今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【時代劇】【マカロニ・ウェスタン】



『荒野の用心棒』(1975年)コンプリート。若山富三郎主演の時代劇…なんですが、マカロニ・ウェスタンの影響を受けまくっていて、無宿無法の輩が、徒党を組んで当たり前のように銃を持っている日本になっています(汗)治安が悪くなり過ぎたので、幕府は賞金稼ぎに頼るようになった……ってまんま西部劇ですね。

サブタイトルも時代劇らしからぬ、第3話『獄門台のガンマン』、第8話『紅いデッドライン』、第11話『宿場のガンスモーク』、第19話『謎のスーパーガン』などガンファイトな魅力のあふれたものになっています。
しかし、この時期、『隠密剣士』第一部とか、『荒野の素浪人』(主演・三船敏郎』とか、『荒野の用心棒』とか、モロに西部劇になっちゃってる時代劇がけっこうありますね。

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【必殺シリーズ】



『必殺渡し人』(1983年放映)コンプリート。渡し人は「三途の川の渡し人」という意味ですね。かつて、凄腕の殺し屋として名を馳せながらも、足を洗っていた“鏡の惣太”(中村雅俊)とけっして器量良しではないが情の厚い“お直”(藤山直美)の夫婦。第一話で、武家の一人息子の慰み者になった果てに記憶を失った…つまり、放送第一回の被害者・女性の“お沢”(西崎みどり)と夫婦になる駆け出しの殺し屋“大吉”(渡辺篤史)の、二組の夫婦の物語が印象に残るシリーズです。

惣太は表の稼業では、鏡磨き屋をやっていて……え~っと、鏡って基本女性が化粧に使うもので、そのお客の女衆に、美形というか二枚目というか、ともかく女好きのする男っぷりで、ご贔屓にしてもらって商売している男なんですが、そんなモテモテ男が、けっして美人とは言えないお直をなんで女房に選んだのか……って描写は特になかったですが、でも、そういう不自然さ…という程ではないんですがデコボコ夫婦な空気は描写の中で自然、醸し出されていますね。
しかし、それ故、互いのつながりの深さというか、愛情の深さ……いや、惣太は浮気は絶対しないのですが、妙にお直を邪険に扱っているような描写とかあるんですけどね(汗)逆に、そのそっけなさがいいというか、まあ「墓まで一緒感」があります。

しかし、惣太は彼女には自分の裏稼業を秘密にしていた。それが最終回で、突然の別れにつながります。大奥、ひいては将軍家を敵に回した渡し人たちは、江戸に居られなくなり逃亡を謀る。この時に、惣太はお直を置いて行ってしまう。
逆に大吉とお沢の夫婦は…途中でお沢が記憶を取り戻し、同時に、大吉たちが裏稼業・渡し人である事を知り、その手伝いをして行く事になるのですが、この時の逃避行も、連れ立って行く事になる。…何が違ったかと言うと、夫の秘密を知っているか否かの差なんですよね。惣太はお直に裏稼業の事は絶対に知られたくなかったらしく、その心象が結果として単独行の決意を促したようです。

…このラスト、『必殺必中仕事屋稼業』(1975年放映)を思い出します。半兵衛さん(緒形拳)も女房(というか内縁の妻?)に裏稼業を黙っていて、最終回で知られた上で、一人で逃亡して行く。しかし、お春(中尾ミエ)は最後に半兵衛の裏稼業を知るワケで、それは、なんで半兵衛が突然消え去ったのか知ってはいます。

お直は、本当に突然旦那が蒸発しただけなんですよね。



これはかなり切ない。旦那が消えた理由が分からないというのは……え~…いや、もう、只々、わけが分からないわけで…。惣太を探し、泣き明かして、お直が最後に漏らす「うちの人が、ウチを置いてゆく事なんてあるはずないわ。ぜったい、ないわ~」というセリフは、希望か、夢想か、哀れを誘います。

あと、ちょっと印象に残っているエピソードとして花火の“玉屋”の話がありますね。多くの町人たちを魅了する技術を持ちながら失火騒ぎで江戸追放となり一代限りで潰えた、しかし、今もその掛け声が伝わる玉屋ですが、ここでは玉屋の技術を妬んだ、鍵屋の番頭の手引きで失火し、玉屋は親子共々殺されるという……。
浮世絵なんかでも当時から玉屋の花火ばかりが題材にされる程、人気が高かったらしい玉屋の一代限りという悲劇は、まあ、いろいろ考えられるっちゃあ、考えてしまったり(笑)妙に感慨深かったです。



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【ネタバレ注意!】【疫病の怪物】【終末の物語】



TVで主演・ウィル・スミスの『アイ・アム・レジェンド』(2007年公開)がやっていたので、録画して観てみました。…まあ、当然というか、なんと言うか「主人公と人類が救われるグッド・エンド・タイプ」だったわけですが…。色々と気になってしまったので、別エンディング版が収録されているブルーレイを借りてきてそっちも観てみました。
…うん、まあ、やっぱりこっちだよな~とは思うんですよ。「病原菌に侵され知性のないゾンビと化したように見えた“彼ら”は、既に人類とは別の社会を構成していた…」というね。少なくとも、この物語を“今”やる意味はそこにあるように思えます。

しかし……分かりづらい、伝わりづらい所もありますね(汗)それは、最初から二つの結末が可能なように「どちらの結末でも差し替え可能なように」作って行ったから…なんじゃないかと思います。最初から「この結末しかない!!」という意図を持ってシーンを作り込んでゆけば、もっと違う景観があった気がします。
「ネビル博士はその死の間際、遂に“吸血鬼”の治療法を発見し、伝説となった」という物語に対して、引っ掛かりが少ないように、もう一つの結末に対する“有り得た伏線”をスポイルする傾向がどうしても発生して(多少は残っていますが、不自然さが目立たない程度に配慮されている)いるようですからね。

…と!!思ったんですけど。まあ、これをある種のアドベンチャー・ゲームのように、二つの結末を観比べて「一つの物語」とする形態だと考えれば、まあ、いいのかな?(´・ω・`)…と!!思ったんですけど。その場合は、ブルーレイ特典なんかじゃなくって、ちゃんとその二つの結末がシェアされる形で公開して欲しかったかな?とか。
ま、どうなんでしょうね?(笑)それはともかくとして、この作品以前に製作された『アイ・アム・レジェンド』を紹介しておきたいと思います。(これが、本題だったのだ!)

■地球最後の男 オメガマン(1971年公開)



主演・チャールトン・ヘストンの『アイ・アム・レジェンド』です。原作の『アイ・アム・レジェンド』の重要な結末を変えてしまっているからか?あるいは某ドキュメンタリー映画でヘストン自身が嫌われたからか?何か妙に酷評されたりする映画なんですけどね?(汗)
…いや、“あの結末”を変えてしまえば映画好きから不評となるのは必然かもしれませんが(汗)しかし、冒頭のインパクトはすごく良いと思います。まるで人の気配がしないロサンゼルスの街を、一人ヘストンが徘徊するシーンは、映画的にかなり美しいものでした。

ウィル・スミスの『アイ・アム・レジェンド』は厳密にはこれのリメイクだと思います。画面作り…先程行った、誰もいない街の画作りは、『オメガマン』を模したものに思えます。血清を手に入れながら自分は“吸血鬼”(ちょっと違うんですが敢えてこう呼びす)の犠牲となって死に、血清は生き残った者に託されるという結末も同じです。

誰もいない街をたった一人で歩きまわるのは寂しいなあ……などと思っていると、途中から黒いローブを羽織った人間たちがわんさか出てくるので「あ!なんだ、誰か生きてるじゃん!」と思うんですけどね(笑)
実際に彼らは細菌戦争の生き残りで、ウィルスによって光を浴びると苦しむ…そしておそらく目がほとんど見えない身体になったのですが、他の映画の“吸血鬼”たちに比べると、意識はかなりはっきりしている方で、決して救われずやがて滅びる自らの運命を過激な宗教で慰めているカルト集団と言った感じです。

それ故「分かり合えない事」…何も考えずに銃で彼らを排除しまくるネビル(ヘストン)と、治療法がある事に耳を貸さない“吸血鬼”たちに、不安と不満を持ったりもするのですが、今、観直すと、その分かり合えなさが、『終末の物語』のゆるやかに文明が滅び行く物語の一場面としての意味の深さを表しているような気もします。
いや、この吸血鬼たちは明らかに「話は通じるが、分かり合えない勢力」なので、そもそも“善悪の逆転”とかないよね(汗)「彼らは怪物になったのではなく人間として生きていたのだ!」とか言われてもガーン!ってならない(汗)でも、その「人間もうダメだ」感が、終末の描きとしては顕れるものがある…って事ですけどね。

■地球最後の男(1964年公開)



主演・ヴィンセント・プライスの最初の『アイ・アム・レジェンド』ですね。深夜をノロノロと正気を失った言動で徘徊する“吸血鬼”たちは、その後の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年公開)に影響を与えたと言われています。カルト・ムービーですが傑作です。実際、『アイ・アム・レジェント』としての完成度は、この映画が一番高いように思います。

最初にネビル(ヴィンセント・プライス)が、戦っている相手は、明らかにゾンビ然とした吸血鬼だったのに、その後に出てくる延命薬を手に入れた“新人類”たちは、明らかに動きが機敏で、銃器も扱い、服装も黒一色で統一された「ああ、これは確かに、新たな秩序が生まれている」という感じなんですが…なんか、ずるい!(笑)というか、ネビルが“ゾンビ”と間違えて“新人類”を殺してしまうのは無理からぬ事という気がしてしまう。
また、孤独に死んでゆくネビルを持って、旧世界の幕引きとなったかのように思えますが…そう、解釈もできますが、同時にネビルの治療を受けた女・吸血鬼(既に治ってるけど)は生きており、希望はつながっていると観る事もできますね。(というか、この新人類たちはさらに治療が可能なら喜んで受けると思う)

しかし、“善悪逆転”が起こったとして、善悪の相対化が行われたとして、それが即、「さあ、分かり合おう!」という話ではないのだろうなとも思います。
吸血鬼たちを呪って死んでいったネビルは「分かり合おうとしない、わからず屋の愚か者だったのか?」と言うと、一概にそうは言えないように思います。だって、確かにその吸血鬼のウィルスは全人類の大半を死に至らしめたわけですし、文明が崩壊し自分がたった一人の人類の生き残りであるなら、そこに意地があるのはなおの事です。既に吸血鬼たちにとって大量虐殺者であるネビルを彼らは許さない。しかし、ネビルは最後の人類として戦いを続けただけ。これをあまり楽天的に「分かり合えるはず」と僕は語りたくない。

…とは言え、プライス版の『アイ・アム・レジェンド』の“新人類”を観て「…これは、分かり合えるのと違う?」と思ってしまうのも分かる(笑)そう思ったから(分かり合いづらそうな)、ウィル・スミス版の『アイ・アム・レジェンド』の別エンディングがある気もします。
逆にプライス版でも、ヘストン版でも「分かり合えない」事に納得してしまう僕にとっては、ウィル・スミス版の「分かり合う」シーンには違和感を禁じ得なかった。ああまで違う(それこそ相容れないはずの)ものが、あの一邂逅で分かり合うものなのか?…分かり合うという事は「治療法の研究は余計なお世話だった」と言うようなものなんですけど、それは本当にそうなのか?
いや、確かに、最初に“今”やるなら、この結末の方とは言いましたが(笑)「人類を再生する」という大義は本当に失って(相対化されて)いいものなのか?プライス版のネビルのように自分の正義を信じる限りは殺されてしまいますが。……どうなんでしょうね?(´・ω・`)



その意味において映画ではなくてマンガですが、藤子F先生の『流血鬼』(1978年初出)(『オメガマン』の後か…)の“吸血鬼”になって(人類が滅びて)初めて彼らの事が「分かる」というのが、分かり合いの物語としてはスマートな気もします。あと、脱線気味ですが『地球へ…』とか、持ちだして「本当に、人類とミュウは分かり合えるのか?」とか話して行く事が、頭をかすめましたが、長くなるので別の機会にします。

まあ『アイ・アム・レジェンド』は、単純に『善悪逆転の物語』というだけではなく、もっと多様な、“終わりゆく人類の景観”を観せてくれる、非常に魅力的な、追求すべきプロットに思えます。


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【必殺シリーズ】



『必殺橋掛人』(1985年放映)コンプリート。必殺仕掛人→必殺しかけ人→必殺はしかけ人→必殺橋掛人?んんん~?(考)まあ、なんでもないですが…。必殺シリーズの中では長らく、悪役、殺され役で登場して来ていた津川雅彦さんが、主役、殺し屋役(殺す側役)になった作品です。 呉服の行商人を表稼業とする柳次(津川雅彦)が、裏稼業“橋掛人”の面々と、亡くなった元締の残した、依頼の謎かけを解いて仕事を果たして行く物語。元締もかなり回りくどい謎かけ(あぶり出しだったり!)を残したもんですが、まあ、依頼が簡単に表に出ないような配慮なんでしょうね。依頼自体の謎を解くという構成は『からくり人』の旅ものシリーズを思い出します。

さて、悪人相の柳次が主役…という言い方でいいかな?…いや、津川雅彦さんが、悪人相なのかどうか?という話をここでするつもりは毛頭ないですが(´・ω・`) 殊、必殺シリーズにおいては(長らく悪人役を演じてきた)津川雅彦さんは悪人相…と位置づける事ができる…とは言えると思っていて。その柳次が殺し屋……って何かすごい恐さが出ているんですよね。殺気が隠し切れないというか。
偶然、昔の元締めと出遭った柳次が「いや~もう、裏稼業からは足をあらいましたよ~」と笑顔で言うんですが、昔の元締めからは「嘘をつけ。お前からはまだ血の匂いがする」って言われるんですよね。その時の~いやいや、そんな事はありませんってw~と手を振る時の、柳次の笑い顔がすっごく恐いのwすごい良い表情。

いや、普段はしがない呉服屋で、一人娘と再婚した若い奥さんの板挟みに窮々としているダメ旦那をしてはいるんですよ?だから、殺気が隠し切れないと言っても、それは“観客”にだけ伝わる殺気と言ってもいいもので。まあ、ぶっちゃけ津川雅彦さんの存在感そのものの事なんですけど、橋掛人としてのプロフェッショナルがそこにはいるんですよね。
逆に中村主水は、殺気を隠し切っている人で昼間は昼行灯をやっていて、風采の上がらないサラリーマン風の男が、実は凄腕の殺し屋…というギャップが主水の魅力に思っているのですが(…違うのかな?)それとは対照的です。

ゴルゴ13に近い感じとでもいえばいいのか…殺し屋ってもっと目立たない振舞いの方が何かと有利だと思うんですけど、ゴルゴって、存在感も、殺気も、フェロモンも、全然隠してないですよね?wしかし、標的は必ず仕留めるというプロフェッショナルな殺し屋で、柳次もそんな感じです。

そういう柳次に引っ張られてか、『橋掛人』が短いシリーズだという事もあって、殺し屋メンバーは基本的に“徹する”人たちで、あまり情に流されたような振舞いをする事は少なく、職業・殺し屋としての純度の高い『物語』になっています。
特に後半の仕事は、同じ殺しの裏稼業を持つ者たちを標的とする話が続き、必殺シリーズで裏稼業同士の対決は決して珍しくないのですが、全13話の密度としては、おそらく、一番の激闘編となっている気がします。
バトルに特化している所を観ても、非常にプロフェッショナル感の強い物語だった証左とも言えますね。…萬田久子さんと斉藤清六さんの夫婦漫才があったり、ぼんちオサムちゃんが出てきたりとコメディに振る事も忘れてはいないのですけど、まあ、それも含めてw

最後の4話分とか全部、殺し技を磨いた相手との対決ですからね。最終回は、モロに子連れ狼を模した刺客と柳次が戦い、柳次が勝利し、残された子供を柳次が引き取って(対決前に互いが負けた方の子供を引き取る事を約束し合っていた)終わっています。
そういった難敵との対決を果たして来た柳次ですが、その勝負のほとんどを~おそらく紙一重の差でしょうが~一瞬で決める美しさは、殺し屋的に惚れ惚れしますね。殺しに時間をかけない。実績からすると、中村主水には譲るとは言え、必殺シリーズ最強クラスかもしれません。

また、柳次はかつて身を呈して自分の生命を救ってくれた昔の元締めを、元締め代行の春光尼(西崎みどり)は死に別れたと思っていて自分の母親を依頼に基づいて殺していて~どちらも悪事をはたらいていたんですけどね。同時に、自分に対する情のようなものは失っていなかった~そういった殺し屋の業の描きも含めて、かなり、密度の濃い物語になっています。


必殺仕事人IV / 必殺仕事人V / 必殺橋掛人 ― オリジナル・サウンドトラック全集 15
平尾昌晃,竜崎孝路,京本政樹,京本政樹,中村梅之助,鮎川いずみ,西崎みどり,藤田絵美子
キングレコード



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日本映画専門チャンネルで“昭和犯罪史特集”をやっていまして『帝銀事件 死刑囚』(1964年公開)を録って観ました。いや、『面白い』ですね。この頃の邦画の良さが出ているというか、報道/ドキュメンタリー調の淡々とした論述と描写、それでいて緊張感のあるフレーム、GHQの圧力から捜査は変遷し、一人の男が犯人に仕立て上げられ、その情報に飢えた報道が後押しになって立ち止まって考える時間もなく、死刑の判決が言い渡され、そして犯人とされた男・平沢貞通の家族が離散してしまうまでを描いています。
ところで“帝銀事件”は(↓)こういう事件。
1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物[1]を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は現金16万円と、安田銀行板橋支店の小切手、額面1万7450円を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できなかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。

(帝銀事件 - Wikipediaより)

ここから先は、事実とフィクションの取扱いに注意する線に入ってきますが、物語は操作当初は順調に進み、犯人像として陸軍の防疫隊の人間が怪しいとなります。そうして“731部隊”の名前があがる、ここらへんから話は段々あらぬ方へ転がり出す。
GHQから陸軍関係者への捜査の中止が命じられる。報道関係にも圧力がかかる。これ、そんな悪辣に力を誇示するような描写はされていないのですけどね。リアリティというか…確かに帝銀事件の捜査にはGHQの力は働いた“らしい”ですけど、彼らが「平沢を犯人にしろ」と命じたわけではない。平沢という男が犯人にされるまでの一要素に過ぎないし、単純に「GHQは悪い奴らだ!(GHQだけが悪い)」としないための描きだと想います。

そうして…映画の叙述が本当なら、随分、ずさんな事件像の“書き換え”で、警察は平沢を犯人に仕立て上げていきます。これも描写の中に「平沢を犯人にしてしまえ!」というような描写はされないのですけどね。うん、やっぱりこの映画、いい描きです。
旧陸軍関係者が怪しい事はわかっていたはずなのに、なぜ、警察が“そう”したのか?……やはりメンツの問題なんですかねえ…あるいは、これほど世間の耳目を集めた事件の犯人を「捕まえられませんでした!」では、社会秩序に関わると考えたのか……メンツと社会秩序の維持を混同しがちになりそうな所が、警察の恐い所ですけど。

■ちょっと別の話…

『帝銀事件 死刑囚』は、実際の帝銀事件の発生から16年後、平沢貞通の死刑判決が1950年7月24日~この1年後にサンフランシスコ講和条約が控えています~の14年後に製作されて、これが最初に帝銀事件を取り上げた映画だと思うんですが、たとえば先に記事に書いたカービン銃ギャング事件を取り上げた『恐怖のカービン銃』(1954年公開)なんかは、恐るべきリアルタイムさで映画製作されているわけです。(…ニュース映画で帝銀事件はどう描かれたか?というのはあるかな?)
平沢が捕まった時は大々的に報道され、同じく野次馬が山になっている映像が出ていましたけど……しかし、映画の題材として扱われたのは随分経った1964年なわけです。……いや、何か「この事件はヤバイ」という空気があったのかな?と邪推してるって事ですが(汗)まあ、どうなんでしょうねえ…。

ここからちょっと脱線して行きますが、じゃあ、なぜ1964年になって取り上げられる事になったか?それはやはり、その“ヤバイものの呪縛”が薄れてきたからなのでしょうが、実は、その角度から物語史を注目している所があります。
たとえば1960年には『快傑ハリマオ』が開始されています。(↓)以前、記事にも書いているのですが…

2008-02-23:ハリマオ
もともと実在の人物を模した戦前の国策映画(?)「マライの虎」が下地になっている作品なんですが…。こう……ある意味、強烈に“国策映画”ですw当時のヒーローものの多くはギャングのようなワリと普通な犯罪組織と戦っていたりするので、ハリマオもそういったアウトローと戦いながら“南国の平和”を守って行く……ってな話かと思っていたのですが、もっとこうモロに白人と戦っていますね。
1960年製作、ほぼ同時期にベトナム戦争が始まっているので、まだかなり東南アジアはそこかしこでごたごたが続いていた頃にこのネタは正直強烈じゃないかと思うんですが…といいながら日本自体まだ自国内の事で必死な時期ですし、「マライの虎」が戦前非常に人気を博したこともあって外つ国……異国から異国を渡り歩くヒーローは当時の人に活力を与えたのでしょう。

『快傑ハリマオ』については、これからも色々調べて、また改めて記事に書きだしたいのですが、まあとにかく、ハリマオ自身は帝国海軍の将校である事は確定で、大東亜共栄圏的な思想が活躍の下地にある事は間違いない……と思われるヒーローと言えます。

「戦後から20年も経ったこの時期になぜ?」という感覚で当時の記事は書いていたはずなのですが、色々他のものも眺めると段々と“この時期”の意味が分かってきたような気がするんですね。
たとえば『0戦はやと』はマンガは1963年から、アニメは1964年から、『忍者部隊月光』は1964年開始。これ原作は吉田竜夫さんのマンガで『少年忍者部隊月光』の時は、時代が第二次世界大戦中で、当然、月光たちは日本軍所属でした。
マンガは“この時期”以前でも、これに近い作品が色々出ているとは思えるんですが(監視しきれないというか)アニメ、特撮ヒーローものはどうかというと…う~ん?たとえば『鉄人28号』が旧日本軍の兵器ですが……そういうガジェットの出自として大戦を利用する事はあっても、これ程“モロ”な感じのは少ないように思います。

これからさらに時代が1971年に下りますがタツノコプロが製作した『アニメンタリー決断』(製作・吉田竜夫)という作品があります。太平洋戦争時に連合軍と戦った日本指揮官たちの“決断”を描いたこの作品は、アニメ史単体で観ると、それこそ全くの異色作/突然変異のように思われたりもすると思うのですが(いや、僕がそう思っていたという話)、ちょっと前には『ハリマオ』があったよ、『0戦はやと』があったよ、いや『忍者部隊月光』だって~と並べると、“この時期”の流れが見えて来る気がします。
これは僕自身、僕が生まれてから受けてきた教育の“体感感覚”でいえば“この時期”があった事自体が、体感の歴史感覚としてしっくりこないというか、稀有なものに思えてしまう所があります。でも、これらをちょっとつなげて考えてみようと今は思っているんですよね。

また、これらの作品群をなぜ、戦前の題材でもない『帝銀事件 死刑囚』の項でつなげて観ているかというと(映画は映画でまた色々別の情報がからみますし)、多分……いや、僕の推考に過ぎないんですが、これらの『物語』が、相手に見据えていたのがGHQ(の呪縛)だったのではないか……という共通項が見いだせるからです。
しかし、実際には、GHQが来るわけではなかった…というか呪縛は薄れた頃だからできた事もあるでしょうし……実際には、『アニメンタリー決断』の頃になると、相手にしなくてはならなかったのは、PTAとか、各教育団体だったわけです。そうして、どうやら“この時期”は短く、すっと霧散し、僕の知っている社会(PTAとかが物語を苛めてうるさいって社会ね)になって行ったようです。

1951年にサンフランシスコ講和条約、それから1960年には日米安全保障条約の改定…という時期でもあるんですが、1964年には東京オリンピック(そして新幹線開通)、1970年には大阪万博とそんな時期とも言えます。
この頃の日本人は「もはや戦後ではなく」なり、高度経済成長に奮闘を続けるなか、嗜好も“かつての物語”ではなく“未来の物語”を選び、求めて行ったのですかねえ…。まあ、そういう所をぼちぼちと『物語』から眺めて行こうと思っています。


帝銀事件 死刑囚 [DVD]
信欣三,内藤武敏,笹森礼子,北林谷栄,高品格
NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)

アニメンタリー決断 DVD-BOX
雨森雅司,浦野光,家弓家正,九里・一平,鳥海尽三
竹書房



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『恐怖のカービン銃』(1954年公開)を観ました。最近、日本映画専門チャンネルで“昭和犯罪史特集”をやっていまして…(『帝銀事件』は録り損なっちゃったかな?)それと、これ、天知茂さんの初主演映画という事で観たりしました。(↓)“カービン銃ギャング事件”は以下の通り。
1954年6月14日、複数の強盗犯が保安庁技術研究所の会計係長夫妻をカービン銃で脅して7枚の小切手1750万円相当を奪い、係長夫妻をロープで縛って押入れに閉じ込めた後で逃走。その後、小切手は97万円が現金化された。係長夫妻は、事件から2日後の6月16日になって押入れから脱出して警察に知られる。警視庁は夫妻への事情聴取で、体格や手口が似ていることから強盗の前科がある保安庁元隊員の男性A(当時28歳)を全国に指名手配した。
6月22日、主犯Aと共犯だったB(当時21歳)が富山市で逮捕された。7月5日、主犯Aと共犯だったC(当時22歳)が台東区旅館で逮捕された。逮捕直前までCと一緒だったD(当時23歳)は逃亡していたが、その後自首した。
主犯Aは愛人(当時27歳)とともに逃亡していたが、7月21日に潜伏先でAの故郷に程近い大分県湯平温泉で発見され、逮捕された。犯行に使用されたカービン銃は延岡駅で鉄道荷物の布団包みから発見された。

(カービン銃ギャング事件 - Wikipediaより)

いや、この映画、かなり実録的というか、忠実再現映像的な映画なんですよね。こんなタイトルですから、どこかで犯人が立てこもってカービン銃乱射でもするのかとか思っていたんですが、そんな事もなく、というが劇中ほぼ全く発砲がなく~仲間割れした時に誤って空に向けて撃ってしまった時くらいかな?~そのまま、逃亡途中のどこかで銃は捨ててしまったらしいし……本当に、会計係の人を脅すのに使ったのみの“活躍”だったです。(´・ω・`)

でも、ラストシーンで主犯の大津(劇中名)が捕まって護送されてくると、周り野次馬だらけで大津を一目見ようとものすげえ群がっているんですよね(汗)多分、ここは現実でもそんな感じだったんじゃないかと思いますが、今から見ると特に凄惨な事件というわけでもないのだけど、速射の銃を持った犯人が日本のどこかに潜伏中というニュースは、当時の人々に相当な衝撃を与えたようです。

それとこれ1954年8月3日公開作品なんですが、この事件の最後に残った主犯Aが逮捕されたのは、1954年7月21日と…wさすが新東宝w犯人潜伏中に映画撮ってる?w…いや、そんなバカな?しかし逮捕から映画公開まで10日ちょっとなんですよね(汗)撮影自体は一週間もあれば可能なんでしょうけど、犯行内容や犯人たちの動向がかなり緻密に描かれていて、ここらへんは相応の取材の賜物という気はします。
…まあ、この頃はニュース映画なんかも隆盛の頃のはずで、映画製作も短いスパンで回していたでしょうから、かなりリアルタイムな話題を取り入れる事が可能だったのでしょうね。
あと、天知茂さん。初主演という事で、その後の『非情のライセンス』や『江戸川乱歩シリーズ』を主演する時のあの何とも言えない“妖しいオーラ”は、僕は見て取る事ができませんでしたが、ふてぶてしくも、どこか弱い所がある主犯・大津を好演していたと思います。時々、眼光光ってましたしw



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仲間内の上映会の準備で『隠密剣士』(1962年放映)を観ています。とりあえず第一部はコンプリート。…まあ、(↓)の伊上勝脚本のについてのコレクションの上映会なんですけど……第一部はまだ加藤泰先生の志向が強い感じですね。伊上先生に関する言及は第二部以降になりそうです。

『伊上勝評伝』不世出の天才を語る

この『隠密剣士』、なかなか設定が深いというか色々、この放送時期(1962年)の時代の語りとして興味深かったりします。『隠密剣士』は寛政年間の老中首座の松平定信の治世の時代。幕府の財政の建て直し策として蝦夷地(北海道)に目をつけた定信は、松前藩に国替えさせ蝦夷地を幕府の直轄領とする理由はないか隠密剣士・秋草新太郎を松前藩を遣わす。…まあ、この秋草新太郎、11代将軍・家斉の腹違いの兄なんですが、それは置いておいて…。

この『隠密剣士』、第一部、かなり西部劇の影響を見てとれます。影響というか…江戸時代は蝦夷地を舞台に西部劇をやろうとしていますね。どうも、もともと邦画の時代劇って、西部劇の影響を受けている“空気”のようなものがあって、これは国内で娯楽映画を撮るにあたって、洋画の西部劇を参考にした面と、国定忠治あたりの天保年間の侠客(アウトロー)ものの、雰囲気が西部劇の時代に似ていた面(これは、日本史で西部劇っぽくなる時代を探した面もあると思いますが…)がありますが、そうではなく、もっとモロに西部劇に似せようとしていますね。

具体的に言うと主人公の秋草新太郎は六連発式の短銃を持っているwまた、松前藩の領民や武士は、なんかみんな当たり前のように種子島銃を持っていて、何かというとそれを持ち出しますwアイヌの猟師も持っていますw東北のマタギなんかを考えても、領民が全く銃を持ち得なかったとも思わないんですが、それにしても装備しすぎw(やっぱりこの頃の時代劇は自由だなあ…)
またアイヌは完全にネイティブ・アメリカンのように描かれている。時々、馬車を襲ったりします。アイヌは松前の領民や、商人たちから差別されていて、アイヌも松前藩を追い出したいと思っている。…いや、もうホント、西部開拓そのままの感じで描いています。幕府隠密の秋草新太郎は、アイヌに肩入れして、時に逃亡を助けたりするんですが、たとえばアイヌ独立みたいに決定的にアイヌを救う事はしません。

それは直接描かれませんが言葉として時々出てくる「ロシアが蝦夷を狙っている」という事も関係します。ここが西部開拓と大きく違う要素と言えそうです。ちょっと、語り損なっていましたが、隠密の秋草が、松平定信の密命で蝦夷に来たのは「理由を見つけて松前藩から蝦夷地を取り上げるため」なんですよね。およそ正義らしからぬ任務です(汗)これがさらに、隠密抹殺指令を受けている松前藩士の木場陣十郎が、アイヌも領民も無下に扱わないいい奴で(汗)増々、任務の正当性が分からなくなる。
最終的に蝦夷を松前藩から取り上げる話は無しになるのですが、木場陣十郎とは悪人ではないと知りつつ、けじめとして対決して彼を斬り殺してしまいます。……一応、子供向き番組のはずなんですが、なかなか深いです。

……まあ、第二部に入って伊上先生のフィールドに入るとかなり雰囲気も変わるっぽいんですけどね。これはまた次の機会としたいです。あと、以前にも、時代劇~『木枯し紋次郎』なんか~の西部劇の影響を書いていますが(↓)、こっちはマカロニウェスタンの話ですね。今回の『隠密剣士』は、クラッシックな西部劇のイメージです。(ちなみにレオーネの『荒野の用心棒』は1964年)ここらへんの、西部劇と、邦画の時代劇の交差も、ぼちぼちと掴んで行きたいと思っています。

木枯し紋次郎は西部劇の夢を見るか?


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【80年代】



『俺たちは天使だ!』(1979年放映)コンプリート。沖雅也主演の“探偵もの”コメディですね。麻生雅人(沖雅也)ことCAP率いる麻生探偵事務所のメンバー5人(多岐川裕美、渡辺篤史が、柴田恭兵、神田正輝)が一攫千金を夢見て、様々なヤバイい事件に首を突っ込んで行く『物語』。
しかし、今一歩の所で、どうしても大金を逃してしまう。犯罪スレスレ…というか犯罪そのものの目論見だったりするものだから、元刑事であるCAPの上司だった所の南雲係長(江守徹)なんかに、看破されて証拠品として押収されてしまったり。結果、人助けのタダはたらき。がっくり項垂れる5人。でもしょうがない「俺たちは天使だ!」……と言って場を締めるのがパターンになっています。

もう一つ、物凄く好きなキメ台詞があって~主題歌の歌詞にもあるんですけどね。彼らが一攫千金を獲りに行く彼らは決まって、「運がよければ◯◯万円。運が悪けりゃ…死ぬだけさ!」と気合を入れる。このセリフがすごく好きでして……早世した沖雅也のコメディな演技というのも他作品ではなかなか観れないと思うんですが、そういう明るくコメディなタッチの作品の下敷きとして「……いや?こんなバカやってたら死ぬかもね?」という、さばけたような、白けたような、諦観めいた明るさをこのセリフから感じさせて、強く印象づけます。
「…それこそ、最終回で誰か死ぬんじゃないか?ダーツあたり?(柴田恭兵)」などと考えながら観ていたのですが、結局そういう事は無かったです(汗)念願の一億円を手に入れた彼らは、自分らの夢を叶えるために、それぞれバラバラの道を旅立って行きました。

じゃあ、その死の予感というのは僕の気の回しすぎか?というと、必ずしもそうは思っていなくって……いや、まあ「運が悪けりゃ死ぬだけさ」ってセリフで明示しているからねって事もあるんですが『俺天』とほぼ同時期にやっていた探偵もの~『俺天』の方がわずかに先ですね~松田優作の『探偵物語』(1979年放映)の工藤ちゃんは、正に運が悪くて死んだ……かも、しれない?というようなラストシーンを迎えていますよね。
『探偵物語』について語るのは、また別の機会としたいですが、『俺天』よりはややハードではあっても、やはり非常に軽い感じのコメディ作品と言っていいと思います。でも、その笑いの下に死の影のようなものは観せている。……松田優作も、沖雅也も、ハードなキャラクターがウケて人気を博した俳優さんですが、この時期にコメディを観せる、その同時性や、隠しながらもチラリと観える死の匂いの近似性など。…単純に近しい才能のシンクロニシティといってもいいと思いますが、僕は、ここらへんの匂いを「80年代の空気」と言えるかもしれない……などと考えたりしています。どちらも79年放送開始ですけどね(汗)

ちょっと比較のために、もう一本『傷だらけの天使』(1974年放映)を持ち出してみたいと思います。…ところで、僕は探偵もののTVドラマというと『傷天』、『俺天』、『探偵物語』の3本を有力に挙げるんですけど、皆さんどうですかね?まあ、それはそれとして『傷天』のタイトルにある天使が、『俺天』にも使われているのは、偶然ではない………偶然かしれないけど(汗)いや、というかそもそもの元ネタは『俺たちは天使じゃない!』でしょうけど(汗)しかしっすね。探偵ものをやろうとした時に、かつての『傷天』を思い出さずにはいられないくらい、『傷天』のヒットは大きかったはずです。
…まあ、それはいいとして、先述の二作品よりも昔に放映されている『傷だらけの天使』ですが、これは、かなり「70年代の空気」を持った作品だったように思っています。TVドラマとしては、これと『木枯らし紋次郎』あたりが大ヒットしていて影響も大きかったんじゃないでしょうか。『傷天』も『紋次郎』も以前に記事を書いていると思いますが、非常に“暗い”シナリオの『物語』なんですよね(汗)

2008-07-08:傷だらけの天使


アキラ「あにき…おれさあ…足引っ張ると思われちゃやだけど、行くの止めにしないか?」

アキラ「さみしいよ!!みんないなくなるから!!!(泣)」

このブログでは、度々、「60年代後半から70年代にかけて、何故か妙に暗くて救われない『物語』がウケている時期があった」という話を取り上げているかと思います。(度々って程、取り上げてないかな?……まあ、そんな時期があったとしますと)『紋次郎』も『傷だらけの天使』も、かなり救われない話をばんばんやっていて、今流しても、ウケる~多くの人々に気に入ってもらえる~とは考えづらいwしかし、当時は一世を風靡したと言ってもよく、後の影響も大きいはず。
『傷天』は主人公のオサム(萩原健一)の、子分であるアキラ(水谷豊)が最終回には、まったく報われない、哀しい死に方をします。何の装飾もせずに、もう、ポロッとそうするんですよね(汗)70年代は、そういう“暗さ”をそのまま出すような“空気”があったように思います。今、ここでは何でか?というような考察を書き連ねるのは避けますが。(このブログのどこかの記事で書いているかも)

それが80年代になると、すっと明るくなった。先ほど述べたように死の匂い、死の下敷きは残しながらも、それを隠すようにしながら明るい振る舞いをするようになった。…70年代がある意味「深刻になっている」時期だったとしたら、80年代は「まあ、いい加減、深刻になるのも疲れて来た。飽きてきた」というか……。
ただ、深刻になるのを止めても、それまで深刻な気分にさせていた問題は消えたりしないわけで、そのまま残る。…でも、無視する。その問題が不可避に顕在化するまでは……というような変化が70年代~80年代にかけて起こっていた流れ……かな?と考えたりしています。

まあ、60年代にコメディタッチの明るい『物語』など皆無だったか?というとそんなワケないわけで、そういう意味で今の話は、ある角度から切りだして眺めた際に出てくる限定の景観…という事でもあるんのですけどね(汗)しかし、同じ探偵ものとして、これら3作品の“違い”や“変化”を検証して観るのも面白いんじゃないかと思います。
まあ、今後も、時代的な潮流(?)の考察はちょくちょくやって、自分の体感に落としこんで行こうとは思っています。探偵ものと言っても、けっこう犯罪者すれすれで、無頼なスタンスである所も、70年~80年つないで特徴的かもしれません。

まあ『俺天』は、『傷天』、『探偵物語』ほどヒットしてはいない物語なんですが(でも、根強いファンは多いと思う)、単純に沖雅也さんをはじめ、俳優さんたちのコメディ演技を観ているだけでも『楽しい』作品ではありますんで(あまりのノリノリさに、時々、多岐川裕美さんが、耐え切れず笑ってしまっていたりw)機会があったら観てみて下さい。
あと、メンバーは貧乏食(?)として、アジの丸焼きをトーストで挟んで食べるのを“アジトースト”と呼んで、よく食べているのですが……あれ、美味いのでしょうかね?(´・ω・`)


俺たちは天使だ! Vol.1 [Blu-ray]
沖雅也,多岐川裕美,渡辺篤史,柴田恭兵,神田正輝
VAP,INC(VAP)(D)


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【ロボットの反乱】



最近、ちょっと、ロボットの物語と巨大コンピュータの物語をチェックし直したりしていて、その一環で『巨人ゴーレム』(1920年公開)を観たりしていました。超古典の“ロボットもの”……これをロボットものと言うとちょっと違いますかね(汗)原則的には“オカルトもの”とでも言うべきかもしれないんですが。
しかし、この作品が、後の映画『フランケンシュタイン』(1931年公開)にも多大な影響を与え(テストショットの段階ではモンスターの扮装はゴーレムそっくりだったとか…)、その『フランケンシュタイン』の持つ「自らの科学で創造した人造人間」というモチーフと、その創造物の暴走という波乱を踏襲して、ロボットの反乱系が芽吹いていった事を思えば、“ロボットもの”という位置づけで観るのも一興という気がします。

物語は…実はちょっと分かりづらかったんですが…(汗)ユダヤの司祭レーフが、皇帝からユダヤ人の退去を命じられ、その決定を覆すために奇妙で役に立つ魔術としてゴーレムを造ります。そしてひと騒動あって、その命令を撤回させるんですが、その後、ゴーレムは段々言うことを聞かなくなって最後には暴走して城から飛び出ていってしまう…という感じの話かな。元々、ゴーレムって造ったはいいが、最後には制御ができなくなる魔術みたいですね。

…で、今、ロボットにひっかけてゴーレムを語ろうとしているのですが、ゴーレムの、ところどころの動きはかなりロボットっぽくもあるのですが、ところどころの動きは妙に素早かったりして、あんまりロボットっぽくありません(´・ω・`)
というか、このゴーレムは、かなり表情豊かで(↑)怒りの形相なんかかなり凄まじく(ゴーレムの怒りの表情は大映の『大魔神』が影響受けたらしいですね)、造形に関しては正直な所、“泥で出来た生き物”と観たほうがしっくりくる気もします。しかし、その“暴走”の在り方は、やはり『ロボットの反乱』の元型になっていると思われます。おそらくは宗教的な理由から、人型を造る事への忌避感からどうしても暴走に到ってしまうプロットが生み出されるのでしょう。



…というか、観ていてつくづく思ったのですが、映画『フランケンシュタイン』は『巨人ゴーレム』の科学的リメイクという感が強いです。感というか…ほぼ間違いなく『巨人ゴーレム』を模している。レーフ司祭とゴーレム、フランケンシュタイン博士とモンスター、の最初の接し方~とりあえず歩かせてみる~の様子はかなり近いですし、終盤に少女と接する画は、もう、完全に重なっているw(結果が違うけど…)ゴーレムと、フランケンシュタインがなんとな~~く、制御不能で暴走して行く様も同じです。

これメアリー・シェリーの原作の『フランケンシュタイン』(1818年出版)とは大分違うようです。
誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして、知性を持ち合わせていたが筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜かった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のスイスへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体を与えられたがために獣のように生き延び、野山を越えて遠く離れたフランケンシュタインの元へ辿り着いた。自分の醜さゆえ人間達からは忌み嫌われ迫害され、孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束するが、更なる怪物の増加を恐れたフランケンシュタインはこれを拒否してしまう(フランケンシュタイン・コンプレックス)。創造主たる人間に絶望した怪物は、復讐のためフランケンシュタインの友人・妻を次々と殺害。憎悪にかられるフランケンシュタインは怪物を追跡するが、北極に向かう船上で息を引き取る。そして、創造主から名も与えられなかった怪物は、怒りや嘆きとともに氷の海に消えた。
ストーリーに込められたメッセージ性などからたびたび映画化されているが、人造人間の容貌が醜いとされることから、原作でのその繊細な側面は無視され、知性の低いモンスターとして扱われる事が多く、また後世にはパロディ化されている。

(フランケンシュタイン~Wikipediaより)

原作の『フランケンシュタイン』が、超人間…少なくとも“レプリカント”な存在を示唆する先見性を示しているのに対して、映画化された『フランケンシュタイン』は、『巨人ゴーレム』と共に(宗教的ブレーキがあるとしても)技術的事故の側面が大きい。失敗、あるいは出来損ない、といった感じでしょうか。
ビジュアル的にも…“不気味の谷間”の狭間にあるというか……人間に近いのだけど、人間とは違うものの恐怖というモチーフで成り立っているような気がします。これは僕が『ロボットの反乱』、『コンピュータの反乱』として追ってる、人間に摂って代わる、あるいは神に摂って代わる事への恐怖というテーマには、まだ到っていないもの……かな?と思いました。
フランケンシュタインのモンスターもそうですが、ロボットという言葉の起源になったカレル・チャペックの戯曲『R.U.R』(1921年発表)のロボットも製造は生体部品というか、生身のものを使った存在で、最初の「人間に摂って代わる存在」に対しする恐怖は、生命の複製からはじまっているようですね。…当然か。当然だねw

これが「機械、機巧、金属の塊の存在であっても、超人類に成り得る」という発想は、アシモフの解釈を待つ事になった……と、そういう流れかもしれません。
そしてフランケンシュタインのモンスターは『巨人ゴーレム』との融合を果たすことによって、どちらかというと『悲哀の怪物』、『無垢の怪物』(そういえばゴーレムって“胎児”って意味だったな)の系譜を形成していったように思えますが(そのテーマは原作から外れたものではない)、そちらを追うのはまた別の機会ですね。
……うむ。どっちかと言うと『フランケンシュタイン』の話をした気もするけど…まあ、よし。(`・ω・´)


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【元型】【疫病の怪物】



『魔人ドラキュラ』(1931年放映)を観ました。…いや、ドラキュラ役のベラ・ルゴシ、ものすごい眼光ですね!(↑画像左)伯爵の最初の登場のこの時点で、完全にこの人の映画になっている。あと、廃墟の古城と、なんか…伯爵の召使いか?妻か?が三人いるんですけど、この人達の雰囲気も良い。ホラー映画の走りと言われている作品ですが、これは日本の「怪談」に近い“美しい怖さ”を出しています。
ちょっとこれは名画ですねえ………」伯爵、かなりあっけなくヘルシング教授に杭を打たれて死んでしまうんですけどね(汗)

さて、元型(アーキタイプ)としての『吸血鬼』の話です。(`・ω・´)さて、ここ最近、僕がこのブログの中で吸血鬼(とゾンビ)を“疫病に対する恐怖の元型”じゃないか?という仮説に基づいて取り扱い、その吸血鬼もの(あるいはゾンビもの)が流行る…という事にはどういう意味があるのか?と言ったような事を考えてきました。
【アーキタイプ】『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1978年)疫病の怪物~我がたましいのホラー映画

【アーキタイプ】『屍鬼』~疫病の怪物

こう言った解釈を大いに淀ませるというか、吸血鬼というジャンルに別の概念を持ち込んで来たのがブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897年刊行)であり、その実写映画『魔人ドラキュラ』という事になると思います。ちょっとウィキペディアから、ドラキュラという怪物のスタイルが生まれるまでの部分を引用してみます。
・ドラキュラとはあくまでもブラム・ストーカーの同名小説の登場人物の名前であるが、この小説本が余りにも有名になったため、現在では「ドラキュラ」と言えば吸血鬼の意味として使われることが多い。

・1920年代に、原作者未亡人、フローレンス・ストーカーから正式に版権を取得した舞台劇が上演される。
原作の中でのドラキュラはおよそ人前に出られるような容姿ではなかった。当時の舞台劇の主流は「室内劇」であり、舞台台本も原作を大幅に改編せざるを得ず、原作における冒頭のドラキュラ城のシークエンスをはじめとして、原作の見せ場がことごとくカットされた。舞台はセワード博士の病院と、カーファックス修道院の納骨堂の2場で進行する。
このため、ドラキュラ伯爵は、人の家に招かれ、人間と対話をする礼儀作法を備えざるを得なくなり、黒の夜会服を着こなす「貴公子然としたイメージ」が確立された。

ちなみに、マントの着用もこの舞台が初めてである。演出上、一瞬にしてドラキュラが消滅するイリュージョンがあり、そのために、大きなマントと大きな襟が必要だった。ドラキュラのマントの襟が立っているのは、この時の名残である。ちなみにマントの正確な着方は、襟を寝かせるものである。

このスタイルを初めて映像化したのが「魔人ドラキュラ(1931)」である。 本来は、制作サイドで独自のメイクを考案していたが、ドラキュラ役のベラ・ルゴシが、重厚なメイクを固辞し、ハンガリー訛りの英語の台詞をもって、舞台のスタイルを映画に持ち込んだのである。これが現在のドラキュラのイメージとなった。

(Wikipedia『ドラキュラ』より)

………ちょっと、ティン!ときたので軽く調べてみると、ロンドンの“切り裂きジャック事件”が1888年。…『ドラキュラ』の9年前ですね。また、1893年あたりでは、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズが『最後の事件』において宿敵・モリアーティ教授と対決したりしています。……ん。いや、だから何という事もなく、特に繋げた事を言うつもりもありませんが。(´・ω・`)

要するにドラキュラってダークヒーローだと思うんですよね。神話や伝説、あるいは近世の物語からもダークヒーローっぽい者はいくつも窺えるので、あんまり迂闊な事も言えないんですが、それでも1920年代の舞台劇、それから1931年の『魔人ドラキュラ』は近代のダークヒーローの走りの一人であったとは言えると思います。
同時代的に『フランケンシュタイン』や『狼男』も居るワケですけど、あくまでモンスター的な彼らに対して、人間としての振る舞いを無くさないドラキュラの存在はかなり抜けていたと思えます。小さいながらも何か“突破”があったかなと。

とまれ、ドラキュラというダークヒーローの出現は、それまでの吸血鬼のイメージを一新してしまった。一連の記事から僕はずっと、元型、元型、疫病という怪物の元型、と繰り返し言ってきているわけですが、このエポックにより“吸血鬼”という怪物の意味そのものが変わってしまった可能性は大きい。そして、もう一度、本来の疫病の怪物が再臨してくるのは“ゾンビ”の出現を待つ必要があった…と、現状、そういう流れをイメージしています。
また、この一連の話しのきっかけ、最近、吸血鬼もの(とゾンビもの)が妙に流行っているよね?という現象についても、幾分か、いや、相当な割合で、このダークヒーロー性を追った作品群がある事は間違いない所です。

元型(アーキタイプ)というのは、ここでは集団の無意識の心理に触発するもの、あるいは集団の無意識を象徴的に具現化したもの、として取り扱っているのですが、それは今回の『ドラキュラ』のように、一人の才能の出現だけで大きく書き換えられる可能性を持っている物でもあるという事が示されたわけです。
これが何百年もかけて複数の作り手の手によって醸成される伝承や、おとぎ話ならともかく、近代の物語はそういう扱いを受ける可能性は相当低く、そうそう単純化して語れたものではないかなと思います。…まあ、それすらも集団の無意識の影響下にある!という胡散臭い話を拡散する事もできるのですが……まあ、そういう話はちょっと置いておくとして。

それでも元型の話は、確定的に語れるものでは無い事を踏まえた上であれば、方向的には様々な場面で解釈し、考察のツールとして、その意義を持つものだと考えています。色んな要素が絡みあって、なかなか難しいのですが、しばらくはこの“疫病の怪物”の考察を続けて行こうと思います。


魔人ドラキュラ [DVD]
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