【情報圧縮論】【脱英雄譚】
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230
(↑)前回の続きです。
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html
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(※既読者向けです)
え~っと。何か、書いても書いても終わらない感じで、なんだかな~って、テンション落ちていない事もないのですが……伝えたい事があるので書きます。人によっては「何でこの人「魔王x勇者」と関係ない話をだらだら~っと書いているの?」とか思われるかもしれませんが……(←ああ、やっぱテンション落ちている)
まあ、でも今まで断片的にしか語れなかった「情報圧縮論」をある程度に一纏めに語れそうに思えて、つらつら書いているわけですよ(汗)誰かが(多分、ペトロニウスさんですけど)「この作品はあらゆるキャラクター・ストーリーの大元(素体)になる。何か一人のキャラの物語を書きたいと思ったら、この作品の一部分を取り出して書けばいい。それ程の物語だ」といった、言い回しで誉めていましたけど、それに類する事ですね。それだけ素晴らしい「物語」だと。本稿は言ってみれば「何故、それが可能となったのか?」という角度の話をしていると思って下じゃい…orz
■魔王x勇者は二度祭壇に上がる
実は(その3)の記事を書く前に意図的に「風の谷のナウシカ」のラストの解釈の話と「祭壇」の話を書きました。
【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b
【「祭壇」という原型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648
※「海のトリトン」(左)、「無敵超人ザンボット3」(右)のそれぞれの「祭壇」(に当たる)シーン。この頃、富野監督は「祭壇」を多用したと言える。…何故そうなったか?
「祭壇」というのは、近代の英雄譚~ぶっちゃけ、おたく向けヒロイック・ストーリー~の最終局面でよく現れる”場所”の事で、まあある種の定番ですね。ラスボスとの対決前に現れてラスボスとの対話が行われるか、ラスボスとの対決後の超存在との対話で現れるか…といったいくつかのパターンがあります。
いや、難しく書いていますが、様々なバトル・ストーリーにおいて最終決戦の時にラスボスが「愚かな人類は滅ぶべきなのだ!」とか滔々と悪が悪を為すことの正当性を説いたり、あるいは「お前たちのやってきた事こそ悪なのだ!」と何らかの衝撃的事実ってヤツを述べて
「善悪の逆転劇」を図ったりするあれの事です。まあ、総ての英雄譚に現れるワケでもないんですが、複雑化されたテーマを解きほぐす役割としてはかなり重宝に使われていると思います。
それに対してヒーローは…まあ、これも、いろいろ言い方変えたり、理屈をこねたりするのも居るんですけど、要するに
「こまけぇこたぁいいんだよ!!」と言って悪をぶっとばして、めでたし、めでたし…となります。(`・ω・´)……うん。まあ、大体合ってるハズ。
詳しくは記事に書きましたが。「物語」の物理的には、自らの正当性を示す場所…これから暴力でこの敵を倒すけど、これは理論的にも正しい~少なくとも「受け手」が共感を持つ~行為なんだという事を宣誓してぶっとばす事に端を発しているはずです。
逆に言えば悪と悪の理論がそれほど手強くなって初めて対話型「祭壇」は出現しているのですね。これ、べつに町のギャングとかヤクザをやっつけるヒーローなら、まず「祭壇」は出現しないワケで、そこは善悪が明らかすぎて判定の場が必要ないですから。
また「物語」の心理的には、その場所が祭壇と名付けたくはる程、厳粛なイメージを持った場所である事に「原型」を見いだし、注目しているわけです。仮に明らかに「祭壇」の場面であるはずなのに、そのシーンが厳粛とはかけ離れたイメージで描かれている場合、おそらくはその作品の特徴…というかテーマが関連している事が考えられ、そこから作品を「読み」解けないか?と考える事ができる。「ドラゴンボール」に基本的に「祭壇」が登場しない。それは何故か?という考え方をしてもいい。
まあ、それでこの考え方を持って「魔王x勇者」の「物語」を眺めてみると…
「魔王x勇者」は「物語」として二度祭壇に上がっている。
…という事に気がつきます。第一の「祭壇」は魔王と勇者による対話です。第二の「祭壇」は……先に既読者向けと宣言しているのでかまわず述べますが、光の精霊と魔王x勇者による対話になります。本来は最終局面で現れるはずの「祭壇」が二度現れるという、これは、おそらく「魔王x勇者」という「物語」の最大の特徴であると思う。
二度「祭壇」が現れる…というその意味は、テーマが二つ語られるというか、二段発射というか…ディバイディング・ドライバーを決めた後に、ゴルディオン・ハンマーで仕止めるというか…(←何か言い出した!)そういう意味があって、これは後述して行きます。その現象があれほど一気呵成に描かれたストーリーの中において可能なのは「情報圧縮」がされているからではないか?というのが本稿の主旨になりますね。
しかし、その説明には「物語」が「英雄譚」に引き戻される引力というか、物語の持つ本質的な回帰から語る必要がありそうです。……あるような?ないような?別に根詰めなくてさらっと流せばいいような…気もしますが(汗)とにかく触れておきます。
■世界の「在り様」への接続
ちょっと、この説明をするにあたって図像でモデル化してみました。まず、竜(魔物)退治物譚や勧善懲悪譚を大元とした「英雄譚」があります。その「英雄譚」が次第に複雑化されて行き、やがて(単純に善悪では語れない)「世界の在り様」への接続に繋がるという…………いや、あんまりいい図じゃないんですけどね(汗)いつまで立ってもいい図にならないので、とりあえず、思いつくままに文言を並べて描いてみました。
このモデルは時系列性と(同時の)並列性の二つの状態を持っています。原初的な伝説が複雑化された近代の物語として接続されるまでの経緯=時系列性と、同時期であっても単純化された物語と複雑化された物語は同時に存在し得る範図=並列性の二つです。
基本的な「英雄譚」は、時系列にしろ並列にしろ、このゲージの“どこか一部分を占める”事で、作品のイメージを持つ事ができるのではないかと思います。
逆に言うと、本来の「英雄譚」はこのゲージを断片的にしか表現しないのですが、「魔王x勇者」の物語としての基本構造が、
世界の在り様への接続モデルの全部を顕している事は分かるでしょうか?「魔王x勇者」が他の「物語」と比べて殊更に膨大な文字数を消費してる物語ではない。そうである以上、この広い範囲を内包しているのは、必ず何らかの「情報圧縮」が入っているよね?という考えているワケで、かつ、その圧縮のキーとなるのが“二度現れる「祭壇」”という話になって行きます。
本来の「英雄譚」が、英雄をどのように描くか?という~それは絶対正義のスーパーヒーローとして描く道と、世界の在り様に翻弄される一人の人間を主人公として描く道の二端のどこか?という選択になってくるのですが~テーマを持つ事に対して、「魔王x勇者」は「英雄譚」そのものが、世界の在り様へ接続する事それ自体を描く、そういったテーマの違いではあるんですけどね。その文脈は以前の記事「「先の物語」という意味」においても書かせてもらい、それを
脱・英雄譚と表現させてもらっています。
ここで「魔王x勇者」を、単に“複雑な世界の在り様を描いた「物語」”として捉えてしまうと、やあ、それは普通の歴史物で充分描かれているものだよねって話になってくると思うんですよね。
今、僕は「英雄譚」という言葉に拘わって書いていますが、複雑化された世界と接続された「英雄譚」は既に「英雄譚」ではなく、歴史や群像の中から「主人公」として選ばれた誰か?であり、仮にその語り口が英雄譚的であったとしても英雄譚のように見える何か?という解釈にシフトされて行くはずです。
これを敢えて単純に「英雄譚」を“子供”の物語、「現実歴史群像」を“大人”の物語として語ると、単純な「英雄譚」は少なくとも世の中はそう簡単なものではないという認識においては、いずれ“卒業”するもの…という捉え方もできます。
…で、ここで“卒業”してしまうと“大人”はいきなり世界の在り様への接続からはじめてしまうワケです。歴史もの~あるいはノンフィクションとい所まで行ってしまう。それらはさらにそれ以上知りたければ歴史書を当たれ…とか「書を捨て街へでよう」なんて話にもなってくる。……最終的には「物語を介して世界を知ろうとなんかするな!実学実地で学べ!」という身も蓋もない正論が待っています。(´・ω・`)
これは「物語」における一面の事実(言葉は不完全なツールという領域をも含むものですが)を突いてはいます。…また「物語」は、ある事象(この場合はテーマも含む)をシンボライズ化して描かれる、あるいはある一面をピックアップ(ディフォルメ)して描かれる、側面があってその時、世界の「在り様」は否応なく欠損するのだ……という指摘はけっこう逃がれ難いものがあります。分かりやすく言えば「物語」が「面白さ」を求めるものであるなら、各事象に対して「面白い」か?「詰まらない」か?の判定が付きまとって、つまらない部分は切り捨てられる。この時、世界の「詰まらない部分」は切り捨てられているのだ…と。
(※「じゃあ、こちらで、あらゆる事を「面白い」と感じる事ができれば、その欠損は消えてゆくよね?」…というのが、このブログで時々、書き綴っている「物語愉楽論」の目的地ではあるんですが。まあ、それはちょっと自己修練じみていて、あまり総体的に持ち出す話ではない…と)
少なくとも勇者たちがいつまで経っても“戦いの物語”から抜け出せないのはこの力場が働いているからでしょ?
だからこそ「魔王x勇者」において、「丘の向こうへ行こう」と宣言され、その手始めに持ち出されたのが
“馬鈴薯”であった事に痺れるんですよね。…「世界を描きたいなら、最初から世界の在り様から描けばいいじゃん。そしてそういう物語は昔っからあるよね」…と、そういう話じゃない。(敢えて言うと)“子供だまし”の「英雄譚」が“子供だまし”から始めて、「面白い」を保ったまま、世界の在り様に接続する。その事に意味がある。その人間の階梯的な理解(認識)を1ストーリーに凝縮している美しさがある。
僕は、どこまで行っても「物語」読みなので……「面白さ」を維持しつつ、世界の「在り様」への接続~「先の物語」~「大きな物語」~を目指す「物語」の流れそのものが好きなんですね。仮に実学実地を学ぶとしてもそこに回帰するために為すと言ってもいい。様々な在り様をボロボロこぼしながらも、逃すまいと拾い集め、それらを「面白い」ものへと昇華させて描きの俎上に返して行こうとする「物語」の「在り様」そのものを愛しているんです。
故に、それこそ原初の竜退治英雄譚クラスの勇者が、世界の「在り様」への接続を果たそうと苦闘する、この「物語」は大変に、そして純粋に「面白い」なと。そう思っています。
…………………(滝汗)。o(……なんか「情報圧縮」の話、全然しない内に一区切りきちゃったな……)ちょっと前提の話で終わってしまっているのですけど、ここで区切ります。まあ、この話、“二つの「祭壇」”の話でまとめて行きたいと思っているのですけど、その前提として「英雄譚」の持つ力場/回帰性を述べておく意図でした。…次で何とかまとめたいと思います。(´・ω・`)たぶん。
(↓)続く
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036
以前の記事です。
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615
【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b