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こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

賢者も頷いてくれる・・・

2020年05月27日 | 自己実現
そこは触れてほしくな、、、という心の領域に触れられて、もちろん相手は善意で触れてくるのでその瞬間こちらの心が凍り付いたことなど知る由もありません。善意の言葉にはまず「ありがとう」が礼儀だろうと頭を過りますが、それを言ったらさすがにギャップが大きく嘘を言うことになるので、そこは出来るだけ平静を装って双方にダメージがない会話を意識して和やかにやり過ごすのです。

触れてほしくない場所のことにまったく無意識であったなら(抑圧されていたなら)、躊躇なく感謝の言葉を口にして無意識のまま会話が進んで後からなんとなくモヤモヤして、、、という展開になることでしょう。無意識の方が会話しているとき葛藤がないぶん楽ですが、それでは真に自分が生きていることにならないし内面の闇を深めてしまうことになると感じます。

葛藤はあっても意識的な方がよいと思うのです。

なぜ、そこに触れてほしくないかといえば自己受容が成っていないからで、触れてほしくない場所に理想(自己概念)と現実のギャップが存在しているからと理由は明快です。いつかギャップが埋まるのか、生涯、埋まらないままか、埋まった方がよいのか、埋まらなくてよいのか今のわたしにはわかりません。しかしギャップが存在していること、今、自分ではわからないことを含めて、その状況の受容はできているようです。

どうしてあの人はそこに触れてくるのだろう?など考え出すのは止めにして相手からは善意だけ受け取って、時間をかけて自分の問題に取り組めばよいだけの話ですからね。

葛藤を感じながら葛藤があるという現実をそのまま受けとめて(受容して)あなたはOK、わたしもOKの自他肯定で行動(言動)を選択しながら進んでいくのがいいなと思います。それにはまず日常の小さなことから意識して、練習することでしょう。

小さな葛藤に事欠かない日常生活は、意識的に生きる最高の訓練の場所といえますね。

こんなふうに綴っていると触れられたくない領域をもっていることそれ自体なにやら宝物のような気がしてきますが、葛藤を感じながら生きていく、葛藤の中で意識して選択して進んでいくのが正解というところでしょうか。
賢者がその通りと頷いてくれている気がしますね。
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生きているのは、誰?

2020年05月24日 | 自己実現
わたしたちは平素、意識の大部分は無意識に置かれたまま何の不都合も感ずることなく生きています。そして、いざ人生途上で様々な問題にぶつかって悩むとき、無意識だった思考と感情が意識化されることで、それに導かれて解決に至るということもしばしば経験するところだと思います。

問題にぶつかって悩む状況というのは、悩むことを通して意識の拡大が意図された状況に置かれるということではないか?そんな気がしてならないのですがどうでしょう。すべての出来事には意味がある、ですね。

生きるとは無意識の意識化のプロセスそのもので、人生とは意識の拡大を目指し歩み続ける旅なのだと、そんなふうに解釈するようになって「この状況にも大きな意味がある」と、日々のストレス曲線を意識した時の対処の仕方も自ずと変化してきたように思います。

無意識のままなされる行動(言動)とは「わたしが生きている」ことになるだろうか?無意識的に為された選択で進むことは「わたしが生きている」ことになるだろうか?無意識的な思考と感情のまま、あなたと向き合うことは「わたしとあなたが真に向き合う」ことになるだろうか?

このごろとみに無意識の意識化は人生のプロセスそのものであると、しみじみ思います。

なにも問題が起こるのを待っていることもありません。平素から無意識の意識化を楽しみながら意識の拡大を図ることもできるのではないでしょうか。わたしの場合は感情の取り扱いがポイントになると感じますし、毎朝の瞑想も欠かせないと感じています。

無意識の意識化を目指すことは、魂を生きることに限りなく近づいてゆくことに他ならないと思うのです。

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