こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

ギリシャの神々が、知らず知らず

2014年08月25日 | 無意識の世界
風邪をひいて、ちょっと体調を崩しました。
残暑の厳しい頃に風邪をひくなど珍しく、
この4月から5月にかけても同じ症状で体調を崩して、
快復するまでけっこう時間がかかったのは、
私にとっては、ちょっとした異変でありました。

この度は偶々来訪した友人が、整体的な観点から、
「体の冷え」が原因ではないかと助言してくれたのは
ちっとも自分で気付かなかっただけに、すっと胸に落ちました。

冷えに対しては用心深い方だったと思うのですが、
なぜか、このところ無頓着に過ごしていたと、
思い当たる節がいろいろあります。

身近な「死」の経験が体を冷やし不調の原因になることもあると、
これは今回はじめて聞いたことですが、これに関しても納得できます。
おそらく、この3年余り知らず知らず体を冷え込ませて、
冷えていることに気付けなかったのです。

体が冷えこむということは、心においては、
感情が抑え込まれていることに対応するのかもしれません。
抑圧されているなど、どんな感情が抑圧されているのか、
おそらく逝かれてしまったこと人々に関係していると推察できても、
未だ、どんな感情か意識できないし意識したいとも思いません。

知らず知らず抑え込まれた感情は、
知らず知らず解放するということもありで、
無理に意識化する必要もないのでしょう。

そういう意味でも。
ギリシャ神話は知らず知らずの解放にうってつけなのだと思います。

読み出したときは、まったく意識しなかったのですが、
必要があって無意識の要求が神話の再読を促したのかもしれません…そう思えますね。
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詩歌女神の…夢

2014年08月23日 | 無意識の世界
ある朝、目覚めの直前まで、ちょっとよい夢をみていました。
登場するのは、私ともう一人…
芳しき香りの中で両者の心と魂が行き交います。
どうしてこんな夢を見たのか?ちょっと考えて合点がゆきました。
入眠前に読んだギリシャ神話の影響だと解りました。

夢の印象は神話の詩歌の女神たちの賛歌をそのまま映し出しているかのようでした。
たぶん女神たちの印象が夢の中に投影されたのです。

夢の中で二つの魂に働いていた、そこはかとない抑制が、
気になっていましたが、少し考えて、
なるほど、、と思うところがありました。
女神たちの賛歌を読み進めながら、強く残った箇所が関係していると。。。

(詩歌女神たちは) ヘリコン山の頂きで 舞い踊るのだ
晴れやかな愛らしい踊りを 力を籠めた足どりで。

力を籠めた足どりで。。。大地にしっかり足をつけて舞う。
読みながら、実にいいねと、思いました。
理屈で説明できませんが、この箇所が気に入ったのです。
夢のそこはかとない抑制と女神がちが地に足をつけて力強く舞うこと。
二つのことが自然で気持ちのよい感覚として自然に連想されたのでした。

記憶していることもあれば、目覚めたとたん忘れることもありますが、
神話によって少なからず夢が活性化されているような気がします。
わるいことではなさそうです。今の私に必要なことなのかもしれません。

頭をつかわず感じる読書として。何度も繰り返し読んでみたいと思っているところです。

使っているのはヘシオドス「神統記」廣川洋一訳、岩波文庫です。参考まで。
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ゆだねるとき。

2014年08月16日 | 意識と知覚
ゆだねる、ゆだねたい。。。
ゆだねればよいとわかってはいるけれど、なかなか、、、
ゆだねられないときには、ゆだねられませんと、
素直に呟いておくのが一番よいのかもしれません。

ぐるぐる回りを続けるより「ゆだねられません」と認めてしまう。
“私の今”を受容できると物事は動き出します。

そして。ゆだねればよいのだと心から納得して、ゆだねるときには、
「私はゆだねます」と、しっかり意思表明するのがよいのでしょう。
天(神、宇宙、大自然…)はすべてをご存知とはいっても、
できるだけ意識的に“私の意思”を表明する方がよく、それが礼儀と感じます。

要は無意識にずるずる進むのでなく、意識的であること。

小さなコトから始めるのがよく(小さなコトからは、私の口癖のよう、、)
日々の小さな出来事に際して心の中で意思表明するクセをつけるとよいと思います。

たとえば。返信メールがなかなか届かず気にしているようなとき。
ゆだねると決めたなら、わるい想像もよい想像も中止して、
「私はゆだねます」と心の中で意思表明するといった具合です。

意思表明=天と私自身に誠実であること。。。

              *

峠道をクルマを走らせながら、こんなことを考えました。覚え書きまで。
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慎むと、見えてくる

2014年08月12日 | 意識と知覚
この頃、自分が発する言葉を意識するようにしています。

相対で話す時を除けば、どちらかといえば私は口数が少ない方です。
それでも発する言葉を意識していると、
けっこう不要な言葉を口にしていることに気付かされます。

典型的なのは社交辞令的な言動で、
そんなに強く思っていないことを軽く口走っている。
処世術としては社交辞令は大切なコトでしょうし、
マナーとして高く評価されることもあるかもしれません。

しかし。ここで、あらためて自分の発する言葉を意識したくなったのは、
表層の和やかさより、私はもっと別のものを求めたくなったのでしょう。

発する言葉に意識的になって口数が減ると、
これまで無意識で言動に向けられていたエネルギーが、
もっと有意義なことに向けられるようになります。

有意義なこととは、その場を感ずること知覚することですが、
その場に在って知覚することを大切にした結果、
沈黙が生まれることもあれば言葉が生まれることもあるでしょう。

発する言葉を意識するようになってから、私自身は
以前より深く密度の濃い人々との交わりを感ずるようになりました。

知覚を大切にするということは、心の要求を識別する力も育むように思います。
心の防衛機制からくる要求か。それとも、もっと深いところからくる要求か。

防衛機制からくる要求に振り回されてきた時間はもう十分なので、
深いところからくる要求に応えるべく耳を澄ませるためにも、
先日、なるほど、こういうことね…と実感したこともあったので、
もうしばらく発する言葉と沈黙に注意を向けてみようと思っているのです。

口数を減らす。慎むことで見えてくるもの。
慎むことで増えるもの。。。すべてに通じるキーワードのように思えてきました。
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意識して、知覚する

2014年08月09日 | 意識と知覚
未明から風が強まり、風雨が激しくなっています。

さすがに今日は林道歩きはできないので、その代わりに、
スワイショウという腕振りをいつもより回数を増やすことにしました。
本によれば天候のわるいときには中止するのがよいと書かれていますが、
天候による悪影響というのが私にはピンと来ません。

私が鈍いせいかもしれませんが、天候のよしあしよりも、
スワイショウの日課をを中断させることの方がマイナスになるような気がする…
今はそうでも、また感じ方は変わるかもしれませんが。

本によると腕を振るときの意識の持ち方として、
邪気を吐くような気持ちで、捨てることを意識するのがよいとありますが、
これもピンとこなくて、そもそも邪気とそうでない気が、
どういうものであるか、その識別が私の中で明確でないせいもありますが、
邪気を捨てる、、、ただ捨ててしまえばよいのか!と、
少しアマノジャクな思いもあるのかもしれません。

本がどういっても、人が何をいっても、それは参考ときっかけにして、
自分にしっくりくる意識の持ち方を採用するのがよいのではないかと思います。
今の私がどうなのか。どう感じるのか。どのような感覚があるのか。

「私が」意識して知覚する。ここから出発するのが基本なのだと思います。
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反復を続けて、見えてくるもの

2014年08月06日 | 螺旋状に上昇する意味
日課の林道歩きは、朝食の後片付けの直後に定着してきました。
雨でも土砂降りで無い限り傘をさして歩きます。
往復20分というのは天候に左右されずに歩ける距離で、
なんとなく始めたにしては、距離といい傾斜の加減といい、
林道歩きは、ごく自然に日課に収まってくれました。

同じコース、短い距離を毎日歩く。この繰り返し。
単純作業の「反復」は私の性(しょう)にあっているようです。
自分にとってよいと思えるもの。しっくりくるものが見分けられると、
人生はスムーズに流れ出すものですね。
林道歩きの他にも、小さな「反復の習慣」が増えて、
今や「単純を、繰り返す」行動は私の生活の要となっています。

毎日歩く林道から少し山を上ったところに金比羅様が祀られています。
小さな石の祠があって、昔は遠くに海を眺め祭事に人が集っていたようですが、
今では朱色の鳥居は朽ち果て祠への小道も藪でかき消され訪れる人はいません。

林道歩きを始めた頃は入り口で立ち止まり、山を仰ぎ見て一礼、手を合わせることも。
そのうちに立ち止まることなく歩きながら心の中で山に一礼を意識するようになり、
近頃は一礼も忘れて通過していることが多いことに気付くのですが。。。

それが自然になってきたのは、毎日歩くという行為そのものが一礼することに等しいからで、
林道歩きを「反復」する中でそのように成ってきたのではないかと思うのです。

人口減少が進む集落の山にあって、見える形では朽ち果てたとしても、
私の日々の20分が、かつての村人の自然を前にしたときの畏敬の念、
祈るこころを受け継いでいることにならないかと、そんなことも考えます。

歩き出すまで、こういう継承を思うなど考えてもみませんでしたが、
ひたすら繰り返す。ひたすら反復して見えてくるもの。
繰り返すことを止めてしまったら見えてこないものが確かにあるようです。

林道歩きが楽しみだった時期は通り越しましたが、
この反復の日課は新しい意味を加えながら豊かに成長を続けております。
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強く逞しく

2014年08月04日 | 愛とゆるし
自分が成育史をどのくらい受け容れているかどうかは、
他人の成育史がどのくらい気になるか。
それによって、ある程度、察しがつくかもしれません。

よくもわるくも傑出した他者を見たときに、
自分はどの点に注目し、どこに一番関心が向くでしょう。
専門家は別として、他者の成育史に注目する度合いが高ければ高いほど、
投影の要素が入り込んでいる可能性は否めないように思います。

木枯し紋次郎を愛読している私ですが、
“どうして紋次郎は旅をしているの?”と友人に訊かれて、
彼の生い立ちを答えながら、紋次郎が紋次郎で在るのに成育史は関係ないなあ。
あるとしても、それはきっかけにすぎないのだと、あらためて思いました。

他者に関して。簡単に説明のつかない事象に関して、
わからないことを、わからないままにしておける強さと度量…
自分が自分の成育史を受け容れている度合いに応じて、
この強さと度量は育まれてゆくものかもしれません。

紋次郎は現実を受容しているがゆえに強く逞しい人間の、原型といえるかもしれません。

木枯し紋次郎を読みなが彼の個性に同化する効果が少なからずあるような気もして…
カッコいい、、と思わず口走りながら大事に読み進めております。
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人生をかける、“?”

2014年08月01日 | 
なぜ自分はこうなのか?
この思考と感情と行動の傾向は、どこからきているのか?
成育史を辿りつつ、意識化が進む中で、
なるほど…と自分の傾向の理解が進むと、
なぞが解けたような、なんだかほっとする感覚になるものです。

成育史は宝物です。

しかし、まだ先があって、
成育史に起因する心の謎解きなどは、序の口と感じます。

同じような成育史を辿っても、傾向は様々に発現するという事は、
なんとも不思議なコトではありませんか。。。
何ゆえに、このような成育史を辿るに至ったのかとなると、
そう簡単に、ほっとする答えが得られというわけにはいかないのではないでしょうか。

また、それだからこそ。ああかな、こうかなと考える楽しみもあるわけで、
花子さんに倣って、自由に想像の翼を拡げるだけですね。

ここに。今こうして生きているという理由は個々の成育史を超えて、
生きとし生けるもの、存在するもの、誰もが共鳴する世界があるのだとしたら、
その世界を想像で楽しむためにも、人は成育史の心の傾向からできる限り、
自由になっていることは必須条件かもしれません。

成育史の心の世界の意識化が進んで、どんなことがでてきても、まだ先があって、
そこで終るわけではないとは、楽しみでもあるし希望でもありますね。
成育史の先にある更に素敵な宝物に向かってゆくための成育史は大切な大切な宝物。。。

なぜ私はここに生まれているのか?人生をかけて、大いに楽しみたい“?”であります。
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