くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「そのまんま」東知事 vs. 「女剣劇」浅香某

2008年05月15日 | Weblog
サッチーとのバトル以来、久し振りにスポットライトを浴びた「女剣劇」の浅香某。

彼女の主張が真実であるならば、東国原こと「そのまんま東」知事、非礼、無礼とのそしりはなぬがれまい。ちなみに、私は彼を「東国原知事」と呼ぶことを拒絶している。理由は知事選当選の際にここで述べている。

先日の女性問題報道といい、今回のことといい、そろそろ、マスコミも「ヨイショ」だけで、知事に対応することをやめ始めたらしい、というか、過去にも見から出た錆とばかりにさまざましでかしてきた人物だ。知事になっていきななり人間の性根が変わるはずもなく、そろそろメッキが剝がれ出した、あるいは化けの皮がはがれ出したのかもしれない。いずれボロを出すだろうとは思ってはいたが、予想よりは一寸早かった。

しかしながら、そのまんま知事の肩を持つつもりはないが、「女剣劇」女史も御歳77というではないか。年齢差別的なことを言うつもりはないが、そこれほどに齢を重ね、人生の酸いも辛いもを幾多経験してきたであろう方が、これほどのささいなことで頭に血をのぼらせては、いささか人生の後輩たる我々から見れば、みっともよいものではない。

一部報道によれば、「女剣劇」は彼女には禁句だとか?

また同じ報道によれば、あえて怒ってみせて、騒いでみせて、自らのダイエット本に注目を引こうとの思惑もあるという。儲かってナンボというのであれば、商売上それはありなのだろうし、芸人である以上、メディアに露出してナンボなのだろう。ただもしそうしたビジネス上の思惑があってのこととしたら、やはり、御歳77の人のすることかなあ・・・と個人的には思わざるを得ない。もっとも、77であろうが20であろうが、おまんまを食っていかなければならなわけで、そのためには何でもするのであろうけどれど・・・。

好意的に解釈するならば、「若い」ということなのかもしれない。いまだ気力旺盛、寝たきりになるよりはなりよりなことなのかもしれない。

ところで一方のそのまんま知事。釈明としては電話で女史とやり取りした際には泥酔していたとのことだが、かりにこれが真実だとしたら、これまた知事としての資質、心構えを問われれてしかるべきことだ。昨日の朝のワイドショーで大谷某が指摘していたように、知事が泥酔してまともな判断ができないようでは、時を問わない緊急災害が発生した場合どうなるのか。知事である以上、四六時中知事であることを求められるという自覚なく、酒に溺れる者が、知事の重職を占めるというのは、宮崎県民、日本国民にとって決して望ましいことではない。

かりに真実ではなく、その場しのぎの言い逃れだとしたら、それはそれでやはり知事として、実に頭の悪い釈明の仕方であり、知事という職はさておき一個の人間としても、実に恥ずべき釈明であるし、しらふで浅香某が言うような対応をしたとすれば、人間失格とまでは言わないが、社会人として、一人の大人としては決していただけない対応の仕方である。非常識な人間とのレッテルを張られたとしても弁解の余地はない。子供の親としても実に恥ずかしい。子供に見せるべき背中もない。

ただ、そもそもからして、そのまんま氏は知事や政治家という公職に就くべき人間ではない、と私は思っているから、泥酔していたという釈明、真偽はさておき、いかにもこの人間にして・・、所詮こんなもんかくらいにしか思わないのだが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常葉菊川セクハラ疑惑、報道が真実ならば・・・

2008年05月15日 | Weblog
あくまでも週刊誌の報道が事実であるという前提での話だが、セクハラ行為があったのなら、監督は即刻クビにすべきが筋というものだ。

「露出行為」等に及んだ生徒も、いまだ在学中ならば、退部・退学が妥当だ。

常葉菊川も教育機関であるならば、中途半端な処分や、事実関係のうやむやにしたまま「人の噂も75日」とばかりに世間んが忘れるのを待とうなどという姑息なやり方は、決して取るべきではなく、議論の余地のない決して拡大解釈によるものではないセクハラ行為に対しては、断固たる処分を下すべきである。

ただし、学校として「出場辞退」という選択だけはして欲しくないと思う。これはあくまでも、監督、選手という一個人の犯した問題であり、野球部全体が集団責任のようなものを負うべき類のものではないからだ。社長が犯罪を犯したら、社会的な糾弾はさておき社員も何らかの具体的な処分等のかたちで責任を取るなどということがないように、監督のセクハラの責任を、部員たちが負わされるべきではないのだ。そんなものは教育ではない。

なぜ今ごろになってこのような問題が表ざたになったのか不審に思わざるを得ない点もなきにしもあらずであるが、事実であるならば、当事者である監督、選手に対しては厳格な処分を下すよう、「謹慎」程度の甘い処分で茶を濁して誤魔化すようなことのないよう切に願うものでる。

監督はさておき、未成年の選手には寛大な処置をなどと言うなかれ。真に彼の将来を心配するのであれば、今ここで厳正な処分を下すことこそ、彼のこれからの人生の糧となるはずだ。ここでいい加減な対応をすれば、彼は世間をなめ、人生をなめるようになってしまう。それこそ彼にとっては不幸このうえないことなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南都は血塗られた

2008年05月11日 | Weblog
法隆寺、唐招提寺はそれぞれ元来いわゆる南都六宗の一つだ。法隆寺は今現在六宗の一つには数えぬが、伝統的には法相宗に属する。

それが、仏徒に血の迫害を加え続ける超本人に何らの抗議の意思表示もせず門を開いた。内面の葛藤の有無はいざ知らず、両寺は、仏寺としての自らの立場を放棄したに等しい。

法隆寺、唐招提寺のくされ坊主どもは、既に仏徒にあらず。即座に放逐されるべし。さもなくば、両寺とも、自ら仏寺の看板を外して、中共独裁体制翼賛団体とでも称するべし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

園田天光光

2008年05月11日 | Weblog
今時、園田天光光という名前をどれほどの人が知っているだろうか。私も彼女が第一線にいる時を知る世代ではなく、夫直氏が死去した後継子である博之氏との間で泥試合選挙を演じたとき、初めてその名を知った一人である。

博之氏は亡父の地盤を継ぎ現在衆院議員の職にあるが、天光光女史とは枠付きの継子・継母関係にある。というのも、戦後まだ間もない頃、女史が戦後初の女性代議士であった時、妻子持ちの直氏と倫ならぬ恋に落ち、前妻を追い出す形で園田家の嫁の地位に納まったのである。

「白亜の恋」と呼ばれた不倫劇は、同僚女性議員からも糾弾され、世の顰蹙を買い、以後女史が国政の場に返り咲くことはなかった。

簡単に言ってしまえば、他人を不幸にしてまでも己の情欲を満たそうとした恥知らずな人間の一人というわけだが、その天光光女史、まだ御存命だったとは・・。
しかもまた社会的活動をつづけられているとか。

人の倫を踏み外した者にしかるべき役職ないし社会的役割を与えるような団体や組織も、同じ穴の狢。ろくなものではない。その一つが日本会議。同組織の運動には共鳴する部分も多々あったのだが、不倫婆さんがその一員とは、見損なった・

御歳89だとか。憎まれっ子世にはばかるとはよく言ったものである。夫直氏の死後、再び選挙に打って出たのもそれいるというか呆れかえるが、いまだメディアに顔を晒し、ぬけぬけと結婚して五人の継子の母になったとは、よくも言えたものである。

上記のメディアとは産経新聞のことだが、同紙も何を思って恥知らずを紙面に載せたか。日陰者であるべき者にスポットライトを当てる意味などあるのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンダをめぐる天皇陛下の残念なお言葉

2008年05月10日 | Weblog
報道によれば、宮内庁式部職の話として、あ宮中において、天皇陛下と胡錦濤との間でパンダをめぐる以下のような会話が交わされたという。

 話題は注目のパンダにもおよび、退室間際に主席が「上野動物園のパンダが亡く なったというニュースを聞き残念です。日本の人たちに引き続きパンダを見て楽 しんでもらえるよう、上野動物園に共同研究用としてパンダのつがいを提供する ことにしました。日本の青少年、特に子供たちに見ていただきたい」と話すと、 陛下は「子供たちは喜ぶと思います」と答えられたという。

「子供たちは喜ぶと思います」、このお言葉に私は、大いなる失望を禁じ得ない。
陛下のお立場としては、政治向きのご発言は慎まれなければならないのであろうし、微妙な時期の微妙な関係にある国の国家元首が相手であるだけに、胡氏の「日本の青少年、特に子供に見ていただきたい」との言葉に、差し障りのなく対応されたおつもりだったのかもしれない。パンダの貸与を、子供が喜ぶか否かという時限で、評価されてはたまったものではない。実際、パンダがくれば、パンダにまつわる処々の事情や問題など知らぬ子供は無邪気に喜ぶのであろう。ただ、陛下が「喜ぶと思います」、では、国民も「子供が喜ぶんだからいいじゃないか。陛下もそうおっしゃってるわけだし」ということになってしまいはしないだろうか。

パンダの問題は、動物愛護の問題、更に現今の情勢下では見方によってはチベット問題、すなわち人権問題にも波及せざるをえない問題なのだ。胡氏は、「共同研究用」としてパンダを貸与するという。共同研究が主目的であるのなら、パンダをガラス張りで人目に晒す必要があるのかという疑問も出てくるであろうし、少なくとも、世論は上野動物園におけるパンダの必要性を研究上の意義という点から認識してはいない。あくまでも、「見世物」としてパンダの存在の是非を見ているに過ぎない。陛下の「子供が喜ぶ」とのお言葉も、研究上の意義とは一切無関係、あくまでも観賞用、愛玩用動物としてのパンダの来日を歓迎するという意味にしか取れない。

福田総理いわく、パンダ貸与を疑問視する声は少数派だという。いつのまに政府が世論調査をしたのかは知らないが、おそらく無根拠なのだろう。自分がパンダを「物乞い」した以上、「国民の多くはパンダ来日を歓迎していないんです」とは口が裂けても言うまいし、認めることもあるまい。

政治生命の尽きかけた「死にかけ」総理の言葉などに比べて、天皇陛下のお言葉は重い。我が国の国家、国民統合の象徴たる御方のものである。それにしては、いささか配慮を欠いたものであったと、少なくとも上記記事を読む限り、それが事実とすれば、私としては残念に思わざるを得ない。

まことに恐れ多いことではあるが、かりに私が三種の神器をいただく立場にあったとしたら、「子供が喜ぶと思います」ではなく、むしろ主眼を胡氏の「研究用」という点をとらえての発言をするのだが・・。

天皇、皇室を批判するとは何事か!とのお叱りは覚悟のうえだが、理あらばたとえお上相手であっても、率直な言葉を述べることは、いささかも臣道にもとるものではない、と私は信じている。むしろそうせざることこそ不臣であると思うのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディアが胡錦濤をヨイショ

2008年05月10日 | Weblog
昼にテレ朝系で放映のワイドショーを見ていて、胡錦濤へのヨイショぶりには、うんざりさせられた。まあ、テレ朝だから仕方ないのかもしれないが、司会者、コメンテーター揃っての胡錦濤賛美は、チベットの犬なら、同じ犬でもそこまで尻尾を振ることはあるまいと思わざるを得ぬほどのものだった、と言えば少し大げさかもしれないが・・。

早稲田を訪問し、卓球の「腕前」を披露した胡氏の「メディア戦略」について、「さすが」との評価。それには、国際弁護士の八代某も同調。より具体的にいえば、卓球をしたこともさることながら、かわいそうに福田「媚中」路線の道具とされてしまった福原愛に対して、「私を知っていますか。あなたが私を知らなくとも、私はあなたを知っていますよ」というのが、すごいと。

実は、これくらいの言い回し、欧米人なら、別に国家指導者でなくとも、別段機転を利かせずとも社交の世界ではできて当たり前の会話なのだ。「メディア戦略」などというほどのものではぜんぜんないのだ。

むしろ、くだらないコメントでしかその場での存在感をアピールできなかった我が国の総理大臣閣下の「メディア戦略」が稚拙を極めてに過ぎないのだ。そもそも、総理の器でもなければ、政治家としての華もないだけに、あの場ではすっかり胡氏と愛ちゃんに主役の座を奪われていたのは、致し方ない。以前にもここで書いたと思うが、馬の脚かせいぜい並び大名役の三階役者が、いきなり白塗り生締で主役をはったところで、不似合いなのは致し方ない。

あの場に限って、あえて中国側の「メディア戦略」を評価するのであれば、胡錦濤が実はジャージーを着て卓球に望む予定であったということかもしれない。より正確にいうのであれば、実現しなかった胡錦濤のジャージー姿というものが、実際に計画されていたのか否かはいざ知らず、「実はその予定だったんです」とメディアに流した中国外交部はメディアづかいをよく心得ている。日本のメディアが食いつくことを読んでのことだったのであろう。事実、上記の番組は、ジャージーの一件を紹介し、卓球ラケットを手にすることもなく、ギャラリーとして傍観するだけの福田某の無為無策と対比させて胡氏を褒めそやしていた。

だた、あれくらいの演出も、首脳外交では別段取り立てて評価すべきものでもない。あれくらいできて当たり前。胡氏が巧妙な外政家であるとの証左には必ずしもなるまい。むしろ、それすらできない我が方が「ボンクラ」、「無能」なだけなのだ。

たかが魂胆見え見えの茶番劇的な卓球パフォーマンスに、無邪気なのか意図的なのか(たぶんテレ朝だから後者なのだあろう)拍手を送るメディア報道に世論が踊る、などということはよもや今更無いとは思うが、これで対中感情改善などという数字が出たら、我が国の今後は実に心もとないものである・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胡錦濤来日: 時代錯誤な宮中晩餐会

2008年05月08日 | Weblog
胡錦濤を迎えての宮中晩餐会。

無礼千万を承知で言えば、「なんだこりゃ?」なメニューではないか。

具材は御陵牧場からの一級品かもしれないが、なんとも平凡な料理ばかりだ。味のほうも一級品なのかもしれないが、国賓を相手にもう少し趣向っていうものは無いものだろうか。

福田総理との昼食会でもそれを思った。あのセンスのないというか、ありきたりなテーブルの飾りつけ。

国賓を相手に、いかなる料理をいかなる趣向で出すかというのも、外交の場において国家の面目を躍如させるものであることは言うまでもないことと思うが、何もかも取り立てるべきもないいたって平板なものばかり。

しかも、来日初日の松本楼での食事といい、宮中晩餐会といい、洋食ばかりではないか。

松本楼の場合は、「孫文ゆかり」のという趣向があったにせよ、宮中のそれはまったく情けない。いまだに「文明開化」の乗りで、宮中晩餐会はフレンチ。

これでは国家の体面も、ソフトパワーもあったものではない。海外で、日本食が良かれ悪しかれ人気を集める昨今にいたっても、いまだに宮中は明治の御世に始まった欧米の「猿マネ」を墨守。

何とかならんものですかね。国賓を迎えながら自国の料理を胸を張って出せない我が国。いうべきことも言えのと同じく、情けないものである。

まずは、宮中から欧米の「猿マネ」を排除することから、我が国の改革ははじめなければならないのかもしれない。五箇条の御誓文も、知識を世界に求めよとはのたもうたが、「猿マネせよ」とまでは言ってない。宮内庁も「神武創業の精神」でもって、再考してもらいたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏罰ですよ、星野監督

2008年05月05日 | Weblog
星野ジャパンの有力候補に、故障者続出だとか。

ニタニタと笑いながら能天気に、北京のお先棒担いだ報いですよ、因果応報、星野さん。

普段は威勢が良いけど、相手が中国様だと、借りてきた猫みたいでしたが、菩薩の化身を軽んじては、良い目は出ませんよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「直近の民意」とは言うけれど

2008年05月05日 | Weblog
昨夏の参院選の結果を、先日の山口補選の結果をもって、「直近の民意」だと野党や識者等の一部は主張する。

確かに、そうなのかもしれない。山口補選の惨敗という結果を受け、自民党の古賀某が「民意ではない」というような発言をしたという。山口での結果をもって、それが日本全国のと一般化するのは確かに乱暴に過ぎるが、一地方の、しかもド田舎の選挙結果であろうが、それは民意の表れであり、それを「ではない」とバッサリ切り捨てては、負け惜しみにしてはいかにもみっともないし、政治家として自らの発言の持つインパクトを理解していない「おバカ」発言意外の何者でもない。「おバカ」ばやりの昨今、羞恥心の四人目のメンバーに加えてもらってはどうか。まあ、人相悪いし、どう見てもイケメンではないから、お呼びではないのだろうが・・・。


ただ、「直近の民意」なる言葉を錦の御旗よろしく振りかざし過ぎるのもいかがなものか。それが過ぎれば憲法軽視、憲政の常道にあらずとの批判も免れまい。「直近の民意」がかくかくしかじかであるゆえに、衆院での再可決はけしからんとは、憲法において保障された手続きに対して「非道だ!」と言うようなものである。国民投票法案をめぐる野党の一部からの批判同様、ある種無茶苦茶な物言いでもある。衆院での再可決は、「直近の民意」に矛盾するものであってはいけないとは、規定されていない。更には、「直近の民意」が尊重されること自体、それが民主主義において何ら異なこととは思わぬが、それが度を過ぎれば、時系列的には確かに「直近の民意」を反映してはいない衆院の存在を軽視ないしは否定することにすらなりはしなだろうか。しかも、制度的に、民意をより反映しているとされるのは、参院よりも2年任期が短く、解散のある衆院であり、それゆえに憲法は参院に対する優越を認めているはずではないか。

言語を弄するは政治の常、避けうべくもないことかもしれないが、目先の政争のために、言葉を弄し過ぎれば、やがて我が身が言葉によって追い詰められることになることを、民主党はじめ野党、そして識者、マスコミの類をよくよく肝に銘じておくべきだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TPL すなわちThree Peculiar Ladies (三人の妙ちくりんな女たち)? 

2008年05月04日 | Weblog
TPL(トーキョー・プロジェクツ・オブ・バイ・フォー・レディース)、何ともわけのわからないというか、英語的にも未熟で不細工な、ジャニーズも顔負けのセンスなしのネーミングである。 

それは、ユニットを組んだ三女史の政治家としての限界を如実に語っているいと見るべきであろう。

まずは、佐藤ゆかり女史。この人、そもそも立ち居振る舞いから、見た目の雰囲気といい、まるで政治家タイプではない。美人の部類に属するのだろうが、いわく言い難い影を感ずる。政治家にとっては、決してプラスにならない影が。テレビなどに映し出される取材陣への対応も、いまだ素人。プロの政治家のそれではない。来る総選挙では「地元」選挙区で当選するのかもしれないが、まあ、今以上に泣かず飛ばずということで落ち着くのではないだろうか。

次に、猪口センセイ。この人について今更あえて言うことはあるまい。大臣就任の際の「青いドレス」がすべてを物語っている。この方も、政治的には今後あえて注目するには及ぶまい。というか、もう政治生命は尽きている?

そして最後に小池百合子女史。小泉元総理並みの政治カンの持ち主との評もあるようだ。確かに政界進出このかた、女史の政界遊泳術なるものは、ある意味見事で、結果今までに閣僚経験も一度ならず。今や、ポスト福田の総理総裁候補の一人とまで目されている。だが、一寸待ってもらいたい。守屋前防衛事務次官とのバトルを振り返って、それほどに政治カンがあるとは思えないのだが・・・。どう見ても、あの勝負は痛み分けだ。勝てる勝負であったはずなのに、勝てなかったというのは、政治カンに政治手法がついていかなかっただけなのか。いや、むしろ、政治カンの限界故に手法も鈍った、誤ったということではないのか。そして、今回のTPL。これも彼女の政治カンから出たネーミングなのだろうか。だとしら・・・。かりに小池総理が現実のものとなったとして、高支持率を得られるのは初めだけでしょう。彼女の立ち居振る舞いや物言いを見てると、以外に感情を表に出すタイプに見受けられる。そんなことでは、今はいいが、トップに上り詰めればマスコミの格好の餌食になることは間違いなし。かりに選挙の看板として担ぎ出されて上手くいったとして、いずれ同性にソッポを向かれるタイプだと思うのだが・・。つまり、かりに総理総裁になって、成功はしないだろう、この人は。率直に言って、器ではない。政治カンと貪欲な上昇志向だけではどうにもならないのが、一国の宰相の地位というものではないだろうか。

TPL、まあ、さしずめ、Three Peculiar Ladies(三人の妙ちくりんな女たち)と言うのが彼女たちの真実を突いているように思うのだが、今後の政局における身の処し方いかんでは、Three Poor Ladies(三人の哀れな女たち)ということに?そうはなりませんように、お祈り申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「外交の福田」ならぬ「外交オンチの福田」

2008年05月03日 | Weblog
北京五輪開会式に関する福田総理の昨日の発言。

「行く」とは言明しないまでも、「行きたい」と言った時の、総理自身、更には日本政府に対する内外の受け止め方を、事前に考慮するということはなかったのだろうか。

チベット問題、すなわち人権問題の観点から、出席を見合わせようとの動きが、欧州各国を中心にある中での、総理の「行きたい」発言は、人権問題に疎い指導者、政府、しいては国家というイメージを持たれかねない。

そこのところをわきまえずの発言だとしたら、」「外交の福田」とは誰が言い出したのかは知らぬが笑止千万。へそで茶が沸くどころか、沸いた茶をこぼしてしうくらいのお笑い草だ。国内政治における「政治オンチ」、「政治無脳症」は既に、日銀総裁人事や山口補選での自党の候補者にとどめを刺すような「応援演説」で周知の事実となってしまったが、外交においても、「外交の」ではなく「外交オンチの」福田と呼ばれてしかるべきかもしれない。

もしかしたら、総理自身、そのようなことは先刻承知の上での発言かもしれない。
だとすれば、それはそれで怖いことだ。総理の視点は北京にしか向いていないとなれば、胡錦濤来日に際して、いかなる発言が飛び出すやら戦々恐々とせざるをえない。

北京に向かって一生懸命しっぽを振るのはいいが、北京ばかりを見ていて栄えた国はない。北京の毒気からいかに身を置くか、それが困難であれば、いかに毒を弱めるか。今の福田政権からは、それが見えてこない。

もしかしたらオンチは、国内政治、外交のみにおいてではなく、方向オンチなのかもしれない。本人は北京を向いているつもりはなくとも、方向感覚が無いばかりに・・・。

方向オンチの水先案内人というものが果たしているものか。世の中何事にも例外はある。飛べない鳥もいるくらいなのだから。しかしながら、政治指導者に関しては、例外なく政治オンチであってもらっては困る。さもなくば、国家の行き先は、海のもくずか乗組員の死に耐えた難破船か幽霊船ともなりかねない。

それが嫌なら水先案内人の首をすげ替えるしかない。70過ぎた「高齢者」の狂った方向感覚を今更矯正しようとしたところで、どうにもなるまい。総理もあと数年で「後期高齢者」だ。人生に遅いことはないとは言うものの、やはり遅きに失してはどうにもならぬこともあるのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堕ちていく日本: 木更津市の一件と年寄りたちの体たらく

2008年05月03日 | Weblog
木更津市が、後期高齢者医療制度の保険料仮徴収額決定通知書を送付した際に使用した封筒の宛先欄が黒い太枠で囲まれていたことが問題になっている。受け取った市民から「訃報(ふほう)のようだ」等の苦情が20件ほど寄せられたという。

木更津市は非を認め謝罪したというが、人情の機微を理解せぬ「官」というものがまたあらわになってしまった。問題になる前に、いや太枠の色を決める時点で、人としてあたり前になされるべき配慮がなされていれば、「黒」という選択にはならなかったはずだ。高齢者ドライバーのしるしが落ち葉のような色であることに苦情が舞い込んでいるかどうかは知らぬが、老人=朽ち果てていくもの、を連想させるようなあの配色と同様、実に他者の感情に配慮せぬ、情の無いやり方である。それが今に始まったことではない「官」のすることなのだ、といえばそれまでだが、そういう人間や組織が福祉や社会保障に携わるというのは、恐ろしいことだ。便所に行って手を洗うという意識のない人間に寿司を握るらせるようなものである。

その一方で黒枠ごときで、わめく年寄りも情けない。報道によれば、木更津市に苦情を寄せたのは受け取った「市民」からだという。TVの報道番組のインタビューに対しても、「高齢者」とおぼしき年寄りたちが、「私たちにはもう死ねっていうこと!?」などと、感情的な反応を見せていた。勿論TVに限らずのことである。体制側を批判して何ぼという傾向は強い。ちなみに、長野の聖火リレーでの中国人たちの暴虐ぶりに対する中国人逮捕者ゼロ、見て見ぬふりという警察の対応の不公正さに対しては、マスコミも体制にシッポを振っていたようである。それはさておき、大制批判のためには、疑似現実をでっち上げ、それをあたかも世論のごとく報道するのは日常茶飯事のことだ。インタビューされた人の中には、「どうだっていいよ」的な反応もあったのかもしれないが、かりにそうだとしても、報道方針にそぐわなければそういうのはカット。

したがって、木更津市に寄せられた苦情やTVに映し出された怒れる高齢者たちが高齢者世論であると断定するには慎重であらねばならないが、「後期高齢者」という語句への感情的な反応といい、今回の黒枠への批判といい、どうも最近の年寄りと言うのは、「老い」や「死」というものに対して、腹が据わっていないというか、
よい年をして瑣末なことに逐一拘るというか、何と言うか・・。もう少し歩んできた人生の年輪の層だけ達観したような心持ちがあっても良いのではないのだろうか。と、達観できない人々に行ったところで、無いものねだりなのかもしれないが。

男女を合わせた平均寿命からみて75歳以上は確かに「後期高齢者」だが、それを本人たちに面と向かって言ってのける者たちの無神経さ。黒という色が連想させるもの、しかもそれが高齢者に向けれた場合の相手側の感情を慮らぬ無人情。批判されても致し方なし。弁解の余地はない。人として、当然持つべき「思いやり」が無さ過ぎる。

だが、それに対する反応も、それが感情的に過ぎれば、これまた人として情けない。

それが人生の先達たる老人たちのことともなれば、その体たらくぶりは、なおさら情けない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンダはもう要らない!

2008年05月02日 | Weblog
上野動物園のパンダ、陵陵が死んた。これで昭和47年に二頭のパンダが来日して以来36年近くいたパンダが上野からいなくなることになった。(それにしてもなんで中国側は「陵陵」なんて名前を付けたものだか?)

中国から貸与されたものは別として、日本に所有権のあるパンダはこれでいなくなった。

そこで、日本政府は、政府(高村外相)が!、既に上記パンダが死ぬ前、先月に中国政府にパンダ貸与を要請していたという。

だが、一寸待って欲しい。国内各地には既に同じく貸与されたパンダが複数頭いるのだ。上野からいなくなったからと言って、何ゆえに更に貸与を求めなくてはならないのだ。何故にそこまでパンダにこだわる必要があるというのだ。

中国はパンダを外交の具として利用してきたことはつとに知られる話だ。38年前に上野に来た際のあの熱狂を思い返せば、それが確かな成功をおさめたこともああったことは事実だ。しかし、今日、かつてのような外交的効果が期待できるといは考え難い。悪化の一途をたどる日本の対中認識の改善に一役買うことになるとは到底思えぬ。貸与料が一年一億と聞けば、「そんなに取るのか!?」、「何が友好の証しだ!」、「中国人はつくづく金に抜け目がないなあ!?」と、日本人の対中イメージを更に悪化させるのが落ちというものだ。

日本政府も一体、パンダを借り受けることに何を期待しているのだろうか。パンダを借り受けることによる対中外交のメリットとは何だというのだ。国内政治的な効果を期待してというのであれば、新たなパンダの来日で、断末魔の福田政権の支持率がいささかなりとも上向くと思うてか。ならば、それは、腫瘍のよる腹痛を癒すべく正露丸をのむに均しい行為というものだ。ガソリン価格の高下に翻弄され、というか、マスコミのくどいくらいのガソリン価格報道に踊らされ、ガソリンスタンドに駆け込む姿に、パンダ来日の翌年に起きたトイレットペーパー騒動に似た者を見れば、この30年以上の間に、日本人の民度がさほど変わっていないことの証左かもしれぬとは思う。しかし、新たなパンダの来日に、国民が36年前のように熱狂し、日中友好ムードに浸ることなどもうあるまい。第二次天安門事件あれだけ彼の隣国の嫌な部分を見せつけられてしまった今となっては・・。その点に限っては、我が国民の民度も若干の進歩があったと思うのだが。

今更のパンダへの固執は、我が国政府の環境問題への認識の低さをあらわしているとの見方をされても致し方ないのかもしれない、ということに福田政権も気付いてはどうか。パンダはかつて絶滅が叫ばれた時期に比べて総頭数がかなり増えているとはいえ、いまだ保護対象動物であることに変わりはない。増えたと言っても激減した水準から増えたと言うだけの話に過ぎない。我が国が環境問題を重視し、それを外交戦略の一つに据えるというのであれば、あえてパンダという保護対象動物を我が国に持ってくることが、いかに環境保護に矛盾する行為であるかを思い知るべきだ。上野に連れて来て繁殖に成功すれば、パンダ保護に一役買うことになる。確かにそうだが、それは結果論に過ぎないし、陵陵のように繁殖に成功しなければ、その主張は成立しなくなるのだ。つまり後付けの論理でしかないということだ。それに、そもそも、パンダを動物園におくことは、保護や繁殖が一義的な目的ではないはずだ。動物園のそもそもの存在意義は「見世物小屋」と同様のものであるはずだ。さもなくば、あの自然状態とは程遠いコンクリートち鉄柵に囲まれた棲息環境が、動物保護、愛護とは無関係なものであることを如実に語っているのではないのか。

ここにきて加熱するチベット問題からみても、今更のパンダへの執着は、あまりにも愚かしい。中国、北京政府は、パンダを中国を対外的に象徴すべき動物のように扱い、上記のように外交の具としてきたが、実は、パンダは歴史的な「中国」の動物とは言い難い。むしろ、歴史的には、パンダはチベット(=西蔵にあらず!)の動物である。現在パンダが棲息する四川省西部の山岳部や甘粛省の山岳部は、現在でこそ北京政府が呼ぶところのチベット自治区すなわち西蔵の外にあるが、歴史的にはチベットの一部であった。一部マスコミ的にいえば、「大チベット」の一部ということになる。今時、パンダで日中友好強化などと、政府が思っているのだとすれば、それはチベット問題という人権問題への認識の低さを露呈していると批判されても致し方あるまい。

パンダはもう要らない!

パンダを動物愛護とはかけ離れた環境に棲まわせ、チベット侵略を糊塗する政治の道具として利用することに加担するくらいなら、そう主張したいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どなたか教えてください: 長野にひるがえっていた自由ベトナム政府旗

2008年05月01日 | Weblog
先週末の長野の「聖火」リレー。TVには沿道には数多の五星紅旗とともに、チベットの雪山獅子旗や東トルキスタン独立運動の空色の旗も映し出されていた。

と同時に、黄地に赤い横じまが数本入った旗も。あれはかつてベトナムが南北に分裂していた際のベトナム共和国の国旗のはず。今も米国等で亡命ベトナム人組織が「政府旗」として使用しているはずだ。

が、なぜ聖火リレーにベトナム共和国旗が?

どなたかお教え願えないでしょうか?
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする