こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

いいねと、自画自賛

2014年12月25日 | 
自己同一化の延長にある現象を、いいね~と自画自賛、
悦に入り、他人から見れば阿呆か、、と、一笑にふされるようなことでも、
ときには、そんな取るに足らないヨロコビを、くっきりと意識化してみると、
ちょっとした自賛が小さな自信を生み育てるということがあるのかもしれません。
他人の評価の及ばぬところでというのがミソです。

どういうわけか洗面コーナーに掛けている鏡に映る顔が、私のお気に入りです。
その鏡においては加齢現象がちっとも苦にならないのは、どうしたことか。
別室に立てかけている鏡やコンパクト、外出先で映る我が身に、
ガクンとすることは少なくないのに洗面コーナーのその鏡だけは、なぜか例外です。
眺めるたびに、いいじゃないと思える…体調思わしくないときでさえ、
あれ、案外よい顔していると思えて、ガッカリさせられることがありません。

私にとってはおめでたい魔法の鏡なわけですが、
鏡の顔を目にする度にガクンと肩を落とすのと、いいね、としゃんとするのでは、
日々の感情生活、幸福曲線のトータルは雲泥の差ですから、ありがたいこと。

もう一つ。

夕暮れ時に忘れていた生ゴミ処理に庭を走って急いで家に戻るときなど、
電灯に照らし出された窓が目に飛び込んできて、
いいね~と、思わず立ち止まり見入ってしまうことがあります。
やわらかな光の窓に見惚れながら、森の一軒家が登場する、
知っているだけのお伽噺が一瞬にして蘇り、
こんな風景を見せてくれる山のお家はイイねと、愛おしさもひとしおです。

取るに足らない自画自賛なら探せばもっと出てきそうですが、
地上で生きてゆくのに、こんなちょっとした自賛の瞬間は案外大事かと思います。
健やかな自画自賛が地上を生きるのに必要な、小さな自信を育ててくれるというところでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長~い勘違いの後

2014年12月23日 | 
世の中の基準に照らして、世間でよしとされている傾向と、
自分の傾向が一致するほど適応する困難は小さくてすむことでしょう。
生まれた時代の基準に一致するかしないかは時の運のようなもので、
自分ではどうすることもできない面があります。

でも問題は、一致するかしないかが人生を決めるわけではちっともなくて、
自分が自分の個性をどのように受けとめるか、それだけです。
自己否定で生きるのか、自己肯定で生きるのか。それだけです。

知らず知らず世間の基準に合わせようと(それが適応することであると勘違いして)、
自分を変えたいと思考していた時期が長かったように思います。
そんなつもりはなかったけれど、そういうことだったと、
勘違いして長きを過ごした後、ようやく思い至りました。

大事なコトは世間の基準から外れている(と自分で感じる)個性を受け容れること。
それは云ってしまえば、運命を受け容れるに等しい感じですが、
変えられないことを受け容れる、引き受ける、それを生き抜くことに同意する。
ここがパラドックスであり、人生のおもしろいとこでもあるのですが、
この受容が成ったときに、この世界に適応したことになるのです。

不適応を生きる人生に同意してはじめて適応を生きる土壌が整います。
世間の基準でなく自分が自分の個性を肯定的に捉えて自分の人生に同意するのです。

かなり長い間、私にはどうしても我慢ならない、言葉の限り理屈を並べ立てても、
どうしても嫌悪の感情がおさまらない対象がありました。
我ながらあまりに理不尽なので、それは投影であろうと察しをつけましたが、
あるとき印象的な夢を見ました。夢の中では嫌悪感のかけらもなく理性的に、
微かに友好感さえ漂わせながら交流しているのです。
変えることはできないし、また変えるべきでもない自分の個性。
それを受け容れ、生き始めた頃に見た夢でした。

自分が自分の個性に同意する…一番大事なこと。これができるのは自分だけなんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大事な何かを、見過ごさないために

2014年12月17日 | 
試す。人を試すたことができるのは、
試すだけの気力、エネルギーがある心なのだと思います。
試すだけの気力を持ち合わせていない私は
試されているのかな…?と知覚するや反抗心がムクッと起き上がるのですが。

ずっと以前、試して、すみませんでしたと、いわれたことがあって、
試されていたのかあ…と、いわれてみて初めて気付いたことがあって、
それから、相手は違えど同じような状況を知覚すると、
試されているんじゃないか…?と疑念と怖れがチラッとよぎるようになりました。

さてあるとき。こんなことが浮かびました。
試されることに反抗してお終いにしてしまってよいのだろうか。
それでは大事な何かを見過ごしてしまうことにならないか?

試すという行為が、どうしてなされたのか。
ずっと以前の、試された経験を思い起こし、
そのときの相手の心を丁寧に考えてみると、
愛と好意が根底にあったのは確かで、それが相手が感ずるところの愛で、
私には少々不快だったとしても、悪意があったわけではないと理解できます。
試すことを選択したのは相手の中の防衛機制の心であって、
その時点において試してみることが愛情から出た、
その心にとってはギリギリの選択だったと思えるのです。

そのような意識的に相手を試す強い心に対して、
つい反抗心だけで反応してしまうとしたら、それは私の中の、
子どもっぽさが全開で小さく気弱な器があらわれることでもありますね。

相手の心情を汲み取り丁寧に考えてみる余裕がほしいものです。
学びの中で自分の傾向を自覚することの大きな意味が、ここにあるのだと思います。
感情に任せて大事なものを見過ごしてしまわないために、
丁寧に考えてみることのできる心を育みたいものです。

隠れていた愛に気付くきっかけが得られるなら、試されたっていいじゃないか!…ですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽と月と地球と

2014年12月11日 | 
毎朝、腕振り運動(スワイショウ)するのが日課です。
無念無想、数を数えることに集中するのが理想ですが、
すぐに考え事が浮かんできて数がわからなくなる…
ハッとしては数えることに戻る、この繰り返しですが、
長く続けていると、集中の途切れ方や、
湧き出す思考の内容が日によって変化したり、
それはそれでおもしろいので、硬く理想にこだわるより、
変化を楽しむのもよいかと思っています。

今朝は気付くと太陽と地球と月のことを考えていました。
昨日めくっていた「太陽・地球・月」の本(児童図書です)の影響かと思いますが、
余分な雑念が湧いてきたら、太陽、月、地球のことを考えたり、天空に思いを馳せる。
太陽や月の思考に逃げるのは案外よい方法かもしれません。

腕振りのときだけでなく、太陽と地球と月に思いめぐらすのは、
心身にとって、とてもよいと直観したわけですが、
自分をそれぞれに投影させて想像をめぐらすのもよいかもしれません。
とりあえず。今日を、そのように生きてみたいと思います。
今日は親友の窯だしを手伝うことにしていますが、さてどうなることでしょう。
太陽を回る地球として、心身の流れを楽しむとよいかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛の原型と、人類の未来。。。

2014年12月04日 | 
マルセル・プルーストの本は読んだことがないのですが、私の中で、
プルーストは“マドレーヌのエピソードの人”として記憶されています。
これまで読んだ様々な本で「失われた時を求めて」の
マドレーヌの思い出が引用されているのを何度目にしたことでしょう。

いちばん最近はピラミッドの謎に迫った本の中で、
このような本に出てくるとは思いがけないことでしたが、
古代文明の謎、人類起源の謎、おもしろく読み進めて、
最終章の終わりにマドレーヌの話が出てきたときには、
予想外の展開に驚きながらも心地よく、しばし夢見心地。。。
大切な何かが、すーっと心に沁みこんでくる感じでした。

マドレーヌを食べた瞬間に遠い昔の子ども時代の思い出が蘇った。
マドレーヌのエピソードはプルーストが愛の原型を取り戻した瞬間のことだったと、
そういうことだったのか。。。と、今回あらためて確認したのですが、
人類が進むべき道を論ずるのに愛の原型が出てくるのが意外と感ずる一方で、
そうでしょうと深く頷き、私の中の、心の奥に閉じ込められていたものが、
解放されていくような心地よさを覚えたのです。

愛の原型を思い出す。忘れていた愛を思い出す。

想像するという能力を愛を思い出したり、忘れていた愛に気付くことに使う。
その能力を深化させることができるかどうかに人類の未来はかかっているのだと、
それを本の最終章は語っていると私は読み取りました。

こころの環境が想像力の使い方に大きく影響されるというのは確かです。

(たとえば私にとっては前回取り上げた、楽しく熱心に取り組む姿に接したときのヨロコビも
愛の原型に通じているので、ときどき思い出していますが、
相手の顔や会話の内容はそれほど重要ではなく、その瞬間に流れた思いや、
その場の気配を思い出すことが想像力のよい使い方であると感じます)

愛を感じている自分を思い出せるかどうか。
人生は、人類の未来は、これにかかっているということでしょうか?
こころの奥深いところで深く同意する私がいるようです。。。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しく、熱心に。

2014年12月01日 | 
楽しく熱心にやっている。楽しく熱心に事にあたっている。
この気配を人から感ずることの幸せ。
イキイキと語ってくれている、それを聴くヨロコビ。
そんなことがたて続けに起こったもので、
楽しく熱心にやるのでなければ止めてしまえと、
自分に向かって言ってみれば、そうだそうだと賛同の声。
内側から、やる気が満ちてくる感じです。

楽しく、熱心にやっている。
別に大事業でなくても、小さな日常のあれこれでも、
楽しく熱心にやっているのであれば、
それだけで自己を実現していることだと思います。
楽しく熱心にやる内容は様々あるでしょうが、
一応、澄んだ気配とともにと付け加えておくことにします。

楽しく、熱心にやっている。生きている。
そのような世界から私は遠くにいる感じがするのであれば、
まずは楽しく熱心にやっている気配を認知するところから、
いいなあと、憧れを意識してみることが先かもしれません。
単純に、素直に、いいなあと、楽しく熱心の気配を感ずることができれば、
それが私自身の歩みの一歩になるように思います。

どうしてそうなのか。なぜそうなのか。
他人にも自分にも、なぜ・どうしてと考えることは、ちょっと脇において、
とりあえず、いいなあと憧れる感情を意識することを大事にしていれば、
考えるだけでお終いのパターンから抜け出せるかもしれません。

楽しく熱心の気配に意識的であると、
接する人々の中に、その人の自己実現を発見したり、
楽しみながら熱心に取り組んでいる姿を身近に感ずる機会が増えることでしょう。

そうしているうちに。自分で気付かなかった感受性が、豊かに耕されてゆくように思います。
そうして気がついたら、楽しく熱心にを生きている自分がいた。そういうことになるのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする