こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

プロセス・スケールに照らしたなら。。。

2014年09月30日 | 無意識の世界
心の奥底から湧いてくる真正な願いだと思っても、
防衛機制でがちがちの心がそう思い込んでいるのだとしたら、
事態はやや複雑かもしれません。

それで。思い込みを聞かされる方が、なんとなく違う…と感じるならまだしも、
その人がそう言うのだから、その願いは真正に(神聖に!)違いない…
などと思い込みが重なるとすれば、最終的に、そうではなかったと気付くまでには、
双方がへとへとに消耗するのは目に見えています。

日常生活で小さな思い込みが重なることは、
いちいち意識しないだけで珍しいことではないにしても、
事によっては大きな出来事として当事者の心に記憶されることもあるのです。
もちろん私にも覚えがあって、ほろ苦い経験として残っています。

感情の流れを診断するプロセス・スケールに照らしてみたならば、
底辺をさ迷っているもの同士が思い込みの願望を真剣に語り合っている姿は、
今ふりかえると、いじらしいというか愛おしいというか、おかしくもあり複雑ですが、
時と共に苦味よりも味わいが、肯定感が優位になってきているのも確かなようです。

ここにある私の願いは真正であるか?
ただの思い込みの欲求ではないのか?
熱意に根ざしているのか、心の防衛機制からきているのか。

それを確かめるのにプロセス・スケールが有益であることを思い出すなら、
それだけで十分かもしれません。
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熱意が、もたらすもの

2014年09月29日 | 
熱意から出た行動が周囲を幸福曲線に導くことが多いの対して、
コダワリが根っこにある行動は周囲をストレス曲線に向かわせることが多い。
といっても。周囲のタイプもいろいろ心の状態もいろいろなので、
周囲が健やかな心であるのを前提としての話です。

拘りが防衛機制から生まれるのに対して、
熱意は心の底から湧き上がるようにに生まれてくるので、
情動として意識されることが多いのかもしれません。

昨日は2週間ぶりに会った方から、
“すっかり元気になったわね。目の輝きが違うわ”と、
声をかけられましたが実は自分としては、
体感的には万全という気がしていないので、
うれしくもあり、ちょっと意外な感じもしたのです。

でも指摘されたのは自信になりました。
確かにそうかも。。。体感は体感として、
意欲的に動いていることは確かなので、
それが目に表れていたとしたら、もっともだと自分でも思います。

かなり長い間、私の熱意は休眠していたような気もするし、
情動という言葉を使ったことも殆どなかったのではないかと…そんな気もします。

自分の中の拘りや執着、防衛機制の思考と感情と行動に理解が進むほど、
心の奥底に眠っていた熱意も現れてくるようで、
だからといって何か大胆な行動が現れるということではなくて、
日常生活の行動が熱意の色調にに変化することで、
イキイキとした印象を周囲にもたらすということかもしれません。

私の防衛機制の傾向を理解するほどに休眠していた熱意も目覚め、
周囲に幸福曲線をもたらす機会も増えていくとしたら。。。うれしいことですね。
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聴くことの、意味

2014年09月27日 | 
自分を生きてこなかった。。。
ぽつんと呟かれて、今思うと、そのときの私は
言葉の真意を汲み取る余裕がなかったのです。

何度も聞いてきた言葉を繰り返している…
その程度の意識で聞き流し頷いていただけで、
長い歳月の中で言葉の意味が、
本人にも気付かれぬうちに変容することもある。
このことに思い至らなかったのです。

自分を生きられなかったのは環境のせい。
周囲の無理解が辛かった。孤軍奮闘で生きてきた。。。
防衛機制の言葉に長年付き合わされてきたので
(こちらが勝手に付き合ってきたともいえますが、、)
いつもの調子で、やり過ごしてしまったのです。

自分を生きてこなかった。。。あの時ぽつんと呟かれた言葉は、
今思うと魂の安寧のために呟かれた言葉と思えてなりません。

私の限界だったのだから仕方なかったと諦めながらも、
丁寧に耳を傾け「傾聴」することができたなら、
とても大事なところへ到達できたかもしれないのにと悔いが残ります。

歳月を経て今頃になって気付くのも私の運命であるし、
その時から、過去も未来も現在も私のすべてを、
呟いた人は受け容れてくれていることは解っています。

いつでも魂の領域は完璧ですから。

自己概念の詰まっ防衛機制の心を、他者と自分の心を
丁寧に傾聴してゆくことの意味を、あらためて胸に刻んでいます。
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滋養になる摂り方。。。

2014年09月26日 | 
このところ頻繁にパンを焼いています。
パンといっても、ごく簡単なもので、
イースト使う場合は一回醗酵させるだけの鍋焼きパン。
ベーキングパウダー使って蒸しパン、
ここ数回はタンサンでソーダブレッドを試していますが、
材料をを量って混ぜ込んで成型するのに10分、
後はオーブンに預けてしまうだけ。気楽にできます。

熱心にパン焼きしている一番の動機は、
冷蔵庫で休眠していたドライイーストやタンサン、
ベーキングパウダーを早めに消費したいからなのですが、
あらためて食生活を見直していると、
こんなに多種類のメニューを食する必要があるのだろうか?

そんな思いがふつふつと湧いてきて、「滋養になる適量」は、
メニューにも当てはまるような気がしてきました。

必要十分、適量の気持ちのよさは一食一食を適切な量を頂くことで実感しているので、
当たり前に調理してきた料理を削ることにも思ったほど抵抗はありません。
メニューが減れば食品数も減りますから戸棚や冷蔵庫もすっきり隙間ができる…
これがまた気持ちがよいのですね。

食生活と健康維持に関して考え方は人それぞれです。

食べたいものを食べたいだけ食べて、過剰のリスクを排除するために
ミドリムシの粉末を大量に摂取するというのも一つの選択だと思いますが、
「適量を頂くこと」で過剰摂取のリスクを回避するという選択もあるのです。

食べ物が貴く滋養になる摂り方、心身と魂にとってよいのは、
適量を頂くことの方が勝っているに違いないと思えるのですが、
どちらの選択が私を幸福曲線に導いてくれるのか…?
自分にとって相応しいと思える道、一番しっくりくる方法を選択してゆくだけですね。

ところで私のパンは。ソーダブレッドは残留がほぼ決定で、今日もこれから頂きます^^)v
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適量が、滋養になる

2014年09月25日 | 五感と体感
体の調子を崩したこともあって、
いつにもまして食生活に関心を寄せながら、
初夏の頃から今日まで試行錯誤して過ごしています。

それで解ったことは、
何を食するかも大事だけど、それよりもっと大事なことは適量をいただくこと。
適量-腹八分目を意識してみると、適量を把握することが意外に難しいのです。
脳と体感が一致しなくて混乱することもあります。

そして巷では食事療法、養生については正反対の主張が溢れていますが、
自分にとって最良な方法を知ることが大事だということ。
何がベストなのかは人それぞれ違うはずですから、
遺伝的要素や自分を取り巻く環境を考慮する必要もありますね。

食事の回数は従来どおり朝昼晩3食摂ることに落ち着きました。

今朝は台所に立ちながら、もしも一日を人生にたとえるのならば、
夕食をいちばん軽く済ませるのが自然なコトではないかと、ふと思いました。
ならば。チョコレートを一粒頂く幸福も夜にもってくればよい?
思っただけで頬が緩むとは、私にとってチョコレートの魅力は大きいようですね。

こうと決めたならば、信じて楽しく頂くこと。
食に関心を寄せながらも、神経質になりすぎないこと。
食べ物が心身の滋養になる、大事な大事な要素なのだと思います。
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気にしないの助♪

2014年09月24日 | 
時計を見たら6:55、そうだと思いつき、
テレビのスイッチを入れました。
Eテレの0655を見るのは2ヶ月ぶりぐらいでしょうか。
今日は猫ではなくて、♪ワタシイヌイヌが流れ出したところでした。
おはようソングは、はじめて聞く曲で、
“気にしないの助音頭”、、、ニコニコして歌詞を追いました。

気にしない気にしない、気にしてみたところで大勢に影響はないと、
気にしすぎる心へ、気にしないの助が朗らかに歌いかけます。

気にする。。。やっちゃったこと、言っちゃったこと、
済んでしまったこと、過ぎちゃったことをうじうじ気にするとき、
私はいったい何を気にしているのでしょう…?
さきほどもコミュニティの連絡網のお知らせを、ある方に電話して、
もっと上手く伝えればよかったと気にしたばかりですが、
もっと上手くスムーズに伝えたかったのにそうできなかったから…というところでしょうか。

それで、こうありたかった理想と、そうはできなかった現実のギャップをあぶりだして、
考え方を統合してみても、なんとなくすっきりしない。
統合した言葉に感情が追いついていない感じがする。

そういうときは新たなストレス曲線が始まっているのかもしれないと思います。

いじいじ気にしている私はイヤだなあと、なんとなく自己嫌悪感が漂いだしますが、
気にしている私をまるごと、なるようになってゆく私をまるごと、
まあいいか、気にしない気にしないと眺められるようになるのが一番ですね。

気にしない気にしない♪気にしないの助を思い出して、
今日も朗らかに自己受容、ですね。
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なるようになるでしょう。。。

2014年09月23日 | 
なるようになることを好と出来る動じない心は、
出来事を少し離れたところから眺めて、
事の成り行き、全体を見守る姿勢をもたらしてくれると感じます。

そもそも。私をストレス曲線に向かわせるきっかけになった、
他人の言動や活動、外界で起こったことが生まれた発端はなんだったのか。
個人の防衛機制が最初にあったのか、それとも、
もっと心の奥深いところから湧き上がった要求が最初だったのか。

なるようになることを好とすると、なんとなく見えてくるのです。

その出来事は思考に起因しているのか。それとも魂に起因しているのか。
何人もの人が関わるときには、あらゆる個性が入り混じり、
各々の思考と感情が入り混じり出来事は複雑に展開してゆきます。

自分の内面を覗き込んでみれば、防衛機制の思考と感情と、
心の奥深いところ-魂からくるものが微妙に交じり合って、
日々の言動や行動も生まれてきているのが解ります。

よいわるいの問題でなく、すべては必要なものです。

なるようになることを好とできる余裕がでてくると、
防衛機制の要素と魂の要素と…それを見つめることは楽しい。
内面のふしぎを眺める楽しさに目覚めるということかもしれません。

なるようになるでしょう。。。今日も自分にささやきます。
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流して流して、囚われない

2014年09月22日 | 
他人の言動に接して、
どうーして、そういうこと言う訳?!と相手にイラつく時期があって、
それから、心の仕組みなど(心理学など)学びだすと、
どーして、ここで動揺するわけ?!と自分の反応にイラつくようになり、
熱心に自己分析するような季節が巡ってきます。

そうそう人によっては。相手にイラつく前に自分が何も感じないように
心にしっかり蓋をして感情を抑圧するという時期を長く過ごすこともありますね。

拘って自己分析する季節を過ぎると次に来るのは、
他人の言動によって、ストレス曲線(動揺したり、怒りが湧いてくる等、、)になるのは、
湧いてくる思考や感情を流すたため、それだけのことかもと、
動揺してもそれに囚われずに、ただただ流すための訓練の機会がきているだけかも…。
そんなふうに思って大らかにやり過ごせる時期がくるかもしれません。

そんなときの私は、なるようになるでしょうと心でつぶやいていますが、
なるようになることを好しとできる動じない心。

それを養う機会が毎日毎日与えられているのだとしたら、
囚われて立ち止まっていたらもったいないので、
与えられたチャンスは最大限に活かしたいものですね。

それから…動じない心は親しい人に感染してゆく過程が案外見えやすいかもしれないと、
日曜日のミサの後、教会の庭の立ち話を思い出して、ふとそんなことを思いました。
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こころ惹かれるもの

2014年09月18日 | 
同じ映画を観ても、同じ小説を読んでも、
どの場面に心引かれて何を感ずるのかは人それぞれ違います。

私が(あなたが)その場面に引かれて惹かれるということは何か意味がある。。。
こころが動く、感情が生まれてくるのは何か意味があるからです。

でも意味を探るようなことをしなくても、心惹かれて感動している私、
この場面が好きと感ずる私を意識できればよいのだと思います。
それだけで私の中に(あなたの中に)何か大事なものがもたらされることでしょう。

意識にあげるだけで、心全体に何かしら変化がもたされるとは、
この感じは眠って見る夢の付き合い方と共通するものかもしれません。

折々の変化は小さなもので自覚できないにしても、
感じている私を意識にあげることは、とても大切なことのように思います。

フランスアルプス山脈に建つ修道院の映画を観てきました。
音楽なし、ナレーションなし、照明なし、中に入れるのは監督一人のみという条件で
グランド・シャルトルーズの撮影は許可されました。

よい映画に出合えました。折々に思い出して心惹かれる場面を思い浮かべています。

慎ましいということがどういうことか、伝えてくれている作品です。
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瞬間を、見張ること

2014年09月14日 | 魂と聖霊
とても久しぶりに友人の姿を見つけて、
どうしているかなぁと時折、思い出していた友人だったので、
思わずニッコリ、頬が緩みました。
出口で再会を喜び、天とつながる分かち合いも成って、
幸福曲線のうちに帰宅しました。それから数時間後。。。

林道を歩いていると、いろいろな思考が流れてゆきますが、
そこに感情の彩りはなく、浮かんでは消えゆく思考の流れがあるだけです。

今日は喜びが執着に変質する瞬間について考えていました。
再会した友人とは別の遠くに住む友人のことも思い出されたりして、
自問自答しながら、その瞬間を過ぎこすことができたのかもしれません。
つまり執着の瞬間を見張ることができたのです。

このことをここに打ち込みだした途端、メールの受信音が鳴りました。
きたァー!と思ったら、やはり冒頭に書いた友人からでした。

丁寧に注意深くあれば、承認のしるしが与えられることもあるのですね。
それでよしという天からのしるしです。
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