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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)

2010年07月05日 | 思考の遊び(準備)
【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

自分で読み直したのですが、なんかも~。分かんないですね(汗)え~っとガイドすると、『英雄譚』の構造と『情報圧縮論』の話を並行して進めているので、今、どこの話をしているのか不明瞭になっている気がします。順番としては『情報圧縮論』の分解材料として今回、『英雄譚』の構造(そして脱・英雄譚に至るモノ)を選んでいる状態で、そもそも、その素材の『英雄譚』ってどういうもの?という話になっている感じです。

他の諸々の分かりづらさは……すんません、ほんと、もう、すんません。…とにかく続けます。

■『情報圧縮』の無い作品



まず『情報圧縮論』の補足として、『情報圧縮論』が適用されないタイプの作品、『風雲児たち』(作・みなとも太郎)を上げておきたいです。1979年から連載が開始されて、未だに未完のこの『物語』は、幕末~維新回天を主題にしながら、その時代をおよそ300年遡った関ヶ原の合戦から物語を始まりました。そのまま幕藩体制誕生の物語が進み会津藩が誕生した所で、ようやく本題の幕末に“跳ぶ”かと思いきや、今度は『解体新書』の杉田玄白、前野良沢から当時の幕府(日本)における、西洋との関わり方の経緯から切々と描き始めるという。そして現在(2010年)、ようやくハリスと日米修好通商条約を結んだところ!という、空前のスケールで描かれている歴史大河マンガです。

『物語』というのは『面白く』無いところは端折ったり、割愛したりして『面白さ』の結晶になるようにして作られて行くのが基本(?)の作劇というものだと思いますが、これはその歴史に『詰まらない』所なんて無い!総ての物語がつながって端折れるような所なんて、本当は無いんだ!と力説して、その圧倒的な『面白さ』でそれを納得させている。それは『圧縮』しない事の凄みが描かれているって事です。(厳密に言えば原初的な情報圧縮技法(省略法)は当然取り入れられていますが、大意において…という意味ですね)

ただ、これは『情報圧縮論』の当初のまとめから言っているように莫大な才能と経験を必要とする事です。一見正攻法に観えるこのやり方での到達をまざまざと魅せられてしまうと、何か微妙に『受け手』の文脈を読むリテラシーに依存しているような『情報圧縮論』の方法は、かなりあほらしいものに観えてしまのも無理からぬ事とも思うんですけどね。え~…まあ、こちらはこちらで別の価値があると思って話を進めています。

※あと『情報圧縮論』に入る時期の、ある種の臨界点の作品として士郎正宗先生の一連の作品を上げておきたいです。コマ外にメモ書きを相当詰め込んでいたあれですが…wいや、こっちの話はまた長くなるし、まとまって無いので別の機会としますが。まあメモ書き程度で。


■『英雄譚』の引力

【フランス】御旗のもとに【シャルル・ド・ゴール】

神話に彩られたレジスタンスと自由フランス、しかし当時のフランス本土はヴィシー対独傀儡政権とドイツ軍の支配下にあり、実際のところ、レジスタンスに加わった者はフランス国民全体からすれば少数派であった。
現在フランス史学会ではレジスタンス神話の克服が進められ、闇の部分であった対独協力の歴史に重点がおかれている。しかし、対独協力もまた、国民全体からすれば少数派であっただろう。

ヴィシー政府・ペタン元帥「一握りの『英雄』と、一握りの『悪党』で、全てを語りうると考えるとき、歴史は『光』と『闇』の愚劣な『物語』に堕してしまうだろう…」

(最初、コメント外し推奨)また、“英雄譚”が持つ引力(?)のようなものの一例として一本動画を上げます。この『御旗のもとに』という動画は、『サクラ大戦3』のテーマ曲と、第二次世界大戦時における自由フランスの指導者・ジャルル=ド=ゴールの戦いをまとめたもので、youtubeやニコニコ動画が発足する以前、個々人がフラッシュ動画を作って自分のサイトなどにアップロードしていた時のもので、2ch世界史板のコテハン・ナポレオンさんが作成したものです。

動画の間奏で、上記した引用文が添えられるんですが、歴史を学ぶ人らしい一文だと思います。世界の在り様に明確な善も悪もなく、その単純な理解のままにとどまる事は愚劣な物語に堕してしまうだろう……と、ここでは言われていますが、まあ『物語』を愉しむ事はまた別物ですけど、世界の認識としては非常に危ういものであるとは言えると思えます。

同時に製作者のナポレオンさんは、そうエクスキューズした上でド=ゴールを目一杯英雄として描いているのですよね。もう、ほんとに、リミッターが振りきれるくらいにw
それが『光』と『闇』の愚劣な『物語』だったとしても、僕はそれで得られる感動を僕は“本物”だと思っているし、これを在り様のままに、加工なしに、一握りのレジスタンスと、一握りの対独協力者と、そして大勢のそうでない人々を均一に描いたとしても、この感動まで持ってゆくのは、相当な困難がともなうと思うんです。現実の理性に基づく世界への接し方の学習は他の領域にお任せするとして、僕は“この感動を維持したまま”如何に、世界の在り様への接続性を高めてゆくか?という試みに興味があるんです。

そして『魔王x勇者』の『物語』を考えたとき「魔王と勇者が延々と争い合って行くこの物語の先を見よう。行こう」という示唆はいったい何を意味するのかと言えば、正にこの『光と闇の愚劣な物語』(この言い回し、好きじゃないんですけどねえ……まあ、ペタン元帥からしてみればそう言わざるを得ないよなあ)から脱しよう!そういう世界の“割り振り方”をやめて次の景色に行こう!という事なんだと思います。

…………………でも!それでも!『英雄譚』の引力は働くよね?というのが、今、僕がしている指摘なんですけどねw

また“子供じゃないんだから”止めようという行為は「や~めた!」の一言で終わるものではない。今まで『英雄譚』で世界を語ったなら幕引きにもその責任がともなう……という事でもあります。この『物語』で祭壇が二度現われるのは、それらの意味を内包した上で在るもののはずなんです。

■歴史の圧縮
勇者「そう考えれば……。さっきよりは無理じゃない気がしてきた」
魔王「であろう?」

勇者「そうだな。俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」
魔王「なにをいうか。見届けるまでは……」

メイド長「まおー様」
魔王「あっ……」

勇者「……」
魔王「……」

勇者「まぁ、うん。とにかく随分目の前が開けたぜっ!」
魔王「……」

勇者「なんてツラしてんだよ。忽鄰塔を乗り切らなきゃ
 どっちみち明日も明後日もないんだぞっ。
 そのみっつの氏族を切り崩す準備はあるんだろうな?」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」6スレ目より、フォント拡大部加工)

さてようやく『魔王x勇者』の話に戻ります。…このシーンすごく好きなんですよねえ。(=´ω`=)その覚悟に泣ける。…敢えて説明すると『丘の向こうを見る物語』は、本来は自分たちの代~少なくとも勇者(人間)の寿命では~辿り着けないその道の途中で終わる事があり得る物語である事を示しているんですよね。それは、真っ当に、捻りなく“歴史に接続”をすれば、たとえば上記した『風雲児たち』の世界へと入って行く事を意味しています。



それは、たとえば、外国の侵略に備える事を称えながら、彼の生きた時代では本格的な“来寇”は起こらず。単なる奇人、幕政批判の人として弾圧されて死んでいった林子平の物語のようになってくる。非常に乱暴は評価ですが、敢えて言えばエンターテイメントとして、彼の物語にはクライマックスは無いんですよね。彼が行った事の意味は、その死後数十年経ってはじめて発揮されて行きます。(←あれ?『魔王x勇者』の話に戻っていない)
こう言うクライマックスが来なかった人の物語というのは、たとえば“主人公の父の物語”とか“先祖の物語”とかで省略されたりするんですけどね。後から語るなんて手法を避けて、律儀に、この詰まらない報われない物語から(プロローグ的に終わらせず)しっかり始めようとすると、大抵、強い指示に変えられなくって、その物語は途中で終わっていったりします。

その一つの退避のかたち…というか『魔王x勇者』の特徴として、『物語』としての……分かりやすさというか、象徴性というか、一人の主人公の『物語』として成し遂げられるのカタルシスの選択として“外なる図書館”が登場しますね。この『物語』のチートwを集約したようなガジェットです。この物語の展開させる原動力となる、魔王の知識や先見性はこの図書館を立脚点としている面が大きい。
馬鈴薯の栽培、黒色火薬から銃器の発明、種痘による天然痘の予防など、総て完全に…とは言わないまでも“図書館”に拠る展開と言えます。そして、それらの展開の連続した投入によって『魔王x勇者』の物語は歴史的な圧縮が起こり「欧州の十字軍遠征の時代から第一次世界大戦あたりまでの歴史的経緯を1ストーリーで描き切っている」…という評価を得るに至っています。

この“図書館”というガジェットそのものを『情報圧縮体』というつもりはないです。しかし、『物語』を圧縮して語ろうとして出てきたアイデア……いや『物語』を『面白く』しようとして、出されたアイデアが、結果として『圧縮』を呼んでいるという順番が正確でしょうが、結果として1ストーリーにまとめる力を持った。
それがなければ、あるいは「風雲児たち」のような展開に突入して、そしてみなもと先生程の才能がなければ冗長極まりない大河『物語』になったかもしれない事態が回避されている事~歴史性を保ちつつ圧縮されている事~を指摘しておきたい。
実際に勇者自身から「俺たちの代で全部やらなくても良いんだ」というセリフが引き出されている。その視点は確保されているんですよ。

これねえ……僕も、遂に説明される事がなかった“図書館”の話については、すご~く!いつまで~も!気になっちゃうんですよねw(いや!説明が欲しいわけじゃないですwそこは自分で想像するから!w)また、僕としては、まあ、大した指摘じゃないと思うんですけど、“図書館”というチートを利用する事によって「そういうチートがあるから(本当はそのチートがない)“世界の在り様”の接続が不十分だ」という~僕の英雄譚から世界の在り様への接続を果たしているという評価に反論する~指摘も生み得るんですよね。

しかし、そこはもう上に上げた『御旗のもとに』の説明通りで。「魔王x勇者」の『先の物語』としての到達点は『英雄譚』からの脱出であるという観点から、この話をしているのですが、物語構造のメタな部分として、やはり『英雄譚』の引力は受けて行くんですよね。その力場はかなり強い。また、そうでないと『面白さ』の維持は大変難しものだった…と言えると思います。

たとえば日本神話にあるヤマトタケルの『物語』なんかは、時代も違う複数の反大和王権勢力の討伐の経緯を一人の主人公に集約して描かれたものという説(解釈?)などがあるように、歴史という長大な人間の物語を描こうとして、一人の人間の物語を描く時間でそれが完結するようにまとめるのは、正に“英雄譚”の生成そのものなんですが『物語』がシンプルであろうとした時に、そこに回帰してゆく力場のような物は感じられると思います。……感じられますよね?(汗)

“外なる図書館”の導入はこれらのバランスをとって『物語』を紡いでゆく回答として白眉のものに思えます。…単純にオーバーテクノロジーを引っ張り込むというアイデア自体はいくらでも散見されるわけですが、この場合、それを“どういう意味で描くか?”という選択の話になるかと思います。

■『情報圧縮』の顕現

光の精霊「やっぱり。ダメでした……。
 竜王の時も死導の時も。憎魔の時さえも。
 結局は思い出してはくれなかった。
 それでも……良いです。
 彼を裏切ったわたしには、
 あなたに何かを要求する権利なんて
 最初から何一つ有りはしないのだから……」

勇者「そうかなー」
魔王「そんなことはない」

光の精霊「え?」

勇者「裏切ってなんかいないだろう」
魔王「まったくだ」

光の精霊「え? え?」

勇者「まぁ。光の精霊は少しとろいからなぁ」
魔王「そんな感じだ。それにしたって、長すぎる誤解だ」

(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」13スレ目より)

もう一つ、僕が『魔王x勇者』で注目している設定に、光の精霊によって救済された世界で、“勇者(光)”と“魔王(闇)”の物語は延々と繰り返されていた…というものがあります。直接的にはこの設定が“二度目の『祭壇』”を呼び込んでいるワケなんですけどね。

というより、僕は『魔王x勇者』に感動して、こうも長々と益体もない文章を書き続けているのは、(↓)下の『先の物語という意味』の記事にある事の方が先で。まず『魔王x勇者』の外にある……いわゆる近代の“子供向け”の英雄譚たちが繰り返し戦い、『祭壇』に至り、しかし悩み続けるに留めるような…そういう回答で多くの物語が終わってしまう事に対して『臨界突破』を仕掛けている作品である事に「おおっ」と思ったからなんですね。それは最初の『祭壇』である魔王と勇者の対話によって描かれ、はじめられている。
それの回答として……たとえば「馬鈴薯を栽培しよう!」というような答えの示す手順に「おおっ」と思い。それらを1ストーリーとしてまとめ上げる過程に、僕が以前から悶々と頭の中で考えていた『情報圧縮論』の具体例が様々な箇所で見出されたので、こっち『情報圧縮論から観える構造』を書いている…という順番です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b

詳しくは(↑)の文を読んで欲しいのですが、僕はこの『魔王x勇者』外の近代の子供向け英雄譚…というものを、大体、『宇宙戦艦ヤマト』~『海のトリトン』~『ガンダム00』~『コードギアス反逆のルルーシュ』といったレンジで語っているのですが、僕はこれらの文脈を知らなければ『魔王x勇者』という物語を楽しめないと言うつもりはありません。こういう“流れ”のようなものを体感する『愉しさ』を知って欲しくはありますけどね。

しかし、何が言いたいのかというと、この「光と闇の戦いが繰り返される」という設定そのものが『情報圧縮体』なんですよね。(↑)上の記事で述べている文脈をしなくても『受け手』は擬似的にその文脈を体感できるという……文脈の存在有りきで語って、いささか逆順的ではあるんですが、正に!『情報圧縮論』から観れば!そういう役目を果たしていると言えるんです。この文、そういう話なので(汗)
これを『情報圧縮の顕現』と呼ぶ事にしています。その情報の解凍に予備的な知識は要らず~擬似的、あるいは直感的に~その情報を教授できる…まあ、多くは何らかのキャラ、ギミック、ガジェット、あるいは全体的な設定といった『情報顕現体』に固めるのに、相応のアイデアを必要とする事になりそうですが…。定番化できるものはガンガン流用するといいかもしれませんね。

■少しまとめます。

ちょっと、構成間違えたような気がしないでもないですが……(汗)ここでもう一度(その3)を読み直してもらえるとありがたいです(元々、ここまでをその3にするつもりだった)。
まとめると、繰り返しになりますが、「英雄譚からの世界(の在り様)への接続モデル」という“文脈”があって、『魔王x勇者』は『情報圧縮の顕現』などを利用して、このモデルの全体が『物語』内に収められていると。それは作者がそう意図している…という話ではなくって、『情報圧縮論』の角度からこの『物語』を観ると、そういう構造が観えて来ると。そういう話ですね。
そして、本当の意味で“世界の在り様”への接続を果たすには、英雄譚である事を止める必要がある。「光と闇の愚劣な物語」(繰り返しますが、この言い回しは好きじゃない)で世界を語る事を止めなければならない。しかし、それは「や~めた!」の一言で止められるものではない。
同時に『英雄譚』の引力、英雄譚である事の感動や“伝える力”というものがある。それは“伝える力”としてギリギリまで保持したいもの。それが脱・英雄譚の『物語』という事ですね。そのバランスの中で二度目の『祭壇』は現われる。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その3)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/77c8668529ca2b47cda018dfbaaf85f2





……え~っと(滝汗)。ちょっと時間が限界です。また終われなかった(汗)なんだろう?この読み違え?とまれ、次で本当の本当に終わります。



以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b


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2 コメント

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Unknown (方)
2010-07-06 23:37:14
このエントリの論調で、まおゆうを敢えて言葉で表せば、
[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]
ということになるのでしょうか。こう書くと言葉遊びみたいですね。
古い英雄譚から抜けだしてより新しい、より世界の在り様に即した英雄譚に接続する過程を描いた物語、とか、そんな感じなのか。
英雄譚→相対化→現代劇
と発展させるのでなく、
英雄譚→相対化→新英雄譚
と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

「光と闇の愚劣な物語」という言い回しが嫌いだというのは、わかる気がします。結局まおゆうも英雄譚という形態に着地する以上は「愚劣」を内包することになってしまうわけですが、愚劣さとは力強さでもあるわけで。伝える強さのためにある程度の愚劣を許容するというか、妥協点を見つけて前よりは聡明にやる、みたいな落しどころが現実的なんじゃないかなと(割り切りすぎてるとそれはそれで酷いw)。
Re:方さん (LD)
2010-07-07 02:57:43
>[「"英雄譚の克服"を成し遂げた英雄」を描いた英雄譚]

素晴らしい(感)これは僕がまとめの言葉にしようと用意していた言葉とほぼ同じです。一応、脱・英雄譚を用いているので“脱する”という言葉を基軸にしたんですが…

“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱っした群像劇

…という言葉を準備していました。…方さんの方がセンスがいいですね(汗)これに「あるいは“英雄譚を脱しようとする英雄譚”を脱した英雄譚…と解する人もいるかもしれない」と添える予定でした。“群像劇”なんて言葉でしめるのは、言葉の遊びとしては面白味がないのですがw(汗)僕としては『魔王x勇者』は(旧来の?)英雄譚を脱したと思うので、脱した意味で、別の言葉を添えたかったんですよね。同時にあくまで、これも一つ位の英雄譚の形であると考える事もできるとは思っていて、それはスパイラルな『引力』というものなんでしょうけど…。

ただし、勇者=英雄、メイド姉たち=新英雄、とするならば“新英雄譚”と添えるのもアリに思えます。

…その場合、より正確に述べるならば「“英雄譚を脱しようとする英雄譚”の継承によって脱・英雄譚を果たした新英雄譚」…と、ややこしい!ですねw……なるかと思います。

話がさらにややこしくなるので伏せていましたが、僕は実は勇者は英雄(ヒーロー)ではなく『スーパーヒーロー』にカテゴライズしていて、それが本来の英雄(ヒーロー)の物語に落ち着く話なんですよね。これは勇者=神話英雄の時代が終りを告げ、メイド姉たち=歴史英雄の時代が到来した…という言い方ができるかもしれません。

> 英雄譚→相対化→新英雄譚
> と発展させるのが、つまり「先の物語」ということだ、という主張だと解釈したのですが、それでいいんでしょうか。

…“先”って目の前の先も、ず~っと先も、同じ“先”なんですよねw……ちょっと方さんの言葉を借りて、僕が群像劇ともとれる英雄譚とも取れると解したその結末を『新英雄譚』と言わせてもらいますと、この『新英雄譚』という結末のあり方は、僕の視界にある“先”をはみ出しているものでした。だから“先”は“先”かもしれないけど、もうこの物差しで測るのは適当でない……というのが率直な感想です。

いや、こういうと『先の物語』じゃないと言っているみたいですが、そんな事はなくって(汗)ただ、方さんの言うところの→現代劇の接続、その描き方の時点で『先の物語』は果たしているよ、と僕は考えているって事です。
その“先”(?)の『新英雄譚』あるいは『祭壇』が二度現われる事は…“先”なのか?というか……後から来た『物語たち』が「英雄譚を脱する英雄譚」である事に困る(?)なら…ああ、この『物語』は二回突破したんだ…“先の先”へ行ったんだ…というか?まあ、自分でも言っている事、よく分かりませないが?(´・ω・`;)そんな感覚を持っています。
とりあえずその部分は単にこの『物語』の『形』として捉えて「情報圧縮論からみた構造」の語りに置いた感じです。


……んんん、なんかこのレスで残りの言いたいことまとめちゃった気もしますが(汗)後日、まとめの記事書きます。

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