アジア・アフリカ首脳会議における小泉総理大臣スピーチについて批判的なもの、肯定的なもの、たくさんのブログを読ませていただいた(ありがとうございます)。だがその中に「実は小泉は謝罪してないよ」という意見はほとんどなかった(全然なかったかも)。ひねくれ者の私は喜んだりちょっぴり淋しかったり。
あのスピーチに謝罪の成分が全く含まれていないとは言わないが、以前のエントリにも書いたようにその分量は全体と比べてごく少ないものだ。ソフトドリンクで言えば「果汁5%」程度である。それなのにほとんどのマスコミもブロガーも「謝罪、謝罪」と大騒ぎしているのがなんとも不思議に思えたのである。私があのスピーチの記事にタイトルをつけるとしたら、
「小泉首相、AA諸国への一層の支援を表明 ~歴史認識は従来を踏襲~」
としただろう。ほとんどの会議の参加国にとって(特にアフリカ諸国)、日本の過去などは割とどうでも良くて「これから日本が何をしてくれるか」こそが重要だったはずだ。
いわゆる「謝罪」、私に言わせれば未来志向への単なる前フリなのだがそれはともかく、「痛切なる反省と心からのお詫び」云々はあの場において必然的なものであったように思える。かんべえ氏が4月23~24日の日記で「これって反日デモがなくても、最初から予定通りの草稿だったんじゃないかという気がする」と言っておられるが私も同感だ。
なにしろバンドン会議50周年記念である。どうしたってスピーチでは50年前を振り返らざるをえない。
そうすると聞くものは誰でもその10年前の戦争のことが気になる。
ではどうするか。
黙っていると「何か隠しているのでは」「後ろ暗いことがあるからだろう」と勘ぐられそうだ。
それなら自国の60年前の戦争を正当化するか。いや、抜本的な歴史認識の変化を国内外の根回しもなくいきなり公言するなど勇気があるというより無茶である。日本国内で大騒ぎになるばかりか、アメリカや中韓以外のアジア諸国からの信用さえ失いかねない。中韓の反応については言うまでもない。
貧しい国や小国が多くを占めるアジア・アフリカ会議の出席国の中で日本は一頭地を抜く大旦那である。恵比須顔でゆったりと鷹揚に構えることが期待されている。そんな場所で空気を読まずに歴史認識を大転換を発表してテーブルをひっくり返すような真似をしたら、それは自分勝手であり野暮天もいいところだ。もしそれが可能であるとしたら、前もって充分な根回しを行い諸外国からの「日本のやった戦争は立派であり恥じることは何もない」という発言(ヨイショ)を大量に集めて、「そこまで言われれば…」という形にするしかないだろう。だが、それをやるにはよほどの政治力と大盤振る舞いが必要であり、その前にまず国内のコンセンサスが必要だ。現時点では不可能である。
とすれば、ここはやはり無難に歴代内閣の歴史認識を踏襲するしかない。それは村山内閣以来、橋本も小渕も森も、そして小泉自身も撤回しようとしなかった(できなかった)村山談話に沿った歴史認識だ。それはやむを得ないことだが、せめて反省とお詫びは最低限にして戦後日本の実績と未来志向を主軸に語ろうとした。小泉スピーチとはそういうものなのだろう。
私は小泉総理がアジア・アフリカ会議でいきなり歴史認識を転換するような「英雄主義的行動」を取らなかったことを評価する。
村山談話がいつまでも政府の歴史認識を縛るものであっていいとは思わないが、総理大臣が海外でいきなりそれをひっくり返すのは害多くして益が少ない。歴史認識を変えるためには地道に人々の意識を動かしていくしかない。日本でも海外でも、説得力ある言葉で偏見と誤解の壁を一つ一つ突き崩していく地道な戦いをしていくほかないだろう。「小泉が一言言えばみんな思い違いに気付く」なんてうまい話は、たぶん無い。
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「謝罪」に心を捉われた人たち
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雪斎の随想録: 二国関係の「呪縛」・続
中川秀直 トゥデイズ アイ
あのスピーチに謝罪の成分が全く含まれていないとは言わないが、以前のエントリにも書いたようにその分量は全体と比べてごく少ないものだ。ソフトドリンクで言えば「果汁5%」程度である。それなのにほとんどのマスコミもブロガーも「謝罪、謝罪」と大騒ぎしているのがなんとも不思議に思えたのである。私があのスピーチの記事にタイトルをつけるとしたら、
「小泉首相、AA諸国への一層の支援を表明 ~歴史認識は従来を踏襲~」
としただろう。ほとんどの会議の参加国にとって(特にアフリカ諸国)、日本の過去などは割とどうでも良くて「これから日本が何をしてくれるか」こそが重要だったはずだ。
いわゆる「謝罪」、私に言わせれば未来志向への単なる前フリなのだがそれはともかく、「痛切なる反省と心からのお詫び」云々はあの場において必然的なものであったように思える。かんべえ氏が4月23~24日の日記で「これって反日デモがなくても、最初から予定通りの草稿だったんじゃないかという気がする」と言っておられるが私も同感だ。
なにしろバンドン会議50周年記念である。どうしたってスピーチでは50年前を振り返らざるをえない。
そうすると聞くものは誰でもその10年前の戦争のことが気になる。
ではどうするか。
黙っていると「何か隠しているのでは」「後ろ暗いことがあるからだろう」と勘ぐられそうだ。
それなら自国の60年前の戦争を正当化するか。いや、抜本的な歴史認識の変化を国内外の根回しもなくいきなり公言するなど勇気があるというより無茶である。日本国内で大騒ぎになるばかりか、アメリカや中韓以外のアジア諸国からの信用さえ失いかねない。中韓の反応については言うまでもない。
貧しい国や小国が多くを占めるアジア・アフリカ会議の出席国の中で日本は一頭地を抜く大旦那である。恵比須顔でゆったりと鷹揚に構えることが期待されている。そんな場所で空気を読まずに歴史認識を大転換を発表してテーブルをひっくり返すような真似をしたら、それは自分勝手であり野暮天もいいところだ。もしそれが可能であるとしたら、前もって充分な根回しを行い諸外国からの「日本のやった戦争は立派であり恥じることは何もない」という発言(ヨイショ)を大量に集めて、「そこまで言われれば…」という形にするしかないだろう。だが、それをやるにはよほどの政治力と大盤振る舞いが必要であり、その前にまず国内のコンセンサスが必要だ。現時点では不可能である。
とすれば、ここはやはり無難に歴代内閣の歴史認識を踏襲するしかない。それは村山内閣以来、橋本も小渕も森も、そして小泉自身も撤回しようとしなかった(できなかった)村山談話に沿った歴史認識だ。それはやむを得ないことだが、せめて反省とお詫びは最低限にして戦後日本の実績と未来志向を主軸に語ろうとした。小泉スピーチとはそういうものなのだろう。
私は小泉総理がアジア・アフリカ会議でいきなり歴史認識を転換するような「英雄主義的行動」を取らなかったことを評価する。
村山談話がいつまでも政府の歴史認識を縛るものであっていいとは思わないが、総理大臣が海外でいきなりそれをひっくり返すのは害多くして益が少ない。歴史認識を変えるためには地道に人々の意識を動かしていくしかない。日本でも海外でも、説得力ある言葉で偏見と誤解の壁を一つ一つ突き崩していく地道な戦いをしていくほかないだろう。「小泉が一言言えばみんな思い違いに気付く」なんてうまい話は、たぶん無い。
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