こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

自己愛の問題

2011年06月30日 | 愛とゆるし
成育史の古傷をあぶりだす作業もときには必要・・・
本日の生き甲斐の心理学のブログに触発されました。

成育史の嫌な思い出/嫌いな自分といって真っ先浮かんだのは
中学時代の生徒会の役員会の場面で、
今、この場面が浮かぶのは大きな意味がありそうです。

思春期の強烈な個性をのびのびと放っている学友たちの中で、
自己表現が上手にできなくて閉塞感でいっぱいだった日々。
強烈な個性に圧倒されて萎縮して、悲鳴もあげられずに、
なんとなく日々のトーンが泣き寝入りモードになる・・・
こんなところが今でも時々顔を出してきます。

今からでも遅くない、自分が納得できるシミュレーションをして、
古傷の体験の解釈を変えてゆくことが、いちばん必要なこと!
というか、現在悩まされているストレスの素が、
この作業によって元気の素に変化してゆく予感がします。

揺れる思春期に学友たちの強烈な個性に反応していたのは、
おそらく私の中で埋もれていた同じくらい強烈な個性だったのでしょう。

自己肥大と萎縮の間を行ったり来たり。
傍若無人の傲慢さと、子供っぽい傷つきやすさと・・・
思春期の強烈さは自己愛の問題と深く繋がっているので、
過去の古傷のシミュレーションは、私の自己愛の点検にもなるはずです。

考えてみれば、自分自身の自己愛を理解していなければ、
相手の自己愛を理解することは、とても無理なのでした。
・・・自我の塊のようだった学友たちの顔と、自分の顔と、
今、私を悩ませている相手の顔がなんだか重なってきました。。。

*自己愛について詳しくは、テキストを参照のこと

(119-20-7)
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旅から戻って

2011年06月29日 | 意識と知覚
夕べ遅く、山に帰りつきました。
熱風を受けながら高速をひた走ること13時間、強行軍のドライブでした。
東に向かって2週間前後の旅は、初夏の恒例行事ですが、
数年前から、“そろそろ、こんな大変な旅はやめにしたい”と思っていました。

ところが今年は心境が一変して、去年までそう思っていたのがウソのように、
“後、17,8年はこのスタイルを続けたい!”
“続けられるために、精々心身を整えよう・・・”と高速熱風の中で考えていました。

人間の感情の不可解、自己否定と他者否定。
人々の勝手な思い込み、投影の発言に怒ったり嘆いたり。
別離の悲しみ、抑鬱感、未来に対する危惧感、不安感・・・。

ストレス曲線の感情が圧倒的な2週間が終わってみると、
心身の疲労感や未整理の感情は残ってはいても、旅の前より、
人生を能動的に肯定的に見据える力が、ちょっぴり強化されたような気がします。

諸々のストレスのエネルギーを肯定的な力に変化させることに成功して、
前述の心境の変化も起こったのでしょうか?

今朝はいちばんに満開になっていたアジサイの花を取りに庭に出ました。
瑞々しい花を活けて洗濯機を回し、山の日常が動き出しました。
これから少しずつ2週間の感情体験を整理したいと考えています。

(119-20-6)
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memo11

2011年06月24日 | Weblog
旅・三日目

問題に向き合うべく、行動開始。

愛読してきたJヒルマンの本を思い出す。
この世はSoul makingする場所/魂作りの場所、
生まれながらにもっている魂のイメージを実現させる場所。
衰弱した心に引っ張られて、魂から抜け落ちてしまうことのないように。

無理な要求をしてくる心に対して、
できることとできないことを、明確にしておくこと。
何のために生きているのか?この自問なしには一歩も進めない。

午後、病院に母を見舞う。会うのは三ヶ月ぶり、小さくなって驚いてしまうが、
入院生活にそれなりに適応しているのがわかり、ほっとする。

病院の帰り立ち寄った一家は、淡々と明るく爽やかに逞しい。
この十数年で、一家に対する私の感受性は大きく変化した。
心を見つめる作業は、人を少しずつ魂のイメージに近づけてゆく。

問題は進行中で、相手の応答を待っている。

旅・4~6日

怒涛の三日間。
人は生きていたように死んでゆく。
重い問題は形を変えて、新たな問題を生み出してくるので、
流れ行く現実に適応してゆくのが精一杯。

旅・7日目

心身が興奮状態で、眠れない。
ストレス曲線をのぼったりおりたりして一日が過ぎる。
夕方の母の見舞いも諦める。

夜になって漸く、少し怒りが鎮まってくる。
友人につぶやく余裕がでてきた。
つぶやきながら心が整理されてゆく。

言語化によって統合されるとは、現実を受容しだした徴。

(119-20-5)
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memo10

2011年06月23日 | Weblog
旅・一日目

東に向かって。今回はちょっと重い問題をかかえている。
問題は最終目的地にあるので、道中は
“目の前の大切なものを大切に、安全に楽しく”と自分に言聞かせる。

朝、雨の中を出発。
途中、山口県立萩美術館でルーシー・リー展を観る。

出発前に、少々気の重い旅になるのを知る友人には、
何かあったら、つぶやくかもしれない・・・そのときはよろしくと。
友人からは、了解、いつでもどうぞと返事をもらっていた。
つぶやける場所があるというそれだけで、安心感がある。

旅・二日目

霧雨の朝、栗東SAから琵琶湖を眺める。
雲が湖面の際まで迫り、起伏ある細い湖岸線が滲んでいる・・・
昨日見たルーシー・リーの線模様の陶器に通ずる風景に、
またまた“未来から過去に向かう時間”のことを想ってしまう。

野州町の小磨崖仏を訪ねるために高速を下りる。
住宅地を通り抜け、小雨の中、細い山道を徒歩で行く。
鎌倉時代のお地蔵様と、そこから600m先の不動明王まで。
お不動様には滝があり、小さな社殿の後ろには巨石が控えている。

ここで弘法大師が修行したのだという。

小さな境内はよく手入れされていて、
アメリカハナミズキと、園芸種のリラの苗木がが、ほほえましい。
外来の園芸木は一見ミスマッチのようだけど、手入れする人が、
仕事を楽しみ作業を喜びとしているのが伝わってくる。

ちょっとした登山で3キロも歩いてしまったが、帰りは雨も止みお日様が顔を出す。

問題のことが頭を掠めてくると、何のために生きているのか?自問する。
いちばん大切にしたいことは何か?を自問する。
問題は心の課題として、とてもハードルが高い。

何のために生きているのか?
何を大切にしたいのか?絶えず自問しては足場を確認する。

休息で車を止めるとき、何度もルーシー・リーの作品集を捲った。
やわらかな光の気配を掬い取って、心は落ち着く。

夜、9時前に目的地に到着。

(119-20-4)
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清流で、感情が流れ出す…

2011年06月14日 | 魂と聖霊
人間の本質は不安で、放っておけばストレス曲線に傾くのが人間の自然な姿のようです。
不安が一つ消えたとしても、また別の不安感がやってきて、
感情生活は、いとも簡単にストレス曲線に傾いてゆきます。

不安感/ストレス曲線を平安感/幸福曲線に移行させるには、
それなりの知恵がいりますが、まずは自分の傾向を知ること。
成育史の心の傾向を知ることは知恵に出合うための大前提で、
己の傾向を知ってはじめて、幸福曲線へ移行させる模索がはじまります。

生き甲斐の心理学は私にとって、この一連の作業の羅針盤です。

自分の傾向。感情を観察していて気付くのは感情の流れが滞りやすい・・・
感情の代謝がわるいというか、感情の動きが緩慢なことに気付きます。

では不活発な感情生活を活発にするためにどうすればいい?
その答えは、日常の習慣的な行為を無意識に行動してしまうところを、
“私はこれをする”と意識化するのがコツです。
意識することで感情の流れがぐっとよくなることに気付きました。

日常生活で、今するべきことは何か?私はこれこれをすると意識してみる。
自分の小さな行為に対して、いちいち自問することは、
そこに向かって一瞬一瞬、アイデンティティを統合させているのと同じことです。
私にとって今大切なものは何か?を、絶えず自問しているともいえます。

行為を意識化することで日々の感情の流れはスムーズになり、
感情の流れができると自ずと思考と行動の流れも活発になる・・・
感情が流れ出すと連動して、人生そのものが活発になるのですね。

もう一つ。私は感情の動きが鈍いときには庭に出ると、
大地を踏みしめ五感を解放してやるだけで感情が動きだすのを感じます。

清流をイメージして水の流れを意識すると、効果があることにも気付きます。
日本人にとって水の流れは、穢れを浄化するイメージがあるからでしょうか。
ならば日本的に言えば感情の滞りは穢れに通ずる?・・・わかりませんが、
人は昔から、祖先たちも日々の不安感/ストレス曲線をなんとか
平安/幸福曲線に移行させる努力をしながら過酷な日々を生き抜いてきました。

先祖の知恵は私の身体に刻まれているはずですから、日々の感情を見つめ、
先人の知恵を大いに活用しながら私の幸福曲線を体得してゆきたいものです。

(119-20-3)
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幸福曲線を生きるとは・・・

2011年06月12日 | 魂と聖霊
幸福曲線とストレス曲線をいったりきたりしながら、人は一日を過ごします。
(幸福曲線の基本は平安感で、明るい感情の領域であるのに対して、
ストレス曲線の基本は不安感で、暗い感情の領域と定義します)

自分の成育史や過去の出来事に対して肯定的な解釈ができているかどうか。
100%OKはありえないにしても自己肯定的か否定的か、その度合いによって、
今ここに生きている現在の私の感情生活は大きく左右されるようです。

無意識の部分で微かな虚無感に支配されていたり、
感情生活は、どちらかといえばストレス曲線の傾向が強く、
私の場合は森羅万象の解釈が、とりわけ身内、肉親との交流において、
どうしてもネガティヴに解釈してしまう傾向がありました。

過去の出来事と結びつけては展望が暗くなりストレス曲線におち込む・・・
その傾向が一掃されたとなると、この一週間のふわふわと落ち着かない感じは
長年慣れ親しんできた感情生活のバランスが崩れたことからきていると考えられます。

ストレス曲線の思考と感情に費やしていた時間に空きができたのはよいけれど、
新しいスペースに入れるものがわからない・・・変ですが、どうもそんな感じです。

漫然としていては幸福曲線に移行できないらしい、
幸福曲線を生きたいのならば、それなりに技術がいるようです。

その技術習得のために心がけているのは、今のところ
幸福曲線を感じる言葉を唱える、一人のときでも気付いたら笑顔、
肯定的な解釈を即行/速攻で・・・こんな感じですが、
習得に役立ちそうな小さなことを考えるのは楽しくて、
考えていること自体、きっと技術習得になっているのでしょうね^^)

さて未来のヴィジョンは幸福曲線の延長にでてくるのがよいのですが、
ここで未来のヴィジョンの一つは既に達成されていることに気付きます。
未来の究極のヴィジョン/願いは最期の平安感を含めて、幸福曲線を生きることです。
ならば幸福曲線を生きることは既に未来を生きていることになるわけで・・・。

話がどんどん広がって(深まって?)きてしまいましたが、
ここまできて幸福曲線と魂の深い関係を想ってしまうのですが、
幸福曲線の未来を生きている私とは魂としての私なのでしょう。

(119-20-2)
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時間は未来から過去に向かっている?

2011年06月11日 | 無意識の世界
今週は心がふわふわして、なんとも落ち着かない週でした。

チベット密教では、“時間は未来から過去に向かって流れている”という
時間論があるそうです。つまり現在は未来の結果・・・
未来の結果が現在・・・。週の初めに、この時間論がずんと心に響くや
瞬間に自己構造が一変してしまったような気がしました。

現在の私がこのようになったのは、過去のあの体験があったから。
よくもわるくも、今の私は成育史と過去の体験の上に成立っている。
これは確かなのですが、その一方で成育史だけで説明がつかない
成育環境だけでは理解できない要素を自分の中に認めてしまうのも本当です。

成育史で説明のつかない私は、いったいどこからきたのだろう?
そもそも、この親から、この場所で、この時代に生まれたのはどうして?
なんだかんだいいながらも、ここまで生きながらえてきたのはどうして?
そして、これからはどのように生きていくつもり?

いくら考えてもわからない問いは不可知の雲の中に置くとしても、
どのように生きていくつもり?これは考えて自分なりの答えが出せる、
これから人生を左右する意識化すべき大事な自問です。

ところが自分の未来を考えるときに、成育史に囚われていると、
どうしても感情のレベルで未来の夢を描くことができません
過去の体験に足を引っ張られているような状況といったらよいでしょうか。

それが従来と逆の時間軸が週の初めに胸に落ちた途端、
過去に対する拘りが一掃されて、これまでになかった
感情のレベルでの未来への希望、わくわく感を覚えたのですね。

おそらく人生には意味があるという確かな感覚を掴んだとき、
無意識にもっていた過去の呪縛から解放されたのだと思います。

さて冒頭のふわふわと落ち着かない感じは、
自己構造が変化したことで、別の不安が生まれたからだろう解釈していますが、
この辺りのことを、しばらく考えてみたいと思います。

(119-20)
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見守り育てるのは、自分自身…

2011年06月05日 | 愛とゆるし
女性と男性の感性の違いは、つまるところ母性と父性の違いなのでしょうか。
慈しみをもって見守る、辛抱強く待つ・・・このところ、
母性的な感性で自分自身を見守ってやることを、少しばかり意識しています。
ここをなんとかしたい、ここが変わればいいなと、
自分の変化を願うともなく願っている・・・
自分で自分のことを見守り育てるような姿勢といったらよいでしょうか。

実際の母との関係がどのようなものだったか。
成育史でつくられてきた価値観や自分の傾向がどのようなものか、
母との同一化や投影の傾向に気付き、自己理解が進んできたならば、
良き母の眼差しで自分自身を見つめなおす作業が、時には必要と感じます。

自分自身を見つめなおす作業。この状況が
内向傾向に拍車がかかっていると周囲に映って、
男性的な感性が、もう少し外向的になるようにと囁いてきたとしても、
ここで父性の期待に応えて、安易に作業を中断してしまったら元の木阿弥・・・
なので、もうしばらく腰をすえて内向に徹することにします。

今の自分にとっていちばん必要なもの、それを識別して選択して、
父性の囁きは保留にして、自分自身を守り育てるような姿勢を貫くことができたなら、
これも女性的、母性のなしなやかさといえるかもしれませんね。

(119-19-7)
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人生は、意識化を生きる旅

2011年06月03日 | 無意識の世界
今日は、思いたって以前から気になっていたコースを歩いてきました。
我が家からは東西に二本の林道が下の集落へとつながっていますが、
日常的に利用するのは道路事情と知り合いの関係で、西側の林道だけです。
地籍は東側にも関わらず、東の集落にはめったにゆくことがありません。
今日はいつもの西側の生活道路をおりて、車道を北上してから、
古くからの細く険しい峠道を越えて、東の集落に出て南下して
急な東側の林道をのぼって帰る10キロ程を歩きました。

東の集落は車で通り抜けたことが一度あるかなしかですが、
我が家への林道入り口までに小さな神社が三つありました。
古層の神が時の経過とともに神社に習合されますが、
古層を辿れば必ず太古の母神に行き着くはずなので、神社訪問して、
なんとなく無意識のグレートマザーとの関係も発展してゆく予感と期待が・・・。

人生は“意識化の過程を生きる旅”だと思っていますが、
今日の山歩きには旅を祈願する意味合いもありました。
グレートマザーとの関係を成熟させる時がきているのかもしれません。

(119-19-6)
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