今日(15日)で2012年1月も半分が過ぎた。前回この欄に記事を書いたのが5日だから、10日間ブログから離れていたことになるが、この間何もしていなかったわけではなく、実は『立松和平前小説』(全30巻)の第2期の最後となる第20巻の「解説・解題」を書いていたのである。現在『全小説』は第15巻の「越境者たち」までが出ているから、5巻分前倒しで「解説・解題」を書いたことになるが、それは前にも書いたように4月、5月とアメリカ・シアトルのワシントン大学に行かなければならないし、9月からはいつになるか詳細は分からないが中国(武漢・華中師範大学)に何ヶ月か行かなければならないから、『全小説』の刊行をスムーズに行うために他ならない。
昨年暮れに版元に渡した第19巻の「解説・解題」は、執筆に4日しかかからなかったことを考えると、第20巻に10日間もかかったというのは、正月で客が来たりということはあっても、立松の作品を繰り返し読んできた僕には少し異例のことに属する。理由は、第20巻に収録する予定の『沈黙都市』(93年刊)――立松の作品としては珍しく「SF]仕立ての長編で、1991年の12月から256回にわたって神戸新聞、信濃毎日新聞、高知新聞、など7紙に同時に連載された作品――を読み直し、この長編が立松の作品史から見ても、また戦後文学史から見ても、非常に重要な位置にある問題作であることに気付き、件の『沈黙都市』を精読しただけでなく、執筆に必要と思われる関連資料・書籍を漁り、読み直したりしていたために、時間だけがいたずらに過ぎていったのである。
『沈黙都市』の重要性・問題性についての詳細は、『全小説』第20巻の「解説・解題」を読んでもらうしかないのだが、「事実」として何度か「盗作・盗用問題」で世間を騒がせた立松和平の文学が、実はそのような作家が「意図しないまま」犯してしまった「過失・瑕疵」が存在するとしても、戦後文学史にとって、また現代文学の世界にあって、決して疎かにしてはならない内実を持つものであったことを、『沈黙都市』1編は証明するものに他ならず、そのことの説明に時間を食ってしまったのである。
では、『沈黙都市』はどのような点で「すごい」小説なのか。理由はいくつかあるのだが、まず指摘しておきたいのは、立松がこの長編で描き出した「逆ユートピア(ディストピア)」が、コンピュータの存在に依存しグローバル化した現代のようなインターネット世界の「未来」は決して「バラ色」ではなく、昨年の「3・11」及び「フクシマ」が如実に物語るように、もしかしたら人類の「未来」は「死」に向かって大行進を始めているのではないか、と警告を発しているということである。『沈黙都市』のラストは、砂漠化してあらゆる生物が死滅した「トーキョー」ととその周辺(日本全体)の風景を眺めながら、主人公とその恋人が砂漠の中を歩き去る、というものである。
このようなSF作品は、従来(及び、その後)の立松作品には決してみられない物であり、何故そのような作品が「突然変異」のように生まれたのか、その僕なりの探求に時間がかかったのだが、『沈黙都市』がはらんでいた作者立松和平の「絶望」が、立松の作家生活において最大の危機であった「『光の雨』盗作事件」の遠因になっていたのではないか、そしてまたそれは立松が「宗教(仏教)」に傾倒していく理由になったのではないか、というのが僕の仮説であり、『全小説』第20巻の「解説・解題」のポイントでもあった。
また、その「逆ユートピア」世界の描き方から、井上ひさしの『吉里吉里人』(81年)や大江健三郎の『同時代ゲーム』(79年)などから『宙返り』(99年)に至る「根拠地」建設の可能性を追求した「ユートピア」小説の歴史に連なる作品と言うこともでき、その意味でもこの長編は大変重要な内容を持つものだったのである。
と思いながら、これは大いに反省せざるを得なかったのだが、そのように重要な位置を占めるこの『沈黙都市』について、立松について2冊の本(『立松和平論』と『立松和平伝説』)を書いている僕も含めて、誰もがその重要性について指摘してこなかったという事実に愕然としたということがある。もちろん、この長編が刊行された直後に「『光の雨』盗作事件」が起こり、その喧噪の中で『地目都市』は流し路にされるという「不運」に見舞われたということもあるのだが、僕としては、(たぶん、内心では「自信たっぷり」であったはずの)立松和平に、この長編の受容性・問題性について伝えられなかったこと、これについては慚愧に堪えない。「『光の雨』盗作事件』」は「多忙」が招いた自業自得的な事件であったが、もし仮にこの「『光の雨』盗作事件」が起こらなかったら、立松の進むべき方向は今僕らが目にするのと違ったものになっていたのではないかと思うと、返す返すも残念でならないのだが、立松の文学に興味・関心のある人は、どこかで『沈黙都市』及び僕の「解説・解題」を読んでもらいたいと思う。立松の文学にこれまでとは違う印象を持つはずである。
以上が10日間このブログから離れていた理由を書いたのだが、世界の情勢も同じだが、日本の野田政権の体たらく(および、野党のどうしようも無さ)、どうにかならないかな、と毎日テレビのニュースに接し、新聞を読むたびに思ってきた。その国の政治は国民の成長度に見合った物しか実現しないといった内容のことを言ったのは誰だったか忘れたが、政府とマスコミが一体となって「フクシマ」を忘れようとしている(「収束した」などと戯言を言って)現実を見ると、本当にやりきれなくなる。その証拠に、大江さんや辻井喬さん、蒲田慧さんたちが一生懸命になっている「脱原発 1000万人署名活動」も東京地区では、「脱原発」を国民投票に掛けるために必要な数にまだ不十分だという。僕自身は以前にインターネットで署名済みなのだが、先頃は署名用紙をダウンロードして知り合いに署名をお願いしている。
もし、「脱原発」に賛同する人がいたら、もしかしたら脱原発の「民意」を示すここが正念場かも知れない。ネット署名は簡単だし、署名用紙はすぐにダウンロードできるから、2月28日の最終締め切りまで、「庶民」の底力を見せてやるのもいいかもしれない。
ということです。
昨年暮れに版元に渡した第19巻の「解説・解題」は、執筆に4日しかかからなかったことを考えると、第20巻に10日間もかかったというのは、正月で客が来たりということはあっても、立松の作品を繰り返し読んできた僕には少し異例のことに属する。理由は、第20巻に収録する予定の『沈黙都市』(93年刊)――立松の作品としては珍しく「SF]仕立ての長編で、1991年の12月から256回にわたって神戸新聞、信濃毎日新聞、高知新聞、など7紙に同時に連載された作品――を読み直し、この長編が立松の作品史から見ても、また戦後文学史から見ても、非常に重要な位置にある問題作であることに気付き、件の『沈黙都市』を精読しただけでなく、執筆に必要と思われる関連資料・書籍を漁り、読み直したりしていたために、時間だけがいたずらに過ぎていったのである。
『沈黙都市』の重要性・問題性についての詳細は、『全小説』第20巻の「解説・解題」を読んでもらうしかないのだが、「事実」として何度か「盗作・盗用問題」で世間を騒がせた立松和平の文学が、実はそのような作家が「意図しないまま」犯してしまった「過失・瑕疵」が存在するとしても、戦後文学史にとって、また現代文学の世界にあって、決して疎かにしてはならない内実を持つものであったことを、『沈黙都市』1編は証明するものに他ならず、そのことの説明に時間を食ってしまったのである。
では、『沈黙都市』はどのような点で「すごい」小説なのか。理由はいくつかあるのだが、まず指摘しておきたいのは、立松がこの長編で描き出した「逆ユートピア(ディストピア)」が、コンピュータの存在に依存しグローバル化した現代のようなインターネット世界の「未来」は決して「バラ色」ではなく、昨年の「3・11」及び「フクシマ」が如実に物語るように、もしかしたら人類の「未来」は「死」に向かって大行進を始めているのではないか、と警告を発しているということである。『沈黙都市』のラストは、砂漠化してあらゆる生物が死滅した「トーキョー」ととその周辺(日本全体)の風景を眺めながら、主人公とその恋人が砂漠の中を歩き去る、というものである。
このようなSF作品は、従来(及び、その後)の立松作品には決してみられない物であり、何故そのような作品が「突然変異」のように生まれたのか、その僕なりの探求に時間がかかったのだが、『沈黙都市』がはらんでいた作者立松和平の「絶望」が、立松の作家生活において最大の危機であった「『光の雨』盗作事件」の遠因になっていたのではないか、そしてまたそれは立松が「宗教(仏教)」に傾倒していく理由になったのではないか、というのが僕の仮説であり、『全小説』第20巻の「解説・解題」のポイントでもあった。
また、その「逆ユートピア」世界の描き方から、井上ひさしの『吉里吉里人』(81年)や大江健三郎の『同時代ゲーム』(79年)などから『宙返り』(99年)に至る「根拠地」建設の可能性を追求した「ユートピア」小説の歴史に連なる作品と言うこともでき、その意味でもこの長編は大変重要な内容を持つものだったのである。
と思いながら、これは大いに反省せざるを得なかったのだが、そのように重要な位置を占めるこの『沈黙都市』について、立松について2冊の本(『立松和平論』と『立松和平伝説』)を書いている僕も含めて、誰もがその重要性について指摘してこなかったという事実に愕然としたということがある。もちろん、この長編が刊行された直後に「『光の雨』盗作事件」が起こり、その喧噪の中で『地目都市』は流し路にされるという「不運」に見舞われたということもあるのだが、僕としては、(たぶん、内心では「自信たっぷり」であったはずの)立松和平に、この長編の受容性・問題性について伝えられなかったこと、これについては慚愧に堪えない。「『光の雨』盗作事件』」は「多忙」が招いた自業自得的な事件であったが、もし仮にこの「『光の雨』盗作事件」が起こらなかったら、立松の進むべき方向は今僕らが目にするのと違ったものになっていたのではないかと思うと、返す返すも残念でならないのだが、立松の文学に興味・関心のある人は、どこかで『沈黙都市』及び僕の「解説・解題」を読んでもらいたいと思う。立松の文学にこれまでとは違う印象を持つはずである。
以上が10日間このブログから離れていた理由を書いたのだが、世界の情勢も同じだが、日本の野田政権の体たらく(および、野党のどうしようも無さ)、どうにかならないかな、と毎日テレビのニュースに接し、新聞を読むたびに思ってきた。その国の政治は国民の成長度に見合った物しか実現しないといった内容のことを言ったのは誰だったか忘れたが、政府とマスコミが一体となって「フクシマ」を忘れようとしている(「収束した」などと戯言を言って)現実を見ると、本当にやりきれなくなる。その証拠に、大江さんや辻井喬さん、蒲田慧さんたちが一生懸命になっている「脱原発 1000万人署名活動」も東京地区では、「脱原発」を国民投票に掛けるために必要な数にまだ不十分だという。僕自身は以前にインターネットで署名済みなのだが、先頃は署名用紙をダウンロードして知り合いに署名をお願いしている。
もし、「脱原発」に賛同する人がいたら、もしかしたら脱原発の「民意」を示すここが正念場かも知れない。ネット署名は簡単だし、署名用紙はすぐにダウンロードできるから、2月28日の最終締め切りまで、「庶民」の底力を見せてやるのもいいかもしれない。
ということです。