昨日(2日)の正月テレビ時代劇「忠臣蔵 遥泉院の陰謀」はなかなかの傑作であった。松の廊下の刃傷事件の原因の描き方がなかなかリアルで納得できるものであった。吉良上野介と浅野内匠頭の描き方が他の忠臣蔵物よりも抜群によい。浅野匠頭の「つかえ」という史実にある持病もきちんと描いている。このドラマでは吉良上野介は名家で儀式の指南役という立場の人間にしては驚くほどリベラルで柔軟な考え方ができ金銭にも鷹揚だ。これに対して浅野内匠頭は精神的にも不安定な上に思い込みが激しい。
勅使供応役をおおせつかった浅野内匠頭は、武門の家を誇るあまり質素倹約が肝心と家臣の前でここ数年千数百両かかっている費用を七百両でやると宣言した。その旨を家臣により吉良家に伝えに行かせたのだが、応対した吉良家の家臣は、院使供応役の伊達家は千二百両で行うのでそれより重要な勅使供応役が七百両では釣り合いがとれないと当惑して差し戻した。それを聞いた内匠頭は自分で上野介に話すと出かけた。内匠頭は心の中では七百両は少なすぎたと思い、上野介から言われたら上積みするつもりでいた。ところが上野介は「自分も年々華美になるのはよくないと思っていたので内匠頭の意見に賛成だ。七百両でやってみて足りなくなった時はそのときに考えよう」と言った。ウン相手の面子を立てつつ保険も忘れない、上野介は人物だなあ。さすが領民から名君と慕われるだけはある。文官である上野介に偏見をもっている内匠頭は、なにか魂胆があるのだろうと疑心暗鬼になる。疑心暗鬼が高じて匠頭は病気になる。内匠頭から上野介への偏見を植え付けられていた妻の阿具利(遥泉院)は、二百両を家臣に持たせて上野介に届けさせる。上野介は二百両を受け取らず、その金で勅使宿舎の畳替えをしたらどうかと奨める。伊達家が院使宿舎の畳替えをしたので釣り合いを考えてのことだ。しかし日時が迫っていたので畳替えは大変困難な仕事であったので、内匠頭は無理難題を押し付けられたと受け取った。そんなわけで内匠頭の妄想が高じて松の廊下の刃傷が起った。
なんか内匠頭って、社会主義者以外の自治体首長は金持ちと大企業のために政治を行い貧乏人に冷たいと思い込んでいる某政党支持者と共通するものがあるな。
このドラマ、細かい点も正確だ。内匠頭の辞世の歌「かぜさそう・・・」は、実は本人が作ったのではなく、家臣が僧侶に依頼して作ったものとのこと。大名なのに庭先で切腹させられたので、せめて辞世の歌を残させたかったとのことである。遥泉院という未亡人の院号も初めは違うものであったが「昌」の字が将軍生母の桂昌院と重なるのではばかって変えたものだそうだ。
単純に敵討ち説を採っていないのもいい。大石自体が、内匠頭が切りつけられたのではなく切りつけたほうだからあだ討ちではなく、主君の後を受けた「追い討ち」だと言っている。
喧嘩両成敗論もとっていない。柳沢吉保の「一方に非があり他方の非がないのだから喧嘩ではない」という主張にだれも反駁していない。
「遥泉院の陰謀」とは、遥泉院が赤穂浪士の討ち入りの手助けをしたことだが、遥泉院が侍女などを使い、町中に「内匠頭は乱心ではなく、遺恨があって切りつけた」といううわさを流して吉良への敵愾心をあおったのは、ありうることだ。吉良はそんなに悪くなく内匠頭の乱心の方が真実に近いことが、遥泉院だってわかっているのにね。赤穂浪士も遥泉院も善悪は関係なく、匠頭の成し遂げられなかった無念を晴らしたいというのが、時代の精神ということだろう。
勅使供応役をおおせつかった浅野内匠頭は、武門の家を誇るあまり質素倹約が肝心と家臣の前でここ数年千数百両かかっている費用を七百両でやると宣言した。その旨を家臣により吉良家に伝えに行かせたのだが、応対した吉良家の家臣は、院使供応役の伊達家は千二百両で行うのでそれより重要な勅使供応役が七百両では釣り合いがとれないと当惑して差し戻した。それを聞いた内匠頭は自分で上野介に話すと出かけた。内匠頭は心の中では七百両は少なすぎたと思い、上野介から言われたら上積みするつもりでいた。ところが上野介は「自分も年々華美になるのはよくないと思っていたので内匠頭の意見に賛成だ。七百両でやってみて足りなくなった時はそのときに考えよう」と言った。ウン相手の面子を立てつつ保険も忘れない、上野介は人物だなあ。さすが領民から名君と慕われるだけはある。文官である上野介に偏見をもっている内匠頭は、なにか魂胆があるのだろうと疑心暗鬼になる。疑心暗鬼が高じて匠頭は病気になる。内匠頭から上野介への偏見を植え付けられていた妻の阿具利(遥泉院)は、二百両を家臣に持たせて上野介に届けさせる。上野介は二百両を受け取らず、その金で勅使宿舎の畳替えをしたらどうかと奨める。伊達家が院使宿舎の畳替えをしたので釣り合いを考えてのことだ。しかし日時が迫っていたので畳替えは大変困難な仕事であったので、内匠頭は無理難題を押し付けられたと受け取った。そんなわけで内匠頭の妄想が高じて松の廊下の刃傷が起った。
なんか内匠頭って、社会主義者以外の自治体首長は金持ちと大企業のために政治を行い貧乏人に冷たいと思い込んでいる某政党支持者と共通するものがあるな。
このドラマ、細かい点も正確だ。内匠頭の辞世の歌「かぜさそう・・・」は、実は本人が作ったのではなく、家臣が僧侶に依頼して作ったものとのこと。大名なのに庭先で切腹させられたので、せめて辞世の歌を残させたかったとのことである。遥泉院という未亡人の院号も初めは違うものであったが「昌」の字が将軍生母の桂昌院と重なるのではばかって変えたものだそうだ。
単純に敵討ち説を採っていないのもいい。大石自体が、内匠頭が切りつけられたのではなく切りつけたほうだからあだ討ちではなく、主君の後を受けた「追い討ち」だと言っている。
喧嘩両成敗論もとっていない。柳沢吉保の「一方に非があり他方の非がないのだから喧嘩ではない」という主張にだれも反駁していない。
「遥泉院の陰謀」とは、遥泉院が赤穂浪士の討ち入りの手助けをしたことだが、遥泉院が侍女などを使い、町中に「内匠頭は乱心ではなく、遺恨があって切りつけた」といううわさを流して吉良への敵愾心をあおったのは、ありうることだ。吉良はそんなに悪くなく内匠頭の乱心の方が真実に近いことが、遥泉院だってわかっているのにね。赤穂浪士も遥泉院も善悪は関係なく、匠頭の成し遂げられなかった無念を晴らしたいというのが、時代の精神ということだろう。