今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。

『物語』の“かたち”、心の“かたち”

2011年08月09日 | 物語愉楽論
▼SomethingOrange:『3月のライオン』の差別構造と物語の限界。

  録音データ:http://dl.dropbox.com/u/12044930/kande-takuma-20110731203043.wav

ちょっと前に、海燕さん、かんでさんと、(↑)SomethingOrangeの記事にある内容の事を話していました。その後、ラジオもしましたので、そちらも張っておきます。
事の起こりは、かんでさんの『3月のライオン』の最新刊であった、ひなちゃんのいじめ問題の描きについての指摘です。要点はやはり海燕さんのまとめ方がわかりやすいですね。
ぼくが考えるにその批判の要点は以下の二点、

1.作中のいじめの描写が甘い。ひなたはいじめにあいながら「壊れて」いない。これはいじめの実相を表現しきれていないのではないか。

2.作中では作劇の都合上、いじめっこ側の権利が狭められている。本来、いじめっこ側にも相応の権利があるはずなのだが、それが描写されていない。

 であったと思います。

 これに対して、ぼくは作品を擁護する立場から、以下のように反論しました。

 たしかに『3月のライオン』は現実を「狭めて」描いているけれど、そもそも物語とはすべて現実を「狭めて」描くものだということがいえるわけです。そこに物語の限界を見ることは正しい。正しいけれど、それが物語の力の源泉でもある。なぜなら、ある人物をほかの人物から切り離し、フォーカスし、その人物の人生があたかも特別に重要なものであるかのように錯覚させることがすなわち物語の力だからです。だから作家が物語を語るとき、どこまで語るかという問題は常に付きまとう。

 つまり、ぼくはかんでさんが指摘する『3月のライオン』の問題点は、ひとつ『3月のライオン』だけの問題点ではなく、「物語」というものすべてに共通する問題点だといいたかったわけです。

『3月のライオン』という非常に評価された物語の1エピソードで、ある人は反発心を覚えた、納得いかない気持ちになった。もう一人は、その描きに納得してはいて、その上で「あなたの意見も分かるが、物語とはそういうものなのだ」と。「ある納得を描くために、あなたの納得を切り捨ててそれを成り立たせている場合もあるのだ」と。(そんな感じでしょうか?)
僕は、この話について『物語』の根源な議論を見出していて、いろいろ話したくなって、無理やりラジオに飛び入りました(汗)いろいろ話したかったのですよね。人は『物語』の「何に感動し」、「何に反発し」、「何に安心する」か?と言うような………これ、ラジオではなかなか言いたい事がまとめきれていませんでしたので、ここでもう一度、意見をまとめ直しておきたいです。

僕が話したかったのは『物語』の“かたち”と心の“かたち”の話と言えそうです。物語に接する時に「好き」「嫌い」とも違う「良し」「悪し」とも違う「その『物語』は、どういう形をしているのか?」という考え方です。
『物語』は、ある“かたち”をしている。その“かたち”はある人には優しかったり、ある人には痛みになったりする。納得を呼んだり、反発心を起されたりする。でも、『物語』はそういう“かたち”をしているだけで、そこに善悪があるワケではない。ただ、そういう“かたち”というだけ。そう考えると「好き」「嫌い」や「良し」「悪し」ではなく、二元論と違う所で『物語』に接する事ができるんじゃないかと思うんですよね。自分の「好き」「嫌い」という感情も座標に直して……単純に言えば嫌いと思った『物語』も興味の対象~愉楽の対象~に変えて行けるんじゃないかと。

ただし『物語』は人造物であり、ただ無秩序な“かたち”をしているわけではありません。かならず『作り手』の目的を持った“かたち”が取られ、『作り手』の意思を反映しています。それは(定義によって違ってくる話ではありますが)最終的には多くの人に「好き」と感じてもらう事を目的としているようです。『物語』は基本的に、そういう“かたち”をしている。
しかし、『作り手』の意思を反映してはいますが、意思が具現化したわけではない、必ず『作り手』との意識のズレがある。そして意識しない所で、意識しない“かたち”をしている。その“かたち”はどこかで『受け手』に対して、意識しない「好き」「嫌い」の影響を与えている。
そしてどのように「好き」になってもらうのか?その行程の精度高く、多くの『受け手』をそこに辿り着かせると「良し」と、精度低く「好き」に辿り着ける者が少ないと「悪し」と評価される、らしい。これも「良し」「悪し」の定義によって違ってくる話なんですけどね。

そうして『物語』は精度の高い「良し」を目指す“かたち”を取る。この時、その『物語』がどうして、そういう“かたち”なのか?(どうしてそういう表現をしているのか?)を見極めて行くと、すごくシンプルに人の心の“かたち”に合わせて形成されている事がわかってきます。それは時に、すごく怖い事で、すごく残酷な事でもあるんですよね。僕がこの話題で使っている“残酷さ”とはここの事です。…実は、僕は特に残酷とも思っていないのですけどね。世間の感覚に合わせると、そう評するのが適切なように思えるので、そう言っています。(`・ω・´)
しかし、それは『物語』は人の心を映し出しているって事なんですよね。多くの人に接する、多くの人の「好き」を引き出す事を目的とした『物語』ほど、人の心の“かたち”に最適化され、磨かれた鏡のようになっている。そしてそれは「多くの人」などという対象ではなく、自分という者の心の“かたち”を映し出す。自分の心は「何に感動し」、「何に反発し」、「何に安心する」か?
ちなみに、それらの感情が、相当いい加減な要素で左右されてしまう事も分かってきますw『言葉』に囲われたり、縛られたり。

僕が人(自分)の心の“かたち”の何を残酷と評しているかは、ラジオの中でもかなり語りましたし、海燕さんの記事で取り上げている事もそうそう外していないので、ここではそう繰り返す事は避けますが……ちょっとだけ。
…たとえば『天空の城ラピュタ』(監督・宮崎駿)で、ロボット兵がシータを抱えて要塞を砲撃し、壊滅たらしめるシーンがありますよね?あそこロボット兵カッコいいですよね?でも、あのシーン、相当人が死んでいると思うんですよね?…砲台から何人か逃げ出すシーンがありますね?あのシーンを見たら“安心”ですか?あなたの心の“かたち”は?……でも、確かにあのシーンは『受け手』の安心を引き出すためにある。「まあ、助かってる人もいるじゃん?」くらいで適当に無視出来るように“軽く”兵士たちに触れ、後はロボット兵のカッコ良さに集中できるようにしている、直後のシータのロボット兵への感情移入を観てもそれは確かな演出意図と観る事ができる。

…いや、こんな書き方すると名作の重箱の隅をつついてdisっているように見えるかもしれませんが、僕の結論は全く別で、それでも僕は「ロボット兵かっけぇぇええ!!!」と声を大にして叫び、その破壊力に打ち震えたいんですよ。「ロボット兵かっけぇぇええ!!!なんか死人や負傷者が出ているかもしれないけど、人がゴミのように描かれてるわけでもなし、上手くスルーできて、全然心が痛まねーや!」……とか言ったら言い過ぎかもしれませんが…。

最初に『物語』の“かたち”で語ったように、心の“かたち”も「好き」「嫌い」、「良し」「悪し」などと評する事はできるでしょうけど、それよりもまず心の“かたち”は善悪もなく、その“かたち”が在るだけなんですよね。僕は、何よりもまず、その心の“かたち”に対して素直で在りたいと思っているんですよ。
このブログでは『物語愉楽論』と題して、『物語』を愉楽しむ事を語って様々に語って行く項を設けていますが……更新遅れてますが(汗)…これはその大前提の話です。

言葉の位相

2010年09月16日 | 物語愉楽論
最近、kichiさんと(USTREAMで主題に出した)アニメ『School Days』の主人公・誠というキャラの評価の話をしていて、そこでの会話で、以前から、ここに書こうと思っていた『言葉の位相』の話が出たので、機会を得たと思って、ちょっとここで書き出してみようと思います。

(↓)togetterにまとめ、論旨の部分を分かりやすいように抜き出して、記述順等入れ替え整形しました。また、会話の前提として実は以前にもkichiさんとは、この話題でけっこう話し合っていて、誠というキャラの所作/動作は検証していて、今回はそこをすっとばして話をしている所があります。そのため分かりづらい部分もあると思いますが、本論では、誠というキャラの真相は基本的に問題点としていないので、どういう意見の食い違いが起こっているか?想像して読んでもらえたらと思います。

【アニメ『School Days』についての意見交換かな?】
http://togetter.com/li/50826
LDmanken◆【アニメ『School Days』@漫研ラジオ】他愛もないアニメですがかなり目一杯語りました。(=´ω`=)


ito_kichi◆他愛もないって言っちゃうんですかw 一見他愛もないけど実は練り込まれまくった作品、かとw ……ちなみに昨日聞いた感想ですが、大筋では以前聞いてた通りでしたが、細かい部分の詰め方とか興味深かったですね。刹那のキスが分かれ目というのは言われてみればなるほどでした。
◆……ただまぁ、“誠を普通の男の子と見る”と最高に綺麗で面白いということは理解し最大限尊重しつつも、やはり私はその説に“乗れない”という点は譲れなかったですねw 私としてはやはり誠も世界さんと同等くらいに“異常”と思わざるをえないです。
◆誠の異常さが何かというと、“自分の罪を認識できない”というのが一番で、これは刹那の恋の件をすっかり忘れてしまえる世界さんの異常とやはり似たものに思うんですよね。
◆あと、私が誠の個性を感じた最初の部分って“世界が言葉との話をもちかけてきた時「自分が言葉を好きだった」ことに自分の認識をズラしやがった!”と思ったことだったんですがw、そういう意味で誠のキャラって最初から最後まで一切ブレがなかったと思うんですよね。
だから、誠から超誠に変わっても、その力や効果範囲は大幅にパワーアップしたけど本質自体は何も変わってないというのが私の認識ではあります。完全に受身であるから、その効果範囲の変化による周りへの影響力の変化が絶大なだけというか……。
◆まぁ、そんな感じで、最初書いた通りそう読む魅力は尊重しつつも、客観的に見てというか、いわゆるファクトとしては“誠は異常”と読む方が正しかろうと思えるという所は譲れなそうです。ここ譲るとなると私の“普通”観を(悪い方にw)変えなきゃならなそうですしw


LDmanken◆ああ…普通か、異常か、ってゲージで表現するのは難しいですけど、誠の悪ではあると思います。僕も誠の態度に血管ぶち切れそうになりましたしw
◆誠が「そう変化した以上その本質を持っていた」って本質話は『位相』があって、言葉表現が違っても最終的にどちらも同じものを観ている状態だと思います。僕の方としては、それまでは加藤が好きだった誠は居ると思っていて、それが失われてしまったという話かなと。
◆変化した以上、変化可能性因子を持っていたという指摘からは逃げられないものですよね。ただ、まあこの場合、誠にも良い面と悪い面が内在していて、僕やルイさんの話は変化以前は良い面が表立っていたねという話になるかなと思います。


ito_kichi◆ ……う~ん、ちょっと微妙な話ではあるんですが、私は本質的には「誠は変化してない」って言いたいんですよね。因子という話じゃなく、最初から行動パターン自体は一貫してると思うんですよ。逆に、超誠状態だって良い面が消えたわけじゃないとも思ってまして……。
◆ ああ、世界さんに触れることで、目覚める必要がない“異常”……というか、めだかボックス的に言えば“マイナス”でしょうかw、が、本格的に目覚めてしまった話、という風に考えていますね。世界さんに触れさえしなければ、あるいは一生開花せずに済んだマイナスなのかも……。


LDmanken◆「誠は変化してない」|はい。僕はこういうのを『位相』と呼んでいるんですが、ここで僕は「変化」という言葉に拘って「でも乙女は見限ったよ?(それは変化では?)」って言えるんですが、これは「変化」という言葉の取り合いみたいになっていて、今、実際は僕もkichiさんも誠の何が変化して何が変わってないか、分かっている状態だと思うんですよね。アプローチが違ったから最後の結論として出た言葉に『位相』が起こっているだけで。
◆そこで最後のフィーリングまで合わせるために『言葉』をとり合っても詮無いかなと。多分、互いに近い所は観ているよねで収めるのがよいかなと。…逆に「誠には一切変化がない」という話ならそれは位相ではなく対立なので話し合う必要を感じますw


ito_kichi◆……う~ん、位相の話は理解しましたが、今回の話がそれレベルの違いに収まるのかどうかという点は疑問を感じます。少なくともルイさんは異を唱えそうw LDさんもルイさんも「本質」の部分から変化を見ているように思えるのですが……。
◆ちなみに乙女の変化に関して私の視点から説明しますと、どちらかというと乙女の情報不足的な話だと思うんですが、世界に触れる前はそもそもその情報を得るのが不可能、みたいな話に思うんですよねw
◆最初書いた通り誠の異常は「自分の罪を認識できない」ことが一番だと思うんですが、そもそも罪を犯してなければその性質は現れようがないわけで、世界さんに触れるまでは誠は特別大きな罪と呼べるようなものは犯してなく、比較的善良だったのだろうと思うんですね。


LDmanken◆「変化した以上、変化可能性因子を持っていたという指摘からは逃げられない」と述べたのは、kichiさんへの意見の対立ではなく、たとえ僕が今の誠の経緯を「変化した」と表しても、変化した以上、「最初からそうだった」(つまり変化していない)というkichiさんの指摘からは逃げられないという話をしています。つまりkichiさん言いたい事はわかる。しかし、ここで普通/異常という評価ゲージを使うと個々人の評価が分かれる。誠に非があり、かつそれに無自覚な事も分かるし同意します。しかし、それはどう表現するからは、上の共通認識があるなら位相だね、と思うんですね。
◆乙女の話で言うと彼女は誠が「責任転嫁をする奴じゃなかった」所は目撃してる。そういう情報は得ている。だから「責任転嫁」をした時、それは乙女には変化と映る。僕もそう評したわけですけど。そこを詰めて「いや、根が出てなかっただけ」と言う事は可能です。でも、これは僕もkichiさんも、誠の何が変わって、何が変わってないか、分かっている状態だと思うんです。だから最後の腑に落とす言葉「変化」の取り合いをしても、それは位相の話だなと思うんですよね。


ito_kichi◆……う~ん、本当に微妙な領域の話になってますね。どうも私には誠の何が変わったかの「何」の部分が私とLDさんルイさんでは違う所を指しているようにも思えるんですが……それがどっちか確定する術はなさそうという意味では確かにこの話を詰めても栓無さそうではあります……。


LDmanken◆ニュアンスやフィーリングまで完全に一致させるのは無理として、問題はそれが本当にニュアンスやフィーリングレベルか?という話ですよね。それは実際には僕にも分かりません。僕は大体いい認識合わせまで達しているんじゃないかな?と経験から判断しただけです(汗)
◆「変化」という言葉を焦点にするから拙いかもしれませんね。→誠に非があり、かつそれに無自覚な事は同意です。それを異常と呼ぶかは個々人の評価な気がします。僕は非がある上で“分かる”と思いました。ここに齟齬があるなら、もう少し詰めた方がいいかもしれません。

説明に入る前に何点か押さえておくと、まず、今から僕はkichiさんの主張を僕の思考で想像しつつ話を進めて行くわけですが、これは常に誤解の可能性がつきまといます。これは『言葉は不完全なツール』なので、元々、あらゆる会話について回る事象で今更言う事でもないんですが、今回の話は細部の意識合わせの領域に入って行く話なので、その誤差の意味がかなり大きくなるという事です。
…というか既にkichiさんから「今回の話がそれレベルの違いに収まるのかどうかという点は疑問を感じます」と言われていますw(無論、kichiさんの側でも僕の話を誤解している可能性がある)しかも、今回、『言葉の位相』を説明するためのリライトを行うので細かな意味合いはかなりずれてしまうと思われます。ただ、それは説明できる形に直す事を優先するからです…って事を先に言っておきます。

『言葉の位相』とは言ってしまうと、互いに全体(『実相』)の認識は合っているのに観る角度や評価の仕方などで違う『言葉』を選んでしまっている現象を指しているのですが「そもそも厳密には互いの認識が完全に一致する事はない」ワケです。じゃあ、何で『位相』なんて話を持ち出すのか?はこれから説明して行きますが、結局「どこまでの認識合わせで良しとするか?」の話なので、それはその人のセンスが問われる部分なんでしょう。

もう一つ。僕はなるべく相手に伝わるような、分かってもらえそうな『言葉』を選んで説明を行うように気をつけていますが、この話って、そういう“分かりやすい言葉”によって起こる齟齬の話なんで、分かりやすくまとめる事ができてしまうと、その『言葉』に取り込まれて、分かりにく問題を分かりやすい問題のように受け止めてしまうんじゃないか?という危惧があります。
「一言で言い表すと、こう!」なんて言い方がありますけど、その一言の『言葉』による認識の差異を放置する事によって起こる問題の話をしているので、本当は分かりやすく話してしまうのは“毒”かもしれないんです。え?お前の文章なんか最初っから分かりづらいから気にする事ない?wまあ、それは置いておくとして…。

状態が説明しずらいね…という話を“説明できてしまう”と「いや、今、説明できたじゃん?」みたいな?いや、まだこれ一方(僕)のまとめであって、検証していないし?それに今回、“話す機会”としたのは説明しずらい所をそれなりに説明できるレベルのサンプルを得られたからと思ったわけで、際の話だし?みたいな?w説明できた範囲を延長しイメージを広げて説明しずらい齟齬の領域をイメージして欲しくって、説明できた範囲に留まる「分かった」は毒だよ…って言っている事、分かります?

え~っと…言葉は(伝達のための)ツールであって、実体そのものでないから『言葉』を認識するのではなく『実相』を認識する事…って話かな。言葉によって“伝わってきた事”を言葉そのものでなく『実相』に変換しなおして認識しようと意識する。この人は何を言っているのだろう?と想像する…そのもう一歩背面くらいの感じ?w…そうすると「あ、これって使った言葉が違うだけじゃん?」といった状態が観えてくる事もあるかな~とか思ったり思わなかったり…。(´・ω・`)(←何故、自信なくなる?)

…んんん。先に押さえておく話でえらく文字数とってしまったし。しかも、ここでまとめてしまった気もするけど(汗)…まあ、以下、実例っぽく(?)語って行きます。上の議論を、仮に「本件の主題の説明しやすさを優先して簡略化/変換」し、図で示してみると、たとえばこんな(↓)モデルになってくるかと思います。



L「物体CはAラインからBラインに変化した」

K「物体CはBラインに変化する事はAラインの時点で描かれている。故に物体Cは連続した存在であり変化はしていない」

図は“言葉認識”からくるイメージ世界と思って欲しいですが、本当にこんな簡素なイメージではなく、今分かりやすく説明するために簡素な図に置き換えただけで、実体はもっと混沌としている事をイメージして下さい。この図を見るとLくんとKさんの主張の違いの両方を比較できるように直されているかと思います。
Lくんが「物体CがAラインからBラインに移動した。故に変化した」と言うのに対し、Kさんは「物体CがBラインに行くことはAラインにある時点で分かっていた。それは変化とは言わない」と返している感じでしょうか?
こういう意見対立の議論って指示している対象を分解検証して話を進めていってみると大抵、違う場所と違う場所で「変化している」、「変化していない」を論じていたりするんですが、もう少しややこしい状況というのがあって…。

実は、今、このモデルは「変化していると主張するLくん」の立場からLくんの視点に合わせてKさんが自分の視点を説明してくれていたから問題の焦点を分化できている面があるのですが、本来、「変化していない」からロジックを組んでいるKさんの主張は変化したと理解させるAラインとBラインというモデルをイメージしないはずなんですね。
A、Bなんて2本の軸があってそこを移動したら、そりゃ変化だろう…って話にもなりかねないんですが、それは対立点を明確化するために2本軸の視点に合わせた上で、変化のない解釈を説明しているからであって、Kさんの本来的なイメージ世界は変化のないDライン一本をイメージして、それで物体Cはこのラインを通るから「変化はない」と主張する事になるはずなんですよ。

KさんがLくんに“譲って”A、Bライン視点から自分の主張をする事は可能だし、実際、相互理解というものはこの手法で前進して行く面も大きいのですけど、でも、この手法をとる限り、真にKさんの中にあるDラインのイメージは、一向にLくんへ伝達する機会を得られないワケです。果たして「Dラインイメージ」は本当に俎上に上げなくていいイメージなのか?

まあ、譲れる程、互いの主張を理解したなら譲ってしまうのも対応の一つだとは思います。しかし、AラインBラインが存在するイメージと、Dライン一本のイメージは本来全然別物で、その上、人の中にあるイメージというのはその人だけのモノで、今、A、B、Dラインと言う言い回しで比較が可能になっているけど、実際はラインなんて共通化可能な状態ですらなく、もっと様々な要素が絡んだ動かし難いものであるはずです。そのため、ず~っと「認識が合わない」として互いの主張を続ける場合がある。…ありますよね?

…でもねえ。こうまで認識が合わない世界とか語っておいて何なんですが、もし互いに対象の『実相』を掴んでいるのならば、僕はもうこれ、使っている言葉が違うだけで同じものを観ている…でいいんじゃないかと思うんですよね。
ここでアニメ『School Days』の誠の話に戻ると、僕とkichiさんは以前の会話で、誠が物理描写としてどういう変遷をしたのかは共通認識が取れているはずなんです。故に焦点は、誠の内面の話になっています。
LD「誠は元々はいい奴だったんだけど変わった」kichi「いや、見る限り元々いい奴だったとは言えない」が、焦点だと思う。しかし、実は個々も既にかなり分解検証していて、どこを持っていい奴と述べているのか、どこをもっていい奴だっと言えないのかも確認されているんですよね。(少なくとも僕はそのつもり)

これ「人それぞれの話」みたいなモノとはちょっと違うのですが…。そのキャラクターについて相応の所まで『読み』解いて検証する。その際に『言葉』というツールを使う。互いの視点が違うのだから言葉で組み立てられる表現も違う。上のモデル図のように同じ対象を観ていても「二本軸で構成されている」「いや、一本軸だ」くらい違う。
そうやって『読み』進めて行って、そのキャラクターの『実相』が掴めたなら、ツールである言葉表現が何故違うのか観えるし、観えてしまえば、それは『言葉の位相』というもので、状況に応じて変じればよく、偏にそこに拘って言葉の取り合いみたいな事をする必要はなくなる。

ある不明な実体について話し合って実体を掴もうとする。その際に有効な伝達手段である『言葉』を使う。言葉で表すために実体は(自分から見える)一面のみの写しで、かつ“わかりやすく”(伝えやすく)加工されて述べられる。しかし、実体が掴めたなら、“不完全なツール”である『言葉』によって加工され、形を変えられた表現に必ずしも拘る必要はなくなるよね?

『実相』を掴んでいるならそれはもう『言葉の位相』だよね?と…。
あっと。『実相』の説明が残っていました。『実相』というのは何か?…ここで言いうと誠というキャラの『実相』について語ってみると、彼が「変わったのか?」「変わらないのか?」それはハッキリしている。「変わった部分もあり、変わらない部分もある」が誠の『実相』でしょう。「○○さんは良い人か?悪い人か?」→「良い面もあり、悪い面もある」が『実相』ですよね。それで何らかの都合により「良い人か?悪い人か?」をはっきりさせる必要が生じる場合がある。でも、それは『言葉』の加工であって『実相』が変じるわけではない。
何が変わり、何が変わってないか、明確に認識しているなら、実相を掴んでいるなら、話を分かりやすくしたり、文脈に載せるための加工法である“言葉の評価”に拘泥する……というか、とにかく“言葉の取り合い”をする必要はなくなる。状況に応じて変じればいいはずなんです。

…と、ここまで書いた所で「『実相』を掴むなんて本当にできるの?そんなの幻想じゃね?」という話が出てくるんですけどね(汗)(ちなみにその幻想は『真相』と呼ぶ)まあ、僕は他にも「共通認識が得られた」なんて言葉を使いますが、これも「真の共通認識はあり得ない」事を前提で使っている言葉で、ある一定のレベルで、まあ、そう言っても良いだろうという判断に基づいて用いている言葉ではありますね。
実際に「まだそこ(共通認識)まで、至っていないんじゃないの?」というkichiさんに対して、僕が答えられるのは「経験からすると、まあ大体話し尽くして、認識もそれ程ブレていないとして良いと思いますよ?」くらいではあるんです。「あ、そこまだ詰めてなかったわ」という示唆があれば、すぐ認識改めますしね。

ただ、この『言葉の位相』を認識する事によって、意見交換、意思伝達のある程度の効率化を図れると思います。
『言葉』というのは“分かりやすく伝達する”ために、あるいは自身が“分かる形で分かる”ために、『実相』を加工整形して成り立っている。そういうツールである面がある。故に状況によって『位相』が起こるし、『実相』を掴めば『位相』の仕組みは見えてくる。その意識を持てれば、もう、散々話しあって『実相』は互いに完全につかめているのに、何故か、言葉の取り合いを延々とやっている…みたいな状態を早く脱する事ができると思うんですよ。


【絶対視思考と相対視思考】
以前、『言葉の位相』に触れた時の記事です。あまり上手く説明できていませんが…(汗)
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

【言葉はツール】
繰り返し引っ張り出される『物語愉楽論』の超定番記事
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f

『言葉』に縛られない話

2010年08月25日 | 物語愉楽論
@gigir:何故か受け付けられないものというのはどうしてもあるので、そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダに放り込むようにはしている。

@LDmanken:@gigir >そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダ|良い姿勢だと思う。嫌いなものを理屈付けると人は自然その理屈に縛られるし、理屈付けした時点から「嫌いなもの」が「間違ったもの」に変じて、それと気づかず心を固定させてしまう人は多い。

@LDmanken:@gigir →しかし同時に「嫌いである」事、あるいはそれ以外の心象を含めてなぜそう思ったか説明できる(理屈付ける)準備も必要。「嫌いなものは嫌い。説明は特にない」では取り付く島がなくて他の人の「好き」を吸収しづらいんだ。→

@LDmanken:→でも人は自分の意見は正しいと思わないと、それこそ生きていけない面があるけど、それでも『言葉に縛られる』事を意識して、理屈を紡ぎながらも、そこに縛られない意識が必要。特に『物語を愉楽』するこの世界は現実世界と違って間違っていたからって生命は取られない。安心していい世界なんだ。→

@LDmanken:→そうすると今度は『縛られている』『囚われている』という指弾が生まれ、僕も場合により使うけど、他者の『言葉』を真摯に受信しようとしたと胸を張れるなら「それでも納得できない」事はそれでいい事。この世界は『分かったフリは最悪』なんだ。


ちょっと前にTwitterでのGiGiさんのツイートに反応して一方的にレス打っていた内容なんですけど、けっこう僕がこのブログでぼちぼちと書いている『物語愉楽論』の基礎にあたる部分の要点をまとめているなあと思ったのでこっちにも書き出しておきます。
「嫌い」と発っしない事、あるいは性急に嫌いな理由を貼らない事は、その行為によって自分が縛られる事(人間、誰しもそういう性質はあると思うんですよね)の“損”を示していると思いますので、今回、そのタイトルで行きたいと思います。(いささか強引ですが)

さて、ここで語っているのは、ある事象について“嫌いなもの(?)”→“楽しめないもの”となった場合の処し方の話なんですが、そんなものに何で理由付け、説明付け、理屈付けが必要かと言うと『物語愉楽論』から言うと、なるべく手際よく“楽しめるもの”に変化させるためなんですよね。僕はそうするために一番効率いいのは“楽しんでいる”人の話を『受信』する事だと思っています。
だから、ほとんど唯一の伝達手段である『言葉』の使い方を磨く必要があって、そのため『言葉』という“ツール”の説明を『物語愉楽論』の最初の基礎段階の話として書き綴っているのだけど、そこから、なかなか先のフェーズに進めずに今日まで来ています(汗)…まあ、いいんですよ。ぼちぼち書いて行きます(´・ω・`)(←)

ただ、まあ、ちょっと『言葉』というツールの扱いの話は本当に重要なんで、繰り返しですが、以前の記事をいくらか引用します。

【言葉はツール】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/338f2a8d55210bab964216e766e26e9f
元々、僕は「言葉」というものに対して、これはもの「凄い力」だなあと思っています。そもそも今、こうやって文章を書いていること自体で僕は「言葉」を駆使しているわけですが、これで僕の思考が読んだ人に伝わってしまうんですね。……なんで伝わっちゃうんでしょうね??wこれはもう単純に凄い事だと思うんです。そして「言葉」は内的な思考をする際にも駆使されます。多分「言葉」がないと人間ってまともな思考できないですよね?これも凄い……っていうか不思議な事ですw
この「言葉」を上手く使う事を心がけて磨いて行くと、他者に自分の思考が伝わる率が格段に上がって行くはずです。また、他者の言わんとするところを効率よく理解したり、場合によっては他者の言の1から10の事を得られるようになっていったりするはずです。ネット界隈、おたく界隈には、こういう“魔法使い”ならぬ“言葉使い”が多いと思いますのでwwwその「愉しさ」ってのは説明するまでもないかと思います。

ただ、そういう理屈屋にも気をつけなければならない落とし穴があります。それは意志伝達のツールであるはずの構築論理に、自分が逆に使役されてしまうという事です。(というか元々「理に屈する」というのはそういう意味なんですけどね)
たとえば自分が「面白さとは展開の意外性だ」という理屈を構築したとします。そうすると作品を「意外性があるか?ないか?」で区分けし意外性がなければ「つまらない」と断じる事になります。
まあ「自分の意図を披露することと、自分の視界の狭さを披露する事はコミ」なんで、ここまでは仕様がないんですが。問題は構築したこの論理に使役されて、ここから出れなくなってしまう時がある事です。「歴史考証が正しくないと面白くない」「科学考証が正しくないと面白くない」冷静に考えれば、そんな事はないのはすぐに分かるんですが、面白い事に、人間ってのは自分でそう考えると、本当に「面白く」感じないんですね。何でって「人間の心は外界の作品の真偽よりも自分の構築した論理が正しい事の方が大切」なように出来ているので(笑)
心象はいつもニュートラルな必要があります。そこらへん理屈が“どういうツール”であるかを認識していれば、そんなに踏み外す事はないと思います。まあ、実はそこを越えると今度は自分の“視界の広さ”に価値基準を置いて、無理に己の心象を騙そうとする「何でも面白い病(あるいは何でもアリ病)」が待っているのですけどね。長くなったので、それはまた別の機会としておきます。


今、『言葉』を人間の持つ唯一の伝達手段…として語っているのですが、考えてみると、人間にはまだ画とか、音楽とか、料理とか、伝達手段はありますねwしかし、形而上的な事象も含めて己の意図を(他の手段に比して)ブレを少なく情報量多く伝える手段はやはり『言葉』なのだと思います。

さて、今、『物語愉楽論』的には“楽しめるもの”に変えるための目的として『言葉』を使うという姿勢をとりましたが、これを別の目的で使うと、その運用方法はかなり違うものになってきます。
たとえば、この“嫌いなもの”(楽しめないもの)を“嫌い”である事は“正しい事”であると“説明”しよう……という目的とか。あるいは“正しい事”かどうかは言及しないとしても、“嫌い”である事を自ら肯定するために自分のその嫌いの形を“説明”しよう……という目的とか。

いや、どういう姿勢(目的)を良いとか悪いとか言うつもりもないんですけどね。ただ『物語愉楽論』的には“楽しめるもの”に変えたい。少なくとも他に“楽しんでいる”人がいるのに、その感覚が共有できないままである事を変えて行きたいと、そういう目的で『言葉』を紡ぐので、その場合の『言葉』の紡ぎ方~姿勢は自ずと決まってくるだろうと考えています。

GiGiさんなんかは長年のつきあいで、こういった目標、目的自体は意志を同じくしているはずです。だから~何故か受け付けられないものというのはどうしてもあるので、そういうものは性急に理由を貼らずにとりあえず「よくわからないもの」フォルダに放り込むようにはしている。~こういった『言葉』は、自ずと決まるその姿勢を“正しく”示しているし、その目的に沿う意味で、とても知恵ある姿勢だと思うんです。

「それでも説明をつけろよ」と言い添えようとしている僕の方が半ばイチャモンです(汗)しかし、まあ、ちょっと詰めた話をすると、こういった事は正に中庸(バランス)を尊ぶもので「よくわからないもの」という場所にいつまでも居るのは、やはり(目的に対して)“毒”というべきでもあります。理由、理屈をつけてそこに縛られてしまう事を回避はしましたが(他にも色々回避しています)、今度はそこを回避した安心に“縛られて”「よくわからないもの」に留まってしまう。「嫌い」に縛られないために「よくわからないもの」に入れたけど、そこに留まるなら「嫌い」という箱のタイトルを、「よくわからないもの」というタイトルに差し替えたのと大差なくなるんですよね。(変えるだけでも意味はありますが)
同じように“楽しめるもの”を目的としていると、楽しめたら安心してしまって、そこに“縛られ”やすくなってしまうんですが、それも詰めて行けば“毒”と言えます。……まあ、ここまで根詰めなくてもいいっちゃいいんですけどね(汗)しかし楽しむ……『物語愉楽論』では“愉楽する事”としていますが、これは元々ゴールがある話ではないという意識が必要です。

理由/説明を紡げば(自己肯定の理論武装を目的とせず、変わろうという意図に正しく沿えば)自分の『無様』は自ずと晒されると思います。『無様』が見えればそれを少しずつでも修正して行く事ができます。『物語愉楽論』では『言葉』をそういう目的で紡いで行きます。
まあ、そうやって『言葉』の加工をする事によって、本来の自分の心象そのものまで加工されて“形を変えて”しまう恐れもありますねwそれも『言葉に縛られる』というもので、人間の依存度が高い分、何かと『言葉』というのは恐ろしいツールなんですが、その特性を理解して上手く使って行きたいと思います。

また、この話、現実世界ではそうも言ってられない所もあるんですけどね。「現実は、がむしゃらに来るし」なんて歌詞がありますが、現実はすぐに“答え合わせ”を要求するので、縛るとか縛られるとか以前に、これが正しいと決めつけて行動しなくてはならない時があります。…というか、そんなんばっか。(´・ω・`)
でも、今話している“ここ”は『物語を愉楽する世界』の話ですからね。一ところに留まるのは“毒”とは言え、それは“やがて”でも構わない。ゆっくり落ち着いて、じっくりと“答え”を探って行けばいい場所だし、まず、そこを愉楽するのがいいんじゃないかと思います。

『言葉に縛られる』というのは、自分の目的と意味を正しく理解する事によって、一時的に縛られても、また目的の道へ立ち返る事ができるはずです。今の自分の言動は自分の目的に沿ったものであったかチェックをするんです。

「無様」をさらす話

2010年03月11日 | 物語愉楽論
差別せずには生きていけないという無様。 - Something Orange 差別せずには生きていけないという無様。 - Something Orange

【SomethingOrange生放送:「ノーボーダー」について その1】(音声)
http://www.websphinx.net/mv/radio/somethingOrange-100307-1.mp3

【SomethingOrange生放送:「ノーボーダー」について その2】(音声)
http://www.websphinx.net/mv/radio/somethingOrange-100307-2.mp3

【「分らなくても楽しいよね」という話】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/41aae9d1d7e6cb30711cc0cb515e655b

海燕さんが最近提唱した「ノーボーダー」の話題について、おたく側から観えるもの話をいろいろさせてもらいました。それでその中の話題で出てきた「無様」に関する話をもう一歩深く文章で書き起こして起きたいなと思い、ちょっと頭の中を整理していたのですが、これがなかなかどこから書いたものかまとまらなかった。

そんな所、ニコ生をご一緒したsajikiさんと、それからsajikiさんの友人LeQさんからスカイプを通して声を掛けられて(※すっと、声を掛けて来て下さって、嬉しかったのですが、スカイプ導入の恩恵というか、このアクションの軽さが「ノーボーダー」の話の肝のような気がするのですが、それはまた別の話というか海燕さんにパス(´・ω・`))ニコ生での話/疑問点をもう少し聞かせて欲しいと。…で、「無様」の話をして欲しいと言われて、ちょうど頭の中の整理中だったので、思わずその場で考えている事を、ドバドバ~~~~~!!と喋らせてもらいしまうました。思い返してみると……ぶっちゃけドン引きされてたような気がするし(´・ω・`) 何か質問の内容についてもまともに答えられてなかったような気がするのですが…(汗)まあ、すみません、というかありがとうございました。僕の方は書く方向が定まりましたので、ちょっと書き留めておこうと思います。


そもそも「無様」って何か?って言うと…

自分で貫こうとした事、決意した事を、自分の意志で曲げてしまう事を僕は「無様」と言っています。「ノーボーダー」の議論にあるように差別しないと決めたのに、どうしても差別してしまうのだとしたら、それは「無様」なんでしょうね。さらに、差別しているにも関わらず自分は差別していないと思い込んでいたなら、もっと、ひどく「無様」という事になるでしょうね。自分が「無様」を認識できるのは、それに気づいた時だけですが。
その意味で「無様」には、「さらしていい無様」と「さらしてはいけない無様」があるとは思います。ここでの話は最終的に「さらしていい無様」の話にまとまると思いますが、「さらしてはいけない無様」の話は一々論うと長くなるので今回は割愛します。まあ、これはそれぞれの品性や美意識が問われる問題ではあるのでしょうね。

「無様」には目的によって様々なパターンがあるはずです。はずって言うのは、僕はあまり“他の目的”を突き詰めた事はないって事ですが、おそらく“目的”によって、さらす「無様」の形も違ってくるはずです。突き詰めていけば結局人間、何らかの「無様」はさらす事になるんじゃないかと思っているのですが………何の目的も持たなければ(この話に沿った)「無様」をさらす事はないですね?また、必ず実行できる目的しか持たなければ、やはり「無様」はさらさないですね。
しかし、人間そうそう目的を持たない事、即実行可能な事しか思わない事ってのは、できる事ではないと思う。真に一切の目的を持たない状態って“悟り”を開いたような状態じゃないかと思うし、「無様」をさらさない為に目的を持たない、あるいは実行可能な目的に限定する(持つ目的を制限する)なんて事を考えるとしたら本末転倒だと思う。その意味では「無様」をさらす事を恐れるのが最も「無様」と言えるかもしれません。

…で、こういうのは僕自身の目的を例に挙げて喋る方が分りやすいですね。僕の目的は「「物語」をより楽しむ事」です。(←これ、何よりも優先する第一目的か?と問われると、僕は「いや、そうではない。都度考える」と答えるのですが、まあ、それは別の話として…)これ、単純な話で、僕なんかは子供の頃、マンガ、アニメの面白さに衝撃を受けた人間なので、もっとマンガを読みたいと考えた。→次々読む。→そのうち、マンガをもっと楽しむにはマンガ以外の物にも接する(主に小説とか映画とかね)必要がある事に気がつく→それにも接する→その世界もまた楽しく、また実際にマンガを楽しむ事に還元できる事を知る。→これねえ…生い立ちを語ると絵に描いたようなオタク人生で、恥ずかしいったらないんですけどね(汗)まあ、ともかくそうこうする内に、僕の目的は単にマンガ、アニメから「「物語」をより楽しむ事」に調整されていったワケです。

そうやって「物語好き」として生きていたら、ある日ふと思ったんですよね。いや、単に本屋で知らないマンガを手にとってそのまま本棚に戻しただけなんですが…「あれ?今、俺なんでこのマンガ(物語)読もうとしなかったんだろう?」って。自分で自分に「マンガ好き」って言ってなかったっけ?しかも、より楽しみたい。もっと知りたい。と心に決めたのに、何で(読んでもいない)マンガ区別しているんだろう?…というかね。アニメとかでもそうですね。僕は今、リアルタイムで放送しているアニメを出来るだけ録って観ているのだけど、でも、同時にかなりのものを“切っている”。「サザエさん」とか「ドラえもん」とか「クレヨンしんちゃん」とか、まずほとんど観てないんですよね。…何で観ていないんだろう?って思うんですよね。「お前、アニメ沢山観るって決めてなかったっけ?」と。
マンガもね。学生時代は部室に行けば仲間が買ってきた多種の雑誌が勝手に散らばっていたのでそれを勝手に読んで行きました。しかし、仕事に就いて関東に引っ越して来た時にその環境は失われて……いろいろ考えて、ずっと続けていた週刊少年誌4誌に絞りました。お金が無いから…とか、時間がいっぱいいっぱいで……とか時々、言い訳言いますけどね(汗)打ち明けると、実際に本当に限界か?というと、そんな事ないです。まだ全然やれる。やれます。でも、様々な事を考えて、それを止めてしまう。“自分で決めた事”なのに……。

……「無様」だ。

お前という人間をふり返った時に、誰がどう観ても“それしかない”人間なのに、それがこの在り様か?と。誰かと比べたら多いとか少ないとかじゃない。お前自身が、自分で決めた事を本当に忠実に実行していると胸を張れるのか?と。
でも同時に「無様」だろうと何だろうと、それをさらしてやって行くしかないんですね。最初に言ったように「無様」を隠すためにそれを止めてしまうのでは本末転倒。だから、自分で決めた事も真っ当にできない無様をさらして、自分で決めた事をやっていくしかないんですよね。少なくとも僕の場合。

ただね。この「無様」を認識するようになってから、いや、正確にはその「無様をさらす決意」をしてから、非常に気持ちが落ち着くようになったというか……謙虚な気持ちになったんですよね。…………いやいやいやいや…何を疑ってるんですか?(汗)以前から言ってるでしょう?私はとても謙虚な人間だと!!(`・ω・´)だと!!

【観客として】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/099a5770473f38a2a6d6276784366ba1
あと「群盲象を撫でる」のたとえ話は気に入ってますw僕はこの世界の盲人なんだけど、それでもやっぱり“象”を知りたい。そして“象”を知りたいと思ったら、自分にとっての“象”がどんな物かを言葉にして発し、そして他の人にとっての“象”がどんな物か耳を傾ける。…それがどう考えても“象”を知る事の近道なんですね。

(↑)以前、僕がインターネットで「物語」の話題を募るサイト/「物語」をゆったりと楽しむ心(漫)を研ぎ澄ます(研)サイトとして作った「漫研」の立ち上げの際に書いた決意表明(もう12年前になるのかあ…)を、さらにこのブログの立ち上げ時に転載したものですが……何というか、理屈/ロジック的に到達した、つまり多少理屈先行な所があったこの決意文に対して、「無様」を知るようになってから(「漫研」立ち上げて少し後の話ですね、丁度、就職が決って働き出した頃だから)、ようやく心象もこれに収まった(少なくとも近しいものになった)というか…割りと腹くくった感覚にはなっているんですよね。

だから今は「無様」を知り、それと上手くつき合って行くのはけっこう有用な事だと思っていますし、これもまた「物語を愉楽」するために必要な姿勢なのだろうと位置づけて語っています。
どう有用かっていうのは、もう大分長くなったので、別の機会にしようと思います。…というか、この話はむしろ、別の話題に織り交ぜて述べて行く事になると思いますので、僕の話を聞く時には、ちょっと心に留めておいてくれるとありがたい…かもしれません。

「ノーボーダー」の話(SomethingOrange生放送)

2010年03月08日 | 物語愉楽論
【「漫研」インターネットラジオ】
http://www.websphinx.net/mv/

先日、参加した「SomethingOrange生放送」での録音データをアップしました。ここでした話って、僕がこのブログの「物語愉楽論」のベースにもなる話なので、また何処かで文章にも起こしておこうと思っています。…が、喋りを聞いている方が分りやすいかもしれませんw

【「分らなくても楽しいよね」という話】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/41aae9d1d7e6cb30711cc0cb515e655b

「分らなくても楽しいよね」という話

2010年03月06日 | 物語愉楽論
【「オタク」も「一般人」も死んだあとに。】- Something Orange

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100225/p1
先日の記事がGIGAZINEに取り上げられて、こんなコメントが付けられていた。

文化、オタクという枠組みでは定義しきれない「名前のない集団」が生まれつつあるのかもしれない

 「名前のない集団」、か。じっさいにそんなものが生まれつつあるのかどうか、それは疑問の多いところだが、少なくとも従来の「オタク」という概念では捉えきれない個人が存在するようになってきていることはたしかだと思う。

 ネットではしばしば「ライトオタク」という言葉が使用されているが、若い層の「オタク」の自意識はより年長の「オタク」たちとは相当異なったものになっているに違いない。

 もちろん、まだまだ偏見もあれば差別も、優越感も劣等感もあるにしろ、上の世代ほど過剰に「オタク」を意識しなくなっていることは事実なのではないか。

 結局、アニメにしろ、漫画にしろ、単なる趣味のひとつにしか過ぎないのである。それを意識しすぎず、素直に楽しむことは健全なことだと思う。その意味では、オタク文化に対して優越感を抱くことも劣等感を感じることも、同じひとつの価値観の鏡像に過ぎない。

 さて、ここでは仮にその「名前のない集団」が生まれつつあると仮定して、それに名前を付けてみることにしよう。「オタク」と「非オタク」の境界線を意識しないということから、「ノーボーダー」というのはどうだろう?

海燕さんの一連の「ノーボーダー」に関する提言に対して、何か自分の景観を述べたいな~と思っていたんですが、なかなか上手い言葉が思いつかなかったというか、ぼ~っと考えている間に随分時間が経ってしまった。ちょっと、何というか書き方に気をつけないと角が立つというか(汗)言いたいことと別の方向に話が行ってしまいそうな気がしていたんですよね。

たとえば既に海燕さんの記事にコメントしている人がいるように「それは、つまりオタクの事だろう」というか、ある程度のレベルに行ったオタクは当然、そこに到達している…って話があるんですよね。それはやっぱり「もっと楽しい物は無いか?」と探す/探求して行こうと考えた時に、ほぼ必然的に出てくる結論ではあると思います。これがどのレベルで実践できているか?って議論や検証(?)は当然あり、またこの話は看板を掲げるだけなら容易く、“実践”こそが重視されるべき問題であるんですが、ともかく指針や目標では一旦はそこに到達するハズです。

たとえば僕は「TANIZOKO」というコミュニティに参加していて(というか元から集まる仲間がいて、名称は後から付けたのですが)ここでは活動の一つとしてジャンルを超えた上映会を行っています。…といってもこの場合“上映できるもの”っていう縛りがありますがから、メディアは限定されてますけどね。それでも邦画、洋画、アニメ、特撮、実写ドラマ、など“上映できるもの”であるならその範囲を限定してはいません。たとえば毎回“お題”を設けていて、「カンフー・アクションもの」とその影響を受けた映像作品、「タイムトラベルもの」というかタイムパラドックスをネタにした映像作品、「怪獣対決もの」、「マカロニウェスタン」…と、その影響を受けた時代劇……なんていうw一風変ったネタにする事もありますね。このブログでも時々、そこで扱っているネタを記事にしていると思います。

境界を設けないといっても今の話だけだと映像作品に“限って”いるし、範囲的にはまだ“オタク”というレンジを出るものでなないよね(無論、このメンバーはマンガや小説にもボーダーは設けていないです。しかし、それもまだオタクのレンジ内と言えるかもしれない)…という指摘もあるでしょうけどね。また、この「ノーボーダー」の議論はこのレベルに留まらない、もっともっともっと広い範囲を指すものだと思われ“言葉尻”は同じでも、おそらく旧来のオタク層が到達する「境界を設けない話」とは違うものじゃないか…そういう直観があります。

…で、僕自身はもうどうにも“古いオタク”に過ぎない(「境界を持たない」といってもどうしてもオタク的な思考法になる)人間なんですが、それでもその“差”について語れる部分はあるんじゃないかと考えました。まあ、そこらへんの流れで本日のニコ生に参加させてもらう事になったんですが、こう文章で書くと世代分断(実際、世代差を語っているんですけどね。ここらへん難しい)みたいになるのを口で喋るともう少し緩和した言い方もできるかな?とか考えています。



…で、実はこの話。以前からGiGiさんがいろいろレスを打っていて、実はGiGiさんの話で「ああ、成る程。そういう事か」と思う事が沢山ありました。少なくともGiGiさんがこの「ノーボーダー」の議論を「それはニコ厨の事だ」と言う流れはよく分るんですよね。

【世界はそれをニコ厨と呼ぶんだぜ】-未来私考
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20100226/1267159138

【もうニコ厨でよいんじゃないだろうか】-未来私考
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20081228/1230456050

…というかおそらくGiGiさん自身がこの話の実情にマッチしている部分が大きい(本人も自覚的)。たとえば僕ら「漫研」が扱う話題に「情報圧縮論」というのがあるんですが、これ、ここで詳しく説明するのは止めておきますが、僕が「物語」の定型や習慣から来る…つまりある程度の経験なり知識なりを必要とする圧縮の話から始めようとする事に対して、GiGiさんは「そういうものを知らなくても解凍できる」という話に拘った事があるんですね。…で、僕は「確かにそういう技術もあるだろうけど、僕はそれだけに限定するつもりはないよ。あくまであらゆる手段を講じて圧縮して先を描くって話だからね」と答えていた。

それで僕は「情報圧縮論」のサンプルとなる話として「情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです」という記事を書いた事があります。

【情報圧縮論:やる夫が徳川家康になるようです】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/135e913ad65b8e70a5107cd716652c2c

文字通り大河の如く現れ消える戦国武将たちを、マンガやゲームの登場人物達をそのまんま流用する事で、その人物の説明に要する時間を「圧縮」して大河ドラマを大河のままに描ききってしまった傑作だと思っているのですが。この時もGiGiさんは、

「(それが)分らなくても、楽しいよね」

…という話をしているんですよね。僕は戦国武将たちの生涯とそれに符合させる形であらゆるジャンルの登場人物たちを持ってくるキャスティングの妙などを語っていたのですけど、GiGiさんは「それらを知らなくてもこの話は楽しい」という話をしている。それで僕は“そういうオタク”だから、当然こう答えている。「それはそうだね。…でもね、分った方がより楽しよね?」とw

最近もすごく似たような事がありました。いや、ほぼ全く同じ話だったと言っていい。

【【第4回MMD杯本選】ミクトラ】
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9689271



「らき☆すた」のOP「もってけセーラー服」に合わせてウルトラ怪獣(主に第一期)たちが踊るこの動画、僕は大好き…というか特撮オタクなんで当然出てくる怪獣は一通り分る。…で、その「らき☆すた」OPの絵コンテに対して、どの怪獣をチョイスして合わせるのか、そこらへんの妙を語っていたりしたんですけど、そこでもGiGiさん(特撮オタクではないよね?w)は、

「(それが)分らなくても、楽しいよね」

…という話をするワケですw本当に全く同じだw…そして当然、僕はこう答えるワケですw「それはそうだね。…でもね、分った方がより楽しよね?」とwこの考え方、僕自身は今も変らないし僕の「物語」を「愉楽する」事に対する姿勢を示しているつもりです。それ故、この時はGiGiさんの主張は文字通り歯牙にもかけず、ほとんどスルーだったのですが…今、この「ノーボーダー」の議論を眺めて(また、その話に熱心なGiGiさんお主張を読んで)いると色々分って来た事がある。

それは「分らなくても楽しい」も、また「楽しい」に違いない事なんだなあ…と言えばいいのか。僕は“そういうオタク”だから、一旦肯定した後、必ず「~でもね」と、その肯定を打ち消す「言葉」を発していました。分らなくても楽しい…それはその通りだろう。当然そうだろう。…でもね!と。それは肯定してしまっているが故に起こる見落としというか……最初に行った「楽しい」→「肯く」という認識をものすご~~~く、軽く観てしまったのではないかと思うんですよね。…いや、確かに“ここ”はもう少ししっかり考えるべき所だったかもしれないと今は思っているんです。(←考えるべき…とか言い出すあたりがオタク的)

繰り返しますが、多分、僕自身が上の姿勢を翻す事はないと思います。絶対に…とは言いません。しかし長年の習慣と経験則として僕は“ここ”が性に合っているし、最早そういう“形”の生き物(その思考法から逃れられない物)になってしまっているから。また「…でもね。分った方がより楽しいよね」これは理屈上は正しい「言葉」だと思っています。「境を作らずに楽しむ」とはつまりそういう事でしょう。

…でもねw   「分る」、「分るようになる」努力をするという事は長く“その場に留まる事”を意味するんですよね。そしてそれは選択にしろ決意にしろ、“そこに縛られる事”を意味します。

僕のさらせる「無様」、今さらしている「無様」はもうこれとしか言いようがないwでも多分、今の「ノーボーダー」の話はもっと軽やかなフットワークの軽いもの。あるいは上掲した「ミクトラ」動画でふっとマイケルのダンス(「Beat it」)を混ぜたりしていますが(ある意味脈絡はない)、そういう“遠くにとどくもの”。とにかく触れるだけでも“触れるもの”という気がしています。ここらへん海燕さんとスカイプで話した時は、僕の話は「楽しむ事に拘る話」、でもノーボーダーの話は「拘らずに楽しむ話」なんじゃないか?と言ったフレーズを上げていたりしたのですけどね。まあ、そこらへんの話を詰めて、様々な事を「愉楽して」行く下地にできるといいなあ~と考えています。

NPC劇場とメアリー・スー

2010年02月03日 | 物語愉楽論
【NPC劇場】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8a5bb4f5fb35e2603c7d8588edfa13ca

先日、上記の「NPC劇場」についての記事を書いたところ、いずみのさんから、僕が述懐している昔から考えると、TRPGの様相は大分変ってきているという説明のうえ、「NPC劇場」はTRPGの俗語として時代遅れなところがあるし、それだけでなく物語全般の話に「NPC」というゲーム的な概念が当てはめられるわけでもないので、物語の用語として使うにはそぐわないと思います。という指摘を受けました。
…確かに僕がTRPGをやっていたのは昔なんで(汗)、今だとそこらへん大分違って来ているんだろうなあ…と思います。しかし、まあ僕もこの言葉を10数年来使ってきたものなんで、そうそう変えられるもんでもないですしね(汗)この言葉で通じる人もいますし、「漫研」では上記リンクの記事にある意味合いでこの言葉を使って行こうと思います。

それとは別に、真上さんの方からは今川監督の“あれ”はむしろメアリー・スーじゃないか?と言った指摘がありました。メアリー・スーは、まあ一般に有る言葉と言っていいでしょうね。意味は(↓)こんな感じです。

【メアリー・スー@Wikipedia】
http://ja.wikipedia.org/wiki/Mary_Sue
メアリー・スーは、簡素にいえば、二次創作の作者が描く、作者の分身であるオリジナルキャラクターを指す。作者の「目立ちたい、ちやほやされたい」という願望が露骨に表れた、原作のストーリー・世界観やキャラクターの性格設定を根本的に破綻させるキャラクターのことである[要出典]。しかし、単なるトラブルメイカー的な場を乱す情けないキャラクター(トリックスター)とは違う。他のキャラクターよりも英雄的な活躍をし、自分ひとりであらゆることをやってのけ、なんでも解決する。その万能性は、物語の終盤でデウス・エクス・マキナとしても機能し得るが、その段階にすら至らず、物語が未完のまま放置されることも少なくない。



…真上さんの指摘は狭義においては違う気がするんですけどねwなかなか「面白い」指摘だなあ…と思いまして。僕の感覚で言えば“メアリー・スー”ってのはある完成された作品世界に入り込んだ一点異分子的なものであって、最近だとTVアニメ「みなみけ おかわり」で登場したオリジナルキャラ・冬木くんなんかが、ネットではそのキャラ配置の意味を測りかねてメアリー・スーの批判を受けていたというのが記憶に新しいです。あの作品内の冬木くんをどう評価するか?という問題で、彼をメアリー・スーに位置づけるのはその是非はともかくとして視点として面白い。非常に遠慮がちなキャラなんで(それこそ作品を壊さぬようにビクついている感さえある)それをメアリー・スーってのもどうか?wと思う半面、視聴者にそのキャラの意図が伝わらないという意味においては妥当なものにも思えます。

しかし「ジャイアント・ロボ」はメアリー・スーとしてはどうか?と言うと。横山光輝作品世界から観た今川翻案というか永井豪作品世界から観た今川翻案というか、そこらへんの評価の話をすると今川監督の“あれ”は物語世界自体をリイマジネーションしているんで、何かメアリー・スーなキャラクターがいるとは言えないように思います。仮にアルベルトがメアリー・スーだとして、今川監督は彼が居てもいい世界、違和感のない世界まで再構築しなおしてしまっているんですよね。……だから、その作品世界全部がメアリー・スーなんだよおおおおおおお!!!…っていう「広義」の指摘は面白いとは思いますw結局の所、メアリー・スーの由来は「受け手」が信じる作品世界~これは信じているからと言って必ずしも正しい事を意味しないのですが本人としてはそうイメージするという意味~を穿たれた憤りから用意された「言葉」なので、その由来に「乗る」限り、この広義の運用は無いとは言い切れないものがあります。

ちょっと、ここで、前の記事の論点を片付けますが…。僕の「Gロボ」のアルベルトの指摘は、横山光輝世界に対する違和感を述べているわけではなくって、今川作品としての「Gロボ」の違和感を指しています。ストーリー面オンリーから考えてもクライマックスでのアルベルトの活躍っていうのは、Gロボの主役ロボットの面目や、大作少年の主人公としての成長に対して未昇華な部分を残してしまうのではないか?という指摘なんで、この場合、今川監督が今川作品に対して違和感を生み出しても、まあメアリー・スーとは言わないかな?とw
ただ、今川監督の場合…いや、大体において名を成している多くの作品の場合、その“芸風”を楽しむんだよ!って逆説が常にあるワケで、ここらへんの違和感を単純にネガティブ評価だけで片付けるわけには行かないでしょうね。ここらへんの議論はまた難しい所なんですが、物語構造の組み方に対する“ズレ”……のようなものは、それを「楽しむ」にしろ、そうでないにしろ意識して押えておいた方がいいかなと思っています。

さて、今回俎上に上げた「NPC劇場」と「メアリー・スー」ですが、いずれも「作り手」と「受け手」の間にあるギャップから出てきている言葉で、かつ「受け手」側からの作品世界に対する“逆襲”の意味を持つ言葉でもあります。
どういう事かと言うと、まず「NPC劇場」をやっている「作り手」も、「メアリー・スー」を出している「作り手」も、多くの場合その意識はないんですよね。確信犯的な事もあるでしょうが一応、それは希という事にできると思います。上述のWikiの記述の中でもメアリー・スーを規定する事の難しさが語られていますが、二次創作でオリジナル・キャラクターを出せば即ちメアリー・スーではない。詰らなくって、作品世界にヒビを入れていないとメアリー・スーと言うのは難しい。「NPC劇場」もそれは同じで主人公軸(「受け手」の視点がある軸)を外れて別のキャラの展開が起これば即「NPC劇場」と言うワケではないんですよね。では、本当に詰らないのか?本当に作品世界にヒビが入ったのか?本当に物語/テーマが淀んだか?というとそれは個々の事例に合わせて都度都度の長い議論が必要でしょう。

しかし、同時に「受け手」側に何らかの物語作法として信じるもの、作品世界として信じるもの、が在るであろう事。あるいは物語に接するうちにそういった物が自然発生してくるうであろう事も事実なんですよね。だから、本来的には「作り手」側がそうするならは是非も無い事であるはずの物語に対して、「受け手」側からの“逆襲”が起こる。「この作品はそうではない」と。「この物語はそうではない」と。それが作品全体を覆う「何か違う?」という雰囲気みたいな漠然としたものだと、指摘するポイントも個々の事例や演出の言及になったりするのですが、これが任意のキャラクターへの偏愛(と、そのキャラクターに与えられる主力な展開)という形で顕われると指摘としては、かなり分りやすい…というか文字通り“体現化”された対象になっていると言う事ですw

「物語愉楽論」的に言えば自分の信じる(イメージする)作品世界なるものが、作品を「愉楽する」事を阻害するなら、それは一度忘れて崩し、もう一度「作り手」の作品世界、または作品世界の実相そのものに「乗る」事を正道としているのですけどね。だからと言って“個人感覚”に拠り、“普通感覚”に拠り、そうやって形成される作品イメージというものが、また、そこで「作り手」(個人感覚)と「受け手」(普通感覚)から生じているギャップを、無かったものとして別の「愉しめる道」が見つかればそちら一遍に拠ってしまうというのは、作品の実相から遠ざかる行為でしょう。ここらへんは難しい。都度、考えながら進む感じです。

NPC劇場

2010年01月27日 | 物語愉楽論
「NPC劇場」というのは、テーブルトークRPGの用語です。……用語?用語というかスラングですねかな?元々、RPGで編まれる“物語”の登場人物(キャラクター)には二種類あります。プレーヤーが“演じる”登場人物=PC(プレーヤー・キャラクター)と、それにゲームマスターが“演じる”PC以外の登場人物たち=NPC(ノン・プレーヤー・キャラクター)がそれです。

それら二種類のキャラクターのPCを主軸に、NPCを織り交ぜて物語を編んでいくのがTRPGというゲームなんですが、時にゲーム・マスターによって作られる物語が一方的な展開で、かつPCの活躍を必須としない、そういうシナリオが用意され強行されてしまう時があります。まあ、これはシナリオの内容にも因るちゃあ因るのですが、これらの事象が繰り返されると大抵の場合、プレーヤーたちはウンザリしてしまうでしょう。それで「ゲーム・マスターはくれぐれもNPC劇場にはならないように…」と戒めとして用意された「言葉」なんですよね。

ちょっとたとえを出すと、一般汎用的なファンタジーRPGの場合、ゲームのスタート時大抵PCはレベルが低い所からスタートします。通常、これが次第にレベルアップして行きそれによって体験して行く方式がとられるワケですが…。
この時点で実はゲーム・マスターは「世界を破滅の危機から救う話」がやりたくて仕方なくて、そういうシナリオを用意していたとしましょう。すると、どうなるか?まあ、当然ながらPCのパーティだけではレベルが低すぎてとうてい世界なんて救えない。すると、どうなるか?まあ、施策の一つは強力なマジック・アイテムなどを与えてPCを強引に強化する事ですね。しかし、これをするとちょっと問題が起こる事もある。というのは強力なアイテムを持たせてもPCパーティが世界を救う方向に動いてくれるとは限らない、というかむしろ世界を破滅方向というか、ぶっちゃけ悪事に使って行く事もあるワケです。
※ …いや、まあ、世界を救うシナリオがしたいなら最初にセッションを組む前にそれを宣言して、その意を汲んでくれる(世界を救う範囲内でのプレイを心がける)事を確認の上、充分なレベルを与えてスタートするのが正しいのですけどねw基本、完全自由なプレイを目的として集まった際に、あまり自由度のないシナリオを書くヤクザなゲームマスターのたとえ話なんで……当然、プレーヤーもヤクザな対応したり…という、まああくまでたとえとしての悪いプレイの話ですね。

そうするともう一つの施策として、用心棒をつける…というのがあります。ここでNPCというヤツが登場します。こいつにPCパーティよりも高いレベルを与えて、それこそ束になっても勝てないようなレベルを与えて、シナリオを強引に“そっち”に誘導する。…まあ、ぶっちゃけ言うと、この用心棒(NPC)が英雄になってしまうワケですね。そうしてPCパーティはせいぜいが、英雄のお供、その他大勢になってしまう。そうすると、もうPCパーティはそのシナリオあんまり面白くないんですよね。だって、その物語を“決める”場面で自分が舞台の上にいないような“NPCが演じる劇場”の観客のようになってしまうから、プレイしている意味が薄れてしまう。NPCが「強く」てPCの物語でなくなってしまう。



こういう状況を「NPC劇場」と言うワケですが…。今は、どうなんでしょうね?もう、かなりこなれて来てこういう悪いシナリオやプレイは躱すようなノウハウがあるようにも思いますが…。昔は慣れない事もあって、勝手なゲーム・マスター、勝手なプレイヤーはそこらじゅうにいました。…つか、僕がゲームマスターやって最初に組んだシナリオはこんな感じなんだけどな!(`・ω・´)
また、日本で一番知られているであろうTRPGのリプレイ「ロードス島戦記」も初期の段階では、この「NPC劇場」をやらかしているはずです。その後、様々なメディアミックスを経て、歴史絵巻的な視点にブラッシュアップされているワケですが。英雄戦争の件り、特に皇帝ベルドとファーン王の対決=両者ともNPC、なんてあたりは、あそこで決着がついてさらにでてくるのまでカシュー王=NPCというかなり“観ているだけ状態”になった事が想像されます。
まあ、雑兵として、その戦闘のダイスは振っていたでしょうから飽きはなかったでしょうけど、レギュラー・キャラじゃなくっていつ死んでもおかしくない兵士Aに近いような枯れたロール・プレイを楽しむ事にはなっていた……と言えなくもないワケです。(まあ、もっと見せ場が与えられた事は知っていますけど、敢えて落として言っている)そういう編まれた物語に対してあまり中心でない脇のさらに外に追いやられてしまう状況を「NPC劇場」と。

…で、これ。「漫研」では特にPCもNPCもない、普通の「物語」を評する時に使ったりする事があります。使えそうな「言葉」だったので流用したんですね。当然、「物語」にはPCもNPCもいない(あるいは明確に分けられない)ので「受け手」が何をそう評するか?に対して解釈の幅が出てくる事ではあるんですが。でも、まあ、単純に言えば任意のキャラ……おそらくは「作り手」にすっごく気に入られたキャラが、フォワードで活躍して主人公が近い位置にいるにも関わらず、ほとんど“動いて”いない状態だったりすると「あ、「NPC劇場」になってる」とか言ったりしますね。

要は「受け手」の視点として用意されたキャラとは別のキャラで物語が動いていって、視点が置いてけぼりにされると視点がぼやけるのではないか?という予想のもとに見立てをするのですが。逆に「作り手」が視点のつもりで動かしていても「受け手」にその意識がなければ「NPC劇場」に観える…という現象が起こるでしょうし、主人公(視点)に変な「回らない」設定をつけてしまったりして、後から出した「回る」キャラの使い勝手に依れてしまって「受け手」を混乱させる…なんて事もあります。当然「受け手」の問題(特性)だってある。まあ、なかなかそう一概にはくくれない事でもありますね。



ちょっと何かサンプルとなる作品を上げてみようかと考えたのですが……有名所はけっこう、そこらへんは“味”のようなものになっていて“依れ”とか“混乱”みたいなものは飛び抜けてしまっている場合が多いので、なかなか難しいですね(汗)それでも今川泰宏監督の「ジャイアントロボ~地球が静止する日~」は分りやすいかな?と考えました。
この話、世界征服を狙う悪の組織BF団と、それを阻止すべく活躍する国際警察機構の戦いの中で、巨大な大怪球を使って地球のエネルギー活動を全て停止させてしまおうとする作戦“地球静止作戦”の顛末を描いたものなんですが…。まあ、観てみると分るんですが、今川監督あきらかに戴宗や衝撃のアルベルトをはじめとした超能力エキスパート達の事が気に入っていて、この作品のタイトル…つまり大主役のジャイアントロボや他の巨大ロボたちの事なんて二の次!三の次!ってな感じなんですよw

とてつもなく巨大で強力な“大怪球フォーグラー”に最初ジャイアントロボはあえなく敗れ去りまして……いやいや!その後大反撃かと思いきや、最後のクライマックスになってパワーアップしてさえも、どうもこの大怪球にはやっぱり歯が立たずそのまま蒸発させられそうになるんです。………そこに敵幹部の衝撃のアルベルトが割って入って気力全開でこの大怪球の機能を停止させてしまいます。そこで勝負が決まっちゃうんですが……じゃあ、ジャイアントロボの面目って何?とか思っちゃうわけですよwそれどころか観ていると、BF団の最高幹部である“十傑集”や国際警察機構の最高幹部である“九大天王”の内何人かは確実に大怪球を破壊できそうなんですよね。多分、彼等が本気になればこの戦いの決着はあっという間についてしまう。……それって何なの?とw

いや、いろいろ言いたいこともあるけど「ジャイアントロボ~地球が静止する日~」はなかなか「楽しい」作品ではあるんですよ。はっきり言って僕も超能力エキスパートの皆さんは大好きです。でも、作品観ていて今川監督は衝撃のアルベルトが大好き!!ってメッセージはめちゃめちゃ伝わってくるんですが(他のエキスパートが好きな気持ちも含めて)、ジャイアントロボと、そして主人公の草間大作くんの物語として観た場合、その描線はかなりぼやけてしまっている気がします。大作くんが何かを決断しても、その決断が昇華される前にアルベルトのおっさんが割って入って“いいところ”をかっさらってしまった。…そういう印象で、それはこの作品が「NPC劇場」をしていたって事だと思うんですよね。

まあ、そうは言っても、もうこれって今川監督のある種の“芸風”になっていて…その後、この人は「ガンダムの意味は?」と思わせてしまう「Gガンダム」の東方不敗や、「機械獣の意味は?」と思わせてしまう「今川マジンガー」のあしゅら男爵なんかを登場させて、観客を沸かせているんで、当然その走りであるアルベルトを「そこを「楽しむ」んだよ!」って話もあるんですけどね。つか、僕もアルベルトは大好きですしね。ただ、同時に「NPC劇場」になってない?とそういう角度の話もあるって事ですね。

「NPC劇場」は「作り手」が妙になにかのキャラにのめり込んだりして「受け手」側との意識にギャップが生まれると出てくるもののようです。上述したように「作り手」がそのキャラクターをめっちゃくちゃ気に入っている事はよく伝わってくるんですが、それが過ぎて用意していた“はず”の本筋を阻害してしまったりしはじめると、少なくとも元のテーマはぼやけて来てしまうようです。…まあ、それはそれで「面白く」なったりするのが、物語を「愉楽する事」の「愉しい」所ではあるんですけどね。「NPC劇場」だから駄目…ではなく、そこは一旦立ち止まって考える必要がありますが。ここらへん現象に対して意識があると、より「愉しめる」のではないかと思います。

「物語」を愛する者 [2]

2010年01月06日 | 物語愉楽論


去年の暮れに本の整理をしていたらこんな本が出てきました。1990年代前半に、マンガの主に性表現に対する有害指定条例が全国的に施行され、さらに国会での法整備の検討にまで到った、その表現側と規制側の攻防というか…交渉の経緯を、規制反対側からの意見(賛成、中立の意見なども見られるが大部分は反対側)でまとめた本です。
当時、少年マンガが突然、自治体から“有害”指定を受けて、少年向けなのに少年に販売できなくなってしまうという“恐い”事態に、各少年誌は大あわてになって半ばヒステリックに自主規制をかけるようになりました。
いや、そもそも規制側がヒステリックだったんですけどね。これはちょっとおかしいんじゃない?と首を傾げたくなるようなものまで槍玉にあげていたし、またこの頃の出版側は非常に戦う姿勢が希薄で……これの少し前に「黒人差別をなくす会問題」というのがあるのですが…ここで詳しい経緯を語るのは避けますが、ともすると手塚治虫先生の作品でさえ発禁・修正対象となろうとしていたのに、まともに戦わず譲歩や自粛を繰り返し、当時、僕は非常に憤りの感情を禁じ得なかった。ああ…そういえば筒井康隆先生の「断筆宣言」もこの頃(1993年)ですね。今、また同じような問題が起こったら、出版社は今度は多少まともに戦ってくれるのでしょうかねえ…(遠い目)

まあ、そんなワケで、ちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生、藤子不二雄A先生、里中満智子先生、永井豪先生という錚々たるメンツを筆頭に多数のマンガ家(とマンガ編集者)が集まってそれぞれの意見を述べているいのが、この「誌外戦」です。ちょっと長々と前振りしてしまいましたが、何がしたいのかというと、この本の中で非常に僕の胸を打った文章が2本あるので、それを紹介したかったんです。(←そ、そうだったのか…!)

オバさんたちへの恋唄     村生ミオ

ほんとうに“有害”な漫画が描けたら、死んでもいいと思っている。

読んだ人の一生を狂わせるような、そんな凄まじい影響力を持つ超有害な作品が描けるなら。しかし、僕には見果てぬ夢に終わりそうだが…。

それにしても、日本はいつからこんなすごい漫画家だらけになったのだろう!?書店に行って本棚を見れば、有害指定の漫画だらけだ。

冗談じゃないぜ、オバさん達。いくら推理小説を読み過ぎたからって、殺人者になれないように、スケベ漫画を1万冊読んだって性犯罪者なんかになれないぜ。

推理小説なんか読まなくたって、殺人をやる奴はやる。

もし、スケベ本を読んだ奴が性犯罪者になるんだったら、日本の人口の半分は性犯罪者と、その予備軍だ。

この世の中に有害な作品なんてないんだぜ、オバさん達。

もし、あるといしたら素晴らし作品と、くだらない作品の二種類だけだ。

そして、真に有害な作品は、おそらくきっと素晴らしい作品群の中にある。

僕の作品“1分16秒08”が有害指定を受けた。何という光栄だろう。

だけど残念ながら、この作品は有害指定を受けるほど素晴らしい作品じゃない。描いている僕が言っているんだから、これは確かだ。残念だけど、今この場を借りて、この作品の有害指定は返上しよう。

だけど、待っていてくれオバさん達。ボクは頑張り続け、いつかきっと人の一生を狂わせるような、素晴らしく有害な作品を描いてみせる。

その時こど、僕の作品に自信をもって“有害”のレッテルを貼ってくれ、オバさん達。

この村生ミオ先生という人…あるいは「1分16秒08」という作品を知っている人なら分ると思いますが、この方、そんなに、いやかなり(汗)いやいやいやさほど?(汗)大したマンガ家さんではありませんw(失礼!)でも、そんなマンガ家さんだからこそ「ほんとうに“有害”な漫画が描けたら、死んでもいいと思っている」という有害な、人生を狂わせてしまうマンガ(物語)に対する渇望は、胸を打つものがあります。いい文章、今でも心に残っている文章です。……マンガ家なのにマンガじゃなくて文章で感動させちゃうのはどうなんだろう?とか冗談は言わないでおきますが…(´・ω・`)(←)それともう一本。

ジョージ秋山

表現の自由不自由は たとえば水車の如し

その形 半分は水流に従い 半分は水流に逆らって廻る

その形 全部水中に入れば廻らずして流れる

又 水を離れれば廻ることなし

自由とは水車が水を離れたるが如し

不自由とは水車を水中に沈めたるが如し

世間は中庸を尊む

水車の中庸は よろしき程に水中に入れて廻るにあり

不自由がなければ自由もなしと知り

いたずらに表現の自由を主張するは足るを知らん

増上漫と知るべし

ジョージ秋山先生は、マンガ史にその名を残す“有害な”マンガ家と言えると思います。先ほどの“人生を狂わせる”マンガを描く人です。「銭ゲバ」なんて(代表作ですが“有害さ”(?)としては)まだ序の口で、産んだ赤ん坊を母親が焼いて食おうとするという超問題作「アシュラ」や、擬人化された動物にかこつけて殺戮と強姦をし尽くしその地獄の中から愛を見出そうとする「ラブリン・モンロー」など、様々な問題作、一度読んだら逃れられないような衝撃を与える作品を世に送り出して来た人です。

この時の騒動でも「ラブリン・モンロー」が“有害指定”を受けています。ちょっと面白い事にこの「誌外戦」の中で、いしかわじゅん先生と村上知彦さんの対談があって。これは実際に有害指定を受けた作品に対して「これは別にエロくないだろ」とか、「これは内容的にエロは避けられないだろうに(なのに表現の自由を縛るのは如何なものか?)」なんて逆品評するような対談だったのですが、その中でほとんど唯一「これは言葉の意味本来の“有害”に当たるかもしれない」と言われていた作品が「ラブリン・モンロー」ですw…ちょっと、すげえよねw



しかし、この時の煽りをくらってというか「ラブリン・モンロー」は現在、絶版状態、伝説的な人気を持っていると思うのですが、今日まで復刻もされていません。(僕、一応1~10巻までは手に入れたんですけどね…)第一部完で全13巻だそうで……う~ん、多分、もう見つからんだろうなあ…って感じです。
しかし、そのジョージ秋山先生だからこそ「いたずらに表現の自由を主張するは足るを知らん」と言ってのけるのはシビれましたね。「誌外戦」は基本的には「表現の自由を守れ!!」の大合唱の本なのですが、いや、その戦い方が決して間違っているとは僕は思わないのですが、正面切って疑問を投げかけたのは、ざっと観て、大きくはこのジョージ秋山先生と、それと中島梓先生でした。それは「表現の自由っていうのは、そんなに大事なものなのか?」という疑問とも言えます。一連の抵抗や戦いの中で、こういう疑問を持つというのは、非常にヤバい…単純に言えば敗因に成りかねないんですが、しかし、こういう疑問を失ってしまったらそもそもの表現者としての翼を一つ失ってしまったようなものなんですよね。
実は僕も「表現の自由」という言葉があまり好きではありません。好きではないというか…あまり使いたくない言葉なんですよね。この言葉は少なくとも現状は妙な“力”を持っていて相手を思考停止させる言葉だからです。「言葉狩り」なんかも力を持ってきて、いわゆるレッテル効果が期待できる言葉になっていますね。まあ、結局のところ、思考停止する方が悪い…ってワケでもないですが、必要とあれば使うんですけどね(汗)

しかし、このエントリーは、これまで述べてきた「誌外戦」に記録されたような事が起こった時に「あなたは、何で「物語」を守りたいのか?」という問いに答えるような意味があって。それは畢竟「物語が好きだから」であって、決して「表現の自由を守りたいから」ではないんですよね。この本の論者の何人かは「言論の自由がない社会になる」とか「戦前のようになる」とか言葉巧みに“正義”を持ち込んで来て論陣を張っています。
戦い方として間違いではないのでしょう。僕も何事にも話し合いが通じるワケではない…いや、話し合っているように見えて、その実話し合ってなどいない状態などいくらでもあると思うから「言論の自由を守れ!」とかww「憲法で保証されているぞ!」とかねww(´・ω・`)それが有効なら使った方がいいのだろうと、そう思います。(´・ω・`)……しかし、ここだけの話、それは僕にしてみれば、どうにも胡散臭い事です。何というか話の通じないドブに自分も手を突っ込んだような、あるいは「物語を守りたい」だけなのに話をすり替えたような気分の悪さを感じます。

だから、そんな打算などお構いなしに「俺は本当の意味で有害なものを描きたい!」とマンガ(物語)への愛を隠さずに吐露している村生ミオ先生の言葉に感動し、「表現の自由とか、それは驕りだ!」と言い放つジョージ秋山先生にシビれたんでしょう。
僕も「物語」を愛する者はやはりその姿勢だと思う。「物語」の楽しさを語り、「物語」の豊かさを語り、その豊かさは一つの価値観などで縛られるものではない事を語る。それらを語らう事によって、物語を愛する人を増やし、物語を守る事を助け、かつて別の価値観の力によってこの世から観られなくなった「物語」が再び日の目を見るような、そういう世界になればなあ~と思いながら、今日も「物語」に接しています。

「物語」を愛する者

2009年12月22日 | 物語愉楽論
【ロマンティスト宣言】
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20091213/p1

【「坂の上の雲」日本人なら一度は触れて欲しい物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/3b6faa922eec158b89c0e4f65c711feb

【「のらくろ」豚の国大戦争編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/c213e7526f8d40d76c1e59888058822a

海燕さんの「Something Orange」で、僕の「坂の上の雲」に関する記事を取上げてもらったので、この話題についてもう少し語っておこうかなと考えました。…そう考えてから、もう随分時間が経ってしまったワケですが…orz 気を取り直しつつ綴ってみたいと思います。

まず、海燕さんが解説してくれたように、先の記事は、ひとつの史観、ひとつの政治思想を墨守しようとするような記事ではなく、むしろどのような思想からも、「物語」の豊かさを守り抜きたいと考えて書いたものです。また、それがより本質的な意味において、共感や賛同を得る事が難しい一般的感覚から幾分離れたものである事も理解しています。それは何かっていうと僕は「ロマンティスト宣言」の下の引用のような、「病」あるいは「化け物」という部分に共感するんですよね。
ぼくの魂は、それでは満たされえない。ぼくの病は、それほどに重い、と。

けっきょくのところ、ぼくは単なる「読みたがり」の化け物、幼く、未熟な魂を抱えた、「もっと」の化身に他ならぬのかもしれぬ。

ここから先はあまり他の人を巻き込むべきではないのかもしれませんが……海燕さんや僭越ながら僕は、「言葉」を操る事がある一定のレベルに達している「言葉使い」だと思っています。だから、あたかも自分が正しいかのような「言葉」を綴れてしまうのですが(それは自分を作為的に正当化しようとして書いているワケではなくって、自分の考えを他者に理解して欲しくって「言葉」を選ぶと自然とそうなる…って意味ですが)本当の所、それは「病」であり「化け物」の感覚に過ぎないのですよね。
歴史観や思想に左右されない…なんて程度の話なら、まだ何とな~く正しそうな話を語れていられるのですがwさらに、どんどん話を突き詰めて行くとどうしようもなく“人でなし”の感性が剥き出しになってきます。そして僕は、それが“人でなし”だと言うなら、是非“人でなし”になりたい、“化け物”になりたいのだと常々思って生きています。

…と、ここまで書いたところで「この厨二のナルシストは何を言っているんだ?w自分を特別だとでも言いたいのか?」と笑う人もいるかもしれませんけどね。もし、僕のこの感覚が“普通”のものなら、それはそれで構いません。“普通”で誰もが感じている事なら、どうか、その誰もが感じる感覚のままに「物語」たちの在り方を守ってあげて欲しいです。一連の記事の目的はそれです。

「トムとジェリー」というアニメがあります。僕はこのアニメが大好きで、子供の頃僕の地方ではこのアニメが繰り返し繰り返し放送されていたのですが、全く飽きる事なくその繰り返しに付合い続けました。そして今、手元にレーザーディスクがあるのですが、大人になって観ると、改めてその表情の豊かさ、ポーズの愉快さ、描線の美しさ、動画の細やかさに感動して涙をこぼす程です。しかし、その表現の一部は規制され、今はもう観る事はできません。ヤカンに顔をツッコムと爆発して顔が黒人になる。トムのシッポに火がつくと一気に燃え広がってインディアンになる。大きな鍋蓋がトムの上に落ちるとジャ~ンと銅鑼が鳴る音と共にトムが中国人になって現われる…こういった表現はもう観ることができません。それを思う時、僕の心は激しい哀しみと怒りで胸がいっぱいになります。もし、この気持ちを共感してもらえるなら嬉しい事この上ありません。

「ダビデの星」というマンガがあります。最近、ようやく文庫サイズで完全復刻されましたが、このマンガは復刻が企画される度に途中で“何らかのストップ”がかかって最後まで刊行されてこなかった作品です。でも僕はこの「物語」を愛しています。…内容は……ちょっと悩みましたが、すみません、今回のこの記事では“共感してもらう事”を優先して語るのを止めましょう。一言言えば、とても反社会的なマンガです。繰り返し潰される程に…。機会があったら読んでみて下さい。僕の“人でなし”具合が分ります。
このストップ…単に売れなくて立ち消えという可能性もあるのですが、それにしては復刊へのトライと途中ストップの回数が多すぎます。もし何らかの圧力でこれが行われていたとするなら、僕はそれをした者たちに激しい哀しみと怒りを感じます。もし、この気持ちを共感してもらえるなら嬉しい事この上ありません。

中には(良心的な?)「トムとジェリー」の話は分るけど、(反社会的な?)「ダビデの星」はダメだろ、とか言う人もいるかもしれません。しかし、僕はそもそも、そういうのが嫌!!なんです!!それが僕の“人でなし”だろうと“病”だろうとです!

僕のこのブログを読んでくれる人は、それぞれの見解に多少の差はあれ「物語」を愛している人たちだと思います。しかし、運良く僕が今感じている“哀しさ”を直接感じる事なく生きてきた人も多いかもしれません。現在に描かれている「物語」たちは、現在の価値観は大抵パスするでしょう、しかしそれも時代が変ってしまえば分らなくなります。そして“別の価値”を持つ人たちは確かに僕たちよりも多くいて、彼等は「物語」歪めたなどとは気付かない程無神経に「物語」を傷つけて行こうとします。

今、何をしろという事もありません。(僕も大した事をしているワケではない)しかし、この“戦い”がある事は是非、心に留めておいてもらいたいです。そして“何か”あった時は声を上げて守ってやって欲しいのです。「物語」を愛する者なら。