こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

同調に、ご用心

2015年04月28日 | 意識と知覚
自分の不一致(深層心理での本音が意識や言葉と一致していないこと)に、
さっぱり気付かずにいたところから、微妙な違和感を覚えだす時期を通って、
ついに不一致が明確に意識されるときがきたとして。

不一致に気付かなかったときには苦も無く「同調」できていたのが、
心楽しく同調できていたのが、本音に気付きだすと、
とりあえず言葉で同調していても、以前にはなかった違和感を覚えて、
以前は楽しかった対話や交流に身をおくことが、とても苦痛に感じられます。

この苦痛は「同調を強いられている」と知覚するところから生まれてくるようで、
そこには小さいとはいえない脅威と圧迫感もあります。
しかし、相手に同調への期待はあっても強いられていると知覚するのは、
明らかにこちらの“感じすぎ”と思われるので、
「同調を期待されても強いられてはいない」と書きかえるのがよさそうです。

不一致を自覚したその上で、どう行動するかの選択肢は、
本音を自覚しながら相手に同調することを優先させるか、
同調していない本音を伝えるかの、どちらかになるのでしょう。
後者は場合によっては関係性の習慣を壊すことにもなるので、
時間をかけて習慣を作り変えるような気持ちで臨むのがよいのかもしれません。

ここ数日の出来事と心の流れの中で「同調」がキーワードのように出てきて、
なんとなく。考えるともなく考えていて、「不一致の意識化」と同調の問題が、
ここにきて繋がり、問題がくっきりとみえてきたわけですが、
「同調を強いられてはいない」と自己概念を書き換えることと、もう一つ。
「自分が同調を期待している」瞬間を意識してみたいと思っているのです。
自分がどんな時と場面で、どういう相手に同調を期待しているのか。
その瞬間をとらえて、自分の傾向に意識的になってみようと思うのですが、
意識するだけで―無意識の意識化が成るだけでー変化することも何かあるでしょう。

頭の中が整理されて方針が定まってくれば、最近の一つの気がかり、
同調を強いられていると知覚したことから生まれていたストレス曲線も宝物だったと思えます。
感情には意味があります。ストレス曲線は疎かにしないで誠実に接したいものですね。
コメント

散歩。。。

2015年04月24日 | 魂と聖霊
「散歩には神さまが伴う」と言った人がいたそうですが、
ちょうど日課のウォーキングの距離を倍にして、
同じようなことを感じていたところだったので、我が意を得たりです。

「さん」が付く言葉は神聖さと関わりがあるという説はともかく、
散歩は私にとって人生の大切な要素、大切な日課になっています。
ウォーキングそのものは、ちょっと苦しくもあり、
うきうきと楽しい時間というわけにはいかなくなってきて、
心はハヤレド体が追いつかない、心の内と外、
心と体が変化してきたことに思いを致しながら歩くことになります。
一歩一歩踏みしめながら心を整え、心身を統合させるとなると、
自ずと魂を意識することになって、そういう意味では、
速度を落とさざるを得ない状況は散歩には好い状況といえます。

以前のような、前のめりの高速歩行では魂は追いつけなかったかもしれません。

林道から車道へ出る辺りや池の際に木立がせり出している風景、他にも
散歩コースに過去に見知った懐かしい風景と重なるところが多々あることは、
最初は全く気付かず、何往復かした後に気付きましたが、
毎日少しずつ無意識の意識化が促されたのかもしれません。
とくに魅かれるわけでもなく、かといってイヤだと思うこともなく、
淡々と目の前に現れる風景に、歩く度に何かが重ねられてゆく感じがして、
風景の記憶に毎日、私の何かが付け加えられていくような気もしています。

私の心の在りよう、心と身体と魂の在りようが、
その空間に何かしら影響を与えているとしたら、
風景の記憶に見えない何かが刻まれてゆくとしたら、
心を澄ませて、相応しい心で散歩したいものだと思います。

散歩には神さまが伴う。。。味わい深い言葉ですね。
コメント

小さなウソ、小さな不一致

2015年04月21日 | 
深層心理での本音が意識や言葉と一致していれば、心理療法上の問題はありません。
しかし心の奥深い部分での本音と頭・心での意識・言葉があまりにも相違している場合は
大きな問題が潜んでいます。(*生き甲斐の心理学・第3章〔20〕より)

じーっと上記の文章を見ていると、人が(私が)正常と異常の狭間、
中間地帯を、おっとっとぉ、、と揺れながらも辛うじて、
健全を保ちながら過ごしている日常の姿が見えてくるようですが、
時に大きな不一致が起こったとしても、不一致に気付きさえすれば、
その瞬間に振り子は一致に向かうことになります。

不一致に対する感受性が冴えてくると自他に関係なく不一致を知覚した瞬間、
暗い気分に墜ち込むような心が固まり感情の流れが途絶える。。。
そんな気配に包まれるので、人々との接触を遠ざけたくなる心境になったりしますが、
他人を遠ざけることはできても、いついかなるときも自分だけはピタリとくっついてくるのだから、
不一致を知覚しても、そう簡単には心が固まらない考え方を確立しておくことですね。

つまるところ。それは人間に対する深い理解ということなのだと思いますが、
人間の本質は不安。その前提に立って不一致という現象を見つめる必要があります。

人間の本質が不安であるならば、微かな不安が人間の常態ともいえるわけで、
あなたも私も基本的には不安が常態ということになるでしょう。そして、
あなたも私も人は、いつでも安心を求めていて、求めているその要求が、
ときに不一致という形で現れてくるわけです。

安心であれば不一致は顕れてこないはずで、本質に根ざした不安ゆえの不一致と捉えれば、
不一致を体現している目の前の対象に共感的な理解が生まれてくることでしょう。
あなたも私も。人は愛を感じている限りにおいては、いつでも安心に包まれていますが、
そんなことはありえないし不可能です。もし可能だったら光と影の美しさもないわけで、
そんな世界は考えただけで、そっとしますが。

愛を感じていれば不一致は起こらない。人間の本質が不安ゆえの不一致。
それを思い出せば不一致に遭遇しても動じることなく穏やかさをキープできそうです。

不一致とは、日常的な言葉でいえば小さなウソといった感じですが、
あなたと私、人に対する共感的理解、人間観を確立することで、
そうやすやすと感情が乱されない。健やかな感情生活が望めそうですね。
コメント

大勢の他人と、未知の感情と。。。

2015年04月20日 | 光と復活体
今朝は、直前まで見ていた夢を思い出すと可笑しくて、
床から起き上がるや声をたてて笑ってしまいました。

既知の他人や未知の他人、とにかく登場人物が多くて、
私のあずかり知らぬところで何か計画が進んでいるらしいのですが、
人々を歓迎しているわけでもなく、かといって困っているふうもなし。
家人が意図して何かが始まろうとしていることだけは理解しています。
夢の中で案外たくましく行動している私なのですが、
大勢の人々は私の感情を表しているのではないか。そんな直感をもちました。

悔いのない人生とは? 一つの見方として
人生の前半で、抑制、抑圧してきたモノを(感情を)、
人生の後半で十全に昇華することが叶うならば、
人生に悔いは残らないのではないかと思います。
後半生の感情生活を、のびのびと私らしく生きるのです。

感情生活に関して他人のせいにしたり環境のせいにしたり、言い訳は通りません。
健全な感情生活をつくりだすのは、本人(私)の意思にかかっていて、
私が私をどれくらい受容しているのか。どれくらい肯定的に受け留めているのか。
感情生活は、その一点にかかっているのだと思います。
とはいえ。どのような感情生活を求めるのか、求めないのかも人それぞれなので、
求める人は求めるし、求めない人は求めない。人生いろいろです。
でも一ついえるのは自己受容と感情の昇華に不真面目であるとき(無関心であるとき)、
他者受容も叶わないし本物の和をつくりだすこともできないのではないか。そんな気がします。

今朝の夢に出てきた家人は、これまで表れていなかった私自身かもしれないと思います。
大勢を招いて私は何を始めようとしているのでしょうね?判りませんが、ワルイことではなさそうですね。
コメント

自分自身に正直になること

2015年04月04日 | 魂と聖霊
こころの奥底に在る泉から、
ちょろちょろと水が流れ出してきて…私の場合、
知恵の泉が滾々と湧き出して…とはいかないようですが。
私にとっては、とても心地よい流れで、
知恵の泉の流れ具合も人それぞれの在りようがあるのでしょう。

泉の水路が堰き止められたり、時に逆流したり。
その原型はたぶん5、6歳の頃にあるのだと思いますが、
その頃の子供だった自分に立ち返り、思い出してみるならば、
外の世界に適応させるために見ないようにしてきた(抑圧してきた)、
置き去りにされた宝物があるような気がしてなりません。

いやだなア、こわいなあ、きらい…など、
その時、無意識に抑え込んでしまった感情は魂からきたもので、
大人になった今、抑えこむ必要のないこの場所から、
あらためて当時の感情を意識化してみると子供の頃から変わらない、
一貫した私の感受性というものが見えてくるように思うのです。

私の中の変わらないもの。変わらずに生きつづけているもの。
三つ子の魂百までと云われるのは、このことかもしれません。
それで。その変わらぬ感受性を真善美の視点から眺めてみるならば、
ものすごくクリアーに浮かび上がってくるものがありそうで、
その浮かび上がってきたものが私の人生を力強く支えてくれるに違いないと思えます。

残された人生を泉の流れを自分で遮ってしまうことがないように、
内なる魂において素直に正直に生きぬくことができますように。。。願います。
コメント