忘れていたわけではないのだが、前回(昨日)のこの欄に書いた「吉本隆明批判・再度」をざっと読み直していて、しばらく前に気付いたことを書き忘れていることに気付いた。それは、吉本の「原発容認論=科学神話信奉」には、核の被害者(死者やヒバクシャ)が視野に入っておらず、現体制(資本主義体制)がそのような被害者=犠牲者をブルトーザーのごとく押し潰して進んでいくことを容認(肯定)しており、そこに論理的特徴がある、ということである。
かつて、吉本は大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(六五年)がベストセラーになったとき、放射能被害の特殊性(一瞬にして戦闘員も非戦闘員も殺戮する一方で、生き残った人も「被爆者」として苦悩の末に死を迎えるという特殊性)を全く理解せず、「ヒロシマ」の死者も他の戦争における死者も、交通事故の死者も、「死」ということで全く等価であるという「無知」をさらけ出した乱暴な論理で大江を批判したことがあったが――それでもこの時は、核の犠牲者に対して間違った認識ということはあったが、まだ「死者」を問題にしたということでは、現在のように「科学の進歩」にとって核の犠牲者など問題ない、とするような態度とは違っていた――、「放射能の被害は制御できない」ということに関して真逆な「科学神話」に呪縛された吉本の「核=核兵器・原発」認識という点では、昔も今も全く変わっていない。
これは、つい先日芥川賞の選考委員を辞任したということで話題を集めた石原慎太郎の、東日本大震災が起こった際の「天罰」発言――地震と津波によって大きな被害を受けた人々のことを全く考慮しない、文字通り「罰当たり」な発言だったが、本人があわてて「訂正・謝罪」したからというわけではないだろうが、マスコミが以後全く石原の件の発言の「非人間性」「犯罪性」を追求しないのはどういうことなのか。石原の「確信犯」的発言は彼の「本音」であり、そのような考えを持つ人間がこれまで芥川賞の選考委員を務めていたこと自体が、現代文学の「衰退」を象徴しているのではないか、と僕は思ってきた――と同じで、「死者=被害者・避難民」への想像力を欠如させた「文学者」(と僕は思っていないが)にあるまじき姿勢に他ならない。
その意味で、現体制(資本主義体制)を「賛美」するという点で、石原慎太郎と吉本隆明は「いいコンビ」である。少なくとも、少数派であることを辞さず、吉本が『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』で、(たとえ「間違い」や「思いこみ」が多くあったとしても)「想像力」について真剣に取り組んだ時代を知る者にとって、原子力産業から多額の資金が提供されて刊行されてきた「原子力文化」に、いくらインタビューのギャラが出たのかは知らないが、原発を容認する発言を行い(原子力産業に媚びを売り<しっぽを振っって>)、それでいて「知の巨人」などといわれてやに下がっている吉本は、一体何を考えている化、と思わざるを得ない。
「転向文学」の白眉といわれる中野重治の『村の家』には、中野とおぼしき主人公の勉次が父親から「いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。(転向の言い訳をするのは)いままで書いたものを殺すだけなんじゃ」と言われ、勉次が「それでも書いていきます」と言う場面があるが、吉本の老体にむち打って「原発容認」を繰り返し発言する姿を見ていると、「何を今更」と思うと同時に、貴方のこれまでの文学的発言や政治的発言が「無」になってしまうのではないか、とも思わざるを得ない。
特に、吉本の出発が先のアジア太平洋戦争における「戦争(戦時下)体験」であることを思うと、「原発用に」発言は、余りにも無惨としか言いようがない。というようなことを強く思ったのは、昨日も書いたようにこのところ集中して「大震災」や「フクシマ」関連の本を読んでいるが、その中に「死者=命」(この中に、放射能によって緩慢な死を強いられるフクシマの被曝者も含まれている)への想像力を基点に自分に何ができるかを真摯に問いかける池澤夏樹の『春を恨んだりはしない』(一一年九月一一日 中央公論新社刊)があったことを思い出したからである。この池澤の本に書かれていることと、「死者」(=人間の命・存在)に関する想像力を欠如させた吉本隆明(および石原慎太郎)と、いかに「大きな違い」があるか、僕らはこの「違い」をかみしめながら、「フクシマ」や「東日本大震災」に向き合っていかなければならないのではないか。
文学がまさに「人間の生き方=いのち」の問題を問うのと同じように、「核」について考えることは、人間の生き方(=いのち)を問うことであり、そのような意味において「文学」と「フクシマ=核」問題は交差するということ、このことを肝に銘じて、これまでもそうであったが、これからもずっと「フクシマ=核」と向き合っていきたいと思っている。
<追加>ネットでも署名が可能です。「原発止めろ、一〇〇〇万人署名」について、ご協力を!
かつて、吉本は大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』(六五年)がベストセラーになったとき、放射能被害の特殊性(一瞬にして戦闘員も非戦闘員も殺戮する一方で、生き残った人も「被爆者」として苦悩の末に死を迎えるという特殊性)を全く理解せず、「ヒロシマ」の死者も他の戦争における死者も、交通事故の死者も、「死」ということで全く等価であるという「無知」をさらけ出した乱暴な論理で大江を批判したことがあったが――それでもこの時は、核の犠牲者に対して間違った認識ということはあったが、まだ「死者」を問題にしたということでは、現在のように「科学の進歩」にとって核の犠牲者など問題ない、とするような態度とは違っていた――、「放射能の被害は制御できない」ということに関して真逆な「科学神話」に呪縛された吉本の「核=核兵器・原発」認識という点では、昔も今も全く変わっていない。
これは、つい先日芥川賞の選考委員を辞任したということで話題を集めた石原慎太郎の、東日本大震災が起こった際の「天罰」発言――地震と津波によって大きな被害を受けた人々のことを全く考慮しない、文字通り「罰当たり」な発言だったが、本人があわてて「訂正・謝罪」したからというわけではないだろうが、マスコミが以後全く石原の件の発言の「非人間性」「犯罪性」を追求しないのはどういうことなのか。石原の「確信犯」的発言は彼の「本音」であり、そのような考えを持つ人間がこれまで芥川賞の選考委員を務めていたこと自体が、現代文学の「衰退」を象徴しているのではないか、と僕は思ってきた――と同じで、「死者=被害者・避難民」への想像力を欠如させた「文学者」(と僕は思っていないが)にあるまじき姿勢に他ならない。
その意味で、現体制(資本主義体制)を「賛美」するという点で、石原慎太郎と吉本隆明は「いいコンビ」である。少なくとも、少数派であることを辞さず、吉本が『言語にとって美とは何か』や『共同幻想論』で、(たとえ「間違い」や「思いこみ」が多くあったとしても)「想像力」について真剣に取り組んだ時代を知る者にとって、原子力産業から多額の資金が提供されて刊行されてきた「原子力文化」に、いくらインタビューのギャラが出たのかは知らないが、原発を容認する発言を行い(原子力産業に媚びを売り<しっぽを振っって>)、それでいて「知の巨人」などといわれてやに下がっている吉本は、一体何を考えている化、と思わざるを得ない。
「転向文学」の白眉といわれる中野重治の『村の家』には、中野とおぼしき主人公の勉次が父親から「いままで書いたものを生かしたけれや筆ア捨ててしまえ。(転向の言い訳をするのは)いままで書いたものを殺すだけなんじゃ」と言われ、勉次が「それでも書いていきます」と言う場面があるが、吉本の老体にむち打って「原発容認」を繰り返し発言する姿を見ていると、「何を今更」と思うと同時に、貴方のこれまでの文学的発言や政治的発言が「無」になってしまうのではないか、とも思わざるを得ない。
特に、吉本の出発が先のアジア太平洋戦争における「戦争(戦時下)体験」であることを思うと、「原発用に」発言は、余りにも無惨としか言いようがない。というようなことを強く思ったのは、昨日も書いたようにこのところ集中して「大震災」や「フクシマ」関連の本を読んでいるが、その中に「死者=命」(この中に、放射能によって緩慢な死を強いられるフクシマの被曝者も含まれている)への想像力を基点に自分に何ができるかを真摯に問いかける池澤夏樹の『春を恨んだりはしない』(一一年九月一一日 中央公論新社刊)があったことを思い出したからである。この池澤の本に書かれていることと、「死者」(=人間の命・存在)に関する想像力を欠如させた吉本隆明(および石原慎太郎)と、いかに「大きな違い」があるか、僕らはこの「違い」をかみしめながら、「フクシマ」や「東日本大震災」に向き合っていかなければならないのではないか。
文学がまさに「人間の生き方=いのち」の問題を問うのと同じように、「核」について考えることは、人間の生き方(=いのち)を問うことであり、そのような意味において「文学」と「フクシマ=核」問題は交差するということ、このことを肝に銘じて、これまでもそうであったが、これからもずっと「フクシマ=核」と向き合っていきたいと思っている。
<追加>ネットでも署名が可能です。「原発止めろ、一〇〇〇万人署名」について、ご協力を!