くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

不知火検校

2008年05月19日 | Weblog
昨日、時代劇チャンネルで「不知火検校」を見た。以前から見たい映画の一つだったが、期せずしての偶然であった。

昔の時代劇はやはり違う、と思った。最近の時代劇は考証のお粗末さが目に余ることがしばしばある。その最たるのが、NHK「篤姫」だ。あのようなどこぞの町屋から出てきたようなおひい様などあったものではない。セリフが滅茶苦茶だ。ズラを付けた現代劇でもあるまいに。町娘でも大店の出でもあれば、あれほど砕けてはいまい。それに最近の役者には時代味というものがない。今に始まったことではなく、80年代頃の時代劇を再放送等で見ても既にその感はあるのだが、セリフ廻しが
昔の役者とは違う。特に女優のそれに顕著だ。元トレンディー女優浅野某の大奥総取締の大根ぶりをはじめ(彼女の「どら平太」の芸者上りの女房役はそれ以上にひどかった。あんな芸者などあったものではない)、「鬼平」でも滝川某の浮いた演技、土屋アンナの岡場所の安女郎かと見紛うような花魁など、最近の女優のひどさは枚挙にいとまがない。

同時に、勝新の凄さを再認識した。以前座頭市を見比べて、ビートたけしなど足元にも及ばないとは思ったものだが、「不知火検校」を演じた時、勝はまだ30手前である。それを思うと「恐るべし」と言うほかない。今どきの同年代の役者にやってみろと言って、あれだけの役の凄みなど到底出せはしまい。もう少し若ければ、勘三郎あたりなら違った味の杉の市をやったかもしれないとも思ってみる。そう言えば、勘三郎は勘九郎時代に井上ひさしの「藪原検校」をやっているはずだ。

当時の大映作品の同様、限られた予算での作品とのことだが、それにしては今時の製作費何十億円よりも、はるかに時代の風情みたいなものを感じる。江戸は遠くになりにけり。今どき、江戸の風情はせいぜい歌舞伎座の舞台の上でしか味わえないのかもしれない。その歌舞伎でも、バタ臭い演技するベテランはいるにはいるが。

ただ、残念に思ったこともある。それはわずか1時間半という作品の短さだ。あれだけ杉の市の悪行をたっぷりと見せておきながら、最後の最後が尻切れトンボのようにあっけなく短い。杉の市がむごたらしく刑場の露となるところまでたっぷりやって欲しかった。そうしてこそ、あの映画の凄みも出ようもの、と思うのは私だけか。それから映画の始まり方もいささか唐突だったが、もう少し、市が悪に手を染め始めるくだりまでをたっぷりした方が良かった。

娯楽性の追及という点からは1時間半という長さは丁度良いのかもしれない。ましてや当時(昭和35年)は高度成長期の真っただ中だ。なにかにつけ世の中が目まぐるしい中、2時間以上の長丁場はむしろ歓迎されなかったのかもしれない。それに予算の制約というものもあったのかもしれない。だが、そこに、その後の映画界の凋落と、大映の末路の兆しをうかがわせるのは、結果を知っている後世の後付けというものか・・・・。

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