今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。






『アンドロメロス』(1983年放映)コンプリート。『ウルトラマン80』(…何年放映開始かは言わなくても分かるよね?)の終了後にはじまった、国内初のVTR方式での特撮番組です。……ん?僕、以前『サイバーコップ』(1988年放映)は何て紹介していましたっけ?(汗)……ん。別に『サイバーコップ』を“国内初”とかは言ってませんね。『アンドロメロス』が国内初と言う事らしいです。
ウルトラ超戦士と呼ばれる、何かウルトラマン的な(?)宇宙警備隊員たちが、コスモテクターと言う強化服を纏って、宇宙の平和のために戦う『物語』ですね。…と言っても「悪い奴らに善良な宇宙人が虐められている」みたいな展開はあまりなくって、基本的に悪の陣営と善の陣営の抗争劇みたいになっています。
10分劇番組で、非常に小気味よく話が進んでいい所でヒキになるので、止められない止まらない感じで最後まで観てしまいました。

しかし、この『アンドロメロス』。自分としては、なかなか複雑な思い出がある作品です。僕は、今もそうですが、当時もかなり理屈屋というかひねくれた性格であり、アンドロメロスに対しては、まず「こんなのウルトラマンじゃないやい!」と言う想いがありました。

『ザ・ウルトラマン』ジョーニアスは筋肉ムキムキのナイスガイ(`・ω・´)

(↑)『ザ・ウルトラマン』の記事を書いた時にも、多少、“遠まわし”に語っているのですが……いや、もう正直に言ってしまいましょう(汗)僕は『ザ・ウル』や『アンドロメロス』の持つ世界観や設定は、ウルトラシリーズの世界観としてあまり好きではなかったのですよ。
ウルトラマンという存在に対して科学を超えた神秘的な何か(?)…のようなものを感じていた僕は、宇宙戦艦や、パワープロテクターという科学技術そのものを纏う彼らを「ウルトラマンの仲間」として扱うのが、ちょっと疎ましかった。それほど明確な批判ではなかったですけど「これは何かが違う」と感じていたんですね。

しかし、同時にメロスたちが装着しているコスモプロテクターには魅せられていました。……カッコいい。単純に。バイザーが超戦士たちの目を隠すのも、何だか分からない“男の子心”をくすぐるものがありました。……しかし、『アンドロメロス』は、当時、僕の地方では放送されていなかった(汗)
それがとても残念でねえ、色々、難癖つけてるけど……子供向け雑誌のオマケのマンガなんかでは登場しているから、ああ、なんかこういうヒーローがいるんだなあ…TVでやってないけど…と。「ウルトラマンと何か違う」と「でも、何かカッコいい」をあわせ持った不思議な気持ちで、この見ることの出来無い『物語』に思いを馳せていたものです。

今回、通して観直してみると劇中でウルトラマンとの関係性を語たる部分は全くありませんね?(見落としがあるかもしれませんが)メロスたちは、アンドロ超戦士で、宇宙警備隊の隊員だと説明はされるのですが、その組織とウルトラマンの関係性は語られていません。というか、語られていない以上、彼らがウルトラマンと似ていても、その関係は基本的にないという解釈もできそうです。…いや、マンガだとモロにゾフィーがプロテクターを装着してたりするんですけどね(汗)
ちなみに『ザ・ウル』も彼らをU40の宇宙文明人たちと設定しているのですが、その文明とウルトラマンの故郷M78星雲との関連性は語られていなかったはず。
そうして考えてみると彼ら…『ザ・ウル』や、『アンドロメロス』のように宇宙船に乗ったりするタイプのウルトラマンは、U40系とでも言うか…まあ、本来のウルトラマンたちとは隔たりのある存在と考える事はできそうです。(←何か必死だな)まあ、実際に彼らは史観によって多くはウルトラ兄弟に数えられてなかったりしますね。

この頃(80年代前半)って、洋画特撮の『スターウォーズ』と、和製スペオペの『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が隆盛の頃で、ウルトラマン的SF世界って、今ひとつリアルを感じられないというか、ウケない時代だったように思います。久しぶりに製作された『宇宙怪獣ガメラ』(1980年公開)なんかでも、ガメラと宇宙戦艦ヤマトが共演したりしている。
初期のウルトラマンは明らかに“超存在”で、他のほとんどの侵略宇宙人たちは宇宙船に乗って襲来するのに対して、ウルトラマンは宇宙船というものを持っていないんですよね。それはすごいミソだと思うんですが……うん。まあ、とにかくこの頃はウルトラマンも、宇宙戦艦を駆っていたと。
その傾向で『アンドロメロス』も『ザ・ウルトラマン』も、かなりスペース・オペラ/スペース・アドヴェンチャーな『物語』に仕上がっています。


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【怪獣とは何か?】

▼前回の記事:『キングコング』(2005年)~神霊(かみ)を暴く物語



久しぶりの『怪獣』の記事という事で、趣旨に立ち返る意味で、初っ端に僕がネットで拾って壁紙とかに使っている画像を二つ貼ってみました。(↑)どちらも加工なしの、自然現象を撮った写真のはずです。僕らは、こういった風雲、雷雲が何故、このように“唸るのか”を既に知っているわけですが、それでも、それを目の当たりにした時、「大自然ヤバイ」というか、驚きと感動を受けずにはいられないと思います。
その仕組を知っている(知ったつもりになっている)人間でさえそうなんですから、訳も分からぬ古代人の心境は推して知るべしです。率直に言って「あ、これには勝てない」というか…勝つ勝たないというのも可笑しな話しですが(笑)よっぱど、気宇壮大な方じゃなければ、畏れ入り、ひれ伏すような、そういう気持ちにさせたんじゃないかと思います。
そうして、古代人はこの“恐ろしい相手”を畏れひれ伏すと同時に、何としても“話し合い”、付き合って行かなくてはならないと決意した。それが畏怖と託願の物語のはじまりと言えます。

洋画のモンスター・パニック映画と、日本の“怪獣映画”は何かが違う……そういう感覚的な気づきから、この話ははじまっているのですが、どうも行き着くところの大元は、“ここ”と言う気がしています。そのものと言うよりは、もう少し偶像(アイドル)化されたものというか、映画ならスターというか、そういうモノに化けた存在ですけど、しかし、大元は“これ”じゃないかと。
…というか、ぶっちゃけ、上の画像には『怪獣』を感じさせるに充分なものが在ると思うんですけど、どうでしょうか?これが怪獣の素材というか、人類に共通する元型(アーキタイプ)=竜/ドラゴンではありそうです。

…この話は、改めて、並行して、ぼちぼちと(?)…進めて行きたいと思いますが、そろそろ取り掛かってみたものの、どうもずっと足踏みしてしまっている(汗)『キングコング』の話に戻ろうと思います。

■『コングの復讐』(1933年)



『コングの復讐』は、初作『キングコング』のヒットを受けて、同年に、ほぼ同じスタッフで作られた続編のキングコングです。“コングの息子”…と言われる(真偽定かでないよなあ…(笑))ミニ・キングコングが登場するお話です。
今回は、かつてキングコングを見世物にしようとした張本人が、何の気まぐれかミニ・コングを助け、逆にミニ・コングにも助けられを繰り返す内に“仲良く”なって、最後にスカル島が沈む時、ミニ・コングは沈んで島と運命を共にするんだけど、男はミニ・コングの手に握られている事で助けられる…と、そんなストーリーです。

何だかんだ言ってミニ・コングは愛嬌があってなかなか可愛らしいです(笑)…で、ここからは『物語』としての『コングの復讐』の出来栄えや、評価の話ではなく、あくまで『怪獣映画』としての視点の話なので、そこは気をつけて読んで欲しいのですけど…。
キングコングの『怪獣』としての因子はここで断絶していると僕は観ています。それは、やはり「人間とミニ・コングが仲良くなり過ぎている所」にあります。辺境の地で出遭った獣と触れ合い、“友達”になり、そうして人間はその獣に生命を救われる…という、そういう動物と心通わすタイプの動物映画になっている。そこからは“畏怖と託願”が消失しています。

これまで、僕は怪獣映画の視点としての『キングコング』の完成度の高さを語って来たのですが、まあ当時、そういう受け止められ方は、ほとんど皆無であったろうワケで(そもそも作り手にさえそういう意図があったかどうか…)。多くは「かわいそうな動物の物語」として受け止められていたと思います。
その後のモンスター・パニック映画の系譜を観て行けば「異形のモンスターに人間が襲われて、人々は(観客含めて)恐怖し、その後、そのモンスターは退治されて、ああよかった」というプロットがほとんどな事を考えると、『キングコング』が秀逸さが分かるかと思いますが、じゃあ、その可哀想なキングコングをどうしようか?となった時、「友達にしよう!」となった。

わけも分からず都市に連れてこられてわけも分からずなぶり殺されたコングの物語は、人間側としてあまりに寝覚めが悪い……じゃあ、人間と心通わせて、人間の為になって死んでゆけばコングも幸せだろう…って、非っ常~に!人間本位な考え方ですが(汗)まあ、ここでは当時としては、それがさほど疑問に感じる必要もない「正しい事」だったんだろうねえ、と言うに留めておきます。…しかし、エンターテインメントとしての、そういう誘導が起こるのは、普通にわかりやすい事だと思います。

いや「友達になろう」というのが、そのまま怪獣への感覚との乖離というつもりもないです。託願とは“共感”あるいは“親近感”を含むもので、それは最終的には「分かり合いたい」という気持ちが反映され、そのように描写される。
…しかし、それでも近づき過ぎというか…「自分らに危害を加える事はない、どころか身を呈して生命を救ってくれる。…そりゃ、普通に“仲間”だよね?」と言うか。そうではなく、自分らに危害を加えないとは限らない、気まぐれで潰されるかもしれない“おっかないモノ”に対して、それでも分かるはずのない彼らの真意を読み取ろうとしたり、あるいは、そういうモノにどうしようもない憬れを抱いたりする気持ちが載って、はじめてそこに『怪獣』が宿るのではないか?と考えています。
…まあ、最終的にほとんど“友達同然”の怪獣も数多くいるワケですが、しかし、そこに至るまでに相応の儀式を必要としていて、ミニ・コングはその交流の手順含めて「畏怖への接触」という意味合いは極めて少ないと言えると思います。

また、『コングの復讐』は、ミニ・コングが人間に危害を加えない事が確定している時点でモンスター・パニック映画とすら言えない物語であって、いわんや怪獣映画………ん?違いますね?(汗)スカル島の他のモンスターたちは相変わらず襲い来るワケですから、モンスター・パニック映画だとは言える。ただ、今回はコングが用心棒の役なんですね。
『ターミネーター』で、人間を襲っていたシュワルツネッガーが、『ターミネーター2』では人間の味方で、今度は人間を襲うT-1000から守ってくれる…みたいな展開かな?よくよく考えると沈み行くスカル島から手だけを出しているミニ・コングの図は、『T2』のラストと……ん。ま、考え過ぎ。(´・ω・`)
『ターミネーター』はその後も続くシリーズとなりましたが、『キングコング』のシリーズはここで終りです。怪獣映画のない(怪獣を見出しづらい)洋画の在り方として、『ターミネーター』と『キングコング』の差には、ちょっと意味があると思っています。

■『恐竜グワンジ』(1969年)



ここで、もう一つのキングコングとして『恐竜グワンジ』を上げておきたいと思います。元々、『キングコング』の西部劇版と言われているような作品ですね。“禁断の谷”と呼ばれる土地に入り込んで、そこに居ると言われる古代に絶滅した生物を生け捕りにして一攫千金を目論む男たちが、恐竜グワンジに出くわして、その生け捕りに成功する…しかし?という物語。

特撮担当がレイ・ハリーハウゼンなんですが、元々は、ハリーハウゼンの師匠であるウィリス・オブライエンが書いた台本で、1940年に企画がスタートしていて、途中で製作中止となったものを、ハリーハウゼンが甦らせたようです。つまり、けっこう古い出自で『キングコング』に近しい素材として観るに充分なものがあると思います。
観ればわかりますがプロット自体は、まあ、ほとんど『キングコング』です。しかし、それ故、キングコングとグワンジの狭間にある“境界線”がハッキリ観てとれると思っています。

キングコングには、怪獣の因子として“畏怖と共感”が大いに見て取れるのですが、グワンジにはおそらく“共感”はありません。こういうものは、受け手に拠る事ではあるんですが、それでも「『キングコング』はキングコングが可哀想に思ってもらうように作っているが、『恐竜グワンジ』のグワンジは可哀想に思ってもらうように作っていない」と言えば多くは納得してもらえると思います。
要するに『キングコング』から“怪獣の因子”を取れば『恐竜グワンジ』になるって事です。『怪獣とは何か?』という僕のテーマにとって、これは非常に興味深いサンプルと言えます。

そして、それ故『恐竜グワンジ』は、至極真っ当なモンスター・パニック映画であると言えます。本当に王道とも言えるストーリーになっていて、もし、企画時期通りに1940年代に公開されていれば、今とは一段違う地位を築けた作品かもしれません。
そして、洋画/ハリウッド映画は、このグワンジ的なるモンスター・パニック映画が継承され生み出されて行き、モンスター・パニック映画の偉大なる金字塔でありながら『キングコング』を『キングコング』たらしめている因子は、継承されなかった(継承されているとしても極小のものに変じていた)ようです。

まあ、人間の手でぶっ殺して「HA!HA!ヤッタ~!ザマミロ~!!ww」ってなれない映画は、その時ウケても、長続きは困難ですよね。(´・ω・`)
しかし、おそらくその因子は、とある日本の映画人に大きな影響を落とし、日本映画で再生される事になる。そして、なぜか日本にはそれを受け入れる土壌(土壌自体は東洋全体に広がるものと思いますが、映画産業とこの土壌が真っ先に邂逅する場所だった…かな)があった…という話に、いずれ繋げて行きます。

……ここまで書いたけど、もうちょっとキングコングの話がしたいかも…orz んんん、どうしようかな?とりあえず、今日はここまでです。


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大文字「まあ、俺も誉められた人間じゃないがな。見栄っ張りの権力主義者だ!」
美羽「あたしは自信過剰の高飛車女!」
JK「見ての通り、俺は長いものに巻かれるチャラ男!」
ユウキ「あたしは、我を忘れる宇宙オタク!…はい」
賢吾「俺は……学校一のサボり魔。保健室の主だ!」


(『仮面ライダーフォーゼ』第10話より)

……あ。いいなあ。ちょっと瘉された。爽やかに「権力主義者だ!」と言い放つ、大文字がけっこうカッコよかった。『仮面ライダーフォーゼ』最近、ようやく追いついて観ていますが、『面白い』ですね。転校初日に「この学校の生徒全員と友だちになる!」と宣言したツッパリ野郎・如月弦太朗が、学園内を暗躍する謎の怪人たちが引き起こす事件に巻き込まれながらも、友達を着実に増やして行く『物語』…かな?

従来のヒーローものとはちょっと違う……というか東映不思議コメディ・シリーズの“ご町内ヒーローもの”っぽいのですが、それとも、ちょっと違うというか。あれは「世界の危機を救うヒーロー」のパロディっぽい側面があったと思うのですが、『フォーゼ』はそういうワケではない。
このヒーローにぶっ飛ばして欲しいのは、救って欲しいのは、もっともっと身近な、もっともっと自分の内にある、“何か”という気がします。そのアプローチが結果として、転校生来訪ものの青春ストーリーっぽいものに納まっているというような、そんな印象です。(まあ、スタート時には青春もののメソッドで進める方針は固めていたとは思いますが)

この10話では、それぞれが自分の抱えていた“問題”を笑ってさらけだして、自分自身を蔑んでしまうオカルト娘に「気にすることはない」と語りかけるシーンなんですが…。彼らが、そうである事を変えようとはしていない所が、好きというか、僕好みです。
たとえば大文字は、その「見栄っ張りさ」が、カッコ良く振る舞う自分の追求につながるわけだし、美羽の自信過剰だって、その自信が裏打ちされる自分である事を目指すわけですしね。…いや、別にそんな昇華すら、なくってもいいよと。楽しく、笑って生きるのは、ちょっとした気の持ち方だよと。そういう『癒しのヒーロー』というか、そういうものを感じていますね。


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【怪獣とは何か?】



▼前回の記事:『キングコング』~怪獣物語の終焉

しばらく、このブログでは『怪獣』の話を、ぼちぼち、したり、しなかったり、していて、その流れで『キングコング』の話題に及んでいるわけですが、ちょっと最近、製作されたリメイクの『キングコング』(2005年公開、監督・ピーター・ジャクソン)の話からはじめてみたいと思います。いや、実は2作目のリメイクに当たるジョン・ギラーミン版の『キングコング』(1976年公開)が、けっこう評判良くないんですよね(汗)主に、特撮面とかの評価だと思うのですが……まあ、そこらへんの話は次回に譲るとして。
このピーター・ジャクソン版の『キングコング』、僕の感覚の中の『怪獣映画(…の真祖のリメイク)』としてかなり良い出来だと思うんです。主役のキングコングの実在感は相当細かい所まで気をつかっていますし、シナリオが『怪獣映画』として外れている所もない。前回の記事で取り上げた、畏怖と託願が充分に感じられる作りです。クラッシックな1933年版よりも、ある意味、とっつきが良く、オススメと言えるかもしれません。この一連の記事の空気(怪獣おたくの?)が掴めない人は一度観てもらうといいかも?

しかし、それは大元となる『キングコング』のプロットに、ほとんど手を加えていないから……という事でもあるんですよね。1976年版も、2005年版も、最初のキングコングと違うもの、新解釈と呼べるものにはほとんど手を付けてない。翻案と呼べる域には達していない~そのつもりもないでしょうけど~。あくまで真性のリメイクと言う事です。
この“プロットの檻”から出られないと、キングコングは真の意味で怪獣(=スター)と呼べる存在には至っていない……とも言えます。僕がキングコングが怪獣として甦らないと言った意図はそこにあります。(※『コングの復讐』、『キングコング2』等はまた次の記事に譲ります)

それくらい『キングコング』のプロットは、削る所も加える所もない程に完璧と言う事です。

それ故、キングコングはそのプロットの檻から逃れて怪獣で居続けるのは困難になってしまったし、ハリウッドのモンスター映画自体の数は多いけれども“彼ら”にキングコングの遺伝子は継承されなかった。(または非常に希薄になってしまった)
…こうやって書くと「この人は、何をそんなに持ち上げているのだろう?」と思う人もいるかもしれません。「巨大な野生のゴリラが、無理やり文明都市に見世物として連れてこられて、案の定暴れ出して、人間の勝手な都合で殺されてしまった。…そういう可哀想なゴリラの物語って、そんな大したストーリーなのかなあ?」…て思った人、いません?w
キングコングが単なる動物に見える人、単なるゴリラに見える人にとっては、そうかもしれません。キングコングが単なる猛獣に過ぎないなら、この『物語』のテーマは、動物愛護を訴えるお涙頂戴の悲劇でしかないのでしょう。

しかし、“彼”を『怪獣』として見た場合どうか?ちょっと、言葉を変えます。畏怖と託願の話です。“彼”は怪生物が棲まう未開の島において、恐竜たちの上に君臨し、島民たちが生贄を捧げて崇める、絶対の王者だった。その事に神霊(かみ)を見い出せないか?『怪獣』には、神霊(かみ)を感じないか?そう捉えた時、この物語はどういう観え方になるか?
その意味において2005年版のヒロインがコングを観て「美しい…」とつぶやく事にはすごい意味があります。あの一点は2005年版の価値だと思えます。怪獣好きの人には、こんなくどくど説明しなくても分かる話かと思います。逆に怪獣とか興味ない人には、どこまで行っても何の事か分からないかもしれませんが、多少でも分かって欲しくて、雰囲気を掴んで欲しくて、こういう長々とした文章書いています。

キングコングを神霊とした時、この物語はどういう観え方になるか?それは「神霊はただの獣に過ぎない」と、「獣を神霊と崇めるのは迷信である」と、神霊を暴き立て、そして殺す物語となる。暴き立てられた獣は、もはやただの獣で、獣を無理やり見世物に引っ張り出して、そして殺す物語へと変じてしまう。その意味で、動物愛護を訴える悲劇を観ていても、何らおかしな話ではない。
しかし、それ以前は、“彼”は白人未踏の地において君臨した神霊だった事を僕は強調したいです。そこからの凋落こそがキングコングの物語だと思うからです。
そして、日本のある有名なアニメ映画が、これに非常に近い観点を持って描かれている事がわかるので、ちょっと紹介しておきますが…。



『もののけ姫』(1997年公開)の事ですね。『もののけ姫』が、怪獣映画かどうか?の議論はおいておくとして、これに登場するシシ神様は、かなり僕が言う怪獣の要件を満たしていて、キングコングに近い者である事は確かです。まあ、神ですしねw そして、シシ神様が殺される事の“意味”もキングコングに近い…と思う。キングコングは複葉の戦闘機、シシ神はエボシの石火矢、いずれも当時の“最新の兵器”によって葬られている事の意味も大きい。

ただ『もののけ姫』に関しては、蟲に神性を見出すような、生物への畏怖と託願を決して失わない人が監督なのでwシシ神や、他の“もののけ”たちに関しても畏怖と託願が失われる事はなかったですね。要するに、神は殺されるが、暴かれはせず、神の威厳は保たれる。神殺しの業に対し、人々はみずからの行為に恐怖するという構成になっていて、ここは大きく違います。

しかし、本当に「神を殺す」なら、徹底的に暴く事なんですよね。キングコングは強烈な暴きにさらされる。本当の意味での“神殺し”に遭う。彼を見た白人たちは、一目で巨大なゴリラである事を看破し、何とか捕まえて見世物にしようと画策する。……もう、この時点でキングコングの“暴き”は、はじまっているし、この時点でキングコングは『怪獣』ではなくなっているとも言えます。
一方、シシ神は“神霊”としての対面が守られ、暴かれないからこそ、死した後も、その畏怖と受けて呪いが降り注ぎ君臨を続ける。ゴジラや、ガメラなどの、異形の怪獣たちが、怪獣として君臨し続けるのは、キングコングやシシ神様を屠ったその兵器が通用せず、決して暴かれない設定だからなんですね。そんな所で、まだしばらく『怪獣』の話は続けたいです。


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『超力戦隊オーレンジャー』(1995年放映)コンプリート。スーパー戦隊シリーズ21作目の作品。6億年前に地球にあった超古代文明から発生したマシン帝国バラノイアの侵略を受け、国際防衛軍の5人の戦士たちが、超古代文明の遺産・超力を武器に戦う『物語』。さとう珠緒さん(当時、珠緒)が出演している戦隊シリーズとして有名かもしれませんね。また、仮面ライダーV3から、東映特撮ヒーローの雄、宮内洋さんが長官役で登場している、他、声優陣含めてなかなか豪華な顔ぶれの作品になっています。

…とは言っても、超古代文明やオカルト(?)的な超能力と、敵の機械帝国の噛み合せが悪かったのか、特に前半はあまり特徴のある戦隊になっていなかったような印象があります。(個人的にはここで宮内洋長官が、ものすげぇ~でしゃばって活躍する展開を期待したりもしたのですが、さすがにそれはなかったw)
世界各地に遺る謎の古代文明と、それにまつわるオーパーツのテクノロジーを駆使する…ような触れ込みだったような気もするんですが、あんまり「超古代文明!」みたいな感じがしなかったというか…まあ、難しいのかもしれませんが、結果としてそれは前面で見える感じじゃなかったです。…調べて観ると、当時はオーム真理教の事件(地下鉄サリン事件~1995年3月20日)なんかがあったりして、オカルト(?)なパワーに頼る描写には萎縮があった…?のかもしれませんが(?)
逆にマシン帝国バラノイアの侵略描写はけっこう圧巻なものがあって、第1話なんか観ると相当な大規模侵攻を伺わせ「うわぁ!今回は相当な奴らが攻めてきた!」と思わせてくれました。…いや、実は、こっちも組織が皇帝バッカスフンドを中心とする“仲のいい家族”で完結してしまっていて、基本、幹部~組織内のライバル~というものが無く、ちょっと敵組織としてのワクワク感に乏しかった気もします(汗)



しかし、それ故か、後半の展開はとても楽しかったりします。テコ入れ…と言えるほど明確な路線変更があったわけでもないですが、でも、やはり微妙に物語の語り口が変わっているような気もします。超古代文明というか、オーパーツというか「どちらかと言うとメルヘンの住人じゃね?」と思ってしまうガンマジン(声:神谷明)の登場や。
それから…疾風怒濤に登場し、マシン帝国の皇帝の座に座ってしまうボンバー・ザ・グレート。こいつが僕は好きなんですよwかつて皇帝バッカスフンドに反旗を翻していて、バッカスフンドがオーレンジャーに敗れた直後とは言え、不思議な人心掌握(マシン心掌握)術で、あっと言う間にマシン帝国の皇帝として君臨してしまう。実は、ボスキャラに拮抗/凌駕してしまう程の、実力があり過ぎたために、返って悪の組織の崩壊を逆に早めてしまう、こういう怪人が登場する展開は『デンジマン』(1980年放映)のバンリキ魔王や、『サンバルカン』(1981年放映)のイナズマギンガー(↑最上右画像参照)といった、その後の戦隊シリーズの敵抗争劇の原型となったキャラを彷彿とさせるものがあります。……というか、この大胆不敵さ、ダンディズムは、イナズマギンガーですね。僕が、ギンガー好きなので、それくらいボンバー・ザ・グレートも好きですよという話ですけど。

さらに言うとボンバー・ザ・グレートには“ただの怪人”の出世と矜持を見て取れるというか…バンリキも、ギンガーも、その意味では怪人幹部クラスの風格を持っているわけで、その時点で反旗を翻せるオーラがあると言えない事もない。…ここで、“ただの怪人”と“怪人幹部”の違いは、長くなるので説明しませんが~というか「何となく?」くらいの話にしかなりませんが~。ボンバー・ザ・グレートって“ただの怪人”なんですよね。(…まあ、ギンガーも電気怪人と言えるかもしれませんけど)そこが凄いw

フォルムを見れば分かると思うんですが、コイツ単なる爆弾怪人ですから!!実際にコイツの最期は、再起した皇子ブルドントによって爆弾として太陽に突入するというものです。こういうワン・ジョブの有無が単なる怪人の条件の一つと言えるかもしれません。
とまれ、こういった普通の怪人がボスキャラまで出世するのは、なかなかの快挙じゃないかと僕は思うんです。単に強いだけじゃなくって、作戦もなかなか切れるし、味方になってくれたアチャとコチャを「アチャくん、コチャくん」と呼んでそれとなく誉める……偉いねwなんか豊臣秀吉を想起させるよ…と言ったら言い過ぎかな?wさらに、こいつがどう言う具合にバッカスフンドに楯突いたか?旨に飾っている撃墜マークと勲章は何か?とか考えると、いろいろ想像を掻き立てられて、たまりませんw
彼が強かったインパクトあったからこそ、最終盤でのブルドント/マルチーワ夫婦の強さも際立たせる事ができたのだと思います。ブルドント/マルチーワ夫婦もなかなかいいキャラなんですよ。

ところで、今回、引き合いに出した銀河無頼・イナズマギンガーについても機会を観て色々語りたいなあ…と思って、画像引っ張り出していじっていたのですが、そういえば、ギンガーとオーレッドの“顔”がかぶってますねw最初に気づくべきだった(汗)w


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【怪獣とは何か?】

ここしばらく、このブログでは『怪獣』の話を、ぼちぼち、したり、しなかったり、しているかと思いますが、まず、ここらで僕の中の『怪獣』に対する定義付けの話をしておこうと思います。
とは言ってもパブリックな怪獣の定義というわけではないので、気をつけて欲しいのですが(汗)………まず、僕が“怪獣好きな人”という前提があって…日本の怪獣映画と、洋画のモンスター(非人型)映画を観ていると「何かが違う?味わいのようなものが違う」と思うわけです。それで怪獣映画とモンスター映画を見比べていて「あ、これは怪獣映画っぽいかも?」「…これは怪獣じゃないな?」とか…怪獣好きですからね。そうやって選別して行く中で、まあ、大体こういう感じだと怪獣映画と言えるかな?という線引きのようなものが視えて来たわけです。

そこを詰めた話はまた別にして行きたいのですが、ここでは、分かりやすく大雑把に僕が何に怪獣を感じるか?を述べます。①近代兵器(またはそれに準じるもの)が通じない超存在~畏怖される存在~である事②基本的に人類と相入れぬ物(多くは敵)として描かれ、人型を為していない異形の対象であるにも関わらず感情移入~あるいは託願~の対象として扱われている事。
これを畏怖と託願とまとめますが、特に託願(感情移入)が重要ですね。そして、それは「受け手の、心象によって変化するもの」であると言えます。つまり、僕が感情移入できず「怪獣映画じゃない」と思っても、他の人には怪獣映画(的な受け止め方)になり得ると言う事です。
たとえば、以前に取り上げた『ボアvsパイソン』(2004年公開)ですが…

『ボアVSパイソン』~洋画の“怪物対決もの”はどんな感じか?

…僕はこの映画は人間の描きに重点が置かれた「怪獣映画ではないもの」という判定をしていますが、この判定は非常に微妙でして、一応、人間側の味方っぽい位置についたボアの方には、ある程度の“感情移入”を見て取れるのですよね。二大怪物の激突をウリにしている事からも、怪獣映画と捉える事も充分に可能な映画と言えます。~ただ『ボアvsパイソン』は、ちょっと変わった映画と言ってもいいとは思っていて……大元の『アナコンダ』なんかは単体の怪物パニック映画であるが故にタイトルに出ている主役怪物にも関わらず、およそ感情移入の対象とされず、ただ“恐ろしい物”として描かれていたと言えます。



洋画の、大体においてハリウッドの、海を渡ってくるものは、大抵、あくまで人間主体の、この視点が揺らがないものが多いです。(というより、例外といえるものは、ぼちぼち取り上げて行きたいと考えています)
たとえば『ジョーズ』シリーズ(1975年~1980年代?)とかどうでしょう。スピルバーグ監督の出世作の一つであり、一世を風靡したモンスター・パニック映画ですが、ジョーズは凡そ怪獣とは言えない。何故か?ジョーズを感情移入の対象として扱っていないから…と言えます。『ジョーズ2』では、子の鮫を殺された母鮫の復讐という、解釈が用意されているのだけどジョーズが人間を襲う事の説明付のレベルにとどまっている。(※ジョーズに憐憫を感じるようには描かれていないと思うが、それでも2のジョーズに憐憫を感じる人がいれば、それはその人にとって怪獣を感じる入り口足りえるとは言えます)また、ジョーズシリーズのプロットは概ね同じものであり、プロットに大きな変更が見られない事にも、“非怪獣性”を見て取る事ができます。当時の作り手にとってジョーズとはパニックのシチュエーションに至るプロットこそが本体/主格であり、ジョーズというモンスターは本体/主格として見られていなかった…と解する事ができます。

これが日本の怪獣映画なら『ジョーズ対メカジョーズ 決戦バミューダ海!!』…というタイトルになるかどうかは分かりませんが(汗)ジョーズという“怪獣”のポテンシャルを極限まで生かしたプロットで「ジョーズ、つぇぇぇええええ!!」という映像で僕らをワクワクさせてくれたと思うんですよ!(`・ω・´)少なくとも東宝が怪獣映画を量産していたあの時代ならw
逆に言うとアメリカでは「ジョーズ、つぇぇぇええええ!!」というプロットに大きな価値は認められなかったという事です。…ここらへんの話の感覚から「あ、確かに、何かちょっと違うね」と思ってくれたら、僕がなんで怪獣とモンスターをわざわざ分けて語ろうとしているのか分かってもらえるのじゃないかと思います。(※ハリウッドも『アバター』とか、感情移入対象を拡散する流れはあるのですけどね…それはまた別の機会に)



じゃあ、アメリカには“怪獣的”なるもの見られないかと言うと…そんな事もないと言うか『キングコング』(1933年公開)が、かなり“怪獣”…と言えそうです。いや、そもそも日本の怪獣映画の真祖とさえ言える存在なのですけどね。しかし、彼は怪獣としては弱く、近代兵器の前に敗れ去ります。……そこが重要で、僕はそこに、アメリカひいては西洋における“怪獣の末路”を見て取れると思うんです。

…と、その前にもう一つ、西洋において“怪獣的”に見て取れる映画として『白鯨』(1956年公開)を上げておきたいです。近代兵器ではありませんが、当時、大洋を荒らしまわっていた西洋の捕鯨船団に怯れられた畏怖性。そしてエイハブ船長に執拗な追跡を受ける宿敵としての存在から見えるキャラクター性、託願性は、充分に『怪獣』と言える存在だと思います。
原作は1851年の刊行で様々な解釈がされているようですが、グレグリー・ペック主演のこの映画は原作にかなり忠実に作られている模様。…とそこで、1928年に作られた『白鯨』について引用してみます。(↓)
The Sea Beast(1928年)
ミラード・ウエッブ(Millard Webb)監督、ジョン・バリモア主演。邦題は『海の野獣』。サイレント映画。ただし、原作が余りに暗く難解なため、大幅にアレンジされた。足を失う前のエイハブの姿が描かれ、エイハブが愛するエスターという美女や彼の舎弟デレックなど原作に存在しない人物が登場する。更にラストはエイハブが白鯨を倒し、エスターと結ばれるハッピーエンドとなっている。

(Wikipedia『白鯨』より)

1928年の『白鯨』はエイハブ船長が白鯨を倒してしまうんですねえwこれを知った時は軽く驚きました。(同時に、さもありなんとも思いましたが)別にエイハブ船長が白鯨を倒せたら怪獣映画ではないと言うつもりもないのですが、先ほど言った「ジョーズ、つぇぇぇええええ!!」というプロットをよしとせぬアメリカを見て取れるかと思います。
逆に原作通りに白鯨と死闘の果てにエイハブは海の藻屑となる1956年版の『白鯨』は興行的に大失敗しました。主演のグレゴリー・ペックも『白鯨』の出来を嫌っていた……という情報まであります。面白いんですけどねえ……。その活躍シーンがほとんど無い事から映画『白鯨』を怪獣映画とは言いづらいのですが、白鯨という存在はかなり怪獣にあたると思います。
しかし、この存在を継ぐものは、少なくとも顕著に見て取れるものは現れなかった。いや、実は『ジョーズ』は白鯨のインスパイアの面がある見たいなのですが、しかし、ジョーズからはその畏怖も託願も、消失としたと言っていい程、減退しています。

『キングコング』に戻ります。何で洋画のモンスター映画に『怪獣』はいないのか?という事で追っていたのですが、その答えはモンスター映画としても怪獣映画としても原点にあたる『キングコング』の中にあったんですよね。
プロットそのものにその答えがある。『キングコング』とは登場した時点で、西洋にとっての怪獣の末路を描いてしまった映画だった…と言えるんです。
キングコングは明らかに“感情移入”の対象として描かれている。観客が“彼”を哀れに思うように描いている。そして、彼は最強無比にして“畏怖”の存在だった。彼の棲む秘境においてはです。それが“西洋”に連れて来られる事によって、怪獣であった、彼の存在は、巨大なゴリラとして暴かれ、見世物にされ、恐竜を倒す程の無双の強さを誇りながら、機関銃の餌食となって滅びさってしまう。

その『物語』には真の意味での怪獣の最期があります。『怪獣とは何か?』、なぜ、アメリカの映画に怪獣を観る事が困難なのか?その全てが『キングコング』にはある。怪獣は暴かれる事で、その力を失う。そして西洋は暴く事によって世界に席巻する力を得た。彼らは「畏れる事を止め、全てを暴こう」という意志で、ここまでやってきた。(話が無駄に大きくなっているな?)その彼らの捨てた、止めた、何かの残滓が『キングコング』という映画を作らせ、そしてその時点で、怪獣映画が生まれる道を閉じてしまったのかもしれません。

海を渡りキングコングのスピリッツを受け継いだ『ゴジラ』(1954年公開)は「あれが最後の一匹だとは思えない。水爆実験が続く限り、いつか……」と、その復活を示唆して物語を終える。
しかし、(怪獣としての)キングコングは二度と現れない。それは彼が機関銃で倒せると暴かれてしまった怪獣だからだ。そしてそれは、エメリッヒの『GODZILLA』(1998年公開)が、戦闘機のミサイルによって滅ぼされるシーンに至るまで連綿と継承されて来た怪獣の墓標だったのかもしれません。


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【怪獣とは何か?】



テレビ東京の午後のロードショーで“巨大生物の逆襲”シリーズみたいな週間プログラムを組んでいたので観てみました。『ボアVSパイソン』(2004年公開)は、とある若手の大富豪が、仲間内でエキサイティングな狩りをエンジョイするために、遺伝子操作でばかでかくなった巨大なパイソンを空輸するのですが、その輸送機が事故にあって浄水場に潜伏して人々を襲う。FBIはパイソンに対抗(?)するため動物をコントロールする技術を使って巨大なボアを操り、追跡を始めるという『物語』。

大富豪のハンター仲間はハンティングを中止するかとおもいきや「ますます楽しくなってきたぜ!ヒャッハァァアア!?」という感じでパイソンの追跡を始めます。…このハンター・チームの登場が、ちょっとしたワイルド7の登場というか、全員一曲も二曲もありそうな連中で、横一列に並んで妙にカッコ良くって、ちょっと笑ってしまった。
…結局、この人達全滅するんですけどね。なんとな~く、山田風太郎先生の忍法帳ものの“やられ忍者軍団”を彷彿とさせるものがあります。まあ、この人達、人が死んでいる状況もゲームのシチュエーション程度にしか思っていない人たちで、金にあかした違法行為も相当やっているようなので…パイソンにどんどん喰われて行っても、自業自得というか、あんまり心が傷まないというか、けっこう純粋に「パイソンすげえ~!!」みたいな見方ができる所が上手いですね。
このハンター・チームの追跡に勝利してゆくパイソンに対して、遅れがらも軍とコントロールされた巨大ボアの追跡が迫る、ハンター・チームはものともせずに屠り続けた(強さが証明されている)パイソンだが、果たしてボアには勝てるのか?という構成の盛上げ方も良くって、B級ながらも非常に楽しめる映画になっていました。

それを、“怪獣対決もの”として観るとどうか?今回、僕は『ボアVSパイソン』というタイトルから、怪獣同士の対決は洋画でどんな感じに処理されているかを主体に眺めた所があります。個々で言う“怪獣”とは、僕が感じている、日本独特の巨大獣に関する畏怖を含めた感情の対象物としての“怪獣”という意味になりますが…。
その角度で話をすると、やはり“怪物対人間”が主体の話になっているなあ…という感じでしょうか。最後のシーンで、ボアとパイソンは対決に至るのですが、やはりそれは何というか…おまけとまでは言わないんですけど、クライマックスのワン・ギミックくらいの感じになっています。実際に、ボアとパイソンだけでは決着がつかず、人間の手によって二匹とも葬られていますしね。結局、先ほど述べたハンター・チームとパイソンの対決がやはり楽しかったんです。
これは別の見え方としては「いや、あくまで人間対パイソンを描いて行って、最後のボアとの決戦をトーナメント的に盛り上げたんだよ」というものもあるとは思うんですけどね。ボアの活躍というか暴れもありましたしね。いや、B級モンスター・ムービーとしては充分な『面白さ』だったんですよ?(汗)



しかし、『ボアVSパイソン』とまで、銘打たれているのに、実際に映画ができあがって見ると“彼ら”に主眼が置かれていないような……そういう不思議な感覚があります。
まあ、不思議とか言っていますが、至って普通の作劇でもあるんですよね。「そもそもボアとかパイソンに感情移入できる観客なんて、極少数でしょう?なら、その対決に関わる人々の“主体的行動”(傍観的行動ではない)を描いて、そっちに感情移入させないと」という、そういう話なんだと思います。

しかし、それはモンスターものを描く時の考え方で“怪獣”は違うと、僕は思っている。たとえばゴジラや、ガメラ、あるいはこれは議論があるかもしれませんが大魔神~僕は(その意思疎通の難しさから)大魔神も怪獣にカテゴライズしたいと思っています~など、その他諸々の日本産の怪獣たちは、観客~主に怪獣ブームを牽引した子供たちによって~感情移入の対象として扱われていて、概ねにおいて、その旨に沿った作劇がされていたと僕は思っています。
そこが今回の『ボアvsパイソン』という“怪物対決もの”と、ゴジラやガメラに代表される日本産の“怪獣対決もの”の違いだと思う。……ボアやパイソンに全く感情移入できないってワケではないですけどね。逆に、積極的にボアやパイソンに感情移入してしまえが、この映画は怪獣映画として楽しめてしまう……と、そういう受け手の景観の話でもあります。

とは言え、今、邦画の中にゴジラシリーズや、ガメラシリーズが消滅して行ったのは、こういう怪獣に対する感情移入が、日本人の中から無くなって行った、薄れていったからかな~?などと考えたりしているんですよね。もう、今、怪獣を観ても、受け手は『ボアvsパイソン』を観るのと同じ感覚になっているのかも…というか。
『怪獣とは何か?』という語りは、もしかしたら無くなって行くかもしれない心象に対する証言の意識はあります。ちょっと自分なりに語っておきたいと。

この怪獣感覚……僕は、日本人独特という語り口で語っているのですが(あるいはアジア圏全域を対象にしてもいいのかもしれないのですが、現状、僕のカバー範囲を超えてしまってますね)、じゃあ、それは欧米の洋画には見られないのか?というと、一概にそうとも言えないですね。
…しかし、今、一口に言うなら「西洋人は“怪獣”を恐れるのを止めようと決意する事によって、今の西洋人になった」面があると思っていて、それは残滓のような形で映画には出る事になる…と僕は観ている。ここまで語った上で「『キングコング』(1933年公開)が当にそれです」というと、ピンと来る人は分かってもらえるかと思いますがw
キングコングは原初的な怪獣にして、日本の特撮上の怪獣の始祖でもあると思います。あと『白鯨』(1851年発表)なんかも西洋にとっての“怪獣”に当たるかなと観ています。しかし………まあ、『キングコング』については、また日を改めて、記事に書きたいと思います。

※僕は、感情移入できる対象として、ある種のヒーローとしての“怪獣”という位置づけで語っていますが、特撮おたくの中の“怪獣好き”は、完全な線引きは無理ではありますが、別のタイプもいます。“ミリタリー型”、“科学型”というか、あくまで怪獣を人間側から見た災害と位置づけて理詰めで対処して行く様を描くのを好むタイプとでも言えばいいのか。……これは、ぶっちゃけアニミズムで怪獣を語る僕とは対の位置から怪獣を語る事になります。無論、僕も『サンダ対ガイラ』のような怪獣対自衛隊の「人間かっこええ!!」って描きも好きなんですが、自分が怪獣について語れというと“こっち”側になってしまうという事ですね。ただ、一応、違う方向の語りもあるよという事をここで書き留めておきます。


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【怪獣とは何か?】



テレビ東京の午後のロードショーで“巨大生物の逆襲”シリーズみたいな週間プログラムを組んでいたので観てみました。『プテラノドン』(2005年公開)は、地殻変動の調査にきた古生物学の大学博士とその学生一行が、謎の怪鳥~プテラノドン~の一団に襲われる。どうやら地殻変動の際に蘇ってしまったらしい!?(`・ω・´)そんな『物語』。付近ではアメリカの特殊部隊が、テロリストのアジトを襲撃して、テロ犯の首謀者を捕縛したりしていたのですが、この人達もプテラノドンに襲われます。そして、大学様御一行と合流します。この時、手に入れた武器で何とかプテラノドンを撃退しますね。

…プテラノドンって羽ばたいて空中停止できるんだ…(´・ω・`)などと考えながら観ていたワケですが、突然、滑空して現れ、さっと空中に攫われる怖さは出ていたと思います。プテラの造形もカッコ良さと恐さを兼ね備えた感じで、モンスター好きの僕としては満足です。
突然、何十メートルの上空へ持って行かれるので、何かもう助かる方法がないんですよね。…でも、まだ他の恐竜みたいに噛み砕かれたりして殺されたワケではない。そこらへんがミソというか、運良く助かったりもするワケです。

途中、逃亡したテロリストたちに襲われたりして人間同士のいざこざでピンチを呼び込んだり~まあ、結局、そういう“悪い人たち”はプテラに喰われてしまうんですけどねwまあ、そこらへん様々なピンチがあったりして楽しかったです。
んで、最後に全て解決した後に「恐怖はまだ終わりではない。また第二、第三の~」とでも言わんばかりに、プテラノドンが蘇っていた洞窟の中で、今度はティラノサウルスが息を吹き替えして、咆哮して終わりと…。『ジュラシック・パーク』(1993年~2001年)の影響下の作品だと思うんですが、翼竜特化というかプテラ・オンリーな所が特色かな…と思っていたのですが「あ、やっぱりティラノ出しちゃうんだw」みたいなw
続編が有る作品とも思わないけど、これでもし続編造るとしても、これでティラノ出さないとおかしいよね?ティラノ出したらこっちが主役な感じになっちゃわない?やるとしたら『プテラノドンvsティラノサウルス』かなあ?などと余計な事を考えていました。(´・ω・`)


■ちょっと“怪獣”の話



『プテラノドン』を観て、日本の“怪獣”ラドンを思い出したりしていました。『空の大怪獣ラドン』(1956年公開)もまた、古代翼竜が蘇って人間に襲来する物語ですが、その際に、何十メートルもの巨大怪物となっていてw飛ぶだけで音速を超えて、そのソニックブームで街に大被害をもたらすという描写が圧巻の怪獣映画になっています。(特に鉄橋が風圧でねじ曲がって倒壊するシーンとか印象に残ります)
コンセプトは同じでも大分違う作品になっていますよねえ…。勿論、年代の違いもあるでしょうが、欧米で作られるモンスター・ムービーは、日本の怪獣のように近代兵器がほとんど通じない、力で圧倒し返す存在にモンスターを昇華する事は滅多にありませんよね。

僕は“ラドン”は、初期の“ゴジラ”と同じく、怪獣になる前の怪獣~あるいは始祖的な怪獣~と位置づけているのですが、それでも怪獣にとって重要な要素を見て取る事ができます。それは“畏怖の想起”です。
畏怖なんて言葉を使わなくても「すっげ~!かっこいい!!」でもいいんですけどね。日本の怪獣映画は出した怪獣を観るものに、一度「すっげぇ~!!」と思わせ、見惚れさせるような描写が存在します。僕が怪獣映画が好きなのは当にそこなんですがw
先述の『プテラノドン』を観ても、プテラは怖くて恐ろしいモンスターとして描かれてはいても、軍隊の武装の前では普通の猛獣と同じ末路を辿りますし、当然ながら畏怖の念を抱く描写はしていません。あくまで単なる“外敵”であり、それに立ち向かう“人間の勇敢”が物語のテーマとなっているはずです。

ここらへんは“怪獣”と“怪獣映画”を語る時の重要な要素になってくるのですが、今はながくなってしまうので、ここまで。また機会を観て怪獣の在り方については語っていけたらなと思っています。



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【怪獣とは何か?】



テレビ東京の午後のロードショーで“巨大生物の逆襲”シリーズみたいな週間プログラムを組んでいたので観てみました。とりあえず『アナコンダ』(1997年公開)。アマゾンに住む、幻の部族を撮影するドキュメンタリーを映画作家役の《ジェニファー・ロペス》が企画して、スタッフと現地案内人を引き連れてアマゾン川を船で遡って行くのですが、そこで胡散臭い男を助けたのが運のつき。その男は密猟者で伝説の大蛇アナコンダの捕獲しようと、撮影隊を無理やり巻き込んでアナコンダを誘き寄せようとするという『物語』。

ぶっちゃけ、この密猟者のおっさんがすごい強敵でした(´・ω・`)なんか、このおっさん、最初から撮影隊をハメる気満々で(クルーの一人を毒蜂の餌食にしたり)彼らを危険な場所へと連れて行っちゃうの。七人編成の男女をたった一人で誘導、脅迫するのです。…いや~、悪人だけど、逆にカッコ良くね?とか思ったり。…『アバター』(2009年公開)で、なんか大佐の方がカッコ良くね?と思ったりしませんでした?あんな感じなんですよね。(←そうか?)
あと『白鯨』のエイハブ船長を思い出したりもするんですよね。…エイバブ船長とか、『アバター』の大佐とか、どんだけ密猟者リスペクトしてんだよ!って気もしますが(汗)まあ、そこまでキャラ性や場の支配力が強かったわけではないですが、でも妙な凄みがありました。「この映画で悪役この人だけ」ですし、アナコンダとか出てきますけど、なんかターゲットにされた可哀相な野生動物です。(´・ω・`)

この密猟者のおっさん、結局、アナコンダに巻き付かれて一呑みにされてしまうんですけどね。そこらへん含めて『白鯨』のエイハブ船長っぽい気もします。しかし、何故?~それこそ、撮影隊を騙し、傷つけ、果ては殺してまで~なんでそこまでアナコンダ捕獲に執念を燃やしたのか分からないんですよね(汗)とにかく凄い執念だけが伝わってくる。
最初、冒頭で謎の人物が、おそらくアナコンダに襲われて自殺してしまうんですが、その人と何か関係あるのかな?あるいは同一人物だった?とか思ったのですが、どうも違う見たいですし。…どこか見落としたのかな?(あるいは放送カット?)


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『美女と液体人間』(1958年公開)レストア。ちょと観直してみました。『美女と液体人間』は麻薬密売に関係したギャングたちの間で怪奇事件が起こり、ギャングを追っていた捜査陣がやがてその怪奇事件が、アメリカの水爆実験の影響で人間が変化した液体人間の仕業である事をつきとめて行く物語。最後に、液体人間たちは付近の住民を非難させた下水道にガソリンを流しこみ火炎によって全滅させられます。

……最初、ギャングもの的な展開があるのですが、あんまギャングに対する因縁とかはないですね。あんま関係ない(汗)たまたま、麻薬密売を追っていた刑事たちが、液体人間の存在に気づいたという…。あとタイトルになっている美女も関係ないですね。ギャングの経営する店の踊り子や、情婦が“美女”ですよ~という。あんま関係ない(汗)ん~なんかこの頃、あんま関連なく色々盛り込んでるな~って感じの映画シナリオ多いのですけどね。
まあ、なんかエロスな衣装を着た踊り子さんとかが、悲鳴と共にドロドロの液体に襲われたりして、なんかちょっとエロイよね…っていう。(=´ω`=)そんな感じの映画で、クラブのショーに合わせて、ギャングたちが刑事たちに逮捕されながら、一方で液体人間に襲われるっていう中盤あたりの展開が見応えあって、ここが見所ですね。
この頃、続いて作られた『電送人間』(1960年公開)、『ガス人間第一号』(1960年公開)といったその後、変身人間シリーズと言われているんでしょうか?…のシリーズは、かなりアダルトな、なかなか良い雰囲気の『物語』なのですが、まあ、その後あまり特撮畑で作られてはいませんね(ポツポツとはあるんですけどね)。何だかんだ言って、日本では大人向けは文芸的なものが、強い…………のかも?(ぼそっ)

…それにしても、他意なく観たのですが、そういえば核実験の放射能で怪奇人間化した話だったなあ…。まあ、あんま時事に触れてもよくないので、そっち方向へのコメントは控えますが…。劇中で登場する第二竜神丸~これが日本に流れ着いて液体人間を上陸させたようなんですが~当然ながら、ビキニ環礁沖の水爆実験に遭遇して被爆した“第五福竜丸”をモロに模しています。

日本人が再び核の脅威にさらされた、この第五福竜丸の事件は、当時相当な衝撃を呼び、エンターテイメントの世界でも様々なこの事件に関係した『物語』が作られました。もっとも有名なのが、その後、長大な劇場シリーズとなる『ゴジラ』(1954年公開)ですね。第五福竜丸事件が1954年3月1日の事で、ゴジラの公開は1954年11月3日ですから、なんとその年の暮れには公開。当時の邦画の制作反応の速さが分かります。
また、手塚治虫先生の『鉄腕アトム』でも、同じく1954年の少年付録で『サンゴ礁の冒険』が発表されています。アトムが、怖がる心を持つ装置を取り付けたまま、南の海の冒険に飛んで幽霊船に遭遇する話なんですが…。まあ、この幽霊船が件の船なワケです。

また洋画でも第五福竜丸の悲劇に直接の影響はないでしょうけど、1953年公開の『原子怪獣現わる』、1954年公開の『放射能X』なんて作品が生み出されています。いずれも、核実験により恐竜、巨大蟻が現れる話です。
…まあ、このブログは…というか僕は、『物語』とエンターテイメントの歴史の話に終始してしまうのですが、この頃は核実験に着想を得たSF/特撮映画のラッシュになっている所があります。これがしばらくして60年代に入ると、宇宙開発時代に着想した『物語』が隆盛となってきますよね。…これもまた一面を言ってしまえば、米ソ冷静における大陸間弾道弾戦略構想の技術確立のための競争だったと言えますね。


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