玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

MAXコーヒーの悲しみ

2009年05月06日 | 日々思うことなど
前の記事は変に思いつめすぎて読み返すとわれながら気持ち悪いので、今度はできるだけ気軽に書く(私にとっては決して気軽な問題じゃないけれど)。
私がhagakurekakugoさんに向けて書いた最初の記事は、「批判」や「見下し」ではなくいくつかの倫理的な問題を指摘して「それでいいんですか」と確認することを意図していた。本来の真意を箇条書きにすると、

・ 「死者への敬意」は結構だが、生きている人間のほうが大事ではないのか
・ 酷使様もネトウヨもサヨクも極左も、日本人も外国人も、男も女もトランスジェンダーも「人間」である
・ 「同じ人類と認めたくない」という言葉はカジュアルな人間性否定そのものであり、まさに酷使・ネトウヨ・反人権論者の鏡写し
・ hagakurekakugoさんは(そして彼の記事を支持した人たちは)本当にそれでいいのか?

私としては、hagakurekakugoさんは自分の言うことを理解してくれるだろう、簡単に同意は得られなくても「あなたの意見について考えてみる」といった返事をしてくれるだろう、と期待していた。今にして思えば、MAXコーヒーよりも甘かった。
「あなたの意見は間違っている、受け入れられない」と拒絶するのであればそれはそれでいい。「これでいいんだ、これが自分の信じる正義だ」と明らかにしてくれるならなおいい。だが、「玄倉川という人間はそもそも~」と私の過去の言動を持ち出して反論されると困る。いや、批判されるのはかまわないが、私がhagakurekakugoさんにたずねた事について答えをもらえないまま「そんなことを言うあなただって~」と言われると春なのになんだか悲しくなる。
私がどれほどいけすかない奴だとしても、私の人間性とhagakurekakugoさんの「同じ人類と認めたくない」という言葉の正当性は無関係のはずだ。私自身、hagakurekakugoさんの過去の言動や人間性を問題にしていない。あくまでも「同じ人類と認めたくない」という発想、表現が認められるべきなのかhagakurekakugoさんの考えを確認したかったのだが、残念ながら揉め事になってしまった。まことに人間同士のコミュニケーションは容易ではない。

返答 - 解決不能

hagakurekakugoさんから「返答」を頂いたけれど、それは私が期待したものとは違っていた。
もちろんそのことでhagakurekakugoさんを責めたりはしない。これまで交流のない人にいきなり失礼な指摘をして、思い通りの返答が得られると期待した私こそ虫が良すぎる。むしろ自分の甘さ、思い上がり、コミュニケーション能力欠如に気付かせてくれたhagakurekakugoさんに感謝すべきなのだろう。ここでまた私はジレンマに突き当たる。「対話してくれたことに感謝する」のが正しい行いだと知っているが、実際にそうするつもりはない。凡人の私にとって知ること・言うこと・実行することを統合するのはかくも難しい。


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