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セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

名古屋市市税事務所について

2010-05-09 19:10:24 | 名古屋
今年4月から名古屋市の市税事務所ができた。まだ1カ月しかたっていないので利便性について市民の評価はこれからであろう。またそこで働く職員の声も、僕はまだ聞いていない。だからここで書くことは、退職者のふと思った感想に過ぎない。なお僕は市民税の賦課については経験があるが、市税の徴収と他の市税の賦課は経験していないので思い違いもあるかもしれないのでそのつもりで。

従来市税についての賦課および徴収は16ある区役所と、いくつかの区役所支所の税務課(市民税課も含む)と納税課が行ってきた。今回それを廃止して、市内3か所の市税事務所とそれに付随する3か所の出張所の計6か所に市全体の賦課と徴収を集約したもの。なお区役所でも申告や証明の一部税務事務の窓口が残る。これにより将来的には税務関係の職員を20%削減できるらしい。また差し押さえなどの滞納処分の効率化を目指していると思う。これは市の広報にははっきりと言っていないが、そういうことだと思う。なぜなら税の未納の徴収だけなら、地域事情に詳しい区の職員が便利だからである。収納事務を集約して専門性を高めるということは、区役所では滞納者の事情とかあるいは職員の事務能力と意欲のある無しにより滞りがちになる差し押さえなどの滞納処分が、効率的に執行されると考えられるからである。

4月1日に実施される人事異動を、3月末の中日新聞でみたときふと思ったことがある。そうそう名古屋市の人事異動で役職者(係長級以上)については、地元の中日新聞の名古屋市内版に掲載されるのだ。「市税事務所ができるのだな。課長と係長級(係長と主査)に知った人が何人もいるなあ」。と思いつつ、あれ?と思ったことがある。係長級の人間が多いのである。「ひょっとしたら税務事務所というのは、主事(事務職のひら職員)か少なくて、係長級だけで仕事をするところかな?」

どうやらこれは誤解らしい。市税事務所ができても、区民の利便のため区役所にも申告や税務証明の窓口が残るのだが、どうやらそこにその係長級の人たちが窓口要員の主査として市税事務所から派遣されると思われる。「思われる」というのは僕の想像。というのは4月以降に市関係者であったのは退職者だけだから現状をよく知らないのだ。はじめ僕は、区に残る税務窓口は4月に各区役所にできる企画経理室の職員がやるものと思っていた。ところが市職労のホームページを見ると、区役所に駐在する税務窓口の主査は、区長とも区民生活部長とも関係がなく、トラブルが起きたらテレビ電話で市税事務所と相談するという。とすると、区役所に駐在する税務窓口の主査は、区役所の職員ではなく市税事務所の職員が区役所派遣されに過ぎないことになる。

ここで僕が懸念することを3つ書こう。1つはこの区役所の税務窓口の主査だ。主査は係長級だがラインでなくてスタッフ。つまり自己の判断で仕事ができる。長としての部下はいないが、通常は助手として手伝ってくれる主事がいる。しかし税務窓口の主査には区役所の職員は所属が違うので無関係である。かわり税務窓口の主査には、嘱託職員が3~5名つくそうである。これが問題だと思う。通常主査は係長級に昇任したばかりの人がなることが多い。逆に嘱託職員は60歳で定年退職した職員がなる。嘱託職員が課長係長で辞めた人かもしれない。たぶん考慮されて、税務窓口主査もある程度年輩で、嘱託も主事でやめた人だろう。そうでないとやりにくいと思う。また嘱託員の人事管理はどうなのだろう。嘱託員の休暇予定は当然把握していないと困ることになるが、ラインでない主査がそこまでできるのか。ひょっとしたら税務窓口の主査と嘱託員が毎日市税務事務所に出勤してから、そこから各区役所に出向くのかな。まあ、こんどあったら税務事務所に異動になった人に聞いてみよう。

2つは、市の広報では、市税事務所では職員の専門性が高まると言っている。従来も税金の仕事は税務課や納税課の職員が行っていて、住民票の交付する職員が一緒にやっていたわけではないので専門の職員がやっていたことになる。つまりここでの専門性とは、財政局の職員として人事異動も財政局主税部内で行うということ。いままでで税務課および納税課の職員は各区役所の所属であり、人事異動は同じ所属(同じ区役所)内で行われることが多い。つまり税務課市民税係の職員が市民課窓口係にいくとか。係長および課長もおなじだ。だからこれからは、財政局所属の職員として、市税務事務所内、市税務事務所間、市役所主税部と市税事務所の異動で役所生活を過ごす者もでてくる。でも市職員としてそれが良いのかな。もっと他の部門からも市民生活を見た方がよりよい人生になると思うけど。

市役所という組織をどの面から見るかということで人生の意味が違ってくる。ある人には出世の階段のあるヒエラルキーのある官僚組織とのみ見える。「2ちゃんねる」の名古屋市職員のスレッドを見ると、「人事課に行くにはどうすればいいのですか」などという書きこみが時々ある。市民に対応するより職員を管理する部署の出世が早いからである。でも管理部門ばかりにいると、具体的問題の具体的解決の能力がなくなる。そうすると数値目標とか言い始める。数値目標とは、具体的な問題がわかっていないのと、数値の操作で成果が上がってなくても上がったように見せることができるという役人好みの手法で便利だからである。むかし市の職員だったとき、全市で超過勤務削減の数値目標を出せということがあった。たぶん今でも続いている。基準年にたいして何パーセント削減せよという。でもこれはすでに無駄な超勤をしていない部署は困るわけである。一番困るのは、過去に同じ部署の報告数字で、超勤時間からその年の特殊要因とこじつけ操作して大幅に超勤時間実績を減らして報告して目標達成としていることである。そうするとその大幅に削減された実際とは違う数値が基準となるので後の担当者が困ることになる。超勤を削減しようとするなら、数値目標はだめで、同じような仕事をしている部署の担当者を集めて、仕事の種類と仕方を比較点検することである。そうすれば合理的な仕事法や、また省略しすぎて違法などの弊害のある仕事も見つけ出せる。要するに数値目標を云々する人は問題がわかっていないし問題を解決する能力もない。「インフレ目標値」とか「デフレギャップ」とかを聞くと、日本の教育システムが間違っているなと思う。

話は戻って、市役所を出世の階段のあるヒエラルキーのある官僚組織ととると、出世に効率的かもしれないが、無意味な人生を送ることになる。ではどうみるか、それは自分が給料もらって世の人に奉仕できる手段と見をことだ。でもこれは僕の独断。自分と家族を養う職場でもよい。でもそれだけではないはず。ドライブで景色を見ながら行くのが良い。いきなり高速道路に入ると早く遠くへ行けるかもしれないが景色は見えてない。海岸も山も田園も見ることができる区役所で回った方がよいのではないか。

3つ目の懸念は、市民の目から隔離された場所に大人数職場ができることである。市の職員でも心身上の問題や、能力や、労働意欲の問題から、職場の戦力にならないだけでなく職場規律や職場環境に問題がでる人々がいる。そういう人を少人数の係に置いたので、他の職員に大きな負担になる。公務員は原則クビにならない。そういう人は、大きな人数の職場を回されることになる。つまりその人が働かなくても、多くの人数で同じことをやっているので何とかなるということである。一番の解決は、そういう人たちを、給料が低くなっても能力に合った職種に本人の同意を得て移動できる制度を作るとであるが、そんな制度はまだないと思う。市税事務所ができたことにより、数名ずつそうした人を配置できる場所ができたことにある。そういう使われ方は現状では仕方がない面があるが、問題は市税事務所が区役所より市民の目につかない点である。正しい解決とはちがうイジメ等の温床になりかねないのではないか。

名古屋市役所保険年金課での公務執行妨害事件

2010-05-06 22:35:17 | 名古屋
4月30日に、名古屋市役所1階の保険年金課で73歳の男がペットボトルに入った灯油を執務中の保険年金課長にかけたので、職員らにとりおさえられて、駆けつけた警察署員に公務執行妨害容疑で現行犯逮捕された。なお加藤容疑者のバックの中には、ほかにも灯油が入ったペットボトル2・3本とライターがあったそうである。加藤容疑者は「国民健康保険料の支払いについて不満があった」そうである。加藤容疑者は以前にも数回同課をおとずれていたが、その時はトラブルにはならなかったそうである。

http://mainichi.jp/chubu/news/2100501k000m040128000c.html
http://www.asahi.com/national/update/0430/NGY201004300031.html

今日書くことは、抗議手段の過激さをもって容疑者を非難することでもないし、動機をもって容疑者を弁護するものでもない。また名古屋市の国民健康保険のありかたについてあれこれ論評するものでもない。要するにちょっと知ったかぶりだが、思いついたことを書くことによって事件の背景がわかるかもしれないということ。

まず加藤被告は何をしようとしていたのか。保険年金課長に灯油をかぶせたことが、単なる脅かしなら、現行犯逮捕容疑の公務執行妨害または威力業務妨害だと思う。う?役所だから威力業務妨害はなくて公務執行妨害に統一されるのかもしれない。ライターを持っていたがつける真似までで終わるかもしれない。しかし本当に火をつける気でいたら殺人未遂になるのだろう。罪名は本人の供述しだいかもしれない。ただ毎日新聞の報道では加藤容疑者は自分にも灯油をかけたこと、および他にも灯油の入ったペットボトル2本を持っていたことを考えれば、自分も死ぬつもりで保険年金課長だけでなく保険年金課全部を巻き添えにしようとしていた可能性がある。これは怖い。

仮に脅かしが目的であったならば、もし誤って火がついて殺してしまったらどうするのだろう。そんなハプニングは起こりうる。むしろ脅すぐらいなら、汚物をぶちまけた方がよい。おっと決して市民を扇動しているわけではない。誤解のないように。人を傷つける可能性のあることはやってはいけないということ。ふう、危うく市の施設に立ち入り禁止になるところだった。市の保養施設で泊り込みで麻雀ができなくなると大変だ。

毎日新聞には「自分も灯油をかぶった」とあるが、他のマスコミではそのことは報道されていない。各マスコミがそれぞれ目撃者や警察に取材していると思われる。犯人の衣服にも灯油がかかっていたのであろう。それが課長にかけたとき自分にもかかった。あるいは取り押さえられたときにかかった、または自らへもかぶせたと三様に解釈することができるのだろう。自分にも灯油をかけたのならば自殺を図ったのかもしれない。そうすると国民保険料のことだけでなく生活全般に絶望していたところ不満のぶっつけ先がはっきりしている市役所の国民健康保険担当課をみちづれに自殺しようとしたのかもしれない。

「国民健康保険料の支払いについて不満があった」そうだが、料金の算定方法に不満か?徴収方法に不満か?おそらくその双方かもしてない。徴収だけに不満ならこの4月ということはとくに意味はなく年中事件は起こりうる。4月には平成22年度国民健康保険料の仮算定の通知書が送付されているので、算定方法の不満とも取れる。だが、国民健康保険の料金は世帯員数の他に平成22年度の市県民税の額も算定の基準としている。しかしそれは6月以降でないと分からないので本算定は7月である。したがって4月の仮算定の段階では前年度の市県民税の額で算定しているので、保険料が突然高くなるとのようなことは起こりにくい。仮に「昨年中の所得の減少や医療費控除などで安くなっていなければならないのに安くなっていない」等のクレームは7月の本算定まで待ってくれという話になるのでトラブルは普通起きない。

そこで考えられるのは次のケースである。容疑者は73歳なので明らかに老年者であり5年前でもすでに老年者であった。じつは所得税では平成17年から、住民税では平成18年度から老年者控除や公的年金の老年者特別控除がなくなった。したがって平成17年度以前にすでに65歳以上になっていた人では、平成17年度までは住民税が非課税だったのに平成18年度から課税になった人が多くいる。国民健康保険では市県民税額に一定の料率をかける。したがって税額が出ればそれによって保険料も増えるといえるがそれだけではない。非課税世帯が課税世帯になること、それ自体も保険料の減免や減額にかかわってくるのでその差は大きいといえる。本人はすでに何回か市役所の保険年金課をおとずれていたとのことである。この何回かは、最近何回かではなく過去何年かのうちとも取れうる。

もし保険料が急にあがったのならば、かつかつの生活をしていたのならば非常に困窮するだろう。だから頭にくるかもしれない。ただ最近の国民健康保険のことは詳しく知らないが、当然平成18年度には急激に保険料が上がらないように経過措置やら緩衝措置をとったはずである。役所とはそういうところ。その経過措置やら緩衝措置が年々きれてきて保険料が年々増えて今回の事件になったのかもしれない。

僕の特殊な個人的感想だが、年金収入が変わらない、あるいは減っているのに急に保険料が上がるのには一般的に頭にくるだろう。しかし平成18年度で初めて課税になった人は、厚生年金や共済年金の額がある程度あった人だ。国民年金だけの人や厚生年金でも少額のひとは以前も今も非課税だ。だから17年度以前で同じ非課税でもその収入はかなり違う人がいたはずである。だから17年度以前が不公正で今が公正に近づいたとも考えられる。

よくテレビドラマなんかで、「コップに半分しか水がない」と考えるのか、「コップにまだ半分水が残っている」と考えるかが、後ろ向きに生きるか前向きに生きるかの姿勢の違いで大切だという。でも生きるのにはそれだけでは十分じゃない。「急に料金があがって頭にくる」と思うのか、「いままで安くしてもらって幸運だった」と思うのかがもっと生きてく上に重要だと思う。これは昔、国民健康保険料や市民税に携わっていた役人の言い分ではない。しかしそのころから思ってきたことは事実。

ところで、国民保険料はこの10年ぐらいの間に、介護保険など制度の新設や税制の変更などでかなり変化してきた。医療費も年々増加している。そのたびに市の保険年金課はいろいろ数字をなぶってなんとか市の負担分を確保しようと苦労するわけだ。でもそれは計算上のつじつま合わせで、本当に公正な保険料なるものは存在しない。同じ所得で同じ税額の世帯で、同じ保険料でも世帯や人により払いやすい人もいれば払いにくい人もいる。僕の考えでは、消費税などから国民健康保険の費用を集めて、個人および世帯に課す保険料(税)はなしにするのが一番理想的だと思う。またはベーシックインカムといって国民に最低限の所得を保障して、国民はベーシックインカムを使って好きな形態の民間の医療保険を選ぶようにして、国や自治体は公的医療保険から手を引くのもよい。

ところで、容疑者は市役所の保険年金課で事件を起こしたが最初は区役所の保険年金課へ言ったはずである。当然に、区役所段階において納得してもらう(実はあきらめてもらう)ことが期待されている。これは本庁(市役所)が忙しくなるからということではなくて、市役所にいっても変わらないから無駄足をふませる、俗に言うたらいまわしをしないためである。だが説明しても納得しない人がいる。そんなときに、頭のいい職員は「皆さんの選んだ議会が決めたことですから、どうにもなりません」という。これは嘘ではないが、正しいとも言えない。なぜなら議員が頭をひねって考えたわけでなく、議会は健康福祉局の作った原案に賛成するだけだから。もちろん共産党みたいにただただ保険料を安くしろという会派はあるがそれは言うだけ。議会が少し手直しして数字をいじる場合があるが大勢に影響はない。だから方便としても僕はそうは言いたくない。そこでなんとか納得というかあきらめてもらうよう努力するのだが、市民が保険料の算定の考え方を聞きたいといった場合は、市役所へ行ってもらうのは間違っていないと思う。市民にはその権利があるからだ。でも僕が市役所へ送った人はいなかったと思う。らちがあかんと思って自主的に市役所にいた人がいたかどうかは知らない。

どうなる河村市長

2009-11-02 19:28:37 | 名古屋
名古屋の河村市長が市議会との対決姿勢を強めて、かねての主張の市民税減税や地域委員会に加えて議員定数の半減等の議会改革案も含めた住民分権一括条例案を提出して、否決されたら直接請求(リコール)による市議会の解散も考えているとのことだ。うむ平成の大塩平八郎の乱か。

大塩平八郎の乱とは江戸時代後期の天保年間に大坂町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎がその門人たちと起こした反乱だ。大阪の広い地域で家屋が被災したが、反乱は失敗して大塩も処刑された。大塩がどのような目標を目指して蜂起したのかは僕にはよくわからない。だがその影響は全国に広がり、類似の一揆が起り、民衆のあいだでは大塩生存説が長く流布したそうだ。

河村市長の市議会への宣戦布告を大塩平八郎の乱になぞらえるのは唐突で成功の可能性が低いからだ。市議会の解散の直接請求に必要な署名数は市長選での得票の6割強で済むというが、「2ちゃんねる」の「名古屋市職員専用スレッドPart83」でも書いてあったが、投票と署名では重さが違うので難しいだろう。ただ署名運動員に熱意のある人たちが多ければ可能かもしれない。元職員(つまり僕)や現職員(2ちゃんねるの書き込み者)には自己の周り(公務員間の空気)から判断してしまうので、市民間の河村人気を過小評価している可能性もある。

ただ市会議員のボランティア化が成功すればそれは素晴らしいことだ。30名ぐらいで、建築士、弁護士、税理士、医師、僧侶、学生(年齢から大学院生)、商店主、工場経営者やサラリーマンなど他に職業を持った人が自分のもつ知識や経験を生かして議会を運営するのだ。委員会は5~6名で夜間やればいい。ただしそれにつきあって関係部局は残業する必要はない。委員会ででた調査事項などは、委員会でまとめて次回の委員会までに調べてもらうようにすればよい。党派的でないので委員間で協力しやすい。

でも現職の市議会議員にとっては職業でもあるので生活権の問題なので徹底して抵抗するだろう。議員のなかには世の中の役に立とうと職業として地方議員を選んだという人もいるかもしれない。でもさ、職業というのが問題で自分の生活のために公正な判断を曲げる可能性はないのか。以前に三河地方で未成年保護のための警察の手入れの情報を支持者の飲食店経営者に知らせていた県会議員がいたぞ。だいたい自分の生活上の利益を正義のために犠牲にする人はまれだ。陽明学者は良知に従って行動するから始めから損得勘定はしない。だから大塩平八郎は蜂起したのだと思う。しかし良知にしたがう陽明学者は、李舜臣じゃないが百戦百勝だと思うけど。まあ大塩の陽明学は独学で独創と偏りがあるけど(俺もか)。

ところで市民税10%減税についてコメントしておこう。河村市長の主張のポイントは3点だと思う。
1つは、民間企業は他社との競争または親会社・取引先の要求などでたえず合理化圧力がかかり業務改善を行うが、地域独占企業とも言うべき市役所にはその圧力がないので、減税という圧力をかけて業務改善の契機とする。
2つは、市役所という地方政府も含めて政府は減税という形で人民に努力成果を返さなくてはならない。
3つは、名古屋市が減税することによって、人も企業も名古屋に引き寄せられるので名古屋が繁栄する。

1つは、役所についてのパーキンソンの法則の歯止めを狙ったものともいえる。パーキンソンの法則とは、まあ「役所では仕事の量は増えなくてもそれにかかわる役人の数はつねに増加していく」とか「役所の仕事にかかる費用は予算いっぱいまで増えていく」とかいうもの。あまり間違っていないと思うけど、正確には自分で調べてね。

だから減税で得するのは金持ちで貧乏人には恩恵がないという批判は、目的が違うので批判にならない。つぎに減税の財源を示さなければ承認できないという市議会の意見も逆立ちした意見だ。減税による税収減を前提として行政サービスを低下させないよう行政の合理化が目的だ。最初の段階で財源を示しめせたら、それは行政サービスの切り捨てという形にならざるを負えない。

でも僕としては、10%減税をこうした行政改善の手段として使うのはあまり賛成ではない。というのは僕の感覚では、ある目的のために直接関係のないものを持ち込むことは。いわゆる「タメにする」ことで正しくないと思う。きっと王陽明もそういうと思う(これは僕の独断)。もし住民の困難の原因が重税ならばそれを真向に受けて減税のためさまざま努力をするのが正しいが、名古屋市の現実は違うと思う。

でも行政改善の契機になるものは、減税よりももっと切実であるのだ。つまり公債だ。もし公債発行をやめると決意し、全市一丸となって経常の収入だけで行政サービスを確保するという課題に取り組むのだ。これこそ「王道」だ。総理に揮毫してもらい市長室にかけたらよい。

だけど河村市長は国債公債ノープロブレム派だ。「借金は返す必要ない」とのことだ。銀行が金余りだからといって、銀行に金を返す必要はないのか?部下だったら河村市長から「経済学の基本、貯蓄投資バランス(ISバランス)を知らん」と怒られそうだ。でも僕は今は市職員ではないので部下ではなく、市民だから主人なのだ。

ところで河村市長に張良はいないのかな。張良は中国史で漢王朝を立てた劉邦の天才軍師だ。こんなことを言うのは韓流歴史ドラマの『女人天下』(三重テレビ水曜午後9時)の最近放送分で、文定王后が兄ウォンヒョンに「外戚として身を慎みアドバイスしてくれる人をさがしなさい」と言った。ウォンヒョンはその前にナジョン(女主人公)から「私があなたの張良になるは」と言われていたので、「張良ですか?」と王后に聞き返した。すると王后は「そう張良です」と答えた。ウォンヒョンは帰り道に「どうして最近に張良という話が出てくるのだろうと」と不思議に思う。文定王后は中宗の3番目のお后で、『宮廷女官チャングム』にもチャングムに好意的なお后として出てきたね。

え俺が張良になる気かって?そんな才能のないよ(だれだ、知っているというのは)。まあ僕は人に授ける知恵はない。

ついでながら先週の『女人天下』では、急進政治家で儒教原理主義者のチョ・ガンジョが靴作りにアドバイスを求めに行っていた。この靴作りは両班の息子で学識も深いのだが庶子のため官僚にならず靴作りをしている。宮中ではいま昭格署という祈祷施設をめぐって大揺れだ。チョ・ガンジョはじめ少壮官吏は王様に、宮中に祈祷施設があるのは儒教に反すると廃止を要求する。昭格署は安産を祈祷する施設で昔からあり。今は妊娠した側室の安産を祈祷している。文定王后も廃止に賛成だ。理由はチョ・ガンジョはじめ少壮官吏は忠臣だから廃止しないと忠臣を失うということだ。ところが中宗の母親の大后が廃止に大反対でチョ・ガンジョ達は王家の滅亡を図る逆臣だという。中宗は間で大悩み。で、靴作りはどんなアドバイスをしたかというと、「正論でもそのままでは王様は廃止に賛成できにくい。昭格署が経費を多く使うから、民の生活が苦しくなるという理由なら王様も賛成しやすい」というもの。河村君、参考になった?でもこれも「タメにする」ことかな。

市職員の給料考

2009-04-16 16:30:08 | 名古屋
河村候補が市職員の年収500万円以上の者の給料を減らすと言っている。これの隠れポイントは2つ。ひとつには年収500万円以上の職員は少なくないこと。幹部職員にならなくても多くのものがある年代で500万円以上になることだ。だから河村候補が幹部職員だけを対象のつもりでいても多くの職員は自分のことだと思う。二つ目には、職員の給与と市議会議員の給与は連続して繋がっている。つまり市議会議員の報酬は一般職市職員の最高級の上とされているので、幹部職員の給与が下がることは市議会議員の報酬の基盤が脅かされるので、市議会議員は賛成できないのだ。本来なら議会は市役所をチェックしなければならないのだが同じ利益共同体と化している。市会議員を長く勤めて同じ党の後輩に議席を譲り引退して市の外郭団体の役員になり高額な報酬を受ける例も多い。チェック側(議員)は被チェック側(役所)から利益供与を受けてはいけないのに。

職員の給与水準の正統性はどこにあるのだろうか。給与水準は人事委員会が民間給与の水準に準拠して勧告をだして議会で決めているという。ではなぜ世間の人は高いというのだろう。たしかに統計では民間の年収200万から300万の人が大多数なのに、市職員は大多数が最終的に年収500万円以上になる。実は人事委員会の調査対象は一定規模以上の企業が対象で多くの人の就労している中小企業は調査対象に入っていない。ちなみに数か月前の週刊誌の記事によれば、高卒の名古屋市職員の賃金は生涯ずっと高卒のトヨタ社員の賃金を上回っているとのことだ。名古屋市職員が人事委員会の勧告により世間並みなら、トヨタって世間並みに満たない給与しか払っていないのだ。これは冗談。物を相手と人を相手と行政権力行使による責任の有無などから単純に結論はでない。仕事の質と必要能力と責任の総体平均が、世の中一般とおなじ程度のものなら、公務員の給与は世の中の就労者の全部の給与の平均と同じでなければならない。あるいは身分の安定性と福利厚生を考えたら世間並より少し低くて釣り合うかもしれない。だがそうでない以上、労働市場で人用とされる人材を確保できる賃金が必要となる。だから単純に世間一般の給与水準より高いことをもって不当とはいえない。ここまでは役所の見解とおなじだと思う。でも公務員志望者が多く競争試験の倍率が高いというのはそこに他にはあまりない厚遇があることの証だろう。

さて職員の給与水準の正統性にもどると、公務員の中には採用試験に通ったから給与が民間より高いのが当たり前で、うらやましかったら採用試験を受けてとおって公務員になればよいと思っている者もいる。でもさ、試験に通ることが給与水準の正統性の保証にはならないよ。納税者はそんなことで税金を払っているわけではない。市民としては市民に返される公共的福祉や利便が最大限になるような人材確保を期待して可能な範囲で納税しているのだ。いくら高い競争倍率の試験を行っても有能有益な人物を取り逃がし、また有能な人物を採用しても適材適所に配置しなければ、中東で外国企業が義務的に必要のない現地人を高給でやとっているのと変わりない。

したがって市職員の給与についてそれが世間の被雇用者全体の水準より高いならば、それだけの効用を市民に返せていることが絶対必要条件だ。一定の給与総額と人材を前提とするなら、市役所全体の市民へ提供できる効用が極大化できるように人材を能力に応じて適所に配置しなければならない。でも名古屋市の人事は適材適所とは無関係なことは職員のほぼ常識だ。なにか市民利益と別な原理が働いているようだ。役人内の論理だよ。逆に適材適所で職員が所を得て活躍すると困る人たちがいるようだ。

適材適所が排除されるといことのほかに、管理職中間管理職の性向も問題だ。映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」で大学病院の救急救命センター長が、救急患者はすべて受け入れるので、部下の医師や看護師が苦い顔をしていた。映画を見た人はお役所も同じようだと思うのかもしれない。でも違うのだ。僕の経験から言うと、市民に接する仕事をしている職員の多くは市民にもっと便宜を図りたいと思っている。たぶん費用とか利益を考えない分民間よりその性向は強いと思う。しかし主として中間管理職が係の仕事を増えることを嫌がる。いや仕事を増やさないのが係長の役目と思っている。もし職員の一分が余分に仕事をしだすと、他に一人でもやりたくない職員が係長にクレームをつけると収拾がつかなくなると思っている。でも普通に(主として出世を考えない)職員は本当にもっと市民に奉仕したいと思っている。だから市民と接する部署では、「ジェネラル・ルージュの凱旋」の救急救命センターみたいな者が係長になると職員は活気づくのだ。でもさ、係長になるような人の多くは仕事を増やさないことが管理だと思っている。また同じような他の部署で、こちらがやらないようなことを行っているのは公務員の公平中立に反する裏切り行為だと思うのだ。

霞が関官僚出身候補の「つながり力」とは何か

2009-04-15 22:11:41 | 名古屋
名古屋市長選挙で、経産官僚出身の細川候補が「つながり力」という。おやこの間までの全国の自治体の首長選挙では、中央官庁出身の候補は、良心に目覚めた人は別として、たいがいは「中央との太いパイプ」をアピールしていたのに、変わったのかなと思ったら、よく考えれば、「パイプ」=「つながり」だから、「太いパイプ」=「つながり力」で、相変わらずの官僚候補のスローガンである。

そういうと細川候補は、そうではなくて「市民どうし、会社同士のつながりだ」と言うかもしれない。でもそれがまた問題なのだよな。日本の官僚の問題点は、自分と繋がっている利益共有者のつながりしか見ずに、本来の自己の役割及び給料をもらう根源となっている国民の利益は無視されることだ。薬害肝炎にたいして厚労省は何をしたか?日頃から付き合いのある製薬業者の利益だけが関心事となり、患者や国民の利益はまったく視野に入ってこない。さらにキャリア官僚集団だけに輪をしぼると「つながり力」は強力となる。公務員制度の改革の委員会での事務次官出身の委員の態度は、北朝鮮の外交官にも匹敵するかたくなさである。そこには自分自身による良識の判断はなく、母体の既定方針にいかなる変更もない。

細川氏が昨年9月に鉄鋼連盟理事から中京大学の教授となってから、期を同じくして名古屋のよくわからない財界グループから名古屋市長に細川氏を推すという記事が散発的に新聞に流れた。おそらく財界グループと細川氏が示し合わせて、それに中京大学が便宜を図ったと思われる。韓流時代ドラマの「張禧嬪」で、張禧嬪が王様の子供を産んだら、「つながり」をつけようと、官職や利益便宜を求めるものが贈り物をもって張禧嬪の実家に列をなして群がったのを思いだす。まあ「つながり」というのは、コネともマフィアともいうから。

細川氏は旧来の重厚長大の経済官僚候補となんら変わることはない。見てくれは新しいが、中身はかなり時代遅れだ。また中京大学を利用したり、財界グループをつかったりとかなり姑息なキャラクターだ。

備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷は「理財論」で「それ善く天下の事を制する者は、事の外にたちで、事の内に屈せず。」と言っている。新市長は事つまり旧来の慣習や既得権の外に立って、事の内に屈しないようにしてほしい。