今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【今週の一番:5月第3週:お茶にごす 第99服 距離】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/d9aeb58e172d3b93d788071a1be76e4a

ここのルイさんのレスが「愉しい」ので、ageて、そしてレス返そうと思います。

>どうも、本編を読むと、そもそも阿含に譲ろう(凡人の俺はトップに立てなくていい)と思った事が失敗…のような文脈で語られているように思えます(汗)

ここが微妙なところなんですよね。

翌週で語られたテーマもやはりこの指摘に沿っていて、「トップに立てるか立てないかじゃない、登りたいから登るんだ!」という話になっている。その事自体は少年漫画として間違っているとは思いませんし、寧ろ「届かない」という自覚を持たせた上で登らせるセナの覚悟は、少年読者を1つ上のステージに進めるような美すらあると思っています。

…ただそうすると、雲水はどう捉えればいいのか。で、少し考えた結果

『ここで涙を流す雲水なら、雲水はフィールドを目指していなければいけなかった』

そう考える事にしました。チャットの時と同じような言い回しですが、涙への着目が少し深まっています。「1番」の時は終始「王佐」視点で話していたので、フィールドを目指して、阿含の横に立つ事を怠るな!という視点でも語っていたと思うんですが(「なまけ」という言葉のセレクトもその印象が通じているからだと思います)その辺雲水の意識を一本化せず、もう1つの線を強く意識した方が良いのだろうと。それはプレイヤーとしての個人・雲水。

雲水がかつて選んだ、阿含を押し上げるという道。それ自体は1つのれっきとした道だと思いますし、その是非を問うてはいないのだろう。ではここで号泣する雲水は何かというと、真の意味で「阿含を押し上げる事」に徹していなかった、という事実が鉄面皮を破って明らかになったのではないか?という事です。それを証明しているのが、この涙そのもの。プレイヤーとしての金剛雲水を、言葉は悪いですけど自らが「完全に見限っていたら」、ここで号泣はしなかったと思うんです。「フィールドでもサポートはできたじゃないか!」という感覚ではなくて…葉柱ルイを見て感じたという事は、素直にいちフィールドプレイヤーとしての葛藤なのだろうと。

その諦めの涙を今便宜上、というか明らかにワザとらしく「true tear」と呼びますけど(笑)雲水が本当の意味で1つの選択として阿含の徹底サポートをするんです、それでいいんです!と生きているなら、この涙は既に流しているハズのものだったのではないか。しかしことここに至って涙が出るということは、LDさんの表現を借りるならサポーターとしてというよりは「フィールドプレイヤーとしての限界を突き詰める事に、“なまけた”のではないか」…そういうことだと考えると、王佐それ自体を否定する形ではなく、雲水のテーマも「アイシールド」に溶け込むんだろうなと思いました。

おっさん顔ですけど雲水も若いですしねwまずはプレイヤーを突き詰めてこの涙を流した時、次に見えてくる選択だったのではないか、と…ただ、中学時代の雲水の回想を見るにストイックなまでに雲水はフィールドプレイヤーとしての自分を見つめていて、その上で諦め、新たなな道を見つけたようにも思うので…ちょっと酷な指摘とも思うんですけど、ね。この辺少年スポーツ漫画としてのバランスですよねえ。



> フィールドプレイヤーとしての限界を突き詰める事に、“なまけた”のではないか

「アイシールド21」の基本的な文脈はそっちだと思います。もう少し補足するなら……肉体的な怠けではなく、精神的な怠け…まあごちゃごちゃ婉曲に言わなくっても、今週のセナが顕わした“あの精神”ですよね。あれが無かったと。
僕が、文中に「雲水の心象はどうであれ」と書いたのは正にそこを指していて、あの場面の雲水の涙には「阿含をサポートする為に何故あのフィールドに居なかったのか?」といったような成分はほぼ全く含まれていないでしょう。その涙は、昔の決意~「俺はトップでなくていい、そうなれる阿含がトップになれればいい」という思い~に直結させており、これに多少の議論の余地は残るとしても、普通に読むなら「トップになれなくていい」(阿含への仮託の要素を抜き1プレーヤーとして考えると、単に「トップになれなくていい」になりますね)という“それ”によって今、雲水は“泣く”事になっている…というものでしょう。

しかし、お前はその“演目”を選んだんだよな?今、泣いてしまう心象はどうあれ、昔決めたあの時から今までの自分を全部後悔の対象としてしまう事にお前は本当に納得するのか?

もし、雲水が阿含に叶わないと判断したあと“無為に過ごして”いて、そして今泣いているのだとしたら、どうぞどうぞ~!(ダチョウ風)海よりも深く後悔をなさいwwwww君はそれだけの失態を犯したのですwwwちょwwwwwウケるwwww…くらいの事は言うんですけどね(`・ω・´)僕が観る限り、雲水はそうじゃなかった。だって東日本において無敗だった神龍寺のレギュラーになっていて、その努力の描写は常にされていたんですから。だから雲水は“諦めた”のではなく、別の“演目を選んだ”んだと、そう言えると思うんですよね。そこらへんはルイさんも…

>中学時代の雲水の回想を見るにストイックなまでに雲水はフィールドプレイヤーとしての自分を見つめていて、その上で諦め、新たなな道を見つけたようにも思うので…ちょっと酷な指摘とも思うんですけど、ね。

…という補足に立返っていますよね。僕もそう思うんです。…ただ、雲水の決意は「王佐」という精度には明らかに達していなかったんでしょうね。もう少し曖昧な「阿含がトップにいけばいい(それを助けられればいい)」と潜在的な「でも、本当は俺が…!」の間をふらふらしている感じだったのでしょう。そして、ここに来て、自分の本当の気持ちに気がついたと…その雲水の心象において「アイシールド21」のテーマとの融合が為されていると思います。

だから、この話はその後の話、雲水の心象を超えた話…という事になるんでしょうか。雲水は阿含に勝てない事を悟った後も“努力”を止めてしまう事はなかった。“無為に過ごす”事はなかった。無為に過ごさなかった以上、それは「道」に通じているんです。今は雲水自身が気付かなかったとしても、それは間違いなく「道」なんだと僕は思います。
……ラストシーンで雲水が「今までの俺は間違っていたぜ!これからは阿含!お前を倒してトップになる事が俺の目標だ!」→阿含「あ”~?ようやく気がつきやがったか、このタコw……待っているぜ!兄貴!w」とか言ってジェミニ・クロス(ガッ!)をしたとしてもですよ?(´・ω・`;)(←汗)

無為に過ごしてしまった事のテーマはむしろ桜庭とかが持っているはずで、その桜庭は今フィールドに立っているというwこの桜庭と比して、かなり酷い扱いを受けてしまっている雲水ですけど(汗)それはもしかすると、今、叶わぬパンサーに、それでも挑もうとするセナのテーマ=「アイシールド21」のメインテーマの到達点とは、全く逆のテーマが眠っているからかもしれません。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【5月第3週:お茶にごす 第99服 距離】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10411.html#586

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



LD >> 雲水だけベンチに居ないんですよねえ…。ふむ。
ルイ >> 王佐を否定してるような格好ですかね。分はある!と賢い事を悟る前に、まず想いっきり前出て恥さらせって言ってるわけですよね。その役目を担ったのが葉柱ルイで。
LD >> 王佐を否定してる>そう。それを思いました。その考えでいいから、食らいついてでも阿含の横にいてやれよと。…阿含が残る事で必要な事で犠牲になるのはアリだと思う。それなら、泰然と観客席でゲームを観れるし、阿含がだらしなかったら叱責しにも行ける。
ルイ >> ああ、LDさんの指摘、てにをはが何かヘンだから読みにくいけどw素晴らしいw 王佐の階級・・・真の王佐ではない、という事になるのかもしれませんね。稲垣先生はあまりその意識はないように思うけれど、雲水の立場・視点で見ると自然そういう物語になる。代表をもぐりこんででも掴みとって、阿含の1番近くでサポートしてみせろ、ハジかいてでも、という物語。

高校アメリカンフットボール・マンガ「アイシールド21」の第329話において、天才プレイヤー・阿含の兄・雲水は、自分の凡才を自覚してワールドカップ・ユース大会の舞台に昇らず、弟の阿含がその場に立つことで満足してしまった。しかし、その後、どんなにみっともなくても舞台に立つ事を選んだ葉柱ルイを観て、自分に後悔し嘆くシーンについて語っています。
う~んw…うちは「王佐」とか「王」とか、あるいは「覇」とか、どうも変な「言葉」を持ってきてしまう癖があって、あれなんですがw(汗)今回そこらへんの説明は、またの機会にするとして……“この場”で「王佐」を言い換えるとしたら「脇役となる覚悟」と言えるかなと思います。

僕は(ルイさんもそうでしょけど)雲水は、阿含の為に生きていいと思っています。そして劇中で雲水が言われたように、自分の才能を見切る事は間違ってはいない。(…これは劇中において皮肉となって返って来ていますが)…でも、それと“無為に過ごす”事は別だと思う。…分かりやすく“あきらめる”事は別だと思う…と言いたかったんですが、どうもそれだと「じゃあ、阿含を超える事もあきらめるなよ?」という指摘に取り込まれちゃいそうに思ったので変えました(汗)まあ、ちょっと人間の選択や判断…あるいは「覚悟」を、単純に“あきらめる”と“あきらめない”の二元論にのみ落とし込んで語る人には伝わりづらい話かもしれません。

とまれ、雲水は自分は阿含に才能で勝てる事はない、阿含の方が先にいける人間だと判断しました。それ自体は、この「南無あきらめるな経」大合唱の世の中wで立派…とも言えるかも知れないし、まあ単に“だらけて”そう思ってしまった…という事もあるかもしれませんwそれは判断した“この時点”では分からない事なんですよね。つまり、その人間の価値は“ここ”では決まらない。それは、そういう判断、選択をした後に“無為に過ごさざるか?否か?”が決める事なんです。そして雲水は「阿含の脇役」となる事を決めた。それは決して無為な生き方ではなかったと思うのに、最後の最後に来てその生き方に徹する事ができなかった。雲水の心象はどうであれ、彼はここに来て「阿含の脇役」という演目を“だらけた”のだと思います。

…と、いうのが「雲水の物語」だと思うんですけどね(汗)どうも、本編を読むと、そもそも阿含に譲ろう(凡人の俺はトップに立てなくていい)と思った事が失敗…のような文脈で語られているように思えます(汗)ただ、まあ、そうだとしても僕やルイさんは、それは真の「王佐」では無かったから…という受け止め方になるんですけどね。(ね?)
そして、この位相の違いは、少年ジャンプという子供が読むマンガ誌上において、正しくもあります。子供は自分の実力が(成長を含めて)分からないから子供なのであって、その実力を知らしめる為にも、まず一般論として“あきらめ”させちゃなんないってのがありますから。……そこらへんは、歳を経て次第に世界の観方や、考え方も成長させて行くのが健全なんでしょうね。…まあ、勧んでマンガが人間形成を担うって話をしたいワケでもないんで、ここらへんで止めますがw


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




「遊星王子」(1958年制作)コンプリート…といきたい所だけど3話連続で放送されていて1回分ごっそり録り損ってゆ…orz ま、しょうがないよね?ね?(´;ω;`) 間を置かず「少年ジェット」(1959年制作)がスタート。これを待っていました。以前、友人に観せてもらったのですが、それが相当「面白かった」のですよ。まあ、「遊星」、「ジェット」の話はまた日を改めてしたいです。「あしたのジョー2」もコンプリート。以前も録っていたんですけどね…。大事な事だから2回録りました(`・ω・´)



仲間内の上映会で「マカロニ・ウェスタン」の影響を受けた…時代劇?のようなものを集めて流そうとしています。僕の担当は「風雲(or 快傑)ライオン丸」と「木枯し紋次郎」かな?あと、今、録っているこの「荒野の用心棒」(1973年制作)なんですよね。「荒野の用心棒」と言ってもレオーネの“あれ”じゃなくって、三船プロが制作した素浪人シリーズ(?)の一本ですね。このシリーズ全体がかなりマカロニな影響下にあって、まあこの作品もかなり凄い感じです。レオーネの「荒野の用心棒」と、同名タイトルなのは偶然ではないでしょうけど……モロに同名になっているあたりが、微妙に天然入っている気もするなあ…w(前作が「荒野の素浪人」だから…その次は「荒野の…ってw)

ライフルの達人(夏木陽介)、火薬の達人(竜雷太)、剣の達人(渡哲也)の三人が用心棒稼業で荒野をさすらう物語。天保年間頃の話ですかね。“銃の旦那”が持っているこの銃、ウィンチェスター銃だと思うんですが…う~ん……(調べる)ウィンチェスターの生産開始は1857年、ペリー来航の後ですね。…………ま、いっかw(=´ω`=)
まあ、そんなこんなで、この物語の日本諸藩は裏で密貿易やりまくっていて、けっこう新式銃部隊とか持っています(ウィンチェスターを扱うのは“銃の旦那”だけかな?)。豪商とかでガトリング砲買い付けてる奴がいたり…すっげええええ!!w(ガトリング砲の発明は1862年w)こんな頼もしい日本なら幕末の展開は全然違っていただろうなあ…wまあ、そんなワケでかなり異色なガンアクション時代劇になっています。

しかし、観ていて思うのですが、作劇のテイストはマカロニ・ウェスタンと大分違う気がします。いや、これはあくまで“マカロニの影響”としての話なんですが、3人の用心棒たちは、それぞれ人情に厚く、弱きを助ける性格なんですよね。“火薬の旦那”なんかは、おそらく百姓出身で、虐げられる百姓の気持ちをいつも代弁している。ここらへんのウェットな感じ……「ちくしょう、割を食うのはいつも百姓だ!」とか、そういう事を、内心で何を思っているかはいいとしても、それを口にしてしまうと、何というか僕が感じているマカロニ・ウェスタンのスピリッツの部分に異相があるように思ってしまいます。
僕のマカロニ・ウェスタン・ヒーローのイメージって、弱い奴を(気まぐれか結果的に)助ける事はあっても偏に感情移入したり代弁もしないというか…。気に入らない奴は撃ち殺す、金は奪う、復讐は果たす。それはそもそも理不尽がまかり通る、無法の荒野だからこそって事もありますが、自分もそれに乗った生き様を選んだのだから、結果どんな酷い仕打ちを受けても野垂れ死んでも文句はない……敵に落とし前はつけるけどw…と、そういう利己的に生きる美しさを描いていると思うんでよね(いろんな監督がいるので一概には語れない所ではありますが)。

そこらへん日本の人情的な時代劇メソッドだと、かなり移植の難しい部分ではあるのかなあ?とは思いました。じゃあ、どういうアプローチの仕方があるか?という答えの一つとして「必殺シリーズ」や「木枯し紋次郎」なんかがあるわけですけどねwまあ、ここらへんは、また機会があれば…。o(…「紋次郎」の担当だし、直近で「紋次郎」の話はしておこうかな?)


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




【王の物語】

【5月第2週:お茶にごす 第98服 いい人】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10410.html#585
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



一番を取っている「お茶にごす」がよかったです。「お茶にごす」は、かつて近隣校一帯から“悪魔”と恐れられた不良、船橋雅矢ことまーくんが、その悪い物が集まってくる人生から足を洗って普通の高校生活を送るために、茶道部に入る。しかしトラブルは尽きず…という物語ですね。
その中で、以前、まーくんとダチの山田に締められ、罰ゲーム的に「一生、いい人のフリをする」事を強要された不良二人が、なぜか四六時中見張られているわけでも無いのに「いい人のフリ」を続けていて、それが仇になって不良グループに追われるハメになる。(元)茶道部部長の姉崎さんは、それを知って彼らを守ろうとする。……この姉崎さん、ちょっとした“人物”で、この回も、「いい人のフリをしているだけ」という不良二人に対して「あなた達はいい事をしたから、いい人です」と言い切り、彼らを守ろうと身体を張ります。

僕は、様々な答えがないような問題から良い結果を導き出す……引いては良い星の巡り(えにし)を導きだせるキャラクターを「王」と呼んだりするのですが、今回の姉崎さんの振舞は、正にそれを感じましたね。西森博之先生のマンガには、“ここへ”のアプローチをしている(ように見える)キャラクターが大抵出てきます。
まあ、ちょっと断っておくと、ここらへんは僕の勝手な視点なので、読み違えの可能性はないではないです。…たとえば今回の姉崎さんの行動(と結果)を西森先生が「これは勇気があれば、誰にでも出せる結果」(行動ではなくて結果が重要)として描いているなら、僕が勝手に言っている「王」もクソも(失礼w)ない事になります。「みんな、勇気を出そうよ!」って話になりますね。……でも、単純に勇気を出して行動を起す事は誰でも出来るとしても、そこから本当に良い結果を出して行くのは必ずしもそうではないはずです。(今回のエピソードを出来過ぎと感じている人には分かると思います)

そもそも、元々は茶道部に悪いちょっかいをかけてまーくんに締められたこの不良を助けるために、ここまでする必要があるのか?って事含めて、助ける姉崎さんは“特別な人間”として描かれていると思うし(普通の人間と地続きに描く面もあるここらへんは一律に言えない)、西森先生が「みんな勇気を出してこんなヒーローになれよ!」と言ってるとは思えない。…そこにある「選ばれた力」(良い結果を出す力)のようなものを、西森先生が観ているとしたら、「王」というワードを使わなくても、今の僕の視点との一致があると思っています。

また、西森先生は同時に「選ばれた力」を持たない人は、どうやって意地を張るのか?という話は、連載した作品の中で必ず描いていて…勇気を出す事の難しさを知っているから、逆に勇気の出し所、意地の張り所は教えてくれているんですよね。そこらん含めて、また完結していない「お茶にごす」は保留としても、前作の「道士郎でござる」、前々作の「天使な小生意気」なんかかは、今、述べているようなテーマで一通り筋が通る物語になっています。西森先生は多分、大体同じようなテーマをちょっとずつ角度を変えて描いているんだと思います。

■西森博之作品という物語
そういう西森作品の中で連載当時は、超々スルーして、あとで後悔…というか、その位置づけの凄さに気がついた「スピンナウト」(1998年~1999年、春風邪三太と共作)という作品があります。僕は、これ、連載当時メッチャクチャ、流し読みでスルーしていて、打ち切られた時は「まあ、当然かな」という感じでした。その終了後、文字通り即日で「天使な小生意気」(1999年~2003年)が始まるんですけど、こっちは新連載開始の数話で「西森先生が化けた!!」という衝撃を受けた作品で。他の連載と比べて強烈な設定があるワケでもないのに、何故か面白いこの連載を、仲間内では「西森先生、何を開眼したんだ?」なんて話し合ったりしていました。

…ん~だから「スピンナウト」は、途中で飽きちゃって、直ぐに「天使な~」の構想を練っていたんだろうなあ…なんて片付け方をしていたワケですけどね。実際、作品単体としては、これと言って奇抜な展開や特徴もなく、ファンタジーとしてはキャラ立ちもあまりいいとは言えない作品で、この評価はそんなにズレてはいないと思います。しかし、「天使な~」→「道士郎でござる」に至って、僕は西森先生のキャラクターに向けられた視線が非常に気になっていて…それで、あの「スピンナウト」というのは結局なんだったんだろう?単に共作したための失敗作?(失礼)そうではなかったんじゃないか?と思い始めて、もう一度単行本で読み直して観たんですよね。
そうしたら、その位置づけの凄さに気がついた…というか、この作品、西森作品のシリーズとして凄く意味がある。それは単に時系列ってだけじゃなくって、出世作であり同時に一番の代表作である「今日から俺は!!」から、その後の作品への橋渡しとしてかなり重要な意味を持った作品である事が分かってきました。言い訳するとこれはリアルタイムというより、ある程度その後の作品を眺めて行かないと感じるのは難しい視点だったんじゃないかと………言い訳ですが(汗)



「今日から俺は!!」(1988年~1997年)は、中学時代は普通だった少年・三橋貴志が高校で金髪不良デビューを果たし、同じ高校デビューでトゲトゲ頭になった伊藤真司とつるんで、悪い不良(?)と対決して行くという物語。主人公の三橋は不良になってみたら、実は自分がケンカに滅茶苦茶強い事に気がついたというキャラクターで、悪知恵も働き、自分にちょっかいを出しケンカをふっかけてくる不良たちを次々に“懲らしめて”行きます。この三橋は僕が知る限り、どこかで“してやられる”事があっても最終的には必ず勝利というか仕返しを果たす無敵のキャラクターで、おそらくは無敗北。なにかあったとしてもそれはスルーできるぐらいの些事なエピソードではないかと思います。

この時点で、最初に述べている「選ばれた人」という視点を三橋にも当て嵌めたくならないワケではないんですが、それはちょっと保留しておきます。まあ、違う…と思っています。「今日から俺は!!」は基本的には、頓知(?)と腕っぷしを駆使して、憎っっったらしい不良どもを、面白可笑しくぶっとばして行く作品の範囲を出てはいないと思うからです。
また西森マンガの特徴に“今だにヤンキー(不良)モノを書いている”というのがあるんですが(今だに…と書いてはみたのの、ちょっと眺め回してみると言うほど廃れてはいないですねえ…wま、続けますが)これは「今日から俺は!!」が始まった当時は、単に周りもヤンキー/暴走族ものが流行っていたという事に過ぎないと思っていますが、今もそれを続けているのは、書き慣れたからって部分があるとしても、もう少し別の意味もあると思っています。





話を「今日から俺は!!」に戻します。連載開始から9年、全38巻に渡り、おそらくは西森先生の最大のヒット作であるこの作品は、間、間になごやかな日常エピソードを交えつつも、少年マンガよろしく“さらに強い敵”と戦って行く事になります。…とは言っても、あくまで不良マンガですから、カメハメ波とか北斗神拳なんかの超能力が出せるワケでもなくって、そんな中で腕っぷしが強いなんていう話にも限界がある…結果、「今日から俺は!!」の敵は、腕っぷしよりも“悪意”と“卑劣さ”をパワーアップして行く事になります。…これ単に“強い奴”なら負ける事も有り得たかもしれないんですけど、少年マンガ的に“卑劣な奴”には一度たりとも負けるワケにいかないんですよね。結果、三橋の無敵度ってのはどんどん上がっていって最終的に、画像に張った相良のセリフのようなものが出てくるに至るワケです。

相良「見せてくれよ、オメーの無敵ぶり。女も人質にとられているし、仲間はいねェし、鎖で繋がれているし。普通ならダメなトコだが、オメーならできる。なにしろ天才だ、最強だ。あの三橋貴志だ」

こういう卑劣は必ず打ち倒す展開の繰り返しの中で、僕は西森先生の中で「ほんとうに、どうしようもない悪意に対して打ち勝てる者なんているのか?」という問いかけが生まれて来たのではないかと僕は「読んで」います。(以前から、あったけどあまり顕在化されていなかったとも)具体的に言うと、相手の悪意をパワーアップさせる事で敵を強くして行く手法をとった結果、多分、というか間違いなく、三橋を倒すために、“もの凄く悪い作戦”、“洒落にならない作戦”、などを思いついていて、でもそれは「本当にどうしようもない」とボツにしていったアイデアが沢山出てきたと思うんですよね。…だって、本当にどうしようも無い事は、本当にどうしよも無いですから!w

その視点は物語の最後の敵となった相良(以前倒している)から、完全に顕われていて。彼は、三橋がカッコつけたまま(悪知恵は使うが、本当に卑劣な事はしない)“無敵”である事が、ただただ憎く、三橋でも本当の悪意の前では、どうしようもない事を思い知らせるために三橋を追い詰めて行きます。…まあ、最後には様々な要素に助けられて、どうにかこうにか全員、無事……でもないんですが(汗)まあとにかく“最悪の事態”は回避して物語は最終回を迎えるます。…しかし多分、というか間違いなく、西森先生は本当に三橋を後悔させるだけだったら、もっともっと“酷い手”がある事は分かっていたはずです。
相良の悪役としての最後の、最後の、矜持のようなものが三橋を“救けた”のですよね。フィクションとしてエンターテイメントとしてそれは当然なんですが、しかし残ってしまった「そんな悪意に、どうすれば打ち勝てるのか?戦って行けるのか?」という問いかけに対する燻りというか、答えを探すような物語として、次の「スピンナウト」が繋がっていると思っています。

■「スピンナウト」という物語



結論から言ってしまうと「スピンナウト」は、今、述べた視点においての「今日から俺は!!」の続編と言えます。(繰り返しますが、今、述べている視点においては、です)ある異世界に飛ばされてしまった少年の物語なのですが、主人公の五月は常人離れした筋肉を持っていて現実世界ではケンカに負ける事はない(無敵)であろう人間として描かれています。まあ、同時に限りなくヤンキー(不良)っぽいwまた、主人公と一緒に異世界に行ってしまう少年・田中は、ナンチャッテ不良という感じではあるんですが、間違いなくヤンキー(不良)ですwこれは、つまり現実世界では「ヒーロー」で居続ける事ができてたであろうキャラが異世界へ飛ばされてしまう事に意味を見出している事を指します。それは三橋や伊藤を重ねて観る事ができるという事です。

ここらへんの出かかりは、その後連載されアニメ化もした安西信行先生の「MAR」と非常に似ているので機会があったら比較して観て欲しいです。しかし、僕は「MAR」もそれ程、特徴に満ちた異世界ものとは思っていないのですが、「スピンナウト」はそれに輪をかけて特徴がありません(汗)いや、むしろ“よりショボイ設定”が選択されているという事が特徴とさえ言えますw

まず、主人公、異世界に行ったんだから、そこで何か別の超能力に目覚めてもいいと思うんですけど、そんな事は全くありません!wまた、異世界なんだから“魔法”とか“伝説の剣”とか、あるいは“失われた超古代技術”とか出てきても良さそうなものなんですが、そういうものも一切出てきません!w異世界といっても、現実世界と言葉や文明が違うだけで物理法則的にはなんら付加されたものも無い、単なる普通の世界なんです。……なんというショボさorz
しかし、今まで述べたような「今日から俺は!!」の続編という視点で観れば、その意味が分かってくるんですよね。超常的な大魔王やドラゴンなんていう物を敵にしたら、どうしようもない事なんて分かりきっているんです。「スピンナウト」が(西森先生が)立ち向かいたいのは、そんな“超常的な力”に、“超常的な力”で対抗するような物語じゃないんです。現実の不良ものではボツにされてしまうような“悪さ”。また、先ほどは言いませんでしたが、守る側も本当になりふり構わず守ろうと思ったら“犯罪者”になる事を覚悟せねばならず、結果ボツになってしまう事。そういったリミッターをはずす為に異世界を選んだだけで、SFファンタジーをしたいワケじゃないという作品なんですよね。ま…結果、「華」が無くなっているけど!(`・ω・´)

その為展開は、異世界に来て、言葉ぐらいさっさと都合良く通じるようにしてあげればいいのに……1年くらい通じなかったり!(`・ω・´)通じない間、どうなっていたかと言うと……当然というか現地人にいいように扱われて奴隷になってしまいます!主人公たちは奴隷として1年過ごして、その後もその立場から、いつでも気分次第で殺されてしまうという苦しい状況から「どうしようもない悪意に立ち向かって行く戦い」を開始します。……どうですか?このショボさ!!(`・ω・´)でも、わくわくして来た人もいるんじゃないでしょうか?wいや…すみません。ショボイショボイ繰り返しましたが、ここらへんの文脈が分かってくるとなかなかの良作だと思っています(汗)
主人公の五月は、ちょっとコナン・ザ・グレートな感じもするんですが、もう一方の、本当に“何の力”も持たずに異世界に来てしまった、ヘタレ不良・田中のいじましい戦いっぷりは、とても心を打ちます。間違いなく、その後の西森作品に出てくる“あるタイプ”のキャラクターの原点と言えるキャラです。その“あるタイプ”の話はまた別の機会にしますが…(汗)



そして、これが「スピンナウト」の意味を決定づける出来事ではないかと思うんですが、この物語のヒロインは死にます。主人公はその娘を守りきる事ができませんでした。ヒロインだけではなく、様々な悲惨な犠牲を払って最後の敵を倒すのですが、ヒロインが死ぬ事へのハッピーエンドの欠損感は極めて大きいと思うので、ここはヒロインが死ぬ事を強調したい。あっさり人が死ぬなんて設定が持ち込めるのはこの作品だけではあるんですが、しかし、西森先生は作品中必ずヒロインがピンチになるシーンを用意しますが、「ヒロインを救えなかった」、「ヒロインを守れなかった」作品はこれだけです。この意味は極めて重要だと僕は思っているし、それ故、この名も無き打ち切りマンガを紹介したいと思ったわけです。

そして、ここで描かれる「どうしようもない悪意にさらされて犠牲の果てに勝利を手にする物語」の視点から、「天使な小生意気」や「道士郎でござる」、あるいは「お茶にごす」を観ると、その深さや感動がまた違ったものになってくると思います。また、これらの作品は「今日から俺は!!」~「スピンナウト」で投げられた問いかけの“答え”を描こうとしていると思うんですよね。それが、どんなものなのか?……という話は、気がついたら、えらく長くなってしまったので、またの機会にします(汗)

…でも、まあヒントというか、その答えの一つが最初に話した“姉崎さん”だったり、説明はまたの機会とした“あるタイプ”のキャラクターだったりする。……という話なんですけどね。




コメント ( 4 ) | Trackback ( 1 )




「宇宙魔神ダイケンゴー」(1978年制作)と「超人戦隊バラタック」(1977年制作)をコンプリート。ちょっと中身を観ていました。どちらもスーパーロボット系が華やかなりし頃の作品ですが、大分、記憶が薄れているなあ~。特に「バラタック」が「超力ロボ ガラット」(1984年制作)に先駆けるギャグ・ロボットアニメだったとははじめて知りました(汗)



「宇宙魔神ダイケンゴー」は銀河連盟という星間連合に、別銀河の覇者マゼラン帝国が侵略してくる話で、その盟主エンペリアス星の守護神“ダイケンゴー”が登場した事で損害を危惧したマゼラン帝国の前線指令・ロボレオンは、銀河連盟に対して和平交渉(勿論、罠なんだけど)を持ちかけてくる。エンペル王含め、和平派意見が大勢を占める中で、一人、マゼラン帝国を信用できないと判断したライガー王子は、ダイケンゴーを駆ってエンペリアス星を飛び出しマゼラン帝国との戦いを開始する…という物語。堀江美都子さんが歌うOPもいいのですが、僕はMOJOさんが歌うEDの「宇宙の男ライガー」が、カッコよくってすっごい好きでした。(CD「懐かしのB面コレクション」に収録されていますね。持ってます)

このライガー王子、けっこう血気盛んな人なんで、冷静にロボレオンの策略を見抜いていたかは微妙なんですがwどうも和平交渉自体は決裂したものの、そこを境に戦局は小規模な小競り合いに落ち着き、後方からマゼラン軍を攪乱するダイケンゴーがいるために、ロボレオンも大攻勢には打って出られないという状況になっています。
エンペリアス星には三人の王子がいて、それぞれに活躍するなど、巨大な星間国家同士が対決する物語を歴史英雄絵巻的(ナレーションとか含め講談的な感じもする)に落とし込んでいます。そこらへん、たとえば前線指令ロボレオンの上にはマゼラン軍総司令の女将軍バラクロス、そのさらに上には正体不明のマゼラン大帝がいまして、最終回にマゼラン大帝もロボレオンも倒されるのですが、一人バラクロスだけは、マゼラン星雲へと落ち延びて行くんですよね。ここらへんの意図的な“全部決着のつかなさ”は次の戦乱を予想させてなかなか味がある終わり方になっています。



「超人戦隊バラタック」は「鋼鉄ジーグ」、「マグネロボ ガキーン」に続く、マグネロボシリーズの第三弾です。いや~なんか真面目なエスパー戦隊として観ていた記憶なんですけど…ギャクな作りですねえ。(そうは言っても主人公のユージやマックたちは全然真面目なんですけどね)まずそこに驚きました。色々設定が斬新です。そもそも敵組織であるシャイザックは本来、親善使節として地球に来訪していて、本来の目的は地球と友好関係を結ぶ事なんですね。しかし、その全権大使であるゴルテウス指令(CV.大塚周夫)が野心を持って地球征服を目論む…という物語のはず(汗)いや、実際にはゴルテウスは、あんまし地球侵略に一生懸命じゃありませんwなんというかパンダとか、スーパーカーとか、D51とか、そういう地球の(日本の)チビッ子が大好きなものを、同じように好んで、それらを取ってきて自分の物にする事ばかりを計画します。それを副司令であるジュリアス将軍(CV.野田圭一)が窘め、何とか本来の目的を果たすように諫言するのですが…。なんかねえ~このジュリアス、有能でイイ者として描かれているんですけど、イマイチというか……全権がゴルテウスにある以上、何か己を律するものもあるんでしょうけど、まあとにかくゴルテウスの暴走を全く止める事ができませんでしたね(汗)w

当時のスーパーロボットものは基本、小学校高学年あたりをターゲットにしていると思いますが、この作品はそれよりも低年齢向けで、多分、幼稚園~小学校低学年あたりをターゲットにしているんじゃないかと思います。そのせいか、ものすごく観やすかったですね。何というか、わんこそばのようにスルスル最後まで観れてしまった印象がありますw
たとえば上の「ダイケンゴー」なんかは、多少政治的な背景や駆け引きなんかがあって(正確に言うとあると想像されるのですが)そこを変に説明するよりも、分かりやすさの為に端折っているワケで。そうではなく分かりやすい話を分かりやすく描く良さが出ていたと思います。

主人公たちがエスパーである事も含め、上記したパンダやスーパーカーなど、チビッ子が大好きなものをこれでもかと放り込んだ楽しい作品に仕上がっていると思うんですが…。人気的には振るわなかったし、かなり忘れられた作品ですよね。…まあ、前作の「ガキーン」から既に振るわなかったので、その流れは如何ともし難かったという事かもしれませんが。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




「惑星のさみだれ」7巻(作・水上悟志)を購入しました。地球をかち割ってしまうビスケットハンマーと呼ばれる巨大なハンマーを操る謎の魔法使いアニムスと、それを阻止せんと12人の選ばれた騎士を従えて戦う精霊姫・アニマ。両者の時空を超えた戦いに巻き込まれた大学生・雨宮夕日と、アニマが降りた少女・朝比奈さみだれの運命と決意の物語…という感じでしょうか。
それで、ちょっと以前から気になる所があったので、始めから「読み」直したりしていたんですが、そうすると、さらに思う所がポロポロと出てきまして……まだ、それぞれ断片的で、思考が繋がらないんですが、とりあえずバラバラに書き連ねておきます。

■アニマとアニムスの事とか~



…アニマとアニムス。



…トラウマ。



…夢。

ああ、そうか。「ユング」なんだ。単に言葉遊びってだけじゃなくって。この物語を読み解くベースとして「ユング」が使われているんだ……とか思ったり(今さらですが)。

少なくとも、物語の軸が“アニマとアニムス”の戦いであり、主人公は“トラウマ”を抱えており、主人公(とヒロイン)が見る“夢”の世界が重要に語られているのは「ユング」の意図で結ばれているのは間違いないでしょうね。…えっと、夢の顕れ方とか観てもフロイトって事はないんじゃなかろうかと素人ながら思ったり(汗)最初に、夕日がさみだれに出会った後、“鎖”を断ち切って跳ぼうとする“夢”を見るのは、かなりセラピーな感じで象徴的と言えます。

また、ユングの説には“アニマ”(男性が持つ女の心の元型)や“アニムス”(女性が持つ男の心の元型)以外にも、“グレートマザー”(慈愛・母性の元型)、“老賢者”(厳格・父性の元型)、“シャドウ”(苦手なものや生き方・反面の元型)…あるいは神話やファンタジーをモロに説明してしまうキャラクター(元型)なんかもいるみたいなんですが、ここらへんの者たちも作中に顕われていてもおかしくはないな、とか考えています。
たとえば、最強の魔法使いアニムスが望んで未だ手に入れていないアカシック・レコードを既に持っていた、カジキマグロの騎士・秋谷稲近老人ですが、彼を“老賢者”にあてはめる事はできないでしょうか?…………すみません、あてずっぽうです(汗)…でも、僕はずっと、最強のキャラであるアニムスを超える存在とさえ言える、この秋谷老人をなんでわざわざ登場させ、すぐに退場させたのか、さっぱり分からない所があったんですが、こういった具合に象徴的な何かを指しているのではないか?と考えると、何かが観えそうな気がして来るんですよね。



強引な推論ついでに、もう一つ言うと、雨宮夕日の“シャドウ”も、既に現われているんじゃないかと思ったりもしました。(↑)たとえば東雲三日月のこう言った振る舞いは夕日の“シャドウ”として存るのではないかと……普段は、はねっかえってはいるけど至って好青年(?)に観える、東雲三日月はなんで時々あんなに狂るうのか?いや、そもそも獣の騎士たちは、必ずしも全員とは言えないんですが、多くの人間が“狂っている所”と“まともな所”の二本軸で描かれていて、それは正直、読者がキャラを掴めずに混乱するギリギリの所だと思っています。加えて、作者の技量的には考えずらい程、被り気味のキャラたちを配置している。(少なくとも「地球が割れてもいい」と言った虚無的なエッジを夕日のみに利かせるような事はしていない)…こういう12人の騎士と言っても、バラエティは求めず、近い存在を集めて置くのは、ここらへんの視点(ユングの用意したツール)を利用して、それぞれがそれぞれの生き方なんて話ではなく、一つのテーマを多角的に「反射」させて描こうとしているのではないか?と思えます。

ちなみに7巻では、夕日が、自分より子供の騎士たちには、自分が契約で何を願ったかをサラリと言うけど、同年代の白道さんには隠すというシーンがあったりしますが、あれは完全に“ペルソナ”の話ですよね。…え?いちいち素人の誤解釈ですって?大丈夫!水上先生も多分、素人だから!(`・ω・´)「惑星のさみだれ」を「読む」上では、こう…いい具合にシンクロするに違いありませんぜ!!?……たぶん(`・ω・´)

あと、冒頭に言った僕が気になっている事の一つに、なんでさみだれ(アニマ)はビスケットハンマーの上で夢を見ているの?という話があったんだけど、この“夢”の図を心理的な無意識の“夢”と完全に割り切ってしまうと、それはそれで観えてくるものがありそうに思います。ずばり、あれは、さみだれの物(象徴)だからじゃないか?とか考えているのですが……まあ、ここらへん「物語現実」と合致するのかどうかは分かりませんけど、こういう「読み方」はしていけるかな?と。

■騎士たちの名前の事とか~

思わせぶりな名称で、何かの符合を狙っていそうな(というより「読め、読め」と声が聞こえてきそうな)騎士たちの名前についても、少し調べてみました。…これ、初っぱなのノイ=クレザント(トカゲ)で、つまずくんですが…どうも →crescent=“三日月”の事じゃないかと思うんですよね。でノイとか名(?)の方はちょっと分かんないんで保留なんですけど、とりあえず調べた結果を、夕日が色分け予想した三霊獣のグループに分けてみると、以下のようになりました。

インビジブル(黒竜)グループ
 雨宮夕日:トカゲ(ノイ=クレザント) …英語で“三日月”
 白道八宵:ヘビ(シア=ムーン) …英語で“月”
 月代雪待:カメ(ロン=ユエ) …中国語で“月”
 秋谷稲近:カジキマグロ(ザン=アマル) …保留

ユニコーン(一角獣)グループ
 東雲半月:イヌ(ルド=シュバリエ) …仏語で“騎士”
 風巻豹:ネコ(クー=リッター) …独語で“騎士”
 南雲宗一郎:ウマ(ダンス=ダーク) …英語で“闇”
 日下部太朗:ネズミ(ランス=リュミエール) …仏語で“光”

フレスベルグ(神鳥)グループ
 宙野花子:カマキリ(キル=ゾンネ) …独語で“太陽”
 星川昴:ニワトリ(リー=ソレイユ) …仏語で“太陽”
 茜太陽:フクロウ(ロキ=ヘリオス) ラテン語で“太陽”
 東雲三日月:カラス(ムー) …保留

基本的に黒竜グループは月を意味する言葉で、一角獣グループは騎士と光と闇。神鳥グループは太陽という振り分けになっていますね。カジキマグロのザン=アマルは保留なんですけど、こうやって並べて見ると、おそらく月を意味する何か?である事が予想されます。ムーも太陽を意味する何か?とも思えるんですけど…こいつは名だけなんですよね(汗)……ちょっと、中国語で→mu=“目”(記号省略)というのがあるなあ…とか思ったり。今まで一言も喋らない事含めて、何か特別な役割がありそうな気もします。

また、人間たちの名前ですけど、原則、苗字には空~宇宙にある物が含まれています。…秋谷老人が例外なんですけど、これは夕日が偽名と言っていますね。また、茜太陽もないと言えばないけど、まあ名前がモロに太陽で、それで茜だから、これはいいでしょうw(←いいのか?)
それと自分としてはノイの氏が“三日月”だとしたら、東雲“三日月”と字が被るのがかなり気になってます。さみだれの姫を挟んでライバル的に並び立っている二人が、三日月で重なっている。…これって偶然なのでしょうか?僕は何らかの意図は持っていると思っていて、先ほど東雲三日月を夕日の“シャドウ”という言い方をしたのも、これに引っかけてあります。

他に、暗めのキャラの雨宮夕日と茜太陽について、夕日という名前に合わせて、“茜の太陽”君もやっぱり夕日(?)という事で、それはキャラが被っているのは当然だよね!(`・ω・´)とか思ったりw
東雲半月と風巻豹は、なぜ“騎士”で繋がるのか?南雲宗一郎と日下部太朗は、なぜ“闇と光”で対なのか?ここらへんが、今後の展開で分かっちゃったりすると「面白い」かもしれません。

■秋谷稲近の事とか~

カジキマグロの騎士・秋谷稲近の名前に空~宇宙を表す字が含まれないのは、偽名だから…という事なんですけど、じゃあ、本当の名前はなんだろう?と考えてみました。まず、偽名という件について、夕日がこのように言って看破しています。



夕日「秋谷をローマ字にして反対から読むと?」

ノイ「いなてぃか?(INATIKA)」

夕日「惜しい」

……ちょっと待って。500年前の日本人がアルファベットで回文?いや、アカシックレコードを掌握した、全智の人間なんですから、アルファベットを駆使したっておかしくはないんですが、生まれも育ちも大昔の日本だとしたら違和感が残ります。そもそも何で偽名なの?物語のシナリオとは関係なく、ただ単に偽名(仮の名)だという設定でもない限りは、名前を偽る理由は凡そ一つしか無いのではないか?つまり、この秋谷稲近の正体って、獣の騎士のうちの誰か(あるいはアニムス)なんじゃないの?
そう仮説を立てて読み直してみたのですが……う~ん(汗)もし、そうだとしたらこの秋谷老人、自分の出生の秘密は嘘をつく事を前提としても、不必要に嘘を重ねているように見えてしまいますね(汗)…ちょっと厳しいかな?wが、「面白い」のでこの話を続けますが!(`・ω・´)

描写を見て行くと、秋谷老人は何らかの全智能力を持つに到ったように見えますが…まあ、これがあってもこの「読み」は続けられます。この物語でアニムスはアカシック・レコードの掌握を目的としており、戦いの中で、誰かが偶然それを得てしまうよな展開はあり得るように思えし、むしろ何の脈絡もなく秋山老人が全智に目覚めたとするよりは整合性があります。(他に、時間逆行や、不死の肉体も前提として…すげえ、俺様、仮定に仮定を重ねまくってますよ?w)
しかし、同時に、アカシック・レコードを得なくても、実は秋谷老人のように振る舞う方法があります。それは秋谷老人が残した手記「大海!!激生記」を読めばいいのですよね。その内容を覚えており、自分がやがて、星川昴と月代雪待に出会い、彼女らを守って死ぬ事が分かっていれば、ほとんど秋谷老人のように振る舞えるはずです。むしろ、自分の最期の瞬間、つまり手記に残っていない部分で、自分がどのように死ぬかは、この老人は分からなかった。ただ、昴と雪待が無事な事だけを知っていて「なら二人に戦闘経験を積ませたい…」と逡巡している。この頃は力をほとんど失って分からなくなっていたとは、書いてあるんですが…自分の死に方を忘れるものだろうか?とも思います。ともかく単に嘘をついているとするには(物語整合的な)無理がある叙述がある反面、「大海!!激生記」を読んだと考えた方がすんなり分かる部分もあるんですよね。



様々な可能性が考えられますが、有力な“容疑者”は3人いる……と思います。まず、手記を掘り当てて読んだ雨宮夕日ですね。…しかし、夕日には別の“役目”がありそうに思うので除外します。そうすると、まず第一候補は、東雲三日月になると思います。理由は、今、現在、昴や雪待と仲がいいからです。…そう、ドラマツルギーとして当然、このループはそう繋がらないとね!(`・ω・´)また、武道の達人としての師匠である事。雪待が「師匠から習ったのは空手とはちょっと違う」という発言もありますね。また、秋谷老人が最期に使った必殺技“天沼矛”は、三日月の“方天戟”の最終形じゃないのか?とも思えます。昴と雪待から秋谷老人の物語を聞いて、一言「めっ…ちゃくちゃカッコいいな!!師匠!オレも会いたかった!」と感激するところも、ひっじょ~に怪しいのですがwおそらく「大海!!激生記」を読んでいないであろう事がネックで。昴と雪待からの又聞きだといろいろ精度が落ちちゃいそうなんですよね。(師匠が死ぬあたりのワンシーンだけしか喋っていないように思える)



第二候補は、最年少の騎士・茜太陽です。7巻を読むと、相当に彼じゃないかと思ってしまいます。何よりまず、件の「大海!!激生記」を昴と雪待から受け取るんですよね。そして、これを“継承”する直前の戦いで、太陽くんは雪待から、戦って生き抜く事の意味を教えられている。…このループの繋がりもかなりキレイだと思えますwこの話、容姿の問題を強引にスルーしているワケですが(汗)この子が一番、容姿が変って不自然がない子だとも言えます。また、現在、アニムスに最も近い位置におり、超時空的な事故(?)に巻き込まれる可能性もない……ではない(苦汗)なにより“茜”という字と“秋”という字は相性がいいしね!!(`・ω・´)(←そうか?)
んんん…ちょっと、仮定に仮定を重ね過ぎの感がありますが(汗)しかし、最初に述べたように、何故、この秋山老人がアニムスさえ手に入れていないアカシック・レコードを持っているなんていう不格好な設定キャラとして退場してしまったのか?という物語上の意味を考えると、少なくとも、あるライン(因果)のオチを担っているから…という所までは言い得るんじゃないかとは思っています。

物語は泥人形10体目まで倒して残り2体、最終盤かと思いますが、「惑星のさみだれ」の中には、ここに上げきれなかった疑問や違和感が見えたり隠れたりしながら数多くあり、おそらく物語が終わった後にもう一度「読み」直す事になるんだろうなあ…という直感があります。とりあえず、どういう結末になるか「楽しみ」です。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【作品チェック:「ライブオン!カードライバー翔」描かれた名勝負】
http://www.tsphinx.net/manken/dens/dens0092.html#538
【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/

「ライブオン!カードライバー翔」は「ライブオン」というポプラ社のモンスターを操って戦うトレーディング・カード・ゲームを題材にしたアニメなんですが、その決勝戦の戦いがとてもよかったので、その書評を書きました。一言でいうと全べてのターンを省略せずにカードバトルをやっているのが素晴らしかったんですけどね。この作品、子供向けアニメとして「もっと評価されていい」のではないかと思っています。



余談ですが、この作品のヒロインである小芹アイちゃんなのですが…主人公の天尾翔(あまおかける)と幼馴染みで一つ年下らしいのですよね。…んでも、観ていると翔より明らかに背が高いし、面倒見の良い“お姉さんキャラ”だったりします……な、なんかよくね?(=´ω`=)(←どしたw)

あと、翔たちのライバルチームに“大空三兄弟”って連中がいるのですが、この中の末っ子のズズメちゃんというキャラが気になっています。…というのは、このチーム、長男のツバメがリーダーで、次男のカモメが、スズメにちょっといじわるな事を言ったりしている。…で、スズメはカモメを嫌がっていて、いつも大きなお兄ちゃんのツバメにくっついて離れない……って構造なんですが。…このスズメちゃん、ちっちゃくって人見知りする女の子なんですけど、観てるとどうも大空三兄弟の中で最強じゃないかって思うんですよね。翔たちのチームリーダーの間狩徹を瞬殺したりするんですが……最近分かったんですけど「シュンサツスズメ」というモンスターにライブチェンジして、そこからの何か一瞬で相手をライブオオーバーまで追い込むコンボを持っているみたいです。…で、僕が観たところ負け知らず。大空チームは準々決勝で惜しくも敗れるのですが、描写を観る限りスズメが負けたわけじゃなさそう…。(という事はツバメとカモメが負けたという事)…でも、そこあんまり言及されていないんですよね。兄弟同士の振る舞いを観ると、ツバメが一番強く観えるのですけど(カモメとスズメのどっちが強いかは微妙)……なんでしょう?というか、この大空スズメと再戦する日はあるのでしょうか?

多分、チートなジョージ加藤と未知数な松戸先生を抜けば、作中の最強カードライバーは小芹アイなんですが、ちょっとスズメと戦ってくれないかなあ?などと思っています。いや、別に翔vsスズメでもいいんですけどね。←ちなみにこの対戦は重要な戦いじゃなければ、多分、翔はスズメに瞬殺されるんですよ、いや、マジで。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【5月第1週:トラウマイスタ 第42話 ピカソはシエナにスジャータの面影を見るか?】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10409.html#584

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



少年犯罪を題材にした刑事物マンガ「シバトラ」が、かなりショッキングな回でした。元々、覚醒剤中毒だったのが主人公の竹虎のおかげで更正した少女・リカが、少年犯罪グループ“シャドウ商事”のメンバーに捕まって、致死量の覚醒剤を射ち込まれるシーンなんですが、更生後はレギュラーに近いキャラとして動いていたリカが、じわじわと殺されて行く様、またシャドウ商事のメンバー(子供)が死んで行くリカを淡々と観察し、淡々と殺して行く様が、かなり怖いシーンとして印象に残ります。



「シバトラ」は僕は読んでいて、かなり“大人目線”な感覚を受けていて、その意味で「こんな、お説教くさい連載、子供の読者は面白く読んでいるのだろうか?」などと要らぬ心配をしたりもしているんですが(小池徹平主演でドラマ化とかしているんですから、本当に要らぬ心配なんですが…(汗))この回含め、いくつかの“大人目線”の描写は「作り手」の“それを描く”という鉄の意志のようなものを感じて少し震えました。
今、「お説教くさい」なんて言い方をしたんですが、こーゆーのはもう、お説教なんて話じゃないですよね。…なんて言うんでしょう。誤解されそうな単語しか思い浮かびませんが、子供が“薄暗い闇(犯罪)”に近付く事の怖ろしさを伝えているんですよね。それを筋道だった理屈(説教)じゃなくって、とにかくショックを与えるという手法で、理解を求めるのではなく、感覚に叩きつけている。

ちょっと僕の子供の頃の思い出を語ると、今のドラマはどういう感じだか知らないんですが、昔は「土曜ワイド劇場」なんかで、覚醒剤中毒で死ぬようなネタがけっこう流れていて(←土曜ワイド劇場とかにかじりつく小学生)、そういうシーンで中毒者は大抵、注射針の跡で青く変色した手首をさらして、焦点の合わない虚ろな目の亡霊/半死人のような描写がされていて、それがもう、とにかくおっかなくって!!(汗)絶対に麻薬には手を出すまい…出すまいというか、引っかかるまいと心に誓ったものです。
あと「ドーベルマン刑事」(1975年)のシャブ中関係のエピソードとか思い出深いですね。平松先生の描く、殺人鬼、狂人、麻薬中毒者の“目”って、もう、身の毛もよだつほど怖くって!!(汗)絶対に薄暗い闇(犯罪)には近付くまいと(ry …ああいうトラウマになるようなものを子供の頃に見せてもらったのは、あらゆる意味でいい体験だったと思うんですが……今の子供ってどうなんでしょうね?ああいう、見たくない物、おっかない物をちゃんと見る事ができているのでしょうか?

…で、今回の「シバトラ」一部の人は評価するのでしょうけど、不道徳もエログロも見つけるのが難しく、光も闇も“夢物語”にくるまれた作品が大半である今の(※こういう書き方すると“夢物語”がダメなように誤解されそうですけど、そんなつもりはないです)少年誌で、レギュラーに近い子が無様に嬲り殺されるというこんなおっかない話をするのはリスクの方が大きいと思うんですよね。…でも描くw“大人の使命”を意識した“大人目線マンガ”だからwマンガ(物語)は「面白い」方が良い。…でも「作り手」のこういうちょっと別の想いや、ちょっと別の視野が載る事も、また、「面白い」。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






ろ……6,600円(税別)かよ!?(`・ω・´;)

仕事中に買うのかYO!?この重い本、カバンに入れて持ち歩くのかYO!?カバンからはみ出たら「あれ?LDさん、その袋一体何です?」とか聞かれるのかYO!?…………………………………あ、買っちゃった(=´ω`=)

(というか、スキャナーに入りきらないなあ…)まあ、タイトル通り、モデルアニメーションの巨匠、レイ・ハリーハウゼンのお仕事全集なんですが(「アルゴ探検隊の大冒険」とか「シンドバッド」のシリーズとかが有名ですかね)。最近、ちょっとモデルアニメーション含めた“怪獣物”を観ていた事(↓)もあって、ものの勢いで買ってしまいました(汗)

【2009-03-20:原子怪獣現る:放射能X】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/16eb6bdb0e8d4b378c3fea1093e82b39

んで、中身は特撮担当した映画のイメージボードなんかが載っていていい感じなんですが…。ちょっと、面白かったのは巻末に「幻の企画A~Z」とタイトルされて、ハリーハウゼンの日の目を見ずに終わったアイデアやコンセプト、企画などをずら~っと並べて、ハリーハウゼン自身がコメントしている事ですね。…はっきり言ってですね、聖書、ギリシア神話、おとぎ話で、ダイナミックに特撮が使えそうなものは、片っ端からアイデアに起していますね!すげえ…w「ほら男爵」とか「フランケンシュタイン」、「指輪物語(ホビットの冒険)」なんかの企画も上げていたみたいです。「指輪物語」については…「指輪物語」はセルアニメーション向き(…ロトスコープのアニメ版の事を言っているのかな?)の作品であって、ダイナメーションには向いていないと判断したのだ。だが、これは全くの間違いだった!(「ロード・オブ・ザ・リング」の事を言っているのかな?w)…とか言っています。

あと、「ダンテ地獄編」とか、「シンドバット火星へ行く」(!)なんて企画もあったりして(この企画を口にすると、誰もがかならずといっていいほどぎこちない笑みを浮かべる。いったいなぜなのか私にはさっぱりわからない!とか言ってますw)ここらへんは、ちょっと映画になったの観てみたかったなあ、という気がします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【情報圧縮論】

【やる夫ブログ:やる夫が徳川家康になるようです】
http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-416.html

http://yaruomatome.blog10.fc2.com/category9-1.html

「やる夫シリーズ」で徳川家康の生涯をドラマチック脚色で追った作品なんですけどね。ちょっと以前にこのエントリーを読んでいたく感動していました。その時は「ああ、面白かった!感動した!」とか思って、それを胸にしまい込んで特にリアクションとらなかったんですが……やっぱり、人に伝えようとする、人に説明しようとする事って、大事なんですねえ(汗)ルイさんに、このシリーズ紹介して、その「面白さ」の話をしていたら、これが、僕が以前からコツコツと話を進めている(?)「情報圧縮論」のサンプルとして語れる部分が多いのではないかという事に気付きました。…ので、ちょっと書き留めておきます。

■「情報圧縮論」について
…とか言いつつ、自分、「情報圧縮論」について、言葉は用意しているけど、その内容をまともにまとめた事さえなかったですね(滝汗)
むしろ、GiGiさんとかの方がまとめた話をしてくれている。

【なぜコードギアスなのか。情報圧縮論のモデルケースとしてのコードギアス】
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080530/1212196167

盟友LDさんとの共同サイト漫研での議題の一つに<<情報圧縮論>>というものがあります。これは、ページ/単位時間あたりの情報量が多い作品が優れた作品の一要素であるというLDさんの持論を発展させたもので、わかりやすさを維持したまま作品内の情報密度を高める大系的な技術が存在するのではないかという仮説なんですね。

今まで、特にこうだと打ち出したものはないので、個々人によって微妙に方向性が違っているとは思いますが、概ねこの話でいいと思っています。ちょっと自分なりに言い直すと、日本でマンガやアニメの物語表現について、技術的なノウハウがもの凄く溜まっている状態で(あるいは「受け手」の練度が非常にあがっている状態で)、これらを複合的有機的に利用する事で、本来、“莫大な才能(仮に天才とする)”を必要とした「大きな物語」や「先の物語」に対して、手を届かせる技術があるんじゃないかという仮説ですね。…ちょっと、今これから、大きなとか、先のとか、莫大なとか、曖昧な言葉を使って行きますが(汗)

たとえば、これまでの物語において、重厚な世界設定や群像劇を描こうと思ったら、これは先ほど述べたような“莫大な才能”を必要としたんですよね。もし、この群像劇の上に“先の世界”を描く事を思いついた者がいたとして、しかし、それは群像劇を描ける程の“莫大な才能”者にのみ許された特権だったワケです……というかそういう風に世界を考えるとします。
これ、多分「機動戦士ガンダム」を例に上げると分かりやすい気がします。「ガンダム」という物語を描くにあたって、ニュータイプという“先の世界”を思いついたとして、それは、泥まみれで、戦争に翻弄される“大きな群像”を描いたその上に、“先の世界”を載せるから、あの感動が生まれている事は間違いないと思います。群像劇を描く才能のない者が「人類って宇宙に出たとしたら、こんな風に変って行くかもね」というだけの物語を作ったとしたら、僕は間違いなく、あれほどの感動を得ることはなかった。だからこそ、これは群像劇(「大きな物語」)を描けた者だけに許された「先の物語」だったと言えます。

それは逆に言うと、「大きな物語」を描ける者が、「先の物語」を描こうと思わなかったら、それはそこで終わってしまうという事。(いや、終わっても全然良いのですけどね。安彦先生とかは、本当にニュータイプとかには興味がない人ですよね)逆に「先の物語」は見えている(思いついている)のに、「大きな物語」を描く力量がないために、「先」が描かれているだけの「小さな物語」で終わってしまう事もある。
こういったカナシに、これまで散々溜め込んできた、物語表現技術を複合的有機的に利用する事で、手を届かせる方法があるのではないか?いや、既に何人かの作家は、それに意識無意識を問わず気付いていて、すでに使っているんじゃないの?……というのが、僕の「情報圧縮論」のあらましという事になるかと思います。(※「大きな」とか「先の」って言葉は単純に“群像”とか“SF的新発想”を指すものではなく、もっと様々なパターンを想定しますが、ここでは省略)

■「やる夫が徳川家康になるようです」について
さて、「情報圧縮論」の話をこのAA劇場を使って示して行きたいのですが、まず、リンクしたサイトで、内容を一通り読んで欲しいのです。僕はこれ読んで、笑って泣いて、とても感動したんですよね。そのストーリーテリングにおいて、作者は素晴らしい才能があると思います。同時にもう一つ評価されていた事に、他の戦国武将たちのAAキャスティングが絶妙というのがあります。以下に例を示しますと…。



上杉謙信に「Fate/stay night」のセイバーを当てて、上杉一門を「Fate」キャラで統一している。
作者は、特に「上杉謙信女性説」を取っているワケではないようですが、上杉謙信のある種の清廉さというか…まあ、戦国時代においてウソみたいな、ある種神話的にさえ感じる軍略とセイバー(アーサー王)のキャラを重ねていますね。上杉景勝は、遠坂凜で、まあこれはむしろミスキャストな面白さが出ているかな?という感じなんですが、必然的にアーチャーが義臣・直江兼続になるのがミソかと思いますw



毛利元就に「アカギ」の赤木しげるを当てて、毛利一門を福本伸行キャラで統一している。
さらに、吉川元春は「銀と金」の平井銀二、小早川隆景は「天」での赤木しげると、このキャスティングに「この一族最強じゃないの?」ってレスが殺到するんですよね。…で、(もう既にみんな期待していたろうけど)毛利輝元は「最強伝説黒沢」の黒沢で、ああやっぱりwとズッコけるwさらにいいのは、関ヶ原の戦いで徳川家康にいいように弄ばれる吉川広家が「賭博黙示録カイジ」のカイジw…決してどうしようもないボンクラじゃない事は分かるんだけど、どうしても最後の詰めを誤る吉川広家の情けなさを、見事にキャスティングだけで完成させています。ここらへん福本キャラの幅を実に上手く利用している。



他にも真田昌幸が「銀英伝」のヤン・ウェンリーだったり、九州の武将が「JOJO」キャラで統一されていて、あの関ヶ原で正面突撃退却やる島津義弘が承太郎だったりとw絶妙なんですが、中でも特筆したいのが、豊臣秀吉を「逆転裁判」の成歩堂龍一にして、豊臣一門は基本「逆裁」キャラにしている所ですね。このキャスティングはすぐに腑に落ちた人は少ないんじゃないでしょうか。(僕は「逆裁」やった事がなく、概要くらいしか知らないのですが…)
でも、この作者の真骨頂って、人物同士の対話や“駆け引き”の描き方にあって、そこは間違いなく、オリジナルな才能だと思うんですよね。その中で人間同士の“駆け引き”の最強の男に、やがて、なる人間として成歩堂くんがチョイスされているワケです。実際、最初は人間的魅力と正直さが“売り”だった成歩堂くんが、誰も太刀打ちできないような、「この頃の秀吉はチート」と言われるような、巨人に成長してゆく様は圧巻で、成歩堂くん(羽柴秀吉)と、やる夫(徳川家康)の激突は、この物語最大の見せ場の一つになっています。

これらのキャスティングの妙を利用して、この物語は、戦国時代に、一癖も二癖もあるような…というより出会った瞬間、見た瞬間、コイツには勝てない!って思わせるような巨星たちが、全国各地でひしめき合っていた、正に“大群像”を表現してしまっています。そして、さらに凄いのが、そんな敵も味方もとても勝てないような相手しかいなかった状況で、たかがやる夫(徳川家康)が、どうして、天下を取る事ができたのかを見事に描ききってしまっている事なんですよね。

…と、ここまで書いた時点で「そんな事言っても、これ著作権無視の二次創作じゃん」というツッコミがあるかと思います。それは全くその通りだと思います。これ自体は大っぴらに表には出せない、アングラな娯楽に過ぎないです。ただ、その問題を敢えて度外視して話を進めたのは、足らない物は何でもかんんでも持ち込み利用し、噛み合わせて、とにかく“ここ”まで到達させるという「情報圧縮論」の理念を顕わしたアプローチがされていると思うからです。僕はよく「情報圧縮論」の話をする時は「その上に何を載せるか?」という言及にまでするんですが、「やる夫が徳川家康になるようです」は「情報圧縮」で大群像という舞台を構築した上で、やる夫や、やらない夫というブランクなキャラクターを利用して「その先の物語」を見せてくれている…という評価がしたいんです。

ただ、これらは、その物語に接する者にある一定のリテラシーを要求している事も事実です。まあ、ある程度元ネタや戦国時代の知識が足らなくても充分楽しめるものだと思っていますが、「情報圧縮論」自体は、「受け手」の知恵(wisdom)も総体的に高い状態にある事を前提としています。「受け手」の知恵が低い状態で、そこから「大きな物語」や「先の物語」を指し示して行くためには“莫大な才能”を必要とするでしょう。でも「受け手」の知恵に依存する事で、到達できる世界もあるはずなんですよね。(※レベルが高いと書くと「難解な物を受け止める感性」のようなものが入ってくるので、あくまで、学んでさえいれば手に入るもの、という意味で「知恵が高い」という表現にしました。また知識ではなく知識を利用する力は要りそう)

まあ、モロに著作キャラを使うんじゃなくっても、たとえば「花の慶次」だったら、徳川家康を勝新太郎でモデルしたり、真田幸村を長渕剛でモデルしたり。「センゴク」でも幾人かのキャラは実在の有名人をモデルにしているワケですよね。群像劇に取り組もうと思うと、そうなるのは必然だと思うんですよね。…ただ、これらのモデルはあくまで作者がイメージの手助けにするため、ランダム、単発にチョイスされた感じがするんですけど「情報圧縮論」的に言うと、まだまだ“やれる事”はあると思うワケです。もっと「受け手」を巻き込むようなやり方とか、複合的有機的に技術を利用して、群像を構築してゆくやり方があるように思います。

また、今後「情報圧縮論」で紹介するような手法のいくつかは、才能を愛し、一からオリジナルにキャラやストーリーが組み上げられる事を愛してきた、“昔気質の物語読み”の人たちには「記号的」、「楽している」、「うすっぺらい」などと揶揄される物も含まれるんじゃないかと思います。…というか、かく言う僕自身がその“昔気質の物語読み”なんですけどね(汗)しかし、僕は思うんですが「その上に」何か載せたりできるのであれば、それは「大きな物語」や「先の物語」を描くための技術と言えるのではないか?…そういう観点でも「情報圧縮論」を語っています。

実際、「やる夫が徳川家康になるようです」はやる夫シリーズの中では長丁場でも、小説やマンガとしては、短編の域を出ていない。にも関わらず、戦国群雄を一通り描く大群像と一代の英雄の生涯を描き切る事に成功している。それは本当になりふり構わないからこそ出来た成果ではあるんですけど(作者はこんな深刻に考えてないと思うけどw)、まだ、ここにはそういう技術や手法が眠っている(詳らかにされていない)のではないかと、そう考えています。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ