「友達欲しい系」は、ぼっちを如何に癒すのか?
「……そもそも、私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」 「え?」 「……友達がいないことがイヤなのではなく、学校とかで『あいつは友達がいない寂しいやつだ』と蔑むような目で見られる事がイヤなのだ」 「あー、なるほど」 なんとなくわかる。 『友達がいること=いいこと』というのは基本的にその通りだと思うけど、それが世間では『友達がいないこと=悪いこと』と同義のようになっている。 それはちょっと違うんじゃないかと俺は思う。 「私は一人でも平気だ。学校での友人関係なんて上っ面だけの付き合いで十分だ」 三日月の声には、どこか無理が感じられた気がした。 (『僕は友達が少ない』第1巻より)
『クリエイティヴ脚本術』~運命の輪(ホイール・オブ・フォーチュン)
『間違えた道のヒーロー』たちに“お姫様属性”を観る
(方さんのコメント) 現代的なお姫様属性なんじゃないかとも思えます。 現代の作品では女性キャラであっても単に受動的であれば「いや、お前動けよ」と不満を抱かれるでしょうし、男性キャラなら言わずもがなですから、目一杯行動した上で行き詰まっているキャラ像がヒロインの立ち位置に収まってくるのではないでしょうか。明確にヒーローの存在しない世界において右往左往する人間像でもあるのでしょう。
僕は、彼女たちの事は、物語中の世界の複雑さを体現/吸収する特異点のような存在に観ていて、こうして(3対3合コンみたいに)並べてみたものの……世界の在り様を見せる“彼女ら”と、世界に個人で主体的に挑む“彼ら”とでは、そもそもレイヤーが違ってあまり共通項的に語れないなあ……まあ、いいやw とにかく「何か感じるので」このまま並べる所まで書いて後、しばらく寝かせちゃえ…。 くらいに考えて記事を書き始めたのですが…ちょっと、今、共通項がティンときた!(゜∀゜) 彼ら、彼女らは、「間違えた道のまま突っ走っている」事が共通していると言えそうです。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア、球磨川禊、衛宮切嗣、暁美ほむら、立華かなで、そしてベアトリーチェは、間違った判断をし、間違った決断に至り、しかし強い信念のもと「自らを信じて」一心不乱にその物語を駆け抜けている。 しかし、「元々、間違った判断なので、いつまで経っても、どんなにがんばっても、自分たちの望む場所にたどり着けない」のですよね……そういうキャラたちだと言えます。…ヒロインたちは、その抜け出せない場所に“王子様”が現れて救い出してくれるという展開がついて来るようです。
間違えた道のヒーローとヒロインたち~『Fate/Zero』とか『めだかボックス』とか…
1.近年の複雑化する『物語』を代表するような入り組んだストーリーである事。 2.物語全体が謎に包まれていて、それらを明らかにして行く展開が含まれる事。 3.用意された謎の焦点にヒロイン格のキャラクターが置かれている事。 そして4.そこに置かれたヒロイン格のキャラクターは、真相が分かると「恐ろしく不器用な子」である事、その不器用さもかなり言語を絶する程不器用である事(言語を絶するは言い過ぎかな?w)が判明する事…です。最初は、すごくクールでミステリアスな女の子として登場して主人公を惑わせるのだけど、事が明らかになってみると「ミステリアスなのは不器用で、気持ちを伝えるのが上手く行っていないからでした!<(`・ω・´)」…みたいな感じと言えばいいのか。
今、そこにいる不器用な子(´・ω・`) ~『まどマギ』とか『AB』とか『うみねこ』とか…
『俺たちに翼はない』 ~ヒロイン並列構造の解法とそこに見出される物語
ちょっと昔に遡ると、複数のヒロインが居ます~そして、それぞれのヒロインに一定のファンがついています~そういう作品をアニメ化(あるいはマンガ化)するとしたら、どうヒロインたちを描くか?最初に考えられたのは並列構造は並列のままにオムニバスで描く事でした。 それに対してそう離れてない時期のはずですが、敢えて一本の物語に絞り込む。複数ヒロインといってもタイトルとして“本命”に据えているヒロイン、一番人気のヒロインがいるワケで、この子一本に物語を絞る。他の子は登場させつつもメインストーリーの脇として置くという手法も取られました。……しかし、どちらもあまりパッとはしなかった。 オムニバスに描かれた物語は、拡散的で一本に絞られた物語の盛り上がりが得られなかった。…この当時だとまだ「ヒロインを選ぶなら一人」という力場の縛りは強く、ヒロインたちが恋の成就まで辿りつくのに抑圧的だった事も原因だとは思います。(オムニバスでも複数の女の子に手を出しているように錯覚させるという感じかな?だからあまりハッキリした所まで踏み込まなかったりする) また、一本軸で描かれた物語は、それメインにヒロインに置かれた娘の盛り上がりは相応にあるワケですが、他の序列下位のヒロインたちの物語はスポイルされてしまうんですね。必然的に。そうすると、先ほど言った、それぞれのヒロインについたファンたちの不満足が顕在化する「俺の好きなあの子の話は?」となると言うか。 まあ、他にも色々原因っぽい話はありますが、まだゲームとマンガ的『物語』の親和性はよくなかった時期だったって事も大きいでしょうね。
『魔法少女まどか☆マギカ』と『風の谷のナウシカ』その結末に宿るもの
脱英雄譚2.0?とか思いつきでタイトルして適当に書き走らせてみる。
今の話題に合わせた言い方をすると、つまりですね。「善悪が逆転」する事はどういう事かというと、自分たち(と人間)が“悪”という事になる話ですよね。そして純粋なヒーロー(正義の味方)の話をすればする程、“悪”は必ず倒される話を積み上げてきているワケですよね。…であるならば、自分ら(と人間)が“悪”である事を否定できないなら、今度、倒されるのは自分ら(と人間)の番で、これは必ずそうならなければならない。何故なら、ず~っと悪が必ず倒される話をしてきたから…。この論法に無理はありますか?という話でね。…そして、じゃあ、自分ら(人間)を倒す、別の“正義の味方”とは一体何か?というと……それがつまり“神”か“天使”となるワケですw つまり「善悪逆転」の文脈上、“究極の敵”とは何者か?というとそれは“天使”だ!という事です。 本質的に言うと“天使”って勝っちゃったらダメな存在なんですよね。 勝ったらダメなんですよw勝ってしまったら、それは“天使”じゃなくって“何か凄く強かった悪者”(過去形が重要)って事になってしまうwここで“善と悪”の戦いをする者が倒すべきなのは天使ではなくって、自分ら(と人間)が“悪”だという指摘であって、力で天使をねじ伏せても、この問いかけから逃れた事にはならないんです。 (絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)より)
『キュレーションの時代』~情報を如何に享受するか
ところがインターネットの出現によって、この巨大で大ざっぱなピオトープはすっかり拡散してしまいました。マスメディア以外のピオトープが無数に広がってきてしまったからです。敢初はウェブサイトから。そして検索エンジンが普及して、検索キーワードという新たなピオトープが生まれ、そのビオトープに情報を誘導するための「検索連動型広告」が生まれてきました。さらにメールマガジンや掲示板なども湧き上がり、そして二○○○年代半ばごろからはプログやSNS、ツイッター、クチコミサイトなどのぼうだいな数のソーシャルメディアが参入してきました。 (中略) しかもソーシャルメディアのビオトープは、固定化されない。あるときはツイッターの盛り上がりの中で突如として生成され、でもその盛り上がりが終わるのと同時にそのピオトープは消滅してしまい、次の瞬間にはどこかのプログのエントリーの中に現れ、そのプログを読んでいる人たちやブックマークしている人たちの間にビオトープが生成されているかもしれません。 つねにピオトープはアドホック(そのときどき)に生まれては消え、消えては生まれているのです。流れに浮かぶうたかたのようなものなのです。 (『キュレーションの時代』第一章 無数のビオトープが生まれている~より)
・文化、オタクという枠組みでは定義しきれない「名前のない集団」が生まれつつあるのかもしれない 「名前のない集団」、か。じっさいにそんなものが生まれつつあるのかどうか、それは疑問の多いところだが、少なくとも従来の「オタク」という概念では捉えきれない個人が存在するようになってきていることはたしかだと思う。
私たちの世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなピオトープに適した情報は、無数のキュレーターたちによってフィルタリングされていきます。それらの情報にはコンテキストが付与され、そのコンテキストがキュレーターによって人それぞれであるがゆえに、「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいきます。その「ゆらぎ」こそが、セレンディピティの源泉となる。 (『キュレーションの時代』第四章 キュレーションの時代~より)
『アマガミSS』×『ヨスガノソラ』のヒロイン並列構造の解法
【『ヨスガノソラ』のCパートEDとかアニメ楽しく観ている】 http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/bb8c1143c5840f381aa4f8749858e1ff ■ヒロイン並列構造に関する走り書き 今回の『ヨスガノソラ』と『アマガミSS』をちょっとつなげて考えてようかと思っています。 【ヒロインの憂鬱】 http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e363f24f8ccb53bdfc21bf86521451eb(↑)ここらへんの記事で書いたように、僕は以前から「物語上の並列構造をどう処すか?」というポイントを視点にしてハーレム構造の作品を追ってきた所があります。本来、ゲーム上で“並列”が実現されている作品を、アニメ化(あるいはマンガ化)する時、どういうやり方で一本化を目指すか……ここらへんは、長くなるので切り上げますが、それぞれのヒロインに並列に人気がついて、それに応える形で他メディアへの移植があるワケだから、単純に任意のヒロインだけの物語を構築するというワケにもいかない。 …ではどうするか?という問題の中で、ここ何年か、いくつかの『面白い』答えになった物語を目撃して来たのですが、今回の『ヨスガノソラ』と『アマガミSS』は、かなり単純に、並列を並列のままに描く事に解答を求めている。「…じゃあ、どうしよう?」の中で真っ先に思いつく答えに帰ってきたようなものです。
【ヒロインの憂鬱】 http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/e363f24f8ccb53bdfc21bf86521451eb
【『ヨスガノソラ』のCパートEDとかアニメ楽しく観ている】 http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/bb8c1143c5840f381aa4f8749858e1ff そうやって並行世界を作る事で(※『アマガミSS』が並行世界の物語がどうかは議論があると思いますが、観客は全部を観る以上、並行的にとらえてしまう…という点に着目します)『ヒロイン並列構造』を維持していますが、既におたくの物語界隈では「平行世界の先の物語」が描かれてきているわけで、“ここ”も、何らかの臨界に到ると見ています。
「今までの事は全部夢。悠の迷いが見せた夢、だから奈緒との事も、うたかたと消える。私の事だけ観てて悠。幸せにしてあげる…」 (第9話次回予告より)