李舜臣の朝鮮水軍が強かった理由を考えると次のいくつかの要素が思い浮かぶ。
1 大砲が発達していた。
鉄砲は日本軍が質量とも圧倒的に優勢だが、船に積み込む大砲は朝鮮水軍の方が発達していた。日本水軍の艦上からの鉄砲隊の発射は船の近接戦では朝鮮水軍の弓手を圧倒したが、朝鮮水軍の大砲がより射程距離が長いため接近戦になる前に朝鮮水軍の大砲で破壊される可能性が大きい。
2 朝鮮水軍の板屋船が日本水軍の安宅船より堅牢であった。
日本水軍は鹵獲した朝鮮の大砲を日本の安宅船に取り付けようとしたが、安宅船の構造が脆弱で大砲発射の反動で船体が壊れるためせいぜい2基しか大砲を設置できなかった。また双方の船が衝突した場合安宅船の方が破壊されかねない。
3 朝鮮半島南部海岸の地形や海流をよく知っていた。
李舜臣は地形や海流を知り尽くしている退職していた元水軍の幹部を再び登用した。彼は自分が死んでも役立つように海流図などを書き残した。少数で多数を迎え撃つこともある李舜臣の水軍は地形や海流を大いに利用した。
4 艦隊訓練をよく行った。
李舜臣が全羅左水使になって最初に重視したのは艦隊の統一行動だ。訓練によって各船が陣形を組めるようになった。李舜臣は一字陣と鶴翼の陣を多く用いた。これによりすべての船の大砲の弾を目標の的に集中的に浴びせることができる。もし陣形ができず各船がばらばらに行動したら味方の船が邪魔でうまく砲撃もできなくなる。なおこうした訓練によって李舜臣は部下の武将たちを掌握していったような気がする。
5 偵察活動をよく行った
高速の偵察船とロケット弾や狼煙による連絡を用いて偵察活動を常に行っている。この偵察活動の指揮官は軽いタッチの調子よさそうな人物で、李舜臣が全羅左水使になったとき僕は調子よさそうな人物なので大陸の軍隊によくある横領などが出てきて李舜臣に罰せられるというストリーになるのかなと思った。ところがそうではなくて頭の回転がよいので李舜臣から偵察活動の指揮官を任された。ところでこの人は元均が日本艦隊に大敗し朝鮮艦隊がほとんど壊滅したとき、日本軍の捕虜になって日本に連行された。そのあと日本から脱出して朝鮮にもどり再び李舜臣の部下になった。DVDを見ていて「そんな、ドラマでも作りすぎ」と思ったが、どうやら実話らしい。
6 勝利できる確信がない場合は出動しなかった。
李舜臣は勝てないと思ったときは、王様の命令でも頑として出撃しなかった。李舜臣が戦うときは少数の敵に集中して攻撃せん滅して自分は被害なしという形が多いが、大砲と艦隊行動と地形などで、敵がある程度多くても勝てる自信はあったと思う。しかし釜山攻撃のように敵の兵力が5倍から10倍以上の中に突っ込むことは冒険すぎてできなかったのだろう。この李舜臣の態度は正しいと思う。こちらの兵力が圧倒的に少ない場合、一か八かでこちらの兵力をつぶしてしまえばもう後がなくなる。したがってこちらの兵力を温存しながら敵を少しずつ倒していくしか方法がないだろう。それから王様に一度でも負けたら水軍をつぶすといわれたことも少し関係しているかも。
なお李舜臣が復帰したとき、船は13隻しか残っていなかった。元均が大敗したとき、その直前に敵前逃亡した一隊の船があったからだ。日本水軍は制海権を完全ににぎろうと100隻以上の船で迫ってくる、ここは迎え撃たないと制海権は日本のものになる。そして李舜臣は初めて一か八かの戦いをする。この場合、李舜臣は部下の水兵たちに危険なことを承知させて作戦に参加を求めた。不敗の伝説が出来ている李舜臣なら「俺を信じろ。絶対勝つ」といっても通じそうなのだが、ここは危険なことを正直に伝えているというのは偉い。この鳴梁海戦では地形と住民の協力を得た奇策をもちいて、日本海隊を先頭の30数隻と後方の100隻以上を分断して、先頭部分を壊滅させて、日本軍を退却させた。
1 大砲が発達していた。
鉄砲は日本軍が質量とも圧倒的に優勢だが、船に積み込む大砲は朝鮮水軍の方が発達していた。日本水軍の艦上からの鉄砲隊の発射は船の近接戦では朝鮮水軍の弓手を圧倒したが、朝鮮水軍の大砲がより射程距離が長いため接近戦になる前に朝鮮水軍の大砲で破壊される可能性が大きい。
2 朝鮮水軍の板屋船が日本水軍の安宅船より堅牢であった。
日本水軍は鹵獲した朝鮮の大砲を日本の安宅船に取り付けようとしたが、安宅船の構造が脆弱で大砲発射の反動で船体が壊れるためせいぜい2基しか大砲を設置できなかった。また双方の船が衝突した場合安宅船の方が破壊されかねない。
3 朝鮮半島南部海岸の地形や海流をよく知っていた。
李舜臣は地形や海流を知り尽くしている退職していた元水軍の幹部を再び登用した。彼は自分が死んでも役立つように海流図などを書き残した。少数で多数を迎え撃つこともある李舜臣の水軍は地形や海流を大いに利用した。
4 艦隊訓練をよく行った。
李舜臣が全羅左水使になって最初に重視したのは艦隊の統一行動だ。訓練によって各船が陣形を組めるようになった。李舜臣は一字陣と鶴翼の陣を多く用いた。これによりすべての船の大砲の弾を目標の的に集中的に浴びせることができる。もし陣形ができず各船がばらばらに行動したら味方の船が邪魔でうまく砲撃もできなくなる。なおこうした訓練によって李舜臣は部下の武将たちを掌握していったような気がする。
5 偵察活動をよく行った
高速の偵察船とロケット弾や狼煙による連絡を用いて偵察活動を常に行っている。この偵察活動の指揮官は軽いタッチの調子よさそうな人物で、李舜臣が全羅左水使になったとき僕は調子よさそうな人物なので大陸の軍隊によくある横領などが出てきて李舜臣に罰せられるというストリーになるのかなと思った。ところがそうではなくて頭の回転がよいので李舜臣から偵察活動の指揮官を任された。ところでこの人は元均が日本艦隊に大敗し朝鮮艦隊がほとんど壊滅したとき、日本軍の捕虜になって日本に連行された。そのあと日本から脱出して朝鮮にもどり再び李舜臣の部下になった。DVDを見ていて「そんな、ドラマでも作りすぎ」と思ったが、どうやら実話らしい。
6 勝利できる確信がない場合は出動しなかった。
李舜臣は勝てないと思ったときは、王様の命令でも頑として出撃しなかった。李舜臣が戦うときは少数の敵に集中して攻撃せん滅して自分は被害なしという形が多いが、大砲と艦隊行動と地形などで、敵がある程度多くても勝てる自信はあったと思う。しかし釜山攻撃のように敵の兵力が5倍から10倍以上の中に突っ込むことは冒険すぎてできなかったのだろう。この李舜臣の態度は正しいと思う。こちらの兵力が圧倒的に少ない場合、一か八かでこちらの兵力をつぶしてしまえばもう後がなくなる。したがってこちらの兵力を温存しながら敵を少しずつ倒していくしか方法がないだろう。それから王様に一度でも負けたら水軍をつぶすといわれたことも少し関係しているかも。
なお李舜臣が復帰したとき、船は13隻しか残っていなかった。元均が大敗したとき、その直前に敵前逃亡した一隊の船があったからだ。日本水軍は制海権を完全ににぎろうと100隻以上の船で迫ってくる、ここは迎え撃たないと制海権は日本のものになる。そして李舜臣は初めて一か八かの戦いをする。この場合、李舜臣は部下の水兵たちに危険なことを承知させて作戦に参加を求めた。不敗の伝説が出来ている李舜臣なら「俺を信じろ。絶対勝つ」といっても通じそうなのだが、ここは危険なことを正直に伝えているというのは偉い。この鳴梁海戦では地形と住民の協力を得た奇策をもちいて、日本海隊を先頭の30数隻と後方の100隻以上を分断して、先頭部分を壊滅させて、日本軍を退却させた。
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