こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

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2015年12月16日 | 愛とゆるし
離れれば無益な投影を避けられるにも関わらず、
不愉快なストレス曲線を避けられるにも関わらず、
そこを離れようとしないとは、その心に何が起こっているのでしょう?

考えられるのは、
・そこを離れてはイケナイと思い込んでいる。
・そこを離れることの不安に耐えられない。
体験的に、この二つが思い浮かびますが、
不安感に気付いているか、いないか。
気付いていれば解決の道筋も見えてきますが、
気付いていないときは抑圧が深いだけに、自分だけでなく
周囲をストレス曲線に巻き込む傍迷惑も起こってきそうです。

昔に比べて多少なりとも不安感に気付けるだけの心に成ってきたとしたら、
どうして、私はそのように成ったのか。成れたのか。
振り返り、じっくり思い巡らしてみると、これからの自分自身と、
周囲をストレス曲線に巻き込んでいる現象に接したときに私が
どうすればよいか(どう在ればよいのか)が見えてくることでしょう。

思い起こせば、不安感に向き合うことができない弱い心だなぁと、
時に少々キツイことを言われたことがあったとしても、
その発言の根底には愛があった。それは確かです。

不安感の意識化に向けて私にできることがあるとすれば、
自分の体験を思い巡らしながら、その人の心がどの辺りを歩んでいるのか。
不安感の抑圧がどの程度、深いのか。(プロセス・スケールの出番です、、)
その時その時の相手の心の在りようを感じながら接してゆく。
これがいちばんの、遠い近道なのだと思います。

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闘わずして。幸福曲線へ

2015年09月11日 | 愛とゆるし
ストレス曲線をもたらす人間関係で、
あるとき、“正しくあろうとするから、疲れるんだ。。。”
と、ハタと思い至りました。
正しさで相手を負かそうと、けんめいに理屈を並べ立てて、
最終的に疲れ果てているなんてバカラシイ。
口に出さないまでも心の中で繰り広げられる一人相撲とは、
人生の無駄もよいところです。

言い負かそうとやっきになっている自分にハッとしたならば、
一呼吸の間をおいて、今起きていることを観察してみることにします。
ヒートアップしている感情を、ストレス曲線の錯乱から
怒りの内容を思考できるぐらいまで冷静になるよう努めます。

並べ立てている理屈のもとになっている感情を、どんどんたどってゆけば、
たどり着くのは「好き・きらい」「怖い・怖くない」の、
原初感情といわれているものであるでしょう。
この状況はきらいだ。この一言で済むのであって、
相手がどうだから、こうだからは後付けの防衛機制にすぎません。

相手のことはどうでもよい。私はこの状況がきらいだ。
それを明確に、心の中でくっきりと言語化することができると、
次の展開がまことにスムーズに流れ出すことに気がつきました。
徒労の闘いに時間を費やすよりも、自分の人生の目的に立ち戻ること。
私のやるべきこと、人生の課題を淡々とこなすことに戻ることの方が、
ずーーっと大事であると思うわけです。

朝目ざめたら、徹夜明けの家人の仕事場に、ほろ酔いの来客が。。。
急遽、夕べの稲荷ずしの残りの煮つけと厚焼き玉子を、
白胡麻入りの酢飯に載せて、海苔を散らして。
定番の実だくさんのお味噌汁を増量させて朝食を供しました。
目に余る侵食が発生しない限り闘うつもりはありませんが、さて、どうなることでしょう?

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歩いて歩いて 4

2015年02月04日 | 愛とゆるし
その瞬間、その人が自我とどのように関わっていたのか。
たぶん魂に寄り添う心が、それを直観するのです。

人は生きていたように去ってゆくと私がリアルに感じた最初は
父が逝ったときですが後から思うと、父は前日から自我をすっかり手放していました。
父の場合は内面が外界に、周囲に見える客観的な現実として映し出されていたので、
言葉が適切か分かりませんが、とても解りやすい最期でした。

でも周囲にとって解りやすい最期―受容しやすい別れなど例外的で、
解り難く受容しがたいケースが圧倒的に多いのでしょう。

何れにしても。

立ち会う心が自己概念にぐるぐる巻きにされていると、
言わずもがな思わずもがなの言葉の嵐が吹き荒れますが、
何がイヤって不毛な言葉を聞くほど嫌なものはないので、
自己概念ぐるぐるで思い込みの激しそうな人は今から敬遠したくなります。

立ち会う人には魂に寄り添う心で沈黙してくれることを望みます。

心とどのように関わってきたのか。
自我と、どのように向き合ってきたのか。
揺れる心のバランスをどのようにとってきたのか。

遅かれ早かれやってくる最後の難題のために。
沈黙すべきときに沈黙するためにも、
こころの仕組みを学び理解することは、生涯の学びとして、
なんと相応しいことかと、あらためて思います。。。
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歩いて歩いて 3

2015年01月31日 | 愛とゆるし
共感って、大事よね。
友人が感に堪えない面持ちで呟きました。
確かに共感は大事、私もそう思いますが、
友人と私の描いている共感の内容に若干づれがあるような気がして、
そうねぇ。。と少々力強さに欠ける相槌をうちました。

相手のテンションに相応しく応答できなかったのは、
おそらく友人が相手に(私に)共感していると意識しているとき、
私は共感されているとは知覚していないであろう…と。
友人の発言を聞くや、そのようなことが脳裏を掠めたからでした。

長く友だちでいるのですから、お互いに
共感を感じあい受け取りあっているのは確かです。
思うに友人が共感する意識などしていないときに、
共感されているなあと私が知覚することが多いのではないかと感じます。

共感されるとき人は温かくなって和らぎます。
共感は理詰めや理屈から、いちばん遠いところにあります。

共感したいのであれば、まずは自分自身に共感するところから。
感情を知的に理解するだけでなく、そこでよしとしてしまわずに、
そのような感情をもつ自分を肯定的に温かく、穏やかに、
感情のレベルで受け容れてやることができるようになって、
自分自身に対する真の共感を育てることができてはじめて、
他者への共感も生まれてくるのでしょう。

自分自身を温かく受けとめることができる。
湧いてくる感情に好悪をつけず評価することなく優しく接することができる。。。
素直な心は共感のゆりかごといえそうです。
ゆりかごのように優しく自身を和らげることができたなら、
これこそが共感の真髄、最も大切なところかもしれません。
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後退して、前進。

2014年10月19日 | 愛とゆるし
気温が下がってきたせいか秋の食欲(と、言い訳、、)に負けて、
昨日は昼食の後、夕食までの間にチョコレートや果物を間食してしまいました。
歯止めが利かない…自覚しつつ、三ヶ月ぶりの盛大な間食です。

夕食もしっかり摂って、一日の終わりに、
“明日の朝食から仕切りなおし…!”自分に宣言しました。

朝食は、昨日の過食に配慮した適量を美味しく頂き、
少々重かった、お腹の調子も回復しています。
お昼は、先ほど届いた贈り物の紅玉林檎と、
定番のソーダブレッドを丁寧に適量、頂くことにします。

二歩後退して三歩前進の心意気ですが、
後退は更なる前進のためにやってくる♪
後悔してうじうじしそうになったときは、この解釈を思い出すとよいですね。
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共感できれば、福が来る。。。

2014年10月12日 | 愛とゆるし
あなたと私が、なんとなくが反発し合っている。
お互い、相手に友好感をもっていない状況が続いているとき、
どちらか一方が和解に向けて踏み出そうとする。
これまで思いもよらなかった意思が芽生えたとしたら、
感情の拘りから、その人解放されたしるしなんだと思います。

感情から解放されたその人はごく自然な構えで自己の伝達をはじめることでしょう。
感情に拘っているとき、人は自己の伝達をしようという気にはなりません。

自己の伝達が成って和解できた後に、そういえば酷い態度をとられたのだっけ、、、
拒絶されてキュンと身が縮む体験があったことを、
すっかり忘れていたことを思い出しました。
思い出しても別にどうということもなく相手に対する友好感は変わりません。

ところで。私は一人でいるときに、ふと過去の出来事に纏わる感情に囚われて、
顔を歪めてしまうことがありますが、あたかも感情体験を、
しかめ面のへん顔で押さえ込もうとするかのように…。
感情に拘っているせいで自分と和解できないわけです。
あまり気にしていませんが、そろそろ脱する時期かとも思います。

同情できるかどうか。ストレス曲線におかれている相手の心情を、
共感的に理解しようとするのか、しないのか。
感情を手放してしまえるか、拘り続けるかは、そこにかかっているようです。

自分に対しても同じことです。
ストレス曲線におかれている自身の心情に同情できるようになれば、
自分に向けて、しかめ面する必要もなくなることでしょう。

感情を手放す、拘りを手放すことが福を招く。。。これは確かですが、
前提として同情できること。相手の(自身の)ストレス曲線に共感できること。
ここがポイントで自身の器を大きくしてゆくことの目的であると同時に、人生の課題かもしれません。
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自己の伝達と、愛の原型

2014年10月01日 | 愛とゆるし
自己の伝達。。。

自分の正直な気持ちが、その人に伝わってないなあと感じていました。
相手の愛の原型を理解しながら、それに即して行動できない自分を知っていました。

無理はできないので、私の思うやり方で接することにして、
冷たい人と思われても仕方がないわと、あきらめていました。

こころで、あたたかな気持ちを送ること。
短い挨拶の中に、私は敵ではありませんよ~の気持ちを籠めること。
できることをやって、後は天に委ねよう。。。
大袈裟ですが、こんな気持ちでいました。

そうして、あるとき(一昨日ですが、、)、
思いがけないかたちで私の気持ちが、その人に伝わっていることを知りました。

意外で嬉しかったのですが、それよりも。
願って、やるだけのことをやって、
後は委ねてしまった(忘れてしまった)。
そのやり方でよいと確証を得たような気がしました。

まあ今回は偶々確かめるチャンスが与えられたのであって、
願って、やるだけのことをやって委ねて(忘れて)、
ちっとも伝わらず、誤解されまま終ってしまうこともあるでしょうが、
人間にできることは、そこまでです。(と、私は思っています)

私のやり方を受け取ってくれたということは、
相手も愛の原型のコダワリから一歩踏み出したのだと、そう考えると、
無理をして相手の原型を満たしてあげることだけが愛ではない。
それもまた確かなことなのです。

おかしかったのは“冷たいと感じていた”と、その通りの言葉で、
私の推察が正しかったことを確認できたことだったのですが。。。
自己の伝達には愛の原型が深く関わってくる。このことを再認識した出来事でありました。
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強く逞しく

2014年08月04日 | 愛とゆるし
自分が成育史をどのくらい受け容れているかどうかは、
他人の成育史がどのくらい気になるか。
それによって、ある程度、察しがつくかもしれません。

よくもわるくも傑出した他者を見たときに、
自分はどの点に注目し、どこに一番関心が向くでしょう。
専門家は別として、他者の成育史に注目する度合いが高ければ高いほど、
投影の要素が入り込んでいる可能性は否めないように思います。

木枯し紋次郎を愛読している私ですが、
“どうして紋次郎は旅をしているの?”と友人に訊かれて、
彼の生い立ちを答えながら、紋次郎が紋次郎で在るのに成育史は関係ないなあ。
あるとしても、それはきっかけにすぎないのだと、あらためて思いました。

他者に関して。簡単に説明のつかない事象に関して、
わからないことを、わからないままにしておける強さと度量…
自分が自分の成育史を受け容れている度合いに応じて、
この強さと度量は育まれてゆくものかもしれません。

紋次郎は現実を受容しているがゆえに強く逞しい人間の、原型といえるかもしれません。

木枯し紋次郎を読みなが彼の個性に同化する効果が少なからずあるような気もして…
カッコいい、、と思わず口走りながら大事に読み進めております。
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小さな波を。受け容れる練習

2014年07月16日 | 愛とゆるし
受け容れると、ものごとが動き出す。
こころを見つめながら、折々に感じます。

日常の他愛ないやり取りの中で生まれる、感情の波。
まず波に気づいて、つぎに波に抵抗しようとしている心に気づいたなら、
一瞬の葛藤を過ぎ越して抵抗を止める。
抵抗を止めると、ものごとが動き出す。。。

一瞬の葛藤は、あまりに一瞬で、長く染み付いてきた反応でもあるので、
よほど意識的でないと捕まえることはむずかしいかもしれません。

こんな感情は、困る、、と怖気ないで、
ああ、来たね…と感情に目配せする余裕があれば、葛藤は解消され、
この一呼吸の間が、感情を受容するということなのだと思います。

まずは、こんな感情は、、と困っている自分に気付くことから始まるわけですが。

本当に微妙な感情の波は、日常の中で絶え間なくやってくるので、
小さな波をを無視しないで丁寧に感じて小さな受容を重ねてゆくだけです。

受け容れると、ものごとが動き出す。こころの世界が動き出す。
小さな受容を意識するほどに、人生の充実は高まるように思われます。
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見過ごされがちな感情

2014年05月12日 | 愛とゆるし
「私がへん…」と適当にやりすごしてきた小さな感情に、
ちょっと、とどまってみることにすると、身体の通路がひらかれる感じがするのは、
身体で感情を受け容れるための準備が整う感じといえばよいでしょうか。

防衛機制を働かせていた(適当に合理化していた)ところから、
ちょっとだけ感情に立ち止まってみようかと意識することは、
感情を身体感覚として受け留めようとすることかもしれません。

「感情を感じてみる」といってもよいかもしれませんが、
身体で感じることに留って、身体で感情を受容するのです。

言葉によらず、しずかに、あるがままに感じるにまかせていると、
ときには、ふーっと遠い日に体験した感覚がよみがえってきたりします。
具体的な出来事というよりは、感覚として身体が思い出して、
ああそうだったのかと、身体が納得する感じです。

ちょっとしたことで生まれてくる違和感とか不愉快が、
過去の記憶に反応して生まれてくることもあるのですね。

小さな感情に立ち止まり、受容することは、
少年少女の頃に経験した、ちょっとした孤立感であったり、
身近な大人に感じた、解ってもらってないなあ、、という子供心のため息であったり、
遠い昔の小さな感情体験を受容することにもなるようです。

言葉によらず。小さな感情に立ち止まることを意識すると、
感情を身体で感じることを通して、理屈抜きで、
身体全体で感情を受容するということが起こるように思います。

ときには理屈を休ませて身体にゆだねてみると、ほんとうに、ほお~っとします。
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