玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

美輪明宏さんの言葉に力を感じる

2005年04月11日 | 日々思うことなど
情熱大陸:美輪明宏

美輪明宏さんが最近は講演で大人気なのだそうだ。
以前から只者ではないと思っていたので(威張ることじゃない、誰でも見れば分かる)なんかうれしい。
この番組で彼が(彼女が?)「日本で初めて自らの同性愛を公言した芸能人」「日本初のシンガーソングライター」であることを知った。「トリビアの泉」ならへぇーボタンを10回くらい押してしまうところだが、美輪さんのファンならおそらく当然の知識なのであろう。
それにしても、美輪さんの言葉にはいちいち力がある。別に青筋立てて力説するわけではないが、普通に話す言葉に彼ならではの経験や人生観があふれている。取り立てて奇矯な主張をするわけではないが、それでも彼自身の言葉としての色があり匂いがある。中島義道が「本当の言葉」を話す人として褒めていたが、なるほどその通りだ。

以前からそうなのだが、ブログを始めてからますます「常識」や「正論」を声高に語る人たちに対して興味がなくなった。そういう人たちの存在意義を否定するつもりはない、彼らがいなければおそらく健全な社会は成り立たないだろう。だが、私にとっては全くつまらないのだ。誰もが言うようなことを得意然として(偏見です)言うことに何の意味がある?と思ってしまうのだ。
やはり、何かを語るのであれば自分で考えた自分の言葉を語るほうがいい。結果としてそれが「正論」や「常識」に沿うものであったとしても、人の受け売りや常識の鵜呑みよりはずっと面白い。
だがちょっと待てよ、と私は思う。「受け売り」や「鵜呑み」をしていると見られている人たちも、きっと自分ではちゃんと考えた末の言葉だと思っているんだろうな。私もそうでないとは言えない、いや多分そうなのだろう。それでは美輪さんと俗論家との違いはいったい何なのか?美輪さんのように特別な人生を送らなければ「自分の言葉」を語ることはできないのかといえば、多分違うだろう。普通の人たちの間にも、気の利いたことを言っているつもりでまるで詰まらないことしか言えない人もいれば、平凡な言葉に鮮やかな個性を感じさせる人もいる。それは頭の良し悪しや社会的地位にはほとんど関係がないようだ。
この疑問の答えは今の私には見つからない。私にできることは、自分の言葉を語る人の声を多く聞き、俗論家の声をなるべく聞かないようにすることくらいだ。質屋が店員に鑑定眼を付けさせる教育法は「本物だけを見せ、贋物は見せない」のだそうである。本物だけを見続けると贋物に対する拒否反応が育まれるらしい。私もなるべく本物の言葉だけを聴くことにしよう。だが、何が本物であり何が贋物なのか、言論や思想の世界には誰もが認める鑑定書などない。自分の責任において判別しなければならない、それが最近よく言われるところの「リテラシー」なのだろう。リテラシーを声高に言う人の言葉自体がなんだか嘘臭かったりして、やはり世の中は複雑で面白い。

結論は特にないが、美輪さんの真黄色な髪の色はトウモロコシみたいで変だと思う。輝くような金髪、あるいは美しい銀髪にしてください。

(追記)お勧めリンク
不倒城: 「客観」と「主観」の戦闘力
議論において「客観的という言葉を使いたくなった時は、自信はないけど強く主張したい時」だということを認識する必要がある、ということがまずある。

「客観的」を使いたがる人は「常識」や「正論」も好きな人じゃないかという気がする。どちらもあまり話が面白くない。