たいていの人は「いい話」「美談」が好きだ。
心温まるエピソードを聞いて笑ったり泣いたりしてカタルシスを得る。
それは何も悪いことじゃないけれど、残念ながら世間で流通する「美談」には少なからずダメなものが混じっている。
「ニセ科学」の真似をして「ニセ美談」と呼ぼうかとも思ったが、それだと「事実を偽っている」という意味になる。私が問題にしたいのは「仮に事実であっても、多くの人が感動しても、それでも問題がある『美談』」だ。
とりあえず「ダメな美談」と呼ぶことにする。
とはいっても、考えてみればたいていの美談にはどこかしらダメな部分がある。
「不良少年が人助けした」とか「事故が起きて勇気ある人が人命救助した」という話は美談だ。だが「いいことしても不良だろ」とか「そもそも事故が起きたのが問題だ」と批判することはできる。あまり厳しく言うと「美談なんて世の中には存在しない」ということになってしまう。それではやりすぎだ。
世の中で美談として通用している物語を批判するのはなかなか難しい。
具体的には「代理出産」とか「募金を集めて海外で心臓移植」とかいった話だ。
「そもそも美談じゃない」と一刀両断にしてしまうと、美談を好む人たちは自分の価値観を全否定されたように感じて反発する。二分法は美談好きと美談嫌いの間の溝を深め対立を先鋭化させる。これではまずい。
「美談」と「ダメな話」のあいだに「ダメな美談」という区分を作れば、美談好きと美談嫌いが落ち着いて話ができる。「美談にもダメな部分がある」「ダメな話だけど美談の部分もある」と認め合えば「どこがダメなのか、どこが美談なのか」語り合えるはずだ。
…と考えてはみたけれど、美談好きな人たちは「ダメな美談」というアイデアを受け入れないような気がしてきた。
「ここはいいけれどここはダメだ」という分析はきっと彼らの好みに合わない。「いい話なんだから細かいことにケチを付けるな」と言いそうだ。彼らは基本的に「気分を悪くする事実」よりも「気持よくしてくれるお話」のほうが好きなのである。ひとたび美談として認識したら批判的な雑音は耳に入れない。やりすごせるうちはやりすごし、ダメな事実を認めざるを得なくなってようやく考えを変える。そのときは「純真な自分を騙した奴は許せない」とばかりにかつて賞賛した「美談」の主役を厳しく非難する。
最近の例で言えば、ボクシングの亀田一家を持ち上げたのも、彼らが誰の目にもごまかしようがないほど醜い正体を表したときバッシングしたのも、美談好きで裏切りを許さない純真で善良な日本人である。
参考記事
漬物倉庫(嘘): 『批判を批判する人』を整理
心温まるエピソードを聞いて笑ったり泣いたりしてカタルシスを得る。
それは何も悪いことじゃないけれど、残念ながら世間で流通する「美談」には少なからずダメなものが混じっている。
「ニセ科学」の真似をして「ニセ美談」と呼ぼうかとも思ったが、それだと「事実を偽っている」という意味になる。私が問題にしたいのは「仮に事実であっても、多くの人が感動しても、それでも問題がある『美談』」だ。
とりあえず「ダメな美談」と呼ぶことにする。
とはいっても、考えてみればたいていの美談にはどこかしらダメな部分がある。
「不良少年が人助けした」とか「事故が起きて勇気ある人が人命救助した」という話は美談だ。だが「いいことしても不良だろ」とか「そもそも事故が起きたのが問題だ」と批判することはできる。あまり厳しく言うと「美談なんて世の中には存在しない」ということになってしまう。それではやりすぎだ。
世の中で美談として通用している物語を批判するのはなかなか難しい。
具体的には「代理出産」とか「募金を集めて海外で心臓移植」とかいった話だ。
「そもそも美談じゃない」と一刀両断にしてしまうと、美談を好む人たちは自分の価値観を全否定されたように感じて反発する。二分法は美談好きと美談嫌いの間の溝を深め対立を先鋭化させる。これではまずい。
「美談」と「ダメな話」のあいだに「ダメな美談」という区分を作れば、美談好きと美談嫌いが落ち着いて話ができる。「美談にもダメな部分がある」「ダメな話だけど美談の部分もある」と認め合えば「どこがダメなのか、どこが美談なのか」語り合えるはずだ。
…と考えてはみたけれど、美談好きな人たちは「ダメな美談」というアイデアを受け入れないような気がしてきた。
「ここはいいけれどここはダメだ」という分析はきっと彼らの好みに合わない。「いい話なんだから細かいことにケチを付けるな」と言いそうだ。彼らは基本的に「気分を悪くする事実」よりも「気持よくしてくれるお話」のほうが好きなのである。ひとたび美談として認識したら批判的な雑音は耳に入れない。やりすごせるうちはやりすごし、ダメな事実を認めざるを得なくなってようやく考えを変える。そのときは「純真な自分を騙した奴は許せない」とばかりにかつて賞賛した「美談」の主役を厳しく非難する。
最近の例で言えば、ボクシングの亀田一家を持ち上げたのも、彼らが誰の目にもごまかしようがないほど醜い正体を表したときバッシングしたのも、美談好きで裏切りを許さない純真で善良な日本人である。
参考記事
漬物倉庫(嘘): 『批判を批判する人』を整理
何かはやりのあらゆる思想・風潮・主張に対する
一般の人の持つべき心構えに通じるような気がする。
どんな美談も、現実として考えれば、良いことばかりでないのは誰にでも想像できる。本来は、自分が気付いていない悪い一面があるのも承知の上で評価するべきもんです。
でも、現実の事例をフィクション感覚で「刺激剤」として捉える。だから、誰かが「美談にもダメな部分がある」と発言することは、「刺激剤」への異物混入であり、承知できない。
こういう自己中心的さは、ある程度は誰にでもあると思うんですよ。私にもある。でも、少し前だと、少なくとも大人なら、感情ばかり先走るのは恥じたものだと思うんですね。ところが今では、「いい話なんだから細かいことにケチを付けるな」の傾向が強くなってきた。それが本当に「細かいこと」なら、その通りなんですが…。
ダメな美談という言葉、まさに今の日本の状況をうまく言い表していますね。心にメモっておきます。