セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

映画鑑賞ノート:山田洋次監督「武士の一分」その2

2006-12-06 22:39:44 | 文化
藤沢周平の原作が「武士の一分」という題名でないということを知り、原作ではどのように武士の一分ということが取り扱われているかを知りたくて原作の「盲目剣谺返し」を読んでみた。読む前は映画がハッピーエンドなので、映画のほうが原作よりもいいかもしれないと思っていたが、違った。原作のほうがずっとよく、映画のほうはかなり原作と違う設定にそれも僕に言わせれば通俗化とか歪曲されていることがわかった。
まず敵役の身分の高い侍は、映画では切れ者の実力で出世した人物で通常主人公とつながりのない人物となっているが、原作では主人公の上司で能力はあるが女癖が悪いとの評判の人物だけど名家の出身なのでそこそこの地位についている人物となっている。山田洋次監督は黒澤明の「椿三十郎」の仲代達也が演じた悪役を意識して改ざんしたのではないかと思う。それから主人公の妻の姦通も、映画では強姦に近いものだが、原作では好色の上司が薄笑いを浮かべて代償を求めて妻が「死んだ気になった」としても「身をまかせた」とある。
主人公の性格も違うぞ。「三十石」という言葉も出てくるが、映画では「たかが三十石のために」と妻を非難するために使っていたような気がするが、原作では「わずか三十石の家、召し上げられて、路頭に迷うとも何のことがあろう。妻を盗み取った男の口添えで保った家かと思えば、吐気を催す。この家、捨てたがましじゃ」と似ているが力点の置き方がちがう。また決闘の場面でも、原作では相手が妻をだまして何もしなかったことの不満の繰言を言っていない。
剣の鍛錬も違う。映画では盲目の主人公が師匠から稽古と必死のアドバイスを受ける場面があるが、原作では盲目になってから師匠を訪れていない。自分で鍛錬して盲目でも飛来する小虫を打ち落とすまでになっていて、その流派の伝説の「谺返し」という技に近づいたどうか考えていた。山田監督は必死ということを強調するために、原作の必殺技の存在を無視したのだろう。
原作では会話に方言は使われずいわゆる武家言葉で話されている。映画では方言を使いそれで庶民性のリアリティを計ったのだろう。しかし全体として原作での主人公の素直でまっすぐな性格が、山田監督の余分な改作で俗っぽい点ちらほら出てきている。「庶民」を描かなくてはという山田監督の強迫観念が、心の本性に根ずくものでなく、イデオロギー的なものなので、逆に卑属の観念の進入に無防備なのだ。