今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(作・伏見つかさ、イラスト・かんざきひろ)と『僕は友達が少ない』(作・伏見つかさ、イラスト・ブリキ)がおそらく次巻あたりが最終巻のようですね。(まあ、番外やスピンアウト的なものは、また出るとして…)
どちらの『物語』もすごくキレイに終わりそうで期待しています。……いや、『はがない』はもう少し続くのかな?まだ色々納なくてはならないモノがありますね。いずれにせよ、終わりに向かっているという心地よさがあります。

どちらもゼロ年代の最後の方に出てきて、けっこう牽引力を持っていたタイトルの二つ、ちょっとここで敢えて“双璧”と言いますが、そのどちらもが、けっこう短期で終わろうとしていていろいろ思う所があります。
いや、なんかちょっと前にアニメで『灼眼のシャナ』と『ゼロの使い魔』の完結編が同時期に放送されたじゃないですか。これもゼロ年代の初頭に出てきた、敢えて“双璧”と言いますが、双璧なタイトルだったじゃないですか。でもこの両作品は完結までにけっこう時間がかかってますよね。
何かそこらへんを連想しちゃって「ふ~ん?」とか色々考えているんですけどね。それで、ちょっと走り書き。

ちなみに『俺妹』で好きなのは、田村・夜神月・計画通り・麻奈実(`・ω・´)。もともと幼馴染好きですが、“計画通りヒロイン”超好き。
『はがない』は柏崎星奈だったのですが、後半で志熊理科と楠幸村の追い上げがひどい(`・ω・´)特に最後の直線で幸村がひどい。もともと武士道好きですが、“死ぬこととみつけたりヒロイン”超好き。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(11) (電撃文庫)
かんざき ひろ
アスキー・メディアワークス

僕は友達が少ない 8 (MF文庫J)
ブリキ
メディアファクトリー


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【日本史】



▼(前回の記事):『やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです』~“坂東”というフロンティア

▼泳ぐやる夫シアター:やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです 巻第一


■坂東武士という存在

前回の記事で述べた「坂東は(古代~中世の)日本人のフロンティアであった」という主張に合わせて、ちょっとネット上から「アメリカ開拓時代」の写真を見つけて来て(↑)上に張ってみました。
ちょっと想像して欲しいのですが…まあ、イメージを利用した印象操作の話なんですが(汗)これが開拓時代の写真である事を知った上で、まず、彼らの“面構え”を見て下さい。そして、自らをフロンティアに投じていった彼らの胸に宿る希望や不安、そこから来る“気概”のようなものを感じとってみて欲しいです。
…どうでしょうか?……僕は、おそらく“それ”は、日本の「はじまりの武士たち」に宿っていいた“気概”と、ほぼ同じものだと思うんですよ。

いや、すみません。はじまりの『武士』では範囲が広過ぎですね(汗)『武士』の中でも、特別な意味を持つ『坂東武士』の話です。“坂東”というフロンティアに現れた、はじまりの『坂東武士』の“面構え”と“気概”といったイメージを、こういった写真から見出すことはできるんじゃないかと思っています。
…あ、鎌倉幕府成立期に入ると、もっと土地が安定した大地主の寄合の“面構え”になってくるのでしょうが(笑)…まあ、それもまだ充分に近い匂いを残していた事でしょう。

僕が、ここで話したいのは、こういったイメージの話なんですよね。『やる夫が鎌倉幕府~』の舞台となる平安中期から鎌倉時代にかけて、日本で何が起こっていたか?その出来事を知るだけであれば、それこそ教科書を読むだけでいい。しかし、それだけだと……なんと言うか、プロットを知っただけで、長い長い日本人の『物語』が見えてこないんですよね。
たとえば「武士のはじまり」という言葉が出た時に、おそらく、多くの人たちは、江戸時代の、あるいは戦国時代後期あたりの、支配者としての武士像をイメージすると想像します。でも、武士(のはじまり)を支配層に当たる者ってイメージすると、やがて確かに支配層になるとしても、この時代の武士について多くのものを見えなくしてしまう気がします。
鎌倉武士が支配者としての立場を確立するのは守護地頭の立場を手に入れた時でしょうね。しかし、その後も武士は半士半農という混在状態の者が大半だったわけで、やはり明確に武士=支配者(あるいは貴族?)が成立するのは江戸時代に入ってからだと思います。…というかこの場では武士がそういう混然とした“人間の勢力”である事を強調したいです。

大和朝廷を旧実力者にして旧支配者、鎌倉幕府を新興の実力支配者…としてだけ捉えると「ふうん、昔の王朝(支配者)を、新しい王朝(支配者)が追い落としたんだね。でも、その時、新王朝は、旧王朝を断絶させなかったんだ?なんでだろう?日本って不思議だねえ…」みたいな感想になってしまうでしょう。
でも、そうじゃない。“彼ら”が本来(あくまで本来ですが)、目指したものは、旧支配者の追い落しではない。源頼朝が目指したものは“革命”ではない。もっと別のもののはずなんです。

ちょっとここでWikipediaに都合のいい記事があったので引用してみましょう「寛平・延喜東国の乱」という平安中期の889年、に東国で発生した反乱なのですが…(↓)
8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなったことから地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が全国的に常態化するようになっていた。特に東国では9世紀半ばから後半を通じて俘囚の反乱が相次ぎ、群盗の活動の活発化と相まって、治安悪化が顕著であった。朝廷はこれらの鎮圧のために軍事貴族層を国司として派遣するとともに、国衙に検非違使等を設置するなどの政策をとっていったが、群盗の活動は収まらず乱が発生したものである。
乱の詳細は不明であるが、その鎮圧には10年余りかかったことが『扶桑略記』や『日本紀略』に記載されており、鎮圧後も、東国では「?馬の党(しゅうばのとう)」の横行が顕著であるなど安定しなかった。

(Wikipediaより)

どうも桓武天皇の治世の頃、坂上田村麻呂の東北蝦夷征伐が一段落したあたりから、常備軍を削減する動きがはじまり、太宰府や東北といった国境付近の兵力以外はほとんど解体、京都には検非違使、各国には国司の施設を護衛する必要最低限の人員が配備される程度になっていったようなんですよね。なんでか…って僕もよく分からないのですが、まあ、つまる所「もう戦争しないから」とでも思ったんですかね?(´・ω・`)
しかし、この頃の軍隊は防衛と警察を兼ねているわけで、これって要するに平安時代の政府は平安京以外、警察的行為による治安維持を放棄したって事です。少なくとも皇族貴族たちの尻に火がつくまでは、ほとんど腰を上げなくなっていた。大事になって、はじめて「軍の編成」を行なってこれに当たる。大事になるまでは、ほとんど放置し「各々の自衛に任せた」。
それが、土着の自衛集団=武士のはじまりであり、また、朝廷にある程度わたりをつけられる源氏や平氏が、朝廷からの突発の軍の編成や、国司の施設の護衛などの請け負いをはじめるのもこの頃です。…戦争はしなくても乱はあるワケでね。…どうも、この頃の平安貴族はかなり夢想に生きているというか、素で「それは自分とは関係ないもの」と思っていた疑いがあります。

しかし、坂東というフロンティアは、フロンティアであるが故に、元々、治安はそんなによくなかったと思います。しかも、そこは西国とは違って、異民族(蝦夷)が残存する最前線でもあったワケです。上述の「寛平・延喜東国の乱」の項にある“俘囚”って蝦夷の生き残りの事です。
たしかに坂東に根を下ろした者たちは、ここで生きここで死ぬ覚悟をし、自衛する気概も持っていた。同時に彼ら自身が荒くれもので無法な所もあった。正に西部開拓時代の開拓者たちのようなものだったとイメージします。だけど、既に騎兵隊は引き上げていて保安官は自分の身しか守らない。にも関わらず税は払え、労役に出ろ、寄進しろと、都合のいい要求だけしてくる。そういう者たちに、相当、腹に据えかねる思いが生まれたであろう事は想像に難くありません。
その彼らの思いが「俺たちが平氏を追い落とすんだ!いや、大和朝廷に成り代わってこの国を治めるんだ!天下を取るんだ!」なんて権力闘争的論理で説明しきれるはずがないと思う。僕の話が上手く伝わっていれば、そんなものとは別の彼らの願い「何とかしてくれ!」という思いがイメージできると思います。

いや、彼らだって「何とかしてくれ!」で一つにまとまってるわけじゃない。むしろ、勝手に自衛するって事は、予防的防衛(やられる前にやる的な)もやるし、半無法化している連中でもあるワケです。それぞれが相手を出し抜こうとしている。だから“権力”に利用される。「平氏の清盛って奴は上手くやったみたいだ。しかし、俺たちには何もしてくれないという意味で“やつら”と変わらない」…。
そんな中で、昔、戦役で世話になった、死生を共にした上司の一族の御曹司が旗を上げると言う。「…まあ、世話になった、源氏のぼっちゃんが言うんじゃ、しょうがねえなあ…」と、運命づけられていたかのように、一つになれた僥倖なる物語。それが源頼朝と……鎌倉幕府成立の物語なんです。

……その物語が、なぜ、長い長い擾乱の物語となっていったのか?『やる夫が鎌倉幕府~』で、源頼朝や、北条政子、そして足利義兼たちが目指したものは、遂に物語が幕を引いても手に入る事はなかったと僕は思っています。…何故か?を、さらに書いて行くつもりだったのですが、ちょっと時間的に厳しくなって来たのと(汗)まあ、ここまでで掲題の「坂東というフロンティア」の意味の説明としては一段落ついているので、早めに切り上げようと思います。…ここはまた機会があればと言う事で。

743年の墾田永年私財法の発布により、古代日本に大開拓時代が生まれ、日本列島を人間が埋め尽くしはじめた。列島の最も大きな人間の苗床であった坂東では、次第に“人間の勢力”が畿内の勢力を脅かし始める。939年、平将門が乱を起こし、新皇を名乗るが、この時はまだ畿内の勢力の方が上だった。
それから、さらに250年後、畿内を凌駕する勢力を経て、ようやく坂東の台頭の物語が成ります。しかし、それは坂東武士たちが持っていた火種が~他の坂東以外の小さな苗床の萌芽に合わせて~全国に波及して行く物語のはじまりでもありました。…まあ、それはまた別の物語です。(`・ω・´)


まあ、そんな感じでラジオしますね?(↓)

▼漫研ラジオ:http://www.ustream.tv/channel/manken


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【日本史】

織田信奈の野望 6 (GA文庫)
みやま 零
ソフトバンククリエイティブ

『織田信奈の野望』(作・春日みかげ、イラスト・みやま零)6巻読みました。(↓)以前の記事です。

『織田信奈の野望』~戦国ラブコメ~信奈とか光秀とか可愛い

(↓)あとペトロニウスさんの『物語三昧』で、引用されていた哲学さんのコメントがとても『面白ろ』かったので、こちらでも貼っておきます。『織田信奈の野望』が6巻に入って、それまで、微妙にして絶妙(?)のバランスで合わせていた史実から、かなり離れてきた感があって「そうすると、歴史に合わせ込んで観る愉しさから離れてしまわないか?…みたいな?感じの話題を上げていたんですよね。
それに対する哲学さんの回答は、なかなか秀逸…というか、僕はこういう『物語』への考え方、好きなんですよね。その物語が好きになり過ぎて「すごい科学で守ります!」みたいな感じになっているのってw

▼物語三昧:『織田奈の野望』について哲学さんのコメントが面白いです。
一見、織田信奈の物語はひょいひょいハッピーエンドが続いてるように見えますが、これは何周もの歴史ループが裏で繰り返されており、豊臣秀吉が何度も何度も『まどか☆マギカ』の暁美ほむらや『紫色のクオリア』のガクちゃんみたいに歴史ループを繰り返し、ようやく辿り着いたハッピーエンドルートだと仮定すればいいのです。

織田信長の人生はどうしても凄惨なものになるのは確実で、それを修正するにはもう、天皇家を解体して邪馬台国が天下取って卑弥呼の末裔が姫巫女として君臨して姫武将が大量に出るようになって、織田信長も織田信奈と性別改変まで行い、秀吉自身も未来から自分のオルタナティブを呼んで託すことまでしないとトゥルーエンドの歴史へ辿り着けなかった……みたいに考えるのです。

まあ、ちょっと立ち返った事を言うと、織田信長を美少女にしよう!というコンセプトを得た時、「この子にどうすればハッピーエンドを与えられるか?」という志向になって、織田信長の史実を一つずつ一つずつ、ハッピーエンドの伏線となるような“形”に改変して行く……と、技術的にはそういう話なんですが、それをどう“物語的”に落としこんでゆくのか?というのは、おたくの醍醐味というか、このブログでぼちぼち更新している『物語愉楽論』の一つの到達点の話でもあります。まあ、それは本当にぼちぼち紹介するとして…。

もう一つ『織田信奈の野望』はハッピーエンド志向の他に、もう一つ別のコンセプトがついているようです。これも哲学さんが指摘している、武田信玄と、伊達政宗の台頭です。まあ、これもハッピーエンドの一環というべきなのかもしれませんが“英雄の決戦”とでも言えばいいのか、天下統一を目指しながらも天命無く、その場に至らなかった者たちの決着を着けてやろう…という考え方で歴史が動いてきているように観えます。これも今後の愉しみの一つでしょうね。

そして、その“英雄の決戦”からはおよそかけ離れた存在と言え、かつ織田信長を悪名たらしめている相手、石山本願寺及び一向宗門徒との戦いは『織田信奈の野望』において、お猫様を信仰する本猫寺(ほんにゃんじ?)として扱われ、良晴の交渉によって平和の内に和睦を成し遂げてしまいます。
まあ、これも分かる話。宗教ものという存在自体が、いろいろ扱いづらい面もあるのですが、“英雄の決戦”という軍記物的な華やかな戦さの描きとはおよそかけ離れた戦いとなっていた一向宗門徒はその戦いを描くだけで、まあ、ハッピーエンドのハッピーな気持ちからは遠ざかるよね…という事なのでしょう。

■石山本願寺という存在

しかし、最近、僕は戦国時代において、この石山本願寺という存在をすごく大きなものに捉えようとしています。…といっても、今、何かまとまった説を持っているわけでもないんですけどね(汗)

石山本願寺が織田信長にとって、最大最強の敵である事は……まあ、意見が割れるとも思いますが、そこそこの支持を得られるであろう史観だと思います。ちょっと言うと、織田信長が10年かけて美濃を攻略するワケですが、この時、尾張と美濃を手に入れた時点で、織田信長は、戦国大名としては最強の国力を持ち、一国で彼と総力戦をやれる大名はいなくなったんですよね。
動員兵力について語ると……諸説ありますが、仮に武田信玄のこの時の動員兵力を3万とするなら、信長は6万の兵力を動員できる…というぐらいの差がついている。(信長が「天下布武」を謳うのは時から…という達見を考えると空寒いものがありますが)この国力差は、信長が南近江を手に入れ、上洛を果たすとさらに跳ね上がります。
この信長に対して毛利の支援があったとは言え、特に大きな領土を持つわけでもない石山本願寺が10年間……言ってしまえばタイマンを張り続けたわけです。はっきり言ってこれは他の戦国大名では真似ができなかった事です。

また石山本願寺は武装寺としての信長の対立だけでなく、別の対立もあったと言えるのでは…と僕は思っていて。ちょっと一般的な話をすると、延暦寺や一向宗に対する信長の虐殺行為ってけっこう一緒くたに思われている所があると思うんですけど、延暦寺と一向宗は、信長に逆らった者という観点からは同じでも、対立の意味は違っている所があるんじゃないかと。
いや、よく言われるように織田信長の功績には「旧態勢力の打破」というのがあります。延暦寺はこれにあたると言えそうです。しかし、石山本願寺及び一向宗は戦国時代においては“新興勢力”と言った方がよい存在のはずなんです。

つまり、僕は英雄・織田信長軍団とは別の“新しい勢力”だったのでは?と言いたい。

しかし、本願寺は旧態勢力とはつながっていだろうし、信長ほどそれを一気に片付ける能力があったかと言うと疑わしい。でも、信長だって将軍を利用したり天皇を利用したり別に旧態勢力と敵対ばかりしていたワケではないし、あくまで邪魔なモノを排除しようとしただけで「時代を改革してやろう」とか考えていたか?というとそれは充分に疑えるもので、つまり、その意味において本願寺と大差ないんじゃないの?とも言えます。

石山本願寺は延暦寺のような歴史を持った霊山ではない。また「百姓の治めたる国」と言われた加賀の一向一揆(真に百姓の統治だったかは解釈がありそうですが)などを観ても、別の“新しい勢力”を観てとる事ができると思います。
また『桶狭間戦記』のラジオなんかでも繰り返し述べましたが、戦国時代は、何より武装村落である“惣村”が充分に強い力と主張を持っていた時代であったという史観があり、その惣村の者たちに絶大な支持と信仰を受けたのが石山本願寺であった事には大きな意味があると思います。

戦国時代にキラ星のごとく現れてその名を馳せた戦国大名たちと、その版図の変遷で歴史が語られて~これを仮に版図主義と言いますが~その版図においては“点”に過ぎない石山本願寺のその意味は、まだ充分には掘り下げられていないような………って、僕の話ですけどね。僕がまだ納得できていないと。
『織田信奈の野望』の本猫寺も、ちらっと近い事を言っていましたが、石山本願寺は、版図主義の戦国大名とは全く違った形での“天下統一”を目指していたのではないか?そんな事を考えたりもします。
う~ん、まあ、正直に言うと、そのネタで何か一本小説がかけないかな?とか考えているんですけどね。今は、ぼちぼちゆるゆるとその下調べ中みたいなものです(汗)


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【日本史】



この前『桶狭間戦記』のラジオを一緒にやりました哲学さんの薦めで『織田信奈の野望』(作・春日みかげ、イラスト・みやま零)1~5巻まで読みました。いや~、やたらスチャラカな戦国絵巻なんですが(悪い意味じゃなく)、楽しかったです。件の“金ヶ崎の退き口”のシーンなどは思わず感動してしまいましたw……そうかあ~…あそこを愁嘆場に描くのはよくあるけど、織田信長と秀吉が恋仲だったとするなら、ああいう風になるのかあ~wいや、良いシーンになっていますね。

『織田信奈の野望』は戦国時代にタイムスリップしてしまった相良義晴くんことサルが、織田信長…この世界では織田信長に当たる人物らしい女の子、織田信奈に拾われて“一緒に”天下布武を目指す『物語』。SLG『信長の野望』をやりこんだ相良くんのゲーム知識が、信奈のピンチを救い、そして少しずつ本来の日本の歴史とは違う道を進み始めているようです。
どうも、この世界、女の子でも御家の跡取りが出来るしきたりがある世界のようで(天皇家が女系?のまま来ているという分岐が影響しているのでしょうかね)女の戦国大名は珍しくない……というか、登場する大名、武将の八割方、女の子です。(`・ω・´)………うん、まあ、最近ではよくある事ですね。

歴史上の人物が実は意外にも女の子だった!?という物語はけっこうありますけどね。ぱっと思い出した所では『幕末純情伝』(原作・つかこうへい)なんていうのがありますね。あれは沖田総司が女の子で、坂本龍馬を好きになってしまう…って話でしたっけ?あと、『Fate/stay night』(制作・TYPE MOON)とかね。うん。
ここらへんの作品を持ち出してしまうのは『織田信奈の野望』は、けっこう史実に忠実というか……忠実なのかな?(汗)でも、戦国史上の大きなイベントは外さすに描いていく予定のように思えます。未来人・相良くんの介入で、武田信玄(勿論女の子)がバリバリ健在の状態で、長篠の合戦に突入するようですが。
そういう歴史イベントを、どのようにハーレム・ラブコメとしてリライトするか?がこの物語の醍醐味になっています。

またこの時代に来た相良くんの最大の目標は「本能寺の変を回避すること」なんですが、この焦点もなかなかよいです。信奈を助けたいのは山々なんだけど、ある程度、史実通りに進んでくれないと相良くんの予見ができなくなるという問題があって、戦って、また戦ってという日々の働きに奔走しながらも、その時はじわじわと近付いているわけです。

その焦点の人物である明智光秀なんですが、これがまた可愛いんだわ。(`・ω・´)案の定、相良くんを好きになってしまいました。
いや、さっきハーレム・ラブコメって書きましたが、サルくん当然のようにやたらめったらモテまくっているんですが、同時に、信奈との関係は間違いなく鉄板なんですよね。ほとんど喧嘩ばかりしているけど、なんだかんだ言って、この二人好き合ってるよねと。それを察している周りの女の子たちは…まあ、織田の家臣で(※ねねは義妹になっていますね……義妹w)かつ信奈にも惚れ込んでいるというのもあるのでしょうけど、サルくんへの気持ちは気持ちで置いておいて、一歩下がって見ている所があります。

…で、その空気を読めない嫁(`・ω・´)の十兵衛ちゃん(光秀の事)だけ、一人やたら浮かれて相良くんと添い遂げようとしているというのが今の状態w最初、サルくんとは反目していたのですが、信奈と同じかそれ以上の細かさで好きになってしまう過程が描かれていて、それで信奈から「サルを守ってあげて」という言葉を勘違いして、これまで留めていた箍が外れて、もうそのまま浮かれてしまっているという…wいや、可愛いわ。この子w
まあ、この痴情のもつれが、いずれ「本能寺の変」に繋がって行くんだろうなあ…などという想像は難くないのですが。…さて、しかし、確かに周りが見えなくなる事はあるけど、基本いい子の明智光秀が、信奈を“敵”と見定め、闇討ちに出る事があるのかどうか?と考えると違和感もあり………(考)ま、どうなるんでしょうね?

お気楽なラブコメとして描いてはいるのですが、決して人死がでない物語ではないんですよね。…というか「女の子は死なせちゃイカンだろ」の力場を働かせながらも、将兵はかなり死んでいるワケで、主人公の相良くんもこのカテゴリに入る人ではあるんですよね。
この面強く出すと、物語が暗くなってしまいますし、軽くやり過ぎるのもどうかって所もある。そんな中で、けっこう上手いバランスで人の死の緊張感を与えているなあと思います。どっちかというと軽目なんですけどね。それが上手い具合にラブコメの演出として利いていて、萌えるシチュエーションを生んだりしていますね。


織田信奈の野望 5 (GA文庫)
みやま 零
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【ロボットの反乱】【終末の物語】

ドミン「ああ、アルクイスト、そのとおりだ。お嬢様、そうなるのです。しかし一〇年もすれば、ロッサム世界ロボット製作所が小麦や布地など、何でも売り出すようになります。そうすれば物の価格なんてものは、実質なくなってしまうでしょう。貧困もなくなる。労働もすべて生きた機械がやってくれる。誰しも気兼ねなく自由になり、労働という我々にふさわしくないものから解放されるのです。すべての人間が、自己を完成するためだけに生きられるでしょう」

ヘレナ「そうなんですか?」

ドミン「もちろんです。もはや運命ですよ。そして人間が人間に隷属することも、人間が物の奴隷になることも終わりを告げるでしょう。無論、その前におそろしいことがおこるでしょうが、それは避けられません。しかし、もうパンを得るために命をなげうったり、暴力をふるう必要もありません。ロボットは物乞いの靴ですら磨くでしょうし、家の中にベッドをも用意するでしょう。」

(『R.U.R.』第一幕より)


すごい………。“ロボット”という言葉の語源になった物語として『R.U.R.(ロッサム万能ロボット会社)』(作・カレル・チャペック)を手に入れて読んだのですが、ちょっと、あっけにとられたと言うか…いや、普通に面白いんですね。1920年発表の物語にも関わらず、古びていない。(翻訳者様の力量みたいなものもあるかもしれないけど)
しかし、僕は、全然知らなかったんですけど、この物語のストーリーって【ロボット反乱】を題材にしているんですね。しかも「最初にして最終」という域にまで達してしまっている(汗)僕は【ロボットの反乱】というテーマには「人間にとって替わるもの」を観ていて、【コンピュータの反乱】というテーマには「神にとって替わるもの」を観ているのですが、その観点からこの話は既に「人間にとって替わるもの」を描いてしまっている。

この“ロボットの反乱”を正統として、アシモフの『われはロボット』(1950年刊行)が、その逆説としてあるのかと思うと『面白い』ですね。アシモフのロボットの在り方にも非常に驚愕したのですが、あの、ある種の“ひねり”は『R.U.R.』という正統派が既にある状態からの回答…と考えると腑に落ちる所もあります。

『R.U.R.』はチェコの作家・カレル・チャペックによる戯曲ですね。1921年に発表……第一次世界大戦は集結か…って、チェコスロバキア共和国の成立が1921年じゃん(汗)その後、ナチスドイツの台頭って激動の時代だなあ…。
ロッサム株式会社が、偶然手に入れた人造人間の製造法を使って、汎用の労働者(ロボット)を生産して世界中に売りさばいている。しかし、ロボットたちはあまりに人間に似ている事もあって、労働を強いられるだけのその存在に人権が認められるべきだと考えた一人の女性がR.U.R.に訪れる…といった感じの『物語』なんですけどね。

上に引用したロボットという労働力が完全に行き渡る頃には、人間は労働からも貧困からも解放されるであろうという予見と共に「その前におそろしいことがおこるでしょうが」という、新時代を迎える前に、旧時代の崩壊による大損害がある事をさらりと示唆していますw
また、時が過ぎてその労働力が相当数に行き渡る頃から、人類の出生率がさがり、ついには誰一人子供を産まなく(産めなく)なるという展開も……ちょっと、凄いですね。完全自由/完全平等の理想社会が見えてたその時、人類の足元には大きな落とし穴が広がっていたわけです。

僕は青空文庫で手にいれました(↓)。短編ほどの分量の戯曲なので、まだの方は、一度読んでおかれる事をオススメします。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001236/card46345.html

いや、ぶっちゃけ、この物語そのまま映画にしてもかなりカッコイイのになる気がしますw

また、読んでみた後、手塚治虫ファンの人なら、何となく伝わると思うんですがこの物語、何となく手塚っぽいんですよwいや、こっちが手塚先生に影響を…?どうなんでしょうねえ…。



とまれ『R.U.R.』で登場するロボットって、その後のロボットのイメージとなる鉄と電子部品の身体ではなく、人造細胞から出来ている“人間もどき”なんです。今日のカテゴリで言えば人造人間~レプリカントといった感じのものでしょう。
そしてそれは、手塚先生の『メトロポリス』のミッチィや、『鉄腕アトム』のアトムに非常に近いものに感じます。『メトロポリス』の中では既に鋼鉄体がロボットとして扱われ、ミッチィは人造人間と言われているけど、同時にかられは同族としてメトロポリスに“反乱”を起こします。そうして“定説”(?)では、ミッチィはアトムに変わり、そしてそのアトムも第一作『アトム大使』において生みの親である天馬博士に対し“反乱”する。いや、その後の『アトム今昔物語』(1967年発表)などで語られるロボットが人間からその権利を獲得しようという闘争は(暴力的でないにしろ)『R.U.R.』にかぶります。

まあ、この話は今はここまで。アトムのモチーフはピノキオとか、ディズニーの影響とか、諸説とびかってて、まああんまり『R.U.R.』と繋げて考えるのも、どうかなとも思うんですが。しかし、ロボットの意味が概ね鉄の人形という形式に落ち着いてからも、手塚先生の中では“人造人間”~既に人間と同じもの~のイメージは保存し続けられ……うん、『火の鳥』などにおいて、様々な物語に派生して行ってますね。


メトロポリス (手塚治虫漫画全集 (44))
手塚 治虫
講談社



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【日本史】

下天は夢か(一) (講談社文庫)
津本 陽
講談社

戦国時代…というか織田信長の話をしたりしていたので、それに合わせて、昔読んだ小説をスキャナーで電子化したりしました。津本陽先生の『下天は夢か』全4巻ですね。昔、けっこうベストセラーだったはずです。
取り立てて特別特異な織田信長像を描いた小説というわけでもないんですが、何しろ事細かに信長の行状とその生涯について書いてあるので、何と言うか……とても勉強になった本です(汗)この本ではじめて知った事とかいろいろあって…。
  • 生駒吉乃の存在 ~ それまでは信長は濃姫とラブラブに違いないと思っていたのですが吉乃さんの方が政略抜きの本妻っぽいですよね。
  • 明智光秀は本能寺の変頃は朝廷から賜った“惟任”の姓を名乗っていた。 ~ いや、単なる豆知識ですが(汗)へ~って。(´・ω・`)
  • 長篠の合戦での鉄砲隊斉射の伝説は地形的に怪しい? ~ 三段撃ちや、馬防柵による戦法の検証ですね。ある種のドラマチックさを『物語』が検証でスポイルしてしまうのが逆に新鮮だったというか(汗)

等々。僕が信長について語るときは、けっこう、この中の内容があんちょこになっています(汗)
あと、この物語の中では、元亀年間に敷かれた最初の信長包囲網が強烈でした。この間の信長の奮闘を「元亀争乱」なんて言ったりもしているみたいですね。とにかく助かりそうにないwともすると対今川義元戦以上の窮地に立たされている。浅井朝倉は言うに及ばず、石山本願寺、比叡山、息を吹き返した三好、六角、松永弾正も寝返ったけ?wそれで東からじわじわと武田信玄が進軍してくる状態ですからwこれを“絶体絶命”と言わずして何を“絶対絶命”と言おうか!という感じでした。

『国盗り物語』(作・司馬遼太郎)なんかは、信長編でも後半に入ると視点が明智光秀にシフトして行って、光秀といういわゆるこの時代の教養もあり守旧的でもあるが、優秀で先見も併せ持った、この“まとも人”から観た信長という描きになっていくんですが、こちらは最後まで尾張弁が抜けない人間・信長の心境を描いています。


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【日本史】

▼USTREAM:『センゴク外伝桶狭間戦記』@漫研ラジオ

(↑)昨日、『センゴク外伝桶狭間戦記』(作・宮下英樹)のラジオをやりました。…いや、けっこう必死にしゃべりました(汗)あんまり人が寄ってきそうでもないような?なさそうな?タイトルだったので(汗)聴こうと思った人には、それなりに楽しんでもらいたいなという感じで。
ただ、けっこう実しやかに喋っているんですが、僕の話は巷説異説がうろ覚えで入り交じっている話ではあるので、情報としての価値はその程度のものという事に捉えておいては欲しいです。あくまで歴史ものの与太話として楽しいよね?という主旨のラジオではあります。

その中で“金ヶ崎の退き陣”と“桶狭間の戦い”をリンクさせて語ったパートがかなり『愉し』かったのでその部分だけ、記事に抜き出しておこうかと思います。

■金ヶ崎の退き陣の下手

まず『金ヶ崎の退き陣』なのですが織田信長の戦記としての小説には桶狭間合戦と並んで必ず出てくるエピソードだと思います。元亀元年(1570年)に織田徳川連合軍が実施した、越前の朝倉義景への侵攻作戦で、敦賀湾の金ヶ崎城を落とした所で背後の北近江の盟友・浅井長政が信長を裏切り、越前と北近江で織田徳川連合軍を挟撃すべく進軍中との報が入ります。
この時の信長の脇目も振らぬ大撤退戦が『金ヶ崎の退き陣』で、この時、殿軍を買って出た木下秀吉(豊臣秀吉)が後に大出世を果たす…なんてエピソードが有名ですよね。

…で、この時の信長の撤退の仕方はちょっとおかしい。いや、そもそも信長って戦はそんなに上手くはないよね?(※戦下手という程ではないが戦国時代の戦上手と比べるとかなり見劣りする…という程度の意味ですが)という話になりました。『国盗り物語』(作・司馬遼太郎)の中で司馬遼太郎が明智光秀にこう言わせたりしているのですが…(↑)
信長は自分の危地に気づいた。
気づくと同時に消えたのである。味方をすて、単騎で消えた。
しかも京へ。
その退路距離のながさは、これまた古今未曾有であろう。敦賀平野に舞いおりたあざやかさもさることながら、その逃げつぶりの徹底している点でも、常人ではない。
(だから、変わっている)
光秀はおもった。普通の戦術家なら、こうはやらない。弥平次光春のいうように、戦場をいったん離脱し、適当な場所で防戦し、小あたりにあたって敵の出ぐあいを見、弱しとみれば逆襲し、強しとみればさらにしりぞく、その芸が巧級であればあるほど名将といえるわけだ。
(おれならばそうする)
光秀はおもったが、しかし信長のやり方に対して自信があるわけではない。あるいは信長のやり方は戦術上の既成概念を破っているだけに、天才的といえるかもしれない。

(『国盗り物語』退却より)

あるタイプの英雄の中に物凄く逃げるのが上手いタイプがいて、何よりも生き延びなければ後に名を残せない観点から、それは時に英雄の条件のように言われたりします。また、その観点から、この時の信長の行為は誉められ、彼が紛れもない英雄・天才だった事の証左として扱われるエピソードでもあります。

しかし、この時の光秀が言うように、真っ当な司令官ならばもっとしっかりとした撤退戦というものを運用していくのが正当と思えます。信長を大軍の指揮官として評価した場合あまりいい点にはならないでしょう。
「いや、信長は指揮官じゃなくて君主だから」、「英雄だから」、「自分が生き残ることが全てに優先する事を誰よりも理解していた天才だから」、と、それとは別の見解も当然あるんですけど、それは信長が後に浅井、朝倉を滅ぼし本能寺の変まで生き延びたから言えることで、正直、この一人がけの退却自体、途中で落っ死ぬ可能性は充分にあり得たわけで、そうなったら、後の歴史がこの“敵前逃亡劇”をボロクソに語るのはほぼ間違いないように思えます。

この時の信長がの所々の行動や指揮~何も言わずに消えたのか?もっと事後の指示を事細かに出した上で先頭切って撤退したのか?~は、物語によって描きは違うし諸説ある事でしょうけど大体、確実っぽい事(?)を2つ程上げます。

1.京都に逃げ延びたときの信長の共はわずか十人程度であった。
2.殿軍を池田勝正、明智光秀、木下秀吉、そして徳川家康などが務めた。


(※ラジオでは、池田勝正を僕は池田恒興か輝政と勘違いしてしゃべっていますね(汗)すみません。御気おつけ下さい)これを見るとかなり混乱した撤退だった事は測れると思います。
…というかですね。同盟国大名の徳川家康が殿軍とか、あり得なくないですか?w彼は義理堅いから云々、殿軍を見かねて云々みたいな描写をする小説もあるんですが「信長に気にも止められず、置いてけぼりをくらって、伝令もままならぬままに、取り残された」のが真相としては一番しっくりくると思います。
木下秀吉にしても明智光秀にしても、そこはそうで「こんな錚々たるメンバーがこぞって殿軍やる必要ない!」というか、むしろ「信長様以外、みんな殿軍みたいなもんだよねwあはは~w」(ピンチ過ぎて逆にハイになっている)という状態だったんじゃないかと思うんですよね。

その後、織田信長は浅井、朝倉に勝ったからこそ、微妙に気まずい雰囲気のある“あの時”の話は、どこか皆でいい話、いい思い出にしておこうという“空気”が生まれ、まるで互いの友情を確かめ合うような「命知らずの俺たち、殿軍野郎、Aチームだったよね!?…ね!?」(←)と、そんな部分が強調されるような話になったんじゃないかとすら思ってしまうw


■桶狭間の戦いの下手

しかし、こういった信長の行動を桶狭間の戦いのある“仮説”とリンクして考えると、ちょっと観えてくるものがあるかな…という話が本題です。ある仮説…というか『桶狭間戦記』で語られている“桶狭間の戦い”の真相の事ですけどね。
定説…って事もないかもしれませんが、広く一般に知られる桶狭間の戦いは、織田信長が雨に紛れて今川義元の本陣に接近し、そして見事義元を討ち果たした…信長の一世一代の奇襲作戦の成功と言うものですが、しかし、当時の戦場の城と地形、そして軍陣を確認して行くと、そこまで単純な経緯ではない事が分かってくる。

じゃあ、実際どんな戦いだったのか…というのはここでの本題ではないので、そこは『桶狭間戦記』を読んでもらったりして欲しいですが(ラジオを聴いてもらうのもいいですね)ここで取り上げたいのは桶狭間の戦いという戦果の特殊性です。
この戦いで織田信長は、今川義元という戦国大名を討ち取っているワケですが…。この戦果はちょっと凄い。

今川義元クラスの大名を合戦で討ち取ったっていう事例は、他にはまずほとんどないのではないでしょうか?

滅びる寸前まで弱らされた大名の戦いならともかく、気力軍力充分の軍団の大将が討ち取られてしまったというのはそうは無いはずです。
自刃に追い込む事はあります。桶狭間の戦いに比肩すると言われる『厳島の戦い』(1555年)なんかは毛利元就が陶晴賢を自刃に追い込んでいます。それが討ち取られるのとどう違うのか?というと、陶晴賢の場合はやはり毛利元就にしてやられ「負けた」という意識がちゃんとそこにあった。そして自軍は確かに敗れて進退窮まるからこそ敵兵に討ち取られるより自刃するワケです。

※ ちょっと思い出してみると島津家久に討ち取られた龍造寺隆信なんて大名がいますね(汗)…まあ、とにかく希という事でお願いします。

対して今川義元はどうか?彼は自分の負けが認められず最後まであがいたが故に敵兵に討ち取られてしまったのか?…そう考える事もできるんですが、多分、そうじゃなくって「本当に、今川軍は負けていない」状態だったと考えるのが自然じゃないかと思うんです。(まあ『桶狭間戦記』などを見るとって話ですけど)
自分さえ生き延びれば、どう考えても再起できる。何年後かに捲土重来する…なんてことじゃなく、すぐにでも再戦できる。そして次こそ負けない。そういう状態にも関わらず、何故か自分は雑兵と刃を交えている?なぜだ!?というその納得の行かなさが討ち死にという結果になったのではないかと思えるんですね。

つまり、よほどの慮外の死が義元に訪れたって事ですけど、これが全て信長の軍略によるものだとしたら、彼はすごい戦争の天才という事になります。
…でも、違う。大名を打ち取るなんて狙ってできるものではない。その後の信長の軍略を観てもそこまでの軍才を見せてはいない。義元にとっても慮外の死なら、信長にとってもそれは慮外のものだったと思えます。

そうして、その慮外の一戦で今川家は滅んでしまう。義元が死ななければ。単に桶狭間では一敗地に塗れただけならば、織田信長は果たして徳川家康ではない松平元康と清洲同盟を結べたかどうか?(ずっと信長を裏切らなかった家康は、ずっと義元を裏切らないんじゃないか?)清洲同盟なく今川の脅威にさらされている中で、果たして美濃の攻略などできたかどうか?
そう考える時、この『桶狭間の戦い』の有り得ない戦果が、歴史の分水嶺だった事は感じずにはいられません。

この戦さの慮外の事は信長の心に大きな影を落としたのではないか?

そう考えてみて。『桶狭間の戦い』を捉え直してみて。改めて金ヶ崎の退き陣を観ると、ちょっと信長の心象が垣間見える気がするんですよね。
あれほどの権勢を誇り、政治と軍略に長けた今川義元も、戦さの不慮の偶然の前に死んでしまう。そしてその死によって今川家自体が全てを失ってしまった。逆に、義元が健在でさえあれば尾張が今川に平らげられるのは、結局、時間の問題ではなかったか?それが信長には分かるはずなんですよね。

もし、あの戦いが信長の“計画通り”の戦いであったなら、信長は戦さの何に怯える必要もない事です。それ程の軍略を示す戦争の申し子なら、上述した金ヶ崎の包囲も、華麗に指揮をとり窮地を脱したのではないでしょうか?
でも、そうはしなかった。それは、あの戦いの戦果が、信長にとっても慮外のもので、本当は今川義元に勝てるはずもなかった事を一番よく知っているのが信長自身だったから、という事ではないでしょうか?

だから自分にとって慮外の事が起こったとき、一もニもなくその場から離脱した。それは総司令としてはあるまじき行為だったかもしれないけど、有能な総司令としてその場に留まって指揮をとった今川義元は、慮外の事で討ち死に、そして今川家は全てを失っているんですよ。
それを誰よりも間近に観たのが織田信長だと思うと、金ヶ崎の退き陣に対して「ああ……そういう事だったのかなあ?」なんて、思いを馳せたりするわけです。(´・ω・`)

~しかし、戦さの慮外に細心の注意を払った信長は、戦の無いはずの慮外に敗れ去るのですけどね。うん。



国盗り物語〈第3巻〉織田信長〈前編〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社

センゴク外伝 桶狭間戦記(5) <完> (KCデラックス)
宮下 英樹
講談社


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傾物語 (講談社BOX)
西尾 維新
講談社

『傾物語』(作・西尾維新)読んだんですが…やあ、なんか、これ八九寺真宵ちゃんの話というより、忍野忍の話という気もしましたね(汗)…ベース的に考えれば「彼女(八九寺真宵)が存在(い)ないと、これだけ世界が変わる」という事を、ほとんど寓話的に描いているので、その意味では真宵ちゃんの話…かも?しれない?ん?wどうかな?(^ω^ )
『傾物語』は『化物語』シリーズの現在最新話ですね。『化物語』シリーズは怪異に憑かれた女の子たちに、主人公の阿良々木暦くんが持ち前のハーレムメーカー気質で“関わって”しまう物語。
八九寺真宵ちゃんは、阿良々木くんが知り合った幽霊小学生少女で、忍野忍は吸血鬼で阿良々木くんのお節介で、文字通り、正真正銘、彼と一蓮托生の存在になってしまった“モノ”ですね。…でも、一位ヒロインじゃない。むうw深いなあ…。

話の切っ掛け自体は、阿良々木くんがある現象を目の当たりにして「…あれ?これって八九寺を助けられるんじゃね?」って考えたのを元としていますが。いや、ある現象とか言うの止めますが、タイム・スリップ~タイム・バックなんですけど。(`・ω・´)
実際には、その冒険を阿良々木くんと忍の二人が道行き、解決して行くストーリーになっています。まあ、先に述べたように、真宵の物語という解釈がない事もないですが、ファン・サービス的には明らかに忍ファン(あるいはキスショットファン)が満足する作りになっていると思いますw
忍の想いの深さが描かれるというか………あれ、想いの深さなのかな?すごく気まぐれな女王という気もしますけどね(幼女だけど)。まあ、阿良々木くんに想う所が多々あるのは間違いないでしょうけどね。そういう内面を垣間見せるような描きと、何だかあまり一貫していない、予測不能な感じの忍のリアクション(気まぐれなんでしょうねえ)が、妙な“新しさ”を出していました。

あと、まあ何か阿良々木くんの性癖が明らかになる所が楽しかったというか…。彼は骨フェチ?なんですかね?w骨フェチというか…骨姿フェチ?って言えばいいのか?いや、ボーンそのものじゃなくって、人肌に浮いた骨姿が良いのだよね。…うん、まあ、分かる。(`・ω・´)(←)
うん、で。そこらへんバレると、羽川さんの身体より、戦場ヶ原さんの身体の方が、たまらんかもしれんねえ、とか思ったよ新事実。

■ミステリーの成立

さて、余談ではあるんですが、最近ちょっと僕は推理小説を読んでいた事もあって、『傾物語』を「あ、この話ってミステリーとして謎解きできたな」って思った所があります。
説明すると、ストーリーは11年前にタイム・バックした阿良々木くんが、八九寺真宵をたぶん助ける事ができた(?)という前提でもとの時間にもどってきてみると、世界が激変していた!って所から本番になってくるんですよね。その激変というのが、ちょっと俄に理解できないくらいの激変なわけで、なんでそうなるの?って混乱してしまう程なんです。
これって、真宵ちゃんが助かった事とは、何の因果もない話なんじゃないの?いくらバタフライ効果とか言っても、こうはならないでしょうwと、瞬間的にはそう思ったりもしたんですよね。

でも、真相に辿り着いたその時は「ああ、これって解くことできたなあ」ってちょっと悔しく思ったりしました。あまりに、ぶっとんでいる展開……いや、そもそもタイム・バックできるという展開自体がジャミングになっていますね!wそういう展開だったものだから、これも何かぶっとんだ…壮大な「風が吹いたら桶屋が儲かる話」を展開するのかなとか、そんなイメージを持ったんですけどね。
でも、真相は違った。『化物語』シリーズを読んできた人なら、手がかりは出揃っていて、少しの想像力と連想で、多分、謎を解く事ができたと思います。

…いや、別に「謎を解け!」なんて指示は作中で出ていないんで(出てないですよね?)そうする必要は無いんですが(汗)
他の推理小説は、移動中に読んでいる事もあって、特に何も考えずに読み進めて、で、謎解きを聞いても「それは僕には分からなかったなあ!」って思うだけなんでいいんですが、“今回”のこれは、少し以前の本を読み返してみれば、そこに辿り着けたような気がして、ちょっと残念だったと。ま、ちょっとだけですけどね。

そこそこ忙しい中で本読んでいるものだから、なかなか頭は働かないんですが、それでもなるべく思い、感じ、考えながら『物語』に接するのが、『愉楽』の処方ではあるんですよね。だからと言って、考えれば(↑)これに行けたか?というと、そこは相当、疑問ではありますけどね(汗)
だから不覚な話とは思わないですが…でも、ちょっとの気づきの一つとして、そういうのを書いておきました。


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【メタキャラクター】

ジョーカー清 (講談社文庫)
清涼院 流水
講談社

ジョーカー涼 (講談社文庫)
清涼院 流水
講談社

『ジョーカー』(清・涼)(作・清涼院流水)を読みました。推理小説家たちの集まり関西本格の会の合宿先で“芸術家”と名乗る殺人犯が、推理小説の構成要素30項目を網羅しようとしているような?していないような?そんな殺人劇。感想書こうかとも思っていたんですが、よくよく考えると推理小説のネタに触れちゃいかんですね。(´・ω・`)(←よくよく考えなくてもな)
…これぐらいなら言ってもいいかな?この話、冒頭で、凄く大仰に挑戦状を叩きつけてくるんで、何ごとかと思い、それなりに色々考えながら読み進めたんですが、結局、僕はその挑戦の意図に気づく事ができませんでした。また、この物語は、あるトリックを説明する為の工夫が為されていて、そのアイデアがこの小説の肝かな?という気がしました。

…で、何でこの本を読んでいたかというと、僕が(↓)ブログの記事などで『メタキャラクター』の話をしている時に、海燕さんから「なら、清涼院流水の『ジョーカー』を読むとよい」と言われたからなんですけどね。

【メタキャラクター】戯言シリーズ~いーちゃんの物語

【メタキャラクター】戯言シリーズ~西東天の物語

読んでみたら、モロに“メタ探偵”とか出てきますしね。ちょっと押さえておく必要があったなと思いました。また『メタ視点』に関して言うと、ミステリーは様々な角度から非常にそれが生まれやすい状況にあるなと思います。そこらへん考えていた事を、ツイッターで harinomushiro さんと話していたら、AshさんにTogetterにまとめてもらえました。(↓)それをちょっとこの記事上にリライトしておきます。

お気に入り..本格ミステリの「納得度」を担保する物語構造とは

元々、物語の『作り手(送り手)』と『受け手』は、勝負をしている関係にある…という観方があると思います。勿論、ある一面を写しだした事に過ぎないですが、それでも受け手が、その『物語』を面白い!と思ったら『送り手』の勝ち?逆につまらないと思ったら『送り手』の負け?……う~ん、あんまり普通の物語で、勝ったの負けたの、書いてしまうと話がおかしな方向に行ってしまいそうなので、ある一面に過ぎないと念押しして、ここで止めますが。
これがミステリーの場合、少なくとも読者に解ける問題を作者が書いている場合、かなり明確にそれは『送り手』と『受け手』の勝負と言えると思います。そもそも、上に挙げた『ジョーカー』冒頭の読者への挑戦状などは、ミステリーでは定番の見栄きりの一つでしょうけど、他のジャンルではまずなかなか見られる事のないものでしょう。挑戦とは文字通り「戦いを挑んでいる」のです。

たとえば通常の『物語』に対して「驚いた」とか「納得した」といった判定はある意味困難です。そう感じる事は受け手の“感受性”に多くを委ねられていてバラバラで当然。これが勝ち負けで「驚いたら負け」だとしたら「驚かなかった!」と言い張れば済む面がありますよね。
これに対してミステリーは“勝負”に特化してる側面があって判定をしやすい。意外な犯人に「驚かなかった」としたいなら、受け手は叙述より先に犯人を予想し的中させていなくてはなりません。また、暴かれたトリックに「納得しなかった」としたいなら、そのトリックの不備を明確に指摘する必要があります。そのミステリーという『物語』が成功したか失敗したかは“比較的”はっきりし易い。

また、色々、逆説も並び立てられますが『ノックスの十戒』や『ヴァンダインの二十則』が、ミステリー上の禁則事項として、ある程度の納得を以て迎えられているのは、それがミステリーが勝負の側面を持っているからに他ならない。
勝負では無いなら、物語とは楽しませたものが勝ち(?)というか、面白ければそこに禁忌は無い…と大抵言えるはずです。しかし、ミステリーはそうではない。あくまで楽しませるフィールドが勝負の範囲内であるならば、その勝負がフェアなものである事が検証される必要があるワケです。

では、ミステリーは他の小説とは違う特殊なジャンルの事なのか?というと、そうとも言えるんですが、それは違うとも言えます。
ミステリーの勝負付けの内容をよくよく思い返してみると、必ずしも謎解きの辻褄がキッチリ合う…というだけではない面が分かってきます。畢竟、謎解きは“驚き”と“納得”を得ることができれば、必ずしも論理的、科学的、整合性を持っている必要はないようなんです。ここは詳しくは語りませんが、分かる方は分かるかと思います。
そして、そのパターンは普通の人が、普通の事に面白さを感じる…少なくとも『驚き』と『納得』が求められるフィールドにおいては全く同じものだと言えます。こう言った所を、分析して行くと、通常の物語の構造自体の理解度が深まるかな?などと考えたりしていますねw

また、ミステリーは既知の事を逸脱しない現実的な範囲に、その事象は制限されているにも関わらず。主人公(探偵)たちの周りでは、奇っ怪な(読者の興味を惹く)事件が起きなくてはならないという、ある種の背反がある。
こういった歪(いびつ)な状況から、さらに“受け手”を出し抜くための意図と正体を明かされない展開で、さらにその形状を入りくねったものに作られて行く。これが醸成されてくると、この中では『メタキャラクター』は元より、他の事象なども見いだせるかもしれないな~?などと考えました。

そんな所で、まあ、今述べたような事を主眼において、しばらく、ミステリーを読み漁ってみようと思っています。


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【ヒーローの条件】

とある魔術の禁書目録(インデックス)〈19〉 (電撃文庫)
灰村 キヨタカ
アスキーメディアワークス

『とある魔術の禁書目録』(作・鎌池和馬)19巻読みました。やあ~ええわあ。一方通行さん。(=´ω`=)今回、本格的にヒーロー化して行く、一方通行さんと、浜面仕上さんですが、彼らが、主人公にしてヒーローの上条当麻さんに対して、どういう“意味”を形成しているか?は、多くの人が直感的に分かると思います。…まあ、そっちの話は、また別の機会にするとして…。

一方通行さんが好きなんですよねえ。いや、この人、ほんとヒーローwよくルイさんが、上条さんの“動機”に言及する事がありますが、あれって上条さんの異常とも言える正義行動に関する根拠を求めているワケですが、一方通行さんの“動機”は(物語上では)ミサカシスターズに対する“贖罪”なんですよね。
「絶対に許されない(本人がそう認識している)罪の贖罪だから、絶対に終わらない償いを、永遠に、飽くことなく、続けている」と、それがヒーロー化してからの一方通行さんの“動機”で。それを時間的にも空間的にも、無制限に課していて、しかも、恐ろしい事にそれを(ある程度)成し遂げてしまっているw

打止を護るという事はどういう事か?それは彼女の暮らす平穏な環境そのものも護る事だと、彼は解釈して、それを実行している。途方もない拡大解釈ですけど、そのロジックで彼は、平穏である者たち=善人は、殺さない。そして護る。打止に関する護るべきものとして。逆に悪人は許さない。殺す。それは自分が「許されない」事の根拠とでもいうのか、自分がそうであるように「殺される謂れのある人間」は存在する。

「殺されてもいい人間、死んだ方がいい人間など存在しない」という思想は、この一方通行にとっては自己否定そのものって事になっている。

だって自分自身がそうなんだから。それ故、彼は終わらない贖罪を続けているのだから。うん。やはり彼は『面白い』。もし、ヒーローの条件が“悪を倒す者”とするなら、上条さんは、この条件に当てはまらない…という言い方もできます。…できない事もない?
いや、この“倒す”という件については、上条さんは“殴る”という行為で代替えしているワケですが、あれ?「殴るのはいんだ?(´・ω・`)」(あくまで説得みたいな事はしないんだ?)みたいな、別の上条ルーリング?な分析の話になるので置いておいて…。(今回、置いておく事多いな…)
ともかく、上条さんは徹底して“救う”という行為に先鋭化して行っている嫌いがある。でも、それって本当に『受け手』がヒーローに求められている物語なの?
“救う事”を優先すべきなのは、そうだとしても、上条さんが“殴る”事を止めないのは、受け手はあくまで“倒す”事も求めているからじゃないの?………と、置くと言っててヒーロー論をはじめてしまいましたが(汗)そういう風に思考を積んでゆく時、一方通行さんの物語は、単純に殺人も起こる闇の世界のダーク・ヒーローという捉え方以外に、単純な“悪を倒す者”=ヒーローとしての上条さんの対比としても『面白い』です。

一方通行自身は「悪を倒す(殺す)のは悪党」と自己規定して作中でそれは否定されないと思うのですが、逆に僕の方は上条さんの方を敢えて「上条さんの欺瞞」、ヒーローとしての欺瞞、と捉えた時、上に述べた一方通行のもつロジックは非常に納得の行くもので、結果として物語上に「悪を倒すヒーロー」を出現させている。(※こういう所、鎌池先生、本当に考えているなあ…というか“観えているなあ”って思います)

そうして彼は能力を特化し“悪を倒す”事に徹すれば、その護る範囲はとてつもなく広く、ご都合主義と言っていい程、護って行ける事が描かれている。
上条さんは「それをする“理由”も明確でなければ、それができきる“理屈”もあやふやなヒーロー」で、だからこそ僕は彼に原初の『ゼロ・ヒーロー』性を見い出していて、同時に彼は多分、多くの『受け手』をイライラさせているはずなんですがw一方通行は、その理由も、理屈も、しびれる程、バッチリ整った、オリジナルヒーローだと思います。
「あの時のヒーローでしょう。そこで何してるの?」
「……何でもねェよ」
「さっき話しているの聞いた」
その言語に、一方通行と秘書の小男が改めて少年の顔を観た。そうしている間にも、少年はこちらに近づいてくる。学園都市第一位の怪物への元へと、躊躇なく。かつて命を救われたからか、警戒心を全く抱かず。
「何の事か分からなかったけど、また戦いに行くんでしょ。あの時の僕みたいな人を助けるために、また戦いに行くんでしょ」
少年は真っ直ぐに一方通行を見上げ、そしてこう言った。
「だったら、僕も行く」
……冗談じゃねェぞ、と一方通行は思わず頭を抱えそうになった。
「ふざけンなクソガキ。誰が、誰と一緒に戦うだと?」
「だって、あの人達は見捨てるって言ってた!!」
突然指差され、一番面食らったのは親船最中だっただろう。
秘書の小男の方は心当たりがあるせいか、わずかに奥歯を噛んでいる。

「僕は、あなたがくだらない事のために戦わないって事を知っている。そして、すごく危ない所に行くんだって事も知っている!だったら僕も行く。一人なんかにはさせない。僕と同じように困っている人がいるなら、僕だって一緒に戦いたい!!」

全く事情を知らないくせに、口調だけはいっぱしだった。
実際の戦力を鑑みれば、どうしようもなく現実味のない意見だった。
にも拘らず、一方通行は無視して立ち去らなかった。真上から見下ろす格好にはなっているものの、彼はきちんとした言葉にはきちんとした言葉で返した。

(『とある魔術の禁書目録』19巻P.206)

…で、このシーン。ものすごく良かった。好きなんです。一方通行は『結果のヒーロー』でもあるんですよね。
『結果のヒーロー』は、最近『超弩級少女』の記事などで考えて、話したりしていますね。

【『超弩級少女4946』“護る”という事/ヒーローの条件】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/eb948af175d94d241598eba8d30be566
…実は作者の東先生からは「セカイ系というキーワードをヒントに話が進むとよいかも」とガイドを貰っていたのですが、衛宮まなが至れたもの、飛田玖海が至れなかったものの、ここがその焦点に感じています。座談会でもそう語っていますが、衛宮まなと共闘した時も、彼女は、そこに至ったというワケではないでしょう。

でも、僕は「結果を出しているヒーロー」には良い物語(因果)が待っているものだよ…とも思いますけどね。おそらくは彼女には、さほど見向きもしなかったであろう「彼女がその手で守った人々」は確かにいて。彼女が彼らの存在に気がついた時、はじめて彼女は「どうなってもいい世界」じゃなかった事を知る事になるのだろうと、そんな風にも思います。

…ここらへんで話している事が、まさに一方通行の物語に顕れています。というか、解釈の角度として、一方通行は、打止めを出汁にして、言い訳にして、自分が本当にしたかった事をやっている…。という解釈もあり得ると思うんですけどね。
気がついたら世界中を敵に回した超能力者になっていたけど、彼自身がそんなものになりたかったワケじゃない。“無敵”を目指したのも、彼の在り様に干渉してきた世界への“リアクション”としてある。じゃあ、彼自身の“アクション”というのは、打止めと出会う事ではじめてはじまった…と。
そして“全てを護る”というのは、かつて彼が目指した“無敵”などより、よほど困難な道であり、そして良い物語に繋がっている道なんだと。

…ん、今思いましたが。決断主義(?)の後にくる主人公ってこの『結果のヒーロー』かもしれませんね。

そんなワケで一方通行さんの物語から目が離せません。(`・ω・´)上条さんの話にイライラ来てしまう人で、それでもヒーローが好きな人って、多分、一方通行さんとか、浜面さんとかを好きになると思うんですよね。でも、彼らは(『ゼロ・ヒーロー』である)上条さんの、ある一面を特化したヒーローである事は間違いない所でしょう。
僕も、ずっと長いこと「ヒーローってなんだろう?主人公ってなんだろう?」と考えながら『物語』に接してきた所があって、鎌池和馬先生のこのヒーロー観/ヒーロー像には、何かすごく頷くものを感じながら読んでいます。


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