河村市長に迎えられた民間(トヨタ系ディーラー)出身の大西副市長が辞任する。もともと1期限りと決めていたので河村市長の辞任にあわせたという。大西副市長は民間感覚での市役所の行政改革に取り組んだが目立った成果はあげられなかったという。
一般論として、民間出身者の副市長がおおいに役立つとしたら、下から上がってくる起案に対して役人が気づきにくくてポカしやすい点を指摘して訂正させることだ。たとえば国の役所の話になるが「後期高齢者」とかのネーミングや落ち葉マークと揶揄される車の表示は、民間のマーケティングに長けた会社なら決して通さないだろう。郵政とペリカン便の事業統合も純粋な民間会社だったらもっと慎重に手はずを確認してあんな混乱は起こらなかった気がする。
だから民間出身者の幹部だから行政改革をと身構える必要はないと思う。特色をだすとしたら、流されずに上記のことを行いながら、ふとこれは変える必要があると思ったこと発見したら断固として実行することだと思うな。大西副市長が役人の独りよがりな提案になんら有益な訂正を加えないでスルーさせている一方で、「改革、市民サービス向上」とつぶやきながら区役所を現地指導していたとしたら本末転倒だと思う。
僕は現役職員ではないし現役だったとしても副市長とは没交渉だと思うので、本当はどうだったのかわからないが、大西副市長はたぶん下からの起案に適切な指示を与えていたと思う。河村市長が連れてきた人だもの。でも仮に大西副市長が「俺はいろいろ意見をいったが役人が頑固で聞かなかった」と言ったならこれはまた問題。たいてい問題の多くは役人ではなくて副市長の方にあると思う。役人が納得しないのはそれなりの合理的な理由がある(勿論ない場合もあるけど)が副市長の方が理解できてないことが想定できる。良い的をえた指摘なら、役人も自分の盲点にハッと気づいて受け入れると思う。でもなあ、外部から来て役人の言うことの本質をつかみしかも役人を感服させる指摘ができる人はそうはいない。通産省でもそれができた大臣は田中角栄と河本敏夫だけだったというからね。河本敏夫さんに総理になってもらいたかった。
「2ちゃんねる」の「名古屋市職員専用スレッド」を見ると、大西副市長が、区役所の窓口にきて、「カウンターの上にチラシなどを置かないように」とか「机の上は整理整頓」とか言ったという。「2ちゃんねる」の職員たちは細かいことを言うと不満そうだった。でも実は同じような指示は従来でもなんども降りてきたものだ。まあ発信元が区長なのか総務局なのかは知らないけど。「市民目線でのサービス向上」も河村市長・大西副市長のずっと以前から月間を設けた年中行事として取り組まれてきている。副市長により現地指導が新しい趣向と言えばいえるが、それがどれほどの効果があったのか。効果をあげたいのなら、たとえば「カウンターの上」にしても、総務課長会で提案して総務課長に行わせて結果報告を求める方法に効果がある。もしかして総務課長会では反論が出て決まらないから現地指導になったのかな。
とはいえ僕が行政改革を必要ないと言っているわけではない。むしろ僕の方こそ関心があると言ってもいい。外部の人が、お役所だからきっと直すべきお役所仕事はいっぱいあるという前提からみるのと違って、役人を長いことやってきての問題意識である。
それは役所を本来の目的を最優先する組織にするにはどうしたらよいかということだ。ある目的のために作られた組織が、その目的よりも構成員の福利を優先していくのは止められないのだろうかということ。その代表的な例が旧帝国陸海軍だろう。戦史をみて驚くことは、国家の利益と高級将校の面子や利益が相反したとき、何の迷いもなく高級将校の利益を取っていることだ。『敗北の理由』(谷光太郎、ダイヤモンド社)では「機能組織(ゲゼルシャフト)型」が「共同体組織(ゲマインシャフト)型」になっていくと書いてある。それはそうだが、ではどうすればいいのか?
そのヒントは意外な所から見つかった。僕はオーストリア学派経済学の信奉者で当然に反リフレ派である。正確にはリフレ派への反感などいろんな自分の判断をもっているとオーストリア学派経済学にたどりついたということだ。で、反対陣営のリフレ派(日銀の金融政策によってわざとインフレを起こそうという人々)の本も時々読んでみる。あ、これは公正な判断のためでもなくまた揚げ足取りでけちをつけるためでもない。自分が思ってもいない考えを知ることは楽しいし、また自分はこうは考えないと気づくことで自分の考えがまとまるからだ。
リフレ派の松尾匡氏の『対話でわかる痛快明快経済学史』かな?『不況は人災です!』かな?とにかくその両方の本に書いてあるゲームの理論だ。たしか松尾氏は「ゲームに勝つにはゲームの規則を知って規則に従わなければならない」というようなことを書いていた。そのとき僕ははっと気がついた。そうだゲームの規則を変えればいいのだ。
リフレ派の松尾氏の本だから参考になったがちょっと悔しいと思っていたが、松尾氏は無視しているが、ゲームの理論を最初に経済学の持ち込んだのはオーストリア学派のモルゲンシュタインなのだ。オーストリア学派は常に異端でたえずその時代の優勢な考えに論争を挑んで決して負けてこなかった。主流派経済学は行き詰ると、シュンペーターやモルゲンシュタインらのオーストリア学派出身の学者からアイデアを借りて苦境を打破しようとする。でも首尾一貫していないからすぐまた行き詰まる。オーストリア学派は首尾一貫しているから正しいがゆえにいつも異端派だ。
話は戻るが、役所にいたとき、何年かに一人新規採用者で一日中職員バッチをつけている人がいた。僕も出張する場合は背広にバッチをつけるが、それ以外ではバッチは机の中。ほとんどの職員も同じだ。でもそうしたバッチをつけている新人職員は最初の異動で総務局の特定の課への異動を希望してその旨直属課長を通じてアピールする。僕なんかは、いつも職員バッチをつけるなんて真面目というべきだがなんか変で理解できんと思っていた。ちなみに規則では常に職員バッチをつけることになっている。エリートの一種である区長が区役所の部課長会で「職員規則では常時職員バッチをつけることになっているが」と問題にしようとしたら、エリートコースとはほぼ無縁の多数の課長が、「帰宅途中での一杯飲み屋で職員バッチをつけなきゃいけないというのは無理です」と大反対したと言う話がある。
つまり役所に入ってくる有名大卒職員の中には、たぶん先輩からどうしたら出世コースに乗れるのか教えられてそのとおりに従っている人たちがいる。僕としたらせっかく地方自治体に入ったのに職員を管理する部門に行きたがるのは何が楽しいか不思議だった。でも実はそれが出世ゲームの規則だったのだ。僕は鈍感でかなり後になって「2ちゃんねる」の「名古屋市職員専用スレッド」で知ったのだ。でも最初から知っていても僕には関係ないけど。
だから役所の行政改革とはゲームの規則を変えることだ。たとえば人事課など管理部門にいたら出世の回り道になるという風にしたらどうかな。
一般論として、民間出身者の副市長がおおいに役立つとしたら、下から上がってくる起案に対して役人が気づきにくくてポカしやすい点を指摘して訂正させることだ。たとえば国の役所の話になるが「後期高齢者」とかのネーミングや落ち葉マークと揶揄される車の表示は、民間のマーケティングに長けた会社なら決して通さないだろう。郵政とペリカン便の事業統合も純粋な民間会社だったらもっと慎重に手はずを確認してあんな混乱は起こらなかった気がする。
だから民間出身者の幹部だから行政改革をと身構える必要はないと思う。特色をだすとしたら、流されずに上記のことを行いながら、ふとこれは変える必要があると思ったこと発見したら断固として実行することだと思うな。大西副市長が役人の独りよがりな提案になんら有益な訂正を加えないでスルーさせている一方で、「改革、市民サービス向上」とつぶやきながら区役所を現地指導していたとしたら本末転倒だと思う。
僕は現役職員ではないし現役だったとしても副市長とは没交渉だと思うので、本当はどうだったのかわからないが、大西副市長はたぶん下からの起案に適切な指示を与えていたと思う。河村市長が連れてきた人だもの。でも仮に大西副市長が「俺はいろいろ意見をいったが役人が頑固で聞かなかった」と言ったならこれはまた問題。たいてい問題の多くは役人ではなくて副市長の方にあると思う。役人が納得しないのはそれなりの合理的な理由がある(勿論ない場合もあるけど)が副市長の方が理解できてないことが想定できる。良い的をえた指摘なら、役人も自分の盲点にハッと気づいて受け入れると思う。でもなあ、外部から来て役人の言うことの本質をつかみしかも役人を感服させる指摘ができる人はそうはいない。通産省でもそれができた大臣は田中角栄と河本敏夫だけだったというからね。河本敏夫さんに総理になってもらいたかった。
「2ちゃんねる」の「名古屋市職員専用スレッド」を見ると、大西副市長が、区役所の窓口にきて、「カウンターの上にチラシなどを置かないように」とか「机の上は整理整頓」とか言ったという。「2ちゃんねる」の職員たちは細かいことを言うと不満そうだった。でも実は同じような指示は従来でもなんども降りてきたものだ。まあ発信元が区長なのか総務局なのかは知らないけど。「市民目線でのサービス向上」も河村市長・大西副市長のずっと以前から月間を設けた年中行事として取り組まれてきている。副市長により現地指導が新しい趣向と言えばいえるが、それがどれほどの効果があったのか。効果をあげたいのなら、たとえば「カウンターの上」にしても、総務課長会で提案して総務課長に行わせて結果報告を求める方法に効果がある。もしかして総務課長会では反論が出て決まらないから現地指導になったのかな。
とはいえ僕が行政改革を必要ないと言っているわけではない。むしろ僕の方こそ関心があると言ってもいい。外部の人が、お役所だからきっと直すべきお役所仕事はいっぱいあるという前提からみるのと違って、役人を長いことやってきての問題意識である。
それは役所を本来の目的を最優先する組織にするにはどうしたらよいかということだ。ある目的のために作られた組織が、その目的よりも構成員の福利を優先していくのは止められないのだろうかということ。その代表的な例が旧帝国陸海軍だろう。戦史をみて驚くことは、国家の利益と高級将校の面子や利益が相反したとき、何の迷いもなく高級将校の利益を取っていることだ。『敗北の理由』(谷光太郎、ダイヤモンド社)では「機能組織(ゲゼルシャフト)型」が「共同体組織(ゲマインシャフト)型」になっていくと書いてある。それはそうだが、ではどうすればいいのか?
そのヒントは意外な所から見つかった。僕はオーストリア学派経済学の信奉者で当然に反リフレ派である。正確にはリフレ派への反感などいろんな自分の判断をもっているとオーストリア学派経済学にたどりついたということだ。で、反対陣営のリフレ派(日銀の金融政策によってわざとインフレを起こそうという人々)の本も時々読んでみる。あ、これは公正な判断のためでもなくまた揚げ足取りでけちをつけるためでもない。自分が思ってもいない考えを知ることは楽しいし、また自分はこうは考えないと気づくことで自分の考えがまとまるからだ。
リフレ派の松尾匡氏の『対話でわかる痛快明快経済学史』かな?『不況は人災です!』かな?とにかくその両方の本に書いてあるゲームの理論だ。たしか松尾氏は「ゲームに勝つにはゲームの規則を知って規則に従わなければならない」というようなことを書いていた。そのとき僕ははっと気がついた。そうだゲームの規則を変えればいいのだ。
リフレ派の松尾氏の本だから参考になったがちょっと悔しいと思っていたが、松尾氏は無視しているが、ゲームの理論を最初に経済学の持ち込んだのはオーストリア学派のモルゲンシュタインなのだ。オーストリア学派は常に異端でたえずその時代の優勢な考えに論争を挑んで決して負けてこなかった。主流派経済学は行き詰ると、シュンペーターやモルゲンシュタインらのオーストリア学派出身の学者からアイデアを借りて苦境を打破しようとする。でも首尾一貫していないからすぐまた行き詰まる。オーストリア学派は首尾一貫しているから正しいがゆえにいつも異端派だ。
話は戻るが、役所にいたとき、何年かに一人新規採用者で一日中職員バッチをつけている人がいた。僕も出張する場合は背広にバッチをつけるが、それ以外ではバッチは机の中。ほとんどの職員も同じだ。でもそうしたバッチをつけている新人職員は最初の異動で総務局の特定の課への異動を希望してその旨直属課長を通じてアピールする。僕なんかは、いつも職員バッチをつけるなんて真面目というべきだがなんか変で理解できんと思っていた。ちなみに規則では常に職員バッチをつけることになっている。エリートの一種である区長が区役所の部課長会で「職員規則では常時職員バッチをつけることになっているが」と問題にしようとしたら、エリートコースとはほぼ無縁の多数の課長が、「帰宅途中での一杯飲み屋で職員バッチをつけなきゃいけないというのは無理です」と大反対したと言う話がある。
つまり役所に入ってくる有名大卒職員の中には、たぶん先輩からどうしたら出世コースに乗れるのか教えられてそのとおりに従っている人たちがいる。僕としたらせっかく地方自治体に入ったのに職員を管理する部門に行きたがるのは何が楽しいか不思議だった。でも実はそれが出世ゲームの規則だったのだ。僕は鈍感でかなり後になって「2ちゃんねる」の「名古屋市職員専用スレッド」で知ったのだ。でも最初から知っていても僕には関係ないけど。
だから役所の行政改革とはゲームの規則を変えることだ。たとえば人事課など管理部門にいたら出世の回り道になるという風にしたらどうかな。