くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「外交の福田」ならぬ「外交オンチの福田」

2008年05月03日 | Weblog
北京五輪開会式に関する福田総理の昨日の発言。

「行く」とは言明しないまでも、「行きたい」と言った時の、総理自身、更には日本政府に対する内外の受け止め方を、事前に考慮するということはなかったのだろうか。

チベット問題、すなわち人権問題の観点から、出席を見合わせようとの動きが、欧州各国を中心にある中での、総理の「行きたい」発言は、人権問題に疎い指導者、政府、しいては国家というイメージを持たれかねない。

そこのところをわきまえずの発言だとしたら、」「外交の福田」とは誰が言い出したのかは知らぬが笑止千万。へそで茶が沸くどころか、沸いた茶をこぼしてしうくらいのお笑い草だ。国内政治における「政治オンチ」、「政治無脳症」は既に、日銀総裁人事や山口補選での自党の候補者にとどめを刺すような「応援演説」で周知の事実となってしまったが、外交においても、「外交の」ではなく「外交オンチの」福田と呼ばれてしかるべきかもしれない。

もしかしたら、総理自身、そのようなことは先刻承知の上での発言かもしれない。
だとすれば、それはそれで怖いことだ。総理の視点は北京にしか向いていないとなれば、胡錦濤来日に際して、いかなる発言が飛び出すやら戦々恐々とせざるをえない。

北京に向かって一生懸命しっぽを振るのはいいが、北京ばかりを見ていて栄えた国はない。北京の毒気からいかに身を置くか、それが困難であれば、いかに毒を弱めるか。今の福田政権からは、それが見えてこない。

もしかしたらオンチは、国内政治、外交のみにおいてではなく、方向オンチなのかもしれない。本人は北京を向いているつもりはなくとも、方向感覚が無いばかりに・・・。

方向オンチの水先案内人というものが果たしているものか。世の中何事にも例外はある。飛べない鳥もいるくらいなのだから。しかしながら、政治指導者に関しては、例外なく政治オンチであってもらっては困る。さもなくば、国家の行き先は、海のもくずか乗組員の死に耐えた難破船か幽霊船ともなりかねない。

それが嫌なら水先案内人の首をすげ替えるしかない。70過ぎた「高齢者」の狂った方向感覚を今更矯正しようとしたところで、どうにもなるまい。総理もあと数年で「後期高齢者」だ。人生に遅いことはないとは言うものの、やはり遅きに失してはどうにもならぬこともあるのだ。
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堕ちていく日本: 木更津市の一件と年寄りたちの体たらく

2008年05月03日 | Weblog
木更津市が、後期高齢者医療制度の保険料仮徴収額決定通知書を送付した際に使用した封筒の宛先欄が黒い太枠で囲まれていたことが問題になっている。受け取った市民から「訃報(ふほう)のようだ」等の苦情が20件ほど寄せられたという。

木更津市は非を認め謝罪したというが、人情の機微を理解せぬ「官」というものがまたあらわになってしまった。問題になる前に、いや太枠の色を決める時点で、人としてあたり前になされるべき配慮がなされていれば、「黒」という選択にはならなかったはずだ。高齢者ドライバーのしるしが落ち葉のような色であることに苦情が舞い込んでいるかどうかは知らぬが、老人=朽ち果てていくもの、を連想させるようなあの配色と同様、実に他者の感情に配慮せぬ、情の無いやり方である。それが今に始まったことではない「官」のすることなのだ、といえばそれまでだが、そういう人間や組織が福祉や社会保障に携わるというのは、恐ろしいことだ。便所に行って手を洗うという意識のない人間に寿司を握るらせるようなものである。

その一方で黒枠ごときで、わめく年寄りも情けない。報道によれば、木更津市に苦情を寄せたのは受け取った「市民」からだという。TVの報道番組のインタビューに対しても、「高齢者」とおぼしき年寄りたちが、「私たちにはもう死ねっていうこと!?」などと、感情的な反応を見せていた。勿論TVに限らずのことである。体制側を批判して何ぼという傾向は強い。ちなみに、長野の聖火リレーでの中国人たちの暴虐ぶりに対する中国人逮捕者ゼロ、見て見ぬふりという警察の対応の不公正さに対しては、マスコミも体制にシッポを振っていたようである。それはさておき、大制批判のためには、疑似現実をでっち上げ、それをあたかも世論のごとく報道するのは日常茶飯事のことだ。インタビューされた人の中には、「どうだっていいよ」的な反応もあったのかもしれないが、かりにそうだとしても、報道方針にそぐわなければそういうのはカット。

したがって、木更津市に寄せられた苦情やTVに映し出された怒れる高齢者たちが高齢者世論であると断定するには慎重であらねばならないが、「後期高齢者」という語句への感情的な反応といい、今回の黒枠への批判といい、どうも最近の年寄りと言うのは、「老い」や「死」というものに対して、腹が据わっていないというか、
よい年をして瑣末なことに逐一拘るというか、何と言うか・・。もう少し歩んできた人生の年輪の層だけ達観したような心持ちがあっても良いのではないのだろうか。と、達観できない人々に行ったところで、無いものねだりなのかもしれないが。

男女を合わせた平均寿命からみて75歳以上は確かに「後期高齢者」だが、それを本人たちに面と向かって言ってのける者たちの無神経さ。黒という色が連想させるもの、しかもそれが高齢者に向けれた場合の相手側の感情を慮らぬ無人情。批判されても致し方なし。弁解の余地はない。人として、当然持つべき「思いやり」が無さ過ぎる。

だが、それに対する反応も、それが感情的に過ぎれば、これまた人として情けない。

それが人生の先達たる老人たちのことともなれば、その体たらくぶりは、なおさら情けない。
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