こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

自分では気付けない…

2011年08月26日 | 無意識の世界
不調を案じてくれる友人から、夏バテに効く簡単なご飯のレシピと共に、
からだ動かしたくない時は、スワイショウだけでもすればと助言されて、
夕べはじめて、“からだを動かしたくない自分”を自覚しました。

確かにそうだ・・・とばかり、今日はスワイショウをやりながら、
体調回復に向けて、からだを動かす必要に思い至らなかったのは、
それなりの理由がある・・・手を振りながら気付くところがありました。
ここのところ身体感覚のあれこれ―気功、ストレッチ、歩くこと…を
心理的な理由から無意識に遠ざけていたようです。

もうしばらく積極的にからだを動かす気持ちになれそうにありませんが、
スワイショウだけは少し無理をしてでも再開することにしましょう。
自分では気付けない、アンバランスを見抜いてくれる友の存在に感謝です。

(120-18)
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快復のきざし・・・

2011年08月25日 | 魂と聖霊
このところ、どうも体調が思わしくありません。
夏の疲れが出る頃ですが、年齢的なものもありそうです。
加えて、お盆前後の旅の疲れも尾を引いている気もします。

心と体の疲労の割合は、どの程度のものか。
心と体とマイナスの相乗効果で、いつもより疲労感が長引いているのでしょうか。
気になっていること(不安な要素)を意識化して、
それが解消されたことを想像してみても、あまり変化しないところをみると、
やはり心よりは体の夏バテの要素が大きいのでしょう。

不調を乗り切るために、睡眠と食事を意識することはもちろん、
今は一冊の本を傍らにおいて、時間があれば開いています。
以前ブログにも書いたことがある、「失われた物語を求めて」という本ですが、
人に内在する生命力/魂に思いをいたすのは、
元気一杯のときよりも、身心が不調のときの方が相応しいのかもしれません。

読み返しながら、一つ一つのエピソードの内容は忘れていますが、
セラピストの著者がその現場に立ち会った、人のもつ生命力/魂の物語を読む度に、
魂を確かな実在として、私の内に感じているのだと思います。
この本は私にとって、内容の把握より“感じること”がウエイトを占めて、
もっといえば、物語に触れることで“魂を経験している”のだと思います。

今日あたりは、いつになく酷い夏バテにも意味があった。
そう思えるようになって、快復してきている何よりの徴かもしれません。

(160-17)
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猫と暮らしたなら…

2011年08月22日 | 第9章:愛
猫を飼いたいと思いはじめて6、7年経った頃、アブラ(猫)はやってきました。

成育史では猫は見かけたら即追い払う、泥棒猫のイメージばかりで、
遠巻きに見るだけ。ちっとも親しい存在ではありませんでした。

30代に入って、親しい友人が猫を飼いだして、
愛おしくてたまらない様子を目の当たりにするようになって、
猫に対する感受性が少しずつ変化してきました。
猫って案外いいものらしい・・・それから間もなく
B・ポターの物語が大好きな人と湖水地方を旅する機会があって、
童話の舞台を巡りながら、主人公の動物たちの中でも、
仔猫のトムの物語にすっかり魅せられてしまいました。

いつか猫が飼えたらいいな。なんとなく猫との暮らしに憧れだしますが、
“猫と暮らせるような私になれたらいいな・・・”なぜか、
猫と暮らせることが私の内的世界の広がりや進歩の徴のような気がしていました。
猫を飼えるようになれば私はもっとよくなるはず・・・あえて言えば、こんな感じですが、
ポターやヘッセ、ターシャ、そして獣医のDr.ヘリオットの物語を読みながら、
猫との暮らしは自分にぜったいよいものをもたらす・・・確信めいたものがありました。

ならば積極的に猫を探すとか貰うとかするのかといえば、そういうことはなく、
知り合いが、仔猫がいるけれどと声をかけてくれたときも、
“まだ、その時ではない”気がして断ったりしていました。

それから何年かして、アブラは満を持してやってきたわけですが、
海岸通の竹薮から私たちの車の前にヨロヨロと這い出てきて
最初は紙くずが舞っているのかと見間違えるほど、小さく哀れな姿。
猫と気付いて拾い上げると、どういうわけか油まみれでした。

石鹸で洗っても油はとれずべとべとのままでしたが、
すっかり毛が生え変わると、茶系のきじ模様の愛らしい猫に変身。
思い描いていた、その通りの仔猫との暮らしが始まりました。
生き甲斐の心理学の学びと時を同じくしてアブラはやってきました。

人にはささやかな願望実現にしか見えないかもしれませんが、
そのプロセスには願望というものの大事が示唆されているような気がします。

イメージすることの心地よさ、無理をしないこと、タイミングを待つこと、
猫との暮らしによって“私はもっとよくなる”という確信があったこと。
よくなるとは人格の成熟というような意味ですが、
願望が実現することが自分だけでなく周囲にとってもよいことになる、
その確信が何より重要だったかもしれないと思うのです。

(120-16)
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イメージが描けない・・・

2011年08月20日 | 五感と体感
自身の中から滾々と湧き出る本物の願望ではなく、
知らず知らず他者の価値観に左右されて、これが私の理想なのだと思い込んで、
本音とは違う願望に突き進んでしまうようなこと。
程度の差はあれ、人生の中で誰もが経験しているのではないかと思います。

願望の勘違いは、たぶん置き換えとか同一化、抑圧などの防衛機制が関係していますが、
本物か本物でないか見分けるのは意外に簡単で、私の場合は、
防衛機制から出たものは、願望が実現したイメージが上手く描けませんでした。
無理に描いてみても体感的に不快で、違和感があるのです。

それならばイメージできない時点で引き返せれば簡単ですが、
楽しくイメージできないのは本物ではないから・・・?
防衛機制が関係している?何かがへんと感じながらも、
本物ではなかったと、なかなか認めることができませんでした。

心の事情もいろいろあれば、デリケートな問題も相まって、
間違った願望に長く留まってしまうのも、仕方のないことだった・・・。
すべては、本物の願望を生きるために必要なプロセスだったのです。

本物の願望はイメージするのが心楽しく、日々の生き甲斐に直結しますが、
成育史の傾向を理解する中で、防衛機制の傾向が調ってくれば自ずと、
私はこうしたいという本物の願望が、自身の中から滾々と湧いてくるものなのですね。

(120-15)
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切実な願望

2011年08月18日 | 無意識の世界
切実に願って数年後に叶った願望のことを考えていると、
願望にも二種類あって、ストレス曲線の中で生まれるものと、
幸福曲線の中で生まれてくるものがあることに気付きます。

その昔、新しい人間関係に不適応を起こして、
ストレス曲線をさ迷っていた頃、ひたすら内向して、
感じたこと考えたことをノートに書き綴っていた頃の願いは唯一つ、
心の底から語り合える友が欲しい、ということでした。

誰と話しても満たされず、虚しさばかりが残る日々・・・
今思えば、自身の中の空虚を周囲に投影して、
孤独の淵に自分で自分を追い詰めていたのだと解りますが、
そのときは、語り合える友が欲しいと切実に願っていました。

生きていても虚しい、、、ストレス曲線を極みまで上り詰めた中で、
呻くようにでてきた願いが“心の底から語り合える友と出合いたい”でした。

いちばん望んでいることは?願っていることは何?
願望をノートに綴るようになれば、それは
悩みの堂々巡りも最終段階に入ってきた徴といえるのかもしれません。
私の切実な願いを、率直に神に語りかけることで、
ストレス曲線の中に一筋の光が射し込み、いつかきっと叶うと
希望して委ねることで平安感がもたらされます。

それから数年後には、心の底から語り合える人に出会うことができて、
更に10年を経ると、以前からの友が腹心の友に昇格したりして、
切実な願いは見事に叶えられ、当時の空虚は満たされたと感じます。

あれから20年。委ねて後は、とりたてて努力した覚えはなく、
かえって願望のことは忘れていたように思います。
もしかすると切実な願望を明確に意識するだけで、脳の方が
願望実現に向かって勝手に作動開始するのでしょうか。

・・・ということは、ストレス曲線の中で意識化された切実な願望は、
神に委ねたならば、後は忘れてしまうのが案外よいのかもしれません。

(120-14)
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とりあえず、申告

2011年08月09日 | 意識と知覚
願望達成を目指すとか目標に向かって邁進するとか、私は、
そのような言葉で人生を進めてゆくタイプではありません。
人生に目標を設定すること自体、しっくりこないようなところがあります。

願望の達成や夢の実現の方法は、いろいろ言われていますが、
実現以前に、自分が本当に望んでいるものは何なのか?
人生で何を得たいと思っているのか?
自分は何のために生きているのか?・・・
力強い、本物の願望を意識化することの方が、実はずっと難しいと感じます。

心の傾向(=防衛機制)が真正の願望を見え難くしているケースも多いようです。

目標を設定しないからといって、もちろん願望がないわけでなく、ふり返れば
切実な願いや、ささやかな望みが実現したことも少なくなかったことに気付くのです。

防衛機制の理解が進み、本物の願望が明確になってきた今、
人生をふり返り、あらためて私の辿った願望実現の法則を検証してみたくなりました。

いつも意識していたのは、願望が生まれたときには直ぐに“申告する”ことでした。

こうなればいいなあと、願望を意識したならば、
神(天、宇宙、自分の魂…)に向かって、素直に願望を表明する。願望を伝えておく。
私はこれを望んでいます!一度強く意識して申告したならば、
後はよきに計らってくださいとお任せしてしまう・・・あえて言葉にすれば、そんな感じです。

申告するという言葉がしっくりする感じで気に入って、
願望が生まれたら、申告することが何より大事と考えていましたが、
言いかえれば、願望の意識化/言語化がいちばん大事ということになると思います。

*防衛機制:テキスト生き甲斐の心理学、参照のこと

(120-13)
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大きな自己受容

2011年08月06日 | 魂と聖霊
街であれこれ用事をしながら、ふと、ふしぎな感覚におそわれました。
一瞬でしたが人生に納得した感じ、これまでにない多幸感が
意識に降りてきて、なんともいえない平安感に包まれました。

自力では辿りつけない体験の解釈が、自ずと起こった・・・
そんなふうにもいえる体験の、微かな余韻は今も続いています。

私は私・・・究極の自己受容とでも呼べる瞬間が、
知人が古い寺院で祈っているときに起こった話や、
遥か外地の高原の湖で、湖面に反射した光に貫かれる感覚とともに、
その瞬間すべてを了解した・・・そんな体験を本人から聞いたこともあります。

寺院や湖水の体験ように劇的ではないけれど、
日常のふとした拍子に起こった感覚、私の体験も、
それらに連なる自己受容の瞬間だったと感じています。

それはストレス曲線のどん底をさ迷い歩いた挙句、
もはやこれまでと我をを手放した途端、
ふしぎな体験として大きな自己受容が降りてくるようです。

大きな自己受容は、人生の時に適って、
それぞれの個性にいちばん相応しい形でやってくるものかもしれません。

(120-12)
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