チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

作者不詳

2006年11月05日 22時21分23秒 | 読書
三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本(講談社ノベルズ、02)

 三津田信三と友人の飛鳥信一郎が古本屋で入手した不思議な同人雑誌<迷宮草子>は、収録された7つの小説の謎を解かなければ読者自身の身に危険が及ぶというとんでもないものだった……
 ということで、7つの怪奇ミステリ作品を二人が必死に解くという形式の連作なのだが、解読し終わったあとにとんでもない真相(?)が開示される!

 面白かった。二段組550pをほとんど一気に読まされたんだから、それだけの力が作品にあったってことだろう。けど前作「ホラー作家の棲む家」ほどでは、残念ながらなかったかも。
 一種独特の雰囲気ある文体で、それは好もしいんだけど、文章もう少し気をつかった方がいいのではないかと思った。たとえば1985年発行の同人誌なのに、今風の言い回しが散見されてちょっと萎えた。(*)
 この作家、丁度京極と倉阪の中間にポジションを持っているように思った。今回はかなり倉阪寄りだったかな。
 途中まではよかったのに、ラストでメタに逃げたという印象。

 (*)>今風の言い回しが散見されてちょっと萎えた
  と一旦は思ったんだけど、迷宮草子が1985発行を騙った最近の作品の可能性もあるから(cf:パソコン通信)ひょっとしたら意図的なのかも。
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向日葵の咲かない夏

2006年11月05日 22時06分57秒 | 読書
道尾秀介『向日葵の咲かない夏』(新潮社、05)

 叙述トリックである。この手のは結局読者を騙すことに著者の眼目はあるわけで、(嘘は吐かないにしろ)読者に知られたくないことが叙述されることはない。
 大体叙述トリックって本格の範疇に入るのかね? 読者には探偵と同じ情報が提供されていなければならない(つまり「読者への挑戦」が成立する共通の土台の確保)というのが本格の要件だとしたら、それはみたされてないなあ。もちろんそんなのあくまでもタテマエなんだけれども、叙述トリックの場合はこのタテマエすらもない。
 とはいえすぐれた本格がそうであるように、本書も読後バックして確かめるという楽しみ方は十分みたされる。
 その意味で叙述トリックというのは「アンフェアを構成要件に内包した本格」といえるかもな。

 そのなかでも本書は、叙述トリックという仕掛けが犯人の生そのものとリンクしている、存在から帰納されるものである点、叙述系ミステリとして斬新である。というかリアリティの醸成に成功している。傑作といってよいのでは。

 それにしてもこの、超常現象(と推測できるもの)の導入の仕方には驚かされた。あれで一気にストーリーに没入した。
 そういうわけで、形式面ではすごく面白かったし、感心もしたのだが、そこに盛られた内容はあんまり趣味ではないんだよな。犯人がなぜこのような犯行に及んだか、その原因の心因的な面はきっちり納得できるように書かれていて、それが「切実」な「人間の犯罪」であることは了解できる。その点では倉阪鬼一郎を読むときのようなストレスというか頭が痛くなる感はないんだけど、けっこうきつかった。
 多分かかる内容的な部面で否定的に評価する読者は多いのではないかな。それが形式面でのリアリティという評価を割り引いてしまうかも。昨年末に出た本書は、今年の各種ミステリベスト選びの該当作品なのだが、その辺のプラスマイナスで思ったほど評価は伸びないような気がするなあ。
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ProjectBLUE地球SOS(1)

2006年11月05日 21時50分05秒 | 読書
東野司(小松崎茂原作)『ProjectBLUE地球SOS(1)』(ハヤカワ文庫、06)

 小松崎茂のいわゆる〈絵物語〉をもとに作られたアニメのノベライズらしい。
 大昔「インベーダー」とか「謎の円盤UFO」という連続テレビドラマがあった。アニメは見ていないので分からないのだが、ノベライズ小説自体はあの線で、面白いっちゃあ面白いんだけど、大体14歳のふたりの天才少年が活躍する話とくれば、その面白さもどんな種類だか分かろうというもの。まあジュブナイル小説です。ジュブナイルらしく夢のエンジン<G反応機関>も一体どんな原理なのかはさっぱり分からない。

  ジュブナイル小説だというのはもうひとつ意味があって、つまりキャラクター小説ではないということ。今どきのラノベではないのだね。(これはひょっとしたら東野司があえてラノベ化を避けたのかもしれない。もとのアニメを見ていないから何ともいえないが……)

 それはいいんだけど、このコンセプトではJA文庫で出しても客層が違うだろう、と老婆心ながら心配するのであった。
 今のJAの客層は、旧来の中年読者とラノベ読者に2分化されていると思うんだが、この物語、ある意味キャラが優等生的すぎて、というよりもキャラを楽しむ作りではないので、ラノベファン層の琴線には触れないのではないか。一方、旧来の中年読者がターゲットならば、やはり小松崎の絵を使わないとだめでしょう。でもそれでは出版目的から離れちゃうんだろうな。
 ジュブナイルSFとしてならよくできていると思う。ひと昔、いやふた昔前のソノラマ文庫の雰囲気。小説本位に申せば、結局媒体(レーベル)を間違えられているということになるだろう。

 それは、表紙絵や口絵はともかく全く挿絵がないところを見ても、本来の読者であるところの小中学生(ジュブナイル読者)向けには考えられてないことが分かるだろう。大体JA読者に小中学生がいる確率はとんでもなく低いはずだから、もし狙ったとしたらそれはそれでとんでもない話。やはりこの辺は中年読者を想定しているのかね。

 ジュブナイル読者でもなく、ラノベ読者向けでもなく、ノスタルジーで釣れる中年ファン向けでもないコンセプトの分裂というかコンセプトのなさは何なんだろう? 二兎を追ったのかどうか分からんけれども、中途半端やなあ。
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黒い海岸の女王

2006年11月05日 20時29分10秒 | 読書
ロバート・E・ハワード『黒い海岸の女王 新訂版コナン全集1宇野利泰・中村融訳(創元文庫、06)

  ――剣と戦斧の轟きが死滅し、殺戮の叫喚が途絶え、血に染まった雪原を沈黙が支配した――(17p)
 という印象的な描写で新訂版コナン全集は幕を開ける。宇野利泰のこの美文調の訳文がいかにも開幕にふさわしい雰囲気を盛り上げる。
 いや、久しぶりに再読したけど、面白いねえ。先年火星シリーズを読み返したときにも感じたことだが、E・R・バローズにしろR・E・ハワードにしろ、力まかせに書いているようで実はすごい筆力の持ち主なんだよね。あらためてそれがよく分かった。
 近頃のファンタジー作家が100枚書くところを50枚で書いてしまう。省略するところは徹底的に省略しメリハリが付けられているので、飽きないというかダレ場が殆どない。それとナラティブの距離がずれないという点も特記しておきたい。とりわけナラティブの主体をコナンにせず、その場の別人の視点で描写するテクニックを用いることが多いのだが、これが効果をあげている(たとえば「館のうちの凶漢たち」では殆どムリロ公子の視点で語られ、そのことによってコナンが神話化される)。
 ニュースペースオペラの連中はすべからくハワードを読んで勉強すべしであろう。いや読んだことないけど、まあだいたい想像が付きますわな(^^;

 さてこの『黒い海岸の女王』、単なる創元旧版コナンシリーズの復刊ではない。新訂版の編者である中村融氏の刊行の言葉にあるとおり、これらは後代の手がいっさい加わっていないハワード・オリジナル・コナンなのだ。
 しかも、第一話の「氷神の女神」は従来物語時間的には「館のうちの凶漢たち」と「黒い海岸の女王」の間に比定されていたものだそうだが、本書<資料編>収録のミラーへの手紙を根拠に第1話に持ってきた新解釈も中村氏の主体性がよく出ていて、まさにその意気やよしである。
 解説に過去6種類のコナンシリーズ刊本が記載されているが、この新創元版はそのアイデアの独創性において、上記刊本に勝るとも劣らないどころか、そのコンパクト性も加味して最良の刊行シリーズといえるように思う。近い将来本国アメリカにおいてかかる中村編オリジナルコナンシリーズが刊行されるということも強ち夢ではないのではないか。

 作品的には、「象の塔」、「石棺のなかの神」、「館のうちの凶漢たち」、「消えうせた女たちの谷」が甲乙つけがたい。「黒い海岸の女王」はやや冗長だったかも。「氷神の娘」は殆ど散文詩。
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