黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

帰国して1週間――「日本」は何処へ行くのか?

2012-12-08 11:35:44 | 近況
 毎日はそれなりに忙しかったのだが、全体としては「のんびり」していた武漢での3ヶ月の生活を一応終えて、衆議院選が熱を帯びてきた日本に帰ってきて1週間、溜まっていた郵便物の処理(帰国の挨拶を兼ねた手紙を10通書き、その他にもメールで連絡をし)と、武漢の学生たちに約束していた「資料・参考文献(修論用)」のコピーと該当書籍や雑誌の探索、そして家人が留守中に世話になった人への挨拶、等々で慌ただしい時を過ごしてきたのだが、それでもどこか「浦島太郎」の心境が未だ抜けない状況のまま今日まで過ごしてきたが、毎日配達される新聞を読み、テレビのニュースを見るたびに、武漢に滞在していたときと同じ感覚・目線で日本の現在(在り様)を眺めている自分がいることに気付き、はっとさせられることがある。
 特に、「憲法改正」(主に第9条の「平和条項」、つまり「いかなる戦力も持たない」の改正)を前面に押し出して選挙戦を展開している自民党や日本維新の会、あるいは新党改革、国民新党などがかなりの支持を得ていること、それは各種の世論調査など「自民党が単独で過半数に迫る勢い」というような結果が如実に物語っているのだが、そのような「ネオ・ナショナリズム」が台頭している現実を目の当たりにして、本当にこんな「危うい」状況でいいのか、と思わざるを得ない。確かに、「政権交代」を成し遂げた民主党の3年間は、無惨としか言いようのないものであったが、それにしても自衛隊を「国防軍」とし、何かことが起これば(アメリカ軍がどこかの国を「テロ国家」と名指して攻撃した時、などに)アメリカ軍と共に作戦を遂行できる(戦争ができる)「集団的自衛権」を認めようとする自民党に、「過半数の支持」を寄せる日本国民とは、一体どのような存在なのか、と思わざるを得ない。
 フクシマに関しても同じである。フクシマによって原発は人類と共存できない代物であると理解したはずなのに、「原発容認・推進」をする自民党や日本維新の会に支持を寄せる日本国民、何を考えているのだろうか、と不思議でならない。あれだけの被害をもたらした原発事故(フクシマ)は、もうすでに僕らの現在と未来とは関係ない「過去の出来事」だったというのだろうか。原発を容認する自民党や日本維新の会を支持する人たちに子供や孫たちはいないのだろうか、と思ってしまう。「現在(いま)」がよければそれでいいのか、と思わず悪態をつきたくなってしまうが、どうも「現在がよければそれでいい」という考え方にはニヒリズムが横たわっているようにしか思えない。
 先のアジア太平洋戦争下を思い出して欲しいのだが、「ナショナリズム」の高揚と「ニヒリズム」は表裏一体の関係にあり、ナショナリズムが叫ばれている時代は、まさにそのような状態へ「異議申し立て」ができないような、石川啄木が言う「時代閉塞の現状」にあるということであって、人々は時代の底を流れる「ニヒリズム」に気付きながらも「大勢」に従ってしまうという、まさに現代が「個」の尊厳を基にした「民主主義」が危機的な状況にあることの証拠なのだろう、と思う。
 「核武装論」を唱える石原慎太郎と「権力」を手に入れることに汲々としている橋下徹が「野合」した日本維新の会が「第3極」の中で一番人気を博している現象も、また不思議と言わなければならない。どのような勢力に入れ知恵されたのか知らないが、「尖閣列島」の購入案をアメリカで発してに中間系に「緊張」をもたらし、国民の中に根強い「アジア蔑視」(差別)に便乗する形で、この国を「危うい」方向に導こうとする石原・橋下連合、どうもこの国はとんでもない方向に進もうとしているのではないか、と思わざるを得ない。
 武漢に滞在している間に、2年前に約束していた北海道(札幌・石狩市)へ講演のために行ったのだが、「農業大国」北海道の人々がTPPに対してどれほどの危機感を抱いているか、いろいろな人から話を聞くことができた。一部の「大規模農家」にとってTPPなどは何でもないことかも知れないが、中小農家にとってTPP参加は「農業を止めろ」というのに等しく、国の根幹である「食料」が危うい状況になること、これは火を見るよりも明らかである。にもかかわらず、TPP問題もなおざりにされたまま、選挙は進んでいく。
 こんなことを書くと、またぞろ「左翼」呼ばわりされるのだろうと思うが、「左翼」でも何でも結構、この国が「戦争をしない国」であり続けることに対して危機感を抱いているのは僕だけではないだろうことを信じて、しばらく様子を見たいと思う。