「安保法制」=「戦争法案」をめぐり国会の審議や党首討論を聞いていて、安倍首相をはじめとして菅官房長官、高村正彦副総裁、北側一雄副代表(「安保法制」の与党協議で代表を務めた高村と北側が共に弁護士資格を持っていることを知って、驚いた人が多いのではないか)ら安倍自公「右翼」政権の要人たちが、日本国憲法の条文も、また最高裁の判決文も「まとも=正確」に読めない人たちだということを知って、今更ながらに「とんでもない人たち」に私たちは政権を委ねてしまったな、と思わずにはいられないのだが、自民党と連立与党を組んでいる公明党が結党時の理念を体現する「平和と福祉の党」の看板をかなぐり捨てて、ひたすら「権力」に擦り寄っている理由が不可解であるのは今は措き、下村文科省大臣の「国立大学に<国歌斉唱・国旗掲揚>を要請」というニュースに接し、今更ながらに安倍自公政権が「極右(ファッショ)政権」である、と思わざるを得なかった。
もう20年以上前になるが、石原慎太郎が東京都知事になったとき、「国家・国旗」法が国会で制定されたときの「付帯決議」(=個人の思想・信条を考慮して、「強制」はしない)を無視して、東京都が管轄する少・中・高校において、「日の丸・君が代」を強制し、従わない教員たちを「処分」してきたという歴史を私たちは持つ。そのことについて、先頃も最高裁は「処分無効」の判決が出たばかりだというのに、「安保法制」(集団的自衛権行使容認)は「違憲」だという憲法学者(その意見に賛同する学者は、230人を超えた。「合憲」だとする学者は、10名しかいない)の違憲に逆らって、当時は想定さえしなかった1957年の最高裁「砂川判決」を持ち出してまで、「集団的自衛家行使容認」は合憲とする安倍首相らの論理と同じように、国立大学に「国歌斉唱・国旗掲揚」を要請する。
下村文科相は、元々安倍首相と近い「右翼思想」の持ち主であることから、文科相になったという経緯を持つ人物であるが、戦前(戦中)において「日の丸・君が代」がどのような役割を果たしたか、つまり「日の丸・君が代」が「戦争推進」に大きな役割を果たしたが故に、長い間「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」とすることに対して激しい議論が戦わされ、その果てに「国歌・国旗」法が制定されるという経緯があったのだが、そのような「賛否」が相半ばするような議論があたかもなかったかのように、「学問の自由」の砦とも言っていい大学に、「血塗られた日の丸・君が代」を強制する。
「歴史」を無視するのは、歴代自民党のお家芸であるが、ここまで権力が学問の世界に介入する、自民党はどんな国家建設を目指しているのだろうか。この下村文科相の「国立大学へ国旗掲揚・国歌斉唱の要請」が物語っているのは、「安保法制」論議における安倍首相らと同じ「戦争のできる国」を目指す論理と連動するもので、いかに安倍自公「極右」政権がファッショ(ネオ・ナショナリストの独裁的政治)であるかを如実に物語るものである。
これは、先頃国会を通過した「労働者派遣法」の改正と同じ思想によるもので、自民党という政党が決して「弱者」の味方ではなく、「強者(財界や高級官僚、政治家)」の利益しか考えない「政治屋」の集団であることを、白日の下に知らしめるものである。
安倍自公「極右)政権の「暴走」が止まらない。何とかしなければ、と苛立つが募る。
もう20年以上前になるが、石原慎太郎が東京都知事になったとき、「国家・国旗」法が国会で制定されたときの「付帯決議」(=個人の思想・信条を考慮して、「強制」はしない)を無視して、東京都が管轄する少・中・高校において、「日の丸・君が代」を強制し、従わない教員たちを「処分」してきたという歴史を私たちは持つ。そのことについて、先頃も最高裁は「処分無効」の判決が出たばかりだというのに、「安保法制」(集団的自衛権行使容認)は「違憲」だという憲法学者(その意見に賛同する学者は、230人を超えた。「合憲」だとする学者は、10名しかいない)の違憲に逆らって、当時は想定さえしなかった1957年の最高裁「砂川判決」を持ち出してまで、「集団的自衛家行使容認」は合憲とする安倍首相らの論理と同じように、国立大学に「国歌斉唱・国旗掲揚」を要請する。
下村文科相は、元々安倍首相と近い「右翼思想」の持ち主であることから、文科相になったという経緯を持つ人物であるが、戦前(戦中)において「日の丸・君が代」がどのような役割を果たしたか、つまり「日の丸・君が代」が「戦争推進」に大きな役割を果たしたが故に、長い間「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」とすることに対して激しい議論が戦わされ、その果てに「国歌・国旗」法が制定されるという経緯があったのだが、そのような「賛否」が相半ばするような議論があたかもなかったかのように、「学問の自由」の砦とも言っていい大学に、「血塗られた日の丸・君が代」を強制する。
「歴史」を無視するのは、歴代自民党のお家芸であるが、ここまで権力が学問の世界に介入する、自民党はどんな国家建設を目指しているのだろうか。この下村文科相の「国立大学へ国旗掲揚・国歌斉唱の要請」が物語っているのは、「安保法制」論議における安倍首相らと同じ「戦争のできる国」を目指す論理と連動するもので、いかに安倍自公「極右」政権がファッショ(ネオ・ナショナリストの独裁的政治)であるかを如実に物語るものである。
これは、先頃国会を通過した「労働者派遣法」の改正と同じ思想によるもので、自民党という政党が決して「弱者」の味方ではなく、「強者(財界や高級官僚、政治家)」の利益しか考えない「政治屋」の集団であることを、白日の下に知らしめるものである。
安倍自公「極右)政権の「暴走」が止まらない。何とかしなければ、と苛立つが募る。