入れた男の望むものとは……結局、何も無かったんですよね。あるいは無敵の力そのものが欲しかったのであって、そこから先は何もなかった……と言う事でもありますが。



でもねえ……その無敵の力を手に入れるために、理科教師はその身を蝕まれて行くんですよね。…ガイガー・カウンターが振り切れる不気味な音がする中で作業をするシーンが、すっげえ恐ろしいのですが。(想像の放射能で何だか身体が痛くなるw)飼っていた猫は錬成した金属プロトニウムによって死んでしまう…。気がつくと歯茎から血が出ている…。自分の髪の毛は次第に抜け落ちて行く…。当然、もう助からないし、長くも無い。そこまで……そこまでしたのに、彼には、刹那的な快楽以外に叶えたい望みなんかなかったんですよね。

「虚無の物語」の金字塔的作品ですね。また、そういうドラマの部分以外にも、アクション大作としても素晴らしく、特に菅原文太演じる山下警部が、ほとんどターミネータばりの不死身っぷりを発揮して理科教師を追い詰める後半のアクションは圧巻!!日本映画史に残る大傑作なんで、未見の方は是非一度観ておいて下さい。


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【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

(↑)これの続きです。

■二つの神話の再臨

さて、そろそろ「終末論/終末神話」の終焉について語りたいと思います。…まあ、と言っても90年代はマンガ、アニメの物語的には(終末的な影響が観えつつも)基本的に暗い話、バッドエンド的な物語は鳴りをひそめていて、どちらかというと明るい…先に挙げた「萌え快楽追求主義」が大きく席巻していた印象があります。…“善と悪”との戦い的には1990年に「勇者シリーズ」がスタートし、また特撮で言うと「特警ウィンスペクター」という、これまでやりたくてもできなかったタイプのヒーローが登場したりして“勧善懲悪”ものの復権期のような様相を呈して来ていました。

じゃあ、この頃の人々の気持ちも上向きに上がっていたかと言うと……必ずしもそうでなかった事は地下鉄サリン事件(1995年3月20日)の発生や、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年制作)の大ヒットで、見て取れるワケです。…ワケですとか言って、この二つを並べてみるのもどうかとは思うんですが(汗)まあ、ともかく、表面上は明るく楽しく己の快楽を追求しているように観えて、心の奥底では非常に空虚なものを感じていた……というのがこの頃の世相のようです。(←あんまりよく分かっていないようだ)それは潜在的には「終末論/終末神話」が支配的だった…という事だと思います。あとは……やはり「価値相対主義」から「快楽追求」に流れられない、シフトできない者の……“虚無”でしょうかね。ただ、まあ90年代も後半に入ると「1999年の滅びの予言」は当たらないんじゃない?という雰囲気が支配的になっていったようにも思いますね。

こういった中で「ウルトラマティガ」(1996年制作)が実に16年ぶりの「ウルトラマン」として復活します。このシリーズはかなりのヒットとなりましたが、まあ、僕の感覚としては当時の世相の何かを掴んだ作品……という感じはなく、単純に出来の良さがヒットに繋がった作品だと思っています。しかし、この三作目「ウルトラマンガイア」が1999年に終わり、その直後2000年に今度は「仮面ライダー」の復活として「仮面ライダークウガ」が始まるのですが、僕は、この時期に日本を代表するヒーローである「ウルトラマン」と「仮面ライダー」が連続して再臨した事、そして「ウルトラマン」が1999年に戦った“悪”と、「仮面ライダー」が2000年に戦った“悪”は、“善と悪”との戦いの物語の変換点としてそれを象徴する出来事だったと考えているんですよね。



【2009-06-18:ウルトラマンガイア】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/b576dc4e5748da59ddd290bbf4112c3f

「ウルトラマンガイア」についての解説は少し前にここでしていますね。1999年に終わるこの物語の最後に出てきた“悪役”はやはり“天使”なんですよね。(画像→)素晴らしい…w見るだけでこいつは“正しい!”と分かるこの美しさ…wもうね、やっぱりね、最大の悪っていうのは自分が滅びるのが正しいと信じてしまう事なんだよなあ…って思うwしかし、こんなにカッコいい悪を目の前にしたら思わず信じそうになっちゃうよねwそれこそが天使なんだw………まあそうは言っても、この天使、最終的に醜い怪獣になって倒されてしまうんですけどね(汗)以前は、それが気に入らなかった。先ほど、天使を倒してはいけないロジックの話をしていますが、それでも僕は「天使だろうと神だろうと人間を滅ぼそうとするものはぶったおせ!」という答えが一番強い答えに思えたからなんですけどね。

でも、よくよく考えるとこの物語は最初の2クールをかけガイアともう一人のウルトラマン・アグルの戦いを通して「地球が人類の存在を望んでいないなんて!そんな事は絶対にない!」という話をしているんですよね。それは後半で相手が宇宙になっても同じ事で「宇宙が人類の存在を望んでいないなんて有り得ない!!そんな与太話を信じるんじゃない!!」っという話になるワケです。その証拠…というワケではないですが、(天使を見た時に何も思わないはずもないんですが)そんな事おくびにも出さず、一心不乱に戦う大人たちがカッコいいの。最終回を見比べて欲しいですけど「ティガ」は子供のための番組になっていますけど「ガイア」は大きいお友達のための番組です(`・ω・´)…それは終末に際して「未来を子供に託そう…」などという猶予期間があった時期を過ぎていて、今、目の前にある破滅を打ち倒して“未来を作る”のは大人以外に誰がいるんだよ!?という熱い思いに満ちています……僕が大きいお友達だから、そう思うのかもしれませんがw



そして、終末を乗り越えた先に待っていたのが、こいつら(グロンギ)なんですよね。「仮面ライダークウガ」は謎の遺跡から復活したグロンギという謎の集団との戦いを描いた物語です。グロンギは、従来の怪人たちと違い、世界征服や、あるいは人類の抹殺など、なんら大義名分を持たず、ただ人殺しだけを行う集団です。…いや、正確にはどうもゲゲルという殺人ゲームを楽しんでいるみたいなのですが、グロンギたちの会話は放送時は全く訳される事がなくって、何をしゃべっているのかわからないんですよね。高い知能を持ちながらまるでコミュニケーションがとれない相手との戦いを「クウガ」は描いているわけです。
「仮面ライダー」という作品は基本構造は「サイボーグ009」とほぼ同じと言えるんですが、その最大の違いは怪奇色の有無であり、根源的な恐怖を描いているかどうかと言えます。「クウガ」は、その大元の「仮面ライダー」の基本に立返った作品とも言えるんですが……1999年に天使と戦って…その先に待っていた(残っていた?)のがこいつらだったという意味は大きいです。「ダークナイト」のジョーカーも基本的にはこいつらと同じ恐怖をもったキャラクターと言えます。

終末論というのは理屈や進歩を突き詰めて行くと何故か人間は滅びる事になってしまうという、言わば究極のロウ(法)との戦いだったんですよね。究極のロウ(法)との戦いだから“天使”が出てくるんですよねwそしてその天使を退けた先には、やっぱりというかロウ(法)がなくなった先には、原初的なカオス(混沌)、つまり“恐怖”が残っていたワケです。2000年になって“善と悪との戦い”は、その原初であろう“恐怖とそれに打ち勝つ戦い”となって始まったのです。その後「平成ライダーシリーズ」は様々な価値の再構成を狙ったシリーズとなって行くわけですが…それはまた別の機会の話ですね。


……ただ、ここでのシフトは、かなり儀式的な意味が大きいとも思うんですよね。先に言ったように90年代の後半には「もう滅びは無いのでは?」という空気は大勢を占めていたと思いますし、少なくとも「ウルトラマンガイア」は、それを子供向け番組(?)として声を表に出す……そういう確認のような意味を持った作品じゃないかと思えます。
そして物語の世界はもっともっと前倒しに「終末論/終末神話」との“決着”をつけていたんじゃないかと、僕はそう思ったりもします。最後に紹介する二本の作品はおそらく90年代を代表する作品であり、「終末論」との決着をつけ、そしてその顛末を予見していたように思えます。


■寄生獣(破滅の無い物語)



浦上「寄生生物なんざ必要ねえのさ!人間はもともと共食いするようにできてるんだよ。何千年もそうして来たんだ!それをいきなり止めようとするから50億にも60億にも増えちまう。このままじゃ地球がパンクしちまうぜ!」
浦上「答えろ!おれこそが正常な人間だよな!ただ本能に従っているだけのことだ!誰よりも正直なおれに向かって人間社会とやらは必死で知らん顔しやがる。せめて人間と寄生生物の中間の立場からたのむワ」
里美「泉くん!!警察…………………呼んできてよ。こんなヤツにつきあっている必要はない」

※読み直して、やっぱりウルっときてしまった。このシーンの言葉は「強い」。全ての“滅びの呪文”をなぎ払う言葉だと思う。

「寄生獣」(作・岩明均)は1990年~1995年2月号まで(今回は終わった時が重要)連載された作品です。突如降って湧いた種子が人間の身体に侵入して寄生生物にとって変られる。寄生生物たちは高い知能と、通常の人間には全く太刀打ちできない能力を持ち、人間社会に混じって人間を捕食しはじめる。偶然、寄生生物に脳を乗っ取られるのを逃れ、右腕に寄生生物“ミギー”を宿してしまった少年・泉新一対寄生生物の数奇な戦いの物語…ですね。まあ、これも間違いなく、時代を代表する名作だから、そんなぐだぐだ説明は要らないかと思いますがw

この作品の連載が始まって、数回まで読んだ人の中で……「デビルマン」を読んだ事がある人は、多分、10人中9人は「デビルマン」のような展開を想像したと思う。それくらい、寄生生物の設定は、ことカタストロフを起す事については、デーモン族と酷似していたんですよね。こんな人間同士を疑心暗鬼にさせる設定がベースの物語はやがて人間同士の殺し合いを生み……そして、とんでもない破局に到達するはずに違いない……と。僕はその時をドキドキ待ちかまえていましたw(汗)実際、学校内で寄生生物が暴れて多数の死者を出す展開が入り、着々とそのカウントダウンを進めているように観えた…。いや、他の皆だってそうだったでしょ?(´・ω・`)

でも、その時は来なかった。逆に、自衛隊の皆さんは、実に頼もしく、多少の犠牲を勘定に入れながら淡々と寄生生物を駆除する姿を見せてくれた。結局、後藤によって壊滅させられてしまうんだけど、しかし後藤という変異種がいなかったら、想定内の犠牲で駆除は完了した事を示しています。カタストロフが期待されたのに「結局、大した事は起きませんでした…」では、普通は読者は納得しないと思うんですよね。でも、無敵生物・後藤との決戦を描いて、ある程度のカタルシスを出しているとは言え、この物語は“破滅を描かない事”で、結果として返って名作としての格を上げている作品になっています。

実際に破滅を描く予定だったかどうかは別として、少なくとも岩明先生は“人類の警鐘”的にこの物語を始めた事は付記ではっきりしています。しかし、途中から“人類の警鐘”自体に疑問を感じるようになって、こういう話に持っていったようです。これまで述べたように「言ってみただけ」レベルの警鐘であれば数限りなくある状態で、いずれ、こうなる事は必然にさえ思えるのですが、その臨界点が、この時、この作品によって成されているのは、やはり何か時代の空気のようなものに作者が背中を押されたのかな…?とそうは思ってしまいますね。


■風の谷のナウシカ(救済の無い物語)



ナウシカ「私達の身体が人工で作り変えられていても私達の生命は私達のものだ!生命は生命の力で生きている!その朝(終末)が来るなら私達はその朝に向かって生きよう!私達は血を吐きつつ、くり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!」



※ちなみに巨神兵は“天使”ですよね。完全に。ナウシカの凄い所は、その“天使”を護衛にして、王者も賤者もまとめてつき従えて“墓所”にやって来る所なんですがw

「風の谷のナウシカ」(作・宮崎駿、マンガ版)の連載期間は1982年に連載開始で、ちょくちょく休載しつつ、1994年に終了していますね。(原稿の日付は1月28日と)“火の七日間”と言われる最終戦争から1000年後の世界。人々は腐海と呼ばれる汚染された森林と、そこに棲む虫の脅威にさらされながら細々と生きていた……ただし、戦争だけは止める事無く。その世界の小さな集落“風の谷”に住み、腐海や虫の美しさに惹かれる少女ナウシカは、一族の戦士として戦いにかり出されながらも、やがてこの世界の謎に迫って行く…という物語。……マンガ史に残る大大大名作で、このレベルに到達した作品は本当に数える程しかないでしょう。

終末戦争後の物語は「未来少年コナン」でも描いているのですが、はっきり言ってあの物語は、最初ッから「最終戦争だろうが何だろうが人間は逞しく生きて行くに決まっているだろう!」という話になっていると思うのですが、「風の谷のナウシカ」は、失業中に描き始めた……という事もあってか、それと比較するとかなり暗い世界からはじまっています。腐海に身体を蝕まれて、やがて死ぬなんて設定は、それまでの宮崎監督からは考えづらい暗さを持っています。……本来的には「終末論」なんてものは耳を貸すのも嫌だ!!って感じの人だと思うんですけど……しかし、先ほど言ったように失業中(まあ、企画が上手く通らない状態だった模様)で、気分が落ちていて、ちょっと、そっち側に流れちゃったのかな~?(あるいは、こういう時流がワンテンポ遅れる人)と想像してはいるんですけどね。

しかし、そういった過酷な設定は、返って宮崎駿という一代の天才から様々な「言葉」と「展開」を引き出す事に成功し、結果としてマンガ版「風の谷のナウシカ」は宮崎駿の最高傑作と言ってもいい作品になっているし、またナウシカというキャラクターは、宮崎キャラの中でも最上級に在るキャラクターだと思う。…何しろ、真の意味でヒーロー(英雄)突き抜けてメシア(救世主)に到達したと言えるキャラクターって、マンガ史の中でも…手塚治虫の「ブッダ」と……あと一人いるか?いないか?って所じゃないかと思うんですよね。

僕は時々、ある特別なキャラクターを「王」と呼ぶ事があります。これは中々説明が難しい概念なんですが……え~、時々、お酒を飲みながら、僕の与太話を聞いてくれている人には、この話は通じると思います。風の谷のナウシカ……この人が「王」です!たとえば土鬼神聖皇弟ミラルバ。彼は最初は慈悲深い明君でありながら二十年後にはいつまでも愚かなままの土民をやがて憎むようになった男。正に今回扱っている愚かな人間を糾弾する“悪役”であり、その正体は全身闇の塊……普通のヒーローものなら歯を食いしばって「うおおおおお!!」とか絶叫して立ち向かって何とか打ち倒せる程の“悪”を、彼女は憐れみ、そのまま救ってしまう程の王!!w王蟲と通じ、同時に巨神兵を従える程の王!!……なんちゅ~か、もう、ヒーロー・メーター振り切れてる人ですw

「悪の化身編」にある「太陽の王子ホルスの大冒険」が示した“正しい心”が勝つ事に理由が要らない世界。宮崎監督は、ずっとずっとその世界の住人であり、常にそういった善が圧倒的に強い世界を描き続けて来た。その世界の最強のキャラクターが“終末の世界”に降臨しているのがこの物語なんですよ。もう、彼女に救えないなら、最初からこの世界は救えるものではなかったのだろうと…そう言える程のキャラクターがナウシカなんです。
そして、ほとんど全ての読者がナウシカが世界を救う事を望んでいたはずです!アニメ「ナウシカ」を観た時、原作を知っている者は、皆、「これで終わりではない」と思ったはずです。ナウシカは風の谷という小さな集落を救うだけで終わるはずはないんだと。その“救済される日”を心待ちに、休載にもめげずに連載を待っていたんです!(`・ω・´)(←韻を踏んで上手いこと言ったつもりらしい)

しかし、その期待は裏切られた……という言い方を今はしましょう。大海嘯は止まらなかった。そしてこの世界の人間の滅びる予定に彼女は手を加える事はしなかった。…でもだからこそ「風の谷のナウシカ」は大名作である事を疑う人は何処にもいないんですよね。それはもう「終末」が来るとか来ないとか関係ないんだと。どっちにしろ生きるしかないし、生きてこそ全てが始まるんだと。(つまり、一周していますが、やっぱり「未来少年コナン」なんですけどね)僕らは正しく生きて、正しく死ぬ事以外にやる事は大してないし、それが終末の有無によって左右される事はないんだと。そういう物語として幕を下ろしているんですね。(※なんか、テーマを簡単な片付け方で書いている所があるんだけど、ちょっと長くなったので…。ナウシカという「王」の凄さと「神殺しの物語」としてのナウシカは、また日を改めて書きたいです)


この年代を代表する二つの作品が終了した後に、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)が起きていますね。………いや、別にこの事件の先になろうが後になろうが、作品の価値はいささかも変じる事はないんですが(汗)でも、今の話として“物語が新たな予言をする力”みたいなものを確認したくて書いています。オウム事件が起きた後に「終末は来ない」と言うのは誰でも(常識人なら)そう言うだろうというか、それを口にするのは大人の役目のような状況になっているというか……ある程度対応が決まってしまうんですよね(汗)

それ以前の段階で、既に強い人気を誇っていたこの二つの作品は、同じ“終末”を如何に描くか?という事を期待されながら、片や「終末など来ない」、片や「終末など関係ない」という、ある意味“肩すかし”な終わり方をしており、しかし、それゆえ素晴らしい作品に仕上がっているのですよね。そして石ノ森先生の「天使編」を始めとした、様々な作品が終末の戦い(究極の戦い)というものに、まともに挑もうとして筆を止めてしまう中で、それこそコロンブスの卵のような解法によって、両作品は「臨界突破」を果たしてしまっています。両作品の接点は、まあ、ほとんどないはずで、にも関わらず、ほぼ同じ時期に、ほぼ同じ解法を得ているというのは、やはり世相と物語に対する「終末論/終末神話」に決着する「臨界点」がここにあったのだろうと思います。

そこが「ノストラダムスの大予言」によって元々強く刻印された“1999年”じゃなくって、もっとずっと前倒しに“予言”されてしまうのは「物語」というものの先見というか予見の「面白さ」だなあ…と思ったりもするんですよね。



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a


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【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
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続きです。前回記入する事は避けた事があります。「善悪逆転編」で臨界点的な位置付けとした「海のトリトン」(富野喜幸の世出)と「デビルマン」が登場した1972年。それに追う1973年に、もう一つ、その後の世の中に対して、ある重要な“悪”がセットされるんですね。五島勉の「ノストラダムスの大予言」シリーズの刊行がそれです。まあ、著書自体に善悪はないのは当然でしてw“予言”とは単なる“時限装置”なのですが、ここでは話の主旨から“悪”とカテゴライズしておきますw
…ノストラダムスの滅亡の予言については今さら解説する必要はないと思いますが、「1999年7の月に天より恐怖の大王が現われ」人類は滅亡する…というあれです。大ベストセラーとなったこの本も、先の「善悪逆転編」で述べたような「自分たちは“悪”かもしれない」と感じて行く世相の流れと、完全にリンクしたものだと思っています。ノストラダムスの予言自体は(破滅のそれ含めて)以前から日本にも伝えられていたようなのですが、この五島勉氏の著書がセンセーションとなったのは、氏の人々の不安を煽る書き口もその主因でしょうが、それよりも1973年のこの時期、という意味が大きい。

※これと同じ終末的な作品で、小松左京の「日本沈没」が大ヒットするのも1973年。執筆開始そのものは1964年という事と、メッセージそのものは終末への警鐘とは違った意味を持つ作品だと思うのですが、この時期に多くの人にウケた理由は、正に「大予言」と同じ要素のものであったと考えられます。

今となっては(予言がはずれた事もあり)、と学会の山本弘氏の指摘や、「MMR」がネタ本として消費されて行く流れに合わせて、すっかりネタ本として……それこそ最も槍玉に挙がるネタ本として扱われているんですが、当時はかなり夢中で読まれ、この本が1980年代以降の新興宗教(カルト)に人々が取り込まれて行く現象に少なからぬ影響を与えたと言う指摘はそんなに外れていないように思います。
それらの話を信じてしまった人たち、言わば“騙された人たち”を、無邪気だ、愚かだ、あるいは精神的に幼い…などと言って、“後の大人”が片付けるのは簡単ですが、僕はそんなに単純な話ではないと思っています。五島氏の文章が極めて誘導的である事に気が付いたとしても、1999年という予言が胡散臭かったとしても、当時……というか今もなんですが(汗)普通にこの世界を眺めていれば、普通にこの世界が破滅に向かっている事が感じられたはずなんですよね。

世界大戦を経験する事によって人間は国家総力戦というものと、核兵器という人類を滅亡させ得る事象を目の当たりにした。それまでは終末/人類の滅亡と言っても神か天使と言ったような超常現象……一度も見た事がないようなものを信じる必要があった。でも、核兵器は違います。特に日本では原爆の威力の恐ろしさは繰り返し繰り返しフィルムで流され、写真で展示され続けた。…そういった活動をする人は核兵器を廃絶するための活動であって、必ずしも人々の恐怖を煽る意図は無かったでしょう。でも、確実に多くの人々に恐怖を植え付けたんですよね。
別にこれは核兵器だけではなく、公害問題もそうで工業地帯の海からは奇形の魚が浮かび、川の色は変って死んだ魚が大量に流れてくる。森林は伐採され人間はもの凄い勢いで酸素工場を失って行く…。これら全て、人類が普遍的に邁進してきた“進歩”の果てに手に入れたものです。…進歩して行く事こそ正しい事だと思っていたのに、どうしてこんな事になってしまったのか?

…ここにすっと入り込んで来たものの一つは「価値相対主義」の思想。そしてもう一つは「どうしてこうなったのか?……それは僕らはもうすぐ滅ぶからだよ」という終末思想です。核兵器、公害、自然破壊……これらの事象をこれ程一本線で結べる考え方を、僕はちょっと思いつかないw時限的な予言が胡散臭かったとしても、今、人類が自らを滅ぼす懸案を数多く抱えているという事自体は、客観的に判じる事が可能な「ファクト」だったんですよね。…今だって、そんなに状況変ってないとは思うんですけどね(汗)まあ、のど元過ぎれば何とやらで“人類さん”としても「滅びるにしても、そうでないにしても、まったりやってくしかないよね~?」みたいな心境なんでしょうかね?w

いずれにせよ、この時から1999年まで、物語の世界では、この“悪の時限装置”が様々な面で影を落とす事になります。70年代後半~90年代のバトルは“これ”との戦いが、かなり大きな支流となっていたはずです。戦争根絶や環境破壊阻止をお題目とする(とりあえず言ってみたレベル含む)悪の組織は乱立し、「愚かな人類は滅ぶべき存在なのだ!!」という“悪役”の叫びは、繰り返し繰り返し消費され、パターン・陳腐・うんざり、と言われるレベルまで持って行かれるのもこの時期ですし、「マクロス」で異星文明の巨大戦艦(マクロス)が降ってくるのは1999年、「北斗の拳」で核戦争が起こるのは199X年です。こういう符合レベルならもう数限りなくあるでしょう。


■「サイボーグ009」の天使編は何故未完なのか?



「善悪逆転編」で、ヒーロー(正義の味方)が戦いの果てに善悪逆転に遭遇するという展開の先駆け的な作品として「サイボーグ009」を取り上げましたが………では、その先の戦いには何が待っているか?という問いに対する答えも、また「サイボーグ009」が先駆けています。まあ、小見出しで答えは分かっているでしょうから、先に結論を言いますが、それは「天使との戦い」なんですよね。

「サイボーグ009」の「天使編」は、「ヨミ編」の後、1967年~1969年に連載された中編の戦いの中の最後の一本なんですが、黒い幽霊の“別の細胞”とも言うべき“悪”との戦いの果てに、009たちの最後の敵として現われたのが“天使”なんですよね。彼らは009の加速装置を無効化し、人の心を読み取り、サイボーグ戦士たちが機械の身体である事を即座に看破し、自らを人類の造物主と名乗って、実験のやり直し…つまり人類の消去を口にします。圧倒的な能力差を目の当たりにして戦意を失いかけるサイボーグ戦士たちは、それでも人間を守るために命を賭してでも、この天使たちに“抵抗”する道を選ぶ………………とここまでで、実は「天使編」は中断となってしまい、最終章とされたこの物語は、やがて再開すると石ノ森先生は謳われながら、遂にその結末は、お墓にまで持って行かれてしまいます(涙)(2008年息子さんが小説を発表しはじめましたが…さて)そういう、いわくのある一編です。

実は僕は最初「天使編」には違和感を感じていた人間なんですよね(汗)(まあ、その前に未来人との戦いもあるのですけど…)元々僕は009は人間の“悪の心”とこそ戦っているのだと思っていたので、その戦いの相手は人間に限られるべきじゃないか?と思い込んでいた所があって。……それが、なんで宇宙人が“最後の敵”なんだよ?と、そう思っていました。しかし、黒い幽霊の「人間こそが悪」という指摘を、よくよく考えて行くと、成る程と。この天使との戦いが、実はかなり必然的なものであった事が分かって来るんですよね。
今の話題に合わせた言い方をすると、つまりですね。「善悪が逆転」する事はどういう事かというと、自分たち(と人間)が“悪”という事になる話ですよね。そして純粋なヒーロー(正義の味方)の話をすればする程、“悪”は必ず倒される話を積み上げてきているワケですよね。…であるならば、自分ら(と人間)が“悪”である事を否定できないなら、今度、倒されるのは自分ら(と人間)の番で、これは必ずそうならなければならない。何故なら、ず~っと悪が必ず倒される話をしてきたから…。この論法に無理はありますか?という話でね。…そして、じゃあ、自分ら(人間)を倒す、別の“正義の味方”とは一体何か?というと……それがつまり“神”か“天使”となるワケですw

つまり「善悪逆転」の文脈上、“究極の敵”とは何者か?というとそれは“天使”だ!という事です。

この話の大元の“究極の悪役”かどうかは分かりませんけどね。……でも“究極の悪”とは「自分らを滅ぼす、最も正当な理由をもった唯一の解決法の事」という考え方はあるかもしれません。天使ってのはそういう存在ですわね。……これ完全に「デビルマン」の設定なんですがw豪ちゃんみたいに“やり過ぎない”形で、石ノ森先生って009に、最後の敵、究極の敵を与えようとして、一息でここまで結論出しているんですねえ…すげえwすげえよ!w



※天使の光輪を見た007は零れ落ちる涙を止める事ができず、その場に跪いてしまうんですよね。…単なる“強敵”じゃない。“本当に畏しい者”がやって来た事を知らせる良いシーンです。

……しかし、戦いを決意した所でこの物語の先を描けなくなってしまったワケです。理由は二つあると思っています。一つは、そのまま戦うとサイボーグ戦士たちが全滅する物語になる、からじゃないですかね。「サイボーグ009」たちの戦いは基本的に“人知れず”行われています。平和な社会で流星を見て「世界が平和でありますように」と願う少女のような人々の目の届かない何処か、で今日も人知れず悪と戦っている…そういう連中なんですが、それからすると「天使編」はそのまま戦えば、自らの命とひきかえに天使たちを退け、そしてサイボーグ戦士たちの戦いを知る者は誰もいなくなる(っていうかこういうパターンでもギルモア博士はちゃっかり生き残るだろうけどw)………まず、そんな物語がイメージされます。ヒーローが命を賭ければ、おそらく奇跡は起きるんですけどw………でも、それってどうなの?っていう事だと思うんですよね。その可能性が下地にある「誰がために戦う物語」とは言え、9人もいながら1人の欠員も許さなかった石ノ森先生が、それ(全滅)をするのは、たとえイメージしたとしても筆が止まるだろうと…まあ、想像ですがw

もう一つの理由は、今回の話題とリンクします。つまり、ですね……。

本質的に言うと“天使”って勝っちゃったらダメな存在なんですよね。

勝ったらダメなんですよw勝ってしまったら、それは“天使”じゃなくって“何か凄く強かった悪者”(過去形が重要)って事になってしまうwここで“善と悪”の戦いをする者が倒すべきなのは天使ではなくって、自分ら(と人間)が“悪”だという指摘であって、力で天使をねじ伏せても、この問いかけから逃れた事にはならないんです。無論、「んなもん知ったことか!!善だろうと悪だろうと!俺たちは生き残るんだよ!!」と返したのが、たとえば「トップをねらえ!」だったり「グレンラガン」だったりするワケで、僕は、そういうのも大大大好き!なんですが……んでもそれだと「わ~、なんて利己的な考えなんだ~、じゃ“悪”確定という事で(棒読み)」っていうかねw屁理屈に聞こえますか?wでも、倒すなら「それは違う」事を証明してからじゃないと、勝ったことにはならない…という考え方は分かるかと思います。

まあ、これを解答するプロット自体は既に古典的に扱われていて「神様に許してもらう、猶予の時間をもらう」ってパターンがありますよね。“ごく希な反証を取り上げて”(良い人間もいる事を見せて)それを拡大解釈して、神様に許してもらう…という形が多くとられているようです。このレベルのプロットなら石ノ森先生は余裕で描けると思うですが……多分、「天使編」は“ごく希な反証”に留まらない、もっと大きな何かを提示してそして幕を閉じたかったんだと思います。人の心にこそ“悪”はあるのだ!とした物語の最後に、でも“善”もまた人の心にこそあるのだ…という物語を描こうとして筆が止まった………と僕は想像しているんですよね。

何が言いたいかと言うと、究極の善悪の戦いの先を描こうとすると筆が止まっちゃうかもね?って事です。まあ、無理矢理オチをつけるのを良しとすれば描けない事はない!でしょうけど。…これは「デビルマン」でさえそうです。人類の全滅は描けたけど、その後に降臨して来た神々の軍団との戦いは描けていない。本当の最終戦争は描いていない。…まあ、正確には、その後の「バイオレンス・ジャック」も、どういう話かと言うと、不動明と飛鳥了の二大ツンデレがウロボロスな乳繰り合いをしていました!!(`・ω・´)>みたいな話になっててw豪ちゃん(この時は)神々の話なんか描こうとも思っていないと思うけどw…でも、なんであれ先が描かれなかった点においても「天使編」と同じと言えます。
1999年のワードに引っかけて、終末戦争、最終戦争を描こうとした作品はいくつかあると思うんですが…人気を博して必然的に“究極の戦い”を期待されてしまった作品は筆が止まり、結局、1999年という“天の時”を失して2000年以降になって……それでも何とな~く、肩肘張らないオチをつけたものや、今でもボツボツと続けているもの…がありますよね。そんな感じ?w


■「リアルロボット」という時代の終焉



この話は「善悪逆転論」から派生した「終末論/終末神話」の顛末を語ろうとしているのですが、もう一つの派生である「価値相対主義論」の方にも少しだけ触れておきたいと思います。この流れは「イデオン」に到達した後、富野由悠季監督が、主軸に継承されていったと思っています。「イデオン」、「イデオン」ゆうてますが「機動戦士ガンダム」(1979年制作)の影響が大きいのは言うまでもありません。……しかし「ガンダム」は“悪”と“悪役”の角度から見て行くと、特異点的なんですよね。基本的に「善悪の逆転」があるワケではないし、人類に対してかなり希望のある終わり方をしている。……ちなみに僕は読んでいないんですが、富野監督自身が書いた小説版「ガンダム」ではアムロは戦死するそうですね。…富野文脈からすると、確かにそっちの方なんですよね…(考)

とまれ、この「ガンダム」/「イデオン」の流れはリアルロボット路線という一時代を築き上げます。…今となっては80年代という一時代のみを席巻した現象に過ぎませんが、それ故、80年代を象徴している路線と言っても差し支えないように思います。……リアルロボットは本当にリアルなのか?とか、ここで使われている“リアル”とは一体何を指していたのか?とか、いろいろ再検証が必要なジャンルではありますが、一言で特徴を言えば「それまでの単純な、世界制覇を目論む悪の組織が毎週1体ずつ“やられメカ”を出撃させてくる話ではなくなった」事が挙げられるでしょう。そして当時のファンの誉め方として“善悪混然一体”というか「どちらが善でどちらが悪とは一概に言えない作劇」が持てはやされました。……………う~ん(汗)どうしても文章長くなってしまう(汗)ま、とにかく、かなり「価値相対主義」的に作られていたって事です。(個々の作品に対しては再検証の必要がありますが)

しかし、この世界もやがて崩壊の時を迎えます。「機動戦士Zガンダム」(1985年制作)がそれなんですが……長くなるので、詳しく語るのは止めておきます。「リアルロボット路線とは何だったのか?」という話はまた別の機会にできるといいですね。ただ、今、「機動戦士Zガンダム」で崩壊と説いて、反発する人も少なくないと思いますが……でもねえ………僕は当時、監督が「次の作品はスーパーロボットにする!」とか言い出して、それを無邪気に「お!いいぞ!やれやれ!w」とか思っていたワケですが……冷静に眺めてみて、主人公が最終回に発狂するラストで、その次の番組でいきなり「アニメじゃない!アニメじゃない!」などとメタフィクションなシャウトを始めたら、少なくともトミーの頭の中では“大崩壊的な何か”が起こっていたんじゃないか?と考える方が妥当だと思うワケですよ(´・ω・`)

まあ、それはともかくとして、「Zガンダム」から「ガンダムZZ」(1986年制作)→「機甲戦記ドラグナー」(1987年制作)と行ってリアルロボット路線は一旦の終焉(実際には細々と続きますが…“時代”としては終わったと見てよいでしょう)を迎えるのですが、これに前後して、その後のアニメの展開に重要な作品がいくつか入ってきます。

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/33a86bb2d819bc206b38f2a2bbfb73c7

【ハーレムメーカってなに?(´・ω・`)アニメ編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/7ef745bfa4c40427dac927a46174bfe2

ここの「OVA時代の醸成」で取り上げている「プロジェクトA子」と「ガルフォース」の登場ですね。いずれも「Zガンダム」終了直後の1986年制作です。これからしばらくしてくると「萌え」という言葉が登場してきます。これ以前も「美少女萌え」的な文脈は存在していたのですが、ここらへんから「萌え」というものがはじめて、商品/テーマとして扱われるようになって来たと思います。また、もう一つの“路線”「聖闘士星矢」(1986年制作)、「鎧伝サムライトルーパー」(1988年制作)、「天空戦記シュラト」(1989年制作)の三連打があります。「美少年」の路線ですね。これも「キャプテン翼」なんかで、以前からあった文脈なんですが。この三連打ってのは、その後に与えた影響は大きかったと思います。僕はこれらの流れは「価値相対主義」から流れて来たものではないか?と観ていますが、今、その話を長々するのは止めておきます。ま、とにかく僕は「こう、つながるんじゃないか?」と思っているって事ですね。

この頃の「ガンダムシリーズ」という作品を、この時代の“善悪混然一体”=「価値相対主義」の象徴的な作品として観た場合、「最終回の無い物語」になっていたと思うんですよね。物理的に最終回が無いという意味ではなく最終回っぽくない…くらいの意味ですけどね。「1st」はともかくとして「Zガンダム」や「ガンダムZZ」が最終回としては、かなり不格好なものである事は観てもらえれば分かるかと思います。それは宇宙世紀という歴史に拠る性質とも言えるのですが…それを支えるそもそもの史観が「相対志向」であり、それを“闘うロボットもの”が志向した時、結果どうなったか?というと“分かりやすい悪”がいない…あるいは“悪”を生み出す人間の空気のようなものと戦うハメになっていて…「誰を倒せば話が終わるか分からないのに、何故か延々と戦っている物語」になってしまった…という面があると思います。

この為、「ガンダムシリーズ」の終止符を打つ!と銘打たれて「逆襲のシャア」(1988年制作)は制作されましたが、それはその言葉通り、「ガンダムシリーズ」の(カタルシスの有る)“最終回”をやるためのものだったと言るのではないでしょうか。何故なら、そこではアムロvsシャアという非常に分かりやすい対決に立返ると同時に、シャアは“分かりやすい悪”となって再登場しています。そしてシャアが採用した“悪”とは、衛星(アクシズ)落としによる人類粛正計画……正に、人類を悪とする“滅びの物語”なワケです。これらの構成は“善悪を判然とさせない物語”を、もう一度、“悪の物語”として説き直す事でダイナミックなドラマを再び手に入れようとしたように思われます。


…すっかり長くなってしまったので半分に割ります……orz(↓)こちらに続きます。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
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【安藤真裕監督作品「ストレンヂア」の結晶点(「CANAAN」放映記念)】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0092.html#540

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/

「CANAAN」放映記念という事で、安藤監督の「ストレンヂア」を紹介してみました。これの画像抜くためにディスクセットしたら、最初から全部観てしまった。そして、観たら、また幾つか新しい発見してしまったという…wつか、面白かった。「良くできた作品」だと思われ勝ちなんですけど、その評価は不充分で、これは名作だと僕は思っています。「CANAAN」も期待しています。



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【6月第4週:トリコ クルメ54 マンモス実食!!】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10417.html#593

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「境界のRINNE」が面白くて困っています(´・ω・`) 死神の血を受け継いで、貧乏ながらも彷徨える魂を“輪廻の輪”へと導く稼業を営む“六道りんね”と、それに関わってしまった“真宮桜”の物語です。
実は僕は高橋留美子先生の、前作「犬夜叉」があまり好きではなかったんですね。基本的に(少年ジャンプ的な?)熱血少年マンガ…というワケでもないでしょうけど、オーソドックスな少年マンガを目指した作品だと思うんですよね。特に必殺技“風の傷”なんかを身に付けるあたりから…。まあ、そもそも、最初に連載が始まった当初は「うしおととら」じゃん?ってつっこまれていた作品ですし…。それで、まあ、そこらへん上手く行ったかというと、う~ん、どうなんだろう?と。どうなんだろう?とか言って、アニメ化までした作品をどうなんだろう?もないですが…(汗)高橋先生に作風を“豆大福”にたとえるなら、それを果たして、コテコテの“テリヤキ・バーガー”に挟んで食べたら美味しいのだろうか?というか………いや、一応食えるけど微妙な配合だなあというか………。これねえ、逆に盛大に大コケしていたり、完全に“らしさ”を失っているワケでもないところが、どうもジクジクと未消化感を……や、ま、「犬夜叉」の話はこのくらいにしましょう(汗)

それが終わって、ほとんど間をおかずに始めた「境界のRINNE」ですが、これはもう完全に“高橋留美子節”で構成されていて、いきなりすごい安定感があります。むしろ、この全然、本来のフォームが崩れていないのを見て「犬夜叉」はやはり自分の作風に微調整を加えているように思ったのは、間違いなかったなあ……と思ったりしました。
…面白いです。幽霊の立ち振る舞いや、悪霊への変化の仕方…あらかたツボです。何が困ったって「犬夜叉」みたいに「……まあ、そんなに悪くはないんだけどね~……」みたいな、お茶を濁したビミョーな批評をする準備をしていたのに、あてが外れて困っています!(´・ω・`)(←)高橋先生、これ、一番の武器、いくらでも描けるフォームで勝負(連載)かけて来たという気合いを感じます。ルイさんが、ヒロインの桜のキャラについて、これまでの正ヒロインとちょっと違うキャラという指摘をしていますが、それもこれまで脇にいたようなキャラを持ってきた感じですよね。“挑戦”ではなく“手持ちの武器”という感じがします。
成仏できない霊を満足させるために、その霊の本気か冗談か分からぬ振舞いに振り回される……なんてネタ、これまでの作品の中で散々やられて来た話なんですけどね…。でも、面白いw飽きがこないwこの感覚って最早、藤子F先生レベルの貫禄すら感じさせるものです。


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【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

続きです。ます(↑)上の(1)から読んで下さい。


■デビルマン(永井豪の描いた「悪」)



デビルマン「俺は身体は悪魔になったが、人間の心は失わなかった!貴様らは人間の身体を持ちながら悪魔に!悪魔になったんだぞ!これが!これが!おれが身を捨てて守ろうとした人間の正体か!」

「デビルマン」(1972年連載開始)は「トリトン」や「イデオン」と比しても説明不要な作品かと思いますが……かつて地上を支配していたデーモン族が復活し、再び人類にとって代わって地上を制覇する事を目論む。そも秘密を知った不動明と親友の飛鳥了は、人間を守るためにデーモンと合体する事によってデーモンの超能力を手に入れデビルマンとなって戦おうとするという物語ですね。不動明はデビルマンとなれるのですが、飛鳥了はデビルマンになる事は失敗して普通の人のままです。そしてデーモン族との戦いの果てに衝撃のラストが待っているわけです…。この中で主人公…つまり“正義の味方”だったはずの存在は、最終的に人間を救うに値しない物と見なして滅びるにまかせ、ただ、大魔王サタンとの決着のみにその魂を燃焼させます。

…僕は永井豪先生の話をするときによく持ち出す「鉄人28号」の話があるんですが…。横山光輝先生の「鉄人28号」のキャッチフレーズは「良いも悪いもリモコン次第」ですよね。…これが永井豪先生の手にかかって「マジンガーZ」になると「神にも悪魔にもなれる!」なんですよねw…同じように「サイボーグ009」と「デビルマン」も“悪”を倒す方法として、その“悪”の能力を受け継いだヒーローという(これはまあ、元々ヒーロー・パターンの一つではあるんですが)という非常に近い構造を持った作品と言えるんですが、片や「009」のラストが“あれ”なのに対して、「デビルマン」のラストは“これ”なんですよねw…基本的にはやっぱり同じ話なんですけどねえ…人間の心の中にこそ“悪”は宿っていると…。でも、009…石ノ森先生的に言えば、弟子よ……そこまでは言ってねえぇ!(汗)とwまあ、こんな具合に先人の描いたものを、とにかくやり過ぎてしまうのが永井先生の作風!(故にオマージュとか言うレベルはとっくに通り過ぎている)と言える面もあるかなと思っているんですよね。

何が言いたいのかというと、今“善悪の逆転”を主題にした話をしているのですが、実は豪ちゃんって天才過ぎて、そういうの、突き抜けちゃっているんですよね(´・ω・`;)この頃は既に…。たとえば「デビルマン」を取り上げようとすると、カタストロフそのものは「ハレンチ学園」(1968年連載開始)であったんじゃね?…と言う意見もありますし、誰がどっちが悪役か分からない(善悪が判然としない)ヒーローの登場は「ガクエン退屈男」(1970年連載開始)、善悪逆転劇についても「魔王ダンテ」(1971年連載開始)、で果たしているとも言えます。



早乙女門土「学園を解放するなんざほんの言い訳さ。戦う理由がなければ戦いにくいからだよ。ほんとうは戦いたいから戦うんだ!!殺したいから殺したんだ!!」(「ガクエン退屈男」より)



宇津木涼「どうした殺せないのか。俺が殺せないのか―――たかが悪魔一匹殺すことができんのか!醜い俺をこの世から消すことができんのか!貴様らが俺を消せないなら……俺が貴様らを消してやる!!」(「魔王ダンテ」より)

それは既に、善悪なんて概念を超えてエロス&バイオレンス&アナーキーなwwカオスともいうべき永井豪独自の世界を構成しつつあり「デビルマン」は、その“到達点”というよりは、その世界をメジャーにのしあげる通過点としての「人に解かる物語」という意味が強い面がある………とも言えます。(←僕自身はそうは思っていない)少なくとも「ガクエン退屈男」から「バイオレンスジャック」の流れを見れば、単純な善と悪との戦いなんてものを描いていないのは明かでしょう。(モチーフとしてはあったかもしれないけど、先に進み過ぎていて既にカオスに突入している)

…だから東映さんが「豪ちゃんのその世界はとっても素晴らしいと思うんだけど……ちょっと!ほんのちょっと、沢山の人々に分かってもらうために、“正義の味方”としてのヒーローの物語に立返ってみようよ?w」と持ってきた企画が「デビルマン」なんですよね。(よくやった!東映!)結果として未完の傑作「魔王ダンテ」は「デビルマン」と「マジンガーZ」の元型、引いてはその後の永井豪ロボット・ヒーローたちの原点になって行くワケです。その意味(一般ウケというと表現難しいですが…それでも全然一般ウケという感じじゃない所が凄いのだけどw)で「デビルマン」は永井豪という一人の作家の個性から言えば、既に先へ!先へ!と進んでいた所を一歩立ち止まって、ちょっと立返って描いた部分があると思う。
しかし、それを圧してなお「デビルマン」の価値が大きい理由の一つは、やっぱり完結している事ですねw「ガクエン退屈男」も「魔王ダンテ」もさあ、これから戦いだ!という所で切れてしまっているのが、その戦いの果ての世界を描き切った事。これは永井豪先生にとってもすごく大きな意味を持っていたはず。それから、もう一度引用しますが、(↓)このセリフに込められた、善悪が逆転する様を描いた事なんですよね。やっぱり。

デビルマン「俺は身体は悪魔になったが、人間の心は失わなかった!貴様らは人間の身体を持ちながら悪魔に!悪魔になったんだぞ!これが!これが!おれが身を捨てて守ろうとした人間の正体か!」

この悲痛な叫びこそが善悪逆転の瞬間だと思うんですよね。善と悪の立場が入れ替わる話は、既に「魔王ダンテ」がやっています(むしろ言葉上はこちらの方が合致しているとさえ言る)。しかし、それはこの悲鳴に比べれば…「実は自分にとっては人間たちこそ本当の敵だった!彼らはかつて自分を滅ぼした神の、その端子だったのです!」…という、真の設定が開陳されるタネ明かし/どんでん返しに近い。無論、それでも大きな衝撃はあります。しかし、衝撃の事実ではあっても、この不動明の悲鳴とは違うものだと思う。

自分の身を怪物に変えてでも“正しく生きよう”とした人間(ヒーロー)の悲鳴だからこそ!身を引き裂かれんばかりの哀しみが伝播したのであり、それこそが「デビルマン」がこの時代に選ばれた、この時代の“何か”とリンクした瞬間だったのだと。そう思うんですね。



すっかり長くなってしまいましたが…(汗)富野由悠季がその後のアニメとマンガに与えた影響の大きさ、永井豪がその後のマンガとアニメに与えた影響の大きさ、これを疑問視する意見は皆無でしょう。正にアニメとマンガ、それぞれの“中興を成した人物”と言ってもいいんじゃないでしょうか?その両者が“1972年”という同じ年に、同じ「善悪逆転」のテーマの物語を、発表しているというシンクロニシティは偶然ではないと僕は思っています。
そもそも両作品とも、完全な“突然変異”で生まれた作品ではなく「サイボーグ009」や「ウルトラセブン」など“善”とは何か?“悪”とは何か?を突き詰めて考える作品が先にあり、その流れの中で出てきたものである事は、今回、順を追わせてもらった通りです。…そういう時代として人々に求められた物の合致と、日を追うごとに多岐に増大していったマンガやアニメなどの物語に対する一つの臨界点がここだったのではないかと、そう思うんですよね。

…さて、“悪”と“悪役”の話。あと1本書こうと思っています。(今度は、こんな長くならないかな?)



(その他)

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67


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