黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「歴史=事実」が蔑ろにされている!

2014-06-11 05:15:16 | 仕事
 どんな理由があってこのように「急ぐ」のか、全く理解できないが、各界各層から様々な「反対」意見が表明され、その「反対」の意思は各種の世論調査にも反映されているにもかかわらず、いよいよ安倍晋三「極右」首相に率いられた自民党のごり押しで、集団的自衛権行使容認が「閣議決定」されそうである。
 憲法に明記してある「戦争を拒絶してきた国」から「戦争をする国」へと、いとも簡単に「閣議決定」によって「転換」させられようとしている今日の状況、もうこれは「平和の党」を標榜する「与党」公明党に頼らざるを得ないところまで追いつめられているが、僕が不思議に思うのは、事ここに至っても自民党「良識派」の動きが全く伝わってこず、衆参で多数派を占める自民党議員の「全て」が安倍「極右」首相に同調・追随しているのか、ということである。
 アジア全域で2000万人、日本人の犠牲者は民間人を含めて350万人の犠牲者を生み出したアジア太平洋戦争の「反省」を踏まえて「平和と民主主義」を国民のコンセンサスとして出発した戦後社会、安倍首相は第一次安倍政権の時から「戦後レジュームからの脱却」を唱えていたが、「集団的自衛権の行使容認」というのは、明らかに「戦前=戦争のできる国」回帰であり、そんなアナクロニズム的思想を「戦後教育=平和教育」で育った自民党議員たちは、全員「良し」としているのだろうか?
 多くの国会議員が、ここで安倍首相(とその取り巻きたち)に「反旗」を翻したら、次の選挙で公認をもらえないと怖れているのかも知れないが、日本国憲法の一つの柱「平和主義」が骨抜きにされるという「歴史的転換点」にあって、自分の目先の「利益=自民党議員であり続ける」よりは、国民全体、あるいは日本国の在り方を考えて、安倍首相に「反旗」を翻して欲しい、と思う。「反対」が多数を占める各種世論調査の結果を考えれば、集団的自衛権行使容認に「反対」を表明した方が、もしかしたら次の選挙で当選する可能性が高いのではないかと思うが、そんなことを考える僕は「甘い」のか。
 斯様に、集団的自衛権行使容認に関しては「藁にもすがる」思いでいるのだが、そんな僕の心境に拍車を掛けたのが、横浜の中学3年生が長崎への修学旅行において、ナガサキの「語り部=被爆者」に対して、「死に損ないのくそじじい」と暴言を吐いたというニュースである。
 長崎への修学旅行ということで、平和公園や原爆資料館を訪れ、「ナガサキの被爆者=語り部」から長崎における原爆被害の状況や平和の尊うさについての話を聞くということを「計画」していたと思われ、当然「事前学習(平和学習も含む)」も行われたはずだと思うのだが、そのような「平和学習」を受けたはずの生徒たちから、被学者=語り部に対して「死に損ないのくそじじい」という言葉が発せられたという事実、この事実が示唆するのは二つのことである。
 一つは、被爆者=語り部に「死に損ないのくそじじい」というような「暴言」を平気で吐く中学生こそ、まさに安倍「極右」首相が集団的自衛権の行使容認をごり押しで「閣議決定」させようとする思想・社会状況の反映だということである。つまり、そんな安倍首相率いる内閣に「50%強」の支持率を与えている「経済」を最優先させる思想=金権主義に囚われている日本社会全体の状況が、件の中学生たちを生み出している、ということである
 このことは、僕が繰り返し言ってきている「ニヒリスト安倍晋三」と同じように、この社会全体がニヒリズムに覆われていることを意味し、流行語の「今でしょう」ではないが、「現在(いま)」しか考えていない人々が多くなっているということである。僕は安倍「極右」内閣に支持を表明する人々に問いたいのは、傲慢に聞こえるかも知れないが、あなたはあなたの息子や娘、あるいは孫を「戦場」に送り出したいのですか、集団的自衛権の行使を認めるということはそういうことですよ、分かっていますよね、ということである。
 二つめ、それは日本の戦後の「平和教育」が如何に形骸化したものになってしまっているか、ということである。もちろん、東京都の教育をすっかり「右傾化」した石原慎太郎元知事の例を出すまでもなく、アジア太平洋戦争への「反省」に基づく「平和学習」を「偏向教育」の名の下に弾圧して来た日本の教育行政の「結果」と言ってもいいのだが、件の中学生による暴言はまさに歴史=事実を蔑ろにする風潮の反映に他ならない。これは、日本の教育界において、保守派からの攻撃が激しいからという理由で、「近現代史教育」がきちんと行われていないこと、また受験教育の弊害とも言える高校における「日本史の未習」問題と深く関係してと思うが、いずれにしろ、「歴史=事実から遠ざかってところで行われたであろう(と推測する)形式的な「事前学習=平和学習」の結果が、件の中学生の暴言を生み出したのである。
 じずれにしろ、「絶望」的にならざるを得ないが、繰り返し言っているように「絶望」ばかりしていてもどうにもならない。ごまめの歯ぎしりかも知れないが、できるところから諸々の「右傾化」に反意を表明していこう、と最近は特に強く思っている。