セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

映画鑑賞ノート:山田洋次監督「武士の一分」

2006-12-04 21:36:22 | 文化
日曜日に映画「武士の一分」を観たので忘れないうちに思いついたことを書こう。あくまで思いついたことなので映画批評とはちがう。
この映画は山田洋次監督が藤沢周平の時代小説を原作にした映画の第三弾だ。藤沢周平の作品は新井白石が主人公の「市塵」と上杉鷹山の主人公の「漆の実のみのる国」を読んだことがあるが、暗いというか悲しいというかそんな雰囲気が好きではなく他にあまり読んでいない。山田洋次監督の藤沢作品シリーズ第一作映画「たそがれ清兵衛」についても、主人公が最後の場面になるまでにもっと別の行動の選択があったのでないかという気がする。いいかえれば最初に正しい行動をしなかったら後で追い詰められた場面で悩まなければならなかったのではないかと思う。
映画「武士の一分」に戻るけど、この映画はハッピーエンドでよかった。不義で離縁した妻と最後によりを戻したのだから。でもそうなるとこの映画及び原作の「武士の一分」というタイトルとは齟齬が出てくるぞ。武士の一分とは武士の絶対に譲れない面目のこと。武士の面目とはなにかというと、臆病とか卑怯とかで侮られないこと。時代により変化はあるけど武士とヤクザはメンタリティにおいて共通している。侍=ヤクザ論があるほどだ。つまりなめられたら生きていけないということ。女敵討ち(めがたきうち)つまり妻の姦通の相手を討ち取ることは武士の一分に違いない。でもそうだとするとその前に裏切った妻を殺さなければならない。そうしなければ臆病者といわれる。だから離婚で済ませるのはおかしい。それに映画で主人公は相手を討ち取る理由が「妻をだました」と妻のための復讐らしい。この怒りは人間として共感できるが、おのれが侮られたという武士の面目の問題とは関係ない。だから妻を殺さない点と姦通の相手を討ち取る理由の問題でこれは「武士の一分」とは関係ない。まあ武士の一分とは違うかもしれないが、人間的でいいと思いたいのだがでも見過ごすにはひっかかる点がある。主人公の言葉のなかに、「たかが三十石のために」とか、「妻をだまして何もしなかった」とかの言葉があった。え?もっと高禄の家の存続のためだったら妻が権力者に身を任せてもいいの。本当に妻の不義の相手が殿様に口を効いてれば納得できたのか。
この言葉は武士の一分にも人間的な倫理にも合致していないぞ。ふとした言葉にこの世のしがらみが出てくる。逆に言えばこれが深層にあるため藤沢作品がサラリーマンに受けている理由かな。