今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




最近、最終回を迎えた『AngelBeats!』についての自分の感想のつぶやきと、他の人との会話をTogetterにまとめました。
何かと話題だった作品で…ちょっとラジオをしたり、ブログの記事にまとめなおしたりするかもしれません。あとオP・EDのCD買っちゃいました。

【『AngelBeats!』についての自分用のメモ】
http://togetter.com/li/31946



My Soul, Your Beats!/Brave Song 【初回生産限定盤】
アニプレックス
アニプレックス



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






以前から思っているのですが、プロフェッサー・ギルの両脇にいるこのロボットって何でしょうね?やっぱ、“ダーク破壊ロボット試作1号、2号”でしょうか?そう考えると、なかなか物持ちのいい人(自分の作品に愛情がある人)です。プロフェッサー・ギル!(`・ω・´)

『人造人間キカイダー』(1972年制作)コンプリート。『仮面ライダー』(1971年制作)の大ヒットで到来した“変身ヒーロー・ブーム”に乗って制作された作品で、その後の東映ヒーローは『仮面ライダー』と『キカイダー』が形成したと言ってもいいでしょう。不完全な良心回路を持て生まれたロボット(人造人間)ジローがキカイダーに変身して、世界征服を企む悪の秘密結社ダークと戦い、そして行方不明となった自身の製作者・光明寺博士を探し出す物語。
特撮ヒーロー作品としての、非常に高いドラマ性を確立した作品で、1話完結制を保ちながらもシリーズとしての展開も進め、また、正義のヒーローと悪の組織のある種の葛藤劇、相克劇のような展開など、その後の東映ヒーローの描き方はこの作品で固められていきました。『仮面ライダー』が変身ポーズや、悪の組織、敵幹部といった“外面”を確立して行ったのに対し、『キカイダー』がその“内面”を裏打ちした…という感じでしょうか。



中でも特筆すべきはキカイダーの宿敵として現れ、終盤のドラマを大いに盛り上げたロボットサイボーグ・“ハカイダー”の登場でしょう。キカイダーを倒すためだけに生まれ、キカイダーを執拗に追い詰めながらも、遂にそれは果たされず、また先にキカイダーを倒してしまった破壊ロボット・アカ地雷ガマを殴り、蹴り飛ばし、破壊してしまい呆然自失するシーンは非常に印象的です。
同時期に……というよりハカイダーよりわずかに先に登場して、僕はもっと評価されていいと思っているのですが『快傑ライオン丸』(1972年制作)に登場するライバル・キャラ、タイガー・ジョーと合わせて、僕はこの二名の登場を特撮ヒーロー史における『アンチ・ヒーロー』の出現と位置づけています。

もしかするとタイガー・ジョーは後半の早い時期にゴースンの組織から距離をとりはじめ、悪のヒーローというより、ライオン丸とのライバル性と、ダブルヒーロー性が強調されている事がタイガー・ジョーのキャラの属性そのものを微妙なものにしているのかもしれませんが、なかなか、ここらへんは際どい話です。ハカイダーだって最期にはプロフェッサー・ギルを殺そうとしますしね。
『アンチ・ヒーロー』の出現については、また、改めてまとめたいと思っていますが、今述べたように、そもそもアンチ・ヒーローとそうでない怪人の差って何?っていうのは難しいですね。『月光仮面』のどくろ仮面だって『アンチ・ヒーロー』じゃないの?というと、そういう解釈もできますね、としか言いようがない。

それでも僕がハカイダーや、タイガー・ジョーをエポック足りえると思っているのは(というよりベーシックなヒーロー史観だと思いますが)彼らが独自の変身ポーズを持ち…則ち、ハカイダー→三郎、タイガー・ジョー→虎錠之助という“人間状態”を持ち(重要!)、独自の必殺技を持ち、ハカイダーは独自のモービル“白いカラス”を持ち、タイガージョーは獅子丸の太刀に比肩する“銀砂地の太刀”を持ち、果てはハカイダーなら『ハカイダーのテーマ』(名曲!)、タイガー・ジョーなら口笛のテーマ(…というか三郎も口笛を吹くけどね)といった非常に“ヒーロー的”な演出を受けた存在だからですね。

これは言い換えれば、そういう“ヒーロー演出”が確立されてはじめてアンチ・ヒーローは出現できたという事です。『仮面ライダー』の登場によって、変身(変身ポーズ)や必殺技と言った“ヒーローが持つべきギミック”というものが明確になって、それから、悪にそれを装備させるという発想が出てきたと言えそうです。
返って観ると、『月光仮面』で、どくろ仮面はアンチ・ヒーローではないか?というより、むしろ正体不明の月光仮面の方が“怪人”に近いのでしょう。…実際、怪人物である事は間違いないですしねw“怪傑”という言葉はやがて“快傑”という言葉に当て字(とりあえず広辞苑の検索では出なかった)し直されて行きますが、元はやっぱり“怪傑”なわけで。

とまれ『キカイダー』で出現したハカイダー~『アンチ・ヒーロー』の物語は次作『キカイダー01』においてさらに深化を遂げて行くんですけどね。…ここらへん、長坂秀佳先生の独壇場的な仕事だなあ…。まあ、機会を改めて語って行ければと思います。


人造人間キカイダー サイドマシン
タイヨー
タイヨー



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






『ジャイアントロボ』(1967年制作)コンプリート。第一次怪獣ブームの時期に巨大ロボット特撮ものとして放送された作品ですね。国際警察機構“ユニコーン”の少年隊員U7となった草間大作少年が無敵のジャイアントロボを操縦して世界征服を狙う秘密結社BF団と戦う物語。“大魔球グローバー”や、“巨腕ガンガー”といったユニークな戦闘兵器(デザインは名称で何となくわかるんじゃないかな?)が登場する一方、怪獣ブームの流れを受けて、巨大生物や…まあ怪獣にしか見えないw戦闘兵器も登場していました。

ジャイアント ロボ(上) (講談社漫画文庫 (よ1-76))
横山 光輝
講談社

ジャイアントロボ (上) (KCピース)
横山 光輝
講談社

これの横山光輝先生の原作本が、長い事、幻の傑作扱いだったんですが、ちょっと前に文庫本化されましたね。買いましたが。いや、いい時代になったものですねえwこっちの大作くんはかなりスパイ然として少年…と言われていますが、ほとんど少年には見えませんねw

まあ、それは余談として………。よく言われるんですが、このロボに指令を出す大作少年、「ロボ、がんばれ!」とか「ロボ、負けるな!」とか、けっこうアバウトかつ、無茶なコマンドを平気で入力するんですよね。(´・ω・`)ここらへんの無茶振りのリアクションを余儀なくされたロボは、次第に学習して行き……いや、ホントに、後半では「ナクキイレイメ」という謎の指令を、ロボ「(分析)ああ…逆から読むと、メイレイキクナ…“命令聞くな”か…」って、その後、BF団に脅されて大作くんが出した命令を無視したり、すごい優秀なロボットになってきます。(`・ω・´)
そして、ラストには地球を守るために大作の命令を完全に拒否して(つまり自律して!)ギロチン大帝と共に自爆して果てるという最終回を迎えました。多少偶然めいたものも入っているとは思いますが、話が進むにつれ、ロボは間違いなく進化していて、それが『ジャイアントロボ』という『物語』の特徴になっています。

あと、ゴムスーツでにょるにょる有機的(?)に動くウルトラマンタイプの超人たちに比して、ジャイアントロボの外殻が装着されたカクカク動くロボットアクションは、なかなか魅力的で、砂塵の向こうでファイティング・ポーズをとるロボは相当かっこ良かったです。また、ロボット同士の対戦は『画』としてかなり映えました。“GR2”とか“カラミティ”とかの対決は良かった。…でも、カラミティは相当ロボを追い詰めたとも言えるけど、負ける時はかなり弱いロボットだったなあ(汗)GR2はロボと同程度の戦力を持つロボットとして申し分なかったですね。ロボより鋼鉄っぽさが出ていてカッコ良いロボットです。

その後、『レッドバロン』シリーズや『大鉄人17』などに巨大ロボット特撮は引き継がれるのですが(え…「ジャンボーグA」?あれは…ロボとしては何か違うよ?(´・ω・`))黒鉄(くろがね)の重量感が出ているデザインや『画』の良さとしては、やっぱり『ジャイアントロボ』が一等でした。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




【6月第3週:ヤンキー君とメガネちゃん 169限目 何やってんだ…あのバカ。】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10467.html#645

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



『ぬらりひょんの孫』(作・椎橋寛)リクオの新必殺技が決まりました!鬼纏(まとい)と言うそうです!何かこれから色々、違う妖怪たちと融合合神して、違う性質の必殺技を繰り出したりするんですよねえ?w楽しみですw「ぬらりひょんの孫」は、百鬼夜行の総大将と言われたぬらりひょんの孫・奴良リクオくんが………どうしたいんでしょうね?最終的に?(´・ω・`)とりあえず今は日本一の百鬼夜行総大将の跡目を目指しているように見えます。そんな物語。

…で、今は大妖怪・鵺の復活を目指す羽衣狐(九尾狐ですよね?)の一派と、リクオ組を上げての大戦争をやっているのですが……この羽衣狐一派が強い!wかつて祖父であるぬらりひょんの百鬼夜行と頂上決戦を果たした顛末を描いた「京都過去編」(と呼んでいます)が、なかなか堂に入った一戦だったのが良かったのか、悪かったのか(汗)羽衣狐を始めとした手下一同が軒並み強そうというか一癖ありそうな連中で、正直いきなり現代に復活を果たして対戦するとは思ってなかったんですが、いきなりはじめちゃって…。
それでリクオ組の連中は、まだ誰もそんあ強く“育って”いなかったもんだから、いきなりぶつけて理詰めで展開して行くと自然と追いつめられて行っちゃうんですよね。リクオは戦いがはじまる前に遠野へ修行へ出かけてから…という手順を踏んだのですが、僕の感覚的にも展開的にも1レベル上がった程度だと全然追いつける感じがしなかった。

それで、為されるがままにバラバラになった組員たちが……孤軍奮闘を始めて、実は彼らは強かったんだよぉおおおおお!!という展開で補強を始めたんですが、この時、必然的にリクオはクリアしなければならない二つの課題が浮き彫りになってきた。
一つは、つららたんを連れ去った土蜘蛛あたりから最終ステージの羽衣狐まで、まともに戦えそうな戦闘フォームないし“必殺技”を身につける事。もう一つはリクオが大将である事の“器の描き”ですね。前者はともかくとしても後者はかなり難しいのですよね。

「ぬらりひょんの孫」は主人公とともに戦う仲間との関係を“親分と子分”として描いてしまったマンガ(…しまったマンガ?)で、子分たちが「実は強かったです!」という方法で実質のパワーアップを遂げて行くと、弱い(未熟な?)親分が親分である事の意味が問われるようになってくる。『三国志』の劉備が劉備である事の意味というかね。

“悟空”や“剣心”がリーダーっぽく振舞うのはいいんですよ。既にバトルして格付けが済んでいるから。そうではなく自分より、弱くても未熟でも、リクオの子分になっているのは、みんなリクオが好きだから…として、そこがストーリーを組む友情努力勝利の軸となってしまうと「なんで皆リクオが好きなの?」を描く必要が出てくる。正確には、この場のバトルで皆がリクオを中心に一致団結し得る何か?ですね。
それはつらららんがリクオのどこを気に入っているのか?という個人的な事ではなくって、共通の惚れる焦点……つまり“大将の器のでかさ”…のようなものを描くって話になってくるんですが、これって、そうそうできる事じゃないというか、最初っからそのつもりで準備していたならともかく、連載の流れで描いて行くのは神業に近いものだと思ってしまう。(…『天才』はそれを為すけど)

…で、そこらへんの意識は、おもむろに現れてリクオへの再特訓を促した牛鬼とかのセリフでも見て取れたので、じゃあ、どうするのかなあ?と見守っていて…。それで出てきたのが、この百鬼の主の御業“鬼纏”だったので「あ、これは上手いな(´・ω・`)」と。「“必殺技”と“器”の二つの問題を一石で解決したな」と、ちょっと手を打ったので、今、文章書いているワケです。

……いや(汗)この技のどこが、上述したような“大将の器のでかさ”を満たしているのか?描いているのか?伝わらないかもしれないですが…(汗)いや、何と言うかね……リクオが“何でも入る器”である事をギミックと画で物理的に表現してしまったんですよねwまあ、人間の器じゃなくってギミックの器なんですけどw

文字通り“子供だまし”という事かもしれないですけど、これはこれで好きなんです。だってねえ…仮に、叙情的、情景的に人間の器の機微を描くとして……よっぽど才能投入して上手く描かないと、分かりづらくないですかぁ?(´・ω・`)
…機微なる描写にぐずぐず走って、よく分からない、そしてノンギミックかよ!ってなるより、ギミック担いで大将である事が描かれてしまう方が、ずっと分かりやすくって、楽しいと思います。
「皆の元気をオラに分けてくれ!」が出来るキャラは、切り札なんだから、皆が最後まで守らなきゃならないキャラなんですよ。そういうユニット(駒)なんですwまた、熱い男には炎の必殺技を……とか、ギミックとキャラを一致させるというのは少年マンガでは有効な描きで(故にそこを反転するのも一興ですけどね)これも、その一つの顕れと言えると思います。

…まあ、何かとエロいこの技ですが。(←)リクオの“はじめて”は、つららたんではなく鴆兄ぃといういかすオチ(´・ω・`)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






『スクラップド・プリンセス』(2003年制作)コンプリート。預言により“世界を滅ぼす猛毒”として、討手に狙われながらも生き延びた王女パシフィカの貴種流離譚。……こう、『スクラップド・プリンセス』というタイトルとプロットを聞いただけで、これはもう、勝ちだな?(´・ω・`)…と思った作品です。想像されるプロットのパターンが、もう、どっちに転がっても勝つんじゃね?というかね。“スクラップド”というキツイ言葉を横文字で柔らかくしているのもミソでしょうか。

しかし、このプロットから来るテーマ……この世から疎んじられても何故生きるか?といったラインだと思いますが、これ、突き詰めて行くと“愛する者が死ぬ事になってもそれでも生きるか?”という話になってくるんですよね。何故生きるか?は生きたいという決意で越え得るものとしても、自分を守る兄・シャノンと、姉・ラクウェル。彼らの生命を賭しても、自分は生きるに値するか?…と。この問いにどう答えるのか?答え得るのか?という話になって来ます。(表題したようにジュブナイルとしてって事ですが)

まあ、それにパシフィカがどう答えて行くのかは本編に譲るとして。……この問いの一つの形として、パシフィカが記憶を失ったその間、一緒に暮らしたフューレのエピソードがありますね。このエピ、僕はかなり好きなんですが……フューレとの暮らしの描写が、何でか『神田川』のイメージになるというwいや、分かるんですけどね(汗)……何でか中世ヨーロッパ的世界に“銭湯”が出現するというw(ここらへん、日本製スチャラカ・ファンタジーの良い所だよなあw)いや、分かるんですけどねw(汗)世間に背を向けて暮らす二人というモチーフに対して、この図はハマリすぎなので……ってどのくらい通じるんですかねえ『神田川』なんてw

…しかし、この秘めやながらも、小さな幸せを得た生活は長くは続かず、フューレはやがてパシフィカを逃がすために追撃部隊と戦って死んでしまう。フューレと兄・シャノンは、いろいろキャラがかぶっているので、これが、シャノンに有り得た可能性の一つとして描かれたものである事は、まず間違いないと思います。
…でも、フューレの死を感じ取って泣き崩れたパシフィカが、果たして記憶をとりもどした時には、逆にフューレの事を忘れてしまうんですよね。そうして足を止めていたパシフィカは、また自らの運命を切り拓く冒険に踏み出す。忘却された“フューレの悲劇”は、彼女が彼と一緒に行った銭湯の鍵板を見たとき、何故か涙が止まらなくなった……という形で昇華される。

他にもいくつか彼女のために起こる悲劇はある(母親の死とか)のですが、それらの悲劇から彼女の目は遠ざけられ続けます。見せないんですよね。守られ続ける。………これねえ、子供に答えられないような問題を容赦なくぶつける選択も僕は好きなんですが、ジュブナイルとして、その意図する所に感じるものはあります。
ある意味では作品の持つテーマから離れる行為~作者の意図(テーマ)とは別に、作品が為した構造によって自然と形成される実相(テーマ)もまた在る。~とも言えるんですが、それを示しつつも『引き返す』(パシフィカが忘れる事…広義の『引き返し』かな?)のは、一つの選択だと思う。…だって、子供には答えられないよwこんな難しい問題w…逆にあっさり答えちゃうような、「んなもん、自分を勝手に守って、勝手に死ぬ分にはいいじゃねえの?うけるwwww」とか、逆にあっさり自分の生きる価値を捨てる奴とか、そういう人間になって欲しくないですしね。

少年マンガとかでもそうですが、どのくらいキツくどのくらいやさしく語るか?っていうのはバランスの難しい問題で、「スクラップド・プリンセス」のこの平衡は、注意深く読む者にはキツさが観えてくるという形で、ちょっと好きでした。
…あと、本当はさらに突き詰めると「あなたが、本当に世界の災厄で、愛する者立ち含めて全てを滅ぼす~存在自体が悪と呼べる~者だったらどうしますか?」という問いかけも出てくるんですけど、これはプロットで回避していますね。これも正しい。ジュブナイルとして「あなたの生そのもの、生まれた事そのものが“悪”だなんて、そんな話はこの世に存在しません!」という強く、当然のメッセージがある。…そこらへんの選択の一つ一つが気に入ってて、いい『物語』だったと思います。


スクラップド・プリンセス DVD-BOX 1【初回限定生産】
折笠富美子,三木眞一郎,大原さやか,水島大宙,近藤隆
角川エンタテインメント


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




【6月第2週:任侠姫レイラ 7th Match「ファイトマネー」】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10466.html#644

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「少年疾駆」(作・附田祐斗)の第3話におおっ?と思わされました。「少年疾駆」サッカーのチャンピオン・リーグを目指す“大鳥晴輝”と“陣明薫”二人の少年の物語…なんだと思いますが。すごく手堅い作りではあるんだけど、手堅い故に地味だな…といった印象でもありました。…派手地味言ったらマガジンとかのスポーツマンガの方が圧倒的に地味なんですけどね(汗)ジャンプはよっぽど尖ってないと生き残るの難しいから、手堅い時点でこっちのマインドが構えちゃっている所がありましたね。気をつけないといかんなあ…。

…で、第3話にして「あれ、何かいいかも?」って思ったんですね。おそらくはヒロインであろう“朝希ちか”ちゃんの描きを中心に添えて、ラストにもう一人の新(主要)キャラ“阿久井”くんを置いて「ヒキ」を入れる。いや、実際にはこの回で、様々な脇役たちの描写を一気に入れはじめている。
MFで、正確なパスを上げるキャプテンの“駒沢聡”くん……この子、いい所に置いてありますね。一話からキャラが出ていたと言えば出ていて、フォワードじゃなくバックで地味~にキャラ「積んで」ます。(上手く演るとマスタングな人気が得られそう)で今回、少しそのボリュームを上げていると。それからハルキの応援団三人組。それから名前は出ていませんが、ちかちゃんの友達の二人も明確にキャラを載せているので、いずれ名前も出てくるでしょう。…単純にこの回、ページに載せた情報量だけでもけっこうな満足感を味わえます。

また、フォワードでしっかり描きたい阿久井くんをヒキに滑り込ませるのもいい!(フォワードで描くべきキャラと、バックで描くべきキャラの選択の意識がある。…富士鷹先生なんかは、もう全キャラ愛着を持って、全キャラ、フォワードで描きたがるとw)これ、次の回に阿久井くんを出すと、その1話がかなり野暮ったくなるというか……要するにスタートダッシュとしての「速度」を微妙に落とすのですよ。上手くやっても。
実際、読み返して観ると第1~2話は、ハルキと陣明くんの描きに重点をおいて、ともかくこの二人の描きに集中して、他のキャラは第3話で本格的に描き始めるという構成のようなんですが、その意図はわかるけど「速度論」的にはどうなんだろう?…と思う。情報載せ程度でいいから、阿久井くんと同じ理屈で、ちかちゃんだけでも載せておいた方が良かったのではなかろうか?

 

しかし、まあ、構成的な話とかぐだぐだ述べましたが、結局のところこの回。女の子が惚れるシーンを入れたのが大きかったよなあっ…と、つくづく思いますwやっぱ重要っすよwヒロインが惚れるのw少なくとも僕は、ちかちゃんの反射で、「あ、ハルキってすごい奴かも?」って思ったw
まあ、でも第1~2話も、言ってしまえば陣明が惚れる(きゃっ)シーン…とも言えるんですけどね。完全に惚れる描写にしてしまうと、キャラの「従格」が確定してしまうのであまり明確ではないんですよね。ハルキと陣明は基本「対等格」の線を引きたいはずで…。
ちょっと、分解して語ると。まず陣明はライバル的メソッドに沿って、凄い奴である事が“記号的”に描かれているので、これは読者はすんなり受け入れるはず。問題はハルキの方。主人公の彼はオリジナルな描写で凄さ(あるいは潜在的な凄さ)を描かないといけないんだけど、これは構成的に冒頭で二人の世界を描く事を選択した事もあって(多少、ネーム組みで調整するとは言え)かなり、画的に魅せる事を主体にした(先述したように陣明が惚れるのではなくって、描写そのもので直接読者をすごいと思わせる)形になっています。……で、附田先生、画で魅せるのは、ちょっとまだ限界があるかな~っと(汗)

結果、ロジックとシナリオで演出された「ちかちゃんが惚れるシーン」の方が、ハルキを凄いと思わせる描写として「強く」なっていますね。……いいんですよ。応援団三人組とかいて、それなりに熱い描写もイメージできはするんですけど。応援なんてね………女の子が、ぎゅっと両手結んで天に祈っているだけで……「少年!!てめぇ、絶対に勝て!!」という気にさせられますw(=´ω`=)

それと後、読み直して気づいたのですが、この物語、今、微妙に昔を描いている?いや、駄菓子屋(!)のおばあちゃんが携帯電話買ったり、DVDプレーヤー買ったりで“新しいもの好き”とか言われているんですけど……今ならDVDプレーヤーっていうか、ブルーレイじゃね?とか思ったり(あと、陣明くんの家、DVDプレーヤー無いんだ。…買えない?…サッカーの試合を家で見れない?)携帯だって最新機種って事かもしれないけど今ならiPhoneとかじゃね?とか………まあ、ちょっとメモ書き。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




【必殺シリーズ】



「必殺まっしぐら!」(1986年制作)終了。んんん……1話録り逃し。当時、大人気だった「スーパーマリオブラザーズ」を意識して作られた「必殺」と言われています。そのため、多少色物の「必殺」作品のように思われ勝ちな作品ではあるんですが……どうなんでしょうね?
確かに、かんざしの秀(三田村邦彦)がマリオで、遊女・若紫がピーチ姫?…で、マリオが吉原の遊女・ピーチに入れ上げて身請けするために、せっせと“仕事”(無論、殺しの報酬)に勤しんで日本各所を飛び回る。(う~ん、考えてみると恐い設定だw)それで最後の敵は火は吹かないけど、ハンマーをぶんぶん投げてくるんですよね。…まあ、実際、本当に意識して作られたみたいですが言われなきゃ分からなくもありますね。

…これ若い頃の秀って事ですよね?行く先々で商売敵の組織の仕事人たちが、秀たちの命をつけ狙うんですが、前半こいつらとのアクションで後半“標的”への仕事と、毎回小気味良く展開してけっこう観ていて飽きなかったですね。
“標的”も明らかに悪い連中には違いないんですが、仕事上の“標的”と割り切っている感覚……仕事人たちと依頼人が変にべったり関わらない構成が、けっこう僕好みだったです。
この構成は、必殺の一旦の最終作「必殺仕事人・激突!」の前半の展開にも生かされています。逆に闇の仕事人同士の戦いが希な作品では、相手も一くせ二くせあって、すっごい楽しみというか緊張感を煽られたんですが、「まっしぐら!」や「激突!」みたいだとちょっと戦闘員臭が強くなってしまっている面がありますね。

あと、この話、滝沢馬琴の日記に合わせて時評を語り、この時代の歴史的人物(高野長英とか、少年時代の西郷隆盛とか)なんかをちらちら出しているのも特徴ですね。しかし、日記の日付を追う限り、きっちり一週間毎に次の仕事を依頼されている形だと分かるんですが。果たして、長崎や、徳島や、佐渡を7日間で行ってかえってこれるもんなんでしょうか。秀も麻呂もすごい健脚です。(´・ω・`;)


コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




【情報圧縮論】【脱英雄譚】

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9463c36296d822054b9ae5a6abd241d7

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a5d7d212f714fa3587721b5cefaf7230

(↑)前回の続きです。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」目次】
http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

http://maouyusya2828.web.fc2.com/

(※既読者向けです)

え~っと。何か、書いても書いても終わらない感じで、なんだかな~って、テンション落ちていない事もないのですが……伝えたい事があるので書きます。人によっては「何でこの人「魔王x勇者」と関係ない話をだらだら~っと書いているの?」とか思われるかもしれませんが……(←ああ、やっぱテンション落ちている)
まあ、でも今まで断片的にしか語れなかった「情報圧縮論」をある程度に一纏めに語れそうに思えて、つらつら書いているわけですよ(汗)誰かが(多分、ペトロニウスさんですけど)「この作品はあらゆるキャラクター・ストーリーの大元(素体)になる。何か一人のキャラの物語を書きたいと思ったら、この作品の一部分を取り出して書けばいい。それ程の物語だ」といった、言い回しで誉めていましたけど、それに類する事ですね。それだけ素晴らしい「物語」だと。本稿は言ってみれば「何故、それが可能となったのか?」という角度の話をしていると思って下じゃい…orz


■魔王x勇者は二度祭壇に上がる

実は(その3)の記事を書く前に意図的に「風の谷のナウシカ」のラストの解釈の話と「祭壇」の話を書きました。

【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b

【「祭壇」という原型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648



※「海のトリトン」(左)、「無敵超人ザンボット3」(右)のそれぞれの「祭壇」(に当たる)シーン。この頃、富野監督は「祭壇」を多用したと言える。…何故そうなったか?

「祭壇」というのは、近代の英雄譚~ぶっちゃけ、おたく向けヒロイック・ストーリー~の最終局面でよく現れる”場所”の事で、まあある種の定番ですね。ラスボスとの対決前に現れてラスボスとの対話が行われるか、ラスボスとの対決後の超存在との対話で現れるか…といったいくつかのパターンがあります。
いや、難しく書いていますが、様々なバトル・ストーリーにおいて最終決戦の時にラスボスが「愚かな人類は滅ぶべきなのだ!」とか滔々と悪が悪を為すことの正当性を説いたり、あるいは「お前たちのやってきた事こそ悪なのだ!」と何らかの衝撃的事実ってヤツを述べて「善悪の逆転劇」を図ったりするあれの事です。まあ、総ての英雄譚に現れるワケでもないんですが、複雑化されたテーマを解きほぐす役割としてはかなり重宝に使われていると思います。



それに対してヒーローは…まあ、これも、いろいろ言い方変えたり、理屈をこねたりするのも居るんですけど、要するに「こまけぇこたぁいいんだよ!!」と言って悪をぶっとばして、めでたし、めでたし…となります。(`・ω・´)……うん。まあ、大体合ってるハズ。

詳しくは記事に書きましたが。「物語」の物理的には、自らの正当性を示す場所…これから暴力でこの敵を倒すけど、これは理論的にも正しい~少なくとも「受け手」が共感を持つ~行為なんだという事を宣誓してぶっとばす事に端を発しているはずです。
逆に言えば悪と悪の理論がそれほど手強くなって初めて対話型「祭壇」は出現しているのですね。これ、べつに町のギャングとかヤクザをやっつけるヒーローなら、まず「祭壇」は出現しないワケで、そこは善悪が明らかすぎて判定の場が必要ないですから。

また「物語」の心理的には、その場所が祭壇と名付けたくはる程、厳粛なイメージを持った場所である事に「原型」を見いだし、注目しているわけです。仮に明らかに「祭壇」の場面であるはずなのに、そのシーンが厳粛とはかけ離れたイメージで描かれている場合、おそらくはその作品の特徴…というかテーマが関連している事が考えられ、そこから作品を「読み」解けないか?と考える事ができる。「ドラゴンボール」に基本的に「祭壇」が登場しない。それは何故か?という考え方をしてもいい。

まあ、それでこの考え方を持って「魔王x勇者」の「物語」を眺めてみると…

「魔王x勇者」は「物語」として二度祭壇に上がっている。

…という事に気がつきます。第一の「祭壇」は魔王と勇者による対話です。第二の「祭壇」は……先に既読者向けと宣言しているのでかまわず述べますが、光の精霊と魔王x勇者による対話になります。本来は最終局面で現れるはずの「祭壇」が二度現れるという、これは、おそらく「魔王x勇者」という「物語」の最大の特徴であると思う。

二度「祭壇」が現れる…というその意味は、テーマが二つ語られるというか、二段発射というか…ディバイディング・ドライバーを決めた後に、ゴルディオン・ハンマーで仕止めるというか…(←何か言い出した!)そういう意味があって、これは後述して行きます。その現象があれほど一気呵成に描かれたストーリーの中において可能なのは「情報圧縮」がされているからではないか?というのが本稿の主旨になりますね。
しかし、その説明には「物語」が「英雄譚」に引き戻される引力というか、物語の持つ本質的な回帰から語る必要がありそうです。……あるような?ないような?別に根詰めなくてさらっと流せばいいような…気もしますが(汗)とにかく触れておきます。


■世界の「在り様」への接続



ちょっと、この説明をするにあたって図像でモデル化してみました。まず、竜(魔物)退治物譚や勧善懲悪譚を大元とした「英雄譚」があります。その「英雄譚」が次第に複雑化されて行き、やがて(単純に善悪では語れない)「世界の在り様」への接続に繋がるという…………いや、あんまりいい図じゃないんですけどね(汗)いつまで立ってもいい図にならないので、とりあえず、思いつくままに文言を並べて描いてみました。

このモデルは時系列性と(同時の)並列性の二つの状態を持っています。原初的な伝説が複雑化された近代の物語として接続されるまでの経緯=時系列性と、同時期であっても単純化された物語と複雑化された物語は同時に存在し得る範図=並列性の二つです。
基本的な「英雄譚」は、時系列にしろ並列にしろ、このゲージの“どこか一部分を占める”事で、作品のイメージを持つ事ができるのではないかと思います。

逆に言うと、本来の「英雄譚」はこのゲージを断片的にしか表現しないのですが、「魔王x勇者」の物語としての基本構造が、世界の在り様への接続モデルの全部を顕している事は分かるでしょうか?「魔王x勇者」が他の「物語」と比べて殊更に膨大な文字数を消費してる物語ではない。そうである以上、この広い範囲を内包しているのは、必ず何らかの「情報圧縮」が入っているよね?という考えているワケで、かつ、その圧縮のキーとなるのが“二度現れる「祭壇」”という話になって行きます。

本来の「英雄譚」が、英雄をどのように描くか?という~それは絶対正義のスーパーヒーローとして描く道と、世界の在り様に翻弄される一人の人間を主人公として描く道の二端のどこか?という選択になってくるのですが~テーマを持つ事に対して、「魔王x勇者」は「英雄譚」そのものが、世界の在り様へ接続する事それ自体を描く、そういったテーマの違いではあるんですけどね。その文脈は以前の記事「「先の物語」という意味」においても書かせてもらい、それを脱・英雄譚と表現させてもらっています。

ここで「魔王x勇者」を、単に“複雑な世界の在り様を描いた「物語」”として捉えてしまうと、やあ、それは普通の歴史物で充分描かれているものだよねって話になってくると思うんですよね。
今、僕は「英雄譚」という言葉に拘わって書いていますが、複雑化された世界と接続された「英雄譚」は既に「英雄譚」ではなく、歴史や群像の中から「主人公」として選ばれた誰か?であり、仮にその語り口が英雄譚的であったとしても英雄譚のように見える何か?という解釈にシフトされて行くはずです。

これを敢えて単純に「英雄譚」を“子供”の物語、「現実歴史群像」を“大人”の物語として語ると、単純な「英雄譚」は少なくとも世の中はそう簡単なものではないという認識においては、いずれ“卒業”するもの…という捉え方もできます。
…で、ここで“卒業”してしまうと“大人”はいきなり世界の在り様への接続からはじめてしまうワケです。歴史もの~あるいはノンフィクションとい所まで行ってしまう。それらはさらにそれ以上知りたければ歴史書を当たれ…とか「書を捨て街へでよう」なんて話にもなってくる。……最終的には「物語を介して世界を知ろうとなんかするな!実学実地で学べ!」という身も蓋もない正論が待っています。(´・ω・`)

これは「物語」における一面の事実(言葉は不完全なツールという領域をも含むものですが)を突いてはいます。…また「物語」は、ある事象(この場合はテーマも含む)をシンボライズ化して描かれる、あるいはある一面をピックアップ(ディフォルメ)して描かれる、側面があってその時、世界の「在り様」は否応なく欠損するのだ……という指摘はけっこう逃がれ難いものがあります。分かりやすく言えば「物語」が「面白さ」を求めるものであるなら、各事象に対して「面白い」か?「詰まらない」か?の判定が付きまとって、つまらない部分は切り捨てられる。この時、世界の「詰まらない部分」は切り捨てられているのだ…と。
(※「じゃあ、こちらで、あらゆる事を「面白い」と感じる事ができれば、その欠損は消えてゆくよね?」…というのが、このブログで時々、書き綴っている「物語愉楽論」の目的地ではあるんですが。まあ、それはちょっと自己修練じみていて、あまり総体的に持ち出す話ではない…と)

少なくとも勇者たちがいつまで経っても“戦いの物語”から抜け出せないのはこの力場が働いているからでしょ?

だからこそ「魔王x勇者」において、「丘の向こうへ行こう」と宣言され、その手始めに持ち出されたのが“馬鈴薯”であった事に痺れるんですよね。…「世界を描きたいなら、最初から世界の在り様から描けばいいじゃん。そしてそういう物語は昔っからあるよね」…と、そういう話じゃない。(敢えて言うと)“子供だまし”の「英雄譚」が“子供だまし”から始めて、「面白い」を保ったまま、世界の在り様に接続する。その事に意味がある。その人間の階梯的な理解(認識)を1ストーリーに凝縮している美しさがある。

僕は、どこまで行っても「物語」読みなので……「面白さ」を維持しつつ、世界の「在り様」への接続~「先の物語」~「大きな物語」~を目指す「物語」の流れそのものが好きなんですね。仮に実学実地を学ぶとしてもそこに回帰するために為すと言ってもいい。様々な在り様をボロボロこぼしながらも、逃すまいと拾い集め、それらを「面白い」ものへと昇華させて描きの俎上に返して行こうとする「物語」の「在り様」そのものを愛しているんです。
故に、それこそ原初の竜退治英雄譚クラスの勇者が、世界の「在り様」への接続を果たそうと苦闘する、この「物語」は大変に、そして純粋に「面白い」なと。そう思っています。




…………………(滝汗)。o(……なんか「情報圧縮」の話、全然しない内に一区切りきちゃったな……)ちょっと前提の話で終わってしまっているのですけど、ここで区切ります。まあ、この話、“二つの「祭壇」”の話でまとめて行きたいと思っているのですけど、その前提として「英雄譚」の持つ力場/回帰性を述べておく意図でした。…次で何とかまとめたいと思います。(´・ω・`)たぶん。

(↓)続く

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「情報圧縮論」から観える構造(その4)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/9bc39bf4df3c7027d268e14e470b3036


以前の記事です。

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/74eed63271d173e9d4dd2c8facb30615

【魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」~「先の物語」という意味(その2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/463b4de3919163ad00aa98250584512b


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




【6月第1週:魔法先生ネギま! 291時間目 闇をその手に!!】
http://www.tsphinx.net/manken/wek1/wek10465.html#643

【漫研】
http://www.tsphinx.net/manken/



「魔法先生ネギま!」が良かったです。フェイトに対抗するため“闇の力”を手に入れ(手に入れた…って言ってもけっこう危ういものらしいですけどね)た時のネギくんのセリフ「僕はフェイト(アイツ)と友達になりたいんです」ってセリフですけどね。読んだ瞬間、ちょっと震えが来ましたね。これまで“そういういセリフ”を出して来た作品は沢山あるんですけどね。ネギくんのセリフが格別なのは、それが可能である事が「積み上げ」られてから出されているセリフだからです。

それは単に今回のエヴァンジェリンとの修行を超えたから…って事ではなく、修行中に挿入されていた回想シーンで圧縮されているように、ネギくんがこれまでの冒険を経てきたその果てで出ているセリフです。
…いや、先程言ったように、このセリフや発想自体は普通にある展開なんですよね。でも、“口先”が先行すると(ああ…セリフが先で、行動が後回しだから“口先”って言うんだな)そんな事言っても実際どうするの?って思っちゃうんですよね。理想というのは誰でも言えて、言えば自分は正しい事を言った!それで満足!って人もいるでしょうけど、理想は実現する事こそ難しくってあんまり後付け後で辻褄合わせる的に吐いていい言葉じゃないと。要するにそういうのは何か泥縄的に感じてしまう事も多いです。(泥縄的に何とかする「物語」も痛快なものは痛快ですが)

…いや、そうじゃないなwネギくんのこのセリフはこの理想を最終目的地にしていないから痺れるんですね。今までの物語で、魔法世界は本当に崩壊してしまうのか?魔法によって生み出された人々は救えないのか?魔法世界に居る元人類のみを救う行為は否定できるのか?そもそもその時地球世界の方はどうなってしまうのか?そういった何が正義で何が悪か分からない「世界の在り様」が語られて行って、それでもどうしようもなくカタストロフは来ると。それら各々の理論を止揚する唯一解としてこのセリフがあって。一見無茶(理想のみ)に見えるこのセリフがネギくんにとって“出来る”ものとなって初めて口をついたセリフだからこそ「強い」のでしょう。まあ、どのようにアプローチするのかは分からないんですがwそれでもそれが“出来る”事は今までの「積み」上げから分かる。感じる事ができる。(ただ、ここまで来るのに肉体的には相当ボロボロになっている印象もあります。多少ゆるやかながら「HxH」のムキムキゴンさんのイメージ(´・ω・`)…大丈夫かな?)



この回の前にフェイトは「君との戦いこそが僕の望みだ!!」と言った。その不倶戴天を高めておいてこのセリフを置くところもいい。主人公としての面目躍如というもので、そこには今までギリギリと引き絞ってきた弩弓をカチリと止め金にはめて、狙い(目標)を定めた美しさがあります。

もう一つ。こういう境地に一発で到達してしまう、しかも、それが出来る事が分かってしまう「スーパーヒーロー」も「物語」の中に確かに居るといえば居て。僕はそういうキャラクターが大好きで追っているんですが、ネギくんからは全く違った角度の眩しさを感じますね。
何かって言うとネギくんはとことんまで「理屈」人間なんですよねw僕が「理に屈する」と言って揶揄するそういう小さいレベルに留まっている人間ではないですけど、でも、その延長上の人間。でも「ネギま!」という物語をずっと読んでいけば分かりますけど、ネギくんはずっと何度も何度も「理に屈して」は抜け出せない命題をいくつも突破して来ていて(それは、あるいは父の遺伝子や他の「理屈じゃない」大人たちの導きの幸運があるのでしょうが)それが長い時間をかけたにしろ、この境地に到達できるなら、そのかけた時間に意味があったなと。
いや、ぶっちゃけ、皆を危険にさらす反面をスルーし、難しい事や心配事は他人任せ、口ではキレイ事ぬかして相手を丸め込むという、ある種定番の“王道ヒーロー”が誕生したんですが(汗)出発点から考えた時に、ここまで来たのはすごいなと。そう思っています。


「ネギま」の以前の記事です。

【今週の一番付記「魔法先生ネギま!」情報圧縮して描かれる先の物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a83c0e2d45de438ef5d547bc9c1e6b7d

【今週の一番追記:ネギま黙示録編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1876b4b70bdd144d9938661a2321d296



魔法先生ネギま! 限定版(32)
赤松 健
講談社


コメント ( 2 ) | Trackback ( 2 )




【アーキタイプ】



前回書いた(↓)この記事に記載した「祭壇」についてもう少し補記しておきます。(唐突に持ち出した為に)元型としての記述が不十分だった気がするからなんですが…。ちょっと繰り返しになりますけど改めて一から書き留めておきたいと思います。

【王の物語~神殺しの物語~「風の谷のナウシカ」 (その1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/fff21f98f756087441e9a3208e74761b
ナウシカと墓所の対話の話をする前に、いくつか押さえておきたいポイントがあります。一つは、彼らの対話のシーンは「物語」のある種の定形としてよくあるシーンで、僕は「祭壇」という呼び方をしています。「祭壇」とは何かというと、ある「物語」…まあ、大抵、戦って戦って戦い続けるタイプの物語が多いのですが、そういう「物語」の主人公が最後に辿り着き、そこで対面した“何か”と対話するシーンですね。
そこで彼らはある種の哲学的な議論~主人公は大抵、難しい事を考えられないので、シンプルな答えのみを返すのですが~を交わします。多くは敵対勢力の“悪の理論”と、主人公の“善の理論”の激突が行われてきましたよね。そこでの対話が、何か“神様”にその物語の在り様を告げるというか、逆に神託を受けるかのような、“神との対話”という印象を持ったので「祭壇」と呼んでいるワケです。

「祭壇」の「物語」に対する考え方そのものは引用文に述べた通りで、引用記事内で取り上げた「風の谷のナウシカ」の“墓所”、「地球へ…」の“コンピュータ・テラ”なんかが典型的な「祭壇」となりますが、もう少し実例を挙げて行こうと思います。



「サイボーグ009」(作・石ノ森章太郎)の“黒い幽霊”ですね。これも「祭壇」の典型の一つ。“悪”を倒すために果てしない戦いをくぐり抜けてきた009は自分たちが守ろうとしている人間の中にこそ“悪”があり、その戦いは決して終わる事がないものである事を告げられます。



「GREY」(作・たがみよしひさ)の“TOY”です。人類は滅びたがっているという計算結果を元に世界を滅ぼしたコンピュータです。ちょっとマイナー作品かもしれませんが、好きな先品だったので取り上げました…って事と。もう一つ。
この“TOY”は科学の粋を集めて作られたコンピュータなのに、何故、こうも遺跡然、神殿然、とした造形なんでしょうね?これ、今回の記事においてすごく重要なことです。僕がこういったシーンを「祭壇」と呼ぶのは正に、このイメージに付随している事なので。



あくまで解釈の幅をとっての話なんですが「最終兵器彼女」(作・高橋しん)のラストシーンを「祭壇」のシーンと解釈する事もできるんじゃないかと思います。人類が滅び、全てが終わった後でテーマを語りだすので…。しかし、あんまり解釈を広げてあれも「祭壇」、これも「祭壇」とすると「言葉が死ぬ」のでそこは気をつけないといけないのですが、解釈の一例として上げておきます。



「新世紀エヴァンゲリオン」(監督・庵野秀明)の劇場版「まごころを、君に」はほとんど全編が「祭壇」のシーンだったと言えます。(TV版最終回も解釈の幅としては「祭壇」と言えそう)それまで「物語」が積み上げて来たものの“審判”が下されているので。
僕は今「ナウシカ」などを記事に書き出す流れで「祭壇」の代表的な問いかけ「人類が滅ぶべき物語」をピックアップして語っていますが、この「エヴァンゲリオン」で問われたような「あなたは何を望むの?」というのもまた定番の問いかけではありますね。有名所としては映画「ネバーエンディング・ストーリー」のラスト、あるいは「ブレイブ・ストーリー」のラストなんかもこれに当たると思います。



「コードギアス 反逆のルルーシュ」(監督・谷口悟朗)の“Cの世界”も「祭壇」と言っていいと思います。ただし、「コードギアス」の作品としての特徴は「祭壇」が最終局面ではなかった事にあります。「祭壇」から戻ってきて何を為すか?がこの「物語」の最後の問いかけになっています。

あとちょっと古典を上げると「西遊記」や「オズの魔法使い」など…。長い旅の果てに「祭壇」的なものに辿り着くパターンですね。上記の「ナウシカ」の記事を書いた時にMODSTOONさんからのレスで上げてもらいましたが「2001年宇宙の旅」などもこれに当たります。ただ、これ、今まで上げている近代的な「祭壇」の在り方とは少し分けて考えたい所があります。(「オズの魔法使い」についてはそのラストの展開のトリッキーさを含めて非常に近代の匂いがする「物語」ですが…)

MODSTOONさんはここで「聖書、モーセのシナイ山」や「仏教の解脱へ至るプロセス」にまで言及して「祭壇」の考え方を補完してくださっていて、僕も原初的な「祭壇」はここに端を発している事は間違いなかろうと思うのですが、近代の「祭壇」は、古来にある「祭壇」とは様相が大分変わって来ていると考えています。
それは古来の「祭壇」では“天啓”を受けて神の預言者となる資格を得たり、あるいは悪魔を“折伏”する場(厳密には「祭壇」ではないが、恐らくその後の「祭壇」の在り方に影響を持っている)として出現したの対して、近代の「祭壇」は逆に神を打ち倒す、あるいは説得する、と言った場として出現している。この意味の逆転は非常に興味深く、また、僕が「祭壇」と「神殺しの物語」を接続させて語るのもここから来ているワケです。

そこから考えると「西遊記」や「2001年宇宙の旅」なんかは古来の「祭壇」に属する天啓の場としてありますよね。…ただ「オズの魔法使い」のラストを祭壇と言っていいのかどうかは分かりませんが、そのラストで事実がひっくり返るその展開は、かなり近代を感じさせるもので、ちょと一考の余地がありそうです。ちょっと今は何とも言えないですが…。


さて幾つかの作品を画像合わせて上げてみましたが「祭壇」の特徴として、原則“物語の最終局面で出現する事”、またそのイメージは荘厳な…“厳粛な気持ちを抱かせる構造物あるいは景観”である事が上げられると思います。
ここで、事例の羅列だけで終わってしまうと「ああ、よくあるよねえ~いわゆる定番の展開だねえ~」なんて話で終わってしまうのですが、ここからが本題で。この「祭壇」のシーンが、こうも繰り返し少なからぬ頻度で扱われるという事は、この「祭壇」って物語上の何らかの元型(アーキタイプ)なんじゃない?って仮説を考えたんですよね。

「元型」と言うのは心理学者・カール・グスタフ・ユングが提唱した概念で、集合的無意識の中で仮定される心理的作用を象徴するモノです。人類が地域は遠く離れていても神話や伝説に似通った筋を発見できる事の説明などに使われます。ちょっとWikipediaから引用します。
元型を、「像」という言葉で説明するのは、元型そのものは力動作用として心に現れるのであり、意識は、作用の結果生じる心の変化を認識できるだけで、元型そのものは意識できない為である。元型が心に作用すると、しばしばパターン化された「イメージ」または「像」が認識される。

例えば、男性の心に「アニマ」の元型が作用する場合、その男性は夢に美しく魅力的な「乙女」の姿を見たり、魅惑されたりする。あるいは、これまでは、まったく意識していなかった、少女とか女性の写真や絵画、ときに実在の女性に、急に、引き寄せられ、魅惑されるなどが起こる。このように、「アニマ」の元型が作用すると、少女や乙女や女性の像・イメージが、男性の心のなかで大きな意味を持って来る。そこで、このような少女や女性の「イメージ・像」を、「アニマの像」と呼び、説明のために、このような像・イメージをユング心理学では「元型の像」として示す。

このような「元型の像」は、人物の像に限らない。「老賢者」の元型のイメージは、先の尖った峻厳とした高峰や、空を羽搏き飛ぶ大鷲のイメージで出てくることがあり、他方、「太母(グレートマザー)」の元型のイメージは、地面に開いた、底知れぬ割れ目や谷、あるいは奥深く巨大な洞窟のイメージなどであることがある。

(Wikipedia「元型」より)大文字は自分で加工。「祭壇」は人物ではないのでは?という予想指摘に対応。

また、僕自身、ユング心理学の心的機能や元型などを「物語」を分析する事のツールとして使えないかと考え、記事を一つ書いています。(↓)

【ユング!ユング!ユング!(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/55d4a687041488bcd22f9c37125d16cb
それで、その成果は、精神病で無い人の夢の話などの心理分析から、果ては世界各地にある神話による民族単位の精神分析(集団の無意識の話)に繋がってくる。世界各地にある神話やおとぎ話のある種の共通性は、人間の心の中にある一定の働きによって生まれているのではないか?その共通性を象徴的に顕しているのが、ある種のパターンをもって全人類的に登場してくるキャラクター=元型ではないか?という。…この話になってくると「物語」に対する流用性は俄然高まるんですね。実際に「元型」を調べて行くと、物語の登場人物のこのパターンは正に“これ”だろうという事が多々あります。

…ただ、同時に「面白さ」という観点からの話をすると、モロに「元型」そのものというよりは、ある程度、多少ズレていたり複合されたり変化したりする方が「面白さ」や新鮮さを感じたりするようなので、そこはちょっと気をつけないといけないかと思います。要するにモロにアニムスじゃない方が「面白い」のに、心理分析的にはアニムスに規定しようという力がはたらく、そこに目指す方向の背反があるという事です。同様に検証を進めて行く過程で、次第に何でも「元型」で説明したくなって強引な当て嵌めをしたり、あるいは無思慮に新たな元型を打ち出したくなってくるのですが、経験からいうとそういった志向になるのは慎重さが必要だと思っています。

引用文でも述べているように、僕はユング心理学がそのまま「面白さ」を旨とする「物語」の分析に使えるとは思ってはいないです。しかし、人類の神話や、伝説、あるいは歴史という物語の創られ方が「物語」の一部であるなら、使える所は多いとも考えているので、そこらへんマンガ、アニメといったおたく界隈の「物語」に則した形に?調整しつつ、用意されているツールを使って行こうかと考えています。

…で、まず「祭壇」って「元型」なんじゃね?という仮説を述べさせてもらいました。これはこれからいろいろな「物語」に当てはめて、それがどういった“意味”を形成して行っているのか、検証して補強して行こうと思います。…まあ「祭壇」はイメージから出てくる心理的力場からの投影という考え方とは別に、「物語」がテーマを語るための象徴として置かれる物理的力場からの成果物という考え方もあるんですけどね。
しかし、そこは“神話”についてもそれは人間の知恵から来る自然科学的説明による成果物である考え方と同時に、ユングが言うような神話を産み出した人々の心理的充足の在り方を研究していたワケで、この二つは背反しない。そこは並行して観てゆくのが、より「物語」への「読み」が深まって行くだろうと。

以上、この話また別の記事書くときにちょこちょこ引っ張り出すと思うので覚えててねwって話でした。(`・ω・´)


コメント ( 9 ) | Trackback ( 1 )


« 前ページ