【友達欲しい系】
先日、海燕さん、ペトロニウスさんとニコ生放送で話していた事を書き留めておきます。
最近、僕らの間で話している事で、ラノベ~アニメあたりの界隈で「友達系」?「友達欲しい系」?が出てきているよねという話題があります。
「友達欲しい系」って何か?この“見立て”の経緯をまともに話すと長~くなってしまうのですが、かいつまんで話すと、まずハーレム構造の物語というのがあります。「友達欲しい系」って単純に「友達ほしがっていればそうだ」って話ではなく、このハーレム構造の物語の中から出てきたもの(そう解釈できるもの)が、この話題の対象になります。
ハーレム構造とは何かって言うと、まあ、分かると思うのですが主人公1、ヒロイン多と言った構造のものですね。
31人ヒロインがいるという『魔法先生ネギま!』などが代表にして極北な感じ(笑)で、この構造はかなり長い期間、一定の勢力を持ち続けていたし、今でもその威力は継続されていると思います。
しかし、今例に上げた『ネギま!』が収束に向かう時期あたりでしょうか。「ハーレム構造の流れの中から、何かちょっとハーレムっぽくない別の流れが出てきたぞ?」という物語が生まれてくるようになった。
具体的に言うとハーレム構造のはずなのに男性キャラの数が増えた。
本来、ギャルゲーとか見れば分かると思いますが、あの世界って主人公以外はナビゲーション的なモテない男友達が一人で、他は不要という姿勢だったんですが、それがそうでもないものが出てきた。
最近アニメ化した『リトルバスターズ』とか、ハーレム構造と言っていいかどうかは別として『AngelBeats!』も同じ系統に入れていい気がしています。それと『真剣で私に恋しなさい!』もあげたい。これらは“ギャルゲー系”にも関わらず男との付き合いのパートがある。
ギャルゲー、エロゲーをやっているはずなのに何で男とくっちゃべってなきゃならんのよ?って感想になると思えるのですが、“何故か”そういうものが出てきたんですね。ハーレム構造としては余分だったはずのものがつき始めた。
あと他に『ペルソナ4』も上げたい。僕が観たのはアニメなんですが、これも主人公中心にハーレム構造になっているのですが、どうも物語を観ていると“そこ”が重要視されていない。むしろ男女混じったグループ自体にその価値を見出しているように見える。…ちょっと毛色が違いますが『仮面ライダーフォーゼ』もこの系統ですね。
これらの系統を僕らは、ハーレム構造の志向が行き着いた先に「恋人が欲しい(恋人が沢山欲しい)」という要求よりも、「友達(仲間?)が欲しい。友達はどうやったらできるの?」という要求に変わって来たんじゃないか?という解釈で捉えようとしました。まあ、それが「友達欲しい系」というヤツです。
そこからさらに、この観点で物語を読み解こうとしたのが『僕は友達が少ない』、『ココロコネクト』、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』あたりでしょうか。……ラノベばっかですねアニメ『TARITARI』もこの系統に入れていいかな?
さて、『はがない』、『俺ガイル』は構造としてはハーレムものを形勢しているように見えるのですが、主人公の要求(つまりテーマ)は友達にあるように観えます。『ココロコネクト』、『TARITARI』は男多+女多で物語が進み、その中には恋愛模様も描かれるわけですが、必ずしも恋愛主体の物語ではないと観ています。むしろ男女グループで何を為すかが主体なはず。そういう“感じ”の流れが見て取れるなと思うわけです。
……で、ここから、それを前提とした「次の話」なのですが。
これらの『物語』は「友達がいる物語」、「友達が欲しい物語」といった“友達讃歌”を高らかに歌い上げている物語に観えるのですが……「本当にそうなのかなあ?」と僕は思ってしまったんですね。
そうですね、『リトバス』、『マジ恋』、『ココロコネクト』あたりはバリバリの“友達讃歌”だと思います。そういったものに対するノスタルジーに近い観すらあります。ここらへんは、まあ「本当にそう」なんでしょう。
しかし、近年、かなり当たったのではないかと言える『はがない』、あるいは『俺ガイル』なんかは、“ぼっち”スタートの話なわけです。言わばこの『物語』は「ぼっちを対象にメッセージが送られている」と……必ずしも、そういうワケではないと分かっていて敢えて言いますが(汗)まず、フォワードに設定した受け手は“ぼっち”(あるいはそれに近い心情の人)だと思えます。
そう考えた時、果たしてこの“友達讃歌”は“ぼっち”に対して癒しを与えるのか?……って思ったんですね。
『はがない』の第一巻の第一章においてこういうセリフがあります。(↓)
「……そもそも、私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」
「え?」
「……友達がいないことがイヤなのではなく、学校とかで『あいつは友達がいない寂しいやつだ』と蔑むような目で見られる事がイヤなのだ」
「あー、なるほど」
なんとなくわかる。
『友達がいること=いいこと』というのは基本的にその通りだと思うけど、それが世間では『友達がいないこと=悪いこと』と同義のようになっている。
それはちょっと違うんじゃないかと俺は思う。
「私は一人でも平気だ。学校での友人関係なんて上っ面だけの付き合いで十分だ」
三日月の声には、どこか無理が感じられた気がした。
(『僕は友達が少ない』第1巻より)
……けっこう、いい事言っていると思いませんか?僕はここにすごく共感しました。べ、別に僕は、ぼっちじゃないよ!きっと!(`>ω<´;)……いや、世間ってけっこう一拍の疑念もはざまず「これが正しい!」とか「これが幸せモデル!」とか言っちゃう題目や看板がそこら中にありますよね?僕はわりと一々「そうかなあ?」と考えちゃったりする所があるんですよ(汗)このセリフ、そこの琴線に触れる所がありました。
で、『俺ガイル』でも上記に近い心情の吐露があったりして、「ぼっちの物語」としては、ここは急所の景観に思えます。
ぼっちは「友達ができた!嬉しいな!」で癒される事もあるでしょうが、それと同じくらい「別にぼっちでもいいんだけど?」(この思いは、実際にぼっちじゃない人でも抱く事はあるはず)という思いを瘉されたいのではないか?現代だとその層はけっして少なくないのではないか?…と感じるのです。
しかし、おそらく、これらの物語は“そっち”へは向かっていない。
どういう事かというと……『はがない』や『俺ガイル』はまだ完結していない『物語』ですが、おそらく「ぼっちでは無くなる」結末を迎えても「ぼっちを癒す」結末にはならないだろうと思われます。
というか、読めば…いえ、「読まずとも分かる」と思いますが(笑)『僕は友達が少ない』は、こんなタイトルにも関わらず友達、恋人(その候補)が溢れています。『俺ガイル』もそうです。ただ、それに気づいていないだけという構造を持っています。
主人公である貴方がそれに気づいていないだけ……“青い鳥”は貴方のすぐ隣にいるんだよ?というストーリーラインを描く。そういう「分かりやすいハッピーエンド」に向かうであろう事は、ある程度読み進めれば想像できる事かと思います。
しかし、そうすると、どうなるか?「ぼっちではなくなる」というテーマは果たしますが、「ぼっちを癒す」というテーマはどこかに霧散してしまう。
「ぼっちで無くなるハッピーエンド」は、ぼっちの者(その心情に共感する者)にこう語りかけます。
「分かるか?やはり、ぼっちは不幸な事なんだ?つまり、今のお前は不幸なんだ。この物語の主人公はそこを脱する事でハッピーになれた。お前も“そう”変わるべきなのだ!……なぁに、気にする事はない。お前はすぐそばの幸せに気づいていないだけなんだ。気づけ、そして、見つけろ!お前の幸せを!ハリー!早く!ハリー!早く!」
……先に言っておくと僕は『はがない』や『俺ガイル』がダメな物語と言っているわけではありませんからね?(汗)今僕が語っている事をテーマの主体としていない事がいけない事と言うつもりもない。むしろ、『はがない』の事は超・好きで、別の角度の話をさせても、相当いろいろ語れると思います!(`・ω・´)
また、社交性がないというのは、寂しい寂しくないを超えたマイナスがあるので、他者と接する事、他者に合わせる事(不干渉ではなく干渉しつつ尊重する事)は、多少の精神的圧迫を与えてでも、それを身につけさせた方が良いように思えます。
しかし、『物語』というのは、必ずしも社会的な正しさの教科書ってワケではないですから。他者にとってダメな状態であっても、そこを癒すという姿勢はアリに思っています。
三日月夜空さんが言った
「……そもそも、私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」は、ある層の心情を強く代弁する言葉だと、僕は思ったのですが、一般的なストーリーラインを描く限り、そこは宙空に散ってしまう。
“三日月の声には、どこか無理が感じられた気がした。”と既に伏線が張られているように、「夜空が友達がいた事に気づいてしまう物語」は、「夜空はやはり友達を欲していたんだという物語」に収斂してしまう。
……ちょっと別の言い方をすると「お金持ちになりたいワケじゃない」という心情(テーマ)は、正確に言うと「お金はあってもなくてもいい」という心情であり、それは別に「お金持ち」になったとしても、失われるわけではない。
しかし、テーマを見せる『物語』としては、お金が欲しいワケじゃないと言っていた主人公がお金持ちになってしまったら、受け手の中にある強い幸せモデル「自分はお金が欲しい!お金持ちになれてよかったね!」という心情が、そのテーマをかき消してしまうんです。
繰り返しますが『はがない』、『俺ガイル』がこのテーマを取り扱っていると言っているわけではないです。僕が勝手に気にしてしまった視点で、物語を眺めているだけの事です(汗)
そして、エンタメを扱う限り、こっちの方向への展開はできない……非常な困難がある事は分かり切っている事です。何でかと言うと……
こっちの地平には“王道”がないからです。
文学や芸術なら、こっちの方向へ向かったものはいくらでもあると思うんですが……いや、マンガにだってあるんですが、でも、それだけではエンタメの王道とはならない。
ここで言う王道というのは、受け手の多くがそれを楽しみ、送り手の多くが楽にその道を通れるようになってはじめて王道となる。
その意味において「私はどうしても友達が欲しいわけじゃない」という心情の道がどこかに辿り着こうと思ったら、ほとんど道なき道を進む必要があって、とてつもない困難がある。かく言う僕自身が、この方向の展開に対して具体的なストーリーラインをイメージできているワケではないんです。王道に当てはめられないから(笑)
…が、一昔前なら「こういう変わり者もいますよ?」くらいのバリューにしかならなかったテーマが、もう少し共感を持って迎えられる土壌が現在は存在しているのではないかと思うのですよね。
王道とは行かないまでも、新たな交易路を期待できるくらいにはなっているのではないか。一時の世相かもしれませんが。
まあ、そんな感じに「存在しない路線」(←これ重要!)を考え、想定して他の『物語』たちを眺めたりしています。
そうすると、けっこう、それっほいものも出てきている事に気づく(笑)『湯神くんには友達がいない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』あたりが、そんな感じかなあと。
大分、長々書いたので、ここらへんで切り上げて、この二作品の話や、さらに続きの話は、また別の機会にしたいですが、ちょっとそこらへんを妙に気にしていますよという話でした。