今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




今期アニメの『C』を観終わりました。『面白ろ』かったです。当初、バトルロワイヤルのアニメのように見せていて………いや、そのバトルに対するギミックというか『楽しさ』が、今ひとつパッとせず。そのため、妙に分かりづらい設定と説明が先行してしまって、必ずしも『物語』として成功してるワケではないと思うんですが…(汗)
その着想、そのメッセージは、現代寓話として、深夜アニメ作品として非常に目を惹かせるものがあり、少なくとも僕は、その風刺に“刺され”ました。…日常をカツカツで生きている日本人として、実はかなり痛かったです。

『C』は、親の破産によって経済的に苦しい生活を余儀なく負っている大学生・余賀公麿が、ある日、“金融街”と言われる異空間で互いが戦って資金を稼ぐ“アントレプレナー”に選ばれる『物語』。アントレはある程度の資産を持って金融街にエントリーしているが、それはアントレプレナーの「未来を担保にして得た」ものだと言う…。

僕は経済について勉強したことがないので、あやふやな書き口になってしまいますが、この『物語』は金融経済を比喩的に描いていて、中でも現在、800兆を超えるという日本の負債がどこから来たものなのか?あるいは不景気~財政の失策~によって「何が失われるか?」を克明に描いてくれています。
ペトロニウスさんに聞いた所、「将来と現代の対立」~つまり「未来を担保にする」って話ですが~は、経済学の問題設定としては古くからあるもの(ただし解決法が見出されてはいない)との事で、僕も聞いた事はあったんですが、この物語において「担保にした未来」が実際に回収されて行くシーンは、単純ながらも衝撃的で、これみて「ああ……つまり、こういう事か」と体感に落ちたような気がします。



三國「判るか!?俺が“今”こそ大事だと言った理由が!!人間としてあるべき姿は、目の前にあるものを愛しみ大事にする事だ!!形の見え無い“先の事”を考えて右往左往する事じゃない!」



公麿「でも!俺の“目の前”は変わっちまったよ!どっか行っちまったよ!!俺なりに、自分の周りの人々とか大事にしていたつもりだったんだけど!!」



「首相の会見…見たか?」
「政府も必死だな。国の言う事を信じている国民なんか、いやしないさ」
「…日本を出るか?」
「利口な奴はもう出てるだろうな」


…ちょっと、自分の実体験の話をすると、僕は仕事で東京に出てきて10年くらいになるんですけど、最初の頃は、けっこう色々、日本のあっちこっちを回っていたりしたんですよね。今は、日本のあっちこっち…って感じではないですけど、それでも関東圏はそこそこ広範囲で回っています。
だからそこそこ色んな街の“景色”を観ています。10年前も景気がよかったワケじゃないですけど、それでもやはり今見えるその“景色”は違ってきてしまっている事を感じます。『C』で二人の主人公といえる公麿と、三國は、要所要所で公園のベンチに座り、自分たちが「守った“景色”」、「守れなかった“景色”」を観るのですが、正にあんな感じです。

……この駅で降りた時に、いつも必ず食べに入っていた、この食堂があったシャッターは何時開くのか?モロに駅前の店のシャッターが開かないって10年前に自分が観ていた“景色”だったか?いや、もっと昔に遡って、僕が子供の頃住んでいた土地は、どうしようもなく片田舎だったけど、テナントが開いたままになっている建物なんてなかったし、どんどん建物は増え、店は増えて行って行った。あの時の“景色”はどこに行ってしまったのか?
……10年前から通っている、この土地はどうしてずっと、真っ平らなままなのか?ぽつり、ぽつりと点在している大仰な建築物(そこが訪問先なんですが)から、この土地をどんな都市にしたかったかがイメージできるのですが、逆に、どうしてその時は、そんな大それた事が出来ると考えていたのか?

「未来の担保として回収されてしまった」という比喩表現は、それらの僕が持っていた疑問……とも言えないような単なる寂寥感を説明してくれました。「どっかの誰かが、マネーゲームに負けて、それが負債として持ってかれた…」って言うと乱暴に過ぎるんですが……う~ん、何て言うのかな?
……その、駅前のシャッターが何時までも開かないのは「そのシャッターが開くという“未来”ごと持ってかれた」って事なんですよね。一人のテナント事業者が失敗したけど、でも、すぐにまた別の事業者がテナントの名乗りを上げるだろう……じゃなくって。その未来ごと持ってかれた。「未来を担保にする」という事、そしてそのベットに失敗するという事はそういう事なんだと。

じゃあ、どうするんだ?というと、丸く収まる答えは何もない。(ないですよね。あったらやってるよね)念のために言うと「未来を担保」にする事は悪か?というと本来そうではない。元々、人間の文明活動というのは、多かれ少なかれ「未来の担保」によって成り立っている所はあるし、この場合、特に日本という事になるかもしれませんが、競走から脱落した資源の無い国どうなってしまうか?という事を考えると、力尽きるまで走り続ける事が、犠牲となる人の量を緩和し続ける事であり、走り続けるためには自転車だろうが、何だろうが融資を必要としているんですよね。

だから、最後の公麿の決断は正しかったかどうか解らない。…いや、こういう言い方はできるかな?『物語』として、現実世界の金融経済ではなく、ミダス銀行が主催する「未来を担保」にした金融街の世界では公麿が正しいかもしれない。なぜ、ならハッキリと形ある未来の可能性を奪って行くから。
たとえば仮説としてミダス銀行の回収は日本の国土に埋蔵している天然資源の消滅にまで及ぶ…とすれば分かりやすいかもしれませんが、そうでなくても「子供が居た」という現実があり、なんらかの失策によって、その子供は回収されて消えている……って事は、その失策と、子供という未来が消える事の因果関係がはっきりしているからです。そうやって明確に未来の可能性を消されつづけるなら、それは何処かで止めなくていけない……かもしれない?

しかし、現実世界はそうとは言えない。ある財政の失策が、国民の失意を生み、出産の減少につながったかどうかは証明のしようがない。『C』は何が奪われたのかはっきり分かるから、伝わるものがあったけど、現実世界は何が奪われたのか全く特定できない。(無限にある)「未来の可能性」は一切奪われてないとすら言える。…でも、本当に何も奪われてないなんて事あるの?……と。

…………いや、すみません(汗)僕にはよく分かりません。難しくって。(´・ω・`)



ただ、一つ言えるのは、公麿の決断後、“C”の直撃を受けた日本は、本当なら、三國がこの国をボロボロにして守った状態よりも、さらに悪い状態になるはず。だからその後、公麿が観る景色が明るい景色なのは、幾分かの補正がある。…しばらく時間が経って落ち着いたら、もしかしたら、ああいう公麿が望んだ景色が手に入るのかもしれない。でも、逆に『世紀末救世主伝説』みたいな、モヒカンに“ZEED”とか彫った徹底的に治安の悪い景色が広がっているかもしれないw
……それは分からない事なんですよね。言ってしまえば主人公補正で、決断した事に対する“祝福”としてあの景色がある…とも言えます。でも、まあ、先ほど言ったように、明確に「未来の可能性を奪う」金融街の呪縛から未来を解放したから、この景色が広がっているんだ…と考えれば『物語』としては良いのかなと思っています。

難しいテーマに挑んだ、なかなか野心的なアニメで、とても『愉し』ませてもらいました。……これ、コミカライズされていないんですね?この物語って画で見せて、説明を充分に盛りこんで行けるマンガの方が適している気もします。今更かもしれないけど、どこかやらないかなあ?


「C」第1巻 <Blu-ray> 【初回限定生産版】
内山昂輝,戸松遥,細見大輔,後藤沙織里,櫻井孝宏
東宝

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【6月第1週:この彼女はフィクションです。 第16話 この彼女はフィクション作家です。】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10513.html#691
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



今村「また、あのつまんねー、退屈な三年間を繰り返すのかと思ったけど・・・・いや~~~この世界なめてたわ。俺がボーッとして気づかない間に、面白ぇーこと起きてんじゃん」

『アゲイン』(作・久保ミツロウ)が『面白い』ですね。ある意味、古いタイプの“人生やり直しモノ”であるにも関わらず、キャラクターの絡みの面白さでグイグイと引き込んでくれています。
『アゲイン』は友達も無し、部活も無し、何も無しで高校3年間の生活を終えた男、今村金一郎は、卒業式の日に3年前にタイムスリップしてしまう。事態を正確に把握せぬまま、今村は3年前に気になっていた人物、応援団の宇佐美良子に声をかけ、応援団に入部してしまう。応援団が宇佐美団長一人で廃部になってしまう未来を知っている今村は、その未来を何とかしようと考え始める…といった『物語』。

いや、僕はこの主人公の今村金一郎という男を掴みかねていて、それでこの物語に引きこまれているという所があります。今村くんの持つ、諦観、厭世観は、正直不思議なレベルなんですが、これ、実は普通なんでしょうか?彼の高校三年間の生活は友達無し、部活も無し、そして卒業後の進学も就職も決まっていないという、最悪とは言わないですけど、相当悪いとは言える状態です。
でも、彼はその人生をやり直そうとは思わないんですよね。僕なんかは、ワケもわからず時間遡った世界に放りこまれたら、それしかする事ないんじゃないの?とすら思ってしまうのですが…。んんん…ああ、でも高校卒業前の自分が、3年前の自分に戻ったら微妙かなあ?特に不満足は無かったような気もする……いや、でも今村くんは3年間友達もいなかったんでしょ?

「どうせ俺が何やっても、あの高校生活がかわりゃしないよ…」と卑屈になっているのなら分かる。実際に、今村くんの言葉を聞くと卑屈なセリフがばんばん出てきます。でも態度が卑屈でいじけた人間の態度じゃないんですよね。「3年間無視され続けてきた俺に恐いもの何か無いよ?」とばかりに、ばんばん、気になってはいたけどよく知りもしない女応援団長の為に身体を張る。
「どうせ俺なんか~」と卑屈でいじけた精神状態になっている自分を想像すると、今度は「何か矢面に立つような事をすれば、悪い人生を引き込む~故に何もしない」という行動を想像します。その諦観ムードは分かる。
ところが今村くんは、自分の人生がいい方に変わるとも思ってない代わりに、“もっと悪くなる”とも思っていないようで、今、チアリーダー部を敵に回そうとしていますが、それ、「クラスメートに無視され続けた」なんて状況よりもっと悪い状況を引き込むかも知れない事分かってないの?と言いたくなる。要するに今村くんは自分という存在に相当無関心な所がある。

だが、それがいい…というか、元々、“覚悟”した人間が好きな僕は、そこに“覚悟”があるかのように錯覚(?)してしまっている所があります。

この人、なんか駄目だった自分の人生に胸張ってるんですよね。いや、胸張ってるってワケでは無いでしょうけど、徹底して「俺の人生こんなもん」って思っているらしくて、それが卑屈でいじけた精神状態から出ている諦観じゃないように見えてしまう。卑屈なはずなのに、それくらい妙に堂々としています。
なんか振り返ってないんですよね。人生を巻き戻しされたと知った時は「なんでそんな(意味のない)事させるんだよ?」とふてくされムードだったのが、新情報が入ると「いや~“繰り返し”なめてたわ。まだ全然楽しい事あんじゃんw」といきなり生き生きし始めるのが上の引用したセリフです。…これって前だけ観ている人の動作って事ない?w
…そこをカッコいいと楽しみながらも、妙に腑に落ちない。極端な事を言えば、釈迦やキリストが、自分の人生繰り返す状況に陥ったら、淡々と自分の人生の在り方など関知せずに、他事に干渉してあるがままの結果を受け入れると思うんですけど、え?そんな話かっていうと……違うよね?と。

基本的には、やっぱりこの話は「もっと人生変わるよ!」って話に思えるワケです。実際、今村くんの人生変わろうとしているもの。……それで、ちょっと違う角度で考えてみたのですが“やり直しモノ”には問題点があって……それは「やり直せる状況」があって、「やり直そう!」という意識を持つと、それはチート(ずる)になってしまうという事です。
“やり直しモノ”として有力な『代紋TAKE2』(原作・木内一雅、作画・渡辺潤)のあのラストとか思い出してもらうと分かると思うんですが、この“やり直し”の話を詰めて行くと、かなり直感に近い形で、人としての拒絶反応が見て取れるようになる所があります。最近、ちょっと流行ったりしている“繰り返しループモノ”にしても、チートする覚悟さえ決めたその時間渡航者が、何度も何度も同じ事を繰り返すはめになるのって、運命の強制力とか、歴史の復元力とか、物語内では説明されますが、『物語力学』として言ってしまうと「そんなチートが上手く行くのは許されない」という物語上の拒絶反応なんですよね。

「人生をやり直してサクセスを手にしようぜ!」と話を始めると、「ちょっと待て、人生とは一度きりだから素晴らしく、だからこそ生命は美しいんだ」とカウンターが出てくる……という。昔はわりとあっけらかんとサクセスしていても、近代になればなるほど、その糾弾の力は強くなる…というのは分かるかと思います。
でもねえ…“人生やり直しモノ”の本質的なテーマって、つまり「キミがちょっと行動を踏み出せばそれだけで人生変わるよ!」ってもので、踏み出さなかったビフォアーと、踏み出したアフターを、明確に比較するために在るのだと思うんですよ。
本来、「誰だってやり直したい事はあるよね?」という願望と、「踏み出せば人生変わるよ!」という希望の、どちらも相当素朴な人の気持ちを追ったものが、「たとえ不幸のまま死すとも、それが絶対無比の己が生命の在り様!それを愛でよ!」…と、アノクタラサンミャクサンボダイというか、えらい大きな、覚悟に至る哲学に圧迫されているって状態でもあるんですよね(汗)

では、どうやってこの圧迫をかわして“素朴なテーマ”を顕現させるか?……という角度で『アゲイン』を観て行くとちょっと分かってくる所があります。この『物語』は、明らかに今村くんの人生を変えたがっているのに、今村くんの人生を変える事から物語の動機が出発していない。また、今村くんが変えようとしている~最初は変えようとさえしていない対象でしたが~女応援団長は、以前の今村くんにとって深い関係を持った相手~たとえば恋人~だったりしないワケで、「そもそもよく知りもしない、情報がない人」です。情報がないからチートのしようがないんですよね。

そうやって観て行くと、今村金一郎くんが、チートを行使できるパスを手に入れたのに、何故かそこに思い至らない、そうしようとも思わない人物で、にも関わらすよく知りもしない女の子の為に役に立とうと行動を起こせる事、よく知りもしない女の子が高校三年間で、もっとも“気になる事”となるように、三年間の生活が退屈で全く満たされないレベルだった事~などが分かってくる。
言ってしまえば今村くんは『物語』の持つ要請~都合~に(僕から観れば)相当無理な形で応えている主人公像という事になるのだと思います。本来なら、歪で、薄っぺらいキャラクターになってもおかしくはないと思うんですけど……にも関わらず今村くんは圧倒的に面白い。久保先生の「ただそこに居るだけで楽しい」圧倒的なキャラクターの造形力で「こんな奴、けっこういるかも?…いや、むしろカッコいいかも?」と思わせてくれるレベルにまでビルドアップしている。



ちょっと後回しにしていたのですが、今村くんといっしょに時間跳躍した藤枝暁ちゃんも、そうやって考えると観えてくる所がある。…この娘もかなり分からない子なのですよね。この子、未来に自分の彼氏になる男の子には「キモイ」と言われていきなり自分の“やり直し”は失敗していて、それでいてそこを挽回しようとしている様子はなくって、かといって今村に逆恨みするワケでもなく、(敵視しているっぽいんだけど、妙に協力的に)今村の回りの情報集めている所とか。今村がもともとは駄目人生だった事を知っていて、そこを念押しに来るところとか。(いや、どうも今村を好きになったっぽいのですが)それでいて、元々は今村の事はよく知らない、互いに情報を持っていない所とか。
でも、やっぱり圧倒的に面白い子です。同じように「まあ、それくらい切り替えが早い子はいるよね?」と思えるし、今村以上に何も考えていない子だけど、妙にねちっこい子なのに、妙に明るくって、この子可愛いよね!と思えてしまうw

あと、最初に今村くんを覚悟ある人と錯覚してしまう…という話をしましたが、「一度しかない人生こそ美しい」という覚悟ある重いテーマを跳ね除けて、素朴なテーマを顕そうとした時、その重さがのしかかる理由を避けて通った結果、その外格において“覚悟”が(有るかのように)顕れてしまうという現象はちょっと『面白い』気がしました。まあ、何の因果もない事かもしれませんがw

また、チートにあたる要素を外して行った結果、チートができない分岐に既に入っていて、その結果、ただの“学園部活立て直しモノ”みたいになって、『アゲイン』と謳ったテーマに立ち返れないんじゃ…と考えたり。まあ、今から気にする事じゃないんですけどね。
あるいは明確な情報によるチートはないけど、人生経験の差による精神的な優位はずっと行使されていて、これはどうなのか?(拒絶反応は起きないのか?)と言った観方もありますが……まあ、ともかく『アゲイン』は、物語が展開して行き、キャラクターが動くだけで面白いので、まずそこを愉楽しんで行こうと思っています。

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【日本史】

織田信奈の野望 6 (GA文庫)
みやま 零
ソフトバンククリエイティブ

『織田信奈の野望』(作・春日みかげ、イラスト・みやま零)6巻読みました。(↓)以前の記事です。

『織田信奈の野望』~戦国ラブコメ~信奈とか光秀とか可愛い

(↓)あとペトロニウスさんの『物語三昧』で、引用されていた哲学さんのコメントがとても『面白ろ』かったので、こちらでも貼っておきます。『織田信奈の野望』が6巻に入って、それまで、微妙にして絶妙(?)のバランスで合わせていた史実から、かなり離れてきた感があって「そうすると、歴史に合わせ込んで観る愉しさから離れてしまわないか?…みたいな?感じの話題を上げていたんですよね。
それに対する哲学さんの回答は、なかなか秀逸…というか、僕はこういう『物語』への考え方、好きなんですよね。その物語が好きになり過ぎて「すごい科学で守ります!」みたいな感じになっているのってw

▼物語三昧:『織田奈の野望』について哲学さんのコメントが面白いです。
一見、織田信奈の物語はひょいひょいハッピーエンドが続いてるように見えますが、これは何周もの歴史ループが裏で繰り返されており、豊臣秀吉が何度も何度も『まどか☆マギカ』の暁美ほむらや『紫色のクオリア』のガクちゃんみたいに歴史ループを繰り返し、ようやく辿り着いたハッピーエンドルートだと仮定すればいいのです。

織田信長の人生はどうしても凄惨なものになるのは確実で、それを修正するにはもう、天皇家を解体して邪馬台国が天下取って卑弥呼の末裔が姫巫女として君臨して姫武将が大量に出るようになって、織田信長も織田信奈と性別改変まで行い、秀吉自身も未来から自分のオルタナティブを呼んで託すことまでしないとトゥルーエンドの歴史へ辿り着けなかった……みたいに考えるのです。

まあ、ちょっと立ち返った事を言うと、織田信長を美少女にしよう!というコンセプトを得た時、「この子にどうすればハッピーエンドを与えられるか?」という志向になって、織田信長の史実を一つずつ一つずつ、ハッピーエンドの伏線となるような“形”に改変して行く……と、技術的にはそういう話なんですが、それをどう“物語的”に落としこんでゆくのか?というのは、おたくの醍醐味というか、このブログでぼちぼち更新している『物語愉楽論』の一つの到達点の話でもあります。まあ、それは本当にぼちぼち紹介するとして…。

もう一つ『織田信奈の野望』はハッピーエンド志向の他に、もう一つ別のコンセプトがついているようです。これも哲学さんが指摘している、武田信玄と、伊達政宗の台頭です。まあ、これもハッピーエンドの一環というべきなのかもしれませんが“英雄の決戦”とでも言えばいいのか、天下統一を目指しながらも天命無く、その場に至らなかった者たちの決着を着けてやろう…という考え方で歴史が動いてきているように観えます。これも今後の愉しみの一つでしょうね。

そして、その“英雄の決戦”からはおよそかけ離れた存在と言え、かつ織田信長を悪名たらしめている相手、石山本願寺及び一向宗門徒との戦いは『織田信奈の野望』において、お猫様を信仰する本猫寺(ほんにゃんじ?)として扱われ、良晴の交渉によって平和の内に和睦を成し遂げてしまいます。
まあ、これも分かる話。宗教ものという存在自体が、いろいろ扱いづらい面もあるのですが、“英雄の決戦”という軍記物的な華やかな戦さの描きとはおよそかけ離れた戦いとなっていた一向宗門徒はその戦いを描くだけで、まあ、ハッピーエンドのハッピーな気持ちからは遠ざかるよね…という事なのでしょう。

■石山本願寺という存在

しかし、最近、僕は戦国時代において、この石山本願寺という存在をすごく大きなものに捉えようとしています。…といっても、今、何かまとまった説を持っているわけでもないんですけどね(汗)

石山本願寺が織田信長にとって、最大最強の敵である事は……まあ、意見が割れるとも思いますが、そこそこの支持を得られるであろう史観だと思います。ちょっと言うと、織田信長が10年かけて美濃を攻略するワケですが、この時、尾張と美濃を手に入れた時点で、織田信長は、戦国大名としては最強の国力を持ち、一国で彼と総力戦をやれる大名はいなくなったんですよね。
動員兵力について語ると……諸説ありますが、仮に武田信玄のこの時の動員兵力を3万とするなら、信長は6万の兵力を動員できる…というぐらいの差がついている。(信長が「天下布武」を謳うのは時から…という達見を考えると空寒いものがありますが)この国力差は、信長が南近江を手に入れ、上洛を果たすとさらに跳ね上がります。
この信長に対して毛利の支援があったとは言え、特に大きな領土を持つわけでもない石山本願寺が10年間……言ってしまえばタイマンを張り続けたわけです。はっきり言ってこれは他の戦国大名では真似ができなかった事です。

また石山本願寺は武装寺としての信長の対立だけでなく、別の対立もあったと言えるのでは…と僕は思っていて。ちょっと一般的な話をすると、延暦寺や一向宗に対する信長の虐殺行為ってけっこう一緒くたに思われている所があると思うんですけど、延暦寺と一向宗は、信長に逆らった者という観点からは同じでも、対立の意味は違っている所があるんじゃないかと。
いや、よく言われるように織田信長の功績には「旧態勢力の打破」というのがあります。延暦寺はこれにあたると言えそうです。しかし、石山本願寺及び一向宗は戦国時代においては“新興勢力”と言った方がよい存在のはずなんです。

つまり、僕は英雄・織田信長軍団とは別の“新しい勢力”だったのでは?と言いたい。

しかし、本願寺は旧態勢力とはつながっていだろうし、信長ほどそれを一気に片付ける能力があったかと言うと疑わしい。でも、信長だって将軍を利用したり天皇を利用したり別に旧態勢力と敵対ばかりしていたワケではないし、あくまで邪魔なモノを排除しようとしただけで「時代を改革してやろう」とか考えていたか?というとそれは充分に疑えるもので、つまり、その意味において本願寺と大差ないんじゃないの?とも言えます。

石山本願寺は延暦寺のような歴史を持った霊山ではない。また「百姓の治めたる国」と言われた加賀の一向一揆(真に百姓の統治だったかは解釈がありそうですが)などを観ても、別の“新しい勢力”を観てとる事ができると思います。
また『桶狭間戦記』のラジオなんかでも繰り返し述べましたが、戦国時代は、何より武装村落である“惣村”が充分に強い力と主張を持っていた時代であったという史観があり、その惣村の者たちに絶大な支持と信仰を受けたのが石山本願寺であった事には大きな意味があると思います。

戦国時代にキラ星のごとく現れてその名を馳せた戦国大名たちと、その版図の変遷で歴史が語られて~これを仮に版図主義と言いますが~その版図においては“点”に過ぎない石山本願寺のその意味は、まだ充分には掘り下げられていないような………って、僕の話ですけどね。僕がまだ納得できていないと。
『織田信奈の野望』の本猫寺も、ちらっと近い事を言っていましたが、石山本願寺は、版図主義の戦国大名とは全く違った形での“天下統一”を目指していたのではないか?そんな事を考えたりもします。
う~ん、まあ、正直に言うと、そのネタで何か一本小説がかけないかな?とか考えているんですけどね。今は、ぼちぼちゆるゆるとその下調べ中みたいなものです(汗)

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今期アニメの『TIGER&BUNNY』(制作・サンライズ)を観ていたら、何となく『キングダム・カム』(原作・マーク・ウェイド、作画・アレックス・ロス)を思い出しまして、愛蔵版を見つけて来て購入。昔、読んだのですが、白髪混じりのスーパーマンと、白髪で薄くなっていて、でもすげえナイスなシニアになっているバットマンが異様にカッコ良くって、苦みばしった顔つきで会話しているだけで、思わずニヤけてしまう。
『キングダムカム』は、かつて、スーパーマンやバットマンたちスーパーヒーローが闊歩していて、ある事件が元でスーパーマンが引退した10年後の世界。様々な超能力を持った自称ヒーローたち“新世代”は増えに増えて世界中を席巻し、また夫々がぞれぞれの正義を主張して時に衝突し、既に一般の人々の脅威となっている。
見かねたスーパーマンは意を決して復活し、旧世代ヒーローたちを取りまとめてジャスティス・リーグを結成。“新世代”たちも、硬軟折り混ぜた交渉でリーグに組み入れようとして行く。そんな中、スーパーマンの引退後も、老体となりながらも機械化部隊を駆使してゴッサムシティを守っていたバットマンはリーグ入りを拒否する……と物語が展開して行きます。

……問題がカオスを呼ぶ前に、いち早く企業が超人たちを取り込んだのが『TIGER&BUNNY』?みたいに連想したのですが、そもそも『タイバニ』は、そんな洒落にならないような設定の超人はいないんですよねw
様々なタイプのヒーローが揃い踏みな所と「ヒーローとはなんぞや?」という問いかけが違う角度でされている所はあると思うんですが、そんなにリンクのある話でもなかったかな?(汗)

ただ、まあ、もう少し取止めなく話を続けると、僕はアメコミはほとんど読んでない人なんですが、それでも昔、この『キングダム・カム』と『ダークナイト・リターンズ』は機会があって読ませてもらっていました。あと最近、ロヒキアさんに頼み込んで『ウォッチメン』も読ませてもらいました。
ちなみに『ダークナイト・リターンズ』が1986年刊行、『ウォッチメン』も同じく1986年で終了が1987年。『キングダムカム』は1996年刊行で、流れとしては『ダークナイト・リターンズ』と『ウォッチメン』がもたらしたエポックから、再度、復古的な志向と革新的な志向の両立を持って『キングダム・カム』が成立した……という流れがあるようです。

…で、こっから自分の畑の話なんですが、僕はこのブログである物語類型というか特定のシリーズやジャンルとして形成された物語が隆盛の果てに、何らかの『臨界』を迎える話を何度かしていると思います。アメコミのヒーローコミックというジャンルにおいて上に述べた作品群は、まず間違いなくその『臨界』を顕した物語だと思います。(※アメコミほとんど読んでない人の話なのでロヒキアさんとかに聞きたくはある)

また、アメコミヒーローズに対する『ウォッチメン』と、日本のスーパーロボットものに対する『機動戦士ガンダム』は、非常に近しい位置づけであると考えています。……考えていますけど、同時に違うものじゃないか?という直感もあります。
違うというのは『ガンダム』がなければ、スーパーロボットにおいての『ウォッチメン』や『キングダム・カム』がどこかで生まれていて、『ガンダム』の出現によってその後生まれ、80年代のロボットものを席巻した、“リアルロボットもの”というジャンルはなかったのではないか?…などと考えるからです。
『ウォッチメン』は、スーパーヒーローに対するある種の角度からの突込みどころを追求して行くと、ああなる、それは正当なもの…という気がするわけですが、『ガンダム』はそれとは違い異端児的……ガンダム自身はスーパーロボットとしてあり得る形態ではあったけど、その後それに続いたリアル・ロボットたちからは、ある種のヒーロー性を剥奪した面があるように思えています(まあ、要検証なんですが)。

絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(1)

(↑)ここの『「リアルロボット」という時代の終焉』という項でも軽く触れているのですが、ちょっと“リアルロボット時代”というものを自分なりに、まとめ、整理してみたいという思いがあります。このブログで断片的に書き記したり、どこかでまとめたり、そんな事を想定しています。

あと、まあ、僕は『臨界』の話は、多分、やたらすると思いますので、ちょっと単語だけでも覚えておいてもらえると嬉しいです。…というか記事のそこかしこで言ってはいると思います。そんな感じに取止めもなく終わっておきます。


キングダム・カム 愛蔵版 (ShoPro Books)
アレックス・ロス,秋友克也,依田光江
小学館集英社プロダクション

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今期アニメ、『よんでますよ、アザゼルさん』(制作・プロダクションI.G.)を楽しく観ています。楽しかったので、ちょっと単行本買ってきました。1~2巻くらい。



…で、アザゼルさんのCV:小野坂昌也さんと、アンダインのCV:小林ゆうさんは、原作読んでも他のキャストが全くイメージできない。
正に“絶対キャスト”だと思いました。いや、ほんと。アザゼルさん。小野坂さんのパワーが遺憾なく発揮されています。(※佐久間さんの佐藤利奈さんとかも、相当良いのですが、絶対性まで感じるのはこの二人ですね)アンダインも何気に素朴に可愛く見える時があって好きだw



あと、何気に一番好きなのが、べ~やん事、ベルゼブブさん(VC:神谷浩史)ですね。いや、何気に優秀ですよ?この悪魔wさすがその名を知られた悪魔貴族というか、探偵という職業に対して、この人(?)の能力は汎用性が高過ぎるw
アザゼルさんとのじゃれ合いでも、時々、隠し技というか奥の手持っていて基本アザゼルさんを圧倒しているし、ギャグキャラに見えるのは超強キャラのアクタベさん(VC:浪川大輔)がいるからで。そのアクタベさんにも一度、フルパワーの勝負を挑むハートもあるし、佐久間さんだけなら、とっくに呑んでいるんじゃないかな?(いや、佐久間さんはアザゼルさんにも、多分、呑まれてしまうんだろうな)

順調に悪魔使いとしてレベルアップしている佐久間さんですが、おかげで、まったくアザゼルさんを使い切ろうとしないから、アザゼルさんは本当に「そこに居て、ボケるだけの、おっさん」になっています。
なんか、最初に仲間にしたから、微妙に思い入れはあるけど、使い出が無いからそこに置いてあるだけになってしまうユニット…みたいな感じでしょうか?


よんでますよ、アザゼルさん。(1) (イブニングKC)
久保 保久
講談社

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『美女と液体人間』(1958年公開)レストア。ちょと観直してみました。『美女と液体人間』は麻薬密売に関係したギャングたちの間で怪奇事件が起こり、ギャングを追っていた捜査陣がやがてその怪奇事件が、アメリカの水爆実験の影響で人間が変化した液体人間の仕業である事をつきとめて行く物語。最後に、液体人間たちは付近の住民を非難させた下水道にガソリンを流しこみ火炎によって全滅させられます。

……最初、ギャングもの的な展開があるのですが、あんまギャングに対する因縁とかはないですね。あんま関係ない(汗)たまたま、麻薬密売を追っていた刑事たちが、液体人間の存在に気づいたという…。あとタイトルになっている美女も関係ないですね。ギャングの経営する店の踊り子や、情婦が“美女”ですよ~という。あんま関係ない(汗)ん~なんかこの頃、あんま関連なく色々盛り込んでるな~って感じの映画シナリオ多いのですけどね。
まあ、なんかエロスな衣装を着た踊り子さんとかが、悲鳴と共にドロドロの液体に襲われたりして、なんかちょっとエロイよね…っていう。(=´ω`=)そんな感じの映画で、クラブのショーに合わせて、ギャングたちが刑事たちに逮捕されながら、一方で液体人間に襲われるっていう中盤あたりの展開が見応えあって、ここが見所ですね。
この頃、続いて作られた『電送人間』(1960年公開)、『ガス人間第一号』(1960年公開)といったその後、変身人間シリーズと言われているんでしょうか?…のシリーズは、かなりアダルトな、なかなか良い雰囲気の『物語』なのですが、まあ、その後あまり特撮畑で作られてはいませんね(ポツポツとはあるんですけどね)。何だかんだ言って、日本では大人向けは文芸的なものが、強い…………のかも?(ぼそっ)

…それにしても、他意なく観たのですが、そういえば核実験の放射能で怪奇人間化した話だったなあ…。まあ、あんま時事に触れてもよくないので、そっち方向へのコメントは控えますが…。劇中で登場する第二竜神丸~これが日本に流れ着いて液体人間を上陸させたようなんですが~当然ながら、ビキニ環礁沖の水爆実験に遭遇して被爆した“第五福竜丸”をモロに模しています。

日本人が再び核の脅威にさらされた、この第五福竜丸の事件は、当時相当な衝撃を呼び、エンターテイメントの世界でも様々なこの事件に関係した『物語』が作られました。もっとも有名なのが、その後、長大な劇場シリーズとなる『ゴジラ』(1954年公開)ですね。第五福竜丸事件が1954年3月1日の事で、ゴジラの公開は1954年11月3日ですから、なんとその年の暮れには公開。当時の邦画の制作反応の速さが分かります。
また、手塚治虫先生の『鉄腕アトム』でも、同じく1954年の少年付録で『サンゴ礁の冒険』が発表されています。アトムが、怖がる心を持つ装置を取り付けたまま、南の海の冒険に飛んで幽霊船に遭遇する話なんですが…。まあ、この幽霊船が件の船なワケです。

また洋画でも第五福竜丸の悲劇に直接の影響はないでしょうけど、1953年公開の『原子怪獣現わる』、1954年公開の『放射能X』なんて作品が生み出されています。いずれも、核実験により恐竜、巨大蟻が現れる話です。
…まあ、このブログは…というか僕は、『物語』とエンターテイメントの歴史の話に終始してしまうのですが、この頃は核実験に着想を得たSF/特撮映画のラッシュになっている所があります。これがしばらくして60年代に入ると、宇宙開発時代に着想した『物語』が隆盛となってきますよね。…これもまた一面を言ってしまえば、米ソ冷静における大陸間弾道弾戦略構想の技術確立のための競争だったと言えますね。


美女と液体人間 [DVD]
木村武
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昨夜、GiGiさん、ルイさんと四半期恒例の『少年マンガ放談』をやっていました。(↓)録画データです。…いや、ブログで予告するの忘れていた(汗)失敗したなあ…。

▼USTREAM:少年マンガ放談5@漫研ラジオ

【USTREAM URL】
http://www.ustream.tv/channel/manken

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田中 モトユキ
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常住戦陣!! ムシブギョー 1 (少年サンデーコミックス)
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この彼女はフィクションです。(1) (少年マガジンコミックス)
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【5月第3週:ブラックジャック創作秘話 第4話・アニメ地獄】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10512.html#690
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



『バチバチ』(作・佐藤タカヒロ)の九月場所がはじまりました。これが物凄く熱い!!、一勝負、一勝負に凝縮された戦略とドラマがあって読み応えがハンパないです。『バチバチ』は、かつて関取だった大関・火竜の息子として悪名をひっさげながら角界に身を投じる鮫島鯉太郎の物語。父の火竜は無類の強さを誇り綱取り目前だったが、ある日暴力事件の汚名を着せられて角界を追われ、そして自動車事故によって死んでしまっています。

今週の一番付記「バチバチ」気合いを込めてぶつかるだけの熱さ
いや、“相撲”っていうのは一瞬で決まる勝負の美しさもさる事ながら、どんなにおっかない相手でも正面からぶつかるしかないし、逃げたらそこで負けなんですよね。気合いが入ってなければ総て始まらない世界です。佐藤タカヒロ先生は、必ずしも画力のある作家さんではないのですが、そのシンプルな競技の単純明快な心地よさというか、力強さを力を込めて描いてくれています。

(↑)以前、書いた『バチバチ』の記事ですが、新場所になって、この時の『面白さ』が全く損なわれていないどころか、あらゆる面でグレードアップしているんです。これは、この『物語』の色々な構造が功を奏している部分があると思うのですが…一つは、先場所までは「主人公である鮫島鯉太郎が、どんな相手と闘うのか?」という視点で描かれていて、鯉太郎が様々な相手と、どういう取り組みをするのか?が見所だったのですが、二回り目になった利点というか、そうやって闘いあった仲間同士の取り組みで、彼らが何を考え、どう取り組むか?という、さながら“群像劇”の描きになっています。
これが凄く大きい。この週の『バチバチ』の取り組みは、性格や雰囲気が非常に鮫島に似通っていてあからさまに反発しあいながら切磋琢磨をしている石川と、おそらく鮫島よりも遥かに強いにも関わらず先場所、敗れてしまった天雷との対決だったワケですが、この鮫島を苦しめたライバルたちがぶつかり合ったらどうなるか?というワクワク感がそのまま出ているんですよね。

また、群像劇となった結果というか、一勝負一勝負の取り組みがかなり短くなって、瞬間的に燃え上がる熱さがさらに増幅されている面があります。……いや、以前の勝負も充分に扱ったんですが、正直、ちょっと長いというか、けっこう相撲ではありえないくらい、体勢が二転三転する展開が続いたんですよね(汗)
これは取っ掛かりとして、毎週、試合内容そのものでどう盛り上げるか?という命題に対しては有効だったと思うんですが、同時に瞬間的に勝負を決める~にも関わらず長丁場になってしまう事もある~相撲の良さから少し遠ざかる面もあったんですよね。……いや、すみません。別に遠ざかってはいないですね(汗)
ただ、連載1~2週で勝負がぽんぽん決まって行く今の描きの“相撲らしさ”が半端ないだけです。この短さは…おそらくまた宿敵・王虎や、天雷との対決の時は長丁場になる事も予想されますが、短い勝負と対比される事で、その時の熱戦具合をくっきりさせると思います。

また、連載開始時点では、勝負相手との絡み・ドラマ・因縁をじっくりと積み上げて来て、勝負自体はリアルに“一瞬”とかだと、積み上げた演出の割に合わないというか、二転三転含めた長い描きになるのは必然で、そこに問題はないと思います。しかし、キャラクター一人一人の持っている背景が開陳された今は、そこは分かっているものとして置かれ、その上で勝負がどうなるか?という点に集中して描かれている。
そこに至って「どんなおっかない相手でも、まったく逃げられない。正面からぶつかるしか無い」相撲の美しさが顕れ来ていて、その上で、その恐ろしい相手に何を思いどう作戦するか?という勝負の面白さに繋がって来ていると思います。

「3月のライオン」4巻~遠い、遠い、遠い物語
――まだ、この先――

そうまでして手に入れた宗谷名人への挑戦権が、四タテで、故郷・山形での対戦にすら持ち込めず終わってしまう残酷な結末。いや、それ以上に、極限の戦いの中で命を削って「読ん」でいたはずなのに、一筋の光明を見落としてしまう残酷さ。宗谷に勝てないと“諦めてしまった”事に気付かされる残酷さ。精進する事、前に進む事が、当たり前の世界で、むしろそんな事を意識したり、強く念じたりする事自体が“隙”につながって行く。それがその“先にある世界”。

そして、その上で『バチバチ』は、僕の大好きな物語景観である『遠い、遠い、遠い物語』を置いてくれています。まあ、既にその遠さを顕している『3月のライオン』と比すると、『バチバチ』の方は証言、片鱗にとどまる程度なんですけどね(汗)

それでも同世代最強の相手・天雷と闘っている時、石川は「テメーごときの圧力なんざ、うちの大関に比べりゃハナクソみてーなもんだぜ!!」って言い放つんですよね。物凄く恐ろしい相手なのに、先の世界に比べれば、まだまだ児戯に等しい……っていうかまだ、鮫島達は序二段ww格落ちしてきた元十両とかが、やたら強い敵として描かれている世界です。この先、幕内、大関、横綱に到るまでどれ程の世界が待っているか愉しみにしています。


バチバチ 9 (少年チャンピオン・コミックス)
佐藤 タカヒロ
秋田書店

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『スパイキャッチャーJ3』(1965年放映)を録画。1~2話、4話、それと映画編集された23~24話が現存するのみという貴重な作品。昔、オープニグだけ見せてもらっていて…チューリップ♪の目、J3!!(←突然、歌い出した!)以前から観たかったのですよ。
『スパイキャッチャーJ3』は“チューリップ”と呼ばれる秘密組織~The Undercover Line of International Police……んんん、秘密諜報国際警察ってところかな?俗にスパイキャッチャーと呼ばれるエキスパートの日本支部員J3の活躍を描いたスパイ・アクションな『物語』。主演は川津祐介さん。ちなみに日本支部ボスのJ1は丹波哲郎さん。東映東京制作所はその後『キイハンター』(1968年放映)を制作しますね。

…まあ、ぶっちゃけ、これが超メチャクチャ『面白』かった!!毎回、オープニングの最後にJ3は自動車で走行中に謎の一団に襲われて、それを間一髪、J3のスパイカーが噴射して宙を飛び、難を逃れるのですが…もう、そこからしてカッコいいwストーリーも第一話が奪われた原子力潜水艦の行方を探るというハードなもので非常に愉しい。…いや~?『スパイキャッチャーJ3』、これだけしか現存していないんですか?勿体なさ過ぎる!orz

ちょっと、時代的な背景を整理しておくと007シリーズの『ドクターノオ』が1962年公開、『ロシアより愛をこめて』が1963年…と、『スパイキャッチャーJ3』が制作されるにあたって、このシリーズが念頭にあった事は、ほぼ間違いないと思うんですが……これは僕の感覚ではあるんですが、どうも007(あるいは海外のスパイもの)そのままという感じはしないんですよね。(逆に特定の邦画時代劇が西部劇の作りを継承している…って方には割とすんなり腑に落ちるんですが…)いや、この作品に限らず、和製スパイアクションって…なんというか、独特の暗さがあって、いや、特にテーマとか任務とかが暗いって事でもないはずなんですが、微妙な“影”を持っている気がしていて、あんまり海外のスパイアクションそのままではない……気がする。(`・ω・´)僕は、そこが何とも言えず好きなんですけどね。

2008-11-20:陸軍中野学校:プロテクター電光石火

近い印象の物語として、何か例を挙げられないかと考えましたが、市川雷蔵の陸軍中野学校シリーズを思い出したりして。…しかし、これは第一作が1966年公開で『J3』よりも後ですね(汗)…でも、僕のいいたい雰囲気は『陸軍中野学校』の方が伝わると思います。(↑)まあ、ちょっと以前の記事貼っておきますが。
他に和製スパイものの源流的なものとして戦前の『マライの虎』から『快傑ハリマオ』(1960年放映)を上げてもいいのかもしれませんが…。ちょっとハリマオは諜報員というより、工作員過ぎて何かちょっと上手くリンクを繋げられない気がしないでもありません(汗)

なんでしょうねえ…日本には昔から忍者という影の華形がいて、わりと影に徹する事のかっこ良さみたいな考え方が浸透しているため、海外のドラマと比べて、地味な諜報活動を地味なままに描いてしまっても、それがエンターテイメントとして成り立つ所があるのかもしれません。…まあ、適当言っていますが。

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【王の物語】【アーキタイプ】



『ブレイブ・ストーリー』(2006年公開、監督・千明孝一、原作・宮部みゆき)をバックアップ。このアニメ映画、すごく好きなんで、ちょっと書き留めておきます。…というか、ちょっと前の記事で『魔法少女まどか☆マギカ』や『風の谷のナウシカ』の最後の決意の部分~『祭壇』~について語ったのですが、『ブレイブ・ストーリー』は典型的な『祭壇』に至る『物語』と言えます。

『魔法少女まどか☆マギカ』と『風の谷のナウシカ』その結末に宿るもの

▼【祭壇】「祭壇」という元型(アーキタイプ)に関する追記

はじめに断ると僕は原作の『ブレイブ・ストーリー』ではなく、アニメの『ブレイブ・ストーリー』が好きなんですよね。いや、勿論、原作も充分面白く、かつ良かったのですが、対してアニメは原作のダイジェスト感を拭えない構成となってはいるんですが…。
ちょっとだけ、ほんの少し原作からの改変ポイントがあって。いや、いろいろ改変している所はあるんですが、すごく気に入っている改変ポイントがあるって話ですね。…それも、改変とは呼べない程の小さな違いなんですけどね。それこそ原作自体も“その視線”はあったであろう事は、想定されるんですが、ちょっとだけ子供にも分かるように、そうしなかった、そう書かなかった…かもしれない所。…いや、すみません(汗)ちょっと今、原作ひっぱり出せないので、僕の記憶違いの可能性もあるんですが(汗)まあ、それくらい小さな改変なんですが、でも、僕にとってはすごく大きな意味がありました。

まず、あらすじから説明しましょう。『ブレイブ・ストーリー』は、主人公のワタルと、もう一人のワタルの影としての主人公と言えるミツルの二人が、異世界・ビジョンを旅して運命の女神の元へ向かう物語。どんな願いでも一つだけ叶えてくれるという運命の女神の元へ向かう理由が二人にはありました。
ワタルは、ある日突然離婚を宣言して出ていってしまった父と、そのショックで倒れて病院に運ばれた母を持ち、離れ離れになり壊れてしまった“家族”をもう一度取り戻したいと思っている。ミツルは、母親の不倫のために逆上した父親が母と妹を殺して自らも死ぬという、自分だけを残して家族が全て死んでおり、溺愛していた妹の運命を変えようとしている。
そうして二人とも異世界・ビジョンにおいて、願いを叶える権利をもった“勇者”として降り立ち、五つの宝玉を手にいれて、運命の女神に願いを叶えてもらう道を選びます。

しかし、「家族を取り戻したい」という同じ願いを持つ二人の旅路は対照的なものになります。自分一人では多くの事はできず、運送屋のキ・キーマや、サーカスにいたネコの少女・ミーナ、女戦士のカッツといった仲間を増やして何とか宝玉を手にして行くワタルに対して、元々、小学生離れした優秀さを持ち、かつ森を焼く、人を欺くといった手段を選ばぬ方法で宝玉を手にして行くミツル。
効率/スピードはミツルの方がはるかに早く、そして願いを叶えてもらえる者は一人。本当にワタルはミツルを抜く事ができるのか?…という展開なんですが、そのテーマははっきりと示されます。

「ほんとうに叶えたい願いのためには、何をしてもいいの?」と。

そのテーマは最後の試練においてワタルとミツルの二人に襲いかかるわけですが…。さて、ここで原作とアニメの改変ポイントなんですが…まず、一つは「異世界・ビジョンを、主人公の心の影響を受けた世界といった話をしなかった」点を上げます。
…まあ、この物語、心理学的解というか暗喩として考えると、モロに主人公の内面世界を描いていた物語と言えるんですが…そう、はっきり言わない所に意味があるというか……ワタルは最後に「他者を懐う決断」をするワケで、その他者は確かに存在する者として位置づける事には意味があると思います。内面世界で他者を認める事と、実際に他者がいる事には、主観において実は差はない~とか堂々巡りな事も言えるんですけど、それだけに「そう言わない」のが良いなと。まあ、心象に影響される世界をワタルとミツルが共有しているのも変じゃない?とかそういう面もあるでしょうけどねw

そしてもう一つ。これが大切な事なんですが。最後の試練で、二人は自らの分身(ダブル)と戦い、ワタルはこれに克ち、ミツルはこれに敗れ去って、ワタル一人が運命の女神の元に辿り着くのですが、アニメは、この分身の出自を“憎しみの心”としなかった所が好きなんですよね。大好きと言ってもいい。物語では分身は「あなた自身」とだけ伝えられます。
正直、そのために分かりづらくなっている面もあると思う。そして原作は、だからこそ“憎しみの心”という分り易い言葉を選んだのだとも思います。…でも、僕は断然こっち。僕はこの物語において“本当に恐ろしい敵”というのは“憎しみ”ではないと思うからです。



「ビジョンなんてどうなったっていい!!だって…だって!お母さんが…!!」

そう言ってワタルの分身は泣き叫びます。ミツルが最後に宝玉を手に入れるために、闇の封印を解いてしまいビジョンの世界は滅亡の危機に瀕してしまいます。この時、運命の女神の元に向かうワタルは「願いを別の事に使う」事が頭を過ぎっていたはずです。でも分身は言うんですね「そんな事はどうだっていい!!お母さんの方が大事だ!」って。
…そうなんですよね。僕には「絶対に叶えたい願い」を持つ事が“憎しみの心”とは思えなかったんですよね。その願いのために他がどうなってもいいと思う事。この場合「お父さん、お母さんと取り戻せるなら、他がどうなってもいい!」と思う事が、即、憎しみの心、悪い(?)心なんて風には考えられないです。だから、その願いの心とは“別”に、世界を憎んでいたミツルは分身に敗れ、そうでないワタルは最後の試練を通過できた…って事でもいいのでしょうけどね。
僕は「ほんとうに叶えたい願いのためには、何をしてもいいの?」がテーマだとしたら、対峙するべきは「(何を引き換えにしても)願いを叶えたい心」であって、他の心~この場合は憎しみの心~ではないと思うんです。



「願いを叶えたい心」が最後の相手となって、この試練は最も恐ろしい絶対不倒の試練となります。「何としても願いを叶えたい」と想い続ける限り、分身は存在し続け、そしてその分身を殺せば自分が死ぬ~必ず相討ちとなる~からです。誰も運命の女神に辿りつかせない、そういう機構になったと言ってもいい。実際に、ミツルは為す術もなく、この試練に敗れ去ります。
でもワタルはこの試練を通ります。何故、絶対不倒の試練を通れたのか?それは分身が消え去ったからです。何故、分身が消えるのか?それは「叶えたい願い」を諦めるからです。ただの、願いじゃないですよ?「絶対に叶えたい願い」です。そうじゃなかったら、ここに来る前の試練で挫折していたはずです。

最後の試練を抜けたワタルは、まあ、ある意味、予定調和というかよく知る決断として「ビジョンを救う」願いを出します。これ別に「どうしても叶えたい願い」がビジョンを救う事に変わったわけじゃないと思うんですよね。それだと分身は消えないから。いや、他の納得する言葉として、自分だけの願いから、皆の願いに変わった時、分身は消える……って言い方でもいいかもしれませんが。僕の言いたいことはそんな変わりません。

結局、たどり着いた“ここ”は自分の願いを言う場所ではなかったって事です。それが分かる“勇者”しか、ここには辿り着けない。絶対に叶えたい望みだった。だからこそ、ここまで辿り着けた。でも、ここはそれを言う場所ではない。何故なら、ここに来れたのは、自分一人だけの旅じゃなかったから。“みんな”がいたから。だから、ここは「みんなの願い」を言う場所だと。勇者はそれが分かってしまう。誰に言われるわけでもない。嫌でも!どうしても!分かってしまう。それこそが勇者の物語(ブレイブ・ストーリー)だから。

だからワタルは女神に「あなたの願いは…?」と聞かれた時、「ぼくの…」で、一拍置いてから「“ぼくたち”の願いは」と言い直します。…ここも改変している所だったはずです。そして僕はその言葉に感動する。それこそがワタルが辿り着いた場所だと思うからです。そうして彼は「大切な仲間たちと、この世界に未来をください」と願うんです。

…余談ですけど、女神がが採用したワタルの願いって“こっち”かな?と思うんですけどね。いや、ワタルは最初「ビジョンから魔族を退けて下さい」って言うんですけど、その願いが行使された後、実はミツルと彼の妹は生き返ってるんですよ。そのラストが、ある意味謎なんですが……「仲間たちと、この世界に未来をください」が採用されていれば、これもアリになるかな~?(…仲間って苦しいかな?)とか考えたり。いや、ま、普通に奇跡が起きた!でもいいんですけどねw

「ほんとうに叶えたい願いのためには、何をしてもいいの?」という命題は……それでも!どうしても!妹を取り戻したいのに!!と考える人だと納得いかない所もあるかもしれませんが、この物語は別にそれを否定しているワケではないと思います。でもねえ。「何をするか?が、叶う願いを決めるんだよ」というかね…。
まあ、そろそろ締めるので、変に煙に巻くような事を言うのは止めておきますがwワタルの辿り着く場所、ワタルの出す答えは、僕はとても好きなんですね。自分の願いを捨てて「みんなを救ってくれ」なんて、ある意味陳腐、ある意味予定調和な、結末ですけど、何故、そこに至るのか?という事をこの『物語』はシンプルに、美しく、見事に描いてくれている。そして、そこには『王』の道があると僕は思うんです。


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ワーナー・ホーム・ビデオ

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