くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

パンダをめぐる天皇陛下の残念なお言葉

2008年05月10日 | Weblog
報道によれば、宮内庁式部職の話として、あ宮中において、天皇陛下と胡錦濤との間でパンダをめぐる以下のような会話が交わされたという。

 話題は注目のパンダにもおよび、退室間際に主席が「上野動物園のパンダが亡く なったというニュースを聞き残念です。日本の人たちに引き続きパンダを見て楽 しんでもらえるよう、上野動物園に共同研究用としてパンダのつがいを提供する ことにしました。日本の青少年、特に子供たちに見ていただきたい」と話すと、 陛下は「子供たちは喜ぶと思います」と答えられたという。

「子供たちは喜ぶと思います」、このお言葉に私は、大いなる失望を禁じ得ない。
陛下のお立場としては、政治向きのご発言は慎まれなければならないのであろうし、微妙な時期の微妙な関係にある国の国家元首が相手であるだけに、胡氏の「日本の青少年、特に子供に見ていただきたい」との言葉に、差し障りのなく対応されたおつもりだったのかもしれない。パンダの貸与を、子供が喜ぶか否かという時限で、評価されてはたまったものではない。実際、パンダがくれば、パンダにまつわる処々の事情や問題など知らぬ子供は無邪気に喜ぶのであろう。ただ、陛下が「喜ぶと思います」、では、国民も「子供が喜ぶんだからいいじゃないか。陛下もそうおっしゃってるわけだし」ということになってしまいはしないだろうか。

パンダの問題は、動物愛護の問題、更に現今の情勢下では見方によってはチベット問題、すなわち人権問題にも波及せざるをえない問題なのだ。胡氏は、「共同研究用」としてパンダを貸与するという。共同研究が主目的であるのなら、パンダをガラス張りで人目に晒す必要があるのかという疑問も出てくるであろうし、少なくとも、世論は上野動物園におけるパンダの必要性を研究上の意義という点から認識してはいない。あくまでも、「見世物」としてパンダの存在の是非を見ているに過ぎない。陛下の「子供が喜ぶ」とのお言葉も、研究上の意義とは一切無関係、あくまでも観賞用、愛玩用動物としてのパンダの来日を歓迎するという意味にしか取れない。

福田総理いわく、パンダ貸与を疑問視する声は少数派だという。いつのまに政府が世論調査をしたのかは知らないが、おそらく無根拠なのだろう。自分がパンダを「物乞い」した以上、「国民の多くはパンダ来日を歓迎していないんです」とは口が裂けても言うまいし、認めることもあるまい。

政治生命の尽きかけた「死にかけ」総理の言葉などに比べて、天皇陛下のお言葉は重い。我が国の国家、国民統合の象徴たる御方のものである。それにしては、いささか配慮を欠いたものであったと、少なくとも上記記事を読む限り、それが事実とすれば、私としては残念に思わざるを得ない。

まことに恐れ多いことではあるが、かりに私が三種の神器をいただく立場にあったとしたら、「子供が喜ぶと思います」ではなく、むしろ主眼を胡氏の「研究用」という点をとらえての発言をするのだが・・。

天皇、皇室を批判するとは何事か!とのお叱りは覚悟のうえだが、理あらばたとえお上相手であっても、率直な言葉を述べることは、いささかも臣道にもとるものではない、と私は信じている。むしろそうせざることこそ不臣であると思うのだ。
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メディアが胡錦濤をヨイショ

2008年05月10日 | Weblog
昼にテレ朝系で放映のワイドショーを見ていて、胡錦濤へのヨイショぶりには、うんざりさせられた。まあ、テレ朝だから仕方ないのかもしれないが、司会者、コメンテーター揃っての胡錦濤賛美は、チベットの犬なら、同じ犬でもそこまで尻尾を振ることはあるまいと思わざるを得ぬほどのものだった、と言えば少し大げさかもしれないが・・。

早稲田を訪問し、卓球の「腕前」を披露した胡氏の「メディア戦略」について、「さすが」との評価。それには、国際弁護士の八代某も同調。より具体的にいえば、卓球をしたこともさることながら、かわいそうに福田「媚中」路線の道具とされてしまった福原愛に対して、「私を知っていますか。あなたが私を知らなくとも、私はあなたを知っていますよ」というのが、すごいと。

実は、これくらいの言い回し、欧米人なら、別に国家指導者でなくとも、別段機転を利かせずとも社交の世界ではできて当たり前の会話なのだ。「メディア戦略」などというほどのものではぜんぜんないのだ。

むしろ、くだらないコメントでしかその場での存在感をアピールできなかった我が国の総理大臣閣下の「メディア戦略」が稚拙を極めてに過ぎないのだ。そもそも、総理の器でもなければ、政治家としての華もないだけに、あの場ではすっかり胡氏と愛ちゃんに主役の座を奪われていたのは、致し方ない。以前にもここで書いたと思うが、馬の脚かせいぜい並び大名役の三階役者が、いきなり白塗り生締で主役をはったところで、不似合いなのは致し方ない。

あの場に限って、あえて中国側の「メディア戦略」を評価するのであれば、胡錦濤が実はジャージーを着て卓球に望む予定であったということかもしれない。より正確にいうのであれば、実現しなかった胡錦濤のジャージー姿というものが、実際に計画されていたのか否かはいざ知らず、「実はその予定だったんです」とメディアに流した中国外交部はメディアづかいをよく心得ている。日本のメディアが食いつくことを読んでのことだったのであろう。事実、上記の番組は、ジャージーの一件を紹介し、卓球ラケットを手にすることもなく、ギャラリーとして傍観するだけの福田某の無為無策と対比させて胡氏を褒めそやしていた。

だた、あれくらいの演出も、首脳外交では別段取り立てて評価すべきものでもない。あれくらいできて当たり前。胡氏が巧妙な外政家であるとの証左には必ずしもなるまい。むしろ、それすらできない我が方が「ボンクラ」、「無能」なだけなのだ。

たかが魂胆見え見えの茶番劇的な卓球パフォーマンスに、無邪気なのか意図的なのか(たぶんテレ朝だから後者なのだあろう)拍手を送るメディア報道に世論が踊る、などということはよもや今更無いとは思うが、これで対中感情改善などという数字が出たら、我が国の今後は実に心もとないものである・・・。

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