【日本史】
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『センゴク外伝桶狭間戦記』@漫研ラジオ
(↑)昨日、『センゴク外伝桶狭間戦記』(作・宮下英樹)のラジオをやりました。…いや、けっこう必死にしゃべりました(汗)あんまり人が寄ってきそうでもないような?なさそうな?タイトルだったので(汗)聴こうと思った人には、それなりに楽しんでもらいたいなという感じで。
ただ、けっこう実しやかに喋っているんですが、僕の話は巷説異説がうろ覚えで入り交じっている話ではあるので、情報としての価値はその程度のものという事に捉えておいては欲しいです。あくまで歴史ものの与太話として楽しいよね?という主旨のラジオではあります。
その中で“金ヶ崎の退き陣”と“桶狭間の戦い”をリンクさせて語ったパートがかなり『愉し』かったのでその部分だけ、記事に抜き出しておこうかと思います。
■金ヶ崎の退き陣の下手
まず『金ヶ崎の退き陣』なのですが織田信長の戦記としての小説には桶狭間合戦と並んで必ず出てくるエピソードだと思います。元亀元年(1570年)に織田徳川連合軍が実施した、越前の朝倉義景への侵攻作戦で、敦賀湾の金ヶ崎城を落とした所で背後の北近江の盟友・浅井長政が信長を裏切り、越前と北近江で織田徳川連合軍を挟撃すべく進軍中との報が入ります。
この時の信長の脇目も振らぬ大撤退戦が『金ヶ崎の退き陣』で、この時、殿軍を買って出た木下秀吉(豊臣秀吉)が後に大出世を果たす…なんてエピソードが有名ですよね。
…で、この時の信長の撤退の仕方はちょっとおかしい。いや、そもそも信長って戦はそんなに上手くはないよね?(※戦下手という程ではないが戦国時代の戦上手と比べるとかなり見劣りする…という程度の意味ですが)という話になりました。『国盗り物語』(作・司馬遼太郎)の中で司馬遼太郎が明智光秀にこう言わせたりしているのですが…(↑)
信長は自分の危地に気づいた。
気づくと同時に消えたのである。味方をすて、単騎で消えた。
しかも京へ。
その退路距離のながさは、これまた古今未曾有であろう。敦賀平野に舞いおりたあざやかさもさることながら、その逃げつぶりの徹底している点でも、常人ではない。
(だから、変わっている)
光秀はおもった。普通の戦術家なら、こうはやらない。弥平次光春のいうように、戦場をいったん離脱し、適当な場所で防戦し、小あたりにあたって敵の出ぐあいを見、弱しとみれば逆襲し、強しとみればさらにしりぞく、その芸が巧級であればあるほど名将といえるわけだ。
(おれならばそうする)
光秀はおもったが、しかし信長のやり方に対して自信があるわけではない。あるいは信長のやり方は戦術上の既成概念を破っているだけに、天才的といえるかもしれない。
(『国盗り物語』退却より)
あるタイプの英雄の中に物凄く逃げるのが上手いタイプがいて、何よりも生き延びなければ後に名を残せない観点から、それは時に英雄の条件のように言われたりします。また、その観点から、この時の信長の行為は誉められ、彼が紛れもない英雄・天才だった事の証左として扱われるエピソードでもあります。
しかし、この時の光秀が言うように、真っ当な司令官ならばもっとしっかりとした撤退戦というものを運用していくのが正当と思えます。信長を大軍の指揮官として評価した場合あまりいい点にはならないでしょう。
「いや、信長は指揮官じゃなくて君主だから」、「英雄だから」、「自分が生き残ることが全てに優先する事を誰よりも理解していた天才だから」、と、それとは別の見解も当然あるんですけど、それは信長が後に浅井、朝倉を滅ぼし本能寺の変まで生き延びたから言えることで、正直、この一人がけの退却自体、途中で落っ死ぬ可能性は充分にあり得たわけで、そうなったら、後の歴史がこの“敵前逃亡劇”をボロクソに語るのはほぼ間違いないように思えます。
この時の信長がの所々の行動や指揮~何も言わずに消えたのか?もっと事後の指示を事細かに出した上で先頭切って撤退したのか?~は、物語によって描きは違うし諸説ある事でしょうけど大体、確実っぽい事(?)を2つ程上げます。
1.京都に逃げ延びたときの信長の共はわずか十人程度であった。
2.殿軍を池田勝正、明智光秀、木下秀吉、そして徳川家康などが務めた。
(※ラジオでは、池田勝正を僕は池田恒興か輝政と勘違いしてしゃべっていますね(汗)すみません。御気おつけ下さい)これを見るとかなり混乱した撤退だった事は測れると思います。
…というかですね。同盟国大名の徳川家康が殿軍とか、あり得なくないですか?w彼は義理堅いから云々、殿軍を見かねて云々みたいな描写をする小説もあるんですが「信長に気にも止められず、置いてけぼりをくらって、伝令もままならぬままに、取り残された」のが真相としては一番しっくりくると思います。
木下秀吉にしても明智光秀にしても、そこはそうで「こんな錚々たるメンバーがこぞって殿軍やる必要ない!」というか、むしろ「信長様以外、みんな殿軍みたいなもんだよねwあはは~w」(ピンチ過ぎて逆にハイになっている)という状態だったんじゃないかと思うんですよね。
その後、織田信長は浅井、朝倉に勝ったからこそ、微妙に気まずい雰囲気のある“あの時”の話は、どこか皆でいい話、いい思い出にしておこうという“空気”が生まれ、まるで互いの友情を確かめ合うような「命知らずの俺たち、殿軍野郎、Aチームだったよね!?…ね!?」(←)と、そんな部分が強調されるような話になったんじゃないかとすら思ってしまうw
■桶狭間の戦いの下手
しかし、こういった信長の行動を桶狭間の戦いのある“仮説”とリンクして考えると、ちょっと観えてくるものがあるかな…という話が本題です。ある仮説…というか『桶狭間戦記』で語られている“桶狭間の戦い”の真相の事ですけどね。
定説…って事もないかもしれませんが、広く一般に知られる桶狭間の戦いは、織田信長が雨に紛れて今川義元の本陣に接近し、そして見事義元を討ち果たした…信長の一世一代の奇襲作戦の成功と言うものですが、しかし、当時の戦場の城と地形、そして軍陣を確認して行くと、そこまで単純な経緯ではない事が分かってくる。
じゃあ、実際どんな戦いだったのか…というのはここでの本題ではないので、そこは『桶狭間戦記』を読んでもらったりして欲しいですが(ラジオを聴いてもらうのもいいですね)ここで取り上げたいのは桶狭間の戦いという戦果の特殊性です。
この戦いで織田信長は、今川義元という戦国大名を討ち取っているワケですが…。この戦果はちょっと凄い。
今川義元クラスの大名を合戦で討ち取ったっていう事例は、他にはまずほとんどないのではないでしょうか?
滅びる寸前まで弱らされた大名の戦いならともかく、気力軍力充分の軍団の大将が討ち取られてしまったというのはそうは無いはずです。
自刃に追い込む事はあります。桶狭間の戦いに比肩すると言われる『厳島の戦い』(1555年)なんかは毛利元就が陶晴賢を自刃に追い込んでいます。それが討ち取られるのとどう違うのか?というと、陶晴賢の場合はやはり毛利元就にしてやられ「負けた」という意識がちゃんとそこにあった。そして自軍は確かに敗れて進退窮まるからこそ敵兵に討ち取られるより自刃するワケです。
※ ちょっと思い出してみると島津家久に討ち取られた龍造寺隆信なんて大名がいますね(汗)…まあ、とにかく希という事でお願いします。
対して今川義元はどうか?彼は自分の負けが認められず最後まであがいたが故に敵兵に討ち取られてしまったのか?…そう考える事もできるんですが、多分、そうじゃなくって
「本当に、今川軍は負けていない」状態だったと考えるのが自然じゃないかと思うんです。(まあ『桶狭間戦記』などを見るとって話ですけど)
自分さえ生き延びれば、どう考えても再起できる。何年後かに捲土重来する…なんてことじゃなく、すぐにでも再戦できる。そして次こそ負けない。そういう状態にも関わらず、何故か自分は雑兵と刃を交えている?なぜだ!?というその納得の行かなさが討ち死にという結果になったのではないかと思えるんですね。
つまり、よほどの慮外の死が義元に訪れたって事ですけど、これが全て信長の軍略によるものだとしたら、彼はすごい戦争の天才という事になります。
…でも、違う。大名を打ち取るなんて狙ってできるものではない。その後の信長の軍略を観てもそこまでの軍才を見せてはいない。義元にとっても慮外の死なら、信長にとってもそれは慮外のものだったと思えます。
そうして、その慮外の一戦で今川家は滅んでしまう。義元が死ななければ。単に桶狭間では一敗地に塗れただけならば、織田信長は果たして徳川家康ではない松平元康と清洲同盟を結べたかどうか?(ずっと信長を裏切らなかった家康は、ずっと義元を裏切らないんじゃないか?)清洲同盟なく今川の脅威にさらされている中で、果たして美濃の攻略などできたかどうか?
そう考える時、この『桶狭間の戦い』の有り得ない戦果が、歴史の分水嶺だった事は感じずにはいられません。
この戦さの慮外の事は信長の心に大きな影を落としたのではないか?
そう考えてみて。『桶狭間の戦い』を捉え直してみて。改めて金ヶ崎の退き陣を観ると、ちょっと信長の心象が垣間見える気がするんですよね。
あれほどの権勢を誇り、政治と軍略に長けた今川義元も、戦さの不慮の偶然の前に死んでしまう。そしてその死によって今川家自体が全てを失ってしまった。逆に、義元が健在でさえあれば尾張が今川に平らげられるのは、結局、時間の問題ではなかったか?それが信長には分かるはずなんですよね。
もし、あの戦いが信長の“計画通り”の戦いであったなら、信長は戦さの何に怯える必要もない事です。それ程の軍略を示す戦争の申し子なら、上述した金ヶ崎の包囲も、華麗に指揮をとり窮地を脱したのではないでしょうか?
でも、そうはしなかった。それは、あの戦いの戦果が、信長にとっても慮外のもので、本当は今川義元に勝てるはずもなかった事を一番よく知っているのが信長自身だったから、という事ではないでしょうか?
だから自分にとって慮外の事が起こったとき、一もニもなくその場から離脱した。それは総司令としてはあるまじき行為だったかもしれないけど、
有能な総司令としてその場に留まって指揮をとった今川義元は、慮外の事で討ち死に、そして今川家は全てを失っているんですよ。
それを誰よりも間近に観たのが織田信長だと思うと、金ヶ崎の退き陣に対して「ああ……そういう事だったのかなあ?」なんて、思いを馳せたりするわけです。(´・ω・`)
~しかし、戦さの慮外に細心の注意を払った信長は、戦の無いはずの慮外に敗れ去るのですけどね。うん。