今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【友達欲しい系】

先日、海燕さん、ペトロニウスさんとニコ生放送で話していた事を書き留めておきます。

僕は友達が少ない (MF文庫J)
ブリキ
メディアファクトリー

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)
ぽんかん(8)
小学館

最近、僕らの間で話している事で、ラノベ~アニメあたりの界隈で「友達系」?「友達欲しい系」?が出てきているよねという話題があります。

「友達欲しい系」って何か?この“見立て”の経緯をまともに話すと長~くなってしまうのですが、かいつまんで話すと、まずハーレム構造の物語というのがあります。「友達欲しい系」って単純に「友達ほしがっていればそうだ」って話ではなく、このハーレム構造の物語の中から出てきたもの(そう解釈できるもの)が、この話題の対象になります。

ハーレム構造とは何かって言うと、まあ、分かると思うのですが主人公1、ヒロイン多と言った構造のものですね。
31人ヒロインがいるという『魔法先生ネギま!』などが代表にして極北な感じ(笑)で、この構造はかなり長い期間、一定の勢力を持ち続けていたし、今でもその威力は継続されていると思います。
しかし、今例に上げた『ネギま!』が収束に向かう時期あたりでしょうか。「ハーレム構造の流れの中から、何かちょっとハーレムっぽくない別の流れが出てきたぞ?」という物語が生まれてくるようになった。

具体的に言うとハーレム構造のはずなのに男性キャラの数が増えた。
本来、ギャルゲーとか見れば分かると思いますが、あの世界って主人公以外はナビゲーション的なモテない男友達が一人で、他は不要という姿勢だったんですが、それがそうでもないものが出てきた。

最近アニメ化した『リトルバスターズ』とか、ハーレム構造と言っていいかどうかは別として『AngelBeats!』も同じ系統に入れていい気がしています。それと『真剣で私に恋しなさい!』もあげたい。これらは“ギャルゲー系”にも関わらず男との付き合いのパートがある。
ギャルゲー、エロゲーをやっているはずなのに何で男とくっちゃべってなきゃならんのよ?って感想になると思えるのですが、“何故か”そういうものが出てきたんですね。ハーレム構造としては余分だったはずのものがつき始めた。
あと他に『ペルソナ4』も上げたい。僕が観たのはアニメなんですが、これも主人公中心にハーレム構造になっているのですが、どうも物語を観ていると“そこ”が重要視されていない。むしろ男女混じったグループ自体にその価値を見出しているように見える。…ちょっと毛色が違いますが『仮面ライダーフォーゼ』もこの系統ですね。
これらの系統を僕らは、ハーレム構造の志向が行き着いた先に「恋人が欲しい(恋人が沢山欲しい)」という要求よりも、「友達(仲間?)が欲しい。友達はどうやったらできるの?」という要求に変わって来たんじゃないか?という解釈で捉えようとしました。まあ、それが「友達欲しい系」というヤツです。

そこからさらに、この観点で物語を読み解こうとしたのが『僕は友達が少ない』、『ココロコネクト』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりでしょうか。……ラノベばっかですねアニメ『TARITARI』もこの系統に入れていいかな?
さて、『はがない』、『俺ガイル』は構造としてはハーレムものを形勢しているように見えるのですが、主人公の要求(つまりテーマ)は友達にあるように観えます。『ココロコネクト』、『TARITARI』は男多+女多で物語が進み、その中には恋愛模様も描かれるわけですが、必ずしも恋愛主体の物語ではないと観ています。むしろ男女グループで何を為すかが主体なはず。そういう“感じ”の流れが見て取れるなと思うわけです。

……で、ここから、それを前提とした「次の話」なのですが。

これらの『物語』は「友達がいる物語」、「友達が欲しい物語」といった“友達讃歌”を高らかに歌い上げている物語に観えるのですが……「本当にそうなのかなあ?」と僕は思ってしまったんですね。
そうですね、『リトバス』、『マジ恋』、『ココロコネクト』あたりはバリバリの“友達讃歌”だと思います。そういったものに対するノスタルジーに近い観すらあります。ここらへんは、まあ「本当にそう」なんでしょう。

しかし、近年、かなり当たったのではないかと言える『はがない』、あるいは『俺ガイル』なんかは、“ぼっち”スタートの話なわけです。言わばこの『物語』は「ぼっちを対象にメッセージが送られている」と……必ずしも、そういうワケではないと分かっていて敢えて言いますが(汗)まず、フォワードに設定した受け手は“ぼっち”(あるいはそれに近い心情の人)だと思えます。

そう考えた時、果たしてこの“友達讃歌”は“ぼっち”に対して癒しを与えるのか?……って思ったんですね。
『はがない』の第一巻の第一章においてこういうセリフがあります。(↓)
「……そもそも、私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」
「え?」
「……友達がいないことがイヤなのではなく、学校とかで『あいつは友達がいない寂しいやつだ』と蔑むような目で見られる事がイヤなのだ」
「あー、なるほど」
 なんとなくわかる。
『友達がいること=いいこと』というのは基本的にその通りだと思うけど、それが世間では『友達がいないこと=悪いこと』と同義のようになっている。
 それはちょっと違うんじゃないかと俺は思う。
「私は一人でも平気だ。学校での友人関係なんて上っ面だけの付き合いで十分だ」
 三日月の声には、どこか無理が感じられた気がした。

(『僕は友達が少ない』第1巻より)

……けっこう、いい事言っていると思いませんか?僕はここにすごく共感しました。べ、別に僕は、ぼっちじゃないよ!きっと!(`>ω<´;)……いや、世間ってけっこう一拍の疑念もはざまず「これが正しい!」とか「これが幸せモデル!」とか言っちゃう題目や看板がそこら中にありますよね?僕はわりと一々「そうかなあ?」と考えちゃったりする所があるんですよ(汗)このセリフ、そこの琴線に触れる所がありました。

で、『俺ガイル』でも上記に近い心情の吐露があったりして、「ぼっちの物語」としては、ここは急所の景観に思えます。
ぼっちは「友達ができた!嬉しいな!」で癒される事もあるでしょうが、それと同じくらい「別にぼっちでもいいんだけど?」(この思いは、実際にぼっちじゃない人でも抱く事はあるはず)という思いを瘉されたいのではないか?現代だとその層はけっして少なくないのではないか?…と感じるのです。

しかし、おそらく、これらの物語は“そっち”へは向かっていない。

どういう事かというと……『はがない』や『俺ガイル』はまだ完結していない『物語』ですが、おそらく「ぼっちでは無くなる」結末を迎えても「ぼっちを癒す」結末にはならないだろうと思われます。
というか、読めば…いえ、「読まずとも分かる」と思いますが(笑)『僕は友達が少ない』は、こんなタイトルにも関わらず友達、恋人(その候補)が溢れています。『俺ガイル』もそうです。ただ、それに気づいていないだけという構造を持っています。

主人公である貴方がそれに気づいていないだけ……“青い鳥”は貴方のすぐ隣にいるんだよ?というストーリーラインを描く。そういう「分かりやすいハッピーエンド」に向かうであろう事は、ある程度読み進めれば想像できる事かと思います。
しかし、そうすると、どうなるか?「ぼっちではなくなる」というテーマは果たしますが、「ぼっちを癒す」というテーマはどこかに霧散してしまう。

「ぼっちで無くなるハッピーエンド」は、ぼっちの者(その心情に共感する者)にこう語りかけます。
「分かるか?やはり、ぼっちは不幸な事なんだ?つまり、今のお前は不幸なんだ。この物語の主人公はそこを脱する事でハッピーになれた。お前も“そう”変わるべきなのだ!……なぁに、気にする事はない。お前はすぐそばの幸せに気づいていないだけなんだ。気づけ、そして、見つけろ!お前の幸せを!ハリー!早く!ハリー!早く!」

……先に言っておくと僕は『はがない』や『俺ガイル』がダメな物語と言っているわけではありませんからね?(汗)今僕が語っている事をテーマの主体としていない事がいけない事と言うつもりもない。むしろ、『はがない』の事は超・好きで、別の角度の話をさせても、相当いろいろ語れると思います!(`・ω・´)
また、社交性がないというのは、寂しい寂しくないを超えたマイナスがあるので、他者と接する事、他者に合わせる事(不干渉ではなく干渉しつつ尊重する事)は、多少の精神的圧迫を与えてでも、それを身につけさせた方が良いように思えます。

しかし、『物語』というのは、必ずしも社会的な正しさの教科書ってワケではないですから。他者にとってダメな状態であっても、そこを癒すという姿勢はアリに思っています。
三日月夜空さんが言った「……そもそも、私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」は、ある層の心情を強く代弁する言葉だと、僕は思ったのですが、一般的なストーリーラインを描く限り、そこは宙空に散ってしまう。
“三日月の声には、どこか無理が感じられた気がした。”と既に伏線が張られているように、「夜空が友達がいた事に気づいてしまう物語」は、「夜空はやはり友達を欲していたんだという物語」に収斂してしまう。

……ちょっと別の言い方をすると「お金持ちになりたいワケじゃない」という心情(テーマ)は、正確に言うと「お金はあってもなくてもいい」という心情であり、それは別に「お金持ち」になったとしても、失われるわけではない。
しかし、テーマを見せる『物語』としては、お金が欲しいワケじゃないと言っていた主人公がお金持ちになってしまったら、受け手の中にある強い幸せモデル「自分はお金が欲しい!お金持ちになれてよかったね!」という心情が、そのテーマをかき消してしまうんです。

繰り返しますが『はがない』、『俺ガイル』がこのテーマを取り扱っていると言っているわけではないです。僕が勝手に気にしてしまった視点で、物語を眺めているだけの事です(汗)
そして、エンタメを扱う限り、こっちの方向への展開はできない……非常な困難がある事は分かり切っている事です。何でかと言うと……

こっちの地平には“王道”がないからです。

文学や芸術なら、こっちの方向へ向かったものはいくらでもあると思うんですが……いや、マンガにだってあるんですが、でも、それだけではエンタメの王道とはならない。
ここで言う王道というのは、受け手の多くがそれを楽しみ、送り手の多くが楽にその道を通れるようになってはじめて王道となる。
その意味において「私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」という心情の道がどこかに辿り着こうと思ったら、ほとんど道なき道を進む必要があって、とてつもない困難がある。かく言う僕自身が、この方向の展開に対して具体的なストーリーラインをイメージできているワケではないんです。王道に当てはめられないから(笑)

…が、一昔前なら「こういう変わり者もいますよ?」くらいのバリューにしかならなかったテーマが、もう少し共感を持って迎えられる土壌が現在は存在しているのではないかと思うのですよね。
王道とは行かないまでも、新たな交易路を期待できるくらいにはなっているのではないか。一時の世相かもしれませんが。

まあ、そんな感じに「存在しない路線」(←これ重要!)を考え、想定して他の『物語』たちを眺めたりしています。
そうすると、けっこう、それっほいものも出てきている事に気づく(笑)『湯神くんには友達がいない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』あたりが、そんな感じかなあと。

湯神くんには友達がいない 1 (少年サンデーコミックス)
佐倉 準
小学館

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!(1) (ガンガンコミックスONLINE)
谷川 ニコ
スクウェア・エニックス

大分、長々書いたので、ここらへんで切り上げて、この二作品の話や、さらに続きの話は、また別の機会にしたいですが、ちょっとそこらへんを妙に気にしていますよという話でした。


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クリエイティヴ脚本術―神話学・心理学的アプローチによる物語創作のメソッド
James Bonnet,吉田 俊太郎
フィルムアート社

以前に購入して、ずっと積んであった本なんですが、最近、自炊にかけて(笑)ようやく読み終えました。なかなか、興味深かったです。副題が「神話学・心理学的アプローチによる物語創作のメソッド」とありますが、まあ、そんな感じです。
以前、海燕さんが、読み終わっていて言ったように、学問的にどれだけの説得力を持ち得るかは分からない、ある種の直感に満ちた指摘なんだけど、こういうのって、多分「聞いて、心当たりがある」事の意味は大きいと思います。まあ『物語』を愉楽しむ分には、そういう事はけっこう重要なんです。

読んでいて、印象に残ったのはアーキタイプの事。ユング心理学の角度から物語を解き明かそうという試みは多く、ユング自身、神話という物語を研究の対象にしているワケですが、僕自身も、このブログでユング心理学を参考にした、物語解釈~物語が如何にして人の心理にはたらきかけ入り込むか?~を考えたりしているので、この本の話もとても参考になりました。
あと『面白かった』のは、ゴールデン・パラダイム、あるいはストーリー・ホイールですね。そこらへん、ちょっと書き留めておきたいと思います。とりあえずアーキタイプから…。

■アーキタイプとか

ユング!ユング!ユング!(1)
ユング!ユング!ユング!(2)

(↑)以前、ユング心理学の物語解釈的な考察を書いた記事はこっちですね。それで、この本ではキャラクターのアーキタイプ(元型)を次の旧種類に分けています。

1.エゴ(ヒーロー) 2.霊 3.心理 4.感情 5.身体 6.アニマとアニムス 7.トリックスター 8.門番 9.シャドウ

ん~……「霊」と「心理」と「感情」と「身体」のアーキタイプですが、これは読んでみると、どうも父性と母性、さらにポジティヴとネガティヴに大別される者のようです。一般に「グレートマザー」、「老賢者」と言われる者を細かく分類したように見えるんですが……もう少し読み解くと、主人公(エゴ)に振りかかる“抑圧”と“導き”は「霊」、「心理」、「感情」、「身体」に分けられる…と言う事のようです。……しかし、よく分からないので、この四つは寝かせておこうと思います。(´・ω・`)
あと、ここでは補足的にしか持ち出されていない「老賢者」と「グレートマザー」ですが、どうも言葉が先行してイメージに多少偏りも生んでいる気がするんですよね。(「老賢者」にしてもユングが、個人的なイメージを述べた言葉のようですし)これは単純に「父性」のアーキタイプ、「母性」のアーキタイプと言った方が、存在を捉えやすくなる気がしています。

それから物語を眺めていると、アニマあるいはアニムスは、まずほとんどいますね。当たり前ですけど(笑)あと、シャドウもいます。こじつければ大抵います(`・ω・´)この主人公とアニマ/アニムス、シャドウの関係がスタンダードな物語構造と言えそうです。まあ、違う形のも(そう、解釈できそうなものも)あるんですけどね。コアから複雑な絡みを見せて“拡がって”ゆく形は“これ”という気もします。

「門番」は、僕が持ちだしたアーキタイプ『祭壇』に近いものを感じますね。『祭壇』をもっと広義に汎用的にしたものにも思えますし…違うものにも思えます。(さっき、寝かすと言いましたが、どちらかというと「霊」のアーキタイプに近いものに思えます)しかし、「門番」はその役目ずばりから、見立てを誤ることはなさそうに思います。ブレを生まないのは言葉としていい場所に言葉を置いたと言えます。
また、アニマ/アニムス、シャドウと並んで有名なアーキタイプの「トリックスター」ですが「心の解放」という心理的要求から来たキャラクターに観える反面、停滞を嫌うという物語要求から顕現しているキャラクターにも思えます。…これは「門番」も同じかもしれませんね。

まあ、そんな感じに他の本も読み進めながら、自分の中で使える『言葉』に変えて行こうと思っています。

■ゴールデン・パラダイム



この本を読んでいて一番、面白かったのは(↑)上の図にあるようなゴールデン・パラダイムのモデルですね。矢印方向に向かって進むストーリーの推移をモデル化したものですが、これは同時に人間の心理的変化を顕すモデルでもあります。
大雑把に言うと、ストーリーというのは、長い大きな物語になると大体ここを矢印方向に沿ってぐるぐる廻っているよ。そう観えない場合でも、この輪の一部分を切り出してそこから変化した部分を描いた物語(ストーリーフォーカス)になっているはずだよ。…というもののハズ。(´・ω・`)
人間万事塞翁が馬という分けでもないんですが、人間の物語なんて長~い目で観てゆくと、大体、上昇と下降の繰り返しで、しかもまあ、大体同じ場所を廻っている。それをスパイラルに発展していると解する事もできるけど、しかし、振りかかる試練も突破も、同じようなものと言えば、同じようなものとも言えると。

このモデルに対して「大きな物語」の例として『アーサー王伝説』を当てはめていたりしたんですけど「ああ~、確かにそんな感じだねえ…」と。同じ、場所をぐるぐる回って絶頂と下降を繰り返す。フェーズごとの分類などに、まだ細部の検討の余地がありますが、同じ輪をくるくる廻る感覚って、最初に言ったように、直感的に、ああ、正しいかもって思えるんですよね。
ゴールデン・パラダイムは他にもストーリー・ホイールと言った別の輪(リング)があったりするようなのですが、フェーズ毎の内容は多少調整が施されていますが、基本動作は一緒のようです。

長い物語、大きな物語はこの輪(リング)が観えてくる事、あるいは一本道まっすぐの物語に観えても、物語の枠外まで含めてその背景を追ってみると、やはりこの輪(リング)が出てくるという指摘は『受け手』に物語に対する、いいイメージ付けを与えていると思います。
まあ、今日はこんな所ですが、そこらへん含めて検討し検証を重ね、上手い事こう言った定義やモデルを利用し紹介する形をとって行きたいと思っています。


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【脱英雄譚】【反英雄譚】【ヒロインとは何か?】

間違えた道のヒーローとヒロインたち~『Fate/Zero』とか『めだかボックス』とか…
(方さんのコメント)

現代的なお姫様属性なんじゃないかとも思えます。
現代の作品では女性キャラであっても単に受動的であれば「いや、お前動けよ」と不満を抱かれるでしょうし、男性キャラなら言わずもがなですから、目一杯行動した上で行き詰まっているキャラ像がヒロインの立ち位置に収まってくるのではないでしょうか。明確にヒーローの存在しない世界において右往左往する人間像でもあるのでしょう。

(↑)先日書いた『間違えた道のヒーロー』に関する記事で、方さんのコメントが非常に興味深かったので取り上げておきます。僕自身の『姫属性』という言葉の認識/扱い方の差異や、『罪と罰』のようなタイプの主人公を同様に『お姫様』とするか?まあ、後、単純に男性キャラをそう呼ぶか?w…と言った懸念がありますが、彼ら(彼女ら)を“お姫様”と捉える視点を持つのは、かなり『面白い』と思います。



前回の記事の中で、僕は彼らの共通項をいくつか挙げたのですが、「彼らは一様に救いを求めている」という点の意識が抜けていたなと思っています。これは僕が挙げた他項を圧して重要な項だと思います。(『AngelBeaats!』の立華かなでが違うという意見もありそうですが……まあ、置いておいて)あるいは観客が「彼らが最後には救われる事を期待する」キャラという言い方もできますが、どこか彼らは………まあ「自分は、自分が救う!」という体で決然と行動しているのですが……、どこか、「誰か僕を救ってくれ!!」という絶叫が聞こえて来るキャラたちに僕は思っていて、その感覚が“お姫様”という指摘になり、それは彼らを構成する重要過ぎるポイントに思えます。…“男ヒロイン”とでも言えばいいのかな?文字通り、どこか女々しいとも言えそう。

僕は、彼女たちの事は、物語中の世界の複雑さを体現/吸収する特異点のような存在に観ていて、こうして(3対3合コンみたいに)並べてみたものの……世界の在り様を見せる“彼女ら”と、世界に個人で主体的に挑む“彼ら”とでは、そもそもレイヤーが違ってあまり共通項的に語れないなあ……まあ、いいやw とにかく「何か感じるので」このまま並べる所まで書いて後、しばらく寝かせちゃえ…。
くらいに考えて記事を書き始めたのですが…ちょっと、今、共通項がティンときた!(゜∀゜)

彼ら、彼女らは、「間違えた道のまま突っ走っている」事が共通していると言えそうです。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、球磨川禊、衛宮切嗣、暁美ほむら、立華かなで、そしてベアトリーチェは、間違った判断をし、間違った決断に至り、しかし強い信念のもと「自らを信じて」一心不乱にその物語を駆け抜けている。
しかし、「元々、間違った判断なので、いつまで経っても、どんなにがんばっても、自分たちの望む場所にたどり着けない」のですよね……そういうキャラたちだと言えます。…ヒロインたちは、その抜け出せない場所に“王子様”が現れて救い出してくれるという展開がついて来るようです。



一方、ヒロインたちについては、既に“王子様”が来るという指摘をしているのですが、ちょっと言葉で述べただけというか…覚醒が足らなかった(汗)彼女たちは「隠されたお姫様」なんですね。お姫様である事が隠されている…。それは「お姫様って一体何をしていたの?何を思っていたの?」問題に対する回答と言うか…。ちょっと僕の中で『お姫様問題』あるいは『お姫様と女戦士の問題』というテーマがあって、これに繋がってくる話ですね。
そこから考えると、彼女らがその“お姫様”を完うするために、その物語が隠される意味が分かるというか……お姫様の物語というのは本来見えない事によってお姫様足りうるというか…(見えて、それが波乱に満ちたものなら、それは女戦士の物語になる?)まあ、ここらへんの話は、また改めて積んで行こうと思いますが、彼女らを観て行くのによい視点に思えます。

しかし、そうやって考えて行くと彼ら彼女らを一度『間違えた道のヒーロー』として一括りにしましたが、やはり、物語構造のベースとして別れて行きそうですね。彼ら彼女らが「間違えた道のまま突っ走っている」事、「救いを求めている」事は、共通項で(あと、男キャラたちは“ヒロイン”っぽい?w)、そこには何かしかの意味があると思いますが、その後の物語構造としては分化しているようです。単純に言えば男キャラくんたちの方は「その素性が隠されてはいない」ので。

今日の所はこのくらいで。この話はまた改めて進めて行きたいですね。


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【脱英雄譚】【反英雄譚】

(´・ω・`)(マスオさん風に)「ええ?『コードギアス 反逆のルルーシュ』のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと、『めだかボックス』の球磨川禊、それと『Fate/Zero』の衛宮切嗣は、同じタイプのキャラなのかい?」



ルルーシュ「あの日から、俺の心には納得が無かった・・・。噛み合わない偽者の日常、ずれた時間、別の記憶を植えつけられた家畜の人生!しかし真実は俺を求め続ける。」

そう、間違っていたのは俺じゃない! 
世界のほうだ!!!




球磨川「あいつらに勝ちたい」

格好よくなくても 強くなくても 正しくなくても 美しくなくとも 可愛げがなくとも 綺麗じゃなくとも 格好よくて強くて正しくて美しくて可愛くて綺麗な連中に勝ちたい
才能に恵まれなくっても 頭が悪くても 性格が悪くても おちこぼれでも はぐれものでも 出来損ないでも 才能あふれる 頭と性格のいい 上り調子でつるんでる できた連中に勝ちたい

友達ができないまま 友達ができる奴に勝ちたい
努力できないまま 努力できる連中に勝ちたい
勝利できないまま 勝利できる奴に勝ちたい
不幸なままで 幸せな奴に勝ちたい!

嫌われ者でも!憎まれっ子でも!やられ役でも!主役を張れるって証明したい!!




切嗣 ―衛宮切嗣の名の下に、令呪を以てセイバーに命ず―

『Fate/Zero』は、まだアニメが放送開始したばかりなので核心的なセリフは避けましたが……「ルルーシュと球磨川と切嗣は、同じ系統のキャラクター」という話は、かんでさんとGiGiさんのラジオで聞きました。けっこう直感で納得できる…というか、かなり示唆に富んだ指摘だと思います。

まずこれは、『めだかボックス』の人気投票で2位の黒神めだかが992票に対し、1位の球磨川禊は3854票!という圧倒的絶対的大差で優勝した事件に合わせて語られた事で「今、そういうキャラはウケる」という意味を多少絡ませながら語ってもいました。実際、彼らはかなりの人気を獲得しているキャラだと思います。

さて、その彼らの共通項ですが……僕なりの言葉で語ると「何か理屈倒れになっちゃっている所?」みたいな話になってくるのですが、もう少し違う角度で詰めると……「自己主張を貫くために、気がつくと“世界全部”を敵に回して、勝ち目が極めて薄い戦いに追い込まれている」とでも言いましょうか?
もう一つは「弱い自分を護り隠すために、極めて強いペルソナ(心的仮面)をかぶっているが、けっこう要所々で、その弱い自分が、やや、ダダモレになっている」所ですね。おそらく、このキャラ毎にある、ある種の二面性というか、そのギャップの部分にしびれて人気が出ているんじゃないかと想像します。

また「現代の先端の『物語』での、男の子のキャラクターはこうだよ」という見せ方の対の存在として「女の子のキャラクターはこうなってる?」という意図で書いた(↓)下記の記事を連想しました。

今、そこにいる不器用な子(´・ω・`) ~『まどマギ』とか『AB』とか『うみねこ』とか…


1.近年の複雑化する『物語』を代表するような入り組んだストーリーである事。
2.物語全体が謎に包まれていて、それらを明らかにして行く展開が含まれる事。
3.用意された謎の焦点にヒロイン格のキャラクターが置かれている事。

そして4.そこに置かれたヒロイン格のキャラクターは、真相が分かると「恐ろしく不器用な子」である事、その不器用さもかなり言語を絶する程不器用である事(言語を絶するは言い過ぎかな?w)が判明する事…です。最初は、すごくクールでミステリアスな女の子として登場して主人公を惑わせるのだけど、事が明らかになってみると「ミステリアスなのは不器用で、気持ちを伝えるのが上手く行っていないからでした!<(`・ω・´)」…みたいな感じと言えばいいのか。

僕は、彼女たちの事は、物語中の世界の複雑さを体現/吸収する特異点のような存在に観ていて、こうして(3対3合コンみたいに)並べてみたものの……世界の在り様を見せる“彼女ら”と、世界に個人で主体的に挑む“彼ら”とでは、そもそもレイヤーが違ってあまり共通項的に語れないなあ……まあ、いいやw とにかく「何か感じるので」このまま並べる所まで書いて後、しばらく寝かせちゃえ…。
くらいに考えて記事を書き始めたのですが…ちょっと、今、共通項がティンときた!(゜∀゜)

彼ら、彼女らは、「間違えた道のまま突っ走っている」事が共通していると言えそうです。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、球磨川禊、衛宮切嗣、暁美ほむら、立華かなで、そしてベアトリーチェは、間違った判断をし、間違った決断に至り、しかし強い信念のもと「自らを信じて」一心不乱にその物語を駆け抜けている。
しかし、「元々、間違った判断なので、いつまで経っても、どんなにがんばっても、自分たちの望む場所にたどり着けない」のですよね……そういうキャラたちだと言えます。…ヒロインたちは、その抜け出せない場所に“王子様”が現れて救い出してくれるという展開がついて来るようです。

「間違った判断」とは、何を以てそういうのか?というのは、ちょっと難しい議論ですが、いささかトートロジー的ではありますが「望んだ結果」に行かれない判断が間違いという事になると思います。
そうなんですよね。彼らは“望んだ結果”に対して“採った手段”は「どうしてそうなった?(`・ω・´)」と言わざるを得ない点で共通しています。程度の差こそあれ。

そして、(僕にとって)重要なのは旧来の物語主人公のキャラ、特に『王』とは“反存在”と言っていい存在なんです。…『王』というのは…僕と付き合いのある人や、このブログを以前から読んでくれている方には、分かると思いますが、『王』というのは、思いっきりかいつまんで述べれば「絶対的に正しい判断によって、正しい結果を得てしまう」キャラクター(主人公)の事を指しています。



たとえば『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『キャプテン』の谷口(イガラシでもいいかも)、『コードギアス』の枢木スザク(僕は彼は最後に折れたと思っていますが、少なくともルルーシュと敵対しているスザクは)といったキャラがそうです。
彼らはまず、即断即決と言っていい、極めて短時間で“正しい判断”を下します。そして、その信念に基づいて一心不乱にひたすら行動で示します。そうして元々、正しい判断だったので、(時に彼らの行動は、最初は、大変まだるっこしい遠回りに見えたりもするのだけど)結果として予想外の短期間で「望んだ結果」という果実をもぎ取ります。

…完全に上に上げた、「間違えた道のまま突っ走っている」“彼ら”、“彼女ら”とは違う存在、ともすると、それだけで強い憎悪を持たずには居られないようなキャラだと思います。
そうして旧来~漠然とした昔~は、こういう事を目指して設計された主人公か、これに準じた主人公ばかりだったと思います。それを考えると時代は変わったなあ…と、僕が続けている主人公論/ヒーロー論も古いんだなあ…と思わずには要られませんが…いや、古かろうが何だろうが、続けますけどね(汗)

とまれ、今上げたキャラクターたちが、全て“『王』への反存在性”を見出す事ができるのには、意味があると思います。『コードギアス』、『めだかボックス』、『Fate/Zero』、『まどか☆マギカ』、『Angel Beats!』、『うみねこのなく頃に』。いずれも、近年の代表的な、おたく界隈の“先端”と言って差し支えない物語たちだで、それらに6作品の中では必ず、この属性(?)のキャラを見出す事ができるのは、偶然ではないでしょう。

まあ、そこから先は、もう少し色々考えを巡らせてから述べて行きたいので、ここらへんにしておきます。いわゆるゼロ年代の後半~現在までの物語の流れの、キーとして考えてみたいと思っています。

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最近、気に入った“不器用な子”キャラを並べてみました。…最初、自分のフィーリングを優先して“アホの子”と表題しようかとも思ったんですが、僕はアホの子ってそんな悪い印象で使っていないのですが、まあ、あんまりキツい受け止め方になってもよくないので、今回は控えておこうかと(汗)
今回、不器用な子と題して、下記に『魔法少女まどか☆マギカ』~『AngelBeats!』~『うみねこのなく頃に』のヒロインたちをリストして行きますが、僕はこれをちょっと『面白い』共通項を見いだせると思っているのです。

1.近年の複雑化する『物語』を代表するような入り組んだストーリーである事。
2.物語全体が謎に包まれていて、それらを明らかにして行く展開が含まれる事。
3.用意された謎の焦点にヒロイン格のキャラクターが置かれている事。

そして4.そこに置かれたヒロイン格のキャラクターは、真相が分かると「恐ろしく不器用な子」である事、その不器用さもかなり言語を絶する程不器用である事(言語を絶するは言い過ぎかな?w)が判明する事…です。最初は、すごくクールでミステリアスな女の子として登場して主人公を惑わせるのだけど、事が明らかになってみると「ミステリアスなのは不器用で、気持ちを伝えるのが上手く行っていないからでした!<(`・ω・´)」…みたいな感じと言えばいいのか。
これは、今後、さらに複雑化して行く……こともあるであろう(ハッキリしないな!)『物語』構造として、ちょっと興味深い“形”に思います。複雑化したストーリー、謎が多いストーリーは、最終的に辻褄が合わないと受け手の納得は得にくいわけなんですが、キレイに辻褄の合う範囲だと、すぐに読まれたり、あんまり飛躍した楽しさの無い物語になり勝ちでもあると言えます。

その複雑になったストーリーのある種の歪みをワン・キャラに全て載せて「この子はこういう子なんだ!」ちょっと……いや、相当、変わっているけど、それはしょうがないんだ!(`・ω・´)みたいな感じの形に、意識無意識を問わず、その形に落ち着いているのは、ちょっと『面白い』かなと思っています。
いや、最初僕は彼女たちのキャラが、どうにも、腑に落ちなかったんですけどね(汗)…なんか気になって…というか焦点のキャラですからねえ……じっくりコトコト(煮詰める音)と、考えを巡らせて行ったら、ある一線で、ふと、「ああ、そうなんだ。この子、不器用なんだ」でキャラの像がガチッとはまったって話なんですけどね。
それが何度か同じ傾向で続いたので、それを書き留めておきます。今後、このパターンがまた出てくるかはわかりませんが、一つの類型として覚えておきます。

■『魔法少女まどか☆マギカ』~暁美ほむらさん



ほむら「繰り返す。私は何度でも繰り返す。同じ時間を何度でも巡り、たった一つの出口を探る…」

『魔法少女まどか☆マギカ』は、不思議な生物・キュゥべぇとの「魔女と闘う魔法少女になる契約」を巡る、少女たちの『物語』…という説明でいいのかな?キュゥべぇは確信的にその契約の本当の意味を伏せていますが、もう一人、その契約の意味の全てを知りつつ、たった一人での解決を目指して時間跳躍を繰り返すヒロインが暁美ほむらさんです。彼女の目的も当初伏せられている。

いや、この物語の真相が観えた時、僕は「いや、それならもう少し賢く、仲間の協力を仰ぐ手段はあったんじゃない?」と暁美ほむらさんに対してそう思ったんですよね。ちょっと上手く行かなかった時点で、早々にそれをあきらめて、一人で何とかする事を決意してしまうんですが、そこはもうちょっと何とかならなかったのかなあ?と。
そこらへん含め、端々の行動で、暁美ほむらというキャラクターが、僕はどうにも呑み込めず悩んでいたんですが、ふとGiGiさんが「ほむほむ(ほむらの事)は、アホの子だよ?」と言った発言をしていて「ああ、そうか」と目からウロコが落ちるものがあったんですよ。…いや、アホの子ってそんな悪い意味で使ってないですよ?(汗)

そうなんですよねえ…。登場時のミスティアスで、クールで、カッコいい立ち振る舞いから、てっきり“賢い子”をイメージしてしまったのですが、彼女の物語が明らかになる10話を観れば、そうではない事が丸分かりになるんですよ。
アホの子というか……応用が利かない子とか、融通が利かない子とか、そういう表現の方がいいかもしれませんが。ともかく、他が視えなくなってしまう子で、“時間跳躍”という無限の可能性世界を与えられても、前しか視えない所があって上手く使えていないのでしょう。

「まどかを救う!わたしにはこの子しかいない!」と、まどかだけだけになってしまう所と、そのまどかを救う方法について妙にあきらめ早く、周りが見えずに嵌って行く所とは、一緒のものなんだと。…そう考えると、このキャラクターがすっと腑に落ちてきたんです。
トロくて、思い込みがはげしくて、すぐに周りが視えなくなる子。でも、だからこそ彼女が救おうとした“ただ一人の友人”~水を差すと周りが視えていない…とも言えますが~「まどかを救いたい」という願いが、唯一性の輝きを持ち得ている。そして、この物語を締めくくり得る美しさを持っているのだなあと、今は、そう思っています。今は、まどかの次に好き。(`・ω・´)

■『Angel Beats!』~立華かなでさん



音無「どんだけ不器用なんだよ……お前は」

『AngelBeats!』は、記憶を失って、どうやら死後の世界らしき場所~学校の校舎~に送られてきた少年・音無くんが、その世界でも消えて行く事に抗う“死んだ世界戦線”のメンバーとともに、“天使”と呼ばれる美少女にして消滅の導き手…のような存在と抗争を繰り返す『物語』でしょうか?
その世界がどうしてあるのか?が物語キーで、その世界の意味を見出した時、それを受け入れ得るか?肯定し得るか?というのがポイントでしょうか。

これもね、真相が分かった時、「それが目的でこんな(抗争を繰り返す)事態になるのかなあ?」とは思ったんですよねw…いや、天使(かなで)ちゃん、以上におっちょこちょいといか、早とちりとか激しそうなユリ(死んだ世界戦線のリーダー)と、絶妙の錯綜をすれば、そうなるかな?まあ、イメージは沸くかな?とも思うんですが、それにしても言語を絶する不器用さだと思うんですよね。

しかし、これもね。ず~っと潜って行ってみると、ある一線から分かるような気になって来る。逆に淡々と自分の“決めた事”をやり続ける姿勢はちょっと感動するというか。…自分が不器用という自覚はあるようで、その上で、徹底してポーカーフェイスなんですが、どうも内心では傷ついたり、落ち込んだりしている、でも、やっぱり“決めた事”を止める事はしない…。
つまり、それって不器用じゃないとできないというかね。それは僕は佳い事だと思うというか、けっこう尊敬してしまう事でもあります。心臓を患ってろくに生きてもいない子だけど、喜怒哀楽凡て飲み込んで納得していて、淡々としていて、いつでも成仏できる子なんだけど、決めた事があるから残っている。それはカッコいいなと。

■『うみねこのなく頃に』~ベアトリーチェさん



戦人「馬鹿野郎ぉぉぉ…。……お前の謎はさ、……捻り過ぎなんだよ……!!」

『うみねこのなく頃に』は、六軒島で起こった謎の連続殺人事件を解決するため、事件の“被害者”である右代宮戦人くんが、真犯人の“仮存在”である魔女ベアトリーチェに繰り返し繰り返し、六軒島の可能性世界の事件をいくつも見せられ、その全ての事件の真相を暴くことを強いられるという、PCゲーム…………何を言っているのか分からないかもしれないが、俺も何を言っているのか分からなねえ…ッ!!(`・ω・´)おお、ポルナレフ……とまあ、全く知らない人には一口で説明するのが、相当難しい『物語』なのです。

その上、物語が全て終了した今も、事件の真相は明示的に明らかにされていない。ただ作者から「推理は可能である」と宣言されているだけ。そんな物語なのですが、これを僕なりに推理(?)し、大体、こういう感じの真相かなあ?という自分なりのの答えにたどり着きはしました。しかし、そこに到った時に得た感想は大体、戦人くんと一致するんですよね。

曰く、「捻り過ぎなんだよ……!!」…いやwなんかほんとにそんな感じなんですよね(汗)真相から大体の犯人が見えてくると、大体、動機もイメージできるようになってくるのですが…“捻り過ぎ”はそっち側の方が重要というか、その為にこれほどの大掛かりな事件を起こしたの?と思わなくもない。
しかし、犯人ベアトリーチェが何を考えていたのか、ず~っと潜って行ってみると、ある一線から分かるような気になって来る。ちょっと、ネタバレですが、結局、ベアトリーチェは自分の話を戦人くんに聞いて欲しくて、聞いて欲しくて、仕方がない。そして、戦人くんとず~っと遊んでいられる事を考えると、事件の内容は“捻り過ぎ”にならざるを得なかったという事なんですけどね。

これを常識線上に持って帰って語ろうとすると「ベアトさんは、ちょっと頭のネジが一本外れた子……アホの子?」みたいな話になって来るという。でも、その頭のネジの外れ具合が全部、「戦人さん好き!」に注がれているかと思うと、なんかすんごい萌えるというかね。
『うみねこのなく頃に』は僕は好きなキャラはけっこう、右代宮縁寿、絶対の魔女・ラムダデルタは、忘れ難く好きなんですが、ベアトは最初、そんなでもなかったのが、最終的には彼女らに比肩する程、好きになっていました。…というか(戦人に気を惹くために?)奔放な悪女から、決然たる決闘者、貞淑な淑女まで様々な相(かお)を見せた素晴らしいヒロインだったと思います。


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【ハーレムメイカー】



2011年4月~6月期のアニメ『俺たちに翼はない』について、僕はすごく気に入ったので記事を書いておこうと思います。ちょっと観直していたのですが…やっぱいいですね、『面白い』。ちょっとザッピング的な、混乱を意図した話運びや、茶化したような演出が、人を選ぶ所はあると思いますが、じっくり観ても『面白い』。
第1話の冒頭のシーンと最終話のラストシーンを重ねていて、最初から観直す示唆をとっています。ラストシーン観て「ああ、このシーンはこういう事なのか…」と。(アニメ『SchoolDays』なんかもそうですね)…しかし、第1話のシーンは学校の制服が全員同じなんですよね?1年生の子たちは違う学校のはずなんですが…パラレル?いや、むしろ、そこでの細かい所作、言動の違いが…(ぶつぶつぶつ)…いや、ホント観直してみるといいですよ?(´・ω・`)けっこう細かく色々やっているのが観えてきます。観直し前提のアニメと言ってもいいですね。

『俺たちに翼はない』は……えっと、もうネタバレ全開で語りますが、自分の殻に閉じこもって様々なキャラを生み出してしまうとある多重人格症の少年がいて。その変わったキャラごとにヒロインがついてしまう『物語』。その人、本来の人格はずっと“奈落”から出てこないのですが、彼がずっと戻ってくるのを待っている妹の子(ホントは妹じゃないらしい)もいます。

■ハーレムメーカーへの道

まず、この物語の構造と文脈の話をしようと思います。はっきり言って、僕が、このブログでずっと話している【ハーレムメーカー】の文脈そのもの話になります。「ハーレムメーカーってなに?」って所から話していくと長く長く長くなってしまうのですが、かいつまんで説明すると「主人公一人を多数の女の子(ヒロイン)が好きになってしまう」という形態の物語が、どう受容されて変化して行くか?を追っています……程度に考えてもらうとして(↓)直近の記事として『アマガミSS』と『ヨスガノソラ』の記事を引っ張ってきます。

【ハーレムメーカー】『アマガミSS』×『ヨスガノソラ』のヒロイン並列構造の解法
ちょっと昔に遡ると、複数のヒロインが居ます~そして、それぞれのヒロインに一定のファンがついています~そういう作品をアニメ化(あるいはマンガ化)するとしたら、どうヒロインたちを描くか?最初に考えられたのは並列構造は並列のままにオムニバスで描く事でした。
それに対してそう離れてない時期のはずですが、敢えて一本の物語に絞り込む。複数ヒロインといってもタイトルとして“本命”に据えているヒロイン、一番人気のヒロインがいるワケで、この子一本に物語を絞る。他の子は登場させつつもメインストーリーの脇として置くという手法も取られました。……しかし、どちらもあまりパッとはしなかった。

オムニバスに描かれた物語は、拡散的で一本に絞られた物語の盛り上がりが得られなかった。…この当時だとまだ「ヒロインを選ぶなら一人」という力場の縛りは強く、ヒロインたちが恋の成就まで辿りつくのに抑圧的だった事も原因だとは思います。(オムニバスでも複数の女の子に手を出しているように錯覚させるという感じかな?だからあまりハッキリした所まで踏み込まなかったりする)
また、一本軸で描かれた物語は、それメインにヒロインに置かれた娘の盛り上がりは相応にあるワケですが、他の序列下位のヒロインたちの物語はスポイルされてしまうんですね。必然的に。そうすると、先ほど言った、それぞれのヒロインについたファンたちの不満足が顕在化する「俺の好きなあの子の話は?」となると言うか。
まあ、他にも色々原因っぽい話はありますが、まだゲームとマンガ的『物語』の親和性はよくなかった時期だったって事も大きいでしょうね。

ここで語られている並列構造についての議論と同じく、アニメ『俺たちに翼はない』も「ヒロイン並列構造を如何に描くか?」という視点で観ることができます。
…どうして並列構造で描くか?という話を確認すると、それは「それぞれ(どれか)の女の子を好きになってね?というパッケージをした物語」だからです。そこにどういう問題が出るのか?というと「…にも関わらず、通常的な一本筋のストーリーだと「それぞれ(どれか)の女の子を好きになってね?」というサービスが真っ当できない。一本筋の中心に添えられなかったヒロインは、スポイルされるから」です。…じゃあ(サービスの真っ当として)全てのヒロインの“想い”を成就させてあげるか?しかし、それは主人公が一人の場合、倫理的な圧力がかかってしまう。
…という具合にハーレム構造は、そこの構造を組んだ時点で様々なジレンマを抱えていて、そこをどう上手く逃がしてやるか?というその解法を僕は追っていたりするワケです。



たとえばこれを、記事に上げた『アマガミSS』(2010年放映)はどうしているか?というと、かつてとられた、ある意味古い手法であるオムニバス形式に立ち返っている。完全に世界を替える形で、それぞれのヒロインの満足をサービスしながら、その上で統合的なヒロイン(メタ・キャラクター?)をだして、物語全体の統合化も図っていると。
…しかし、ここで『俺たちに翼はない』というアイデアの形を明確化するために、敢えて指摘すると、主人公一人の形でオムニバス/パラレル・ワールドをとっている事によって「それぞれの展開があり得る」という範囲内に収まり、唯一性の物語が希薄になっているのですよね。
「この子じゃないとダメ」ではなく「どの子でもいい」という事になっている。いや、その上で一本一本のストーリーのクオリティを高めて行くという手法で『アマガミSS』は充分な成果を得ていると思います。でも必ずしもシナリオが唯一性に満ちている必要はないのですが『アマガミSS』は構造として他の世界もある事を見せてしまっている。仮に劇中で主人公が「君じゃないとダメなんだ!」…とか言っても“そうでない世界”がある事を観客は知っているというかね。(それでも、そこに唯一性を見出す……とかそういう試験はここでは置いておきます)
……そんなモンしょうがないじゃん?というか、えらい我儘ですが(汗)まあ、とにかくサービスを高めようとするとそこが観えてくるという事です。それ故、そこに対する要求として、全部を統合して唯一性の物語へと収斂させる“上崎裡沙”というヒロインが出現すると考えられます。

さて、今、指摘した角度で『俺たちに翼はない』を見ると「主人公が何故、多重人格なのか?」が分かってくると思います。…というか、話が進んで物語全体の構造が解ったとき「ああ、そうきたか」と思ったんですけどね。
ただ、漫然と一人の主人公が複数のヒロインとよろしくやる(=横ハーレム)のは倫理的な圧力がかかる。パラレルな処理で複数のヒロインとよろしくやる(=縦ハーレム)のは唯一性(この子じゃなきゃダメ)…じゃあ、どうするか?「主人公を(二人)割っちゃえ!!」という答えを出したのが『キミキス pure rouge』(2007年放映)だったりするワケですが…まあ、そっちの話は、またの機会にするとして、そこからさらに“尖った答え”として「一人の主人公の身体に、複数の人格を入れて、それぞれにヒロインをつけちゃえ!!」とやったのが『俺たちに翼はない』という事になります。

この物語には基本として四人のヒロインがいると考えられますが(実は“人格”によってさらに複数のヒロインを抱えてたりするから複雑なんですが…)その四人のヒロインと、それぞれキャラクターの違う四人の男の子と、なんて事ないラブストーリーを演じると。しかし、その男の子の身体が一つだったら…それはハーレム構造じゃないか?というアプローチですね。
上崎さんのような“統合的な役目”を主人公の羽田鷹志くんが、同時に果たしてしまっているワケですね。これによって、並列的な構造をすんなりと取りながらも、統合の物語~これは文字通り人格統合も重なるのですが~も同時に行われているという、なかなか『面白い』形をとれています。
ほぼ、完全な並列化を果たしているので唯一性(この子じゃなきゃダメ)も実現されていますし、その上で一本軸のストーリーとしても仕上がっていて、倫理的な圧力もかなりの所まで“逃がして”いると……すごい!!(`・ω・´)
結果として物語自体は1クールに詰め詰めの形になっていて場面が、拙速な速さで切り替わる混乱気味な物語になっていますが…だから、こそ第1話から観直す事が示唆されているし『情報圧縮』で、かなりの難解でなくなる程度の精度を出しているのですよね。

■その構造から生まれる物語



さて、本題。というかこの物語の構造的な分析は上に書いた通りで、これはこれで興味深いのですが、話はそこで終わりではなく「そういう構造を取った物語が、どういうストーリーを編んで行くのか?という面での面白さがありました。単純に考えて1クールで4本分のラブストーリーに、その問題の提示と解法が入ってくるのですから、かなりボリュームのある物語である事は分かるかと思います。

多重人格もので、その人格一人一人にヒロインを用意したらどうなるか?…まず、多重人格というのはある種の心の病であり、心神喪失状態とも言えるこの“症状”は、精神の健全さを(おそらく)損なっており、最終的にはなんらかの形で後から作られた人格は消える~昇華される~ものである“べき”ものである。
…というのは多重人格ものにある倫理的圧力で、この物語も当然その影響を受けています。故に、この“主人公たち”はいずれ消えて行くものであり、それぞれの~妹の子以外の~ヒロインたちとの別れが想起されるように(情報圧縮的ですが)なっている。

何人かの“人格”はその事を知っており、それ故彼らは意識的に、人と深く関わる所を避けている……そういうキャラ性というか、雰囲気が加わっている。「それでも関わってしまう女の子」はいるワケで(というか彼らはあまり彼女たちが自分を好きになる事を想定していなかった感じですね)そのストーリーには相乗的に、そういうエッジが入っているワケです。物語の統合的な設定が、個々のストーリーを逆に支援していると。
あるいは統合的な設定に対して、謎めいた(?)男の子の秘密を突き止めて行くヒロインのストーリー。あるいは、10年前から自分の殻に閉じこもったきり、生活はずっと他の人格に任せて出てこなくなってしまった男の子を、ずっと、10年会えないままで待ち続けているヒロインのストーリー。用意された設定に対して精度の高いシナリオが組まれて行っているのが分かると思いますし、消え行く、翼なき主人公たちの心象も『読んで』行く愉しみがあります。

そうしてラスト、人格が統合されてからも“彼ら”が消える事はなかった…と一見、普通のハッピーエンドのように思えますが、これすごくいいです。
何で彼らが消えないかって言うと「ヒロインたちが彼らを消させまいと繋ぎ止め続けるから」なんですよね。これルイさんと話していたんですが。正確に言うとヒロインたちに代表される“彼ら”の関わるセカイが…ですが、それをヒロインが象徴しているという事でいいと思います。それが1シーンに結晶するのが、最終話のラストシーンなんです。いや、あそこいいシーンですよ。なんかお気楽なBGMとか流れていますがw

彼女らが諦めると“彼ら”は消える…はずなんです。元々、必要に応じて生み出された“彼ら”は必要とされなくなれば、その時はじめて役目を終えて消えてゆく人格のはずなんです。それをヒロインたちが強引に引き止めている。あのラストシーンはその“意志”によって生み出されている。
なんでもいいんですが…まあ、たとえば『IS』を例にあげると(←なぜ『IS』か?←ラジオのこの話題で上げたから)シャルや、セシリアさんが諦めても、一夏は一夏のまま、消える事はないんですよね。勿論、箒さんや、ラウラや、リンでもそれは同じ事です。
でも『俺たちに翼はない』の彼らは消えるんです。鷹志や、鷲介や、隼人は本来、消えるべき存在なんです。
「そうはさせない!」と叫んで喰らいついている。それがあのラストシーン。その一事が、唯一性の物語において、ヒロインたちに強烈な『強さ』を与えていると言えます。

いや、改めて良い物語なんですよ。『ハーレムメーカー』の話の時には必ず引っ張り出すであろう程の解法を示してくれています。そんなに取り沙汰される事はなかった物語ですが、機会があったら一度観てみて下さい。


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ちょっと考え事をしていて思いついたんですが『魔法少女まどか☆マギカ』(監督・新房昭之、脚本・虚淵玄)と『風の谷のナウシカ』(原作・宮崎駿)の主人公、まどかとナウシカが、“結末に選んだもの”って似ている所があるな?…と考えたので、その事を書き留めておきます。
…といっても、実は先にツイッターでつぶやいていて、それをhimugashiさんにまとめてもらったりしています。(´・ω・`)海燕さんとの話題が絡んで、ちょっと『面白い』交差をしたやりとりになっていますね。(↓)

▼Togetter:「世界に一つだけの花」問題などについて

認知の規模は『ナウシカ』の方がずっと大きい…………のかな?(´・ω・`)アニメ映画『風の谷のナウシカ』はともかくとして、原作『ナウシカ』の認知度ってどのくらいのものなんでしょうね?存在は知っているけど、読んだことは…とか、詰めて行くと、案外そんなに大きくないのかもかもしれませんね?余談ですが。…いや(汗)まあちょっと都合で、両作品の内容や具体的な結末の説明とかは端折って書いて行きますって話なんですけどね(汗)

■変わらぬ世界の在り方

まず、前提的に言うと、まどかも、ナウシカも、その結末を見守るファンたちから大団円を期待されていたというか……「全てを救う結末」を期待されていたんじゃないかと思うんですよね。「?いや、そんなもの期待しちゃいなかったよ?」という人もいるでしょうが、僕が周りを眺めた感じにおいては概ねそんなだったと思います。
ただし、まどかは「救われない悲劇が繰り返されたからこその大逆転」、ナウシカは「救世主として顕れたからこその救世譚」を期待されていたと、そこは細かくは差異があります。

…で、その結末において両作品は「不思議なカタルシス」があって、相応の満足を与えてくれるのですが(人によっては即座に不満足が現れる人もいたでしょうが、これも両作品とも概ね好評だったように思います)、よくよく考えてみると……あれ?この世界そんなに救われていない?と気づくというか。

まどかはインキュベーターの構築した魔法少女システムのうち「魔女になるフェーズ」を別の理(ことわり)に再構成してその機能を破壊します。ナウシカは、戦乱と大海嘯の元凶である“墓所”を破壊します。
そこにカタルシスは確かにあるんだけど……あれ?魔法少女になった女の子たちは、結局助からないの?とか、まどかに対しては思うわけですよね。ナウシカに至っては墓所を破壊したはいいけど、その為に人類オワタ!\(^o^)/…な状態なワケですよ?w(※ここでナウシカは旧来ヒーローのように「俺は未来を!人類を信じる!」とか言ってくれません。「それはこの星がきめること」というだけです。「関知しない」って言っているんですよね)

彼女らは何を決意したのか?については(↓)の記事で僕の解釈を述べているのでそこを読んでもらえたらと思いますが、ここでは、まあ何か似ていますよね……に止めます。

『魔法少女まどか☆マギカ』~決意と祈りの物語

王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)


■世界を変える選択

まあ、実を言うとこの話、「似てますよね?」→「ふ~ん」(´・ω・`)で、終わりというか特に結論ないんですけどね。ただ、僕は、まどかの契約も、ナウシカの選択も、とても好きで。感動して。首を縦にぶんぶん振ってしまう程、肯定しているのですが、これが納得できない人にもどうにも納得できない事のようなんですよね。そこらへん、何か上手く、“納得”へ誘導する方法はないかなあ?と考えていますが、これがけっこう難しい。また、両作品の結末の景観が似るというのは、納得も不納得も根がかなり近いものではないかと思っています。

納得できないロジックの最たるものは、多分、「お前の思想、お前の趣味を人類に押し付けるな!」というものでしょう。これは、その通りというか……おそらく彼女たちはこの謗りは免れ得ないでしょう(汗)
まどかは、魔法少女になった子たちの契約する意志を尊重して、ただその願いが魔女として災厄に変じてしまう不幸を消しましたけど、対象とされた少女たちの中には「そんな事どうでもいいから、わたしの生命を助けてよ!契約を解除してよ!」と思った子もいたでしょう。
ナウシカも墓所を破壊しても、その後の戦乱は回避されない。争いも飢餓もなくならないと思われます。「なら、せめて、永劫の未来であっても人類は再生するという夢を見させてくれよ!そもそも、お前に新人類を打ち滅ぼす権利なんかあるのか!」という人もいたと思います。

これらの主張は僕は充分な理があると思います。勿論、彼女たちは一定以上の極限状況に臨んでいて、その選択は限られていた…とは言える。また「全てを無矛盾に救う事」を主人公に仮託するのは、過度の要求の面があると思う。しかし、まったく他の選択を考慮する予知はなかったかと言うと、そうは思わないし、過度の仮託に答えてこその『物語』であり『英雄譚』じゃないかとも言えると思います。

にも関わらず僕が彼女らを支持するのは、ものの考え方が似ているから……なんでしょうかね?僕はやはり「自分の生命人生と引き換えにして得ようとした望み」は尊重して欲しいし、それ程の選択を「気の迷いだったからキャンセルして」って……、そういう事が気の迷いがどうかも分からない自分でありたくないと思う。
ナウシカの選択は……僕は多分、人類再生計画を了として、墓所のどっかに転がってると思いますが(汗)それだけに、ナウシカの「未来を質にして今の災厄を肯定しない」という喝破は「小気味良し!」と言わざるを得ないw…というか、生命の在り様を貴ぶならばこちらでしょう。

まあ、趣味が合うって事ですかねえ…。僕はたまたま(彼女たちと)趣味が合った。趣味が合わない人もいるよね。そこの価値は相対的なものだよね……って、なんだろう?そこを、そう納得したくない自分がいますw
生命は遍く凡て生きて死ぬ。という在り様を気を入れて眺めていると、自然と“こっち”になるんじゃないの?と思っている所が僕にはあります。…とは言っても、この話はここまでにしておきますが。特に結論を急く話でもないですしね。

あと、ちょっと付け加えると、たとえばナウシカが墓所の話を聞いて、それを持ち帰って皆で相談して、投票で墓所(人類再生計画)をどうするか決める…なんて選択もあるかもしれませんが、僕はそれは物凄く嫌ですwなんだろう?民主主義嫌いなんですかね?w
まあ僕は僕の意見を反映して欲しいから現世の民主主義は肯定しますけどね。『物語』ではそれは特に見たいものではないです。皆で決めるなんていうのは「皆が納得する選択」であり「間違ってない選択」だけど、「正しい選択」とは特に関係はない。最良解がある問題なら~全て理屈で辿りつける解答なら~集団に頼るのもいいですけど、人間が本当に困るのはそういう問題ではないでしょう。

僕が、物語の主人公の類型の中に『王』という型を見出し追っているのは、こういった「正しい選択」の話を追っているからなんですよね。まあ、ここらへんの話はこの先もず~っと語って行くと思いますので、今日はここまでにします。(というか、けっこう最初に上げたトゥゲッターのコメントの方が言いたい事はまとまっている気もします)

……あ、あと。キュゥべえと、墓所を並べて置いてみて思ったんですが、キュウゥべえって言わば“動く祭壇”なんだ。先日の記事で、キュゥべえと、安心院さんを“戦っても勝てない敵”と位置付けて語っていましたが、それってつまり『祭壇』なんだ。…というか以前、安心院さん(の居る場所)を『祭壇』扱いした記事も書いていましたっけ。

脱英雄譚2.0?とか思いつきでタイトルして適当に書き走らせてみる。

今週の一番『めだかボックス』善吉が来た場所を『祭壇』と捉える観方

…ん~。最近、なんか色々リンクしてくるなあ…何か来るかな?(´・ω・`)


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【脱英雄譚】

神尾そら@まどほむ(^ω^)
「結局どのキャラも間違った部分を持っている人たちだったんだなと」「みんな普通の人間だよね」

http://twitter.com/#!/chekisora/status/76106675949551616

神尾そら@まどほむ(^ω^)
でも「みんな正しくない」というのが、なんか今風だなと思うんだよね。「敵にも都合がある」的な作品のひとつの帰着点だと思う。

http://twitter.com/#!/chekisora/status/76106675949551616

LD
「どっちも正しい」ではなく「自分に正すべき事がある」となるのは重要なシフトな気がします。かつてあった善悪逆転劇とは似て非なる。 RT @chekisora: でも「みんな正しくない」というのが、なんか今風だなと思うんだよね。「敵にも都合がある」的な作品のひとつの帰着点だと思う。

http://twitter.com/#!/LDmanken/status/76121865667612672

え~っと(汗)ツイッターを眺めていて、神尾そらさんの呟きに何か閃くものを感じまして……ちょっと下書きというか考えをまとめるアンカーとして書き走らせておこうかなと考えました。神尾そらさん自身は、多分、『まどかマギカ』の話の流れてつぶやいているのだと思います。まあ、僕も『まどかマギカ』を元にはするんですが、ちょっと大きく脱線して喋ります。TLがどう人に影響を与えるか分からない所がツイッターの『面白い』ところで、恐い所ですね。(`・ω・´)



僕がおたくの『物語』界隈を眺めていると、ちょっと目を止めた作品に対して「敵と思えるような相手に対して、そいつが何を言っているのか?何を求めているのか?よく観て考えないといけないんじゃないか?」…と言った事を感じるようになりまして、そこに『先のもの』が観れそうな予感があるんですよね。いや、それは有り体に言えば「善と悪が手を結ぶ」みたいな表現になるかもしれないんですけど、そうではなくって、本当に相手が手を組める相手かどうか、ちゃんと見極めそして“交渉”をするというか…。
「相手が何を言っているのか、よく観て考える」と言うと、相手が“正しい”から、それを考え理解に努める~って受け止め方になりがちな気もするんですが、そうではなく、そもそも、どっちが正しいか?とか間違っているか?とかじゃなく、本当に相手は何を求めているの?何を為そうとしているの?という事をしっかし見極めないといけないんじゃないの?という話なんです。

自分の為す事が“悪”であると認識してそれを為そうという者は、為す自らを肯定するという(肯定=それを悪では無いと判断する)観点において、いないと言える。→「ああ、じゃあ皆、それぞれ自分の正しさを信じてい行動しているんだ。皆、自分が“善”だと思っているんだね」→じゃなくって。善悪じゃなくって。本当に相手は、具体的に何をしようとしているの?それは自分の求めるものと何処がぶつかるの?を見極める必要があるんじゃないの?という話ですね。

『まどかマギカ』のキュゥべえ、『めだかボックス』の安心院なじみ、あたりをそういうターゲットに見立てていたりします。『まどかマギカ』は、まどかが、何でキュゥべえ、引いては彼の背後にいる宇宙存在をぶっ潰そうと考えなかったか?は彼女のキャラ読みの領分だと思いますが、しかし、おそらくそれは無駄なんですよね。
何でかというと、キュゥべえも、安心院さんも、基本的に戦っても勝てない敵として設定している節があるからです。安心院さんに到っては「戦わない」宣言をしていますしね。…なんで、そういう敵が出てくるのか?というと、上記したような事を「そんなしち面倒臭い、頭が痒くなるよーな事考えてないで、さっさとスーパーパワーで“敵”をぶっ飛ばしてスカっとしようず!」みたいな単純な“英雄譚”を避けるため……に思ったりしているワケですよ。

ちょっと補足すると非戦反戦の話をしているワケでもないです。少なくとも戦を持ち込む者を“悪”と見做し、戦をしない者が“善”と位置づけ、善の心を悪人に分からせようと、善の我らが説得する……という話ではない。そうではなく、具体的に相手が何を求めているのか?何を為すものか?考えて“交渉”をする。…ダメならダメで“武力交渉”すればいいのですが『物語』としては、そっちに行っちゃうと、単純な雌雄決着話に紛れてしまうので、そこには至らないでしょうけど。

…まあ、こんな事言ってますが『めだかボックス』はまだ終っていないので、安心院さんが最終的にどう扱われるか(僕の見立てに沿うか?)は分からない事なんですけどね(汗)まあ、現時点ではそんな事を考えていますよ、くらいの話です。すごい大きな流れのように語っていますが、今、見い出しているのこの二本しか思い起こせませんし。…『バトルスピリッツブレイヴ』は、ここを目指しているようには思えますけど。(まあ、どうなるんでしょうね)

しかし、こういった“交渉”の考え方は、昔、このブログで記事にして、僕が思考テーマにしている「“天使”に勝っちゃったらダメ問題」の有効な回答に成り得るんですよね。「天使に勝っちゃったらダメ」な話は(↓)下の一連の記事の…『悪の終焉編』で書いています。

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67
今の話題に合わせた言い方をすると、つまりですね。「善悪が逆転」する事はどういう事かというと、自分たち(と人間)が“悪”という事になる話ですよね。そして純粋なヒーロー(正義の味方)の話をすればする程、“悪”は必ず倒される話を積み上げてきているワケですよね。…であるならば、自分ら(と人間)が“悪”である事を否定できないなら、今度、倒されるのは自分ら(と人間)の番で、これは必ずそうならなければならない。何故なら、ず~っと悪が必ず倒される話をしてきたから…。この論法に無理はありますか?という話でね。…そして、じゃあ、自分ら(人間)を倒す、別の“正義の味方”とは一体何か?というと……それがつまり“神”か“天使”となるワケですw

つまり「善悪逆転」の文脈上、“究極の敵”とは何者か?というとそれは“天使”だ!という事です。


本質的に言うと“天使”って勝っちゃったらダメな存在なんですよね。

勝ったらダメなんですよw勝ってしまったら、それは“天使”じゃなくって“何か凄く強かった悪者”(過去形が重要)って事になってしまうwここで“善と悪”の戦いをする者が倒すべきなのは天使ではなくって、自分ら(と人間)が“悪”だという指摘であって、力で天使をねじ伏せても、この問いかけから逃れた事にはならないんです。

(絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)より)

元々、この一連の『絶対悪ってなに?(´・ω・`)』の記事は、僕の友人が「究極の悪役(ラスボス)」のようなもの?をいろいろ考えている時に、その議論に合わせて悪を倒す類型の物語~英雄譚が、その物語力学から、より“強大な悪”を求めてどこにたどり着いたかの“史観”を語るつもりで書きました。その友人とは最近会って話しましたら「キュゥべえは(究極の悪役の)答えの一つだった」と言った話をしていました。僕もそこは思っていてキュゥべえは、かなり特異で『面白い』悪役だったと思っています。

まおゆう魔王勇者3 聖鍵(せいけん)遠征軍
toi8
エンターブレイン

また、今の話として“先の物語”『まおゆう』を上げてもおきたいですね。あの物語の要所要所は“交渉”のスリルによって編まれて行っている事は読んだ人なら分かると思います。冒頭の「我のものとなれ~」から、クルリタイ、メイド姉vs王弟元帥、女騎士vs大司教も“交渉”と言えば“交渉”ですよね。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7



え~(汗)上の図は『まおゆう』の先の物語性、脱英雄譚性を説明しようとして作成したモデルです。詳しくは記事を読んでもらえたらと思いますが…。これを書いている時は、英雄譚あるいは善悪二元論の臨界あたりまでは観えていて、そのように書いているわけですけど、実際の『世界への接続』についてのイメージはかなり曖昧だった…なんか、現代劇(?)とか、ノンフィクション(?)とか、歴史への接続(?)とか書いていますね(汗)
これ、今なら、二つ程自信を持って書き込める。卵の殻だったとも言えるような英雄譚の視点から世界へ接続するのであれば、それは“観察”と“交渉”になるんですよね。それが世界と繋がるための手始めでしょう。

あと『まどかマギカ』をここでは脱線の流れから英雄譚の類型的に語っているワケですが……まあ、そういう解釈は成り立つと思いますが、同時に「魔女を魔法で倒す」というような英雄譚の主体であろうと予想される直接的な戦闘は、『まどかマギカ』において主体から外れていて、然るに英雄譚的ではないとも言えると思います。
まあ、これは分かる話で、上の図をもう一度観てもらって。世界との接続を果たし、それが進んで行くと、元の出自が英雄譚でもその原型を止めなくなって行くのは必然なんですよね。これもどこかで見切りを入れないと整理しづらくなりますが、なかなか難しい所でもあります。
まあ、こういう取り留め~の無い事を、10年20年と考えて積み上げ続けて行くのが好きな人なんですが、ちょっとまた、何回目かの一区切りが、近々僕の中で訪れそうな……気がしないでもない?(←どっちなんだ)


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キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
佐々木 俊尚
筑摩書房


▼録音データ:物語三昧ラジオ~『キュレーションの時代』

先週、USTREAMのラジオでやったのですが、この時の放送のテキストとした『キュレーションの時代』について、ちょっと僕なりの理解を書き留めておこうと思います。基本的にはこの本はビジネスの所説になっているのですが、それを『受け手』というかサービスを享受する側の見方で語ろうと思います。(自分がそうだから)
具体的には本書を読んで僕が印象に残った言葉、『ビオトープ』と『セマンティックボーダー』について語りたいなと。

さて、要するに、この本を“享受側”として読むと、僕らコンシューマー(消費者)の“小さな趣味”、あるいは“趣味”とさえ言えないような“趣き”、“興味”のレベルのものを、ビジネスとして「上手いこと繋げてくれて、大きな楽しい消費に変えてくれたり」、「違った趣味、違った興味同士を繋げて、これまでと違った楽しみを与えてくれたり」するみたいだよ?……とかいう理解でいいんじゃないかと思っています。
これは単に企業がそのインフラを一方的に与えてくれるという意味だけではなくて、コンシューマー(消費者)側のアイデア一つで、様々な“繋がり方”を生み出し、その“繋がり方”だけで新たな価値や楽しみを生み出される状況が既にある。そして、これからも、より繋がりやすい環境は構築されて行くだろうという事かなと。

数年前に(もっと昔かな?)“ユビキタス”~何時でも何処でもネットに繋がる~なんて言葉が出てきて、これを実現して行くのがIT化の当面の最終目標として掲げられ、今もその志向は着々と進んでいるはずですが、この時に想定されたその価値は「何時でも何処でも情報の流通ができたら……便利なはず?」くらいだったと僕は思うんですが(…多分)、実際に情報…いや、情報に載ったその“価値”を流通させてみると、それが様々な形で繋がり交差するだけで、新しい“価値”を生み出す事が分かってきた。

■自分の持つ“ビオトープ”

そこで、この“価値”を得た情報に対する小さな興味(趣味)が存在する場所として“ビオトープ”という言葉がこの本では出てきます。本来『生息空間』と言ったような意味で「情報が求める人が存在している場所」との事ですが、(↓)以下のように語られています。
ところがインターネットの出現によって、この巨大で大ざっぱなピオトープはすっかり拡散してしまいました。マスメディア以外のピオトープが無数に広がってきてしまったからです。敢初はウェブサイトから。そして検索エンジンが普及して、検索キーワードという新たなピオトープが生まれ、そのビオトープに情報を誘導するための「検索連動型広告」が生まれてきました。さらにメールマガジンや掲示板なども湧き上がり、そして二○○○年代半ばごろからはプログやSNS、ツイッター、クチコミサイトなどのぼうだいな数のソーシャルメディアが参入してきました。

(中略)

しかもソーシャルメディアのビオトープは、固定化されない。あるときはツイッターの盛り上がりの中で突如として生成され、でもその盛り上がりが終わるのと同時にそのピオトープは消滅してしまい、次の瞬間にはどこかのプログのエントリーの中に現れ、そのプログを読んでいる人たちやブックマークしている人たちの間にビオトープが生成されているかもしれません。
つねにピオトープはアドホック(そのときどき)に生まれては消え、消えては生まれているのです。流れに浮かぶうたかたのようなものなのです。

(『キュレーションの時代』第一章 無数のビオトープが生まれている~より)

ある興味が群れている“場所”という表現になっているのですが、それをある固定化されたものとして捉えると、かなりイメージがズレる気がします。引用文でも書かれているようにビオトープは場所が必ずしも固定化されないし、また固定化した生息空間なら、これまでと同じような広告投下でも相応の効果が見込めるはずで、多分、固定化されている場所を探すのは、ここでは然程難しい問題とされていない。
まあ、それをある程度、固定化したり、一定の流れの制御を行うために“キュレーション”という言葉が出てきたのでしょうけど…。あくまで生息空間という言葉に沿うなら、ビオトープを探すのは、情報の海の海流に乗って来る魚群を探す作業に近い気もします。あるいは牛の群を追いかけるというかね。漁師、狩人ですねw牧畜したいのでしょうけどねえ……それはもっと先の話なんでしょうw

これに対し、享受側の話をすると、商品Aを売りたがっている商人がいたとして、“僕”はその商品Aを買いたい者だとします。この時、商人は“僕”がよく行く場所を探してもいいんですけどね……。より本質的には“僕”を探すべきなんだと思うんですよ。勿論、他の購入者を期待して場所を探す商人の考えは分かっていて言っていますけどね。場所に期待する考えが古くなっているからこの議論があるんじゃないの?…とも。
…いや、何が言いたいのかというと「ビオトープは、たった一人の空間にも存し得る」という事が言いたいのですよ(汗)もし、商人があくまで場所にこだわるなら、そのたった一人の潜在顧客(潜在ビオトープ)を、より大きなビオトープ~クラスタって事だと思いますが~に、どうやって、誘導するかを考えなくてはならないはずです。

まあ、ここらへんは僕の解釈が強いので、そこは注意して欲しいですが、ともかく、自分の中に様々な“趣味”や“嗜好”になる前の何かが生息している~無数のビオトープを持っている~イメージを持って、それが何かの繋がりやきっかけを得て、クラスタ(あるいはコミュニティ)の一部となったり、別の何かと化合したりして、新たな『愉楽しさ』、『面白さ』を生んで行くかもしれない…。そういうイメージをもって様々に繋がりを得て行くと、それだけで楽しいかもよ?享受側としてはそのくらいの感覚かな?と。

これは以前、海燕さんが出していた『ノーボーダー』の議論に繋がるものだと思っています。

▼Something Orange:「オタク」も「一般人」も死んだあとに。
・文化、オタクという枠組みでは定義しきれない「名前のない集団」が生まれつつあるのかもしれない

 「名前のない集団」、か。じっさいにそんなものが生まれつつあるのかどうか、それは疑問の多いところだが、少なくとも従来の「オタク」という概念では捉えきれない個人が存在するようになってきていることはたしかだと思う。

あの時、僕は、昔から居る“ボーダーレス”(を目指す)人間と、『ノーボーダー』の人間を上手く分ける事ができなかった。…というのは僕がボーダーを設けない話をすると、それはかなり決意的行為というか、多分に自己修身的な話になってしまいw(汗)どうしても一芸の深さ(?)を目指すような話になってしまったんですよね(汗)

しかし、この話を踏まえた上でなら、少し別の仮説を立てられる気がしています。(↑)上の記事は去年のものですが、それよりも以前、情報とそれに付随する価値の流通が膨大になり始めた頃から、情報の繋がりと交差を楽しむような層が既に生まれていたのではないか?という話ですね。先ほど“化合”という言葉を使いましたが「化合を楽しむ」という言い方でもいいかもしれませんね。
これは一つの情報に対する造詣が深いか浅いかは、ほとんど関係ない。繋がりと交差による化合~創出~を楽しむのですから、そもそものベクトルが違う。それを無意識有意識に楽しむ層が出てきていたのではないか?…と。

これは従来の一つのジャンルや作品を嗜好する側からはかなり見えづらいはず。「化合を楽しむ」者にとって、ジャンルや作品はマテリアルに過ぎないので、そもそもの執着がないからです。それは一見軽いボーダーレスに観えて、従来の「好きなものを広げ増やす楽しさ」とは、全くの別物と言えます。(そっちに派生する事はあるでしょうが)
…そういうビオトープがあったとして、これまでの視点では、あまりに広く、薄いビオトープだった為に、ビオトープとして認識されなかった……と、考えるとビオトープという物がどういう物かも観えてくる気がします。

んんん…(困)なんか大仰な話になっていますが(汗)この話そのまま……って事もないでしょうが、ある種の示唆にはなっているじゃないかと思います。まあ、これも今後、練って行きましょう。ぼちぼちと(´・ω・`;)

■“セマンティックボーダー”について

さて、ここからセマンティックボーダーについて語ろうと……思いましたが、ビオトープの話で、えらく予定を超えて時間と文字数が掛かってきたので適当に切り上げます。(`・ω・´)

まあ、セマンティックボーダーとは、その言語やジャンル(?)が持つ“意味の壁”という事で、これは“価値の壁”~固定観念~のように解すると分かりやすいかもしれません。ちょっと乱暴なくくりですけどね。観念を固定する事の有用性が分かれば、それ程差異はないかな?とも。そして本書ではこのセマンティックボーダーが頻繁に書き換わる事を重要視しています。
セマンティックボーダーが書き換わるというのは「価値の創出」の一番分かりやすい成果であり、先ほど述べた「化合」の一番分かりやすい成果でもあります。

何だか良く解らない「名前のない集団」に『ノーボーダー』と名付け、規定する。…これが正にキュレーションなんですが、これによってセマンティックボーダーが書き換わる……というよりこの場合は新たに生まれる…のかな?そして、それによって対象のビオトープが顕在化するなり、新たなビオトープが生まれるなりする。それら価値の創出と化合と変遷を元に情報が巡る。
私たちの世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなピオトープに適した情報は、無数のキュレーターたちによってフィルタリングされていきます。それらの情報にはコンテキストが付与され、そのコンテキストがキュレーターによって人それぞれであるがゆえに、「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいきます。その「ゆらぎ」こそが、セレンディピティの源泉となる。

(『キュレーションの時代』第四章 キュレーションの時代~より)

“セレンディピティ”というのは…「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉」と……ううんw愉しそうだなあwこれらをどうビジネスに活かすか……は、正直、僕は興味ありません(仕事以外)。しかし、「どう愉楽しむか?」には興味があります。単に情報の流通の場としても“ここ”は有用なので、そのまま使ってゆくだろう。それならば、ここで起こる事に楽しく接す事ができるといいですよね。
まあ、具体的(?)に言うと本書の想定に沿って考えるなら「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を愉楽しむ事になるんじゃないでしょうか?(´・ω・`)(←ドヤ顔)

ちょっと、まとめ的に思うのは、個人個人の“個性”というモノがビオトープのマテリアルとしても、キュレーションとしても非常に有用なんじゃないかという気はしています。…それが大きな力を得るというつもりはないんですけどね。その小さな一つ一つには、様々な価値の創出の可能性が眠っているだろうと。
…いや、僕は個性とか「個性を伸ばす」みたいな話、あまり好きじゃないんですけどね(汗)日本の社会環境から鑑みて、それで抑圧されたり磨り潰されたりする個性なら、元から大した個性じゃないんじゃないの?……って思ってしまう人なので(´・ω・`)
でも、まあ、この情報空間は、一律規律の軍人が必要な空間ではないのでwそこに在る人は、その人それぞれの個性を個性のままに顕せばよく、それが混沌たる無数のビオトープの創出と、セマンティックボーダーとなっている言葉の意味を書き換え、ゆらぎを生み、その流通、循環に貢献するなら、そんな悪くない空間じゃないかなという気もします。

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【ハーレムメイカー】



2010年10~12月期のアニメで『アマガミSS』と『ヨスガノソラ』がやっていたわけですが、この2作品のシリーズ構成…というか『構造』に注目しながら観ていました。
そうすると今回あまり想定していなかったんですが(いずれ、他の作品で観られるかも…?くらいの感覚はあった)“上崎裡沙”、“春日野穹”という、ちょっと興味を惹くヒロインが二人出て来ました。今回はその話をしようと思います。

『アマガミSS』は、クリスマスに失恋して恋に臆病になった少年・橘純一が、もう一度誰かに恋をする物語。『ヨスガノソラ』は、両親を亡くした双子の兄妹、春日野悠(はる)・穹(そら)が山奥の村落で新たな生活を始める。かつて暮らした事があるその村で、兄妹の様々な出会い、再会をする物語。…まあ、両作品とも基本構造は典型的なギャルゲー原作アニメです。(´・ω・`)

【『ヨスガノソラ』のCパートEDとかアニメ楽しく観ている】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/bb8c1143c5840f381aa4f8749858e1ff

■ヒロイン並列構造に関する走り書き

今回の『ヨスガノソラ』と『アマガミSS』をちょっとつなげて考えてようかと思っています。
【ヒロインの憂鬱】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e363f24f8ccb53bdfc21bf86521451eb
(↑)ここらへんの記事で書いたように、僕は以前から「物語上の並列構造をどう処すか?」というポイントを視点にしてハーレム構造の作品を追ってきた所があります。本来、ゲーム上で“並列”が実現されている作品を、アニメ化(あるいはマンガ化)する時、どういうやり方で一本化を目指すか……ここらへんは、長くなるので切り上げますが、それぞれのヒロインに並列に人気がついて、それに応える形で他メディアへの移植があるワケだから、単純に任意のヒロインだけの物語を構築するというワケにもいかない。

…ではどうするか?という問題の中で、ここ何年か、いくつかの『面白い』答えになった物語を目撃して来たのですが、今回の『ヨスガノソラ』と『アマガミSS』は、かなり単純に、並列を並列のままに描く事に解答を求めている。「…じゃあ、どうしよう?」の中で真っ先に思いつく答えに帰ってきたようなものです。

以前からウォッチしている「ヒロイン並列構造の物語をどのように描くか?」というポイントの話なんですが、『アマガミSS』は2クール、『ヨスガノソラ』は1クールの中で、何話分かずつヒロインを主役として描く。終わったら次のヒロインを主役にして別の物語を編む……という手法を取りました。オムニバスというヤツですね。いや、知らない人だとこの手法の何に注目するのか分からないかと思いますが(汗)ヒロイン並列構造の描きとして一周した景観があります。そこが『面白い』。

ちょっと昔に遡ると、複数のヒロインが居ます~そして、それぞれのヒロインに一定のファンがついています~そういう作品をアニメ化(あるいはマンガ化)するとしたら、どうヒロインたちを描くか?最初に考えられたのは並列構造は並列のままにオムニバスで描く事でした。
それに対してそう離れてない時期のはずですが、敢えて一本の物語に絞り込む。複数ヒロインといってもタイトルとして“本命”に据えているヒロイン、一番人気のヒロインがいるワケで、この子一本に物語を絞る。他の子は登場させつつもメインストーリーの脇として置くという手法も取られました。……しかし、どちらもあまりパッとはしなかった。

オムニバスに描かれた物語は、拡散的で一本に絞られた物語の盛り上がりが得られなかった。…この当時だとまだ「ヒロインを選ぶなら一人」という力場の縛りは強く、ヒロインたちが恋の成就まで辿りつくのに抑圧的だった事も原因だとは思います。(オムニバスでも複数の女の子に手を出しているように錯覚させるという感じかな?だからあまりハッキリした所まで踏み込まなかったりする)
また、一本軸で描かれた物語は、それメインにヒロインに置かれた娘の盛り上がりは相応にあるワケですが、他の序列下位のヒロインたちの物語はスポイルされてしまうんですね。必然的に。そうすると、先ほど言った、それぞれのヒロインについたファンたちの不満足が顕在化する「俺の好きなあの子の話は?」となると言うか。
まあ、他にも色々原因っぽい話はありますが、まだゲームとマンガ的『物語』の親和性はよくなかった時期だったって事も大きいでしょうね。

一本軸の物語の物語を編みつつ、かつ複数ヒロインのファンも満足させる……限られた尺で、この背反する命題を両立させるのはかなり困難だったはずなんですが、試行錯誤と切磋琢磨を繰り返す事でかなりの成果を上げるに至った…とそう思います。この路線では、アニメだと『kanon』、『CLANNAD』あたり。マンガでは『魔法先生ネギま!』あたりですかね。こういった所で、培われて行ったものを僕は『情報圧縮論』に、まとめて考えていたりします。

この“流れ”に対して『アマガミSS』なんかは、その作風が多少、古風な雰囲気を持っている事も相俟って、このヒロイン並列構造の描きの回帰的解答としてオムニバスが出現したように見えました。
しかし、引用記事の中でも書きましたが、既に「平行世界の先の物語」が描かれた~流行った~事もあって、時流的にはもう既に並列のものを別個のもの「それはそれ、あれはあれ」と分離して考えられなくなっている面があると。
【『ヨスガノソラ』のCパートEDとかアニメ楽しく観ている】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/bb8c1143c5840f381aa4f8749858e1ff

そうやって並行世界を作る事で(※『アマガミSS』が並行世界の物語がどうかは議論があると思いますが、観客は全部を観る以上、並行的にとらえてしまう…という点に着目します)『ヒロイン並列構造』を維持していますが、既におたくの物語界隈では「平行世界の先の物語」が描かれてきているわけで、“ここ”も、何らかの臨界に到ると見ています。

一方、『ヨスガノソラ』も形式はオムニバスと呼べるものなんですが、『アマガミSS』とは似て非なる解答を見せて来ている。
1~2話を“共通話”として観せ、そこからの分岐で様々なヒロインへのルートへ派生して行く様を『物語』上に載せている。並行世界をそのまま観せている…とも言えますが、これはむしろゲームの分岐を物語に載せていると評した方がいいもののように思われます。まあ興味深くはあるんですけど、“それだけ”の描きならさほどオムニバスとして大きな違いは生まれなかったでしょう。



しかし、両作品ともその(全体を通す)物語の最終段階で統合的なヒロインを出現させている。序列一位ヒロインじゃありません。統合的なヒロインです。今回の本題はここ。…メタ・ヒロインと呼びたくなっているが今日は止めておこう。(`・ω・´)(←)
『アマガミSS』では上崎裡沙、『ヨスガノソラ』は春日野穹がこれに当たります。…ま、穹は一位ヒロインでもあるでしょうが、上崎裡沙さんを一位ヒロインに置くのは論を待たぬ…というワケにはいかないでしょう。
こういう統合的な描きって、どっちか片一方って事もあり得たと思うのですが、両方そうしているというのが何かを感じる所がありますね。実際、両作品とも非常に高い質を保っている作品で、オムニバスを並行世界として捉えるような見立ては、作り手には当然見えている事で、そこへのフォロー(言及)を目指すのもある種の必然だったかもとか思ったり。

上崎裡沙はエントリーされている6人のヒロインの物語が終わった後に出現するヒロインで、番外編的に、6人のヒロインたちの“フラグ”を全部へし折り、かつコンソートの橘さんのクリスマスの失恋の手引きもしていたという超人ぶりを発揮して、ある意味『アマガミSS』の物語構造を全部持って行って(包括)してしまうんですよねwこれはちょっとひっくり返った。(`・ω・´)
上崎裡沙というヒロインへの言及は、ルイさんがとても『面白い』考察を書いていますので、こっちを紹介しておきます。(↓)

【ひまわりのむく頃に:『アマガミSS』上崎裡沙の、偉大すぎるシンジツ】
http://rui-r.at.webry.info/201101/article_2.html

春日野穹は他の3人のヒロインたちの物語が終わった後の次回予告でこんな事を宣言します。(↓)
「今までの事は全部夢。悠の迷いが見せた夢、だから奈緒との事も、うたかたと消える。私の事だけ観てて悠。幸せにしてあげる…」

(第9話次回予告より)

全部夢……このヒロイン、オムニバスである事、並列構造にした事の意味を全部へし折りに来ています。(`・ω・´;)
まあ、メタな次回予告のセリフではあり、物語の支配力というよりは、この子の勝手な思い込みと取ることもできますが(そして実際にそうなのでしょうが)しかし、やはり彼女がそれを示している事は全体としての物語にもその意味を及ぼしているのもまた事実だと思います。
このセリフだけで統合的…というのは先走り過ぎじゃないか?という意見もあるかもしれません。…しかし、この『物語』は、実際にトリを務める穹の物語は『強い』のですよね。儚いが故に『強い』。かつ、この娘を出されると他のルートがこれの従格に観えてくる。少なくとも並列ヒロインに満遍なくストーリーを与えようという志向とは別の意図も感じたので、僕は統合的と考えました。
しかし、そう言いながら、その支配を舌出して逃れた乃木坂さんというヒロインもいて…いや、この人語り出すのは今は止めておきますけどw

まあ、なかなか興味ふかい二人のヒロインなんです。しかし、ちょっとここで一旦であれその意味に見解を出すのはやめて起きます。『面白い』ね、とだけしておきます。もう少しじっくり考えようかと。まあ、今はよく分からないって事なんですけどね(汗)

しかし、コンソートである『アマガミSS』の橘さん、『ヨスガノソラ』の悠は、今までペトロニウスさんなんかとしてきた『ハーレムメーカー』の、時が止まる~あるいは進む~と言った議論/力場から開放されたハーレムメーカーなんですよね。
なんでって、彼らは既にヒロインを一人だけ選び出しているからですね。それぞれの並行世界で。だから、男の子が一人、その男の子が好きな女の子多数という構造で、だれか一人を選ばなくては~唯一性の物語を編まなくては~という呪縛がかからなくなっている。

この並行世界観点から観えるハーレム構造を、仮に『縦ハーレム』と名付けるとして(`・ω・´)(←)どちらの作品にも、それを「逃がさん」とばかりに、統合的ヒロインが介入して来たのが、ちょっと『面白い』なと。
同時に、この統合的ヒロイン、パラレル俯瞰的/メタ的にコンソートを捕まえる代わりに、それぞれの並行世界のヒロインたちに直接の介入はしていないのですよね。これもすごい。並列構造をどう描くか?問題の解法を垣間見せてくれています。ここらへんの話は『神のみぞ知るセカイ』の分析にも関わってくる事が予想されます。

最近、ハーレムメイカーとか、情報圧縮論とか、メタキャラクターとか、バラバラに思考を進めていた事が有機的に絡みはじめて、ちょっと愉しいです。けっこう思考的に良い流れかもかな。(`・ω・´)


TVアニメ「アマガミSS」オープニングテーマ i Love
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