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今週の一番『めだかボックス』善吉が来た場所を『祭壇』と捉える観方

2010年11月04日 | マンガ
【10月第4週:煉獄花(作・梅田阿比)】
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【漫研】
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『めだかボックス』(原作・西尾維新、漫画・暁月あきら)の善吉くんが球磨川禊との対戦で一度死んだ時、不思議な教室の景色に迷いこみました。そこで“誰か思い出せない少女”と出会います。まあ、あそこが一体何処で、今後の展開に対してどういう意味があるのか?という問題もありますが…。ちょっと、Ashさんが「あそこは『祭壇』ではないか?」という指摘があって、それは『面白い』指摘と見立てだなと思いました。

『祭壇』は、このブログでは最近、とみに考察を進めている、物語内の元型に基づく“見立て”の話なのですが(↓)概論的にはこの記事を参照してもらえたらと思います。

【「祭壇」という元型(アーキタイプ)に関する追記】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/632ed729550ceacd9cb808b542b01648
ナウシカと墓所の対話の話をする前に、いくつか押さえておきたいポイントがあります。一つは、彼らの対話のシーンは「物語」のある種の定形としてよくあるシーンで、僕は「祭壇」という呼び方をしています。「祭壇」とは何かというと、ある「物語」…まあ、大抵、戦って戦って戦い続けるタイプの物語が多いのですが、そういう「物語」の主人公が最後に辿り着き、そこで対面した“何か”と対話するシーンですね。
そこで彼らはある種の哲学的な議論~主人公は大抵、難しい事を考えられないので、シンプルな答えのみを返すのですが~を交わします。多くは敵対勢力の“悪の理論”と、主人公の“善の理論”の激突が行われてきましたよね。そこでの対話が、何か“神様”にその物語の在り様を告げるというか、逆に神託を受けるかのような、“神との対話”という印象を持ったので「祭壇」と呼んでいるワケです。

Ashさんの話はさらに「『鋼の錬金術師』の真実の扉を連想した」という話に繋がっていいます。ここらへんの指摘は『祭壇』という観方のなかなか面白いポイントを突いていると思っていて、僕もかなり『祭壇』について整理して考える事ができたので、ちょっと書き留めておこうと思います。ポイントは大きくは2つでしょうか。

■ 誰もいない教室を『祭壇』に感じる事

元型に関する考察になるんですが、誰もいない教室、あるいは校舎が『祭壇』に見立てられる事はありますよね。TV版の『エヴァンゲリオン』の最終回の体育館も同じような効果を持っていると思います。しかし、校舎に誰もいなければそれが即、『祭壇』になるかというと、そういうワケではないw謎の少女と善吉が“対話”するであろう事、その対話がこの物語~球磨川編において~テーマのような結論のような、重要な意味を持つであろう“予感”でそれが成り立っている。

さて、その場所のイメージですが(↑)上の画像で善吉が教室で席についているシーンですが、整然と並べられた机や、後ろの棚に何も入っていない。黒板には何も書かれていない事に注目してみました。
…これ、元型(アーキタイプ)というものの考え方として非常に重要なんですが、たとえば上の画に、ある種の“生活臭”を持ち込んだらどうでしょう?中学校の教室ですからねえ…。机の脇には何か、持ち帰っていないカバンや用具が下げられていてもよさそうです。後ろの棚も同じく、体操着が入った袋とか……絵の具セット?みないな?ものとかあってもいいんじゃないでしょうかw黒板に文字が書かれているとか……文字が書かれてしまうと、その文字に強い意味が宿ってしまいそうですw…壁紙がアクセントとして貼られていますかね?しかし、その紙には何の情報も載っていません。それは遠目だから見えないというだけではない意味があるでしょう。載っていたらどうでしょうね?どういう景色になるでしょうね?

個人差があるとは思うんですが、そうやって俗世のものが加わってくると『祭壇』のイメージが大分薄れてくるのじゃないでしょうか?

…でも、善吉は「見覚えがあるような…」とも言っていて、それがもし、たとえば善吉が通っていた教室を指すなら、もっと雑多なものが散らばっている方がリアルというものかもしれない。(散らばっていないから見覚えがある程度の認識にしかならないのかもしれませんが)多分、いくつかの『物語』でこういうシーンに誰もいない学校が選ばれる理由の一つは、よく知っている場所、自分の生活が染み付いた……というより自分の生命が染み付いた場所、そこで“何かを語る事”に意味を見出していてる。そこを『祭壇』に転換するのはそういう意味があると思います。
同時に元々、誰もいない学校、夜の校舎って神殿というか、けっこう異物っぽいところがあるんですよね。その雰囲気も利用されているでしょう。

しかし、転換時に塵は掃かれる。誰もいなくなるのは基本で、今述べたように世俗性を消し去って、隔界の空間(神殿)に替えられる。“誰もいない教室”にはその転換を見て取れる所があって愉しいですね。それはやっぱり対話するならどういう場所か?この物語が一体どういう『物語』なのか語るならどういう場所か?という心の作用を顕している、看(み)せている面があると思います。

■『祭壇』に至る予言が為される場面がある事

これまでいくつかの記事で語ってきた『祭壇』について、その存在が事前に語られる事があるというポイントですね。多くは最終局面である“『祭壇』のシーン”と、“『祭壇』が存在する事を見せるシーン”を分けて考える。まあ、要するに「お前はまだ、ここに来るべきではない…」みたいなパターンと申しましょうかwやがて、この物語が『祭壇』に至ることを予め見せるという事ですね。

これはなかなかいい形だなあと思います。近代の物語において『祭壇』で何をするかというと、つまりテーマ語りするんですが、そこも分岐があって、突然その場で“衝撃の真実”が語られて、主人公(語り役)が即興でその問題に答えなくてはならない場合なんかもあったりしますよね。その場合は『祭壇』は突然出現する方が好ましいかも(?)しれない。しかし、そうではなく、そのままストレートに積上げられた『物語』を振り返り語りたい場合、予め主人公(語り役)に、その場所を見せておくのは有効と言えそうです。

これ、キャラクターというより読者にその宿題を与える意味がある。とりあえず『めだかボックス』の善吉くんは、この少女が何者なのか?をいずれ思い出さなくてはならないという宿題をあの場所で貰っている。それは、球磨川の看破、か、あるいはめだかの看破において大きな意味を持つんじゃないかと予想できます。

少なくとも、善吉がやがてあの“場所”で、何らかの心積もりをもって、あの少女と“対話”するメージ~予言図が『受け手』に自然と刷り込まれたとは言えると思います。

まあ、そんな感じですが。別の『メタキャラクター』の話、含め『めだかボックス』というか西尾維新作品にはいろいろな角度で注目している状態です。


めだかボックス 7 (ジャンプコミックス)
西尾 維新
集英社


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