セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:加藤廣「秀吉の枷」(日本経済新聞社)

2006-08-12 22:10:21 | 文化
「信長の棺」につづく著者の2作目。本能寺の変と秀吉の関与は前作を踏襲している。以下に気付いた点をノートする。

(1) 秀吉は信長を醒めた眼で見ていた。
歴史的事件を並べただけではわからない秀吉の心の襞をこの小説は描いている。その一つ、秀吉は信長を醒めた眼で見ていたということ。もちろんこの小説の中の世界でのことだが、でもそれが僕には大いにリアルティーを感じさせる。だって比叡山の僧俗男女を皆殺しにする信長(このとき秀吉は独自の判断で人々を逃がしている)、自分の甥で妹の市と浅井長政の間の息子を探し出して殺す信長、浅井長政と朝倉義景の髑髏を杯にする信長、何十年前のことを持ち出して家臣を追放して飢え死にさせる信長。その信長への表面上の追従とはべつに秀吉の中に醒めた感情があるのは当然だ。だって少なくとも天下人になる以前の秀吉は人はあまり殺したくないと言っていたのだから。

(2)秀吉は諜報組織を持っていた。
信長が忍者を嫌っていたので織田家は諜報組織を持っていないと思われている。もっとも滝川一益は忍者出身という説もあるが。しかし桶狭間の第一の殊勲は今川義元の陣の位置を探った簗田とかいう武士になっているので情報を軽視したはずはないのだが。なおこの小説では桶狭間では秀吉とその出身母体の山の民が活躍している。
秀吉は竹中半兵衛の遺言で敵だけでなく信長や織田家中も対象に諜報組織をつくる。これも秀吉が信長を一定の距離を置いて見ていた現われである。もちろんこの小説の世界の話だが。謀略組織は2系統あって、蜂須賀小六が率いるものと前野将右衛門が率いるものがある。あとの前野将右衛門の諜報網が主としてこの小説の筋に絡んでくる。前野将右衛門についてはあまり名前を聞かないかもしれないが歴史上の人物で10万石の大名にもなっているのだが、息子が関白秀次に連座して取り潰しにあったため関が原にも江戸の大名にも前野家はでてこないため忘れ去られた名前となっていた。伊勢湾台風のときにその子孫の蔵から「武功夜話」として知られる前野家文書が発見され、当時の様子が細かく知られるようになった。でも江戸以降の地名などが文書にあるため偽書の疑いがある。

(3) 秀吉が家康に関東を与えたわけ。
いままでよくわからなかったのが秀吉は何故家康に関東を与えたのかということ。だって旧領の三河、遠江、駿河、甲斐を取り上げられても結果として家康の石高は大幅に増大して他の毛利や前田などの有力大名からぬきん出てしまったもの。それに秀吉がわざわざ江戸に城を築くように言っている。秀吉はわかっていたかどうか知らないが風水的に見て江戸は王府の相があるとのことだ。まるで家康の天下取りのお膳立てをしているみたいだと思った。それなのに家康をけん制するため会津に最初は蒲生氏郷、氏郷の死後は上杉景勝という戦に強くて家康とは親密でない大名を大幅に加増してまで置いている。
その理由はこの小説で腑に落ちた。要するに秀吉の関東の広さを分かっていなかったための勘違い。当然太閤検地も未実施の土地で石高も掴んでいなかった。秀吉は開墾とか開発に多額の費用と労力のいる荒地に家康を追放して疲弊させようとしたのだ。だがそのあとで関東地方を視察してその広さを初めて実感して驚いた。そこで松坂12万石の蒲生氏郷を最初は42万石、翌年に120万石の大大名にして会津にすえたわけだ。

(4) 立花宗茂の夫婦仲と柳川移封
天下人になってからの秀吉の最大の関心事は子どもを作ること。自然その前提となる行為にも大いに関心がある。九州平定直後に立花宗茂(当時は統虎)と会ったときに、そのころは琴瑟相和していた宗茂夫婦の妻の「閨の睦言」を秀吉に教えるか、近畿地方に大禄で移封するかと迫った。宗茂は水と魚のまずい近畿はいやだが、九州男児が勝手にそんなことを話せないから妻と相談するとのことであった。結果は妻も近畿へは行きたくないので、秀吉から他へは漏らさないとの誓約をとって教えてもよいとのこと。そんなわけで、宗茂は近畿へは行かないのだが、秀吉の九州処分の知行割りの関係で、同じ北九州だが立花城から柳川に移封することになった。近畿の大禄よりはかなり落ちるが大友家の一武将から13万石の大名だからそれでも大出世。でもこれで夫婦仲は悪くなり別居となる。妻は石高が不満なのではない。立花城から移ることに大不満なのだ。だって立花城は妻の実父の立花道雪から妻が譲られたものであり、実は城主は妻だったのだ。で、宗茂と言えば、柳川は水が美味いと上機嫌。ひょっとしたらこれで自分自身の城と領地が持てるためうれしかったかもしれない。そのためもあってか宗茂は柳川の領民を大切にしたので、関が原の敗戦後、城を明け渡すことになったとき、領民が自分たちも戦うから去らないでくれと懇願したのだ。

(5) 秀吉は秀頼が自分の子でないと知っていた。
この小説によると、秀吉は秀頼が自分の子ではないと知っていたとのことだ。それは秀頼の出生からさかのぼって推定される懐妊の時期が秀吉と茶々(淀どの)は離れた場所にいたからだ。それが史実として確認できるなら、当時の人々もわかっていたと思うのだが?なおこの本では江戸時代初めの徳川家で常識だったとのこと。
茶々は秀頼の前にも夭折した鶴松という子を生んではいる。その時の懐妊時期はぎりぎりだがありうるし、以前の長浜時代にも側室が秀吉の子を生んだことがあるので、自分が種無しとは思わなかったので自分の子と信じた。しかし秀頼の場合は自分の子ではありえなかった。しかし豊臣家の体面のため自分の子と信じたふりをすることにした。そして甥の関白秀次の娘と結婚させれば豊臣の血が続くことになる。だが、秀次の乱行が多くなると、秀吉は秀次の梅毒を疑った。それでは残すべき豊臣の血が汚れてしまう。じつはそれは梅毒のせいでなく、淀どのの手のものが秀次に鉛を盛り続けたのが原因だった。それを側近(前野将右衛門の息子)から知った秀次は、明日会って秀吉におもしろい話を聞かせると秀吉の使者に言ってしまった。秀吉は秀頼の出生の秘密のことと思い急きょ秀次を幽閉したあと殺してしまう。秀次の側室を皆殺しにしたのは梅毒の懸念のせいだ。
茶々が秀吉の閨に入ったのは実は茶々からのはたらきかけだ。秀吉はお市の方には恋慕の情をもっていたが、娘の茶々にはそれほど執着していたわけではない。むしろ側室では京極家の姫の竜子がお気に入りだった。作者は茶々が秀吉をさそい鶴松を産もうとした動機を、京極竜子との地位をめぐる確執と考えているらしい。
でも僕の私見では、気がつけば浅井3姉妹のうち妹2人は先に嫁いでいたそのあせりではないかと思う。信長の姪である茶々はそこいらの大名に嫁ぐ気がしなかった。妹の一人は徳川家の跡継ぎに嫁いだ。徳川家は秀吉を除けば最大の大名だ。もう一人の妹は京極家という大名に嫁いだ。石高は大きくないが、実は京極家は浅井家の主筋にあたる名家だ。だから浅井長政の娘としてはふさわしいところに嫁いだといえる。では気位の高い茶々にそれ以上の嫁ぎ先はあるのか?公家なら位の高いところはいくつかあるだろうが、収入は少ない。そこで天下人である秀吉の側室になり、並みの側室にならないために子種をどこかで仕入れてきたのだと思う。


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