【アーキタイプ】
前回書いた(↓)この記事に記載した「祭壇」についてもう少し補記しておきます。(唐突に持ち出した為に)元型としての記述が不十分だった気がするからなんですが…。ちょっと繰り返しになりますけど改めて一から書き留めておきたいと思います。
【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b
「祭壇」の「物語」に対する考え方そのものは引用文に述べた通りで、引用記事内で取り上げた「風の谷のナウシカ」の“墓所”、「地球へ…」の“コンピュータ・テラ”なんかが典型的な「祭壇」となりますが、もう少し実例を挙げて行こうと思います。
「サイボーグ009」(作・石ノ森章太郎)の“黒い幽霊”ですね。これも「祭壇」の典型の一つ。“悪”を倒すために果てしない戦いをくぐり抜けてきた009は自分たちが守ろうとしている人間の中にこそ“悪”があり、その戦いは決して終わる事がないものである事を告げられます。
「GREY」(作・たがみよしひさ)の“TOY”です。人類は滅びたがっているという計算結果を元に世界を滅ぼしたコンピュータです。ちょっとマイナー作品かもしれませんが、好きな先品だったので取り上げました…って事と。もう一つ。
この“TOY”は科学の粋を集めて作られたコンピュータなのに、何故、こうも遺跡然、神殿然、とした造形なんでしょうね?これ、今回の記事においてすごく重要なことです。僕がこういったシーンを「祭壇」と呼ぶのは正に、このイメージに付随している事なので。
あくまで解釈の幅をとっての話なんですが「最終兵器彼女」(作・高橋しん)のラストシーンを「祭壇」のシーンと解釈する事もできるんじゃないかと思います。人類が滅び、全てが終わった後でテーマを語りだすので…。しかし、あんまり解釈を広げてあれも「祭壇」、これも「祭壇」とすると「言葉が死ぬ」のでそこは気をつけないといけないのですが、解釈の一例として上げておきます。
「新世紀エヴァンゲリオン」(監督・庵野秀明)の劇場版「まごころを、君に」はほとんど全編が「祭壇」のシーンだったと言えます。(TV版最終回も解釈の幅としては「祭壇」と言えそう)それまで「物語」が積み上げて来たものの“審判”が下されているので。
僕は今「ナウシカ」などを記事に書き出す流れで「祭壇」の代表的な問いかけ「人類が滅ぶべき物語」をピックアップして語っていますが、この「エヴァンゲリオン」で問われたような「あなたは何を望むの?」というのもまた定番の問いかけではありますね。有名所としては映画「ネバーエンディング・ストーリー」のラスト、あるいは「ブレイブ・ストーリー」のラストなんかもこれに当たると思います。
「コードギアス 反逆のルルーシュ」(監督・谷口悟朗)の“Cの世界”も「祭壇」と言っていいと思います。ただし、「コードギアス」の作品としての特徴は「祭壇」が最終局面ではなかった事にあります。「祭壇」から戻ってきて何を為すか?がこの「物語」の最後の問いかけになっています。
あとちょっと古典を上げると「西遊記」や「オズの魔法使い」など…。長い旅の果てに「祭壇」的なものに辿り着くパターンですね。上記の「ナウシカ」の記事を書いた時にMODSTOONさんからのレスで上げてもらいましたが「2001年宇宙の旅」などもこれに当たります。ただ、これ、今まで上げている近代的な「祭壇」の在り方とは少し分けて考えたい所があります。(「オズの魔法使い」についてはそのラストの展開のトリッキーさを含めて非常に近代の匂いがする「物語」ですが…)
MODSTOONさんはここで「聖書、モーセのシナイ山」や「仏教の解脱へ至るプロセス」にまで言及して「祭壇」の考え方を補完してくださっていて、僕も原初的な「祭壇」はここに端を発している事は間違いなかろうと思うのですが、近代の「祭壇」は、古来にある「祭壇」とは様相が大分変わって来ていると考えています。
それは古来の「祭壇」では“天啓”を受けて神の預言者となる資格を得たり、あるいは悪魔を“折伏”する場(厳密には「祭壇」ではないが、恐らくその後の「祭壇」の在り方に影響を持っている)として出現したの対して、近代の「祭壇」は逆に神を打ち倒す、あるいは説得する、と言った場として出現している。この意味の逆転は非常に興味深く、また、僕が「祭壇」と「神殺しの物語」を接続させて語るのもここから来ているワケです。
そこから考えると「西遊記」や「2001年宇宙の旅」なんかは古来の「祭壇」に属する天啓の場としてありますよね。…ただ「オズの魔法使い」のラストを祭壇と言っていいのかどうかは分かりませんが、そのラストで事実がひっくり返るその展開は、かなり近代を感じさせるもので、ちょと一考の余地がありそうです。ちょっと今は何とも言えないですが…。
さて幾つかの作品を画像合わせて上げてみましたが「祭壇」の特徴として、原則“物語の最終局面で出現する事”、またそのイメージは荘厳な…“厳粛な気持ちを抱かせる構造物あるいは景観”である事が上げられると思います。
ここで、事例の羅列だけで終わってしまうと「ああ、よくあるよねえ~いわゆる定番の展開だねえ~」なんて話で終わってしまうのですが、ここからが本題で。この「祭壇」のシーンが、こうも繰り返し少なからぬ頻度で扱われるという事は、この「祭壇」って物語上の何らかの元型(アーキタイプ)なんじゃない?って仮説を考えたんですよね。
「元型」と言うのは心理学者・カール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、集合的無意識の中で仮定される心理的作用を象徴するモノです。人類が地域は遠く離れていても神話や伝説に似通った筋を発見できる事の説明などに使われます。ちょっとWikipediaから引用します。
また、僕自身、ユング心理学の心的機能や元型などを「物語」を分析する事のツールとして使えないかと考え、記事を一つ書いています。(↓)
【ユング!ユング!ユング!(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/55d4a687041488bcd22f9c37125d16cb
引用文でも述べているように、僕はユング心理学がそのまま「面白さ」を旨とする「物語」の分析に使えるとは思ってはいないです。しかし、人類の神話や、伝説、あるいは歴史という物語の創られ方が「物語」の一部であるなら、使える所は多いとも考えているので、そこらへんマンガ、アニメといったおたく界隈の「物語」に則した形に?調整しつつ、用意されているツールを使って行こうかと考えています。
…で、まず「祭壇」って「元型」なんじゃね?という仮説を述べさせてもらいました。これはこれからいろいろな「物語」に当てはめて、それがどういった“意味”を形成して行っているのか、検証して補強して行こうと思います。…まあ「祭壇」はイメージから出てくる心理的力場からの投影という考え方とは別に、「物語」がテーマを語るための象徴として置かれる物理的力場からの成果物という考え方もあるんですけどね。
しかし、そこは“神話”についてもそれは人間の知恵から来る自然科学的説明による成果物である考え方と同時に、ユングが言うような神話を産み出した人々の心理的充足の在り方を研究していたワケで、この二つは背反しない。そこは並行して観てゆくのが、より「物語」への「読み」が深まって行くだろうと。
以上、この話また別の記事書くときにちょこちょこ引っ張り出すと思うので覚えててねwって話でした。(`・ω・´)
前回書いた(↓)この記事に記載した「祭壇」についてもう少し補記しておきます。(唐突に持ち出した為に)元型としての記述が不十分だった気がするからなんですが…。ちょっと繰り返しになりますけど改めて一から書き留めておきたいと思います。
【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b
ナウシカと墓所の対話の話をする前に、いくつか押さえておきたいポイントがあります。一つは、彼らの対話のシーンは「物語」のある種の定形としてよくあるシーンで、僕は「祭壇」という呼び方をしています。「祭壇」とは何かというと、ある「物語」…まあ、大抵、戦って戦って戦い続けるタイプの物語が多いのですが、そういう「物語」の主人公が最後に辿り着き、そこで対面した“何か”と対話するシーンですね。
そこで彼らはある種の哲学的な議論~主人公は大抵、難しい事を考えられないので、シンプルな答えのみを返すのですが~を交わします。多くは敵対勢力の“悪の理論”と、主人公の“善の理論”の激突が行われてきましたよね。そこでの対話が、何か“神様”にその物語の在り様を告げるというか、逆に神託を受けるかのような、“神との対話”という印象を持ったので「祭壇」と呼んでいるワケです。
「祭壇」の「物語」に対する考え方そのものは引用文に述べた通りで、引用記事内で取り上げた「風の谷のナウシカ」の“墓所”、「地球へ…」の“コンピュータ・テラ”なんかが典型的な「祭壇」となりますが、もう少し実例を挙げて行こうと思います。
「サイボーグ009」(作・石ノ森章太郎)の“黒い幽霊”ですね。これも「祭壇」の典型の一つ。“悪”を倒すために果てしない戦いをくぐり抜けてきた009は自分たちが守ろうとしている人間の中にこそ“悪”があり、その戦いは決して終わる事がないものである事を告げられます。
「GREY」(作・たがみよしひさ)の“TOY”です。人類は滅びたがっているという計算結果を元に世界を滅ぼしたコンピュータです。ちょっとマイナー作品かもしれませんが、好きな先品だったので取り上げました…って事と。もう一つ。
この“TOY”は科学の粋を集めて作られたコンピュータなのに、何故、こうも遺跡然、神殿然、とした造形なんでしょうね?これ、今回の記事においてすごく重要なことです。僕がこういったシーンを「祭壇」と呼ぶのは正に、このイメージに付随している事なので。
あくまで解釈の幅をとっての話なんですが「最終兵器彼女」(作・高橋しん)のラストシーンを「祭壇」のシーンと解釈する事もできるんじゃないかと思います。人類が滅び、全てが終わった後でテーマを語りだすので…。しかし、あんまり解釈を広げてあれも「祭壇」、これも「祭壇」とすると「言葉が死ぬ」のでそこは気をつけないといけないのですが、解釈の一例として上げておきます。
「新世紀エヴァンゲリオン」(監督・庵野秀明)の劇場版「まごころを、君に」はほとんど全編が「祭壇」のシーンだったと言えます。(TV版最終回も解釈の幅としては「祭壇」と言えそう)それまで「物語」が積み上げて来たものの“審判”が下されているので。
僕は今「ナウシカ」などを記事に書き出す流れで「祭壇」の代表的な問いかけ「人類が滅ぶべき物語」をピックアップして語っていますが、この「エヴァンゲリオン」で問われたような「あなたは何を望むの?」というのもまた定番の問いかけではありますね。有名所としては映画「ネバーエンディング・ストーリー」のラスト、あるいは「ブレイブ・ストーリー」のラストなんかもこれに当たると思います。
「コードギアス 反逆のルルーシュ」(監督・谷口悟朗)の“Cの世界”も「祭壇」と言っていいと思います。ただし、「コードギアス」の作品としての特徴は「祭壇」が最終局面ではなかった事にあります。「祭壇」から戻ってきて何を為すか?がこの「物語」の最後の問いかけになっています。
あとちょっと古典を上げると「西遊記」や「オズの魔法使い」など…。長い旅の果てに「祭壇」的なものに辿り着くパターンですね。上記の「ナウシカ」の記事を書いた時にMODSTOONさんからのレスで上げてもらいましたが「2001年宇宙の旅」などもこれに当たります。ただ、これ、今まで上げている近代的な「祭壇」の在り方とは少し分けて考えたい所があります。(「オズの魔法使い」についてはそのラストの展開のトリッキーさを含めて非常に近代の匂いがする「物語」ですが…)
MODSTOONさんはここで「聖書、モーセのシナイ山」や「仏教の解脱へ至るプロセス」にまで言及して「祭壇」の考え方を補完してくださっていて、僕も原初的な「祭壇」はここに端を発している事は間違いなかろうと思うのですが、近代の「祭壇」は、古来にある「祭壇」とは様相が大分変わって来ていると考えています。
それは古来の「祭壇」では“天啓”を受けて神の預言者となる資格を得たり、あるいは悪魔を“折伏”する場(厳密には「祭壇」ではないが、恐らくその後の「祭壇」の在り方に影響を持っている)として出現したの対して、近代の「祭壇」は逆に神を打ち倒す、あるいは説得する、と言った場として出現している。この意味の逆転は非常に興味深く、また、僕が「祭壇」と「神殺しの物語」を接続させて語るのもここから来ているワケです。
そこから考えると「西遊記」や「2001年宇宙の旅」なんかは古来の「祭壇」に属する天啓の場としてありますよね。…ただ「オズの魔法使い」のラストを祭壇と言っていいのかどうかは分かりませんが、そのラストで事実がひっくり返るその展開は、かなり近代を感じさせるもので、ちょと一考の余地がありそうです。ちょっと今は何とも言えないですが…。
さて幾つかの作品を画像合わせて上げてみましたが「祭壇」の特徴として、原則“物語の最終局面で出現する事”、またそのイメージは荘厳な…“厳粛な気持ちを抱かせる構造物あるいは景観”である事が上げられると思います。
ここで、事例の羅列だけで終わってしまうと「ああ、よくあるよねえ~いわゆる定番の展開だねえ~」なんて話で終わってしまうのですが、ここからが本題で。この「祭壇」のシーンが、こうも繰り返し少なからぬ頻度で扱われるという事は、この「祭壇」って物語上の何らかの元型(アーキタイプ)なんじゃない?って仮説を考えたんですよね。
「元型」と言うのは心理学者・カール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、集合的無意識の中で仮定される心理的作用を象徴するモノです。人類が地域は遠く離れていても神話や伝説に似通った筋を発見できる事の説明などに使われます。ちょっとWikipediaから引用します。
元型を、「像」という言葉で説明するのは、元型そのものは力動作用として心に現れるのであり、意識は、作用の結果生じる心の変化を認識できるだけで、元型そのものは意識できない為である。元型が心に作用すると、しばしばパターン化された「イメージ」または「像」が認識される。
例えば、男性の心に「アニマ」の元型が作用する場合、その男性は夢に美しく魅力的な「乙女」の姿を見たり、魅惑されたりする。あるいは、これまでは、まったく意識していなかった、少女とか女性の写真や絵画、ときに実在の女性に、急に、引き寄せられ、魅惑されるなどが起こる。このように、「アニマ」の元型が作用すると、少女や乙女や女性の像・イメージが、男性の心のなかで大きな意味を持って来る。そこで、このような少女や女性の「イメージ・像」を、「アニマの像」と呼び、説明のために、このような像・イメージをユング心理学では「元型の像」として示す。
このような「元型の像」は、人物の像に限らない。「老賢者」の元型のイメージは、先の尖った峻厳とした高峰や、空を羽搏き飛ぶ大鷲のイメージで出てくることがあり、他方、「太母(グレートマザー)」の元型のイメージは、地面に開いた、底知れぬ割れ目や谷、あるいは奥深く巨大な洞窟のイメージなどであることがある。
(Wikipedia「元型」より)大文字は自分で加工。「祭壇」は人物ではないのでは?という予想指摘に対応。
また、僕自身、ユング心理学の心的機能や元型などを「物語」を分析する事のツールとして使えないかと考え、記事を一つ書いています。(↓)
【ユング!ユング!ユング!(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/55d4a687041488bcd22f9c37125d16cb
それで、その成果は、精神病で無い人の夢の話などの心理分析から、果ては世界各地にある神話による民族単位の精神分析(集団の無意識の話)に繋がってくる。世界各地にある神話やおとぎ話のある種の共通性は、人間の心の中にある一定の働きによって生まれているのではないか?その共通性を象徴的に顕しているのが、ある種のパターンをもって全人類的に登場してくるキャラクター=元型ではないか?という。…この話になってくると「物語」に対する流用性は俄然高まるんですね。実際に「元型」を調べて行くと、物語の登場人物のこのパターンは正に“これ”だろうという事が多々あります。
…ただ、同時に「面白さ」という観点からの話をすると、モロに「元型」そのものというよりは、ある程度、多少ズレていたり複合されたり変化したりする方が「面白さ」や新鮮さを感じたりするようなので、そこはちょっと気をつけないといけないかと思います。要するにモロにアニムスじゃない方が「面白い」のに、心理分析的にはアニムスに規定しようという力がはたらく、そこに目指す方向の背反があるという事です。同様に検証を進めて行く過程で、次第に何でも「元型」で説明したくなって強引な当て嵌めをしたり、あるいは無思慮に新たな元型を打ち出したくなってくるのですが、経験からいうとそういった志向になるのは慎重さが必要だと思っています。
引用文でも述べているように、僕はユング心理学がそのまま「面白さ」を旨とする「物語」の分析に使えるとは思ってはいないです。しかし、人類の神話や、伝説、あるいは歴史という物語の創られ方が「物語」の一部であるなら、使える所は多いとも考えているので、そこらへんマンガ、アニメといったおたく界隈の「物語」に則した形に?調整しつつ、用意されているツールを使って行こうかと考えています。
…で、まず「祭壇」って「元型」なんじゃね?という仮説を述べさせてもらいました。これはこれからいろいろな「物語」に当てはめて、それがどういった“意味”を形成して行っているのか、検証して補強して行こうと思います。…まあ「祭壇」はイメージから出てくる心理的力場からの投影という考え方とは別に、「物語」がテーマを語るための象徴として置かれる物理的力場からの成果物という考え方もあるんですけどね。
しかし、そこは“神話”についてもそれは人間の知恵から来る自然科学的説明による成果物である考え方と同時に、ユングが言うような神話を産み出した人々の心理的充足の在り方を研究していたワケで、この二つは背反しない。そこは並行して観てゆくのが、より「物語」への「読み」が深まって行くだろうと。
以上、この話また別の記事書くときにちょこちょこ引っ張り出すと思うので覚えててねwって話でした。(`・ω・´)
現在、自分にとって「祭壇」はエキサイティングです
ココで云う「祭壇」が、何故か伝統的な祭壇の意匠に似る
浅薄な観方ではありますが、やはり私はそこに“空洞”を見てしまいます
モーセ等、従来の預言型はそこを経るべきプロセス
あるいは神的存在との距離圧縮を図る場に過ぎなかった
いわば問題は距離であり、空洞は空洞のまま、密度は第一の問題ではなかった
それに対し近代の「祭壇」が、多くの場合ディスカッションの場に費やされる
それがあたかも祭壇の空洞を言葉・論理・思考で埋め尽くそうとする
つまりは密度を第一に問題視しているかの様に思え、私はそこに非常な興味を覚える次第です
「祭壇」という、空洞(虚)を閉じることで広大無辺を端的に象徴する意匠~装置化
それをアークタイプとして応用した表現のヴァリエーション
──────── とてもエキサイティングです
一応、もっと後の方でレイ=ユイとシンジの対話があるにはあるんですが、それはもう人類まるごと LCL の海に溶けてしまった後の、精神世界の中での対話になっていて、やっぱり「超越者対主人公の対決」という構図にはなってないんですよね。
というわけで、限りなく表現主義的な観念的描写に覆いつくされていくあれを「祭壇」の例に挙げるのは不自然さを感じるのでした。
「百億の昼と千億の夜」で秀逸な所は、超越者サイドが「愚かなる人類は滅ぶべきなのだ」的なことは言い出さないんですね。破滅を導く理由は「よりよき世界をもたらすため」という「向上心」でもなければ、もちろん人類に対する憎しみでもない。もっと遥かに高みにいる、遥かにドライな思惑で、彼らからすれば「反応炉(これが我々の宇宙らしい)に、イレギュラーな高エネルギー粒子集団(これが人類その他、この宇宙の諸々の生命体まるごとらしい)が発生したので、炉を壊されないように消去しただけ」らしい、ということが匂わされて、それゆえにより一層虚無感は深まる。ここら辺の距離感・虚無感の描き方は実に見事で、唸らされる作品です。
………で、ちょっと話はずれますが、「グレンラガン」で私がアンチスパイラルに期待していたのはこのラインだったんですよね(笑)。まあ、ここまで極端に高位の存在でなくてもよかったんですが、その途中の内分点のどこか、くらいでいて欲しかった。以前のチャットでちょっと言ったことですが、こっちの土俵にわざわざ降りて来てくれて、「お前、わかれ。な!物分かりよくなれ、分別つけろ」みたいな説教垂れる相手は明らかに格が下がるじゃないですか(笑)。そういう敵を乗り越える話はもうすでにロージェノム編でケリをつけているので、2番煎じみたいになってしまったのは惜しく感じています。アンチスパイラルにはもっと高くそびえ立つ「壁」であってほしかったんですよね。
「百億の昼と千億の夜」では、最後「敗北」と言っていい終わり方で幕が下ります。もしアンチスパイラルがこちら方面の描き方をしていたら、そんなにも強大な(と言うか、遠くの)敵に一体どうやって「届かせる」のか?という部分が極めて困難で、まあそうならなかったのは無理もないと言えば無理もないのですが、もしそこら辺をうまく説得力のある描写で描けていたら中島かずきはエンターテインメント史に名を残せたろうに…!という点は、今でもちょっともったいなく思っています。
神を模って(かたどって)はならない。偶像にしてはならない。という考え方がありますよね。
「祭壇」のイメージが何らかの構造物(オブジェ)になるのは、こういう深層心理が働いているのかなとも考えています。
その意味で対話者の役どころは(神そのものの扱いもされてはいるが)“司祭者”と言った方がいいのかもしれません。
そして人間の「祭壇」に対する姿勢の変化は、物理的には物語の可能性の追求~複雑化の結果という事かもしれませんが、心理的には“産業革命”以降の人間の神への認識の変化…という考え方ができるかもしれません。(基点を産業革命にしたのは直感or適当ですが)
同じ元型でもその意識にはけっこう隔絶がありそうです。
Re:井汲さん
> 「まごころを、君に」のあれは「祭壇」なのかなあ………
すみません。全編「祭壇」という言い方をしたのは誤解を与えたかもしれません。
僕としては「まごころ~」のフェーズに入った所で、エヴァのコクピットが「祭壇」の意味を持つ場に変化している…つまり「祭壇」に上がっているのはシンジくんのみというイメージで話をしていました。
「超越者対主人公の対決」については「祭壇」で行われるのは必ずしも決着とは考えてなくって、文中にあるように、たとえば「あなたは何をのぞむのか?」という行程の果てに願いが叶えられる場となっている形もあり「エヴァ」はこっちかなと。
ここらへんの分類は少し時間をかけて整理したいですね。「百億の昼と千億の夜」のあのラストは「祭壇」ですねえ。それ考えるとエルリック・サーガのラストも実は「祭壇」?とか考えたりしましたが、まあ、ちょっと考え中w
> アンチスパイラルに期待していたのはこのライン
それはちょっと分かるかもw「グレンラガン」は最終決戦フェーズに入ったときに最初に出てきたのは“ムガン”でしたよね。
これまで戦闘兵器にはすべて顔がついていたのに、ここで顔無し=ムガンが出現する。…僕はアンスパの駆使する戦闘兵器はずっと、この延長であって欲しかったという思いがあって、それはここでの井汲さんの感覚に近いものを感じます。
しかし、途中からは異形ながらも顔が出るようになった…。「アンスパは最後、螺旋力を使ったか?」の解釈で対立していたのは井汲さんとでしたっけね?w(違ったらすみません)
多分、僕は最後までアンスパの兵器がずっとムガン・タイプだったら「最後、螺旋力を使った」とは言い出さなかったかもしれないんですよね。
そうではなかったので、ああ、これはどこまで行っても根性~インフレボトルの延長物語なんだと感じたので、そんな解釈をしていたって所があります。
飛躍的に「空間認識」が拡大された、その一点でも取っ掛かりは有ると思います
ただソッチ方向へ進めると、コノ話も拡大の一途ですね
劇場版を見ると、結局使っていたようですね。ロージェノムが分解されるのと引き換えに、エネルギーをドリル化してシモンに与える場面があったじゃないですか。劇場版だと、あの後さらに展開が用意されていて、もう一段上の技がアンチスパイラルの最後の必殺技として登場するのですが、それって「超・天元突破グレンラガン」と化したシモンのギガドリルブレイクに対抗される形で繰り出される、アンチスパイラル版のギガドリルブレイクなんです。見た目も大体一緒で。
> どこまで行っても根性~インフレボトルの延長物語
ですね。でもそれはちょっと陳腐で、折角の素材をちょっと勿体ないことをしてしまった(笑)、というのが私の感覚です。
挙げられた事例、特に「ナウシカ」が顕著ですが、
釈迦が仏陀に、イエスがキリストになる直前の
「最後の試練」=「悪魔の誘惑」≒「祭壇」
という印象を受けました。
ユング的な概念で言うならば、
「個性化過程」=「魂の練成過程」の一過程
であり、
「影」という「元型」との対話
ではないかと愚行する次第です。
単なる思い付きですが、考察の参考になれば幸いです。
> 「影」という「元型」との対話
確かに「祭壇」の相手が「シャドウ」であるパターンはありますね。
また「祭壇」が「魂の練成過程」的な面を持っているのも事実だと思います。
ただ、僕の「元型」解釈で言うとシャドウは自分の影から分身とも言うべき存在で、そのイメージは、反発を持てども“対等”である事が基本に思えます。
対して「祭壇」は自分より“大きなもの”、“厳粛な場”としてのイメージを持っており、対話者が「シャドウ」の可能性はあっても、大概において「祭壇」は、このイメージが準拠されるかな?と考えます。
「ナウシカ」の場合だと、考えて見ると、ナウシカの「シャドウ」って虚無の事じゃないかと思います。
…これは文章がかさむので省いたのですが、ナウシカは「祭壇」に行く前に虚無との対話を行い、絶望して一度王蟲の中で眠りについてしまう。そこから“復活(!)”して「祭壇」に向かいます。
だから実はもうこの時、ナウシカは最大の敵との戦いを終えていて、最早、墓所などに負けるはずがない状態で「祭壇」に上がっていたワケですね。
このナウシカと虚無との対話は、正に救世主と悪魔の対話的でありワンシーンとして興味深いです。
……ちょっと、ここらへん改めて記事に書くかもしれません。ありがとうございました。